目玉焼きにかけるのは?

03/19/2008 にアップした文章です。

今日は、うんと遅く起きました。クロネコヤマトの宅急便の電話で起こされた次第です。うーん、そんなに疲れていたとは知らなかった(朝の9時でした)。そして、暢気にニュースを読み、今日のエッセイを書いていないことを現実視し、ワイドショーを見ていたら、「目玉焼きにかけるのはどの調味料?」というおもしろいお題が・・・。さらに、「餃子」にかける調味料だの、いろいろ真剣にやっています。

 

  • 醤油
  • 砂糖
  • ソース
  • ケチャップ
  • マヨネーズ
  •  
  • 天つゆ&ゴマドレッシング
  • ゴマ油&チリソース
  • カレー粉&塩(マヨネーズ)
  • おろししょうが&醤油

 

これらの中で試したことさえないものはあるんですが、私はそもそも目玉焼きを食べなくなっていたことを、母と久々に暮して感じたのです。私は目玉焼きがそれほど好きでもなかったので、西さんがひとりでお弁当を作るときに、なぜにあんなに目玉焼きを作るか?という理由を、「好きだから」とは思わず、「作れる簡単なものだから」と思っていたようです。私ひとりの偏見で、食卓が思わず変わっていることっていうのはあるんだなぁとびっくり。私は卵料理をそれほど作らないのだ、ということなのか?おでんはやるんですが、ハンバーグやその他に卵をしっかり入れるのですが、卵そのもの料理というのをあまりやらなかったのかもしれない。だから、西さんは、「ポテトサラダ」「マカロニサラダ」にゆで卵を刻んだものをたくさん入れることを所望していたのかもしれず・・・。うーん。

 

私にとって、目玉焼きは、パン食にしろ、ごはんにしろ、「おかずがないときの神頼み」だったり、「定番」だったので、どうも意識的に好きでもなかったような・・・。母は毎週までは行かずとも、けっこう出しますね。私は出されたものをしっかり文句をあまり言わずに食べるのです(どうしても食べられないものに関しては言うけど・・・。じゃないとしょっぱいものを食べさせられたりするんで・・・)。

 

そんな私は、何の疑問もなく、お醤油で食べていました。アメリカにいるあいだ、旅行をしたときに食べる朝食に関しては、Egg Benedictがお気に入りなので、塩かケチャップでいいんだ。でも、家にお醤油がある場合には、必ずお醤油を使う・・・。私は恐怖の塩分人間なので、お醤油イチバン、塩2番です。マヨネーズを使う人々を、マヨラーということをつい数年前に知りましたが、私はマヨラーではないので、いつもいつも何かを食べ終わったあとに、「あ・・・、マヨネーズを試してみればよかった・・・」と思ったこと、これまで何度もあり、数え切れません(笑)。ただし、冷やし中華ではやったことがあり(目の前で盛大にマヨネーズをかけている人がいたので、思い出せた)、私にはダメでした。

 

ちなみに、アメリカではキューピーマヨネーズを、和食スーパーで買ってきてプレゼントすると、ハマってしまう米人はけっこう居ます。なので、次からかなり頼まれます(笑)。面倒くさくなると、地図をプリントして渡していました(笑)。

 

私の味覚は、しょっぱいものが好きなほうの日本人の典型なのかなぁ・・・。

 

天つゆとゴマドレッシングならやってみてもいいかと思うんですが、市販の天つゆは甘いので作りますね。しょうがは母が好きなので、さっそくTVを見ながら「やってみよう」と言っていたので、近日中に食べることが叶うかもしれません・・・。

 

そして、餃子の場合は;酢&ラー油&醤油が定番。

 

  • 醤油のみ
  • 塩のみ(岩塩がいいらしい)
  • 酢のみ
  • 酢&ラー油
  • 酢&ラー油&塩
  • ポン酢
  • レモン&コショウ
  • ごま油&一味唐辛子
  • ゆずコショウ&醤油
  • フレンチドレッシング(イタリアンでもいいらしい)

 

とかって、ラー油ってごま油と唐辛子でしょう・・・と思いつつ(笑)。スタジオでは、ゆずコショウ&醤油が好評だったようなんですが、ゆずコショウって、コショウでできていませんから・・・(汗)。(どうもコショウな食べ物なネーミングではある・・・) 

なので、このリストの中で、特殊なのは、レモン&コショウの、本当のコショウを使っているものと、フレンチドレッシングだけで、あとは、餃子の中に練りこんですらいる(家庭によって違う)塩・醤油・ラー油・ごま油などの味の強弱問題じゃないかっ!と思ったのである。

 

そして、この時点で、ワイドショーに見切りをつけてしまった私は、時代劇にチャンネルを変えました(笑)。フレンチドレッシングやイタリアンは、おそらく餃子の味が強い場合に有効なのでしょうが(にんにくがしっかり入っているとか、ごま油が効いているなど)、いくらおいしくてもカロリーはものすごいだろう・・・(汗)。

 

ええ、私は定番な味覚でいいや・・・。基本は、人によって味覚や塩分等の差があるので、適度な味に作っておいて、あとから足すという感覚の調味料だけでよろし・・・。でも・・・、ワイドショーのネタ作りって、フツーの生活を着眼点にするとこれくらいたいへんだから、やっぱり衝撃的映像やらニュースによって支えられているわけなのね・・・。畠山鈴香被告の判決も中継で出ました。それにずいぶん時間を割いていたものなぁ・・・。

チベットに平和は来るのか?

03/18/2008 にアップした文章です。

 

ダライラマ14世が1959年にインドに亡命して、はや48年強。4歳で在位して、23歳のときに、チベットから逃れることになり、ラサの宮殿を後にした映像は、ハリウッド映画であるKundunでかなり忠実に再現されているようです。未見の方がいらしたら、ぜひこのチベット暴動をチャンスにどうぞ見てみてください。私は、日本での報道や、コメンテーターの言を、あまり信じておらず・・・。いろいろなその方面のエキスパートを探してくる努力だけでもしていれば、少し聴いてみますが、本人もあまり強く言えないのは、いろいろな事情があってのことなのか?うーん、深い・・・。

 

オリンピックのボイコットが実現したら、人々はチベットを責めるのか?それとも中国を責めるのか?チベットを責める方がもしもいらっしゃるのであれば、ちょっと考えてみていただきたいなと思っています。そもそも、陸上の王者が、「空気が汚いからマラソンには出場しない」と室内1万メートルを考慮中というニュースが奔ったり、水の確保が心配されたり、マナーを徹底するキャンペーンが北京近辺で堂々と配布されたり、TVCMに取り入れられたりしているのを見て、「閉鎖されてきた社会」を感じない人々はいてほしくないと思うのです。

 

以前載せましたが、ダライラマの基本情報>

ダライラマ 日本語版 

ダライラマ 英語版 (写真はきれいです)

英語版 ダライラマ14世

 

チベット基本情報

このダライラマ14世と、彼が過ごした国外で過ごした48年と、2歳で見出されてからの72年と、それらを冷静に見つめ、ヒトにしか与えられていない感情を熟考し、世界的なバランスを査定した上で、今、なんとかしていい形で結果を出すことができたら・・・と願うのです。

