貧しい国のことを本当に考えたことがあるか?

05/06/2008 にアップした文章です。

 

貧しい国が本当にどこまで貧しいのか?ということは、同い年のほかのヒトたちよりは、私は近い場所に位置していると思います。さらに、アメリカに渡ったことにより、ホームレスが身近になったり、覚せい剤用の注射針を配るような市のゲンジツを見たこともあり、もっと貧しさの本質には、触れてきたように思います。日本の今の貧しさのゲンジツというのは、どこから来ているのか?というのも、少しずつわかってきたような気がしています。今日、『あいのり』を見ていたのですが、ちょうど場所がGhanaでした。そうか、多くの日本人はこんなことも知らなかったのか・・・と、コメントをしていた3人の芸能人を見ていて思ったのでした。

 

私の心友と呼べるひとりは、Ghana人で、今はアメリカの国立研究所で生理学の研究員をしているMDとPhDを持っている医者でもあります。彼のことは以前書きましたが、彼から映像になるような過酷さを、山ほど聞かされており、実際に、障害者のケアをするアルバイトをしていた彼に連れられて、私もお風呂に入れるのを手伝ったり、皿洗いをしたり、冷蔵庫の整理をするお手伝いをしたものです。毎月、彼は、そのアルバイトで稼いだお金を50ドル札に替えて、カセットテープの中のテープの中に入れ込むのですね。そして、それを仕送りとして送る。彼の実家は、二番めに大きな都市であるKumasiというところですが、しかも病院を経営しているのですが、それでも毎月50ドルという金額は、ものすごい効力があります。

 

毎月、里親をやっている方々や寄付をしている方々はご存知だろうと思うのですが(たくさんのサイトがありますが、これがイチバンに出てきました)

http://www.worldvision.jp/children/?banner_id=ggl-sav&gclid=CJ_zv7HWkJMCFQJugwod2B7ghQ 、ワクチン注射は、種類はいろいろですが、1種の場合、わずか1ドル程度で賄えます。50ドルでは、40人もの子どもたちが救えることになります。どこかのサイトで、「根本的な解決ではないのだから、どうしてワクチンを打って満足しているのか?」という提議がありましたが、その通り。根本的な解決ではないですが、「生き延びて明日に繋げる」というのが、それほど悪いことなのだろうか?とは思えます。そうおっしゃる方々は、自分や愛する人の命乞いはゼッタイにしないのだろうか?と。

 

ところが、このような寄付サイトに対して、まだまだ信用ならぬ気持ちを持ってしまうのも納得はできます。だって・・・、絶対的信頼を寄せていて身の保障が成り立つという国に対しての不信感を持たねばならぬほどの、いろいろな事件が露呈しており、公共機関だからと言って、財団法人だからと言って、どうやって信頼できるのだ?という疑問には、「確かにそうです」としか言えません。私もそんなひとりなので、団体で本気でやっている方々の熱意を否定するものではないのですが、途中で現金が流れていき、きちんと子どもたちや地元の人々に届かない事情などを見ており、それならば、できることをDouglas(Ghana人の友)を通じてやったほうがいいや、と思えてしまうわけです。

 

もちろんそうなると、アフリカの中の選民主義に少し片棒を担いでいるような気がしないでもないのですが(どうしてその場所がガーナで、スワジーランドやタンザニアではないのか?と問われたときに、何も反論ができない・・・)、私が何百万というお金を今後寄付したとしても、まんべんなくなど行くわけもないので、これはもう片目を瞑るしかないわけです。

 

厳しい気候の中で、アフリカはそれなりにやってきていたはずでしたが、この300年ほど、産業革命前後から、強国からの干渉を受け続け、結局、貧乏くじを引き続け、今に至っています。いつまでもそうは行かないことは、中国やインドなどが、身を以って示してくれているように、アフリカにも大いなる未来があることは示唆されています。ところが、これまでの300年ほどを自由に操作してきたマインドたちの名残は、今もしっかり受け継がれており、表面的には人道的(Humanistic)に見せながら、できる限りの自分たちの利益を続けていきたいというパワーゲームは続いています。

 

キーワードは、植民地主義で、昨今ではグローバルエコノミーとかっこよく表現されていますが、結局、していることは同じようなことで、しかも進化しているから始末に負えない…。ここに本当にヒトにとっての公平が機能してきたのか?は疑問です。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8D%E6%B0%91%E5%9C%B0%E4%B8%BB%E7%BE%A9 >植民地主義

http://en.wikipedia.org/wiki/Global_economy>英語版 グローバルエコノミー

不思議と日本語Wikiには説明がありません。

 

総括的な説明をしているサイトを探してみたのですが、これくらいがいいのかなぁ・・・。

http://www.psi-jc.jp/focus/2002_02/02.htm>アフリカ問題のいくつかを取上げつつ、ざらっと問題点を解説しているサイト。

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/ac/kyomu/koudai/kikaku/kensho04/kensho_j/2002/ronbun10.html >こんなステキな論文を書いた高校3年生はしっかり実在する。うれしい♪

 

自分にできることは何なのか?と考えると、私が日本人としてできることは、しかもアメリカに住んだ時間が長い日本人としてできることは、「鈍化したままで流されず、質素な暮らしを続けていくこと」が、まず第一義だと思っているのです。たまの贅沢はご褒美として許すとしても、日々は質素に当たり前にフツーに暮していくこと。お惣菜やさんも使わないし、大根の葉っぱも捨てないし、流行モノに流されない。時期をズラせば安価になるものを追求して買う(私は消耗品しか買わないんだけどさ・・・汗)。おまけにごはんは残さない。だから太るのだろうけれども、それは美徳のひとつと思ってがんばろう(笑)。母はタッパーに入れて残り物はしっかり最後まで食べるのですが、最近、入れたタッパーの存在を忘れることがあるので、要注意だ(爆)。

 

さらに、声を上げていけるためのリサーチや事実関係を調べる能力を身につけて、折にふれ考えることも忘れない。でなければ、到底、いざというときが来たときに行動に移せるほどの思い入れが育つわけもなく・・・。

 

ガーナと言えばカカオなのに、チョコレートを口にしたことがある人などほとんどいないのだ、ということは、想像してもわからないことなのだろうか?うん、わからないことなのであれば、まずは態度として、「自分の常識は世界のどこにでも当てはめられることではない」という謙虚な気持ちを持てるようになることが大切です。そうすれば、調べる気持ちにもなり、オドロキに対して繊細になり、他人に関して無関心ではなくなり、自分が世界の中心に居ないこともわかってくるはず。それでも自分を大切にして、他人も自分と同じように大切にしたいなぁと思えるはず。

 

私は貧しく育ったので、これらのことを考える素養があったし、生活レベルをうんと上げて暮して安心できない性質であるのですが、他人を押しのけてまで何かを所有することや、他人を貶めてまで自分が優位に立つことに、少し以上に快感を持つようなところは、カケラもありません>やってやった!と、それらの人々に気づかせたときは、ちょっと気持ちいいんだよなぁ・・・。いかんなぁ。マザーテレサやダライラマからはほどと遠いよ・・・(汗)。

 

誰かにまとめて、貧しい国についてどうしたらいいのか?ということを、胸を張って言えますか?GWで飽食したかもしれないあとに、ずいぶんシリアスなお題だったかなぁ・・・。

 

英語学習のゴールは?

