気力が高まらない時の対処法

実際のところは、気分は体調によってひどく左右されます。ところが、現代人の切ないところは、特に身体をしっかり動かす習慣が仕事にあまりない人の切ないところは、「身体の声が聴けないところ」です。気づくのは症状がけっこう進んでしまってから、ということが多いようです。

 

鼻水が出てきた、熱が出てきた、食欲がない、などなど、重篤まで行かずとも、普段通りではないCapacity内を少し超えてしまった状態になることが多くなってしまいます。

 

身体の声が聴けると、気分が高まらない理由に、「体調が少しズレてる⇒戻そう」となるんですが、その段階がないまま、なんとなく気分が重い、億劫だ、やりたくない、などという範囲で、まだまだ体調は崩れていないように見えることが多いようです。

 

高まらないときには何をしたらいいのか?

 

1.やらない

 

緊急性がさほど高くはない場合、先延ばしにしてもギリギリセーフな場合は、やろうと努力したり、焦るのをやめてください。<(_ _)> まだ機が熟していないのです。が、ヒトは覚醒しているときは、何かをしているものなのです。TVを観たり、本を読んだり、ネットサーフィンをしたり、まぁ、何かはやっています。それらがバカらしくなるほどやってみて、あとでうんと後悔してみたらいいです。二度とこんな時間の使い方はしたくないと思うのか、それとも「うわー、ああ、せいせいした!」と思うのかの違いです。後者でない場合は、気分が乗らない、というのは言い訳だと自覚してみてください。

 

2.掃除をする

 

一挙両得なので、掃除をしてしまいませう。運動に出かけるのは億劫でも、掃除をしたほうがいい箇所は、きっと家の中に見つかります。なければ、鍋・フライパンなどを磨いてみたり、食品庫の整理をしたり、買い物リストを作ったりもできます。そうなると、関連したことをやりたくなり、いろいろやっていくうちに、「あれ?何でこんなことしているんだろう?何かやることがあったんじゃないか?」と思い出したりします。そういう道のりは道のりでいいものです(^^♪ だって、きれいになるんですからねぇ。

 

3.お風呂に入る

 

家を掃除するのが苦手すぎる人は、自分をきれいにしてください(笑)。いつもはやらないトリートメントや顔パックや手足の手入れなども含め、とことんやってみてください。気分が上がります。疲れたら寝てしまえばいいです。寝て起きたあとは、きっと気力は充実している確率が高いです。

 

4.運動をする

 

家の中でできる運動を知っている人はぜひとも、無理であれば外に散歩くらいの気持ちで出るのはいいです。スマホについている万歩計が成果を教えてくれます。草木を観て、空を眺めて、いつもの町中が違うように見えたら、きっと気力は充実し始めています!

 

5.気分が高まらない邪魔な原因ととことん向き合う

気分を下げている原因を知っている場合は、ここを対策してしまったほうが早道です。人間関係でも、自分の認知(考え方・世界の捉え方や価値観)が歪んでしまっているかもしれないし、自分とは合わない人とおつきあいしているゆえに起きたことなのかもしれません。能力についてウダウダ考えている前に、「あれ、やっちゃったほうが早いかも・・・」と思ったらシメタものです。

 

6.いつもと違うことに手をつけてみる

 

いつもだったらやらないことをやるいいチャンスです。気分が乗らないんだから、高まってくれないんだから、という理由を大上段に振りかざして、花を買ってみたり、ジャンクフードに囲まれてみたり、それらが自分の気持ちにとってプラス:ポジティブになるのか、マイナス:ネガティブになるのか、あとで大笑いできたら、もう気力は充実しているはずです。

 

7.単純に寝る

 

私はこれすぐにやっちゃうんですが、けっこう疲れていると寝ちゃえます(笑)。ネコがそばにいてくーくーと音がするとさらにいい感じに眠れて、起きるとやる気に満ちています。夢も見られるので、それがブーストしてくれることも多いです。

 

8.単純作業を続ける

 

ぬり絵・パズル・漢字書き取りなどなど、内職セットは持っていないとは思いますが、単純作業を続けていくと、それに疲れてきます。もっと複雑なことがしたくなるはずです(笑)。

 

9.何もしないにトライ

 

たぶんできないと思います(笑)。

 

いかがでしょうか?きっとこれらを繰り返すと、気分が乗らないんだよねぇ、とは言えなくなっている自分に気づき、自分で気分が乗っているときに複雑な仕事をして、フツー・中立のときに難易度中の仕事をして、乗らないなぁと思うときに、割と簡単なことをしているのに気づきます。

 

これが人生のコツだったりします(^^♪

英語の授業が楽しくない!を克服するには?

この「英語の授業」とは、小中高や大学の教養課程のものなのか?英語スクールのことなのか、オンラインなどの配信などのことなのか、微妙すぎてわからないのですが、すべてを網羅してみたいと思います。

 

まず第一の問題点は、日本における英語の授業はほぼ9割が、「講義型」「静的学習」であること。それでやる気になれ、楽しめ、と言われても、目からウロコなすぐに使えて成功できそげな、ものすごいおもしろい内容ではない限り、本当に苦行です。私も中高はその場にいましたし、たまに耳を傾けて聴いてみても、「なんじゃい!こりゃー!」という内容が多かった記憶ありです(笑)。ひどい先生になると、単語にカタカナのフリガナもつけていたし、定型文の暗記を薦められたり・・・。

 

そんなのおもしろいわけがないし、使えるイメージができるわけもなく・・・。

 

第二の問題点は、一にも関係していますが、「自主的ではない」「強制感満載」ということでしょうか。どうしてもそこにいなければならぬ、しかも受け身でいなければならぬ、というのは苦行にしかなりません。もっとNYやLAのおもしろさを解説してくれたり、BritishとCanadianとAmericanとAusie English の違いを語ってくれたり、他の国の人々がどのように英語を学んでいるのかおもしろおかしく解説してくれていたり、基盤となる「興味」を提供してくれれば、前のめりになって質問すら次々出てしまうんですが、そうでもない。

 

そして、この2つはもうシステムとして定着している場合は、抵抗するのはかなり難しいので、私は他の科目もすべて含め、「授業は聴かない」を励行したものです(笑)。なんかしらやることはあって、手紙を書いたり、他の本や教科書を読んだり、校庭や富士山を眺めたり、地図が本当に好きで、昔は「国土地理院」だったら勤めてもいいかなぁと思ったくらいでした。地図帳にはグラフがいっぱいついていて、降雨量とか気温とかあるじゃないですか。相当埋没できる時間になるのです。

 

あ、今の中高生の生徒さんにこれを薦めてはいませんが(笑)。ただ、英語に関しては、「学校で学んでいるものをがんばっても点数は上がるけど、話せるようになるわけじゃない」というのは、共通理解としてゲットしてもらっています。

 

そして英語スクールに通う年代になり、大人になって、この第一・第二問題を未だ解決できていない場合には、やっぱり心の問題は大きいと思うのですね。なので、Precious One English Schoolは心理レッスンを入れているのです。なんと15レッスンも、42レッスン中に入れ込んであります。そうすることで、「自主的に、動的に、習慣に入れ込み負担感がなく、いつのまにか自然にやっている→だから使える」をオススメしているのでした。

 

