気づくと1000超え

12/29/2007 にアップした文章です。

Still Get GoingのBeginningのほうも含めると、いつしか1000エッセイを超えていました♪特に達成感のようなものはないのですが、あと何年か、あるいは10数年経ったときに、振り返ってみたときに、参考になるかもしれない文を書いておきたいので、エッセイタイトルにすることに←かなり身勝手なお題(笑)。おそらく、Beginningのほうに載せたほうがいいエッセイが、あといくつかCD-ROMに保存したものに残っているはずなのですが、今、それを探して整理している時間はなし・・・。12月31日と1月2日はしっかり休んでだらけたい(笑)。それでもなぁ、13日までお休みはないから、エッセイをいくつかまた書き溜めてしまうことだろうし・・・←結局貧乏症(爆)。

奇数好きな人もいますが、私は意外にも偶数好きです。それは小学校の頃、ずっと1年生から6年生まで2組だったという不思議な確率上の問題なのです(笑)。小学校のときには、分校した新設校に通い始めて、私たちが初めての新1年生だったというのもあり、なんとなく想い出の中でも、忘れるはずがない印象があります。そして中学も1年2組だったのですが、2年で6組で、偶数を保っていたものの、3年で9組になり、そこで記録は破られたのですね・・・。

それからずっと私は、偶数好きで、アメリカに出発したのも4月26日。なぜこの日を選んだのかは、無意識のうちに偶数を選んでいたというのがあります。

キリがいいからなんでしょうね・・・。特に丸い人間でもないのですが、自分としてキリがいいほうがラクだという意識が、どこかで偶数を求めているのかもしれず・・・。こんな二択をどうこう考えられる40代って一体ナニモノなのだろうか?と、今書きながら苦笑していますが・・・。子どもの頃は、チョコレート・グリコ・パイナップルとじゃんけんで勝ったら進めるゲームがあったのですが、今度、大槻ケンヂ原作の映画が封切りになったようで、それでは、グリコではなくグミなのだそうです。彼と私は同じような年代だと思うのですが、その当時グミがあったとしたらすごい・・・と、予告をしている番組をちらりと見て考えたのでした。

ああ、1000ってものすごいいい区切りですよねぇ・・・。改めて考える。短気でこらえ性がなく、ズボラで面倒くさがりな私に、よくもこれだけの数のエッセイが書けたものだと、呆れるほどです。西さんが脱サラをした軌跡でもあり、700余くらいある新作のほうは、西さんが会社を辞める決意をし、退職届を出した頃から書き始めたものが、Beginningのほうから始まっています。その頃は楽天ブログで書いていたのですが、なぜか途中でSee-Saaに変更したのでした。楽天のサービスが悪いと感じたことがあり、広告メールも多いと感じて、どうしてもなんだか商業主義の参加者になっているような気がしたせいです。まぁ、会社を始めたということは、もちろんこちらのほうがアグレッシブに同じようにやるよう、見習ったほうがいいことなのかもしれないんですが、サービスが通り一辺化しており、「だったら放っておいてほしい」という私のいつもの天邪鬼のせいです(苦笑)。

エッセイが1000個書けるんだから、何でもできる!と思えるようにはなっていません。暗い、後ろ向きなやつだなぁ(自嘲)。数ではなくて質で行くと、どうも半分はゴミ箱に躊躇なく入れるであろう方々がいらっしゃるのであろうし、好き好きで言えば、かなり嫌い要素を含んでいることが多く、それはすなわち、私の人格部分否定でもあるんだろうな、と。私は他人の行動のいくつかを嫌うことにしているのですが、総合体がやる言動の50%が嫌いなことのオンパレードになると、もうおつきあいはしないもんなぁ・・・。

いやぁ、ここのところ、自己否定モードには入っているのです。うーん、この1年、否定された場面が多かったので、いつも反省・感謝を繰り返しており、必要以上に謙遜をしていて、勝負もしていないのに負け犬気分にさせられてきたことは多かったのですが、最初の頃は自分を笑えていたのに、ここのところ、うんと疲れてきています。1000はいい節目になり、ちょっとくらい自分を褒めてあげてもいいかな、と心理学的には叫んでいるんですが、環境要因と記憶の確かさがそうはさせないところ←ジレンマである(苦笑)。

母いわく、「やっぱり進学塾なんかでの講師がいけないんじゃない?」とのこと。確かにそうなのかもしれないなぁ・・・。世の中を広く見てみたい、ということや、時間を余らせたくはない、という生涯つきあってきたいつもの焦りや、教えることには多面性や多角性があって、いろいろなフィールドを覗いておかねば、という使命感すらあったのですが、やっぱり予測とそれほどにはかけ離れていない結論に達しそうで、どうも暗い気持ちになってばかりいるのかもしれないです。

私は遊んでばかりいて大人になったので、1日5コマ、7.5時間もの授業を受けている子どもたちを見ると、胸が切なくなってくる・・・。もう2年もテレビを見ていない小学校5年生やら、楽しそうに昨日の夜の出来事を話してくれる子どもたちを見ると、「こんな小さいうちからどうして100点を目指さなければならないのかなぁ・・・」と、教える側にしては本当に矛盾したことを感じて考えてしまうのですね。好きでやっている子はいいんですよ。しかも、好きでやっている子は、それだけにどっぷり浸かっておらず、部活動もやっていれば、読書もしているし、スポーツもそれなりにやっていると楽しそうに話す。中学の受験生では、睡眠時間は6時間以内と決意している子までいて、7時間半をいつも目指して眠っている私は、縮こまりたくなるくらいになってきちゃう。私が小学校の頃は、10時間は眠っていたんだけどなぁ(笑)。ちょっと見づらいのだけれども、睡眠と脳の働きについて触れている子どもの統計が出ているもの。
http://kaimin.gr.jp/nemuri/nemuri1.pdf

エッセイが1000超えになってもうれしくないのは、時期的なものなのか?

いつも私が苦しんでいるのは、「タイトルを思いつくこと」です。なので、本当に瑣末なことになってしまうこともあれば、大掛かりすぎて数日に続いてしまうこともあり。人間なんて、本当に自分の周囲くらいしか見ていないもので、私もまったく例外ではなく、考え付くことや思いつくことのなんというオソマツさか・・・。日本に戻ってきてからは、日本のニュースを読んでも、悲劇に「またか」と思うような少しの鈍感さを伴うようになりました。これは危険信号です。いいことやお祭り騒ぎに関しては、「どうしてこれがこんなに騒がれることなのだろうか?」と、不思議でたまらない気持ちは、減るようではないのですが・・・。

あと1日働けば、お休みが1日あります。元旦も2時間だけ働くことになってしまいました・・・。またそれを見ていろいろ感じるんだろうなぁ・・・。そして2日がお休みで、3日から13日まで完全休日は皆無です。体力が保ちますように(笑)。

思うに、おそらく私のエッセイは、2000超えはできない。あと3年書く気力があるかどうか・・・。毎日でなければ書けるかもしれない、というオプションは持とうと思いますが、まずは「継続は力なり」ということで、今回は〆ておきます(笑)。

威圧感

12/28/2007 にアップした文章です。


これについて、私は長年苦しんできたのですが、悩みでもなく、悩むべきなことではないと決めてから、長い時間が過ぎています。ただ、変わる必要がないと思っていながらも、支障が出る場面はたくさんある(笑)。ということは、今日のエッセイはぼやきで終わるのか?うーん・・・、それじゃー芸がない。どのような人間が、他人に威圧感を与えるのか?をじっくり考えてみて、受ける人々の心持も考えてみようかと思っています。いや、どのような、って私も充分威圧感を与えている側、なんだけれども(笑)。