 

・・less=・・・がないという形容詞がありますが、親や家や仕事などの細かいカテゴリーではなく、チベットの人々には、国がありません。Countrylessなわけです。家をどこに置いても、植物でいえば、根を張るところがない。もともとは自分たちが祖先から受け継いだ土地だったところを、いきなり中国に奪われて、「貸しておいてやるよ」と高飛車に言われ、尊敬する指導者も追われ、取り戻すことが叶わない。おそらく、チベットでは、ダライラマ14世がどのような活動をしているかをつぶさに知ることができず、不安は募って、学習してしまった無力感も蔓延し、どうしたらいいのか、頼りない気持ちで生きている人たちは多いでしょう。

 

昨日も「漢民族」という単語を出していたインタビューを受けた日本人旅行者がいたのですが、その人が「漢民族とプーリー(チベット民族)の違いをちょっと見ただけでわかるのか?」という疑問が生まれました。そこから、報道のビデオを見て(しかも中国が提供して世界に流しているもの)、誰が誰で、場面だけを切り取り、その前後をどう編集しているかもわからぬものから、「大したことなど判断できぬ」と、見極めた海外の人々が多いことを祈ります。アメリカのレイプ事件でも多いのですが、他民族の顔判別というのはつきにくいので、冤罪が増える。人が人に興味を持つことなく、きちんと向き合わないために、特徴らしい特徴を見出せない。それは、アジア人に生まれた各所の国民にも言えることで、アジア人だからと言って、アジア人の判別がつくわけでもないわけです。ただ、白人や黒人を判別するよりは簡単に思えるだけで・・・。そんな簡単な心理学的メカニズムもわからず、報道をしている側に立っている人々は、まんべんなく話を聴く前に、物事の見方というのを学んでほしいと思うわけです。間違っているかもしれないが、衝撃的な映像や証言というのを、「絶対に取上げない覚悟」があるのか?と、常に自分に問うてほしいです。一国の運命がかかっており、たくさんの人々の幸せがかかっているのですから。

 

Richard Gereはもう30年以上もダライラマ14世と交流があり、「チベットのための国際交流会」の会長をしています。アメリカ国内は必ず、ダライラマ14世の行くところには彼の姿があります。あれを見て、私は「ああ、お金があればなぁ・・・」と思ったものです。もちろんお金だけではないんですが、知名度やゆとりは、信じる心に+になることが多いのだろうと。

 

中国人記者は、台湾紙で、中央政府批判を堂々と掲げています。イギリスでは、チベット留学生が中国大使館の前で、ハンガーストライキをしています。国連総長も意見を表明しており、当の中国ですら「海外のメディアは不公正」だと意見を高々に掲げている中、日本の新聞は非常に第三者的だなぁと、日和見なところを見るのです。

 

http://sankei.jp.msn.com/world/china/080318/chn0803180310001-n1.htm 産経新聞の【主張】というコラム。

http://www.asahi.com/special/080315/ 朝日ではコラムは書いていませんが、どの記事のタイトルも中国の動静をうかがっているという評判に、沿ったものになっている印象ではあります。

http://mainichi.jp/select/world/asia/ 毎日も特にコラムはなく、チベットの特集欄もありません。

http://www.yomiuri.co.jp/world/ 読売もコラムはなく、特集もなしです。タイトルを見ると、イチバン少ないですね、記事数が。

 

さらに、集団心理学を考えると、暴動が起きてしまったあとの言動について、責や咎を受けるべきは、その渦中にいる民衆ではなく、外側から見ているシステムを作った立場です。人々が暴力を振るい始めてしまったら、身を守ることが第一優先で、それに伴う食糧略奪や、サバイバルのための逃げ道確保など、誰も何も責めることはできないでしょう。やらない人がいたら、むしろ、聖人です。私も自信がありません。自信があるとおっしゃる方のそばには、暴動時や緊急時に、むしろ私はそばに居たくはないです・・・(汗)。SWATチームにしろ、警察にしろ、暴動時の訓練のマニュアルはないのか?と思うほど、あのへんは進化していませんなぁ・・・。

 

ただし、この事件を、自分の政治的立場によりよく利用したり、中国憎悪のネタにしたりするのは、私が好もしく思うところではないので、とにかく、チベットの人々に国がかならずや返ることを祈ります。私がこれを書いて、何が変わるんだ!?程度のものなのですが、書かせていただきました。死ぬまでに、遠くからでいいから、ダライラマ14世を見たいなぁ・・・。まぁ、人々はTVのほうが大きくて近いからいいじゃない、と言うのですが・・・(汗)。

 

失敗から多くを学ぶためには

失敗をまず「自覚」できない客観視できる能力がなければこれは叶いません。では、客観視できるとは、どういうことなのか?ヒトは自己を形成し、発達し続けて生きていきますが、そのスピードや効率はさまざまです。心理的発達段階は、Erik Eriksonを多くの教育学で学びますので、Precious One English School でも改めて学んでいただいたり、初めて学んでいただいております。いつしか心理的発達を止めたり、停滞したりする大人は確実に存在します。日々の繰り返しの中、自分が持つ価値観が固定化してしまうことにより起きます。

 

ということは、Openness 新しいことに対する寛容さ、と、客観視能力の両方が必要になります。客観視をするためには、「自己肯定感」の高さが必要です。外を見る力と裡を見る力のバランス問題ですね。そのどちらかに重きを置きすぎることなく、「事実を事実としてありのままを見る力」が必要になります。ところが厄介なことに、ヒトは自分の成長過程の中、自己の価値が高いことを非常に好みます。生き延びる確率がぐんと増えるからです。自己の価値を外部の価値観に合わせて行くことにより、多くの他者が自己の価値を支えてくれている錯覚を起こしますので、数のパワー論理に支えられて生きていくと、本当の意味での客観性を失う確率も増えます。本当の自己肯定感の高さは、「そもそも生きている自分には価値があるのだ。生き延びてきた自分には価値があるのだ」という単純かつ明快な自信から、成長し続ける可能性や楽観を持てることに支えられています。そうした意味では、ごちゃごちゃしたさまざまなそれぞれの価値の高さや言い訳は必要ではなく、前向きであること・ポジティブであることなどが高さを支えています。たとえ失敗しても、自己肯定感が高ければ、「足りないところはたくさんある。が、私はまだまだ学べる。学ぶ気力もあるし、体力もある」と信じていることが大切です。Precious One English Schoolでは、1レッスン60分かけて、自己肯定感と自己効力感を学んでいただいています。

 

失敗をしたときに、そもそもこの自己肯定感が低いときには、自分の至らなさを全面的にフラットに評価できていない可能性があります。言い訳をしたり、責任の在りかを他者や外部に求めたりして、せっかくの失敗を分析できないことになりかねません。

 

多くを学ぶためには、まずは冷静になることをおススメしています。たとえば、

 

  • 深呼吸をする
  • プロセスを書き落としてBrainstormingしてみる
  • 関連性を図化してみる
  • 感情と事実を分けてみる
  • いいセン行ったところと致命的だったものを評価してみる

など

やれることは山ほどありますが、たいていの人はこのプロセスは避けたいのです。自分を貶める必要などないし、つらいからですね。

 