しかも、長くて短い、短くて長い人生を生きていくために必要なことは、自分にとって「最善・最良の選択ができること」ですから、自分のことをよく知らねばなりません。決して社会からのはみ出しものになってそれを貫け!と言っているのではないのです。ただ、自分の心が納得しているほうが、自然の成り行きに近いほうが、学びはサクサクと進むので、時期もあることと思いますが、そっちの方向に自分を無理やり向けるのではなく、先々に「この我慢や修行をすれば成功する」という予測が立てられないものは、断固として無下に受け身のまま始めないほうがいいです。

 

ただ、知識は必要なので、どのような条件・状態・対象物がどのようなタイミングで開花する、どれくらいかかる、というのは、あらかじめ知っておいたほうがいいと思います。教えている側としては、本当にその個々人の準備程度による、としか言えず、その準備もいっしょに促進していくのが、心理レッスンです。

 

ここで、とっても繊細に注意しているのは、個々人の差異を尊重しながら学んでいただくこと。決して他の人と比べることなく、ネガティブに焦るのではなく、周りの人を参考にしたり、励みにしたり、同士にしたり、ポジティブな意味の刺激にしてもらえたら、と思うのです。

 

身体を駆け抜ける爽快感を味わったことがあれば、英語もそっちに寄せていくことは可能です。でもやり方がわからない!というのであれば、ぜひとも無料体験レッスンにお申し込みください♬

コントロールの難しさ

09/24/2008 にアップした文章です。

 

ここのところ、飲酒がものすごいことになっており、健康も自信がなくなり、日々にもボケたことが多く、学校の移転もあり、憂鬱です。こうしたことが重なったときに、たいてい躁鬱病のまずい側面が出てきます。うつ症状が続くときにはただただ怠け者になり眠るだけでいいのですが、ハイパーが続いていて、へとへとに疲れてストーンと落ちるときが最も危ないのです。ただし、ストーンと落ちることもなく、やらねばならぬことが続いているときには、規則正しく時間を守らねばならぬので、コミットメントを守る意志が強いときには大丈夫です。箍(たが)が外れるという言い方がありますが、まさしく、その箍が外れるってことが、これまでに何度かありました。今、そのコントロールが難しいなぁと感じているときで、「すべてやめてしまいたいモード」にまで落ちています。「生きることをやめてしまいたいモード」まではまだまだ距離があります。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8C%E6%A5%B5%E6%80%A7%E9%9A%9C%E5%AE%B3 >躁鬱病の解説

http://square.umin.ac.jp/tadafumi/Living_with_bipolar.pdf 患者・家族向けの解説



うがぁ、こうした解説を読むと、さらに自分が鬱陶しくなってくるのがいかん(笑)。笑えているうちはまだいいのだけれども、こうした生き方を選んでこなければならなかったことに対してたいへんにうらめしい。私を健常者だと思ってくれる方々をいかに増やして、社会の中で混ざって生きていくかの闘いだったのだけれども、時々、すべてを放棄したくなってくるのも確か。「すべてをやめてしまいたいモード」のうちは、まだまだ自分との対話はまともなのだけれども、「生きることをやめてしまいたいモード」のときには、気づいてプロと話ができるかどうかに掛かっており、まぁ、危うい綱渡りではあるのだった・・・。

 

私はBipolar IIと呼ばれる、躁状態が多少軽めのものなのですが、それでもこれだけたいへんなのだから、I型の人々の人生というのは、もっともっと壮絶なのだろう・・・。かといって、彼らと比較対象してラクな気分になるわけでもなく、むしろ自分を責める行為に走ってしまうのは、17歳からずっとやってきたことで・・・。基本的に真面目なんだろうなぁ・・・。

 

日曜日、産業カウンセラー講座のなかよしクラスメイトと話しているときには、それほど気づいていなく、かなり冷静に自分のシチュエーションを解説できたのだけれども、それ以来、ものすごく落ちており、元気度合いも減っておらず、この幅がある自分を持て余しつつあり・・・。昨日、八王子に行っても、「黙っていられる自分」と「話したくもないのに話している自分」に気づいてしまい、どうもいかんかった・・・。

 

日ごろ、知性がしっかり保てているときには、私と同様、「違いの幅」がある人々に対しての社会への無理解に対して、何か投げかけていこうという気持ちにもなるのだけれども、どうもここのところ、ひどい感情のジェットコースターなのです。こんなときには、誰とも接しないのがいいのですが、そうも言っていられないコミットメントがいくつかあり、食べてもいかねばならず、それを痛いほどわかっている私は、暴飲してしまうのです。なぜアル中になってしまったのか?というのは、この感情の幅に自分で気づけてしまうキャパを持っていたため、それに気づかなくていい瞬間を増やしたいという一言に尽きるのです。自分が自分だとわかっていない・意識しなくていい時間は、「眠っているときと飲んでいるとき」のみ。他にも、フライトがとてもうまく行っているときのハイや、勉強にやたらと集中できてそれと対峙できているときなど、日々にももたらされるので、私はこうした選択肢を積極的に選んできたのでしょう。が、その日常があまりに固定的になってしまうと、我を忘れる瞬間が減り、自分を冷静にモニターしていることに疲れ果て、他人の顔色をうかがうのにもヘトヘトになり、私が一方的に他人に迷惑を掛けていることに、たいへんな罪悪感を覚えて、遁世したくなるのです。

 

が、自分がとんでもなく無価値な存在だとだけは思っておらず(それがまずく出る場合には、躁鬱病の躁状態を多く持つモノのGrandiose Idea:大げさ・誇張した考え)、そのマイナスを保障するためにも、勉強を続けてきたのです。科学的に立証されている物事・論理性の高い物事に対しての信頼を深めなければ、自分の存在価値すら危うくなってしまうのだから、私はやはり必死だったのです。

 

けれど疲れる。西さんといっしょになったばかりの頃(結婚した年度を覚えておらず、5月だったということしか覚えていないのは、記憶力のいい私にとってはものすごくレアなことなのですが、それくらいどうでもいいことだと思っているのでした・・・)、彼が私の母の存在を知ったときに、「どうしてお母さんのようにオキラクになれないの?」と何度か言っていたのですが、私はそれに対して言葉にできないイラつきを感じ、よく言い合いをしていましたね。おそらく、私は母よりもずっとオキラクになっている瞬間も多々あるのです。が、それを冷静にモニターしている自分がおり、そんな自分が大嫌いになっており、「このままでは弾かれモノだと烙印を押されるだけだから、フツーにフツーに・・・」というプレッシャーに押しつぶされてしまいそうになり、やはりフツーにはできず、「他人様に対しての迷惑が最低限になる場所」に落ち着くことになっていくのでした。

 

笑ってOLにはなれない・母親にはならない選択をした・アル中なんだよね、と言えるようになるまで、数年以上ずつ掛かっており、さらに今でもその選択肢たちに対して、「選ばされた感」というのもゼロではないところがあるのでしょう。ゼロにしたほうが自分がとてもラクなのですけれども、なかなかできないのは、この世には会社勤めをしている人々がたくさんいて、母親になれている人々がたくさんいて、アル中でなくとも人生を楽しく満喫できている人々がたくさんいるからです。

 

とはいえ、私は、いっぺんに3つも4つものことがこなせるし、人様よりもナニをやるにしてもスピードが速いし、記憶力もよく、共感能力も強く、悪くない人生なのです。こうしたときだけに、こうして泣き言を言うんですが、こうした泣き言をこれまでエッセイには盛大に書いてこなかったのです。それは、読み返したときに、自分が嫌いになることをよくわかっていたからなのですが、今回は、書いてしまおうと。嫌いになることを恐れて証拠隠滅していてもしょうがないだろう・・・と思えるようになっています。やはり歳を取って、さらに賢くなったってことなんでしょうかねぇ。同情をいただこうとは思っておらず、私は同情されるのが真っ平御免ですし、誰にも同情をしないようにしています。むしろ、「あるあるぅ」というアルアル感のほうが欲しいのかもしれず、それはマスローのヒトのNeedsの中の「帰属意識」なのかもしれません。私には帰属意識が薄いと思っていますが、それでもいくばくかは欲しいのかもしれず・・・。

