紀久美先生へのQ&A~心理学講座編~その62

Q62.

集中力を高めるのに効果的なことはありますか?

 

A62.

http://preciousoneenglishschool.jp/karakuchisaying/やる気が停滞・・・そんなときは?/
こちらにそもそもやる気が停滞した時に考えてみたらいいかもしれないというコラムを書いています。集中力以前の問題かもしれませんが、これも参考になります。

そのことだけを行える環境を作っておく
シンプルで誘惑がない空間を確保する
耳に入る音が少ない環境を確保する
時間を区切る目標設定をする
あるいは、段取りの段階で区切って目標設定をする
準備万端にして計画的に取り組む
環境科学で研究された椅子・机など身体がラクになる用具・機器を取り込む
自分なりのパターンを決める:Ritual(儀式)となる合図を決めておく
視覚脳トレのサイトで遊ぶ
脳によい食べ物を普段から摂る

私には子供がいないので、しかも専業主婦でもないので、追われるような仕事があるかというと、やはり自分の仕事だけなのです。だから簡単なんですね。お子さんを持ってる方や、並行して部下をトレーニングしなければならない方や、たくさんの人々を管理しなくてはいけない立場にあると、自分の仕事がおろそかになるということはよくありますよね?

個人的に、かなり子供の頃から私はこれらの法則性を身体に語ってもらっていたような気がします。水切りの練習をするときもひとりぼっちて行っていましたし、時間も夕方と選んでいましたし、場所もみんなが集まるようなところではなかった所にわざわざいっていました。その日は必ず6回飛ばせるまでは続けてやることを心に決めていましたし、最良の石を選ぶための時間を先に確保していましたし、投げる前に心の花の掛け声というのも思っていました。それは水切りだけではなく、かけっこでも雲梯でも跳び箱でも縄跳びでも同じことでした。これが読書になったり勉強になったり仕事になってもさして変わりはありません。

小さい頃あまり勉強しなかったので(笑)、身体の声を聞くことが得意なんですね。しかも自分が決めたことが成功しない限り、どうしても納得がいかない。だからこそ、時間を区切ってダラダラやることに対して、本当に気持ちが悪いという感覚を 身につけてしまったというアドバンテージが、大学に戻る前に出来上がっていたことが幸いしました。

これらができるようになったあと、勉強する時に「ランナーズハイ」のような「Leaner’s high」を体験するようになるわけです。そうなると面白すぎて知らない間に45分・60分・90分・120分など、自然に時間が過ぎている、という状態が出来上がっていくわけです。

これらを身につけるのは、特に勉強だけでなくていいと思うんです。私個人は遊びの中でこのメカニズムを体に取り入れたんですが、不器用な場合には勉強や仕事で身に着けるのが難しいなあと感じてしまい、まだまだ躊躇するような、まだまだ試されているような、完成していないような感覚のままの方は多いのかもしれません。

が!あなたの中にも必ず集中力をマックスにする力は潜在しています!がんばってくださいね!

 

保身の実態 その1

11/13/2007 にアップした文章です。

 

日本に戻ってきて、何が人々の行動指針・基準になっているのか?と見渡すに、やはり「自己中心」Self-Esteem(自己尊敬心)の間違った維持や昇華、などが原因になるケースが多いことなんだろうな、と、数値は取っていないものの、体感をしています。ヒトがヒトとして生き延びるためには、確かに自分を好きでいながら、個体の中で「理屈が通る」ことが大切です。が、間違ってはいかんのが、他人もやはり同じように考えており、自分と他人の価値を同等として、出発点で考えていないことなのでしょう。ここは、大きな狂いを次々と醸しだす原因になっています。