私自身、英語を話すようになってから30年以上が経ちますが、日本語と同じように終わりがないことは実感しています。ただ、日本人で日本語しか話せない人も、「もっと日本語使いには上には上がある。常に学びが必要だ」と思いながら暮らしている人はごく少なく、ある局面において感じる程度なのだろうと思います。ありがたいことに英語を教えていると、たまに難易度が高い語彙に出遭ったり、教え方の工夫が必要!という場面を強制されたりしますので、学びがいつまでも続いていくのはひしひしと実感できるのです。この商売はそうした意味でもとってもすごいのです。しかも罷り成りにも食べてはいけているわけですしね。すごいです。

 

学びは生涯続くのだ、というのは、英語基礎コースにて、何回もくどいほどご紹介していますが、生徒さんに1-2年で英語スクールに通っていただくのを卒業するための中ゴールもご紹介しているのです。

 

  • 自分がすべてを知らないこと、簡単に結論を結論としないこと→自分を知り続け、自分で深く考える
  • 独学の準備ができている;時間の確保、意識の向上、調べもののスキル向上
  • 自分なりのさまざまな価値観に対する世界観を持っている
  • 日本語力も上げなければ英語はそれ以上にはならないことを知っていて怠らない
  • 生涯英語を使うことを意識する
  • 感情や考え方も伝えられることを言語コミュニケーションとする

などなど、いろいろなことを条件に出していきます。

 

特に心理レッスンをしていることでその「準備完了」のハードルは少し高めになり、英語だけではなく、他の分野を学ぶときにも生かしていただけるようにと「学習法」「脳の使い方」に注力しているのです。

 

ゆえに、基礎コースが終わったあと、ESLを継続する中で、他の分野の何か新しいことや、昔やっていたことを再開してもらう、というススメもあります。それらに「学んだこと」を加えると、どの程度の速習ができるのか、効果が短い時間で上がるのか、を確かめてもらいたいからです。

 

実際、私にもゴールはなく、学びは死ぬまで続きます。英語に関しても「うわぁ!まだまだここが残っていた!」というのもたくさんありますし、誰かに何かをしっかり伝える方法などは、相手が変わったり、時代や場合が変わったりするとものすごいレパートリーの数になっていくわけです。それらを忘れないようにしたり、メモやまとめにしたり、というのも取捨選択ですし、常に「最善・最良の選択」ができるようになるために、その準備ができて、独学ができれば、とりあえず英語学習を外で通ってやる、コミットしてある程度集中してやる、という時期は終わります。生活の中に完全に英語が溶け込み、母語でできることをどんどん増やしていき、それらも英語でできるようになり、という積み重ねが生きていくということです。そのために英語をそもそも使っていただけるように、Precious One English Schoolは背中を押していきます。

 

「海外旅行で困らないくらい」という手前の英語を、そもそも目指さないでください。脳のためにも、生きていくことそのもののためにも、人生が変わらなければ英語を修得する意味はないです。

 

 

思ったことをすぐに口に出す人の特徴は?

思ったことをすぐ口に出す、というのをもう少ししっかり定義しないといけませんよね・・・。「考えなしに」「誰彼かまわず」「場に合わないのに」「タイミングズレで」というネガティブなものと、「率直に」「ここぞという時に」「向き合って」「考えたものをしっかり」という場合では、天地ほどの差が出てしまいます。

 

多くの場合、前者に対する不愉快が募ってしまうので、ネガティブに使われがちですが、心理学の概念では、Self-Disclosure:自己開示、という意味では、意図的であれ意図的でなかれ、自分に関することや思ったことを率直に言えることは「よし」とされています。そのトライアル&エラーがない限り、コミュニケーションスキルは上がらないため、やらないよりはやったほうがマシ、という意味があります。

 

さらに、この自己開示には、「返報性」という重要な側面があり、聴いた相手は、同じくらいの質や量の「自己開示」をしてくれるといういいオマケがついてくるのです。

 

ただ問題がいくつかあります。日本人の多くは「平均」「基準」から大きくズレないように心掛ける傾向があり、

  1. 思っていること、話し手の自分に関する解析が、非常に平均的・基準からズレていると受け手が不愉快になる。あるいは嵌っていると「本音」ではないのではないか?という疑いが湧く
  2. 質よりも量に偏って話す場合に、50-50の法則が破られ、一方的になりがち
  3. トレーニング中の人は、相手の想いや立場や距離感を考えることなく、天衣無縫に話してしまうことがあり、受け手が攻撃的に感じてしまう
  4. トレーニング中の人で、自信がない場合は、自己開示の量が少なく、質も相手とのズレが多くなってしまう傾向に陥る

 

など、いくつかすぐに考え付きます。

 

では、これらができない人たちはどういう人なのか?

 

Self-Esteem:自己肯定感が低いため、どうしても自分の主張や意見、考え方を相手に否定されたくないため、相手の意見が通らないように阻止するわけです。過大評価している場合にはとても口数が多いことでしょうし、考えナシに自分の考えを展開する傾向はありますね。そしてかなり一方的にすぐに畳みかけられている気がしてしまいます。過小評価している場合も同じようなもので、ただし内容が、自己弁護:Self-justification:自己正当化に走る傾向があり、そのため、内容はやはり反対意見や違う意見を否定していくことになり、自分の考えや意見が正しいと主張し続けることになります。

 

ゆえに、思ったことをすぐに口に出している印象になるわけです。考えている層はもっと深くできますから、自分の視野を広げて、さまざまな考え方を入れ、その本質や論理を考えてみる時間を作ってみることが肝心ですね。

 

そういう人がそばにいるとしたならば、「ちょっと考えさせて」と回避です(笑)。

 

 

自己理解の希薄

05/05/2008 にアップした文章です。

 

自分を水溶液にたとえるのは、たいへんに難しいかもしれませんが、実際、やってみるととても参考になるので、やってみるといいと思えるのです。ヒトの脳は、もうそれだけで小宇宙になっているので、それをフルに意識して、使ってみようという意志や動機付けができていないことだけで、私などは「ひぇぇ、もったいない!」と思うのですが、この観点からいくと、ヒトというのは、実際はとても濃い水溶液になれる可能性があるにも拘らず、どこかでダムを自分で作っているわけです。水溶液を想像する際には、小学校の実験のときに使ったビーカーがわかりやすいと思うんですが(好きだったらフラスコでもなんでもいいんですが・・・)、そこにいくつかの敷居・仕切りのようなものを、どこかで持ってしまったというのがあり、その敷居や仕切りの開閉システムが、もしも自分でコントロールできるようなものであれば、とてもとてもいいのですが、ヒトも所詮、生命体の1個の種類でしかなく、コントロールせずに、自然の摂理に任せて、ただただ浸透圧などに頼っている人は多く実在しています。

 

うーん、ここまで考えると、本当にヒトというのは各種の液体を使って、人体というものを維持しているので、あながち悪いアナロジーでもないじゃん、とにやついてきています(笑)。

 

ヒトの欲望はかなり本能的で、それをいくら理性で自分では抑えているつもりでも、実際は名残っており、私も日々、「怠けたい」という欲と闘っています。その達成のために、多忙を続けて、一気に憂いなく休む、というスタイルが好きになったのは、「ダラダラといつまでも休んでいられないヒト社会での大人のポジション」を理解してしまったせいです。