 

うひー、ここまでも独白のように躁状態の症状を呈して書き綴っていますが、きっとわかる方にはわかるでしょう・・・。今回は、落ちても「すべてをやめてしまいたいモード」にしかならないので、ご心配をおかけしますが、見守っていてください。とりあえず書くことで、なんとなくカタルシス効果を得たかったというのもありますか・・・。

 

というわけで、私は先週くらいからずっと調子が悪いです。やっと涼しくなってきたというのがCueになったのではないかと思いますね。もう少しかかると思いますが、それほどがんばらずにやっていこうと思います。

生命力の不思議

09/22/2008 にアップした文章です。

 

土曜日は、ものすごい量を飲んでしまい、翌日日曜日の産業カウンセラー講座では、死ぬ一歩手前でした。朝は6時に起きて、母が準備してくれていたお弁当のおかずを詰めて、シャワーを浴びて、「気分悪いなぁ。あれだけ飲んだんだから当然か・・・」と思いつつ、ちゃんと家を8時10分に出発したのです。クラスメイトに新宿駅の総武線ホームで出会い、「今日は二日酔いだから、500mlドリンクを2本」と言いつつ、代々木駅近辺では、100円のドリンク販売機があるので、200円でしっかりと水分補給をするはずだったのでした。が、到着し、授業が始まると、どんどん気分が悪くなってきた・・・。休憩のたびに吐いてしまい、せっかく補給した1リットルも空っぽになり、吐くものがなくなって、胃液まで吐いて、ヘロヘロ状態でランチタイムを迎えたのでした。



身から出た錆なのに、ランチタイムは、匂いだけでもうダメだった・・・。みんながリラックスしてランチをエンジョイしているところを見て、音もうるさく感じて、またもや2回ほど吐いて、合計で5回も吐いたので、顔が真っ青になり、みんなも心配して、「早退する?」とまで言われてしまう始末。カウンセラーとクライアント役を決めて、順番にみんなで実技練習をするのですが、私はクライアントを朝2回目に1回やったのが限界で、あとは、タオルで口を押さえて、「オエッ!」というのを繰り返していたのです(汗)。実技指導の先生たちも、その具合の悪さを見て取り、「実技免除:聴講」になり、ほぼ死んでいたのでした。

 

3人で500mlの焼酎を3本飲んだのですが、女の子は3杯しか飲まなかったので、おそらく私がほぼ2本近くを飲んでおり、当然具合が悪くなるはず・・・(汗)。その前にビールも飲んでおり、ごはんを食べていなかったこともあり(土曜日は忙しいので、食事を取るよりもタバコを吸う時間を確保してしまうのだった・・・)、まぁ、ずいぶん廻ったのではあります。が、ちゃんと12時前くらいには家に帰り、本も読んで眠ったので、それほどのダメージを予測しておらず・・・。現に、朝は「まぁ、こんなものかな」程度の二日酔いでしたしね。

 

そして、午後1時に授業を再開したのち、2時まで本当に具合が悪かったのですが、その休憩時間に、クラスメイト&飲み友達の男性が、私のためにもう1本、お茶を買ってきてくれた♪それを飲み始めたら、時間が経ったこともあり、みるみる具合がよくなってきたのです。午後3時には、笑えるようになっていて、午後4時過ぎには、「もしかすると今日の夕方も飲めるかも」くらいになってきており・・・(笑)。

 

こういう「ゾンビ→復活」を見ていたクラスメイトたちは、呆れもし、その強さに感服し、私の生命力の話になったのです(笑)。うん、やっぱり私は、ありがたいDNAをもらって生まれてきたんだろうなぁ・・・と。

 

いや、そもそも大酒を飲むのをやめなければいけないんですが・・・・。

 

そして、いつものメンバーふたりと3人で、「何も食べてないんだから、何か食べたほうがいいよ」と、またもや町へ(笑)。代々木から雨の中を、お好み焼きやさんを探して、新宿まで歩き、やっと広島風お好み焼きやさんを見つけて、そこで私は烏龍茶を飲んだのです。他のふたりはビール。とん平焼きと広島スペシャルを食べ終わる頃には、すっかり復活し、3人で、生ビールを29杯飲むことになったのでした←私ひとりだけが9杯で、他のふたりは10杯ずつ。いつもよりずっと多い量のごはんを食べた私は、自分の生命力の強さにほとほと感心し、いろいろな話をしつつ、それでも最後には「生命力」をキーワードに〆るのだった(笑)。ちなみに、そのお店で29杯の生ビールが1卓で出たのは、最高記録だそうで(笑)。

 

クラスメイトのお姉さんの長い同棲の末の結婚をすべきか否かの話や、拒食症や躁鬱病や労働年齢層の自殺などの重い話もし、小泉純一郎元首相のどこが嫌いだとか、職場で嫌われている女性の話やら、東京の水商売クラブの質が地域によってどれくらい違うか、客層はどうか、特攻隊知覧基地などという話などもし、すべてを「生命力」「サバイバル」に結び付けていったのだった(笑)。

 

ところがびっくりすることに、ちゃんと辻褄が合うんだなぁ(笑)。

 

生きていさえすれば、願えるし、行動できる。それには、生命力が強いということ、それに対する感謝が大切で、だらだらと他人に依存したり、他人と自分を比較して落ち込んだり、別の考え方を排除したり、他人を下に見て安堵したり、パワーを拡大することに力を費やしている場合ではないのだ、ということ。

 

とは言いつつ、朝から夕方3時まではヘロヘロだったのだから、あまりえらそうなことを言えたもんじゃないんですが・・・(汗)。でも、あの回復度の天国地獄くらいの幅を体験したことで、私は昨日、そして今朝まで、たいへんに気分がよく、連休の谷間である今日は、レッスンもキャンセルされたというのに、けっこう流せるのです。休もうと。この生命力をさらに充実させるための何かをしよう、と思えているのです。

 

英語学校の移転があり、明日は休日ということもあり、水曜日までお休みなので、どこか1泊旅行でもしたほうがよかったのですが、土曜日・日曜日と続けて2組の新規の自宅生徒さんをゲットしたこともあり、気分は上々で、これ以上飲んだり食ったりしたいわけもなく、ちょっとお休みしたいなぁと。さきほど、母の作ってくれたなめこのお味噌汁を飲み、おなかも優しい気分になりました。昨日のビール9杯は、まったく二日酔いになっておらず、どうしたものなのか・・・。

 

生命力が充実するためには、生きていることそのものを祝福する気持ちがなければ、と想っているので、今日は、ダラダラして身体にやさしいことを徹底してやろうと思います。お風呂にマッサージ器に、チーズリゾットだな(笑)。涼しくなったし、台風も1つは通り過ぎたようだし。

 

が、朝から女の子が全裸で心肺停止状態で発見されたニュースや、福岡での6歳の男の子の殺人は母親だったとか、ちょっと気分が悪いこともあったのですが、気を取り直して、今日は徹底的にダラダラしようと思っています。Bluetoothを買ったのにどうしてか接続できない状況なので、それはもう放置して、安いヘッドセットを電気やさんで買ってこようかなとも思っています。いつか生徒さんが繋げてくれると思うので、あるいは西さんが戻って来て繋げてくれると思うので、今日はその安いヘッドセットで、動画を見まくるのもいいかもしれません。