保身:自分の身体や地位・身分などを守ること。
自己中心性:(1)物事を自分を中心にしてとらえ、他人を考慮しないこと。エゴイズムとは異なる。(2)〔心〕 ピアジェの用語。乳幼児期に特徴的な思考様式で、自我と他我、主観的事実と客観的事実が区別できず同一視してしまうこと。
自己言及性:〔self-reference〕自己自身を指示・言及すること。パラドックスを導くものとして数学・論理学の領域で注目され、社会システム理論でも問題とされる。
自尊:(1)自分で自分を偉いと思い込むこと。(2)自分の人格を尊重し、誇りをもち品位を保つこと。
自尊心:(1)自分を優秀な者だと思う気持ち。尊大に構える心。プライド。(2)自分の品位を保とうとする心。プライド。

うーむ、なんだか壮大なことに手をつけようとしているのですが、これまでまとめて扱ってこなかったので、その報いなのかと(笑)。諸処に散りばめては来たのですが、お茶を濁してきたように理解され難いことを書いてきたのかもしれず・・・。

ヒトは、大脳が発達してしまったために、論理性・記憶などの他の生命体にない特権を持つことになりました。そのおかげで、恩恵もたくさん受けたものの、諸刃の剣として引き受けねばならぬのが、この大脳が造りだす負の部分。

アメーバはBeing(存在)として意識をしているのか?よりよく生きるためにはどうしているのか?この問いそのものが、かなり陳腐ではあります。脳すら持たないアメーバは、種としての存続すら考えておらず、最低限の「生き延びること」に日々邁進しています。そのおかげで、よりよい環境に移動したり、進化するための食物として摂りいれる種類を増やしたりしてきていますが、ヒトはもっと広大な範囲で進化してしまった。ところが、それを進化となべて呼んでいいのかどうか?これが、そもそもの問題ではあります。ヒトは、他の生命体とどこを異としているのか?出発点はあくまで生命体としての基本なのではないか?生物学者や動物学者などに言わしめれば、ヒトはたいへんに尊大で傲慢なイキモノということになるのではないでしょうか?『弱肉強食』という言葉に対する解釈も、その視点や世界観により、大きく違ってきます。

遺伝子に組み込まれてしまった「本能」は、後天的な学習により120%の改編が可能なのかどうか?それは強さにも方法や時間にもより、「対象物によって違う」という結論しか、今のところは出ていません。そのおかげで進化は可能だったわけで、こうしてヒトは産業革命や技術革新を起こし、ここまでたどり着いてきています。長いながい歳月が必要なものと、環境整備が必要なものと、心的作用が強く必要なもの、など、その分類は、この1世紀でずいぶん進んだものの、脳神経学や社会学や経済学などと共に、まだまだ解明の道を歩んでいます。

そこでまず第一の大きな質問:
ヒトは、他のどんな生命体よりも「価値が高く、偉く、賢く、存在意義が大きいのか?」

これは、自分も含め、人間をそれぞれの個人について考える基礎的な考え方になります。大切な質問であり、大切な答えです。私は、30歳を過ぎてから、もう一度大学にゼロから通いだし、しかもそこがアメリカだったせいで、アップデートができたのですが、その中に生物があり、宗教学があり、倫理学があり、歴史があり、本当にいい時期にやり直しができたものだと思っています。しかも、論理的な英語という言語で学んだことで、さらに浸透度も深かったのではないかと。いや、当時は、火成岩の種類がいくつあろうとどうでもいいじゃん、などと思ってはいたのですが(爆)。ところが、そののち、御影石(深成岩に分類され、さらに流紋岩→花崗岩と分類される。墓石などによく使われる)を視る眼が変わってきた(爆)。不思議なものです。が、やはりそれは「共感」でしかなく、私は岩ではない。なので、生物や心理学を学ぶにあたり、よく作用したものの、フルに使ってはいないんですけどね・・・。石屋じゃないし・・・。