 

お金に何の不自由もなければ、本当に子どもの頃のように、毎日学校に行き、スポーツをし、健康にはそれほど不安もないように暮して、定期健康診断を欠かさず、おいしいものを食べて、たっぷり眠って暮したい、というのが、私の希望ですが、実際はそんな暮らしは、みんなにできるものではないわけです。私の場合、特にあちこちに旅行したいわけでもなく、モノが欲しいわけでもなく、車も家も合理性の上に成り立っており、高級なものが好きではない貧乏な口ですしね・・・。楽しみは、映画と読書とアイスホッケーですから、アイスホッケー観戦にはお金が多少かかりますけども・・・。いや、でも、こんな暮らしを労働なしでできるわけもないので、やはりがっちり一気に稼いでみたいというのは、大きな目標ですねぇ。贅沢に暮したいなどという大望はなく、ただただ、ずっと学校に行ってフツーに暮したい。それがフツーではないと言い切るのは、学びというものの考え方の違いだとは思うのですね。

 

うん、こう考えると、私の目標というのは至極全うなものなんだなぁ・・・←かなりいまさら(爆)。

 

自分を理解しているがために、これまで一度たりともOLになったことがなく、帰国してからも通訳・翻訳の仕事ではなく、英語講師を選んだのですが、これも1年半を振り返ると、正解だったなぁと。Interpersonal Relationshipの近い人々に関しては、それほど大きな失敗があるわけではないのですが、距離感との関係で、人付き合いがうまく行かなくなる原因もわかっており、やはりいろいろな人が集まる会社などで、同じ目標に向っていくことが、私個人としてはできるとわかっていても、他の複数の人間が、サブ目標を作ってくれていたり、こうでなければならぬをたくさん押し付けてきたりすると、とてもじゃないがやっていけなくなる。私が譲らないところが全面的に悪いと、幼い頃は思っていたところもあるのですが(いや、渡米するまでフルに感じていたんだろうなぁ・・・)、今では、大勢の人の歪みやズレを変える努力をむやみにすることは、私のような微力な人間には到底できないことは感じており、そこにそもそも行かないということで、終結してしまっています。

 

企業の基本的存在意義および目標は、市場主義の下、営利を得ることが第一目的で、それを社会の発展と繋げていくことなのですが、人々や動物や地球そのものに悪影響を及ぼしたり、人心管理のための行き過ぎの規律があったり、ヒトとしての存在を損なうほどの労働条件を明文していないのに、パワーや多数決で押し通したりするところがあったり、ある一人のエゴの塊のようなヒトのために、パワーゲームが横行していたり(派閥や学閥は未だにある会社が多いしなぁ・・・。お局様現象だって、これのスケールが小さい版だし・・・)、マイナスばかりが多く、私個人にとっての+はごくごく少ないわけで、優先順位としてはひどく小さくなってしまうわけです。

 

が、考えるに、これが技術職だったり、研究職だったりすると、やはり潤沢な資金や実績を持っているところで働きたいと思えば、それしか選びようがないのだろうなぁ・・・。あるいは、純粋な技能発揮動機だけではなく、子どもや家族のことを考えたり、経済的事情を考えたり、周囲と自分のスタンスや性格などを考えると、やはり仕事で悩む人は多いのかもしれない・・・。

 

「自分を理解しているんだけれども、二進も三進も行かないんだよ。我慢するしかないんだよ」ってこと。

 

私は非情で冷たいので、それもやはり最終的には言い訳のひとつ、しかもかなり説得力のある言い訳と思ってしまうのでしょう。実際、結婚したのも子どもを作ったのも自分だし、自分の技能がそのフィールドだけにあると思いこんだのも自分だし、自分の性格や考え方を形成してきたのも自分だし、ということは言える。それというのも、死刑囚が殺人を犯してしまったときに、「ヒトを作るのは最終的には自己選択の積み重ねであり、社会が形成したものではないから」という本人起因理由を逆手に取っているようなところがあるのかもしれません。実際は、私たちひとりひとりが、他人の人生を影響しており、ピンポイントすることは難しいけれども、みんなに責任はあるのだというシェア説を採りたいのですが、それはあまりに複雑すぎてしきれない作業です。

 

だからこそ、私は死刑執行にも反対ですし、悩んでいる人に対していつも寛大でありたいと思っているのですが・・・。

 

いわゆる、その選択をしてきたいろいろが、水溶液ビーカーに入れ込んでしまったダム装置(仕切り)なのでしょうね。その開閉システムやら、ロック方式など、しっかりした設備を持てば、浸透圧だけに流されていかずともよく、自分を理解することはできるし、まったく濃度の違った溶液を、自分の中にいくつもの仕切りに分けて持つこともできるはずなのですが、実際は、その仕切りを持っていることもあまり考えたこともなく、自分の溶液濃度も考えたことがなく、ましてや開閉システムについても、ロック方式についても、想いを馳せたことはないヒトのほうが多いのでしょう。

 

せっかく脳の大きなヒトに生まれてこられたのだから、考えてみるとおもしろいです。そして、意図的に、溶液の濃さの違いを、自らの意志で均等にしていくことができたり、しなくてもいい溶液濃度を大切にキープしたり、ビーカーそのものを揺らす何かがあっても大丈夫やように、耐震システムも兼ね備えたり、折れない心にするための防弾ガラス使用をしたり、まぁ、そりゃいろんなことができるわけです。

 

今振り返って考えるに、なんだかむしろ、このために、理科の実験があったと考えてもいいくらいなのではないかと・・・。対流(熱により空気や水の流れが変わること)も学んだし、溶液の濃度によって反応が違うことも学んだし、加熱する部分によっての変化も学んだのではないか、とすら考えてしまうわけだ(笑)。そして、私のような人間に接すると火傷したり痛い目に遭うと思えてしまうヒトは、最初から私を敬遠するために、理科の実験を経たのかもしれない・・・とすら、思えてしまったりする・・・。

 

とはいえ、他のアナロジーもたくさん今後思いつくのだろうから、これが最良の喩えだとは想わないよう、ますます考えていこうと思います←懲りない(爆)。

 

残したいほどまずいレストラン

05/04/2008 にアップした文章です。

 

昨日の夜、近所のでっかいデパートであるPARCOのレストラン階に行きました。3ヶ月も新装開店のために閉まっていたので、けっこう楽しみにしていたんですが、お題にある通り、その中のひとつがこんなレストランだった・・・。ゲンダイの日本でこんなことはありえるのだろうか?と、昨日は自分がTwilight Zone(アメリカのクラシックな不思議なストーリーを集めた秀作揃いのTVシリーズ)に入ったような気分だった・・・。母もいっしょだったのですが、戦中・戦後の動乱の中、食糧不足だった彼女ですら、「まずい」と言ったのですから、こりゃ相当なものです。うーん、実在したかぁ・・・。

 

最初にこれをどうぞ。Twilight Zoneを出しておいて、そのまま放置はできません。

http://en.wikipedia.org/wiki/The_Twilight_Zone >英語版

http://www.scifi.com/twilightzone/ 今でもケーブルTVでなら見られます。

うへぇ、日本語でもあった!>http://www.geocities.jp/twilightzone_jp/ 

 

