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ピノキオからの脱却 その2

12/13/2007 にアップした文章です。

昨日のエッセイは、ピノキオレベルのままで、まだ規範を学んでいる最中の人々が、細かい公的倫理を守らないことを書きました。事情があるにせよ、「出来心」「決まりに反する」という心を責めるのではなく、してしまった事実については、取り締まったほうがいいというのは、飲酒運転などで徹底ができたように、できないことではないと思うわけなのよ・・・。観光地でのゴミなんかを見ていると、本当に悲しくなりますぜ。どうしたら、人々が脱却できるか?というのは、私がひとりひとりに行脚して廻るわけにはいかないので、条例縛りをしたほうが早いんじゃないか?と、味も素っ気もない案を出したのですが、反対の人々はいるんでしょうねぇ・・・。

私は、暗い夜道を女の人が歩かなくてもいいようにするビジネスが発達すればいいのに、などと思い、一時期真剣に、夜行バス(終電間際のバス運行のスケジュールは、ベッドタウン近辺の駅前などで盛ん)とカップリングして、体育大などの女性がアルバイトをすればいいのにな、と、提案したことがあります。が、儲けが薄いので却下されたんだけれども(爆)。そういう、福祉や公共への貢献が手厚い事業をやりたい人々はあんまりいないんだよなぁ・・・。男性ひとりに送ってもらうのは逆効果で、その男性がストーカーになる可能性もあり、やっぱり穴がいろいろあったという企画でもあったのだけれども(汗)。

『人生に必要なことは幼稚園のお砂場で学んだ』というベストセラーがあったんですが、これには公的論理に対する規範も含まれており、平易で、幼稚園児にもわかるような言葉が羅列しています。では、なぜにこの人生のエッセンスの基本が、幼稚園で身につかないんだよっ!というのが、私の疑問だ・・・。

本当に簡単なことなのですよ。
・ みんなで分け合うこと
・ ずるをしないこと
・ 人をぶたないこと
・ 使ったものは元の場所に戻すこと
・ 散らかしたら後片付けをすること
などなど、特別難しいことは言っていない。

ピノキオが人として学ばねばならぬことはそんなにたくさんあったのだろうか?しかも、ピノキオは木製だけれども、ヒトにはDNAで確約されている可能性が詰まっており、それを開花させるかどうかの問題じゃーないのか?

大人になってもこれらのことができないピノキオステージにいる人々が、ポイ捨てをしたり、大型家電を山の中やプラント近くに行って棄てたり、他人にぶつかっても謝らなかったり、贈収賄をするんだよなぁ・・・。以前から私が言っている「ひとりひとりが自分のすべきことをしていれば、世の中はかなりよくなる」というのは、この『人生に必要なことはすべて幼稚園のお砂場で学んだ』に基づいているのですが、余計な知恵がついたから基本を無視するようになったのか、はたまたそもそも身についていないのか?で、対処法は分かれるわけです。

そもそも身についていない人というのはどのくらい実在するのだろうか?「みんな」がいなかったらきっと学ぶのは難しいのだろうし、遊びを繰り返ししなければ、機会の回数の問題で学習の場がなかった(少なかった)とも言えます。人知が駆使してきた原始的な器具遊びをせずに、いきなりビデオゲームやDSやその他を使う環境にいたら、バケツやシャベルや手を使う遊びはしなかったことになるし、それらが他のお友だちとシェアするものだということもわからなかったりすることもあるかもしれない。大人が打つ・殴るが問題視されていますが、子ども同士の殴り合いで死ぬことも大怪我をすることもなく、ふざけたはずみのプチ暴力も経験しないというのもあるかもしれない。

こんな基本的な環境が用意してあげられない親は、いったい何をどう考えて暮らしているのか?と、遊ぶだけ遊んできた私には不思議でならぬ。ピノキオステージで、思いっきりピノキオをしてこなければ、学べないことはあるのでしょう。それがゲンダイジンが持つ悲しい欠落の集大成として、公共モラルに反映しているのだよね・・・。

親が何でも先回りして、遊び道具を出してやったり片付けてやったり、分け合うことをせずに一人ひとりの盛り皿にしたり、一人遊びが優先のゲームを渡したり、会話が存在しなくても高揚感が得られる遊びばかりが流行するのは、やっぱり見直したほうがいいんだろね。

身につけたはずなのに、知恵がついて、基本をすっかり忘れている人々はどうなのか?電車の中での席というのは、「みんなのもの」でお砂場や、借りてきたバケツやシャベルと同義だとみなしてみて、それをどう使うか?というのは、会話が成り立てばかなりスムーズに行くはずなのだが、なぜか昨今では、「優先席」というラベルがあって、確かに、社会的に意識していていいんじゃない?と思えるんだろうが、目に見えない障害を持っている私などには便利に作用することはありえない。座ったら腰の痛みは見えないから気まずいしさ。誰かといっしょだったら、「立ちっぱなしは腰に悪いよ。空いてるから座れば?」と言ってもらえるフォローがあるのだけれども、私は電車では座らない。ガラガラだったら座るのだけれども、本を読みながらつり革で背中&腰伸ばしをするのが癖になっており、ひとりで「なんだかおっさんくさい・・・」と苦笑している日々です。

そもそも、他人と会話をしない乾いた社会になっているから、こういうことになるのだろうねぇ・・・。私はアメリカに住んでいたときには、外に出れば必ずstrangers(知り合いではない他人)と数回は会話をしたものです。スーパーでも他人と話すし、クラーク(販売員さん)たちとも話すし、公園ではHi! How are you?だとか、わんちゃん連れには話しかけないほうが不自然だし、子どもが元気よくHello, lady!と言ってくれるのは楽しみですらあった・・・。ビジネス街ではそれは省略される社会なのだけれども、エレベーターに乗っても「何階ですか?」と聞いてくれる人が少ないのには、驚いたりもして、私はこの逆カルチャーショックに1年もかかって慣れてきた模様。

ずるをしない、というのは「見つからなければいい」というバカげた気持ちから起こるのか?ずるをしてもどこかで誰かが必ず見ているとは言わないが(宗教じみてしまうので、無神論者には通用しないだろし)、自分は知ってるだろよ・・・と思うんだが。美徳や信念や大切なものを失うと、社会は殺伐としてきて、人々は他人を疑うようになるのだろうし、通用してしまう社会にもなるんだろうねぇ・・・。たまに、どうしても存在してしまう悪がいるのは古今東西仕方ないことで、ゼロ社会などはありえない。どこであっても同じで、農村だから安心だとか、ハイジのような純真な少女の近所に住んでるから大丈夫ということはありえないです。だから、自衛心が大切だし、自分にゆとりがあったら他人も助けてあげたいと思えるようなaltruism(利他主義)は大事なのだわ・・・。

心底、「自分は他人に迷惑を掛けない」「迷惑を掛けている分は他のことで貢献する」「ゆとりがあったら他人のことを助ける」という、本当に幼稚園のお砂場で習ったことの、スケールがちょこっと大きくなったことを日々続けていければ、ピノキオからは脱却しており、他人が操っている糸にもつれることもなく、糸を完全に断ち切ったあと、意志での行動規範ができるんだがなぁ・・・。そうすれば、条例がいくつあったって気にするこたぁないし、無駄な看板は撤去しろ!と叫べるはずなんだが・・・。

確かに私が田舎ちっくな名残のあるアメリカに住んでいたせいもあるのだけれども、サンフランシスコから車で30分のところにそんな町をキープできる広大さはすごいよ・・・。私は知らない人に「ご機嫌いかが?」と言われたら、けっこう元気が出るんだがなぁ・・・

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