威圧:威勢や権力などで相手を恐れさせること。

威勢:(1)活気にあふれ、勢いのよいこと。元気があって勇ましいこと。(2)人を威圧するような勢い。

権力:他人を支配し従わせる力。特に国家や政府が国民に対して持っている強制力。

恐れる:(1)危害が及ぶことを心配してびくびくする。危害を及ぼすような人や物と接することを避けたがる。こわがる。《恐・怖・懼》(2)良くないことが起きることを予想し、そうならなければよいが、と思う。危惧(きぐ)する。《恐・懼》(3)神仏などを、人為の及ばないものとして敬い、身をつつしむ。《恐・畏》(4)閉口する。恐れ入る。《恐》

すべての動物には、Neophobiaがあります。新しいもの・奇異なものに対する警戒心で、それは本能に根ざしたものです。危険なものを『危険』と認識したまま、プログラミングの変更を行わなければ、それは他のPhobia(恐怖症)となって根付いていきます。すべての危険物や恐怖症は、Neophobiaから出発するのですが、これは、校長センセが日ごろから話されている「好奇心」に知恵がつくかどうかが分かれ目になり、とにかく何でも!「触ってみる」「食べてみる」「やってみる」などなどというのが、当てはまらないのは、それが毒物を持っている植物や牙を剥く動物などであれば、そこで生命は終わってしまうし、ふぐなどであれば死んでしまうし、基本を踏まえていないロッククライミングなどでもやはり死んでしまうか、大怪我をすることになるわけです。

Phobiaが何の理由にすら根ざしていないものは、ほぼありません。ただし、あまりに極端な恐怖症は、当人にとっては「当然でありすぎる恐怖」なのですが、実際にはその人の経験値や人生の来こし方を表すもので、私のような人間にとっては、「おもしろみ」があるものです。

私は嫌いな人がいません。嫌いなことはたくさんあります。その嫌いなことをある個人Aさんが、行動全体の5割を超えてしまったら、ちょっともうおつきあいができないので、おつきあいを続けなくはなりますが、特に「Aさんは憎むべき存在」というのでもありません。なぜならば、私が嫌いだったり、怖いと思う物事は、なべての人に共通なものではなく、私個人のひとりよがりなことも多いからです。

たとえば私は、男性でもふたりきりになる場合は、背の高い人よりは、背の低い人のほうが好きです。西さんも背が低いことを人生の途中までコンプレックスと感じてきたようですが、私にはそれが美だった。うまい具合にできております(笑)。背の高い男性の方々には申し訳ないのですが、私は自分より背が低くとも、男性は充分破壊力があると信じ込んでおり、その度合いは、Unreasonable(理路整然としていたり、充分な理由が足りないもの)な域に属するのではないかと思うのです。父も私を殴って育てましたし、弟は今でも怒りの頂点に達すると暴力を振るうかもしれない185cmです(笑)。それほどのPhobiaではないんですよっ!ですから、生徒さんの中でも、身長の高い人とふたりっきりでプライベートレッスンをしても怖いわけではないです。ただ、うんと仲良くできる、距離感が近くなれる人は、どうも背がそれほど高い人にはならない・・・。

男性は、背など高くなくとも魅力的な人は魅力的ですし、DNAが大きく左右することにコンプレックスを持つ必要もなく、逆にそれを人間関係において優位に使う必要もないわけで・・・。なので、私は女の子が「背の高い人が好きっ!」と言うのを聞いて、いつも「なぜなんだろう?」と思っていたクチです。が、背が高い人はぜひぜひスポーツをやってくださいね♪と思います。

女性の背の高い人は大好きなんだよなぁ・・・。小さい人も好きですけどねぇ・・・。

ここで威圧感という言葉が入るわけです。本能的に威圧感の強い人は、どうも人々に疎まれる。私はアジア人女性で40歳過ぎているわりには、背が高い。ヒールなどを履くと175cmは超えてしまうし、肩パッドが必要ないほどにハンガーな肩なので、さらに威圧感がある。体格も20年前とは違い、詐欺のように体重が増えました(笑)。声が小さいわけでもないし、顔のひとつひとつの作りも自己主張している部位のほうがずっと多い。主張していないのは、えらやあごくらいで、おまけにほくろがたくさんある・・・。

私は明るくてパワフルでポジティブだと、他人に誤解されやすい。それはさらにもうひとつの原因である、躁鬱病がなせる業で、私の「穏やかな普通モード」ですら、健常者にとっては「鬱陶しい」わけです。私が本当にハイパーなときには、誰も私とは話したくなどないと思う・・・。いや、プロでない人は話してはいけないとすら思う・・・。私がパチパチ音を立てて、タイプをしているときには、図書館ではいろいろな人が振り向きました。オフィス勤めができないのもそんな理由です。筆圧が高く、私は鉛筆を使うときにも「カリカリ」という音を余分に立てるんですね。だから2Bにしているんですが、それでも速さが落ち着いているわけではないですから、音はしてしまう・・・。万年筆は躁状態が長く続いたときに使って、ペン先を何本かダメにしました。ボールペンは弾力があるにしろ、ペンだこがものすごいことになりました。

私が隣で本を読んでいるのを、たとえページをめくる音がしなくとも、きっとそばに居る人にとっては、気になる鬱陶しい存在だとみなす人は多いのでしょう。だから、私は他人しかいない電車の中や、タバコ休憩や、部屋でしか読みません。図書館は「本を借りるところ」であり、留まって読む場所ではないわけです。

そんなわけで、私はこの威圧感と長年闘ってきているわけですが、やはり日本に戻ってきて1年2ヶ月のあいだ、こんなに歳を食っても、まだ威圧感と戦い直さねばならぬと思ってうんざりしており、けっこう疲れています。トーンダウンするのはなかなか難しい。気づくと、新しく引き受けた仕事も、アテにされるくらいの時間数を割り当てられており、コマ数であれば、そのときだけなので、こうした仕事しかできないんだろうな、という運命に気づく・・・。通訳や翻訳も短い期間でなければ、応募する気にはなれないですもんね・・・。

こうした私によくも長年我慢してくれているな、と絶えず感謝し、母や西さんには本当に頭があがりません。でもねぇ、好きでこんな遺伝子をもらって生まれてきたわけではないですもんねぇ。でも、さらに考えてみると、私はまだ健常者に混ざって暮らせるのだからラッキーすぎるのかもしれない。入退院を繰り返したり、経済的に立ち行かなくなっている人々はたくさんいるわけです。そのハザマで、ラッキーなのか、アンラッキーなのか、いつも思いあぐねるわけです。

そして威圧感があるなし論議とは、私がおばあちゃんになっても、おばあちゃん社会でも巻き起こる話題なのだろう、と、先々に関してもうんざりするわけです。

あー、新しい年が来る年末に、こんなショボイ話はしないようがよかっただろうか?いやー、元気だからしちゃうんでしょうねぇ・・・(汗)。


ことわざ・四字熟語を身につける

12/27/2007 にアップした文章です。

国語を教えているんですが、なぜか、身体部分を使ったことわざなどが頻出しています。さらに、「へぇ、こんな表現はまったく知らないのか・・・」と思うような、びっくりがあり、彼らと私の30年くらいのギャップに驚いているところなのです。核家族化で、老人が話すことに触れ合えないことや、両親が働いたり忙しかったりすることで、子どもにはこんなところでマイナスが出てしまうのだなぁ、と。ことわざや漢字が羅列した四字熟語というものは、どれにしてもそれなりの含蓄があり、私が子どものときには、「ふえぇぇぇぇぇぇ!」とか「うわぁぁぁぁぁ!」などと驚いてもいたし、使えたらかっこいいな、と思っていたのですが、それはなぜだったのか?