便宜上分類することと、そこに後々意義や定義や意味を加えることとは、ふたつの似た別のことです。どのような意味合いを持たせて分類するか?という含みがあるので、そもそも、便宜上だとは思わないのでしょうが、実際は、その分類の意義のみが純粋な意義であり、後付の意味や価値などは、分類したBeingがよしと思う、主観が混じっています。分類学者で有名なのが、スウェーデンのリンネですが、未だに基礎として使われており、偉大です。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%8D 彼が偉大だったのは、簡素な構造から、複雑な構造の生命体へとメカニカルに分類したことで、そこには、ヒトが最も偉い、という記述はありません。ただ、「複雑」という意義しか与えていないことに気づける人間は、少ないのかもしれない。なぜならば、ピラミッド型の食物連鎖モデルや、複雑な物事が与える印象で、学習してしまった価値観があるからでしょう。

私個人は、純粋に、『職業に貴賎なし』だと信じており、『生命体に優劣なし』とも信じています。が、ヒトに生まれてしまったので(私が前世が終わったときにこの生命を選んだという仮説は成り立ちますが、証明は誰もできないはず・・・)、その中で、パワーゲームという、力を誇示したり、利用したり、簡素で当たり前のことをごちゃごちゃにしてマヤカシを使う傾向を、自分の環境の中、できるだけ最低限にしているつもりでいます。

それを体現するのはちとたいへんで、偽善者とよく呼ばれたり、自己認識する場面には遭遇します。たとえば、害虫と呼ばれる虫たちを、平然と日常的に殺す母を代理人に立てているような気分になること。私はもうどのくらい蚊を殺さずに済んでいるか?とつらつら考えるに、アメリカには蚊がほぼいなかったことが助けになっていて、キャンプやハイキングでも高地を選べば水辺でもそれほどいなかったこともあり、もう20年くらいは軽く殺していないのかもしれない。ただし、車を運転していて、無差別に虫がシールドにぶつかってきて死ぬので、直接的で計画性や殺意はないものの殺していることには違いはないのですが。ネズミもアリも殺さなかったし、どうも徹底しているのである。カニが好きなのですが、カニも他の人に調理してもらっているし・・・。本当に偽善者なのである・・・。

イヌイットやアメリカンインディアンのように、自分に必要がない殺生はしない、というのが私の規範なので、自分が豊かになったり肥えるために、肉や魚を食べている意識はありません。なので、私の舌はいつまで経っても貧乏症なのでしょう。

明日は、ヒトから人への考え方を。

 

偶然の符牒

11/12/2007 にアップした文章です。

 

確率論というのは、便利なのだけれども、理解していないまま日常を暮らしていたり、その落とし穴に嵌まってクリアに全体像が見えなかったりもする、厄介なものではあります。論理的に物事を考える場合、確かに数字化しているものは理解しやすいように思えるのですが、その数字がどのように得られたものなのかが検証できないと、まず、不正確なのだというのは、無作為抽出(Random Selection)の説明で触れさせていただきました。今日は、見落としがちな偶然について。

これまで何度か書いてきたのですが、ヒトは積み重ねの存在であり、その理由には発達してしまった大脳のため、記憶や技能が蓄積できるという特典があります。ネガティブであってもポジティブであっても、そこには蓄積されていき、身についたままで剥がれ難い。何度もまっさらなところで新しいものを学ぶことよりも、すでに学んでしまったものを一旦ゼロに戻し、そこから最良に見える方法をもう一度学ぶことはなかなか難しいとも書きました。ところが、取捨選択は主体である個人が行っており、意志ばかりが働くものでもなく、「生かされている存在」でもあるので、環境要因からのさまざまな刺激・影響にも左右されることも何度も繰り返してきました。どんなものに、どの程度、どうやって影響されるのか?というのが、目下の科学が解明している基礎の概念です。

男女の出遭いなどについては、この偶然をよくも取り入れる都合のいい解釈が多いのですが、実際の偶然性は、それほど高くはないのです。その人の生まれ持った性格で、すでに方向性は少し狭められ、与えられた環境でさらに方向性が狭められ、触れ合う人々からの刺激の強弱や、学んだ物事からの刺激の強弱などから、どんどんとヒトは形成されていき、行動範囲が決まっていきます。