 

ということで、朝っぱらのお風呂に入ってきまーす。

 

私人と公人の分かれ目

09/21/2008 にアップした文章です。

 

ここのところ、私はMixiやらこのブログやら、英語学校設立計画のため、公人としての自分と私人としての自分の分かれ目について考えることがあります。校長センセとのコメントのキャッチボールの中で、校長センセはある程度認めてくださっているのですが、私はみなさまが受けられる印象よりもずっと私的な人間で、頭の中で考えていることのほうが、外に出るもの(Output)よりも数十倍くらいある。考えもなしに、ぽろっと口に出す、ということは、もう英語を話すようになってからなくなりました。子どもではなくなったという社会人としての自覚のほか、英語の構造に助けられた感があります。さらに、私の持病である躁鬱病にはそうした傾向があり、膨大な感受性や入ってくる刺激(情報)をかなり速いスピードで解析して受け止めるという癖がつききってしまったせいなのでしょう。ただ、それをやるのは疲れるのよ・・・(笑)。なので、どうもOutputしたくもなくなるらしい・・・←とんだ言い訳(爆)。



そして、私人と公人の分かれ目というのは、一体どこで引けばいいのか?と、靖国問題なども含めて、素人の私たちのネット使用の量が増えていることも踏まえて考えてみるのだった・・・。

 

私人:公の立場を離れた一個人。

公人:議員や公務員など、公務についている人。その立場で行動や発言をする場合に、私人に対していう。

 

うん、厳密な意味では、私には公人という立場を意識する必要性がないことがわかる。が、『社会性を持った責任ある大人としてのヒトとしての立場』を、ここではあえて、公人と指してみることにします。というか、すでにここで自らハードルを高くしてしまっているのか?(笑)

 

かなり膨大な量のエッセイになっているのですが、この中で私が意識的に間違った情報を出しているだとか、間違っていてのちのちわかったのに訂正していない、ということはないと自負しています。これに関してご指摘をいただいたこともなく、無事に長く続けているのですが、今後ないとは限らないので、私人として書いてきたエッセイであるにせよ、半公人となってしまっている今、ブログ人格というのをかもし出していないこともお伝えしておきます。ブログで書いている私というのは、あくまで私人としての私でしかなく、演出もなければ、女優のような演技もなく、感性のブレはあるにせよ、いつも私の脳から出たものを書いています。時流があって、環境からさまざまな刺激を受けたのち、考え方が多少変わることがあると思われるのですが、それについては、最新のブログを見ていただければまとまっているはずなのです。

 

なので、私は結論という言葉を使わず、いつも「中途結論」としており、生涯を閉じるまで、ゼッタイ!これしかない!というものがあるとは思わずにしようと決めています。そんな中で、はっきりしている自分についての情報については、クドクドと何度も書いており、ちょっと飽きられているのではないか?とすら思え・・・>いかにズボラか、いかに平坦なアクティビティで満足しているか、特に物欲はない、などなど。

 

私は、以前、AOLというプロバイダーの掲示板にメールアドレスを公開していたら、知らないヒトからのメールが山ほど来てしまい、物理的に処理できないような状態に陥ってしまったことがあります。その相談事メールの内容がヘヴィすぎて、心身ともに疲れてしまったので、こうしたネット媒体というのが、いかに公的なものか、そこで学んでしまったのではあります。

 

それでも、私は防衛をしつつも、飽くことなく、懲りもせず、ネットの世界に留まっているのですが、まぁ、これまでのところは、ストーカーの数も一桁ですし、ほどよく対処できています。なので、やはり、役所に勤めていたり、公的なところからお給料をもらっていないにせよ、ヒトが人として活動している限り、ある程度は「公人」という考え方になったのだろうと思うのです。

 

もちろん、すべてをさらけ出して、お財布の中身まで見せるということなどせずに済んでいるわけで(笑)、話している物事に関して選んだ情報ですから、すべてではないことで、私人でいられるオキラクさというのはあるのかもしれません。母の写真や西さんの写真を出すこともせず、私自身の写真を出すことについて考えさせられたので、ここのところ、この私人と公人の差について考えているところなのです。英語学校を運営していくということは、自分の顔や存在やある程度の情報を世間に晒すということで、それについての覚悟があるのか?と、改めて問われてみると、「隠すことなどないにせよ、うっとうしい問い合わせばかりが来るとイヤかもしれない・・・」というのはある(爆)。たいへんなわがままさ加減です。まぁ、芸能人にしろ、自分の写真は出しても、家族の写真を出さない人々はたくさんいるし、それはそれで自分のコントロールで済んでしまうのかもしれません。が、商売を広げるということは、こういうことも発生するんだろうな、と、少し実感しているところなのです。

 

ただ、本来、まともな大人であれば、私人も公人もなく、God is watching usと思いながら、誰に見られていても誇りを持てるような言動を続けていくことが、あったりまえのことなのだろうと思うのです。表裏がなく、誰に対しても差別がなく、場合によってのほころびの繕いがないような、劇的違いがTPOによってブレがない大人のほうが信頼できる。

 

私が中学生や高校生を教えていて、彼女たちから好いてもらえているのは、親ではない気軽さから、かなり本人たちの立場に立って物事が言えるというのがあります。では、姪っ子やもっと長く続いていくであろうヒトに対してと違うことを言うのか?と問われれば、まったく同じであることは確か。というか、変われない(爆)。そもそも、彼女たちにしてみれば、私は私人であり公人であり、その差などはまったくないので、それに対して100%真摯に対応せねば、と思うのです。大人になっている生徒さんに向けても、「英語業界としては、生徒さんに長く通ってもらいたいのが本音なのだろうけれども・・・」とははっきり言うので、いつかクビになるんじゃないかという事実は、引き受けて生きているようなところがあります。だから、自宅で教えているのですけれども(笑)。

 

昨日は、またもや生徒さんと飲んだのですが、前回ご馳走になったので、今回は私が驕ると決めていたのですが、二重にご馳走になってしまいました・・・(汗)。明日はガーナ人のDouglasが日本に就職活動に来ているので、いっしょに遊ぶことになっています。レッスンはひとつあるのですが、Douglasに働いてもらう(笑)。私だけとSpeakingしていてもその信憑性が足りないかもしれないので、彼と話せるかどうか?を見せてもらおうと思っているのです。こうして、私人と公人は、私の場合いつもごっちゃになっているので、これでいいのではないか?とまだ思っているところです。Douglasが日本に来たら、私はNPOを設立しようと思っており、ガーナに介護車を送るための寄付をしてくれるような団体活動をしようと考えています。私がお金持ちになって、それから私の稼ぎの一部を寄付するのもいいことなのでしょうが、そのあいだにも貧しい人々は不利な条件の中、サバイバルしなければいけない。だったら、もうちょっと捻った賢い活動をして、なんとか形にできたら、と思い、彼を看板にして、公活動を本格的にやってみようと思っています。セミナーや講演会で話すのはDouglasで、日本語の部分でヘルプができたらな、と。

 

こうして、大人になってきたので、私人と公人の分かれ目がないような生き方をしていこうと、だんだん考えることができるようになったのは、アメリカに行ったから、と思いたいところなのです(笑)。もしも、ずっと日本に住んでいたら、引っ込んだままで何もしなかったんだろうな、と。デモ行進に参加したことは、本当によかったし、自分だけではなく、他人のために、と少しでも心が砕けるようになったのは、賜物です。