ことわざ:昔から人々の間で言いならわされた、風刺・教訓・知識・興趣などをもった簡潔な言葉。「ごまめの歯ぎしり」「朱に交われば赤くなる」「出る杭は打たれる」「東男に京女」などの類。
四字熟語:漢字四字で構成される熟語・成句。「一日千秋」「傍若無人」など。
風刺:他のことにかこつけるなどして、社会や人物のあり方を批判的・嘲笑的に言い表すこと。
教訓:教えさとすこと。また、その教え。
知識:(1)ある物事について知っていることがら。(2)ある事について理解すること。認識すること。(3)知恵と見識。(4)知っている人。知人。友人。(5)〔哲〕〔英 knowledge; (ドイツ) Wissen〕認識によって得られた内容。厳密には、独断・空想などと区別される真なる認識によって得られた客観的に妥当な命題ないしは命題の体系をいう。あやふやな信念と区別され、一般に「正当化された真なる信念」として定義される。(6)〔仏〕(普通「智識」と書く)(ア)仏道に教え導く指導者。導師。善知識。(イ)善業(ぜんごう)を積むため、寺院や公共物の建設に金品を寄付すること。(ウ)心が、その対象物を、心の外にある実在物とみなす働き。
興趣:楽しく愉快に感じること。おもしろみ。

もちろん、こんにちの私がこうなったのは、これらを知っていてもそれに敢えて従わなかったり、信じなかったりしたことも大いにあるのですが、幼い頃、とりあえず取り入れてみて、咀嚼した(つもりも入る・・・)のちに、取捨選択した揚句、というプロセスだったとは概ね言えるのです。が、知らないままの子どもたちが多いことに関して、そのまま大人になってしまった人々が多いことに関して、どうしてなのか?と考えると、「露出される絶対量」がやはりまず注目したほうがいいポイントなんでしょう。

日本人の読書量は減ったのか?「活字離れ」という項目があるくらいなのだから、実際減ったのだろうと思って見てみる・・・。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%BB%E5%AD%97%E9%9B%A2%E3%82%8C 確かに減っている模様。データは数的にあるのか?

読書週間のときに書かれた記事では、1ヶ月に1冊も読まなかったという人が50%を超えたという現実があるらしい。本当に無作為抽出しているとしたら、相当に悲しい現実・・・。1ヶ月4冊以上読むという人は、10%だったらしい。私は、1日1冊ペースなので(土日や完全休日の折には、1日4冊など)大いに数的貢献をしているのだけれども、私にアンケートが来た例はない・・・。

おもしろいサイトはこれで、http://d.hatena.ne.jp/MrJohnny/20060614 語彙量について言及しており、著書からの抜書きなども、私の興味はそそった・・・。語彙が15000から20000に減っていたりしたら、英語を学ぶのにも追いつかない(笑)。国語辞典といっしょに点き合わせが必要になったりする・・・(汗)。中学卒業の英語語彙量がだいたい1000~1500語。大学受験で8000語。暮らしていくには、やはり5万くらいあったほうがいい。専門を学ぶことになると、やはり6万から8万くらいはないとつらいことが多い。

言葉を得て駆使することができないと、時間が余分にかかるんですよ。口数を多くしなければ、正確に物事が伝わらなかったり、ビジュアルエイドがなければ(絵に描いたり、映像を見せたり、表やその他で補助する)なかなか理解に達しなかったり、と、困ることがある。逆に考えてみると、まずは新聞、次に映画やラジオ、TV、ネットと発展してきて、その功罪の罪のツケをみんなが支払い始めているところ、ということなのかもしれない。ところが、それを他人に伝える段になると、その映像エイドがないがゆえに、言葉にしなければならないのに、語彙がなくてできない・・・。そして「あれ」「これ」「わかるでしょ?」「見たことない?」などという場面に至る・・・。TVやネットがあるんだから、読書なんて要らないよ!という結論になるのは、元々見えていた結論なはずで・・・(汗)。

こうしてコミュニケーションギャップが起こるわけです。100%でアウトプットされていないものが、正確さを欠いてX-Y%になる過程をどんどん続けていき、実際の「相互理解」が愕然とするほど少ない量と質になっていくわけ。

鎖国をしていて、身の回りのものだけをしっかりわかっていればよかったときはいいんですよ。身の回りにある物事や起きていることに関するボキャブラリーは、江戸時代の人々は、田舎であろうとお江戸であろうと、8・9割くらいはわかっていたに違いない。専門的なことをしている人々とは、四民平等でもなかったので、触れ合う機会が極端に少なかったわけで・・・。

便利になった世の中に変遷してきて、まずはラジオでみな驚く・・・。方言の違いや食べ物や習慣の違い。そのあと、それをしばらくエンジョイしたあと、映画のスクリーンスターと自分たちはまったく違うのだから、と羨望の的になる。でもちょっとだけスターな華やかな気分が味わいたいと、そこを狙った商業主義が起こる。そして、世界はTVによって右往左往するようになり、どこに居てもどんな暮らしをしていても、「平均化」を習慣的な考え方を持ってきた国民には、つんとしたスターよりは、「隣のお姉さん」「庶民派」を肯定することで、自分たちの在り方や生きがいや希望を持てることに繋がり、カリスマと庶民が混在していくようになる・・・。今、その混在が、ネットによってさらに細分化しているわけです。だから高い専門性だということではなく、オタクと呼ばれる実は誰にでも手が届くところにある物事に関しての専門性が追求されているところ・・・。

そうなると、その世界が中心になるよう生活がズレていき、共通言語を持たずとも生きていけるようにはなる・・・。ことわざも四字熟語もさして重大でもないし、接する人々の数もつきあいの浅深もかなりはっきりしていくようになります。悲しいかもしれない・・・。

語彙量が減ってもフツーに生きていける。専門性の高いレベルに行く必要がなければいいわけで・・・。そして自らを「私、バカだから・・・」と最初から低く見積もり、読書はせずに雑誌を手に取る。モンスターペアレントが生まれる由縁も、少し見えてきたかもしれない・・・。

しかも、核家族化はしっかり進み、実際に世代格差がある人々や、趣味やその他の格差がある人々とのふれあいの機会の数が減り、共通語彙そのものが減っても生きていけるわけで・・・。方言はすばらしいと思うのに、どうしてかみな標準語を話せるようになっていく・・・。

自分の語彙量がどのくらいあるか?に、私はけっこう自信がありますが、それもこれもまだしつこく読書を続けているためなのだろうと思うのです。ただし、日本不在のあいだに欠落してきた語彙もたくさんあり、それらをこの1年でどのくらい学んだのか?は、触れ合う機会問題で、けっこう生き延びていけるんだ、という実感もある。

日本はこの先、一体どうなって行くんだろう?と、少し空恐ろしい気分になっている年の瀬です。

紀久美先生へのQ&A~心理学講座編~その73

Q73.

きくみ先生はパパっ子でしたか?ママっ子でしたか?

A73.

私は誰の子ども?と言われていましたね(笑)。けれども父が私を溺愛してくれていたので、父が死んでからは余計に、「パパっ子」となっていてあげないとなーと思っています(笑)。小さい頃から、独立心が高く、あまり群れず、ひとりを好み、迷子にもならず黙々と、自分の裁量で動こうとしていたようで、それがとても不思議に思えていたようですが、途中からなつかせるのはやめたようです(笑)。

弟のほうは、母にひどくスキンシップをせがんでいたので、小学校2年くらいまではかわいくて仕方なかったんだろうと思いますね。

その横で、なんとかわいくない(笑)。

私は誰かと向き合いたいというのはあまりなく、同じ方向を見ていたい、と子どもの頃から考えていたようで、基本的には恋をしても、同じ方向が見れているのであれば、熱く甘くお互いを求め合わずとも、などと思ってしまうようです。

そうした意味では、私の脳は、フローレンス・ジョイナー級の男脳で、誰かに愛をもらいたい、と思うことは、小さい頃からなかったように思います。誰かに愛をあげたい、というのがあって、とにかく動物をやたらと拾ってきては、隠れ家で育てていたもんです(笑)。しかも、よそのわんちゃんの散歩まで引き受けてしまっていたという・・・ (・・;)

愛は自分が与えれば生まれるもの、という体感は、かなり大昔からあったようですね。なので、誰かにひっついていたいとか、誰かに注目されたいとか、誰かに承認してもらいたいとか、そういう想いは、私の人生では邪魔はしてこなかったようです。ラクでした(笑)。