日常と非日常の、日常部分が決まるわけです。習慣の動物であるのは、ヒトも例外ではなく、たいていのことは日常に縛られての基礎がもたらします。その基準・指針に照らし合わせて、パターンや法則性を持ち、人々はブレがなるべく少ない日常を暮らしていきます。非日常性を多く持つものは、「ふだんの生活からかけ離れている」と個体によってみなされたもので、これまで培ってきた脳に蓄積されてきた知識や技能や記憶などから、「心地よい・心地悪い」の次段階になる「好き・嫌い」などのフィルターを通し、岐路では、「非日常なので避ける」、あるいは、「経験はゼロか少ないけれども、刺激に反応する」という行動へとなります。この「避ける」を多用するのが、習慣性が高いヒトの行動パターンなのですが、好奇心が強かったり、学習能力が高い場合には、後者を選びがちになります。これは、赤ちゃんの頃からずっとしてきていることで、どちらの傾向が強いかは、個体がすでに判断できることです。

ですから、ヒトは自分なりに培ってきたパターン・法則性に則り、その行動範囲の中で、かなりの取捨選択をして、まずは注目する相手・話す相手・距離を縮めていく相手、を決めているのです。お見合いをして結婚をする場合でも同じで、そのお見合い先をどのように信頼するかどうか、紹介してくれた人をどれくらい信頼するか、など、それまでの日常性のパターン・法則性で決めていますので、間口が違っても同じことです。コンピューターなどによる診断での出遭いや紹介でも同じこと。あくまで出遭いは出遭いでしかなく、そのあとに来る人間関係の形成の序章でしかありません。たとえ、旅先で偶然のように出遭っても、実際はふたりがその地に関連する何かの共通点を持っていた、ということが言えますし、職場や学校など、何百・何千の人間の中から、自分が欲する人をやはりスクリーニングしているわけです。

さて、ここからが偶然性に関連すること。ここに偶然はあるのかないのか?

偶然: (名・形動)[文]ナリ(1)何の因果関係もなく、予測していないことが起こること。思いがけないこと。また、そのさま。(2)〔哲〕〔contingency〕事象の因果系列に対して、それに含みえない事象または因果的に予測できない事象が生起すること。⇔必然
必然: (名・形動)[文]ナリ 必ずそうなると決まっていること。それ以外になりようのないこと。また、そのさま。⇔偶然 ⇔蓋然(がいぜん)
(副)必ず。きっと。
(副)思いがけないことの起こるさま。たまたま。
符牒:(1)意味をもたせた文字や図形。記号。符号。(2)仲間だけに通用する言葉や印。合言葉。(3)商店が商品に付ける、その店の印や値段を示す印。(4)利益などを分配すること。また、その分け前。

実際には、確率論では、偶然というのは事故性・意外性などと解釈されます。予測通りにはならぬ、というもの。では、その予測を立てるのは誰なのか?その予測は正しいのか?も含まれていきます。だからこそ、偶然というのを定義するのは難しい・・・。

統計学などでは、偶然性を設定するのは、1%から10%が最も採用される範囲です。バクチや会計の誤差計算などにも採用されています。100回に1回から100回に10回くらいは、予測しない事故や意外な展開が起きるというもの。