このつらさを引き受けることができれば、失敗から多く学べます。仕事ではやっていると思うので、ぜひぜひご自分のためにもやってみていただきたいのです。おそらく、やってみれば少しずつ苦痛ではなくなってきて、自己肯定感は高まります。「あー、生きててよかった!」と思えるようになったら大チャンスです。

 

だんなさまのお小遣い制度

03/11/2008 にアップした文章です。

 

私は常々これに関して、たいへんな疑問を持っているのです。自分が稼いだお金を、どうして使えない状態が出てくるのか?お給料が歩合制であっても、がんばる30代・40代は、20代に比べると激減なのだそうです。その大きな一位の原因がこれだそうで・・・。我が家は結婚して以来、一度もお小遣い制度などというものを採用したことはなく、かといって、西さんが横暴に家計の仕分けをするわけでもなく、お財布はアメリカの「ジョイントアカウント」のおかげを持ち、それぞれが自分の口座を持つことが可能なので、それで成り立っていました。今も、月収入の半分ほどはもらっていますが、その他は、交通手段(飛行機代や成田の往復等)などを含めた彼の生活費や、シュミ費などに使っています。私も自分の収入はほとんどが生活費として、支払いや母に渡したり、学費やその他に消えていますが、お小遣いとしてキープするようなものではないと思っています。

 

小遣い銭:ちょっとした日用の雑費にあてる金銭。小遣い。小遣い料。ポケット-マネー。

 

http://www.itmedia.co.jp/bizid/articles/0706/08/news115.html 先ほどの話なのですが、やはり結婚という節目から、お小遣いは減っていくのだろうという納得の数字。

もっと詳しいのがこちら>http://gemoney.jp/pr/oe/ji_kozukai2006.asp 

 

西さんがお小遣い制度を卒業したのは、九大に居た頃。育英の奨学金をもらっており、生活費は仕送りだったのですが、休みを利用してアルバイトを開始したときに、お小遣い一辺倒ではなくなったわけです。損後、就職してからは貯金もせず、ありったけのお金を飲んで暮してきましたから(笑)。私は、と言えば、16歳からアルバイトをしているので、お小遣いはその時点からもらっておらず、以来、お小遣いというのは、「子どもの特権」だとばかり思ってきました。なので、「大人、しかも結婚しただんなさんにお小遣いをあげる」という概念が、どうも肌身でわからないでいます。

 

父は16年前に死んでいるのですが、当時、タバコ代やお昼代なども含めて毎月5万が取り分だったようです。お小遣いという名前は、父も使っていたように思うのですが、首都高の回数券や突発運転手バイトなどをして、まさしくお小遣い稼ぎはしていた模様。母にイマドキの結果を話したところ、びっくりたまげています。「うへっ!」と(爆)。私は、父が飲み屋さんに行き、支払っているところをよく見ていたので、それほどお金がないようには思っておらず、私がバイトをしていたせいもあり、「たまにはおごるよごっこ」というのも、流行っており(笑)、バイト代が入ったあとの外食や買い食いは楽しかったですね。そんなときの父はうんと楽しそうでした。

 

確かに貯蓄というのは大切ですし、頭金があれば持ち家にしたほうがオトクに決まっているのですが、だからといって、毎日がわびしい気持ちは切ない人生になるのではないかと・・・。しかも、イマドキ、教育費の平均がこれです。

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo6/gijiroku/001/05100301/004.pdf 下げられてしまった(・・;)

が、子どもの数や親の年収や子どもの年齢でばらつきがあるので、なんとも言えず・・・。このサイトでは、公立高校の月額が、43000円だとしています。

http://allabout.co.jp/finance/ikujimoney/closeup/CU20070731C/index8.htm

 

お父さんのお小遣いの平均が、49000円だから、一人頭にかかる費用には、月額としては、それほど差はないんだろうか?

 

我が家には子どもがいないので、これほどのことをしてこなかったのですが、ネコには相当かかっていますねぇ。アメリカから連れてきただけでも、我慢強い西さんから苦情が出たほどです(8ヶ月ペットシッターを雇ってアパート代を払い続けて、獣医代やら実際の渡航費用やら私の往復などを含めると、500万近くにはなっている・・・)。なので、子どもの教育費の割合とさほど変わらないのではないかと思っているのです。まぁ、ここまでは・・・。今後、ネコたちが入試をしたり、留学をしたり、がないので、今後はラクです(笑)。まぁ、したらある意味ものすごい儲かるかもしれないのだけれども(笑)。

 

何のために倹約をするのか?と考えてみると、なんだか本末転倒なことはけっこうあるような気がします。ある時期、うんと節約して倹約して、爪に火を灯すように暮したあと、バラ色の人生が待っている可能性があるのであれば、やればいいと思いますね。私は、2年半ほど、労働しまくって、アメリカ留学の費用を貯めましたが、あれは大正解でした。今は、立てた会社がうまく行っておらず、それほどゆとりもないですが、転身後の仕事は楽しいし、思ったよりはお金になるようになったし、さらにもっとお金になるかもしれない可能性もあるし、キツキツにして暮していこうとも思わないですね。そもそも、物欲がないので、まぁ、あまり切実でもないのかもしれませんが・・・。

 

ちょっとしたものを買うのに、大の大人が「お金がない」というのはわびしいですよねぇ。しかも、一家を支えるだけのお金の半分以上を入れているのであれば、なおさらのことです。父親のお小遣いが給料の1割が当たり前だというのを、インターネットで見ましたが、30万の人は3万なのか・・・。昼食代とか被服費や交通費などが抜かれていても、タバコ代やジュース代だけでも1万くらいでしょ。書籍やシュミや仕事がらみではない飲み会で2万というのは、ちと厳しいんじゃないかと思うんだけれども・・・。

 

まぁ、金銭感覚というのは個人のものなので、あまり言及してもしょうがないですが・・・。

 

豪気ではあるので、飲食代を含む交際費は、私はけっこう使います。つい最近も、おごりだけで6万ほど使いました。気になりません。私も楽しんで飲んでいるのだし、食べているのだし、意義のある話ができればそれでいいです。天下の回り物なのがお金であるのならば、なおさらそれに囚われてもいたくないですしねぇ。形あるものを欲しがって手に入れて、それを守るために働いたり暮したりするのであれば、私はそもそも形あるものは欲しくないですねぇ。アメリカに住んでいた頃に家を買ったのも、貯金代わりでしたし。家が欲しいというのではなく、貯金ができない性質なので、ローンで確実に返していただけで。その証拠に、会社設立のために売却しちゃいましたし。

 

今は家を欲しいとは思っていません。賃貸であれば、駅前から徒歩距離にあるんですが、分譲のマンションは駅から徒歩にはもうなかなかないのです。築20年超えたものを買うのは売却時のことを考えると、腰が引けますしねぇ。

 

あ、お小遣いの話だった。私のお小遣いは、マチマチで、あるときはありますが、ないときにはまったくないです。ここのところ、忙しかったので使う暇がなかったのでよかったです(笑)。春になったらスーツを買おうと思っていますが、他には欲しいものはないですねぇ・・・。また今日もネコたちにお刺身を買ってあげたいと思うだけですか・・・。が、毎日だと身体に悪いので、やっぱり何か理由をつけてにしないとね(笑)。西さんには、お小遣いというものに振り回されてほしくないと思うのでした。彼は、お小遣いがなくても、キリのある使い方をしますしねぇ。

 

私ですよ、お小遣いがないとダメなのは・・・(汗)。

香味野菜が好き!