30分完結なので、私はけっこう見ているんですが、150数話をすべて見たとは言い切れず・・・。私が思うに、『妖怪人間ベム』だとか、『ゲゲゲの鬼太郎』だとか、さまざまなミステリー要素が入ったものを作った方々は、これを見ているに違いない!と思わせるようなところがけっこうあります。基礎なんだろうと思うのです。

 

わからない例(たとえ)を説明したところで、お題の話に戻ります。

 

通信交通網がこれだけ発達した世の中で、陸の孤島でもない限り、イマドキ、「残したくなるようなメニューがち」なレストランって実在するんですねぇ。

 

http://www.parco-chofu.com/web/restaurant/ 昨日は、あまりに驚愕していたので、帰り道、わずか3分ほどだったのですが、母とふたりで、「これ、投書ものだよね・・・」と怒りに変わり、こうしてお題になったわけです(笑)。

 

英語の生徒さんと、すでにオープン日の29日にパン中心の洋食を食べたのですが、そこのワインの品揃えなどもかなり中途半端で、「やっぱり調布だもんね・・・」とあきらめていたのですが、味はそれなりだったのです。

 

昨日は、中華だったのですが、日本の中華って日本流にアレンジしてあるものも含めて、なべてハズレなどないではないか!というのが、私の感想だったのです。これまで、「残す!」と思った中華には、出会ったことはなく、私の行動範囲が狭いだけなのか?東京に住んでいると、過酷な競争のため、残すほどまずいものを出す店は、長続きしない法則があるんですが・・・。

 

中華でこんなにどうしてまずく作れるのか?というと、

1. ダシがまったく利いていない

2. 薄味を徹底しすぎていてメリハリがない

の2点に尽きたのです。私が濃い味だからまずく感じたわけではなく、薄味になってしまった母も(彼女いわく、歳を取ってくると薄味好みになるらしい)、食卓についていて従業員に聴こえない小声で、「まずい」を20回は言いましたね・・・。

 

頼んだのは、開店記念のコース料理だったのですが(ひとり3000円を切るほどの)、イチバン最初に来た冷菜3品には、なぜかすでに酢・醤油・ごま油・砂糖を調合したタレが掛かっており、すでにここで、「うわっ!甘い。薄い!」と思ったので、自然と母と顔を見合わせてしまったのです。ここではまだ笑えたんですが・・・。おなかが空いていたので、これは軽く残しただけだったんですが、この恐怖はさらに続いたのです。

 

次に来たチンジャオロースーが、全品の中で最もマシだったもので、それでも母が作ったほうがおいしいし、素材の味は生かせておらず・・・。ただ、これが最も味が濃かっただけ、という噂もあり、もしもしょうがが入っていなかったら・・・と想像するとホラーになります。私は自分のシェア分も半分以上残しました。

 

エビチリが次作で、これもエビの品質はいいのに、なぜかソースがすごいものに・・・。ダシが利いていない上に(中華スープの素を使ってくれていたほうがよっぽどよかったような・・・)、にんにくもしょうがも利いていない。砂糖が多いというシロモノ。塩気が薄く、「少々」というのを誤解しているような・・・。下味はついているのか?と疑問を呈したのでした。私は1匹しか食べませんでした。

 

コース料理のほかに、私が炒飯が好きではないので、「五目つゆそば」というのを別に頼んだのですが、このスープがひどい・・・。同じように、ダシがまったく利いておらず、味が薄すぎるので、「すみません。お醤油を貸していただけますか?」と頼んで、じゃーっと掛けた・・・(汗)。麺は悪くないし、素材も悪くないのに、「どうしてここまで殺せるんだ?」と思えてしまうほどのスープで、なぜか子どもでもないのに、食べているうちに麺が伸びていくのがヒシヒシとわかる感じでした。

 

点心は、エビ餃子とシュウマイだったのですが、私はおなかが一杯すぎたので食べず、母が食べたのです。が、ここでも頼まなければ、醤油も酢もラー油も出てこないし、からしも出ないのです。不思議なコンセプトだ・・・。客人の好みは無視らしい。でも、これは食べられないほどではなかった模様です。

 

次に出てきたのが、炒飯とふかひれスープだったのですが、このふかひれスープがこの日イチバンのホラーで、ダシが利いていないスープほど哀れなものはなく・・・。せっかくのふかひれが台無しで、どうして鱶はこのスープのために捕獲されて死ななければならなかったのか?と考えこんでしまうほどでした。もちろん、ふかひれの量はうんと少なく、卵などでお茶を濁してはあるものの、母は2口でおしまいで、私も1/3でおしまい。炒飯は、やっぱりダシがまったく利いておらず(まぁ、ご家庭でもダシを入れない流儀のところもあるけどさぁ・・・)、とにかく塩気がまったくないくらいに感じられて、母はお醤油をかけて、「せっかくお金を出すんだからもったいない」と食べていました。私は、3口だけであとは残したのです。

 

ごま団子は私は苦手なので、母が包んで持って帰ると言うのを制止せず、最後に出たのが杏仁豆腐。信じがたいことに、これがイチバンおいしかった。ココナッツミルクのおかげなんですね。しかも、これはそれほど甘くもなかった・・・。

 

昨日のTwilight Zoneは、帰り道、本当に怒りに変わり、ぬるいビールと、水で薄めたような白ワインとの合計は、1万でちょっとおつりが来た程度。あまりに頭に来たので、メールでも出そうかと思ったところ、そんな場所が見つからない・・・。カスタマーサービスやコンタクトはないのか・・・。どうして、大金をかけて新装開店したというのに、こんな質なんだ!?と、チェック機能がまずいことにも激怒し、以前の中華料理のほうがこの13倍くらいはおいしかったのに、と思ったのです。しかも、メニューの数が減ってるしさ・・・。

 

ということで、ゆるゆるな日の、どこにでもあるようなダラダラとした怒りに、お付き合いいただきまして、ありがとうございました。淘汰されてすぐになくなるといいと思います←本気。

 

 

渋滞に巻き込まれる覚悟

05/03/2008 にアップした文章です。

 

アメリカでは、Thanks GivingとChristmasでの民族大移動。日本では、GWとお盆と年末の民族大移動。これをハタで見ていて思うのは、「出かける前の覚悟とはいかに?」というもの。私はこの年齢になって、珍しいことに、この民族大移動に巻き込まれたことが一度たりとてなく・・・。が、この時期ではない渋滞に巻き込まれた経験は幾度となくあるのです。事故渋滞もあれば、日常的な渋滞もあり・・・。事故渋滞のときは、のちのちニュースを見ていた人に聴いてみると、それでも10キロ渋滞くらいだったから、私などの持っている「堪忍袋」では、キャパが小さすぎて、この時期の渋滞に巻き込まれることなど、到底無理かと・・・。それを思うと、みんな気が長いよなぁ・・・。

 

そもそも、これはある種の「中流階級にすらなれなかった貧乏人の負け惜しみ」と思ってくださって、大いにけっこうなのです。実際、その通りなので、渋滞に慣れる学習ができなかったわけです。それがどれだけうんざりすることなのか?という想像は、日常的渋滞からしかできないので、それが「地獄のようにすごいもの」としか思っておらず、もしかすると、渋滞に巻き込まれるポジティブな面もあるのかもしれないのですが、とてもとても考え付かず・・・。

 