叔母と遊びに出かけることができたり、父の田舎に1か月以上滞在できたり、私は本当にどこの子どもだったんだろう??(笑) 実は最近、ネコのさくらのことを、「この子はいったい誰のうちの子なんだろう?」と思うことしばしば(笑)。というのも、ネコってやっぱり独立心旺盛で、とってもわがままで、気分で行動しますもんねぇ。とはいえ、彼女には明確な目的があって、きっと私などにはわからぬ、行動規範があるはず(笑)。ネコがネコらしくいられるようにいっしょに暮していくと、寿命が長くなるので、それでいいと思っています。我が家の最高年齢のネコは、オスだったんですが、22歳5か月生きました。さくらは、もう19歳8か月。イッタイいつまで元気でそばにいてくれるのでしょう?ママと思っていない私も大概か(笑)。むしろ、パパとも思っていないし、彼女にとって私は何なのだろう??(笑)

というわけで、パパっ子でもママっ子でもなかったのですが、パパっ子と言ってあげないと、早くに死んでしまった父にはかわいそうかもしれないなぁと思います。

またクリスマスを忘れたっ!

12/26/2007 にアップした文章です。

今、これを書いているのは、イブの夜です。母がボーイフレンドの家から2泊して戻ってきて、「相変わらず散らかっている」と口に出さずに片付けており、私は明日の授業の準備をしています(数学だからさ、やっぱり準備しないと不安・・・)。ということで、すっかりクリスマスを忘れてしまい、いまさらながら思い出しているところ。アメリカにいたときには、それなりに町全体に促されて、「集まっておいしいものでも食べて、キリスト教について考えてみるか・・・」などと便乗派ではあったのですが、去年も今年もすっかりすっぽ抜けていた(爆)。日本人の宗教観では、キリスト教だからお祝いするのではなく、商業的な香りばかりが強くて、私個人が思い出して大切にしようという気が失せるからなのだと思われる・・・。

クリスマスの起源や謂れを知らない人はいないと思うのだが、たぶん、ざっくりしか知らない人は多いかもしれない。私は、アメリカにいたころに映画を見まくっていたので、いろいろなことがわかってかなり楽しかった。それでも私はクリスマスの賑わいは好きではないです。今年は、LEDのことばかり考えて、イルミネーションを見ていた気がする(笑)。環境問題が日本人に浸透したのはいいとしても、LEDにその商業的アピールを切り換えたビルや企業はどのくらいあったんだろうか?どこかで統計を出すと、とても私としてはうれしいんだが・・・←別に環境を考える学者でもないのだけれども、なんだか愛国心が増えるかもしれないという希望(笑)。

私が冬期講習会で、なぜか頼りにされてしまい、50コマ(75時間)もの授業を、わずか15日の期間中、おやすみが12月31日と1月2日と5日だけで引き受けてしまったもので、母は歓んでおり、心置きなくボーイフレンドの家で過ごすことになるのでしょう・・・。しかも、5日は英語学校が始まるので、私にとっての完全休日は、12月31日と1月2日の2日だけで、次の完全休日は、1月13日です(笑)。これくらいの理由があれば、クリスマスを忘れても、エッセイが書けなくても、強く文句を言われないで済むかと思えるのです。しかも、1月8日からは新しいクラスを持つことになっており、それにはTOEICがかかっているので、楽しみでもあるのだ♪

しかも、今日はなぜか独協中の入試過去問題の中にあった、村松友視の『アブサン物語』が抜粋されており、それで目を真っ赤にして泣いていた(笑)。昨日はものすごくいやなことがあり、1時間半しか眠っておらず、4.5時間の授業をしたあとに、またもや2時間の授業をしに出かけるのよ・・・。仕事があることに感謝なのだけれども、眠っていないと機能しないやつなので、今日は少しつらい・・・。がんばるしかないのだけれども、やっぱり眠い・・・。明日、どうしてもこれをアップさせようと思って短い仕事の合間にPCに向っているのです。

なので、キリストのことを思い出している暇はなく、あんなに散々泣いた”The Passion of the Christ”などもぶっ飛んでしまっているのである。小さい頃は、日曜学校に小学校4年生から通っていたので、この日は特別な日であった。24日のミサから参加して、翌日もプレゼントなどは気にせずに、福音書をありがたく読んでいたんだよなぁ・・・。しかも当時は、ラテン語で賛美歌が歌えたのだ。不思議だけれども、その歌詞はまだ2・3曲憶えている・・・。

ものすごくいやなことがあった夕べ、何をして起きていたと思います?(笑)求人広告を見たり、それに応募したり、大学受験要項を読んでいたんですよ、ネットで。そしたら気づくと、12時が朝の7時になっており、11時から授業だったので、急いで数時間寝ようとしたのだが、まだ怒りが鎮まっておらず、眠れなかった・・・。そのときに、何通か資料請求もしたし、応募もしたんですが、さっき戻ってアウトルックを開いたら、ちゃんと5通くらいは戻ってきていて、びっくりしました。クリスマス当日、まだみんな働いているのか・・・?

やっぱり日本は24日のほうが大切なんだなぁ・・・と、二度びっくりした次第です。

あ、やっぱり睡眠不足は思考回路に大いに影響しており、話が飛び飛びになっている・・・(汗)。そうだよねぇ、7時間眠らなければならない体質なのに、1時間半しか眠っていないんだもんねぇ・・・。

そして、私は2日間働いてみて、小学校5・6年中学校1年の国語と数学をなぜか受け持ったのですが、英語デビューは明日。ちょっとうれしい(笑)。準備が要らないというのがうれしいわけです。時給外で準備しなくてはいけないのが、こういう仕事のつまらないところで、整理整頓能力が高かったり、順応する力が充分にあったり、内容をすぐに引き出しから取り出せると、本当にオトクかもしれません。もうひとつは、逆さまから文字が読めることかな(笑)。明日の朝は、中学2年の英語で、おしまいが中学1年の英語なのですが、その他は小学校3年の国語と小学校5年の国語。まだ、わからない問題や漢字はありません。よかったです(笑)。中学受験のもので、『平成教育委員会』でたまに脅していますが、やっぱり私は国語は大丈夫なようだ・・・。今日やった数学も、すらすら解けていたので、私が黒板でやり直す必要もなく、ラクをしたといえばラクをしてしまったと言える・・・。

始めてみるまでは、「塾なんて子どもがかわいそう」と非難的だったのです。が、子どもたちはかわいいし、彼らの中では「学校以外で学ぶ」というのは当然で、家にいても誘惑が多くて(ゲームやTVやその他)、なんだか「やっぱり塾はみんな行っているし・・・」というのに飲まれてしまうのもわかる気がしているところ。先生たちのほうはいろいろな方がいて、大学生が主流で、プロの先生たちがけっこういてびっくり。私と似たような年齢にしては学歴が高い女性が主婦をやっていて「他のパートよりもいいから」というのや、リタイヤして教えてらっしゃる男性もいる。30代・40代に見える男性たちは、やはり私と同じように、「コマ数を埋める講師稼業」のようです。

そこでちと考えたのは、代々木ゼミナールでの200人くらいの講義などは、一体いくらくらいの報酬なのか?という疑問。ぐぐってみると、有名な講座を持っている有名ゼミの先生で、15000円くらいらしい。何コマくらいあるんだろうか?さほど数はないように思えるんだが・・・。でも、昔、すごく有名な先生いたよなぁ・・・。TVに出まくっていたような・・・。そういう時代だったんだろうけれども・・・。

とはいえ、これからまたクリスマスモードになるのはちと無理かもしれない。英語でReading:Emotion関係をやったあと、TOEICのListeningなので、そんな場合じゃないかもしれず・・・。帰宅したら速攻で眠らないと、明日の授業は9時20分からだ・・・←準備時間があるので、15分前に出かけなければならないという悲哀もある。