03/10/2008 にアップした文章です。

 

私の健康が維持されている理由のひとつに、香味野菜が好きだというのがあると思うんですよ。たとえば、父は、大蒜(にんにく)が嫌いでした。その蓄積が、彼をガンに罹らせたのではないかと思っていたりもしたのです、一時期真剣に。大人の多くで、セロリがダメだとか、パセリがダメだというのをよく聞きます。私は香味野菜は全般的に大好きで、ベトナムラーメンのフォーを食べるときには、パクチーがたくさん入っているお店をわざわざ選びます。でも、辛いのは適度でいいので、青唐辛子はただ浸けておくだけで、完食しませんね。いや、香味野菜はいいですよ♪

 

香味野菜:料理に香りや風味を加えるため、調理に用いる野菜類。ニンニク・ショウガ・セロリ・パセリなど。

 

香味野菜 うひー、こんなにたくさんあったのか・・・。嫌いなものがないかどうか確かめてみる・・・。

 

野菜類

ネギ(あさつき)、タマネギ、ギョウジャニンニク(アイヌネギ)、セリ、ミツバ、シソ(大葉、紫蘇の花)、ミョウガ、ニンニク(ガーリック)、クレソン、ケッパー、パセリ、セロリ、コリアンダー(コエンドロ、パクチー、香菜、ザウムイ)、バジル(バジリコ)、山椒の葉、レモンの葉、菊の花(花びら)、パプリカ、ニラ(葉、花)、貝割れ大根、ルッコラスプラウト、蕎麦の貝割れ、マスタードスプラウト、ブロッコリースプラウト、豆苗(エンドウ)、オクラ

ないですねぇ。アメリカから戻って来てしまったので、それほど食べる機会がないのがあっても、全部食べますね。あ、ひとつだけ、山椒がある。私はうなぎには山椒は掛けません。が、木の芽和えやちらし寿司に添えてあるものは食べます。うなぎにかけないのは、おそらくあのうなぎの香りが好きなので、わざわざ匂い消しをする必要はないと思っているせいです。

 

野菜の他にもあるんですなぁ。

 

海草類(乾燥させたのちに、切ったり揉んで小片にしたもの)

海苔、アオノリ

根菜類(刻んだり、すりおろしたもの)

ショウガ、ワサビ、ホースラディッシュ、ダイコン(大根おろし)、もみじおろし

香辛料

唐辛子(刻んだり、細切りのもの)、七味唐辛子、コーレーグース、コショウ、カラシ(マスタード)、山椒の粉、花椒の粉、ウイキョウ、クミン

柑橘類

ユズ、カボス、スダチ、ヒラミレモン(シークヮーサー)、レモン、ライム

果実類

梅干し、乾し葡萄(レーズン)

種子類

ゴマ、ピーナッツ(ラッカセイ)、クルミ、松の実

動物性のもの

鰹節、サクラエビ、白子干し(ちりめんじゃこ)

 

この中で積極的に食べないのは、青ノリ。焼きそばなどを食べたあと、歯にくっついているのを気にしなくてはならないからです(笑)。面倒くさがりなのだ。アレがなくとも、味としては充分いけるので、どうでもよい。あとは、乾しブドウ(レーズン)も積極的に食べません。あれの代わりになるもので、乾し杏(あんず)とプルーンならば、甘さとしては我慢できます。甘いものはあまり食べたくないので、年に1回くらいの割合でしか食べていないと思うのです。匂いのせいではありません。あとは全部食べるよなぁ・・・。

 

このあいだ、久々にたまねぎが嫌いだと、避けながら食べている女の子に遭遇しました。とはいえ、私の生徒さんなので、もう半年ほど知り合いだったのですが、知らなかったのです。サラダに入っているものを、きれいに避けながら食べていたのですが、細かく刻んでハンバーグ等に入っていれば大丈夫とのこと。オニオングラタンスープなどのように、匂いが香味野菜としての個性を発揮している独特さ、でなければ大丈夫らしい。

 

私の野菜貯蔵庫には、たまねぎはいつもたんまりありましたねぇ。どんなふうにも使えるし、究極においしく食べるには、オニオンスライスにレモンにだし醤油に鰹節という手立てがあるではないですか♪春たまねぎはアレに適していますねぇ。ザルにたまねぎ4個分くらい作って、母と競争したり、西さんと競争したりして、ぺろりと食べてしまえます。母によると、「たまねぎは血液サラサラにするんだよ」とのこと。みのもんたの請け売りなのか?調べてみると、本当にそうだった(爆)。

http://www.earthhealth.jp/kenko_story/kenko_story_10.html

 

私が思うに、パクチー、いわゆるコリアンダー、コアントローは、かなり肩身が狭いのでしょう。私が最初にアレの存在を知ったのは、宮本輝の『愉楽の園』という小説。タイが舞台なのですが、けっこう頻繁に出てきます。日本人である登場人物が、「パクチーがダメなんだよなぁ」と語るくだり。私はそれを調べて、実際に食べたんですが、当時21歳くらいかなぁ。おいしかったし、また食べたいと思った。タイ料理やに行けば食べられると知ったので、小金持ちになったら毎日でも行きたいと思ったくらい(笑)。

 

私は、魚醤も濃いがゆえに嫌いではなく、自分のキッチンには常備していましたね。ベトナムの生春巻きは、甘酢のソースなので、私は魚醤を薄めて付けて食べていましたけど・・・。

 

ニンニクは、最近、また母が「ニンニクオイル」なるものを作りおきしているので、お味噌汁にたらすことにしました。http://www.mamaikai.net/ninniku.htm  http://blog.okyoshi.com/?eid=234770 炒めものなどが毎日出されても、それほど食にこだわりがないにせよ、続けられないので、お味噌汁であれば飽きないですから。ステーキやお肉はこれで焼いているようです、最近。なぜ、こんなことを始めたかというと、前からこの情報はみのもんた番組から取り入れていたらしいのですが、冷凍餃子騒動で、ニンニクも国産品が売れるようになり、しかも値段が高騰しているので、母にとっては急に「ありがたい食べ物」と化したようなのである。そこで、ナマだけではなく、餃子だけでもなく、なんとなくたくさん食べたほうがいい、と思うようになったようで・・・。うーん、単純すぎる・・・。

 

まぁねぇ、私がタバコ代を少し減らせばいいだけだし、春になったら野菜は安くなるだろうし・・・。

 

私はパセリも好きなので、パセリサラダをやるんですが、これはレバノン料理のレシピ。私は、Wheatの代わりにクスクスを使います。日本ではクスクスのほうが手に入りやすいかもしれない。我が家の近辺ではそうです。

http://cookpad.com/pomemaru/recipe/234090/ 

 