 

戦争で死んでしまった人に対して、敬意を表すことに対して、誰かが誰かを批判するのはどうなのだろうか?といつも思ってきたのですが、それが政治的脅威だと受け止めるのは狭量だなぁと思いつつ、ネズミのように怯えている人々にとってはきっとそういう受け止め方もあるのだろう、と思えるようにはなってきています。そうではなく、他人の揚げ足を取りたい人々には敬意を真摯に伝えればよい、と。私は靖国神社に行きませんけども、心の中ではいつも感謝しています。本当に公人というのはたいへんだなぁと思いつつ、差がない生き方や立ち居振る舞いができますように、と望むのでした。

 

仕事以外のヨロコビ

09/20/2008にアップした文章です。

私の仕事以外のヨロコビというのは、極めて少ないので、やっぱりここでも、中年のおっさんメンタリティが大いに活躍している模様・・・(汗)。ちょっとまとまった時間ができたとしても、普段の生活からあまり逸脱することはなく、まだ仕事のことを考えていたりします。日本に戻ってきてからは仕事一本でいいのですが、アメリカにいたときには、仕事と学生の二足の草鞋な時期もかなり重なっており、メンタリティの中心は学生に置いていたのですが、それでもあまり仕事と変わらず、Things to doやらプランニングやら目標達成やら、と、まぁ、仕事と似ているモードでやりこなしてきたのでした。シュミをたくさん持っている人々を、いまさらながらいいなぁと思うようになってまいりました。なぜに?(笑)

 

昨日、中学3年生の生徒さんのレッスンの最後に、彼女の将来のプランニングについて話をしていたのです。今回、推薦枠で私立の大学付属高校を受けることにしたと、その決意を聞いたあと、彼女が将来ナニになりたいと思ってもいいように、と、いろいろな資格や技術の話をしていたのです。が、彼女はいきなり、「高校生になったら、部活はしたくないんだけど、写真をやってみたい」と言い出し(それほどアーティスティックなことが好きではないと、私が勝手に考えていた)、なんだか彼女もしっかりシュミの世界を若いうちから確立するために、興味のアンテナはしっかり立っているのだなぁ・・・と、いざ自分に置き換えたときに、「なんだかとても虚しいことになっているではないか・・・」と思ったわけなのです(爆)。

 

西さんも写真がシュミなのですが、それについて「いいなぁ」と思ったこともなく、「面倒くさそうなのにいいんだなぁ」と横目で眺めていたのですが、最近なかよくしている女性も、10月にはグループ展を開くのです。そんなことも重なり、仕事以外のヨロコビというのは、きっと必須なんだろうと思うようにはなってきているのです。ところが、私はシュミがない(笑)。

 

これまで長いあいだ、それでいいものだと思ってきたのです。なぜならば、私には「そんなゆとりはなかった」と言えることも、今の私を支えてきた大きな一部であり、そのために今は消え行くかもしれない日本人らしい勤勉さを、今も持ち続けていけるのだと思い込んできた節がある。いやー、間違っていましたねぇ・・・(汗)。よく見て考えてみると、コレ、家庭をなおざりにしてきた中年のおっさんの言い訳とまったく変わりがない(爆)(爆)。もう少し経ってこんなことを口にしようものならば、母も西さんも、「そんなこと誰も頼んでこなかった。自分で自分が楽しいと思うことを見つけてやってくればよかったのに・・・」と冷たく言い放たれてしまうのがオチだということに、今更気づいてしまったというわけなのでした・・・(汗)。

 

まぁ、まだ40代だからいいか・・・と、かなり楽観的なワタクシではありますが、では、ナニがいいのか?と考えると、やる気ないよな・・・。何かに目覚めたよくある小説か映画の主人公のおっさんみたいな気分なのである(自嘲)。

 

頭の中だけでのシミュレーションであれば、難なく苦もなく、プランニングもできるのです。それが何かの目的を持っていればなおさら、強く行動に移せるのです。が、シュミとなるとそういう強さでやると、却って引かれてしまうようなものなのでしょう・・・。

 

改めて考えてみる・・・。

趣味:(1)専門としてではなく、楽しみにすること。余技。ホビー。(2)物のもつ味わい・おもむき。情趣。(3)物の美しさ・おもしろみを鑑賞しうる能力。好み。感覚。センス。

 

うーん、専門はだしになってはいかんのだな・・・。余技ということは、それほどにのめりこんでもいけない。じゃ、やっぱりひとりでできることから始めて、それが少し上達したときに、ネットワーキングで楽しみとして公表するのがいいんだろうか。それとも、イロハから誰かに教わったほうがいいのだろうか。

 

が、楽しみとしてやる対象が、ナニをやったらいいのかも、あまりよくわかっていない(笑)。履歴書に書く趣味欄には、若い頃は本気で、「枝毛きり、耳かき」と書いてしまっていたくらいで、今は中毒的にもなってしまった「映画・読書」と書いているのだけれども、あとは何も書けるようなものがないことは熟知しており、どうしたらいいものか・・・。

 

最近、駅を歩いていて、自分が展覧会のポスターの前で止まることに気づいたので、絵画鑑賞は好きなんだな、と思うのですが、それも東京に絵画が来るまで待ったり、調べ物の数を考えるだけで膨大すぎて、なんだか面倒くさい←結局コレ(爆)。大学に戻って、英語で教養をやり直したときに、Art Historyをやったとき、かなり絵画のひとつひとつやアーティストの名前などを記憶する気もなかったのに憶えたのは、好きだったからなのかもしれない・・・。でも、それを仕事や勉強と同じように、系統化してしまったら、余技となるのかどうか疑問・・・。しかも、あれらの薀蓄を語るようなやつになったら、やっぱりヒトとしておしまいじゃーないかとも思う←ちゃんとソレで食べていけるような実力のある専門家は別としてね。

 

写真は無駄が多いので、私には向いていないのです。今はデジカメがあるから無駄が少なくてよくなってきているのですが、「この一枚!」に出遭うために、何枚も何十枚も何百枚も何千枚も、同じ風景や人物を撮りまくるという行為を、私は「非効率」だと考えてしまうやつなので、最初から話にならないと思うのね・・・。

 

親友は、アクリルペイントを始めた話はいつか書きました。油絵や水彩画などというレベルでもない、幼稚園くらいで止まっている自分の絵の才能を、いつかそれ以上のOutputするやつになれるだろうと思いはするのですが、急かされた気持ちになりがちな私としては(いつも自分が自分を急かしているんですけどもね・・・)、何かを創造するというシュミは無理だろうと。写真と同じような理由で・・・。だから、かろうじて、料理だけはできるようになったと思えるわけです。

 

じゃ、やっぱり健康のことを考えて、運動で探すしかないのかなぁ・・・と、今は思っているところなのですが、特にやりたいことはないのだよなぁ。テニスとスキーはやっていたのですが、日本でやろうと思うと、手間がかかりすぎる(笑)。ここでもまたズボラな面倒くさがりが影響するのであった・・・。テニスコートの予約は面倒だし、スキーも遠いよなぁ・・・、東京からだと。でも、やっぱりこのジャンルがイチバンいいと思うので、家の目の前にあるメガロスの見学に行ってきて、そのあとその種類を決めようかな、と思い始めました。校長センセお勧めの、水泳がいいに決まってはいるのだけれども、なんだか私は、ああいったところの水の質に懐疑心を持っており、それをチェックせずにはいられず(笑)。

 

というわけで、仕事以外のヨロコビを見つけるのはたいへんだ、ということがわかったところで、ダメ出しの多い長いエッセイ休暇明けだなぁと思っているところです(爆)。身から出た錆なんでしょうねぇ・・・・(汗)。とはいえ、物事を客観的に見られる能力はあってよかったよ・・・←それを公の場で拗ねたように言わないで済む立場にいることもよかったと思います(爆)。

日記をつけることは大切?