幼い頃は、私たち姉弟を行楽地に連れて行くことを、ミニマムで抑えようとしていた両親は、GWは「混雑するから家にいよう」とスローガンにしていたし、お盆と年末も渋滞するので、学校の都合が終わり次第、すぐに父の実家に送る(あるいはいっしょに行く)ということにしており、ほんに、渋滞に巻き込まれた記憶は、さほどないのです。あっても、本当に10キロ渋滞くらいで、事故渋滞だったんでしょうねぇ・・・。それでも、子どもの車内での苛立ちは、両親には耐え難いものだったのだろうから、彼らなりに工夫して、どんどんオフなときに父の実家に行くことにしたのだろうし・・・。中央高速が名古屋まで開通してからは、わずか3時間ちょいで父の実家までたどり着くことができるのですが、昔は、八王子経由大月ののち、諏訪を経て、と8時間くらいはかかっていたのです。だからこそ混雑しなかったというのもあるのかもしれないですが・・・。ナヴィゲーションシステムがあるわけでもなく、調べるという作業を怠る人には、並大抵のドライブではなかったわけで・・・。

 

子どもの頃、親に連れて行ってもらった遊園地の回数、私は数えられます。ええ、わずか3回。京王遊園という今ではつぶれてしまったところに1回。よみうりランドに1回。後楽園に1回のみ。近所のおじさんにサマーランドに連れて行ってもらったことが1回。あとは、中学生くらいになってから、子ども同士で行ったことが数回ほど。そのせいか、その生涯回数を増やすために、アメリカに行ってからは毎年「あ、まだ今年は行ってない!行かなくちゃ!」という不思議な義務感すら生まれたものです(笑)。ダメだねぇ、今でもジェットコースターは大好きだ♪(ちなみに英語ではRoller Coastersと言いますので、間違えないでね)動物園も、上野はたったの1回しか行ったことがないし、多摩もおそらく3・4回。しかもそのうち遠足というのがあったはず。水族館は一度も行ったことがなかったくらいかもしれない。大人になってから、くらげの妙を知ったのだから・・・。

 

それでも、東京ディズニーランドには1回しか行ったことがなく、その理由は、「並ぶ」と聴いていたから(笑)。ものすごい拒絶反応なわけですよ・・・。母も2回ほど行ったことがあるらしいのですが、私よりずっと並んだらしい・・・。私は消防士さんとのデートで行ったのですが、前日大酒を飲んだので、ものすごい二日酔いで、乗り物に乗れるモードではなく・・・。私は、その消防士さんが大好きで、アメリカ行きが決まっていなかったら、「こういう人と結婚したらものすごく倖せになるだろうなぁ・・・」と思っていたのですが、今は何してるのかなぁ・・・。きっと誰かをうんと幸せな気持ちにしているんだろうなぁ・・・。

 

他の観光地と呼ばれるものにも、記憶の限りは数回しか行ったことがなく、みんなが観光を敢行している最中でも、私はひとりでぼーっとしていたり、動かないで温泉に入っていたことが、鮮明な記憶になっています。

 

バブルの最中に10代後半から20代前半だった私は、いわゆる「行列のできるお店」の初期を体験しているのですが、ええ、一度も並んだことはありませんっ!(笑)並ぶくらいならば行かない。私の「待つ限度」は、銀行ではチケット制になってから(番号札が出てくるよね・・・)10人。たこやきやさんやファストフードなどの出店カウンターでは3人。レストランでも3組。時間に直して8分以内かなぁ・・・。

 

みんな、こうして冷静に限度を考えたことはあるのだろうか?私が固執しすぎなのだろうか?

 

とにかく、混雑は、アメリカに行く前からダメだったわけです。アメリカに18年半も住んでしまった今、さらにダメに拍車はかかっているわけで・・・。

 

日本に居た頃は、アポ制度というのがないことにやたらめったら腹が立っており、アポ制度は高級レストランくらいにしかなかった・・・。今も、それほど変化は現れていないようで、ビジネスやクリニックなどではあるにしろ、高級感とアポは伴うらしい。それは人々の時間泥棒の根源になっているような気がする・・・。

 

アメリカでは、医者も最初に主治医のところにアポで行き、そこからのReferralなので、書類はすでに完備しているので、待つこと数分ですね。遊園地も、私は平日派なので、10分以上待った記憶はないです。あ、ただし、LAのDisney Landではものすごい混雑しており(平日だったのに)、チケット制度だったので、散々歩いてから戻ったりしたなぁ。それを日本も昨今取り入れたらしいですね・・・。遅いと思う・・・(汗)。日本でバカみたいだと思ったのが、アイスクリームやさんの行列で、アイスクリーム1個くらいしか食べられないだろうに(がんばっても2個くらい?じゃないと溶けちゃうし・・・。あるいはドライアイス代を払って持ち帰り?)、1時間半も待って「食べたい!」と言っていた人々は、アリの行列のように続いていたこと。レストランでも、アメリカでは、ファストフードこそないですが、パパさんママさんビジネスのレストランでも、予約は受け付けてくれるので、私は待ったことがないです。

 

当然、アメリカはほとんどの高速は、High wayではなくて、Free wayなのですが、混雑するのは、料金所のせいなのでしょう。確かにBay Areaでも橋代を払うところは混雑している。渋滞をする時間帯は決まっており、私はそれを避けて学校のクラスを取ることにしていたし、それほど渋滞に巻き込まれたという記憶はないのです。

 

こうした生活習慣のせいで、とてもじゃないが、この時期、ガソリン代も税制が戻った折、どうして人々は、車に乗って渋滞の中に吸い込まれるようにして出かけていくのか?ということがどうも解せぬ。満タンにしたら、1,500円くらい違いが出るのだろうし、渋滞しているときには平素よりももっとCO2がたくさん出るんだろうし、いっしょに車に乗っている人々同士も、決して気分がいいものではないだろうし・・・。うーん、その覚悟はどこから?

 

叔母が八王子で病気なので、いつも駆けつけることができるようにはしているのですが、トヨタレンタリースは近所で飛び込みができて、京王線+タクシーでも1時間以内で行けるようになっています。それくらいの事情しか、私はGWのこの混雑のさなか、動く理由が見つけられないでいます。「子どもを持つと違うのよ」という声も聴こえてきそうですが、だったら歓んで「子どもを持たなくてよかった」と言えてしまえそうなくらいの混雑イライラさを持ち備えているわけです。

 

生粋の貧乏でなくなってよかったことは、新幹線などで予約して、指定席が取れるようになったことかなぁ。それでも混雑したらその時期には行かないです。人々が群がるということに、どうも私の頭の中では、「イナゴの大群」が思い出されてならぬのです。どうしてこの連想なのかわからないんですが・・・。ということで、GWにも躊躇なく仕事を入れてしまっているわけです。特に休みたい!旅行したい!という欲は、目下のところないので、時間ができたら、どこかに行きましょう>8月の渡米は決まったしね。

 

 

ゆるゆるとやっていくこと

05/02/2008 にアップした文章です。

 

昨日は、大サービスで、無料である女性に英語を教えたのです。たまにはこういうことをしたほうがいいと、天からの声がしたからです。その代わり、英検に合格したときには、「志」をくださいと、恩の押し付けをしないようにとはブレーキを掛けてきました。実際、薄給の中で、高い英語講師の費用を捻出するのはたいへんなことでしょう。支払いをしたあと、勤務に必要な備品を揃え(通勤費用や衣装や化粧品)、食べたあとに、残るものは、鬱憤のはけ口をするにも、なかなかまとまった金額でもなく・・・。将来のために、教材には惜しむことなくお金を使え!と、私はいろいろな人に言って来ましたが、実際のところ、「(使い切らなかった)無駄が山積」になっているかもしれません。だから、それほどいいアドバイスでもなかったのだろうなぁ・・・。生活のほうが優先だ・・・(汗)。