私は昨日の自分の行動を考えているのですが、どれがそれに当たるのだろうか?と。簡単な例ではパチンコですか・・・。何度も何度もクルクルと廻る機械は、そのたびに抽出される仕組みになっており、あくまで確率です。昨日はたいへんラッキーで(いや、昨日も、か・・・)、65000円も上がりがあったのですが、その台を見切るかどうか?というタイミングは難しい。昨日の場合は8000円投入時点で第1回目が当たり、元金を大いに超えるだけの出球があったので、いつ止めてもよかったのです。が、またゼロから始めたところ、合計でもう4回当たり、どれもが連荘だったので、最終的には16箱にもなり、自分でもびっくりしました。パチンコ台は、流行や人気などにもよるのでしょうが、何百万回も廻る中の、「切り取り確率」です。私はわずか1400回廻しただけで、あたりが16箱あったわけですね。確率的には、310回に1回当たりの台なので、大きくその確率を上回っており、勝った時点で止めたほうがいいのでしょうが、続けてやってよかったことになります。が、この切り取り部分の確率については、大きな誤差が生まれる。ここに本当に偶然はあるのだろうか?と、その「パチンコ台の寿命までの総回転数」がそもそもわからないのだから、ちょっと計算が成り立たない。

母は、水曜日と日曜日は、ボーイフレンドのお家から、夜の9時15分に戻ることになっています。ひとつはバスのスケジュールによるもので、原付バイクで出かけても、なぜかその時間は遵守されます。彼女も習慣性の強い人なので、TV番組や時計やその他に従うからなのでしょう。

私は昨今では、この偶然の符牒は、事故や過失についてしか用いないようになっています。誰かが被害者になった場合、その人のせいにするのはあまりに残酷です。確かにたくさんの要因はあるものの、最後の最後まで煮詰めて考えた場合、この偶然というのがあってほしいという願いも含まれています。加害者側に自分がならないと言い切れるものでもなく(もちろん、そうはありたくないと堅く考えてはいるものの)、チャンスがあった場合に、逃げ切れる場合に、本当に100%の保証があるか?と問われると、私はこの事故性についても加味しなければ、手落ちだと考えるわけです。危機管理などに対する考え方も同じで、「絶対」はこの世にはなく、やはりこの事故性や偶発性については、考えられなければそもそもの世界が成り立たない。

たとえば私の白髪に関する予測は、髪は女性ホルモンなので、母を見ればわかりやすい予測が立てられる。彼女の場合は、白髪が抜ける範囲で出たのが49歳で、染めるようになったのが54歳。私も栄養価その他でブレがあるにしろ、そのへんなのだろうな、と観念はしています。が、たとえ年明けに白髪を発見したとしても、私はそれほど落胆しないのだろうと思うのです。つい最近、生徒さんのひとりが、電車で10万入りのお財布をスリに盗られてしまったのですが、その落胆は大きなものでした。旅行前の出来事で、本当に文字通り、夜通し泣いたそうです。私個人は、スリに遭遇したことはないのですが、確率論から言えば、ゼロではないので、「明日は我が身」と、お財布に入れる金額についてはちと考慮してしまいました。

お隣にいる愛する人とは、ぜひぜひ偶然で出逢ったとは思わないでいただきたい。なぜならば、やはりあなたの判断で、心が震える人についに出逢った、というほうが、偶然出会うよりロマンチックではないですか?うーん、そのへんも考え方なのかなぁ・・・・。

ただし、自信を持っていいのは、ものすごい確率の中、あなたというヒトが生まれたこと。精子の数はものすごいですし、細胞分裂のめまぐるしさやメカニズムはすごい。偶然はここには含まれていますが、だからこそ、あなたはユニークなのだ。

 

距離と空間センス

11/11/2007 にアップした文章です。

 

英語を話すようになって思うのが、距離感や空間に対するセンスが磨かれたなぁと思うこと。いや、もちろん、私は航空学校に行ったこともあり、そもそも生まれ持った距離感や空間センスは悪くはなかったのです。日本のワイドショーで、狭い狭い駐車場に神業の技能でお客様の高級車を停める人を取材していたのですが、なんとなくわかる気がした。私は、日本にいた若い頃は、駐車場に停めるのは得意だった。運動技能なのか?おそらくそんな部分も大きいとは思います。けれども、どこから来るのか?ということをちょっと考えてみる・・・。

