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乱射事件と市長銃殺

04/20/2007 にアップした文章です。

 

4月17日はひどい一日だった・・・。私は完全休日を目指しており、家で仕事をしないようにと、ウジウジ過ごしていたのですが、実際のところは、引きがあり、電話対応やその他をして、ブログのエッセイを書いたり、英語のレッスンの教科書を作ったり、と、ま、仕事をしていたんですな。母にやめろ!とは言えない、みのもんたの番組がついており、そこでアメリカはVirginia Techでの乱射事件報道。そして、夕方には、長崎市長が銃撃されたという報道・・・。ひぇぇぇぇぇぇ・・・・。

そこで私が考えたのは、安田講堂に三島由紀夫が立て篭もったときや、ペリーの黒船が来たときなど、歴史の変わり目に、人々は何を感じて考えていたのかなぁ・・・という、やたらと冷静な疑問。今ほどメディアが発達していないのは、もちろん不便だったこともあるのでしょうが、いいこともきっとあったに違いない。無知である勤労者のほうが、小ざかしく実際は無知に近い怠け者よりも、実際は社会のためにはなるのではないか?と、私はたいへんに高飛車なことを考えてしまっていたのです。申し訳ないっ!それは、私も含めてで、ニュースに自分の生き方を左右されぬよう、やはり仕事をしてしまっていましたよ(汗)。17日の目標は、あくまで完全休日だったのですが、そりゃ無理ってぇもんだったんだな・・・。

911のときに、自分が何をしていたのか?を記憶している人はあまりに多い。私もそのうちのひとりです。阪神大震災もそうかもしれない。不謹慎なことに、私は本島元長崎市長が銃撃されたときの記憶がありません。アメリカにいたせいで、時差を伴って知ったせいでしょう。ColoradoはColumbine での13人が死んだ学校での乱射事件のときの記憶はあります。

こんなふうに、人が社会での大きな事件に関与し、それにより何を感じて考えるか?というのは、あまりに様々です。Mixiを参考にすると、長崎市長が午前2時に亡くなったことが判明した今現在で、122人の人が日記に書いています。乱射事件については284人の人が日記に書いている・・・。多いですよ、この数字。センセーショナルな事件は、人が食いつくのに容易いですが、そこで何を学び、何を反映させていくか?というのが問題になるのでしょう。

『幕末に生まれていたら』というエッセイを書きましたが、あれも、メディアが発達していない当時、何に生まれていたか、まったくアテにならない想像の中、私のところにまでいろいろな一連の事件が伝わったであろうタイミングを考えるに、今ほどではなかったので、きっと私は日銭のことを考えながら、生き延びていくことだけを考えて、きっと政治や世情や世界スケールでなど、きっと考えないままに暮らしていたに違いないのだろうな、と。

では、メディアが発達している現在、たくさんの人がニュースの恩恵を受けている今、何が起きているのか?夕張の市破産のことも、実際に誰かが動いてくれたにしろ、その数字を統計的に見るとうんと少ないのだろうなと思える。新潟地震についてもそうだし、今回断続的にまたもや石川県で地震が起きており、被害は衝撃的ではないにしろ、人々が振り返らないだけで相当な高になっているはず。

すでにTVでは、批判大好きコメンテーターがたくさんのことを垂れ流しており、「自分のために物事を考える力を育む可能性」を殺ぎまくっています。素人がブログを書くことについて、私は「何もしないよりずっとまし」とみなしてはいますが、論理が破綻したものや浅知恵なものもかなりの数に上る。その反面、TVに対する苦情をしっかり申し述べる人たちの数が増えたのは、本当にいいレッスンだったのかもしれません。ただし、どこかで「言い捨て」「垂れ流し」「匿名の影で」という意識が働いているとしたならば、それはそれでかなりネガティブではあるのだけれども・・・。
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20070417ih22.htm 

銃について、またもや大論議を醸すのだろうけれども、これについてもけっこうたくさんの人がすでに活字にして意見を言い出しているし、TVでカジュアルに意見を述べています。基本知識はコレです。せめてこれくらいはわかって話してほしいという望みはあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%83%E8%A6%8F%E5%88%B6 
江戸時代だけではなく、それよりずっと以前から、日本でも有史以来、武器を携えて暮らしてきた人数と、その期間は恐ろしく長い。自分たちが脱したからといえども、他国家や他文化にもそれを「是」として押し付けるのは、違うだろう・・・。TVではさっそく、アメリカの登録銃の数などを誇らしげに出しているのだけれども、それには軍や警察関連の銃器までが盛り込まれているのかどうか、不明だった・・・。意味のない出典である・・・(汗)。センセーションを醸しだすだけならば、ジャーナリズムのテクニックだけを使っており、倫理観の授業をAで終えていないことになるっしょ・・・。日本での自衛隊関連と警察関連、猟銃などや不法所持などの把握や予測がつかないまま、他人のことにしゃしゃり出る神経がよくわからん・・・。しかも、モデルガンとか遊戯武器の範疇については、都合が悪いから触れないのか・・・、とも思える。ネコたちが殺されたりしてるし、人間も標的になってるじゃない・・・。犯罪に対する自衛や、狩猟を目的として所持したいと望む人たちに比べたら、そっちのほうが異常な現象ではないのか?

私自身は、銃器の所持はまったく望まないことは、これまでのエッセイで書いてきたつもりでいます。人を殺したあとの人生は、とてもじゃないが生き延びていく自信がない。でも、それは私の話。私とは違う、そうではない生き方を選ぶ人に対して、私が四の五の言う権利などないと思うのよ。安直に選んだのかどうかは、事件が起きてから、いろいろな人がいろいろなことを小賢しく言い放っているけれども、その人が喘ぎ苦しみ日々を過ごしているときにこそ、その熱意は必要とされるのだと思うわけなの・・・。

翌日なので、乱射事件の容疑者は、韓国出身でグリーンカード保持者だということや、動機も「こうではないか」という報道が行き交っています。恋愛のもつれとしたり、孤独な内向性について取り上げたり、政治観について論議したり、と、まぁ忙しい。その報道に費やす時間や情熱を、どうして生きているときにせめて10%でも捧げることができなかったのか?と、不思議に思えるわけなのです。コレはどんな事件に対しても感じることで、私はそのように行動を実行しようと日々苦慮しています;「自分のために物事を考える力を育む可能性」を信じて、ちょっとした後押しや自助のためのガイダンスを展開する。特に今日は、隔週の英語レッスンの日なので、なおさらそう思うのでしょう。

アメリカに対しての批判が高まる中、事故や事件は、5%から15%ほどの確率で起きることだけは、もう一度言っておきます。銃器所持者のうちの5%くらいが事件を起こしても不思議ではなく、銃器規制があったとしても、「ダメ」と押し付けられたらなおさら抗いたい熱意に空気を入れることになり、その事故率は増える傾向も強くなります。

こういったセンセーションに対して、自分は何ができるのか?をきちんと見極めており、無関心なこととはまったく別の次元で、あれこれの混乱をさらに招かない態度をもてる人々が増えることを祈ります。そして、今日の私の授業は、Whom I respect, all ages and placesというディスカッションから始まります。固有名詞に対する敬意を育てるためのもの。だいたい、カタカナ報道をするのは失礼だと思うよ・・・。印刷するのに大した手間じゃないんだろうから、原語と日本語の表記くらいしろっ!と思います(笑)。

最後に、亡くなられた方のご冥福を祈ります。

   

 

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