というわけで、今日はかなり乱雑になり、しかも、昨日はクリスマスだったというのに、「死刑制度問題」で申し訳ないです(汗)。

死刑制度賛成ほぼ9割

12/25/2007 にアップした文章です。

この数字にはかなりびっくりした・・・。そりゃ、賛成派のほうが多いとは思っていたのだけれども、ほぼ9割とは・・・。「わからない、一概に言えない」も含めると9割なわけです。これは社会科学の実験でいくと、「死刑制度は正しい」と結論が出せそうな勢いではある・・・。時代に逆行しているメンタリティである・・・。「戦争はしてはいけない」けれども、「政府による罰としての殺人」は支持する人が多いのか・・・。これがちょっと怖いと思うのは、冤罪や裁判制度の穴などを考えているかどうかがつかめないこと。私が危惧するのは、たとえ、自分がその冤罪や裁判制度の穴に嵌まっても、甘んじて受ける覚悟がある人たちが、死刑制度の支持をしているのかどうか?ということなのです。



Just Worldについては前に一度詳しく書きました。「私に限って」だとか「あの人に限って」などというナイーブなメンタリティのことです。これのおかげで、自衛を怠っていることは多く、自分についても顧みられないことが多く、建設的で前向きな意見や行動が取れないことが多いのです。

なぜか人々は、自分の周りには悲劇は起こらないと思い込んでおり、自分が信じた人は決して自分を裏切らないとすら思い込んでおり、実際にその逆のことが起きたときに驚く・・・。予測可能範囲だったことを想定しないがゆえに、その心的ダメージは大きく、対処や立ち直りや修正などに大いに時間がかかるわけです。いい意味での防衛として、「私に宝くじが当たるわけがない」と思っていても、ドリームジャンボは買うんですよ(笑)。なぜならば、自分には「よいこと」は起こりえるわけです。いつもけなげでがんばっているから♪その可能性のほうは決して否定しない。まぁ、いいことなんですよ、このポジティブ志向は。けれども、ネガティブなことを一切考えないのはヤバイです。起きるわけがないと思い込んでいて起こったときには、「まったくどうしていいかわからない状態」に陥るわけで・・・。

ところが、遺族の気持ちには立てるらしい・・・。ひどいやつはこの世から居なくしてしまえ!と、存在そのものを否定する傾向は、かなり原始的から近い考え方で、混在の存在意義を認めてきている近・現代の流れを軽んじているものです。たとえば文化。New Yorkなどで見られた「人種のるつぼ」という表現は、チーズを溶かしたような主流に細かい亜流の文化を持った人々が合わせていくためのものでした。英語では、Acculturationと表現します。が、80年代後半からは、それぞれの個性をなし崩しにせず、いいところは主張し、存在そのものを枯渇・衰弱させたり、絶滅させたりしないように、との願いをこめて、「トスサラダ」という表現に変わっていきました。Tossed Saladは、たくさんの具材がそのままそれぞれの味を主張し、それでも全体的には調和を成すというところから来ています。

日本は島国ですので、外来襲来に対して弱いという弱点を知ったほうがよく、それを防衛するためにはどうしたらいいか?などというのは、スポーツのセオリーなどでもわかるように、攻撃は最大の防御なりなのですから、外来するかもしれない物事や人物や文化その他について知り尽くせばいいでしょうよ・・・。アイスホッケーでたとえるならば、パックをゴールにシュートできないように美しく操作するわけです。よしんばされたとしても、強固な守りができる神様のようなゴーリーを据える。そのほうが、おおっぴらな拒否や、国際的除け者になるよりは、ずっと賢そうですし、和を重んじることになりますもん。『Noと言える日本』以来、なんだか曲解されている物事は多く、ちょいと心配ではあります。殴って子どもが言うことをきくのであれば、いくらでも殴ればいいですが、実際は恨みやつらみや引っ込みばかりが多くなり、子どもの本質を失わせて、伸びる人材になる芽を摘むことになります。いや、ブートキャンプ式が効く人もいるんでしょうが、それがすべてではないですから・・・。

それが犯罪であればどうすればいいのか?そもそも、犯罪ゼロ地域なんてものが存在すると思うこと自体が、ナイーブすぎる。アダムとイブが原罪を持っているという象徴的なあの有名なストーリーを知らない人など数少ないはずです。一度も倫理的にネガティブなことをしたことがない人なども居るわけもなく、ルールを1から100まで守れている人というのが居たら、ぜひお会いしてみたいものです。

不可逆性の殺人においては、死刑は成立させていいだろう、という見解には、やはり私は賛成できかねる。遺族の気持ちを思うと居た堪れないのは事実です。けれども、「そいつが居なかったことにしたら救われる」とうい短絡的な考え方は、やっぱり通用しないでしょう・・・。自分の身近な問題については、「報復や復讐はいたちごっこでキリがない循環メンタリティ」とわかっていて、それが実行できたとしても、他人についてはまったく知らんぷりか・・・。

佐世保のスポーツジムでの事件などに見られるように、犯人がその場で死んでしまったら、死刑制度があろうがなかろうがいいってことなのかしら?死刑で当然だから手間と税金の無駄遣いが省けたってことなのかしら?それでもたくさんの「なぜ?」を未だに追求しているのはなぜなのかしら?「なぜ?」に答えがないことはオプションに入っていないのかしら?そうなると、死刑があっても絶望的なんじゃないのかしら?と私などは思うのです。

この感情的な理屈を日々の中に取り入れてみると、とても怖い。ホラーストーリーです。まだ価値観が一致していない物事があり、そのメンバーの成熟度がバラバラだった場合、「あいつは特別な理由なんかないけどむかつく」と、いじめていてそれには共感できるけれども、「いじめるのはやめよう」という方に共感できない人ばかりだとしたら・・・。というか、現実、そんなことが日々起きているわけですが・・・。大人ですら、職場でそれくらいのキチガイ沙汰が起きているわけで・・・。よしんば、「きれいだから」「仕事ができるから」「ブスだから」「仕事がまったくできないから」などと、いくら理由をつけても、同じことではあります。いじめに遭った人の体験談を聞いて、「私もよ」と涙する人は山ほどいますが、冤罪については誰も何もしようとしない確率のほうがずっと高い。ならば、その根っこのところにある「冤罪を防ぐ最大の方法」として、取り返しのつかない死刑という生命を奪うことだけはやめようというアイディアがあっても悪くない・・・。

実際に、アメリカでは、いろいろな州が告訴されています。民事で数千万から数億のお金を支払う羽目になっています。DNA鑑定ができるようになってから、たくさんの人々が冤罪だということが判明しているわけです。自白や目撃証言で立件されたケースについては、その予防のために取調室のビデオ録画なども義務付ける州すら増えています。

人殺しをした人間を税金で食べさせる必要はないと怒っていますが、むしろ年金問題や、軍事予算や技術開発のための予算のほうがでかいだろう・・・(汗)。しかも、自動的に得られる権利である裁判が度重なるたびに、税金は使われているわけで・・・。終身刑にしたほうがよっぽど安上がりだし、本人の意志があれば、データがたくさん取れるんだから、私にはそっちのほうがずっといいと思える。CTスキャンやMRIなどで脳の働きを取ってみたり、退行してどんな家庭環境だったか、どのくらいの学習ができているか、どんな事件があったからそうなったのか、などなど、データの宝庫だけどなぁ・・・。

そもそも、死刑に賛成している人の最大の理由は何なのだ?単純に抑圧して制止力があると思っていらっしゃる間違った情報を信じている方々もおられるようだ・・・。遺族の感情だとも言うんだろうか?私は被害者ですが、そんな報復・復讐心を持っているあいだは、まったく立ち直れた感はなかったですし、PTSDの症状も停まりませんでしたから。そんな人を社会に存在させておくのが怖いだとか恥だとかいう理由もあるんだろうか?だとしたら、大いに恥じていただきたい。彼らを作ったのは、直接的でなくとも、私たちなのだから・・・。

過去エッセイと反復しましたが、ニュースに驚いたので、また書いてみました♪

本当に師走だっ!