距離:(1)二つの物・場所などの空間的な離れ方の大きさ。へだたり。(2)抽象的な事物の間に感じられるへだたり。(3)人と人との間に感じられる心理的なへだたり。
空間:(1)物がなく、あいているところ。(2)上下・四方の広がり。(3)〔space〕(ア)〔哲〕 時間とともに世界を成立させる基本形式。その客観的実在を認める立場(主として唯物論)や、先天的な直観形式とする主観的な解釈(カント)などがある。(イ)〔物〕 物質が存在し、諸現象が生起する場。物質や時間から独立した、無限の容器としてのニュートンの絶対空間(三次元ユークリッド空間)が古典物理学の前提となっていたが、相対性理論では時間を含めた四次元リーマン空間が導入された。(ウ)〔数〕 通常はユークリッド的な三次元空間をいうが、広義には、ある集合でその要素の間もしくはその部分集合の間に一定の数学的構造を考えるとき、その集合をいう。n 次元空間・位相空間など。
感:(1)物事を見たり聞いたりして起こる心の動き。(2)心が強く動かされること。感慨。(3)接尾語的に用いて、…の感じの意を表す。

基準になる位置というものの把握が、そもそもは肝心なのです。自分の実体について、もちろん昨日書いた世界観をぐるぐるといじって、「うげぇ、現実や記憶や存在っていうのは、かなり曖昧じゃん・・・」と思ってしまうと、今の自分には実態があるのか?と疑ってしまうので、ナマミに対しての感謝や量感や体積など、やっぱりぼーっと霞んでしまうのでしょう。私は、生きているということそのものを否定したくもなく、否定する必要もないと考えているので、今、現在、ここに存在していることには、大きな実感があります。でなければ、三次元(上下・左右・前後)をこれほど駆使できているわけがありません。よしんば、浮世のまぼろしでもいいのです。脳の錯覚であっても、私は実感できていますから。その仮想現実の世界であったとしても、その仮想現実なりの法則性にはしっかり乗っています。

さて、私が距離感や空間に対してどうしても気にしてしまうのは、ナマミである自分が「脆いもの」という防衛があるからなのです。車に向って行けば死んでしまうし、暴漢は避けなければ殺されてしまうかもしれない、という仮説あり。心的なものはさらに面倒で、前知識や経験がまったくないところで学習するのと、脳が一旦受け取ってしまった印象や認識というのは、すっかり消して新しい情報をインプットするほうが、作業が倍以上になります。積み重ねの存在である人間にとっては、記憶というのは、よく作用もしますが、悪くも作用するいい例です。PTSDを体験した私には、その面倒さや苦労というのは一入(ひとしお)で、もう二度と、脳に定着してしまうような悲惨な記憶は要らないよ、と思うのです。なので、距離感や空間に対して慎重になってしまいます。余計な人間関係に対して恐れているのか?始める前に資料が充分であれば、そもそも始めない。距離が保てる関係であれば、その距離を保ったまま続ける。その境界線を跨いで侵入してくるようなことがあれば、あっさりと切り捨てる。切り捨てることは面倒ですが、冷酷で厳しい私は、人にNoを言うことはできます。つらいかどうか?は天秤に掛けてみると、もっと物事が面倒になったら、さらに苦労が募るので、そのときのNoは苦にはなりません。自然消滅ができればいいですが、できない場合にはNoは言いますし、そもそも私は自然消滅が好きではないようです。

そうです。距離や空間センスというのは、世界観に繋がっており、自分がどこに位置していて、自分の位置を確保するための大切なツールです。

私は、恋愛の最中であろうとも、ひとりで眠るのが好きです。ネコたちは別なのですが、誰かと同じ布団に眠るというのは、脳の休息にならないのです。ネコたちは眠りが浅く、私を第一優先にしてくれており、いい位置をコロコロと変えてくれるので、彼らがそれでOKであれば、私は休息できるわけです。ここ7年ほどは別居状態ですが、西さんとは大きなベッドにいっしょに眠っていたのですが、時間は別すぎて休息に影響を与える場合には、別々に眠っていました。試験や出張など、イベントが増えると、別ベッドの回数は増えますが、まぁ、永遠でもないのでよかったのです。が、日本の住宅は狭く、布団で眠っているので、今は別々。