 

そして、私は午後授業が一コマしかなかったので、久しぶりにパチンコをしてしまいました(汗)。なんだかびっくりしたことは、最初2万も使ったのでそろそろ止めようかと思っていたところ、急に出始めてしまい、結局2万2千円にもなったのです。心の裏側では、「ふむ・・・・。今日いいことをしたからなのだろうか?」と天を仰いでみたのですが、誰も返事をしてくれるわけもなく・・・。そして、中途半端な時間に仕事が終わり、地元に戻ってきたときに、「6時を過ぎたらATMを使うにもお金がかかるのか・・・。世知辛い世の中だよなぁ。自分のお金なのに・・・」と思いつつ、「今日はあまり疲れていないから、○×さんがいるかどうかちょっと寄って行こう」と思い、見事にその知り合いを見つけたので、隣に何の迷いもなく座ったところ、1000円で出た(爆)。いつも、彼の経営している大衆食堂でごはんを食べると、お金を取らないでくれるのです。老舗の大衆食堂で、お肉をたんまり食べたいときにはそこへ。1000円分の玉がなくなりそうになったときに、「来たんじゃない?」と言われたので、止めたところ、本当に来た(爆)。彼は、そのあと、お店があるので「経営者はつらいよ」と帰ってしまい、私はひとりで打ち続けたのですが、気づくと16箱・・・(汗)。そこの箱は小さいので、1箱5000円ではなく、7万4500円だったのですが充分だよっ!結局、合計で1日9万5500円も儲かってしまった日なのです。ところが、無料で2コマ教えたため、昨日の本業の稼ぎは、わずか5000円。こんなこともあるんだなぁ・・・と、不可思議に首を捻った次第。

 

バクチの奨めではありません。バクチは、適性や洞察や統計学や、いろいろな面で攻めないと、やはり銭失いなのですから。楽しいわけでもなく、ある時期を過ぎてしまうと「惰性」になりますし、その中毒性(依存症度合い)といったら、やはり見ていて悲しいケースのほうが多いです。勝ち抜けてもうやらない人のほうが少なく、やはり負けが込んだから止めた人のほうがずっと多いのです。

 

ところが、私は、この忙しい中、負けて当たり前だと思ってやるからなのか、勝ちますねぇ・・・。ここのところ、5000円以上負けたことがない5ヶ月です。というのも、時間があまりないので、疲れてもいるし、座る時間を決めているのもあるし、金額でキリがいいところで止めているから、というのもあるのでしょう。いや、このほうがいいね・・・・。なので、昨日、続きまくって、結果、家に戻ったのが10時過ぎだったときには、ほとほと疲れていました。途中、出ている感謝もなくなり、「もういいよ・・・(汗)」と罰当たりなことを思ってしまったほど。

 

そして、ふと思ったのです。ゆるゆるとやっていくのも、決して悪いことではないのだろうな、と。私は、フルに活動しなければ生きていけないサメのようなやつなので(マグロもか・・・。泳ぐのを止めてしまうと死んでしまう・・・)、なんだか今までこんなゆるい動きはしたことがなかったのですが、1日外だったとはいえ、ゆるかった日だなぁと。なのに結果オーライだった・・・。まぁ、負けていたら散々なのだろうけれども、実際は、ここのところ時間が決められているため、ずっと投入し続けてお金を失うこともできず、明日のことを考えて早々と帰宅したに違いないのですが・・・。

 

今日も、このエッセイを書く前に、仕事を2時間でこなして、郵送物を仕分けして、ラベルして、レッスン内容のまとめを文書化して、今に至ります。その間、母にごはんを食べさせられたし、これからゆっくりお風呂も入れと言われています>肩がめずらしく凝っていると言ったら心配された。しかも、彼女はみのもんたなのか、何のTVで見たのか、入浴剤バブの炭酸ガスを出すには「重曹」がいいというのを見たので、それを自分だけで試すのがもったいないらしく(判断力に自信がないんだろね・・・)、私を巻き込んでの評価大会なのである。今、入れている最中らしいので、私が先に入って、彼女はあとからゆっくりエンジョイしたあと、ネコの毛だらけになったマットを洗うそうなのである・・・。お疲れ様・・・。すまないねぇ・・・。

 

というわけで、モードもけっこうゆるゆるな24時間が過ぎようとしており、しかも私は、自分の若い高校生の生徒さんに、レッスンが終わったあと、チョコレートやケーキやいろいろなお菓子をあげることにしているのですが、その買いだめもしたので、このPCから見る風景も、かなりソフトでゆるやか。面倒がりの私は、勢い余って12個も買ったんですよね・・・。1週間に5個くらいしかなくならないので、2週間分以上買ったということで、昨日の朝、焦って賞味期限を見てみたら、お菓子ってかなり長いのね・・・(1年くらいあるんだねぇ)。

 

今日は、めずらしく午後4時から夜までのレッスンが、4人の違う生徒さんで入っているのですが、けっこう楽しいのです。明日は英検用の授業で、明後日が産業カウンセラーの授業が朝の9時から5時まで。月・火曜日も英検用のレッスン。そのあとは、また同じようにお休みのない日々が続きます。ただし、昼間の新人研修が終わったので、半日はゆるやかなので、この手の日々が増えるのかもしれませんし、あるいはまたどこか探してくるのかもしれず・・・←探すのはけっこう得意なんだよなぁ(苦笑)。

 

しかも、つい最近、座談会のバイトをしたのです。2時間で8000円ももらえてしまい、試食まであるやつだった>アイスクリームだった。すっかり気をよくした私は、その座談会に参加できる資格(消費者だったほうがいいし、消費者ではなくとも厳しい目で商品を見られるヒトがいいらしい)があれば、どんどん応募だけはしてみるつもり。キャッシュでもらえて、レッスンとレッスンのあいだの暇つぶしになるわけですよ。しかも、新しい人に会えて、けっこう楽しい。

 

こんなことばかりしているから、フツーの日が「ゆるゆるとやっている」ことになってしまうのですが、まぁ、それでいいわけです。私はそうでなければ生きていけないのだろうし、そのせいでむしろ健康なのかもしれません。遊んでいたら遊んでいたで、ものすごく巨大な罪悪感に苛まれてしまい、もしかすると立ち仕事や内職の仕事までするかもしれない。だったら、忙しくてもいいから、自分に向いている仕事であっちゃこっちゃに飛んでいたほうがいいのでしょう。

 

そりゃ、たまにはパチンコくらいできたほうがいい。本当に、この5ヶ月は忙しすぎたので、空き時間2時間じゃちょっと行く気にすらならず・・・。それよりも、ネコとうだうだベッドの上で転がっていたほうがいいや、と思っていたのですが、もちろん、転がっているだけではなく、本を読んだり、書類を作っていたりしたんですけどもね・・・。PCの前にいると仕事だけではなく、調べ物やらしてしまい、どんどん範囲が広がっていくので、遊びに徹するふうにがんばろうとしても、そうはならないことが多いです。

 

ゆるゆるとやっていくのは、けっこう難しいことなのかもしれず・・・(汗)。

 

子供が夢中になっている事は、他がおろそかになっていても応援すべき?