12/24/2007にアップした文章です。

今日は12月23日で、明日アップする用にエッセイを書いているのですが、どこもかしこもみんな本当に落ち着きが見られない。駅前だからなのかなぁ・・・。冬期集中講習会実施という塾で、英語の先生をやってみることにしました。そのせいもあるのかもしれません。普段のスケジュールに戻ったら、そこで働ける時間は、わずか週に6時間しかないのですが、他人様がお休みしているときには「どうしても働きたい」という天邪鬼の私には、こうした仕事に一度繋ぎをつけておくことはいいことのようです。ところが、それほど時給はよくない・・・。普段は2500円以下の仕事はしないことにしているのですが、マンツーマンの塾で、小学生や中学生相手にそんな値段を取る方も取る方だし、仕方がないのでしょう。しかも、国語や数学もたまには教えることになっており、英語と違い、少し復習が必要(笑)。

家から徒歩で2分のところにあるんですよ。いつも前を通っていたのですが、子どもの姿がそれほどあるように感じておらず、中に入るとけっこうわんさかいるんでびっくり!そこにも直接行ったわけではなく、塾の先生専門の派遣業をしている会社というのがあり、そこに登録をしてみたのです。すぐに仕事がありました。びっくりです。

英語の講師をしていて、イチバン若い子が15歳。それ以下の小学生や中学生を教えたことがなく、「一体自分の人となりはどうなんだろう?」と疑問に思ったのがはじまりです。私は子どもが嫌いではなく、むしろ好きなのですが、1日24時間いっしょにいても、「子ども扱いしない」というところが、他の大人にとってはとても奇異に映るようです。子どもと友だちは違うので、「対等に話さない」「寛大すぎる態度は取らない」「馴れ馴れしくしない」などいろいろな賛否両論がある中、その中庸というのは求められないものか?と、少し哲学的というか・・・社会科学的な心理学の分野を、身体を使って実験してみる、ということに相成ったのでした。だから、今回は時給はあまり考えておらず、短い決まった時間+疲れない程度の週6時間ということで、納得しながらやろうと思っているわけです。

いやー、長くいっしょにいて、上下関係や秩序やパワーの違いなどを、常に前面に出して暮らせるのだろうか?と、そこが疑問なのですよ。それを続けていくと、性格や考え方に違いが出てくるのだろうけれども、では、その閾はどのへんにあるのか?そもそもの性格が私くらい「パワー」に頑なな場合はどのくらい偉そげになれるのか?などと考えてしまったのですね。私は保母さんや保育士やベビーシッターはたぶんできないだろうと思うのです。学習する能力がある程度開けていない存在に対しては、自分が消耗するのも気づかないほどに、献身的になりそげで、どうなってしまうのか怖いというのが正解かもしれません。看護士さんや医師などの仕事も同様です。選べません。

子どもでもたいへんだよな・・・と思ってみたり、小さい頃に受験をしておけば、その先本当にラクなのか?というのを見届けたい気持ちもあります。私自身は、順番がしっちゃかめっちゃかで、それでも何とかなって、本当に楽しく暮らしているので、どうしたもんだか、参考にはあまりならないのだろうし、来年からやるセミナー講師の仕事にも、いろいろな人と触れ合うのはいいことだと思えているわけです。

やりたいことがたんまりあり、特に年末になると、来年の抱負というものを考えてしまうので、頭の中も師走の町並み同様、かなり落ち着いていない状態なわけですよ・・・。

でも、なんとなく来年へのいい予感みたいなものがあり、働いていてもけっこう楽しい。家を出たり入ったりするのも楽しいし、ネコたちとほわーんとしていられる時間も限りがあるからこそ楽しいと思える。師走のなせるマジックなのか?(笑)

というわけで、私は仕事が12月30日まであり、1月は3日から働きます。さすがに30日と3日は2コマしかないんですが、4日からはフルタイムと同じで、8時間くらいずつありますね。英語学校のほうも、1月5日から稼動です。

企業セミナー講師のほうは、1・2月は営業に廻ったりもすると思うし、準備にこそこそと時間がかかるのですが、つい最近も裏メールで校長センセにご助成いただき、コツがつかめてきました。校長センセは、本当に校長センセで、教え方が非常に上手だ。私が納得するくらいなんだから、ひねくれた生徒さんでも大丈夫だということなのだ(笑)。西さんといっしょにやっている会社のほうも、ひらめき案をいくつか形にしたいものがあり、ちょっといいコネクションのアテもちらほら出てきており、ねずみ年はいい年になりそうな予感なのです。

というわけで、ものすごく忙しくパチンコなどもう1ヶ月ほどお店そのものに入っていません。3週間くらいかなぁ・・・。あれは、2・3時間しか時間が空いていない場合は、行けないのです。もしも連続して出てしまったら困るし、出ない場合も出ない場合で困るしね・・・。それに思うんだけれども、冬のパチンコやさんは、コートがかさばらないかと・・・。店内はヒトがたくさんいて暑いから、脱ぐでしょ。でも隣までの距離は少ないでしょ。コートにタバコのにおいもついちゃうし、気温差が激しかったり、匂いがこもったりと、あんまり生理学的に行きたいとも思えていなかったのは事実。

あと、2つほど忘年会があります。英語学校は12月26日が最終で、1月5日からなので、1週間と1日分だけお休みということになります。が、1月ってそれほどお休みが多いわけでもなく、連休が多い3・4・5月などに比べると、稼働日そのものは多いのね。新しいカレンダーは、母がどこかからもらってきた花シリーズです。写真なのでリアルにきれいだ♪なんだか、来年はもうあと8日後に迫っているというのに、どうも私自身は普段と変わらないペースでいるので、すっかり町の慌しさに違和感がある・・・。でもどうにかして、今年の反省会くらいはやったほうがいいのですが、バタバタとしており、しんみり真剣に建設的にやってみられるかどうかは、わからず・・・。時間は作ればあるんですが、どうも気持ちが来年という感じがしていないんですね。西さんが旧暦のお正月まで戻ってこられなくなったので(中国では元旦しかお休みじゃーないそうです・・・)、私もそれに合わせて休んでもいいしな、と思っているようです(笑)。

そして、さっき、年末年始のスケジュールをもらってきたのですが、なんと、35コマ52時間半も入っている!英語学校を実質的に8日お休みしても、同じくらいの金額が稼げることがわかった・・・。しかも徒歩2分で、新宿まで出る片道の30分と準備時間の20分が要らない、と・・・。でも、時給がぜんぜん違うので、やっぱり損な気分でもあるのか・・・。どうなんだろうか・・・。

年明けからはPre-TOEICというクラスが加わることになり、この年末年始で留学を決心してほしい女性がひとり居り、やっぱりバタバタなのは変わらない。いつになったらアメリカに行けるか?というと、何か大事(おおごと)がなければ、留学を決めた看護士さんの渡米に私が6月にくっついていくことには予定になっています。そうです、最初に出会ったときに泣かせてしまったヒトね(笑)。

これからどんどん日に日に刻一刻と、「本当に師走だっ!」と叫ぶようになるとは思うんですが、まだまだ身に染みていないようです・・・・・・・。

ネットで買い物

12/23/2007 にアップした文章です。

最近、ネットで買い物をするのを母が楽しく思っており、ネコ関連の買い物はすべてネットに切り換えることになりました。ネコの砂はとても重く、一袋7キロという負荷。缶詰は重いので却下して、レトルトパウチのものを探していたのですが、どうもたくさんの種類が買えないらしく、彼女の買い物心に欲求不満が残る。カリカリと呼ばれるDried Food(ドライフードっていうのか?)も、日本ならではの味があるらしく、できるだけたくさんの種類で、身体にいいものを買ってあげたいらしいので、やっぱりネットで検索して、届けてもらうことにしました。マンションの3階まで上げるのはこまごま買えばそれほどたいへんではないのですが、まとめて買ったほうが安いことに、彼女は、目下驚愕中です(笑)。