あとは、クレソン。オランダガラシなんていう名前だそうです。写真つきなので、どんなものか忘れちゃった方は、見てみてください。クレソン 私は、これを「カブトムシの味がする」といつも言うんですが、本当にするのよ・・・。カブトムシは食ったことはないんですが、口に入れたことはあるんで(笑)←思わず大きいのを採ったときに、隠したんですね(笑)。これは、スープや炒めものにする人も多いらしいんですが、私はナマをサラダに入れるのがベストだと思います。最初、食べ難いと思えば、サウザンドアイランドのような重めのドレッシングを使っておいて、少しずつ、オイル&ビネガーベースのものに移行していけばよろし。私はなぜか、和風ドレッシングでバリバリ食えます。付け合せについているものを、同席者が食べなければ、もらってでも食べます(笑)。

 

なんだか、今日は長くなってしまいましたが、香味野菜は身体にいいので、ぜひぜひ食べましょう♪ガン予防やら、血液サラサラやら、とてもいいのですぅ。と、まるで香味野菜推進委員のようなエッセイになりましたが、ぜひ、春が来る前にチェックしておいてくださいねぇ。

妥協の境界線

03/09/2008 にアップした文章です。

 

私が最初に妥協という語彙を学んだのは、小学校5年くらいだったので、今考えると相当に早いとは思うのですが、私はあえてこれを使わないようにすることを、その当時から心がけてきました。読書が進むと語彙は増えていくものですが、それがどんな言葉で、どこで使うとぴったり来るのか?というのはなかなか子どもではわからず・・・。そんな言葉たちはたくさんありますが、わたしはこの妥協という言葉が、今でも嫌いです。妥協したと思う気持ちが、後を引くせいなのでしょうね。なぜか、「妥協してやったのに・・・」と奢り高ぶる気持ちが芽生えるせいです。

 

妥協:対立していた者の一方が他方に、あるいは双方が譲ることで意見をまとめること。

妥協点:両者のおりあいのつくところ。

対立:二つの反対の立場にあるものが並び立っていること。互いに相いれないものが向かい合っていること。対峙(たいじ)。

 

私は好戦的だと思われがちなのですが、必要がなければ、闘うことなどやらないに越したことはないと強く信じています。そもそもの生命体の逃れられない宿命が、『生き延びること』ですから、勝てない勝負をすることで、エネルギーをたくさん消耗してしまってはいけません。が、小さく小さく毎日負け続けても、エネルギーは目減りし、いつしかその貯金がなくなったり、エネルギーをもらえるエネルギー源が消滅してしまったりして、どちらにしても生き延びることが厳しくなるかもしれないことは、予測したほうがいいわけです。

 

そんなわけで、たまには勝負しないといけないことがあり、そこには対立があり、妥協になるのか、真っ向からの勝負になるのか?という二択になることも多いのですが、私は対立してとことん話したあと、自分が選択したことに関して、「妥協した」とは一切感じない、考えないようにしています。

 

しかも、ですよ。私は対立状態が継続することが、それほど悪いことだとも思っておらず・・・。根本解決ができる個人的な問題であれば、私は必ず解決に向けて動きますが、たくさんの人間が関与する問題に関して、他人の考え方を積極的に変えようとは、まったく思わないでいるからです。「変わったらいいよなぁ・・・。不自由だろうなぁ・・・」とは思うし、根がいじわるなわけでもないので、知識としてのいろいろ話はしますし、質問をされれば答えますが、相手が私の考え方を変えようという積極的意図が見られたら、ちょっとげんなりします。

 

しばらくそんな場面には遭遇していません。が、たまにありますね。宗教団体の活動や、占いなどの勧誘やその他。それほど隙アリで歩いていないのだろうから、たぶん大丈夫でしょうが・・・(帰国してきたばかりのときはやばかったかもしれないですが・・・汗)。

 

右寄りの考えの人を左にしようなどとも思わないし、勉強しない人を勉強させようとも思わないし、性の快楽に溺れる人を救いたいとも思わず、です。ただ、意見としては、「中庸ってむずかしいけど、それがいいのかもねぇ」だとか、「勉強かどうかわからないけれども、学習を続けてよかったことはたくさんあるよ」だとか、「性の快楽は一時(いっとき)だけれども、快楽には上があるかもよ」などとは言います。それでも相手の反応がなければ、そこでおしまいです。押し付けるということほど愚かなことはないと考えているので。

 

ですので、相手を妥協させようなどと思ったこともなく、卑近な例で言わせてもらえれば、食事のメニューなどでも、私がその日食べたいものがステーキだったとして、西さんがお刺身だったとして、誰も妥協しないように、半分ずつの量を買えばいいだけのことで、これは妥協とは言えないのだろうと。私がお刺身を嫌いで、西さんがステーキを嫌いならば妥協なんですが・・・。では、この時、私はお刺身にしてあげる、という思いやりのあるジェスチャーができるか?といえば、できない(笑)。あとあと禍根を残すことになるとイヤなので、やらないのです。限られたお金(リソース・材料)の中で解決するには、分量を分けてシェアするのがイチバンなので、何かを後日に持ち越しするようなことはしない。たとえ、西さんが中国や台湾やタイやシンガポールのごはんに飽きていたとしても、です←非情(爆)。ところが、ステーキが食べたい日などというのは、1ヶ月に1回ほどで、日常的には「何でもいいよ」な、中年サラリーマンメンタリティを持つ私は、こんな難問にはぶち当たらないんですが・・・←これが難問かよ!?と言われれば返す言葉がございませんが、食べ物のことはけっこうでっかい禍根を残すように思われます・・・。

 

時間給を取るか、長い時間働いてもいいから総収入を取るか?という難問でも、自分に実力さえあれば、それほど妥協をせずとも何とかなるものですし、他人の頭や心が「対立」するようなところに、私はそもそも属さないので、こういう暢気なことばかり言っているのかもしれません。

 

ニュースによると、http://bizmakoto.jp/makoto/articles/0803/06/news105.html 職場の人間関係に悩んだ人は75%以上なんだそうで。生徒さんから聞いた話でも、本当にお局様などは実在するそうで、あんなのは笑い話だと思っていた私は、あまりに暢気なのだろう・・・。だったら、やっぱり上場会社は産業カウンセラーは設置したほうがいいだろよ、と思うんだが・・・。

 

内容的には、上司について悩む人が多いらしく、それはやはりTVのニュースを見ていてもよくわかる構造ではあります。どうしてか年功序列や儒教的な年上や経歴のすごい人が意味なく崇められるような形式的美学というのは、政治のような曖昧な結果しか出ないものだけではなく、数値化できるような「営利団体」にも実在しており、そんな怪物には歯が立たないと悩む人は多いのかもしれない。企業派遣で講師をやって思ったことは、これがまかり通っている上場会社はかなり多いということ。「渦中に存在しなくてよかったな」と思うだけ思って、期間が終わってしまえば、それだけであっさりと「うーん、学べた」と思いながら去って行ける立場は、姑息だし、おいしいです。

 