2020年になりました。良い機会が来ました。もしも日記をつけたいなと思っているのであれば、今がチャンスです。2020という区切りがいいじゃないですか(^^♪

 

私は8歳から27歳まで日記をつけた体験があります。19年間はとても長かったですが、さして休むこともなくかなり続けることができました。では日記をつけることで何がいいことなのか?をご紹介します。脳にいいことをわりと初期にやってきたことは、このあと心理学部に入ってから理解するのですが、本当に私の人生は偶然の賜物が続いた感じです。(・・;)

 

  1. 気持ちの整理ができる

日々何を見て、誰に出遭って、何をして、などその都度感じたことにインパクトがあれば、書き込みすると思うのです。特に感情のモヤモヤなどは書いてみることによって、かなり整理されます。書き落してみると、第3者目線が生まれます。書いているときは、読み直しをするんですね。ですから、少し距離を置いた自分の行動を見つめることができます。

 

  1. 自分をより深く知ることができる

気持ちを整理したあと、さらにそれについての自分の気持ちや考えをエントリーすると、感じ方や考え方の領域が深まってきます。あ、ただ単に悲しいだけじゃなくて、悔しい気持ちも混じっていたんだな、等々、うれしいけど、ここは少しだけネガティブに捉えてたからコントラストが相まってヨロコビが増えた気持ちになったんだな、などなど、自分のUnconsciousnessの領域に入っていたところが表面化してきます。楽しいです。

 

  1. Positive thinkingに寄っていく

イヤなことやつらいイベントがあっても、それに向き合うことで、その整理ができ、さらに自分のことを嫌いになるのはとても耐えられないのがヒトなので、どうにかしてその対策をしようとがんばってみる機会になります。ゆえに、行動に移す勇気がありさえすれば、成功体験が増えていきます。小さいことでもいいのです。成功体験が増えると、ヒトはPositive Thinkingに寄っていくことになります。

 

  1. ストレス発散の場になる

面と向かって友人や同僚や家族に言えないことを日記に書くことで、自分のNegativeの根源が何なのかわかれば、確信的にストレスをぶちまけられます。それでも人間はちゃんと、解決したい!と思うはずなのです。大きく病みに病んでいないことも確認できますし、近しい友人とここまでであれば話し合える!というバロメータも見えてきます。言い方を変えれば、きっと理解してもらえる、という材料が見つかるはずです。

 

  1. アウトプット能力が高くなる

書き続ければ当然自然の流れでアウトプット能力が上がります。喋り言葉だけではなく、文語(です、ます)なども織り込み、さまざまなWriting Styleを意識してみると、いろいろな書き方が「場によって」「相手によって」「タイミングによって」「機会によって」変えることがどんどんできるようになっていきます。こうなると話すのも不得意だと思っていたのが、どんどんラクになっていき、いざとなればすんなりと自分の想いや考えを日記でリハーサルしていたことに気づけるはずです。

 

  1. Self-Esteemが上がる

自己肯定感が上がります。なぜならば、日記を書くことによって自分を客観的に見られる能力がどんどん上がるからです。それでも愛したいという自分の存在の大切さにも気づけ、さまざまな体験を愛でることを日々やり続けることで、自分のことをよく理解し、これはこの程度、これはちょっと苦手などを明らかにしたあと、こうすればできる、こうなればうれしい、などなど、自分の価値を自然とあげていけます。ほんの3行であっても続けることによりこの蓄積は大きなものになります。自己肯定感(Self-Esteem)はどこで誰とどのように生きるにせよ、最も大切な心理的な概念です。

 

  1. さまざまな出来事の記録になる

蛇足ではありますが、職場でのことをしっかり金額や時期まで記録につけることによって、後日、証拠となります。あるいは離婚(これはないほうがいいけど)などにも証拠になりますしね。もっとすごいのは、自分が死んだあと、お子さんやお孫さんが手に取って読むことにより、彼らの心の中に強く生き続けることができるようになるかもしれません。若かった頃の自分から死ぬまでの在り方を、自分の子どもや孫が感じることができるなんてすばらしい(^^♪



いいことだらけですよね?脳をしっかり保つためにも、日記いいですよ(^^♪ 私は仕事でBlog記事やテキスト、Instagramの準備などがありすぎて、記録はたくさんあって、ひとまとめにするのは、再度学生を開始してからでもいいかなと思っています(笑)。

 

誰がトップに立つかでこの世は変わるか?

09/19/2008にアップした文章です。

私が大好きなVince FlynnのMitch Rappシリーズの大統領が変わったことで、物語がどういう方向になるのかなぁ・・・と、とてもとても心配していたのです。シリーズは、全部で8冊。10月には9冊目が出ます。もちろん手に入るものはすべて読んでしまいました。大統領選の最中に1冊、その後の1冊、主人公と彼を取り巻く環境で、もちろん大統領近辺だから激しい、世界情勢を巻き込む、パワーを駆使する、というドラマはあるのですが、主人公のMitch Rappの考え方や行動規範などに変わりはありませんでした。私がMitch Rappを好きな理由のひとつは、自分に大いなる影響を与える「縄張り」についてのセンスもあるのだ、と改めて思ったのです。

 

日本では、自民党の総裁選のためのキャンペーンが、日本各地で、これまでにないほどの数で展開されていますが、ニュースは取上げているものの、人々の熱意はそれほど伝わってこない・・・。それは大統領選のようなものすごいキャンペーンを何度も見てきて、投票権もないのに参加した気になっていた日々のことを振り返ると、とても淋しいことだなぁと思うのです。これは、私の「縄張りセンス」なのでしょうか?私は、一体どこの縄張りの中のいかほどくらいの空間を保てているのか?と考えてみると、なんだか仮想空間であっても、ドキドキです(笑)。

 

私がMitch Rappシリーズから学んだことがあまりに大きかったので、高校生3年生の卒業および大学の入学を待って、まだまだ英語の勉強をしている女の子の読み物を、Mitch Rappシリーズにしてしまいました(笑)。彼女のAgreementをもちろん取ったあとです。彼女も、中央集権制度と地方分権制度の決定的な違いをあまり意識せずに、アメリカの政治を見ていたようで、連邦と州の違いを説明してから、CIAはどこに位置しているのかを説明し、ついでに、Terrorism 101 レッスンをしました。宗教の大雑把な区分けとその思想。および、歴史がイスラム教に与えてきた影響とそれに関わってきた諸国について。英語の講師なのにどうして?と言われても・・・(笑)。彼女は留学を目指しているのでいいのです。もっとスケールの大きな世界というのを、ぜひ知っておいてほしいと思うのです。彼女は読むのが遅いというのが悩みなのですが、自分で決めた目標は、リーズナブルに1日40ページ。2週間でペーパーバックが1冊終わる予定なので、Mitch Rappシリーズの8冊は、4ヶ月弱で終わることになります。年内に終わらないようであれば、旅行にも持参してもらうまでです(笑)。

 