 

ヒトの本能は、二元論で成り立っているものばかりです。物事の分類の基本で、これは自然の摂理とも言えます。

 

二元論:世界や事物の根本的な原理として、それらは背反する二つの原理や基本的要素から構成される、または二つからなる区分に分けられるとする概念のこと。 例えば、原理としては善と悪、要素としては精神と物体など。 二元論的な考え方は、それが語られる地域や時代に応じて多岐に渡っている。

 

これを踏まえ、子どもが夢中になっていることが、「いいことがたくさん生まれることなのか vs. 悪いことがたくさん生まれることなのか」に分けて、本質をしっかり見極めてみることが大切です。夢中になっていることがただ単に「好きなこと」というだけだったら?この将来的にいいことがたくさん生まれるかどうか?をしっかり見極めてみることで、中長期的時間軸を持つことが、子育てにはとっても役立ちますし、自分自身の人生を長く考える力になります。ひとつの行動やコミットメントが、将来、どのくらいの広がりをもたらすのか?これを継続していけば、先に何が待っていて、どのくらいの大輪の花になり、実や種をもたらすのか?などと、しっかりとその中身について検討してみていただきたいです。

 

たとえば、読み書きに関することは、ベストです。昨今出ている学術論文でも、読書は「やりすぎる」というデメリットは、環境を整えないと視力が悪くなる、程度のことしかありません。経済的にも図書館やブックオフやオンラインにあるものなどがたくさんですから、さほどの負荷はないです。

 

本質:そのものとして欠くことができない、最も大事な根本の性質・要素。

 

他がおろそかになってもいいのか?という点についても、少し考えてみなければなりません。おろそかになっているものが、本質的なものなのかどうか?です。

 

ヒトとして生きていくのに、日々使う、使う頻度が高い、その技量・知識が問われやすい、夢や目標の中に必須なものである、などなど、少し考えてみなくてはならないです。

 

たとえば、ゲームをしたいために片付けができない、というのは、応援してはいけませんね(笑)。片付けは、脳内の整理にも重要に関連していますし、モノを増やして平気でいたり、お金を粗く使ってしまう機会を増やしてしまいます。ゲームのよいところと悪いところも、ゲームの種類を選んだほうが時間を費やした分の「成果」が上がらず、悪いところもたくさん生まれてしまうので、この場合はNGですね。

 

学校の勉学がおろそかになっても、友人を大切にする、というのも簡単に表現しすぎなので、ちょっと判断しかねますし、塾をがんばって、学校を手を抜く、というのも、さまざまな個体を取り巻く条件やカリキュラムの内容を観てみないとわからないです。

 

一芸に秀でれば、その気になったら何歳になっても他のことが「けっこうできる」という状態を作ってあげるのが、親の子育ての重点であっていただきたいです。勉強をして勉強ができるのは当たり前。それよりも物事を理解するためのさまざまな底力になる基礎的・本質的な力をしっかりつけてあげてください。<(_ _)>




なかなか手付かずな事をスタートさせるコツは?

英語では Procrastinationと呼びます。先送りにしてしまったり、ぐずぐずと遅延させている状態を続ける傾向で、これは誰にでもあります。ある分野は即座にできるのに、ある分野は気が重いなど、まぁ、あるんですよ(笑)。私だって日々戦っています(笑)。

 

その原因は:

  1. 性格的に完璧を目指すタイプ

どうしてもコンディションが整ってしっかり終わらせたいので、集中力や体力なども考えてしまい、遅延が起き、手つかずのものが増えます。

2. 失敗したらどうしよう、という不安感

そもそもリスクがゼロのことなどこの世にはないのですが、そもそもの認知の歪みのため、ある特定の物事にはこのように感じてしまうことも多い傾向のようです。不得意なものや新しいことなどには、特に拍車が掛かります。

  1. 他人の評価が気になる

確かに自信よりは、わかりやすいのが他人の評価ですが、それを気にしすぎていると、やはり物事をスタートするのはかなり難しいです。

3. 責任感が強く、終わらなかったことを考えてしまいがち

物事をどちらかというと慎重すぎるためにネガティブに考えてしまう傾向から起きます。さまざまな方々に迷惑を掛けてしまう、という結果を重大に捉えています。

4. あれこれと心配しすぎて、その一事に集中できないことが多い

日々が雑然としていて、優先順位がごちゃごちゃしており、あれもこれも、とさまざま考えているうちに行動には移せません。えいっ!という思い切りがなかなかつかないわけです。

5. 決めたことを実行できない過去の事例がたくさんある

実行しなくても今はちゃんと生きていけているではないか!と開き直ってしまう傾向があり、新しいよいことを取り入れずとも、フツーには生きていけるしなーと、のんきな感じです。

6. 目の前のやらねばならぬことをやり過ごしてしまい、現実逃避が得意

いつか大きくツケが来ることがなければ、現実逃避はクセになります。ただ、これは小さい蓄積が日々されているので、年齢がソコソコ行ってからではないとその差異には気づけないのでした。

7. 効率を重視し、コツコツやるよりは一気に終わらせたいタイプ

どうしても短い時間で終わらせたいので、効率のほうにより重きを置いて、あれこれ考えているだけで実際には実行になるまでに時間がかかるか、そのまま実行しないで終わります。

8. そもそもそのやらねばならぬことに興味がまったく持てない

その手つかずなことは本当にどのような意味があるか?を考えていないので、自分で「やらねばならぬ」までは行っていない状態です。廻りに言われているだけで本人としては納得していないわけです。たとえ興味が持てないことであっても、通らねばならぬ道、終わらせなければその先には進めないとわかっていたらできるはずなのです。

 

簡単な方法として、ひとつには、期限を決めてしまうことなのです。いつまでに成し遂げたいという理想を、現実的な日程にします。そこで未来から現在までを逆行してみてほしいのです。中長期で物事を見ることができるようになればなるほど、頭の中は整理されてきますし、たくさんの事象について考えるチャンス:機会が増えます。実現するためにどうすればいいのかをしっかり考えるようになっていきます。

 

さらに大切なのは、自分のことをよく観てくれている人や家族、気にかけてくれている人たちに、「有言実行」のための宣言をしてしまうことです。ついでに頼めるのであれば、「どう?やっている?」と声掛けしてね、とお願いしてしまうことです。他者による自分の評価が下がらないためには、きっとがんばるに違いないのです。確かに不言実行できたらかっこいいんですが、手つかずなことを放置してきた弱い部分を認めて、「溺れるものは藁をも掴む」を実行してもさほど悪いことではないと思うんですよね。ヒトは弱く生まれています。

 

理想形・完成形を簡単な具体化とし、複雑な要素は省きます。短い文言にして、気分をラクにしてください(笑)。あとは目標設定などもPrecious One English Schoolでは、具体的に学んでいただいております。英語だけではなく、日々に効くことを!がモットーです。心理レッスン楽しいですよー(^^♪

 

動物園の是非

05/01/2008 にアップした文章です。

 