10代で、そんな世界には無縁で生きていこうと思った私は、それを実体験する必要もなく、対立などとは無縁で来てしまったのだけれども、対立が始まる前に、「私は好戦的だから負ける勝負はしないほうがいいよ光線」というのは、出しているかもしれないなぁ・・・とは、ふと思う・・・。いや、実際はまったく好戦的ではないし、サービスレッスンを誰よりもする講師として有名ではあるんですが(笑)。そう思わせることで、無益な勝負や対立はしなくて済むので、妥協する必要もなくなってくるわけです。しかも、私は少数の友だちがいれば満足だし、知り合いと友だちと職場同僚との境界線は、かなり明瞭についていますし、友だちの意見が私と違っても、うまくやっていけると強く信じていますしねぇ。誰にも妥協させない代わりに、私も誰かのためには妥協せず、自分の中の自分とのネゴシエーションだけにエネルギーを使いたいと思うわけですよ。

 

こんな人間なので、子どもは持たなくてよかったと、こんな折に思います。いや、子どもと対立する人って少ないのかなぁ・・・。対立する緊張感っていうのは、悪くもないとは思うんですが、勝負して得られる何かが大きいのでなければ、私は勝負はしませんし、至ってドライなやつなんでしょうねぇ・・・。妥協の境界線を持っているか持っていないかで、やっぱりラクに生きられるかどうか決まってくるね、というお話でした。

課題を考えてステップを踏む

03/08/2008 にアップした文章です。

 

私はダンスがそれほどできるわけでもないのに、ステップを踏むというメタファーがやたらと好きだなぁ(笑)。ゆとりがあれば、ダンス教室だって行きたくないわけではないのですが、ゆとりは今のところはない・・・。いや、仕事をしていてゆとりがそれほどたくさんあってはいかん、とも思っているのかもしれず・・・。課題というこの言葉はあまりに堅いのですが、英語ではTaskといい、軍隊の目標ターゲットから、宿題まで、幅広く使われています。なので、私もついつい日本語でも、「課題」と使ってしまうことが多いのですが、これは最もしてはいけない翻訳ではないかとも思いつつ・・・(汗)。この漢字から想像できるのは、ある範囲(課・チャプター・部署など)のテーマなのです。なので、個人がどこからどこまでを範囲にするのかは、至って自由な気がするので、堅く考えなくてもいいんじゃないかとも思う・・・。

 

課題:(1)仕事や勉強の問題や題目。(2)解決しなければならない問題。

 

うん、やっぱりTaskでいいんだな・・・。翻訳の仕事が入っているので、まず日々のスケジュールの次に優先順位が高い課題は、翻訳の締め切りに間に合わせて納品することです。ダブルスペースで13枚しかないので、余計にやる気がフツフツと湧いてきておらずいけません・・・。

 

私は家を出る直前にシャワーを浴びるのですが、その理由は、喫煙者なので、髪がタバコくさいから、という単純なもの。禁煙に成功したら長い時間をかけない限り、この習慣は改まることはないとは思います。母などは、どんな基準でお風呂の時間を決めているのか、まったくわからず・・・。足湯をするときもあれば、半身浴のときもあれば、しっかりあったまるときもあれば、シャワーのときもあり、絨毯や毛布を洗ったついでにお風呂に入ることもあり、彼女には「一貫した法則性」を同居している私ですら、見出すことがあまりできず・・・。が、彼女は彼女なりの法則性があるんだろうから、あまり気にしないことでうまくやっています。

 

こう考えると、生きていくということは、平凡な日常ですら、「解決しなければならない問題」を山積にされて、それをひとつひとつこなして=生きるってことに思えるなぁ、ということ。やることがない人というのは、きっとあまりいないに違いなく、「歯が汚い」→歯磨きしなくちゃ、と感じないためには、何も食べないことや、口を開けて息をしないだったり、喫煙はダメだし、飲み物も水一辺倒でなければならず、やっぱりこなしていかねば、次には進めないのである。

 

ここのところに来て、私は受験生を無事に合格させたのち、やっと「成果が出る教え方」というのを、強くつよく意識するようになったことがわかります。それまで不真面目にやってきたわけではないし、ちゃんとTOEFLであれ、TOEICであれ、英検であれ、それなりの結果を出してきたのです。まぁ、主にがんばったのは私ではなく、生徒さんですけども、彼らが知らなかったノウハウや心持や勉強方法やら、論理などを教えてきたのですが、それを体系化していなかったことに対して、この頃、猛烈に反省をしているところなのだ。

 

大枚を叩いてレッスンを受けてくれている生徒さんには、大きな声で言ってはいかんのですが、私は授業準備というものを、細かくしないのです。グループレッスンでは、教材がしっかりあって、その内容に大きくそぐわなければいいので、たとえば「関係代名詞」であれば、中学・高校でやったことのレベルに合わせてから始めていくので、そもそも細かくやっていると、ロスが途轍もなく多くなるわけです。文法的に押さえておけばいい基本の基本を書き出しておくだけで、あとは、やりとりの中で広げる範囲を決めていきます。あまりに「ここまで網羅」と広げすぎたり、例題までを考えておくと、生徒さんたちが不自由だし、記憶や学習のメカニズムと矛盾したものになるからです。

 

ところが、基本中の基本を、どうしてこれまでその場だけで披露して、書き出して体系化してこなかったのか?と、生徒数が増えてきた中思うわけです。ある人には耳寄り情報を披露しておいて、ある人にはしていないという杜撰さ・・・。現場処理もいいこともありますが、悪いことは多い。

 

しかも、私はその場で生徒さんに教えてもらう思いつきというのもたくさんあり、それをどうしてイチイチ書き留めておかぬのか?と無念でなりませぬ。だいたいのことは記憶できるのですが、体系化することはマッピングの基本なのだ。そうすると、私を指名してくる生徒さんが増えるという図式になるわけです。いや、もう充分なんですが、たまに期末テスト前で4コマ空いたりするときに、新規の生徒さんを増やすという色気くらいあってもいいんじゃないかと・・・。

 

そうなんですよ。今の私にはこれが課題。

 

いろいろ思い出すのは、朝の小学校の通学路。どうしてあんなにも自分に課題を作れたものなのだろうか・・・と。暇だからなんでしょうが、頭の中に浮かぶのは、今日の課題ばかり。勉強に関してはひとつもないところが、私が私である由縁なんですが、ドッヂボールで球をどうやってスピンさせるか、だとか、大車輪を誰にも見られないあの時間にどうやって組み立てて練習するか、だとか、ひまわりの種をどうやって拾うか、だとか、水着を着替えるときに最短記録を作るだとか、本当にくだらないことばかりなのですが、私はそれぞれの課題を、できるまでやってきたからこそ、私になれたんだなぁと、いまさらながら実感するわけです。

 

どうして課題を途中で投げ出さなかったか?これですよねぇ・・・。

 

あまりに達成できるものばかりを選んでいたとも思えず、かと言って、それほど簡単なものばかりを見繕っていたとも思えず、あくまで結果論から言えば、今の自分の才能や実力よりは、一回りか二回りのものをステップ方式で何段階も上を見据えて作っていた課題だったということ。

 

図書館の子ども部門の本を制覇したときもそうですが、まずは著者から始めていき、その次に棚の段になり、棚全体になり、角になり、どんどんとアイルが進んでいき、いつしか気づいたら終わっていた、ということになる。このステップ方式はとても有効なのだけれども、それをどうしてか子どもの頃にあれほど習って学んだはずではあるのに、大人になってから、それを効率よく組み立ててやろうとしないのはなぜなのか?