私がネットをしていて、調べ物やらタイプをしていたり、ゲームで時間を埋めているのを見て、彼女としてみれば、「お買物できるよね・・・」といつも見ていたらしく、私がNIKEのシューズを買ってから虎視眈々と狙っていた模様(笑)。私がスニーカーをネットで買ったのは、足のサイズがでかすぎるため(笑)。168cmあるので、25.5cmあることはそれほど恥ずかしくもないのですが、椎間板を2枚なくしてから0.5cm大きくなったのは、やはり歩く量が減ったのと、体重が増えたまま減らないせいなのでしょう。どうしても黒いものが欲しかったので、ネットのほうがずっと早かったわけです。

その前にも、レンタカーの予約やぐるなびでの店検索などは、彼女の意識としては「へぇ、便利だなぁ」と思っており、調布の駅近で、ヌーベルシノア(新しい中華料理)のお店を見つけたあと、彼女を連れていったあと、彼女はそのお店に1ヶ月に1回は行くようになったので、きっとネットでの検索パワーを実感した模様(笑)。ネットでのクーポンで10%引ぎだというのにも魅力があったんでしょうねぇ・・・。


私は趣味のない人間なのですが、しゃれで履歴書には20代の頃、「耳かき、枝毛きり」と書いていました。枝毛はもう20年くらいないのですが、バイクに乗っている頃はどんなに気をつけてもまばらにできましたねぇ・・・。チタンの耳かきはすごいもんで、3000円近くするんですが、どうしてもこれが欲しいと思いつつも、竹製でも用は充分足すので、ただ見ていただけなのです。が、そのあとから、母はネット買物に対してたいへんに興味を持っており、今、けっこうたいへん・・・(汗)。これがサイトです。


私が何かをやっている最中ではない、と判断し、自分もTVを座って見られるくらいの暇を認知すると、「ねぇ、ちょっと調べて」とお買物の値段調べを依頼してくるようになったわけです(笑)。それが、健康用品やら洋服やら、私とは180度興味の方向が違うもので、操作している私のほうは、かなり苦痛が伴う・・・。しかし、彼女は「私はメカには弱い」と、なぜかPC操作までが「メカ」の範疇に入っており、マウス操作をしてくれない(笑)。

来年の私の課題は、彼女にタイプはさせなくとも、ひとりで電源を入れて、ひとりで楽天などを開くことができて、ひとりでクリックして、いろいろなサイトが見られるようにすることなのだ・・・←けっこうシリアス。

彼女につきあってみてわかったのだけれども、ビジネススーツもけっこう安くあるんだなぁ、と、私もついでに買おうかなぁと思えたくらいの時間を費やしています。さらに、彼女にはまったく関係なく、カニを年末年始のいつか取り寄せて食べてみようかなぁ、とも・・・。そうなのよぉ。私はこの世にあるぜいたく品の中で、カニとふかひれだけは好きだ。

http://event.rakuten.co.jp/ranking/food/110411.html もうびっくりしたのは、カニを取り寄せできるお店の件数がこれだけあるってことで、「みんなどんな基準で選んでいるんだよっ!」ってこと。コメントやらいろいろ全部読んでいるんかい?と本当にとまどいました。でも、産地直送の食べ物は、ネットで探すのが最も手っ取り早いのかもしれません。ちなみに広島産の牡蠣も調べてみました(笑)。http://event.rakuten.co.jp/ranking/food/110406.html ん、こんなにありました。すごーい!

が、やはり私には物欲がそれほどないらしく、けっこう醒めてしまうんですね・・・。使わないものは要らない、と・・・。食べ物は食べたいとは思うのですが、母がボーイフレンドの家にお泊りに行く都合もあり、段取りをしっかりしなければ、届いた当日に食べられないことがある。年末年始やGW、祝日が多いとなおさらなのです。だから、ピザの宅配も同じで、合意に達してもイベントがなければオーダーできない感じ。私が仕事で戻るのが、夜の10時20分くらいなので、11時まではオーダーできるらしいんですが、規則正しい母が食事は作ってしまっており、いつもなんだか逃す(笑)。

それに!母はカニがそれほど好きじゃないんですよねぇ・・・。私は母と食べ物を取り合った記憶というのが、一度もないのです。ものすごく好きなものが合致しないので、「余ったらぜひ私が欲しい!」ってものが違うせいです。焦がしただの、レシピが違うだの、工夫が足りないだの、温かいものを醒まして出すだの、実験材料に使われているだの(訳のわからない発明もどき料理が好きなのよ・・・)、という言い合いは比較的しょっちゅうあるものの、毎日1回以上は、ごはんについて褒めており、そのせいもあってか、私が好きなものは私の分量が多く最初から盛られており、彼女の好きなものは彼女が私に隠れてでも食べている、と・・・(笑)。私が仕事に出ているあいだに、「自分だけ好きなものを食べては申し訳ない」と思っているせいもあり、居ないうちに誘惑に負け続けて食べてしまっている、という構図なんでしょうねぇ・・・。

なので、産地直送オーダーでは、届いてその日に食べたほうがいいもの、は合致しないようです。北海道の新鮮な鮭などは、到着した途端、彼女がきれいに切って、冷凍用と冷蔵用に保存してしまいますしねぇ・・・。私は、りんごはもう小学校のときに一生分を食べてしまっているので食べたくもなく、父の実家から送ってきたものは、1個も食べないで終わってしまいました。私はそれほど鮮魚などにこだわりがないからこそ、アメリカに18年半暮らせたのかもしれないです。母は暇さえあれば、私に隠れてくるくる寿司に行くようですし←どうも隠れて食べる癖は、直っていないらしい。5皿くらい食べて、ビールを飲んで戻ってきて、ひとりで倖せそうにしているときは、かなり怪しい(爆)。

この先、ネットで何を買うのかわかりませんが、私に隠れて散財できるようになっても困るので、マウスクリックだけは本当に教えなくてはいかんと思うし、検索の仕方がわかったほうがいいだろうとも思う・・・。それには少しのタイプができたほうがいいのだけれども・・・(汗)。

やっぱり私はネットでは本くらいしか買わないんだな・・・。靴と化粧品一瓶を買っただけで、あとは母や家庭用品しか買っていないことに気づくのである。あ、コーヒー買いました。たまにありますね、激安なのが♪

紀久美先生へのQ&A~心理学講座編~その72

Q72.

子供にお勧めの習い事があれば教えて下さい。男女で違いはありますか?

A72.

個体には向き不向きがありますが、私個人は、将来のためにこれだけは初期に身に着けてもらいたいというのに、

・水泳

・スキー

の2つを挙げています。

日本人はさほど割合が高くありませんが、アメリカでは泳げない人はけっこういます。

https://www.accuweather.com/en/weather-news/making-a-splash-more-kids-are-learning-to-swim-study-shows/70002404

この中から抽出した文章が以下:

64 percent of young African-Americans, 45 percent of Hispanics and 40 percent of Caucasians have little to no swimming ability.