昨日、最後の日本のパンダがいなくなりました。22歳の高齢で、メキシコにも出かけて行って、本当にヒトのために尽くしてくれたパンダだったそうで、リンリンの生涯のうち、私は18年半も日本に居なかったわけで、当然、見に行ったこともなく・・・。それでも、このものすごぉくさみしい気持ちは何なのだろうか?と不思議でならぬのです。特に動物保護団体に属しているわけでもなく(アメリカはカリフォルニアのSPCAに定期的な寄付をしていたことは別としても)、黒柳徹子女史のように、パンダが死ぬほどかわいくて好きでたまらないわけでもなく・・・←というか、これについて世間のみなさまは知ってらっしゃるのだろうか?おそらく、私のこのさみしい気持ちは、動物園の存在からして発生しているのかもしれないと思うのです。

 

以前も書きましたが、西さんは「動物園の存在そのもの拒否派」です。彼は、母が来たときに、San Francisco Zooにホワイトタイガーを見に行きたい!というのに、しっかりとつきあってくれましたが、苦々しい顔は時折自然と出てしまい、孫たちにホワイトタイガーの小さいぬいぐるみを買ったときも苦笑でした。やはり、あの狭い空間に動物たちが閉じ込められている感というのは、西さんにとって、自分のことのように苦痛なのか、あるいはヒトのエゴを象徴するようなものなのでしょう。

 

確かに、動物たちを研究している学者によると、クマやトラなどに代表される狭い空間での「行ったり来たり行動」というのは、自然界にはほぼありえず、苛立ちを顕すのだそうです。考えてみると、Monkもイライラしてくると繰り返し行動をするよなぁ・・・とは思いませぬか?←校長センセにしか相手にしてもらえていないか?(笑) そういえば、ゾウも自然界よりも回数を多く、必要性がないのに鼻を口を使うあの行動をするのだとか。しかも、多くの動物たちの檻は、噛み付きや腕力などでいじられており、近くに寄って見ると痛々しい傷跡が残っていることが多いのだそうです。

 

OCD(Obsessive-Compulsive Disorder=強迫性障害)に近いものがあるのでしょう。改めて読んでみると、確かに動物たちも強迫を感じているように思える。社会性が強かったり、自由意志が強い傾向にある動物では、確かに狭いところに閉じ込められたり、行動に制限を加えられると、このような症状が出てもなんら不思議はないもののようです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B7%E8%BF%AB%E6%80%A7%E9%9A%9C%E5%AE%B3

 

かたや、サバンナや密林(ジャングル)に直接行くことができない私たちヒトのために、めずらしい動物たちと『共生』できぬものかと、心を砕いている人々を全否定するわけにもいきません。特に、子どもたちのためには、確かに役立っているわけです。映像を見慣れてしまっている世代の子どもたちは、おそらく、私などとは比べ物にならぬくらい、想像力は低いのではないでしょうか?映像で動物たちを自然界で捉えたものを見ても、なかなか実感が湧かないのかもしれませんから、生きている動物たちを見る機会というのは、人類が動物たちと共生していくためには、本当に深く必要なものなのかもしれません。

 

が、どうして、今、動物園に住んでいる彼らが犠牲にならねばならぬのか?というのは解決できる問題ではなく・・・。

 

ましてや、私がつらつら思うに、もう野生育ちで捕らえられて連れてこられた動物たちというのは、うんと、極端に少ないのではないか?とも思うわけです。動物たちとて賢いので、順応傾向を持ち合わせてはいます。あまりに本能が強い動物は哀れです。自傷行為などをして、寿命を縮めてしまいます。そうやって淘汰されていき、動物園暮らしが楽しいと思える動物たちが、生き残り、子を生し、生粋の「人間たちに育てられる野生ではない動物」が作られてもいくわけです。

 

これは新種への進化なのかなぁ・・・などとも考えているわけです←そこまで考えずともよいのか?いや、いいだろう・・・(汗)。

 

絶滅種の保護のために、ヒトの手を加えて人口を保つというのが、動物園関係者の名目ではありますが、実際に人工的な環境の中で、生殖行為および生殖活動はうまく進められているのか?というのも疑問ではあります。有名なのは、パンダのセンターですが、あの近隣では、環境破壊が進んでしまったという記事が、大学受験のための過去問題集に英語で載っていました。そのあらすじは、何もなかった地域に(そりゃそうだ。パンダが自然に暮せる環境で、竹林ばっかりなわけです)、突然近代的な建物と研究者たちがどっと集まり、その資金を捻出するために一般公開もし、観光客が「わー、かわいい!」と押し寄せる。なるべく自然界に近い姿を醸し出そうとしているものの、なかなか自然界には帰っていけないパンダたちは、ヒトに優しくされてパンダらしくないところをたくさん持ちつつ暮している。が、その近隣の人々は、「よっしゃ、オレたちも儲けてやろう!」と、軒を連ねて観光客相手の商売を始める。主に食べ物で、豚肉をBBQ風に焼いたものらしいのですが、ガスも電気も高くてままならぬ田舎です。元も子もないことに、竹林の竹を切り出して、それを燃料にして焼いているわけですよ。竹林は剥げ山になっていくし、燃やしているせいで二酸化炭素が大量に出る。彼らばかりを責めるわけにもいかず、補助金を出すようにはしたものの、竹林が元の姿に戻るには、相当な時間がかかるわけです。

 

うーん・・・。ヒトはやはりバカなのか?

 

確かに、動物を見るだけで心は癒されるし、抱いたりしたら死ぬほど温かい気持ちになれる(実際に温かいし・・・)。この動物と共生キャンペーンのせいなのかどうか、噛み付きガメだとかワニだとか、かなり珍種と言えるものまでが、ワシントン条約を掻い潜ってペット化されているのも確か。そして、要らなくなったり、世話ができなくなったりすると、捨てるバカが出てくる。最低なのは「飽きたから」ということを平然と言ってのけるやつすら居ること。

 

私もけっこうたくさんなネコといっしょに暮していますが、買ったネコはひとりもおらず、すべてSPCAからもらったか、捨て猫だったものに来てもらったのです。いくばくかではありますが、ヒトとしての罪滅ぼしの気持ちも多少あります。

 

旭川動物園はものすごい人気だとかで、入園料を上野よりも高くしたとかするとか・・・。富士サファリパークも、自然のままで動物たちが暮せるように努力をしているのだとか・・・。私は水族館でくらげを見るのがかなり好きなのですが(あっという間に1時間くらい経ってしまうのがいつも謎・・・)、あれもいいのか悪いのか、と思うのよねぇ・・・。

 

私はまだまだ西さんのような強気な否定はできないものの、やはり納得できない何かをしこりのように感じています。リンリンが死んでしまったこの機会に、考えたことがなかった方々は、動物園の存在是非をちょっとだけ考えてみるのもいいかも。

 

ひとつだけ言えるのは、私が宇宙人にUFOで攫われるようなことがあって、宇宙人が持っている動物園のようなところに収容されたとして、そこから抜け出す努力は、生きている限り続けるだろうな、ということ。まるで、Arthur HaileyのRootsのようですが(西アフリカからアメリカに連れてこられた奴隷のお話)、やっぱりそうなるだろうなぁということ。だったら、やっぱり動物たちにもやってはいけないんだろうな、と思うのです。

 

うどちゃんたちも、究極のところ幸せなのだろうか?と顔を覗きこんでみたところ、ひなたぼっこが気持ちよくて、それどころじゃないそうです(爆)。