 

そういう意味では、私はとても素直なやつなのかもしれず、4月から始まる講座でも模範的な日曜学生になるのではないかと思っているのです。自分の好きな文房具をすでに揃え始めており、どうしてこんなに楽しいのか、自分でもよくわからず(笑)。教科書が来たら、どんなふうに使うんだったか、すぐに思い出すに違いなく、名前を書くのも忘れないに違いなく・・・(ここで私は旧姓を書くんですが、それは気にしない・・・)。

 

こんな私が西さんがフルマラソンができるやつだから、私にも耐えてくれるだろう、と考えたのは、本当にすばらしい理屈だったと思うのです。私ですら、それなりにこらえ性があるはずで、課題を次々に昇華したはずなのですが、西さんはもっとこらえ性がある(爆)。彼と初めて出逢ったのが、1988年の12月ですから、そろそろ20年になろうとしていますが、ちっとも飽きませんねぇ。別居時間が長すぎるからなのか、それともおもしろいことがそれなりにたくさん詰まってきたからなのか。両方なのでしょうが・・・。

 

そして、私は翻訳をやらねばならぬステップを、しっかり考えつつ、今日の仕事を消化してきます。

GW Boot Camp 記 III

4月29日(月)

日本語

語彙チェックと演習①

語彙チェックと演習②

5W1Hを使った名詞節でSpeakingができるようになる

場面に合わせた英会話の準備

英検準1級①

英検準1級②

英検準1級③



この日も朝から楽しく英語を学びました(^^♪

 

語彙のチェックは、まず日本語の文字数をカウントしてもらいました。今は便利になっていて日本語であろうが英語であろうが語彙数を測れるサイトがあります。だいたい何歳ぐらいなのか?というのも出てくるすばらしいものがたくさんあって、みんな笑顔で自分の語彙チェックをしていました。

 

Precious One English Schoolの一貫した方向性として、

 

「日本語でできないことは英語でもできない、が基本」

 

というのがあります。日本語の語彙で理解していないもの・体感に落ちていないもの・アウトプットで利用できないものは、 英語でも使えるようにはなりません。ゆえに、まず、日本語の語彙チェックをしていただきました。

 

その後、英語での語彙チェックをしていただき、その乖離について「なぜなのか?」を深く考えていただくことにしました。 英語スクールなのに「読書のススメ」というレッスンを1時間費やして学んでいただいております。なぜならば、全てにおいてコスパがよく、様々なスキルが身につくことと、脳の老化を遅くするからです。あらゆる面で読書スピードが速いということはプラスになります。

 

さらに続けて、名詞だけでなく、日本人があまり使えない形容詞や副詞の語彙をチェックしました。リストを差し上げ、頻出単語を体感を伴って使えるようにと、生活習慣についてもチェックしました。

 

その後、日本ではWhat節と説明しているテキストが多いのですが、Precious One English Schoolでは、5W1H節としています。これは名詞節なのですが、テキストによっては、あるいは指導者によっては関係代名詞とする人もいます。びっくりです!←検索してみてくださいね。

 

日常会話ではこの5W1H節をものすごくたくさん使います。この名詞節が使えるようになれば、日常会話はとても面白くなっていきます。もっと話したい!もっと通じる!表現の幅が広がる!など、いいことだらけです。

 

そうなると場面に合わせた英会話ができるようになり、日本語のコミュニケーションと違った目的意識や伝えること、内容のポイントなどに目が行くようになります。

 

午後は英検の準1級をターゲットにして学びました。ひとつ前のTOEICの1日演習の記事でもご説明しましたが、英語検定は全般的に、英語力がついてるかどうかを確かめるため、英語力についてそれ以上言及されたくない場合に出し示せばいいものなのですが、英検の長所としては、一度合格してしまえばもう二度と取る必要がないという点があります。

 

TOEIC 700点ぐらいを取れれば、英検準一級の可能性も高くなりますので取っておくのは悪くないかなと思った次第です。試験のテクニックをお教えした後、具体的にどのような練習をすればいいのかということを学んでいただきました。

 

GW Boot Campは本当にてんこ盛りです!

GW Boot Camp 記 II

4月28日(日)

TOEIC Listening 演習 ①

TOEIC Listening 演習 ②

TOEIC Listening 演習 ③

TOEIC Reading Part V 文法対策と演習

 

TOEIC Reading Part VI 文法対策と演習

TOEIC Reading Part VII文法対策と演習 ①

TOEIC Reading Part VII文法対策と演習 ②

 

TOEIC三昧の1日を過ごしたのですが、他のBlog記事にも書いているように、Precious One English Schoolでは、「英語検定は水戸黄門の印籠に過ぎない」というのが基本姿勢です。どうしても「自分の英語力について黙ってもらいたい人たち・団体」が環境の中にある場合、準備をしておけばいい、という程度の重要性しか持っていません。とはいえ、日本では長らく、TOEICはとても偏重されています。

 

ゆえに、会社での英語ができなければならぬ!という圧力対策にもなると考えて、1日TOEIC漬けになってみる、という日に充てました。

 

とはいえ、基本的な英語力がなければスコアを上げるのは、100-150点くらいが関の山で、テクニックと運でカバーできるのはそのくらいなものです (・・;)

 

学んでいただいたのは、基本力をつけるためにはどのような順番で基本のキをカバーしてから、演習として何をすればいいか?ということでした。

 

今回、外部から来ていただいた生徒さんもいらして、既存の生徒さんにはいい機会になりました。彼らが新しい方に「理解してもらえるように説明できるかどうか?」で、どの程度自分が咀嚼しているのか、を測れる機会がたくさんあったからです。

 

生徒さんの中の一人は、英語基礎コースをもうあとひとつで終えるところだったのですが、何年前に受けたかわからないTOEICスコアの作戦を立てて、「あれ!こんなに上がってる!」といううろ覚えのスコアから、200点近く上がっていました。さらに、このスコアは今後もっと上がることになります→ 後日を楽しみに(笑)。

 

その1日で私が英語講師として実感したのは、「やはり英語はListeningありき」ということでした。 母国語が何であっても、ヒトは言語をListeningから学びます。文法を学ぶのはむしろ小学校に入ってからです。小学校に入る前にはすでに子どもたちは、母国語を不自由なく使いながら生活していますから、 文法ありきではないのです。文法を体感に落として学ぶために、「英語基礎コース」を作り上げたのですが、悲しいことにそこには個体差があります。

 

その個体差はどこから来るのか?をずっと考えてきたのですが、日本語でできること、さまざまなスキルの成熟度や洗練度が大きく左右します。さらに、英語に対する心理的なプレッシャーを減らすことにより、成果をグンと上がります。

 

これらをすべてカバーしてから、TOEICにせよ、テクニック的なことを詰めていけばさらに100点から150点は上がることになります。

 

この持論を証明できるかのような1日はとても楽しいものでした(^^♪ 色々な人に体験していただければ幸いです。

 