黒人:64%、ヒスパニック:45%、白人:40%

が泳げないのです。これをもう少し追求していくと、世帯収入が低い家庭の人々、となっていることがわかります。

日本人はかたや、かなり泳げます。しっかりした統計が見つからないのですが、10人に1名くらいが自信がない、溺れるかも、程度で、かなりいい感じです。もしものときのために泳げることの他、昨今では、高齢者調査で、水泳ができる人のほうが認知症にかかりづらいという統計も出ていますし、心肺機能は基本ですしね。

もうひとつのスキーは、「勇気」を促進するはずだからなのです。スピード感を子どもの頃、自分の体重分しか出ないスピードが引き受けられ、骨折しない程度の体重のときにマスターしておくのを、私個人はオススメしています。後年、私はバイクに乗り始めるのですが、私はスピードに強かった(笑)。なぜならば、父がスーパーカブにノーヘル状態(その頃はヘルメットは義務ではなかった)で、よく乗せていたらしいのですね。パイロットにもなれましたし、勇気が必要な物事に動じないことは、生きてきた上でたいへんに重宝しました。

これに男女差などはないと思います。

柔軟性も生涯の中では大切で、どんなスポーツでも利点にしか働かないので、体操などもいいかもしれませんね。https://allabout.co.jp/gm/gc/389495/ ちなみに人気があるのはこんな感じらしいです。私個人は、子どもたちにたくさん習い事をさせるのは、あまり好みません。が、兼業のお家では、なかなか子どもたちを見守ることすらできないので、便利に周りの大人に育ててもらえる時間を作るのも大切ですね。

子ども同士で外で遊ぶのも、昨今物騒な事情らしいですし、子どもたちがかわいそうでならないのです。昭和に生まれて育って、いい時期だったなぁと思いますが、昭和に戻りたくもありません(笑)。この進んでいる感いいですねー♫


勉強の環境

12/22/2007 にアップした文章です。

頭の引き出しが多い人の習慣―仕事も勉強も..
私個人だけの問題ではないと思うのだけれども、どうも刺激となる外的要因が多いと感じます。子どもの頃、ろくに勉強をしなかった私は、大人になってから真剣に勉強を始めたのですが、それが24歳半になった渡米後の集中英語学校でのこと。それ以来、やはり私は自分が図書館やクラス内で集中できないことに気づく・・・。子どもの頃は、夏休みの宿題をまともに提出したことがなく、日々の宿題は、朝ドッヂボールが終わってから、先生がホームルームをやっているときにこなしていたくらいなので、あのときにはさほど集中力が必要とされていなかったんだなぁ、だとか、だからこそ大したことが頭の中に残っていないのだということに気づくわけです。やっと日本も大人になってからも勉強を続けられる環境が整備されつつあり、今日は勉強をする環境について考えてみる・・・。

今もこうしてマンション内にいても思うのだけれども、利便という点で我慢するしかないとしても、音に気が散る。TVをつけていても気にならないのに、どうして車の音やスピーカーで放送する音は気になるのか?(笑)選挙のときはひどくて、このへんは駅前なので必ず通るコース。ひどかった・・・。

ヒトの集中力というのには限りがあり、子どもでは45分、大人では90分とされています。もちろん、その幅の中にも波があり、教えるほうの努力や、学ぶほうの工夫も問われていきます。

ヒトには気が散る雑音というのがあって、リズムがある音はダメなのです。たとえば、がタンゴトンという電車の音は、眠りを誘います(笑)。なぜならば、これは母親の胎内にいたときの心音に近い間隔が得られることがあり、心地よくなりすぎてしまい、集中力には直結しないのであーる。なので、我が家の前を通っている甲州街道を走る車の音も似たようなもので、信号があって停止することはあるものの、車が走って流れている音は、集中力を緩める力があるわけです。

羅列してみるとこんな感じ。
1. 物理的に大きい音:工事現場や飛行機の音など
2. 相対的に大きい音:現在の環境に流れている音と比較して差が大きく感じられる音←たぶんこれがイチバン、勉強環境には微妙に影響していると思われる。
3. 音色が不愉快な音:黒板に爪を立てた音や、ブレーキの軋みなどで、「慣れない音」とも言い換えられる。
4. 繰り返される音:あまりに長く延々と繰り返される音にはうんざり感をもたらされる。よい意味での集中力破壊には、胎内での母親の心音をもたらすようなものがあるが、誰かの口癖などもうんざり感という意味では同じ。

音っていうのはでっかい要素なので、勉強が捗らないときにはまずチェック。

その次は視覚問題で、光。私はわりと暗めが好きなやつなのですが、手元が暗い場合には、頭に入らないことは確か。明るすぎても興奮してしまい、それほど集中できないです。変に気分が高揚してしまい、穏やかな集中力にはならない。

さらに、ひとりのほうが確かに集中力は高まります。ただし、たくさんの集まっている人間が自分に無関係の人間であれば、それほど邪魔をしているわけではないのです。市役所などにある学習室がそれで、まったくの他人たちが集まっていて違う勉強をしていても、集中力にさしたる影響はありません。

私がダメなのは、彼らが話す自由があるような空間。学校の図書館などは「静かに!」というルールを励行しているのですが、コピーや電話の音はありますし、私の行っていた大学は大きいので、図書館だけでオンキャンパスに11個あります。そのどれもがいつもなぜか話し声がする。なぜならば、教授が資料を「公開」しておくので、それをコピーなりして提出物を出す、という課題を出すからなのですよ。司書さんたちと誰かが必ず会話をしていたり、セキュリティゲートがあったり、コンピュータの電源がオンになっており、ジージーと音が聞こえて、その雑音を消せるような画一的な心地よい雑音を私が作れないところに問題がある・・・。ましてや、ヒトの話し声はどうも聴いてしまうのですね。いや、聴こえてしまう、というのが正確なのか・・・。

さらに、集中力を切らせないためには、クリアしたい目標をわりと細かく掲げておくこと。集中力が切れそうになったら、ページを括って「あと何ページ」とやってみたり、カレンダーを見てテストの日にちを見つめてみたりするのも助けになります。チャプター立てをするのも手だし、科目を変えて小刻みにするのも手です。1日ずっと英語をやるだとか、半日ずっと数学をやるのは、実はあまりよくなく、90分セットで計画したほうがいいです。

なので私は、同じ心理学でも科目によって90分で分けていましたし、読む・書く・タイプする・調べるなど、作業を分けてやることにしていました。1チャプターをその作業が終わったあと、次のチャプターに進むことにすると、飽きもせず、10時間くらいは勉強できたものです。途中、ごはんを食べるんですが、そのときには「ごほうび」と称して、ごはんを自分にあげる感じ(笑)。あとは、TVをつける。

あー、私は勉強だけは勉強に集中しており、他のことは2~4つくらい同時にこなしているんですが・・・。でないと、どうしてもたくさんの情報をインプットできないようです。何がキューになり、日常生活でいろいろなことを記憶にとどめてしまうのか、わかっていさえすれば、無駄な容量を使うこともないんですが、どうしても憶えてしまうことを取捨選択しきれるものではないようで・・・。生徒さんの出身地や最初の赴任地やら兄弟情報などまでしっかり入ってしまい、いつになったら忘れられるものなのか・・・。

私の場合は、インプットには苦痛がないのですが、記憶を出すほうに苦労があります。どこにどう仕舞い込んだのか、子どもの頃から同じで、これは年齢が行くとさらに進む苦労なのでしょう。テストでは100点なかなか無理です。4教科分で定義だけでも相当に記憶しており、その中で抜けているもの、まったく見ていないものはなく、類義語などの判別が難しい感じでしょうか・・・。

はい、普通自動車の学科試験の勉強はひとしきりやったのですが、もう一度最初からやり直さねばなりません。アメリカの法規とごっちゃになっていたりもして、そのへんがいけません。20年以上前の日本の法規と変わった点を表にしたらいいかと思うんですが・・・。やっぱり必要に迫られていないので、やる気がイマイチです。が、この冬休みにはやっぱりやろうかな・・・。

それから、匂いもけっこうな誘惑です。匂いは慣れるのが早い器官ではありますが、食べ物の匂いだったら、いっそのこと負けて、何か食べてしまい、休憩をしてから勉強しましょう♪私はいつもそうしています(笑)。

誘惑の多い物品を周りに置いておくのはやめたほうがいいです。携帯の電源を切ろ!とまでは言いませんが、音楽やTVなどはやっぱり誘惑ブツですから。ながら勉強は、やっぱり成果はなかなか上がらないと思います。凡人である限りは・・・。