さらに、Tom Clancyのような存在であり、Political Thrillerというジャンルが今はおもしろいのだ、ということを解説したあと、彼女は未知の世界を読み始めました。以前、大学の面接用に、『世界紛争地図』は読んだはずなのですが、表面をかすっただけのような知識しかない、と自分で断言していましたし。

 

ちなみに、彼女のTOEICは高校3年夏受験の時点で、750です。来年2月に卒業するまでには、900点を取ってもらおうと思っており、TOEFLも90-105のターゲットに到達してもらおうと思っています。昨日から、週3回で、グラマーの基礎から開始しました。抜けているところがすでにポロポロあり、よく750点取れたなぁ、苦労して取ったよなぁ、と感慨深いものがあります。

 

さて、このタイトルの答えですが、私はこの性格がゆえに、Noと答えたいのです。誰がトップに立っても、その人材がよほど偉大でない限り、この世が大きくよく変わることはないのだろうと。自分が正しいと思って続けてきたことが続けられないような事態になると困るので、Noと答えたいのでしょう。Thomas Jefferson級、Gandhi級の人がトップに立てば変わるのかもしれない・・・。が、日本での逸材は、私はまだ表面に出ているのを見ていない、とみなしています。そもそも、逸材は政治を選ばないのかもしれず・・・。戦乱の世であれば、政治を選んだかもしれませんが、世襲制がずっと続いていれば政治を選べたかもしれませんが、これだけ制限がなくなった世の中で、逸材は政治以外のものを選んでしまっているのかもしれません。がゆえに、野口英世や北里柴三郎が獲れなかった日本人ノーベル賞受賞者も、以来、10数人にも上ってきているのかもしれません(まぁ、ひとりだけ政治家はいますが・・・)。

 

西郷隆盛が言ったといわれる『焦土の中からしか新しい日本は生まれない』という考え方に、私はかなり同調しているところがあり、「屋台骨が行くところまで行かない限り、誰もシリアスにはならず、小さい変化の積み重ねしかもたらされない」と、どこかで諦めてしまっているようなところがあります。女性総理大臣が日本国に生まれるのは、いつのことなのか、考えるのも少し億劫です。黒人大統領がアメリカで生まれることも、実際は懐疑的なのです。

 

そうしたことがあれば、日本もアメリカも、他のどこの世界も変わっていくのかもしれず、それが未来にポジティブな影響をもたらすものになるかもしれません。実際は、誰がトップに立つのか、よりも、経済が安定し、ゆるやかに発展し、人々の生活にゆとりが生まれなければ、全体がよくなるとは思えず・・・。だからこそ、中途半端な状態で、Me! Me! と、個人主義を輸入したかのような利己主義が発達していくわけです。なので、せっかくの権威を持ったトップ層にいる人々も、実際は、権威を理想的に使うことも少なく、権力を行使したり、忙しさにかまけて手付かずな問題を次世代に山積で残したり、どんどん変化していくさまざまな分野の大きな図柄が見る能力も研ぎ澄まさず、結局は、「我が家」での行動とさして変わりないようなことだけして、終わってしまうのだろうと思うのです。

 

うーん、とはいえ、私はシニカルすぎるのかなぁ・・・。これほど政治に期待しないやつというのは、かなりな罰あたりなんだろうか?私は幼い頃に、社会党一本やりで支持していた父親がTVや新聞に向って罵声を飛ばしつつ暮らしているのを見てきており、どうも、きっとその影響で、政治にはやはり何も期待しないのかもしれません。とはいえ、春闘でデモ行進をしたり、技術を身につけてきた父が完全に諦めていたわけではないことも知っていますが、それでも私は父に輪をかけて他力を信じていないような節があります。

 

とりあえず、今日も考えたのですが、インドやパキスタンやラオスなどにはひとりでバックパッキングなんかには行かない。なぜならば、私は土地の人たちに期待をしていないし、自分にその能力がないということを知っているから。伝染病に対抗するような、水に慣れるような、犯罪に目がしっかり行き届くような、身体や能力など持っていないことを知っているので、他人様にご迷惑を掛けるだけになると思うので、行くのであれば、遠巻きに生活を見られるように、であれば行くという程度で、特に行こうとは思っていないのです。それよりも、今の日本の暮らしにゆとりを持たすことのほうが最優先で・・・。が、その折にも、誰がトップに立つかで、よりよく変わるなどという甘い期待は抱いておらず・・・。

 

非常に現実的で、夢がないのか・・・。Bush vs. Gore選のときには、胸にバッヂこそはつけなかったものの、当然、Gore氏がなると強く信じていたのに、あんな結果になり、しかも2期もやって、今度はこのような大統領選の展開になっており、日本に戻れば、総理は2人も続けて1年続かないという体たらく。信じろ!と言われたほうが、なんだか開いた口がふさがらなくなる感じなんだろうと思います。

 

誰がトップに立つかで変わる世の中であってほしいのですが、それにはあまりにこの世は複雑になりすぎたような気がします。どうでしょう?

オリンピックまでに少しでも話せるようになる?

どの程度意識を変えるか、日本語をどのように扱ってきたか、コミュニケーションスキルがどのくらい高いか、時間の使い方が上手かどうか、などによって結果や加速度は変わりますが、当然、8か月か9か月くらいで、相当英語は話せるようになります。

 

昨日も生徒さんとつくづく話をしたのですが(笑)、

  • 本当に自分で最初は感動するくらいいろいろ理解した
  • 気づくとかなり聴けていてびっくりする
  • チンプンカンプンだったことが当たり前になってきた

など、振り返ってみると、かなり成長している自分は意識できるとのことで、こうなるともっと将来的なことを考えたくなるのが道理!

 

私見にはなってしまうのですが、多くの英語スクールのListeningの仕方については、あまり研究が為されていないまま、とにかく「多聴」することのみを薦めたり、Nativesとの英会話の中で聴けるようになるとしたり、多くの独学者はTOEICや英検のCDを聴いたり、ポッドキャストやyoutube などで鍛えていると思うのです。

 

んー、その遠い道のりは何なのだ?を、Precious One English School はむしろソコをびっくりするのです。

 

あるひとりの生徒さんが2か月前ほど、「聴いているCDの声がすでに脳内でけっこう再生されるようになった」と言ってました。その後、自分の脳内で英語を話している相手がそのCDのナレーターの声なのだとか(笑)。Readingしているときにその声が登場することが多いそうなのです。彼女はまだ3か月くらいしか学んでいないのですが、確実にオリンピックまでには話せるようになっちゃいますし、心穏やかに文化の違いへの細やかな注意を向けられるようになっちゃうことは必至です。

 

個人差が本当に大きいです。

 

とはいえ、それを本気で自分のために採り入れるかどうか?の2択しかなく、やるーやらない、を自然に負荷なく毎日に採り入れて、脳内での時間をどのように使うか?により、「少し」どころか「たくさん」話せるようになる方々は実在します。

 

たとえば私の経験でも、USに渡った当時は、脳内ほぼ100%に限りなく近く日本語です。徐々に脳内で英語が浸潤してきて、それが目の前にあることや相手により、自然選択をするようになってきて、8か月後にはもう航空専門学校にて、ヘリコプターに乗れるだけの英語は聴けて話せていました。

 

ちょっと失礼

ごめん、教えて

こうだったら助かる、ありがとう

これが欲しいんだけど、量・数は変えられる?

感動的っ!