悲恋を重ねて人は育つ

02/12/2008 にアップした文章です。

ここのところ、『星の金貨』の再放送を、時間が合うときだけ見ています。実は、これは北米のSan Francisco Bay Areaの8チャンネルで放映されたのです。しかも、英語の字幕がつくんだ♪私はドラマがどうも苦手で、毎週忘れないように見ることができず、思い切ってレンタルをして、1日で見てしまったシロモノです。いやー、泣いたねぇ・・・。まどろっこしいと言えばまどろっこしいのですが、私はこんな悲恋をしたことがないので、「在り得るかもしれないじゃん・・・」と自分を説得しながら見ていたわけです。こんな悲恋を重ねたら、人はたくましくなるんだろうなぁ・・・。いや、違う意味で、私はたくましいんですけどもね(汗)。

悲恋:実らず悲劇に終わる恋。

悲劇:(1)不幸や悲惨な出来事を題材とし、人間や人生を悲壮さ・崇高さの面からとらえ、受難とそれへの闘いの過程を厳粛に表現した劇。主人公の破滅で終わるのが普通。運命悲劇・性格悲劇・境遇悲劇などに分けられる。⇔喜劇 (2)悲惨な出来事。

進化心理学でいうところの、種の保存や種の存続ということに、私は積極的に、一次的には存続していないのですが、その理由としては、生存競争もパワーゲームのひとつであり、あまり参加したいとは思わなくなったというのが、後付けの事実です。30代の頃はしょっちゅう考えたものですが、なんだか希薄なのですね。負けん気が強く、どうしても勝負には勝ちたいという勝気なやつに誤解されがちなのですが、実際は、刹那的でもあり、生命体の生命などというものは、長い歴史や地球規模から見ると、たいへんにちっぽけなものだということがわかっており、「刹那だからゆえに遊ぼう」という気持ちも生まれずじまい。けれども、もがくことだけは忘れず、ここまで私しかできないようには生きてきたつもりです。が、なんだか何のために生命体として生かされているのだろうか?と、この淡白さ加減を不思議に思うこともしばしばな昨今です。

今日、金曜日に一旦1が終わり、来週の火曜日からは『続・星の金貨』が始まるそうで、私も仕事がなければ見られるのですが、録画してまで見たいわけでもなく・・・。このへんが淡白な由縁なのでしょうなぁ・・・。いや、でも見れば泣きますよ(笑)。ところが、仕事は相変わらず忙しく、見られる日はほぼないかもしれない。

世紀の大悲恋を映画や小説で見つつも、実際にものすごい悲恋をした人から、直接お話を聴いたことがないような気がします。私が現実的すぎて、きっとそういった引力がないせいなのでしょう・・・。私は、10代の頃、西さんにやっぱり似た人たちと恋愛をしました。タイプというのはあまり変わらないのでしょうね。が、一度だけ悲恋を体験したことがあります。

全日本選手権ロードレースの国際A級のオートバイのレーサーでした。その人は転倒するか、表彰台に乗るか、どちらかというタイプで、ケガが多く、こちらのほうがどうもやっていけない気分になってしまい、アメリカにさっさと逃げてしまいました。当然、その彼にとっても私は本命などではなく、消耗品というか、一過性のイベントだったのでしょう。のちにアメリカで再会するのですが、いい感じの大人の男になっていたので、別れてよかったなぁと思ったものです。私ではあんな影響を差し上げることはできなかったことに対して、完全に白旗を揚げました。

他人の悲恋にはこれほど泣けるのに、自分がやりたくないという徹底した態度は何なのだ?と、苦笑しつつ、自分を分析するわけです。他人が関与することについて、他人をコントロールせねばならぬ割合が多くなることについて、とても嫌気がさしているようです。

生物を学んでいたときの態度は、目からウロコが多く、「なんだよ、こんなにヒトは動物として自然の摂理に支配されているのか・・・」の連続でした。恋愛もそのひとつで、社会動物の頂点に立っている「つもり」でも、実際のところは、見えない縛りである自然の摂理が大きく働いています。特に、動物であることを否定しよう!とがんばっているわけではなく、そもそもの「弱肉強食」の無駄な回避をして、大脳皮質が大きくなった利点を、より多く使いたいと思うようになってきたわけです。その中には当然、恋愛も含まれる。

そして私はどんどん枯れてきた・・・(爆)。どのくらい枯れてきたか?と問われると、こと、恋愛に関しては、中国の桂林のたたずまいに「うげぇ、暇だ・・・」と思わないくらいに溶け込めるくらいに。水墨画の中で生きていけるくらいに枯れてきている部分というのは、確実にあるように自覚してしまっているのです。

が、自分が積極的に参加せずとも、どうしてか他人の悲恋には泣ける。ドラマやストーリーは、おそらく実在している事実を、さらに切なく悲しく演出しているものが多いのでしょうが、それでも騙されているような気がせず泣けるなぁ・・・。それは、10代の頃からの経験があったから、という賜物なのでしょう。まったくのところ、恋愛で泣いたり笑ったりした経験がなければ、特にドラマやストーリーでも心が揺さぶられることもないのだろうし。

が、ここで思いっきりの矛盾を。タイトルの『悲恋を重ねて人は育つ』は、私は学習の度合いだと思うのです。何度も何度も恋愛するたびに結婚する人がいますが、あのエネルギーはどこから来るのだ?と半ば呆れつつ畏怖すら感じますが、すべての人にあれを勧めることはできない。「いくつになっても恋はしていたいものよね」と、年齢が上がっても言っている人々がいますが、私はそうは思えないし、私にはできないです。恋をするエネルギーを使うくらいであれば、他人によって私の核がひっくり返されるような翻弄に戸惑うようなくらいであれば、私はそのエネルギーをもっと穏やかな中で、他の分野からのドキドキを得たいと思ってしまうのです。実際に自然の摂理の中で生かされているということを実感するために、氷河を見る旅行などはいいのかもしれないし、Machu Pichuまで登ってみるのもいいかもしれない。

もしかすると、ネットに毒されて、秋葉原系までは行っていないとしても、疑似体験で満足している進化していないやつなのか?と、検討してみるのですが、そうではないようです。若い頃には確実にヴァーチャルではなく、現実世界で体験してきており、やはり私には恋愛は大きな重きが置けないようである、というのがわかってきて、西さんにも純粋な恋愛感情だけではなく、他のたくさんのものを織り交ぜてもらっている現状に、大満足しているからなのでしょう。

西さんがこの世からいなくなり、あるいは私と離婚してどこか逢えないところに行ってしまって、私がこの先ひとりで生きていくのはつらいな、と思ったときに、縁があればどうなるか明言はできませんが、今のところは、たとえひとりぽっちになっても、「もう恋愛はいいや・・・」と考えています。その代わり、読書や映画で見られる悲恋には泣きつつ・・・。砂漠の熱風を横断するよりは、傍観者のほうが向いているのだということを、きっと私は、小学校では学べなかったのかもしれませんが、中学や高校の運動会や遠足や揉め事や、10代の恋愛のいくつかで、既に学んでしまったのかもしれません。

枯れていることは虚しいのか?うーん、そうでもないですねぇ・・・。