 

などなどが話せるようになるまでには、3か月かかっていないと思います。

 

ただ、心の向きなんですね。何が話したいことなのか?それがわかっていれば、次々と話せるようになるんだけれども、テキストや当たり前の日常生活のフレーズやセンテンスを求めているばかりでは、まったく話せるようにはならぬのですよ。

 

その「少しでも話せるようになりたい」は、一体何?あなたが日常的に誰かに伝えていることは、理解されたいことは?そこから始めない限り、定型文を英語化したものだけが残るはず。

 

しかもそのためには、Listeningができなければ、会話は続いていかないので、その重要性をどのくらい理解しているかで、旅の速度は変わってきます。

 

Precious One English School の多くの生徒さんのように、「気づいたらこんなにできるようになっていた」をぜひとも体験してみてください(^^♪ 

プレッシャーが減った日々

09/18/2008にアップした文章です。

長いあいだ休んでしまいました。せいせいしたような気持ちと、やっと指が治って書けるという気持ちと混ざり合っているところです。実は、エッセイはいつまで書こうかなぁと、つい3ヶ月くらい前から考えていたのです。自分の日本語のためには、もうそろそろ帰国2年も経ったことだし、充分なのではないか?と考えてもいたし、お題が出てこなくなるというのがつらかった。それに、仕事も自宅レッスンを増やすことにして、いずれは駅前に英語学校を出せるように、という具体的な目標や道のりもできてきたので、さらにMixiを進められて、そちらにもトピックをつくり、いろいろ運営せねばならないようでもあるので、なんとなく、1日でも長く休めればな、などとも思っていたのです。書き始めてしまうと、短ければ30分以内、長くて何かをやりながらでも1時間で終わってしまうのだから、やり続けてみればいいのですが、どうも最近、気乗りがしなかったのは、安定した暮らしになればなるほど、好奇心旺盛な私であっても(笑)、どうもお題が浮かんでこないのでした。どうやら、私のプレッシャーはお題らしい(汗)。



今日も、朝から企業研修先に行くのに、朝の満員電車に乗ったので、お題になる題材はけっこうたくさんあったのです。その観察記を綴ってみるだけでも1本になるというのに、私はどうやら、Counter-culture shockを超えてしまったようで、ある程度Blend-inできてしまっているのですね。今日は、教材になっているTOEICの英語だけの教本を自分でやりこなして電車に乗ることに終始してしまったのです。しかも、電車の乗車時間というのは、自分で測らなくとも乗換え案内などで所要時間があとからわかるので、だいたいの参考になる、というおまけがついているわけです。が、帰りはそうでもなく、すでに「今日からだぁ。ナニを書こうかなぁ・・・」と考えていて、今日1日の組み立てのほかにやはり考えることができてしまったのですね(笑)。

 

帰国してからこれまでは、お題に困ることはあったにせよ、それほどのプレッシャーにはなっていなかったのです。それほどにお題を探すことが苦痛であることが「習慣化」してしまったという意識はなかったからです。生徒さんが変わればヒントがあり、どんな物事でもかなり新鮮な気持ちでやれていたのですが、Blend-inができるようになればなるほど、安定はして動きはラクになるのですが、心のほうは石灰化する部分が増えていくのでしょう。それに気づいてしまったことで、ここのところ、とても憂鬱だったのかもしれず・・・。

 

校長センセは、お休みすればリフレッシュしてお題も出てくることでしょう、と励ましてくださいましたが、どうなんでしょうね?今、書きたいことはいくつか貯まりましたが、毎日コレが続くかどうかは、とても自信が持てず。

 

私は、また日本人に戻るのがきっととてもイヤなのです。もちろん、100%、渡米前の私やそうではない日本社会色が多い私になるわけなどないにしろ、まだまだ抵抗していたいところがあり、ラクな「廻りに倣え」をしたくないと考えているのに、どうしてなのか、言動が徐々に特化された「おかしいんじゃない?」「変だよね・・・」というところがなくなってきたところを、なぜかとても淋しく感じているようです。

 

うーん、この矛盾(笑)。

 

最初の半年は、外にあまり出ることすらできず、その後はおそるおそるだった日本社会。この1年は、少しずつ変化していくいろいろをドキドキしつつも受け容れて、自分なりに咀嚼してきて、そしてそれにも慣れた今、やはりどこかで「流されている感」が出てきているんですねぇ。

 

ニュースがまずそうだ・・・。私の1日は、朝起きてネコに挨拶をし、ゴミだしに出ていなければ母に挨拶をし、コーヒーを入れてPCに電源を入れて、飲みながらタバコを吸うところから始まります。メールを先にチェックして、ニュースを読みながら返事をサクサク書いていく。そのニュースに、2年前はたいへんな「違和感」を覚えていたのですが、今、気づくと、その違和感がものすごく減っていて、流せている(笑)。「またかよ・・・」とすら口に出して言ってしまうくらいで、まずいような気がする。が、順応しているような気もする。

 

どうなんだろうか?ここで怒りや矛盾点の追求やその他、2年前通りにやっていたら、2年前からこれまでのように、体力や脳のためのエネルギーを消耗するのだろうけれども、心はすっきりなんじゃないだろうか?とも思うのです。ぐったりしていたのも、子どもの頃、外で朝から晩まで全力で遊んだような「やったぁ!感」があって、それはそれで、なぜだか妙になつかしい気もするのです。

 

かと言って、今、日々に手抜きをしているわけでもなく、褒めてやりたいくらいがんばっているとすら思うんですけどもねぇ・・・。けれども、それは日本人モードでがんばっている重きが強いのかなぁとも思うのです。昨日から、昼間のレッスンが増えて、自宅でのレッスンで、未来が∞(無限大)の女の子のアメリカ留学に向けてのプランニングをしていた最中、走馬灯のように自分の以前というのが湧きあがってきてしまい、彼女が、「同じ努力をするならば、報われるところでやりたいから」という言葉に、なんだか打たれた・・・。私もそう思っていたのだし、今回帰国したときにも、「イヤだな」と思う気持ちは拭えなかったわけです。

 

ただし、アメリカに住んでいたときとは違い、西さんの経済的援助の割合が減り、この働いている状態は好きなのです。文句もないし、目標もまたもや明確化しており、がんばる意志は強いんですが・・・。

 

が、「流されている感」はやはり大きいし、「これ以上やったら複雑で疲れるなぁ」と考えてしまっている自分に気づくと、横繋がりを敢えて延長しないように、コードを足さないことにしている自分に気づく。まぁ、これは渡米前の自分ができなかったことなので、賢くなったってことなんでしょうけれども・・・(汗)。

 

が、ニュースでいつもお題を探していた、あまり悩みのない私にとっては(このせいで、産業カウンセラー講座の実技演習で、クラスメイトのみなさんにご迷惑を掛けている。歴然とした悩みではないので、カウンセラー役をやる方々は、私の話に模範的なカリキュラムが要求しているような応答ができないのです・・・汗)、それらに関して無関心度を高くするのは、どうもやっぱり違うのかなぁと。

 

が、ブログは書き続けたほうがいいのだろうから、お題が考え付かないのは、知的好奇心や矛盾に対する怒りや苛立ちなどが減ったってことなのかなぁ・・・などと感じてしまい、書かないあいだ、プレッシャーは減っていました。適度なプレッシャーは必要なので、しばらくはやはりブログは続けることにします。理想としては、英語学校が早く設立できて、そっちのブログを書くために、個人的なブログが合併吸収されることなのですけれども・・・(苦笑)。

 

とはいえ、少し視点が「慣れ」に潰されてしまいそうなことに気づいた今、これについても何とかしないといけませんなぁ・・・(汗)。今度はコレもプレッシャーに加わるんだろうな(笑)。