電車の混雑が嫌いなのも、衛生観よりも何よりもまず、自衛のための距離空間センスが優先します。痴漢経験が多かった高校時代のことを、どうしても不快に思い出す。肩に掛けているバッグを前に廻して、本を読む体勢を作り、自分の空間を確保します。まぁ、それほど混雑した時間帯に乗らなくて済んでいるのですが、それでも私には1日の中の最も大きな試練です。駅前の混雑も同じで、人や自転車や車が向ってくることには、どうも未だに慣れない。

これらのおかげで、私は前置詞をそう苦労することもなく、英語では学べるようになりました。論理はもちろんあるのですが、感覚的なもので身につくわけです。

距離空間センスが必要なのは、ほとんどの運動がそうです。私は、小さい頃から運動神経はよかった。あんなに遊んでいたのに、何の成果もないんじゃさみしいですしね(笑)。可動性(Mobility)に書きましたが、ヒトは動き始めることで、脳の発達の速度を上げます。ですので、運動をなんらかの形で続けることはかなり大切です。西さんなどは、たいへんな優等生で、彼は雨の日でも走らないと気が済まない。故障があっても、走れないのであれば歩く、といった具合です。運動音痴という人々は、おそらく、成果を見つめており、プロセスを楽しむことができていないからなのでしょう。昨日の自分との差だけを見つめればいいものを、他人と比べてしまうことにより、途中で自分は運動嫌いだとみなしてしまう。

実際は、筋肉がゼロのヒトはおらず、箸を持ち上げるにも、立ち居振る舞いをするにも筋肉は使っており、運動はしているわけです。今よりも一回りか二回りくらいの運動はやったほうがいいです。脳のワイヤリングをしっかり保つためにも大切なことです。その運動により、距離空間センスは磨かれたり、保たれたりします。運動音痴であれば、歩くことができていることから認知すればいいだけのこと。赤ちゃんからここまではとても遠い道のりだったのに、しっかり生き延びてきているわけです。それについての感謝こそあれ、自分を卑下するのはよくないことです。むしろ、可能性を見つめていただけたらと思うのです。

が、たまに見かけますよね・・・。他人の靴を履いて気づかないヒトやコートや上着を着て気づかないヒトって実際にいるんですね・・・。そんなヒトは、距離空間センスが低いです。お気をつけください。運動能力うんぬんだけではなく、「気を使わないだけ」なこともよくあります。忙しすぎたり、休息が充分に取れていない場合には起こりえることかもしれません。私は、一度もそうしたことは経験したことがありませんが、実際に、会社や飲み屋さんやパーティーその他でそういう人は2ダース以上くらい見かけました。びっくりです。

自分が世界のどこに位置しているか?大地を踏みしめているか?を常に意識していることはないですが、意識したときに認知できることは大切です。試しに配偶者やお子さんに、違うお茶碗や靴やスリッパを出してみては?気づけなかったらちと問題あり・・・(笑)。

 

価値観という言葉

11/10/2007 にアップした文章です。

 

もう10年くらい気にし続けてきたのですが、私は日本語では、価値観という言葉の代わりに、「世界観」という言葉を使うようにしています。価値観という言葉は、どうも便利すぎて、ピンポイントできているようでできてはいない曖昧な使い方が多いような気がするわけです。「じゃあ、世界観だって同じだろうよ・・・」と言われると、そうでもない。自分のポジションがわかる価値観のうちのひとつで、しかも、すべての基礎になるからです。その中には、時空が含められており、宗教観や科学観なども盛り込まれることになります。価値観というのは、○×についての価値観、というふうに、ピンポイントされなければ、どうも便利すぎでしょう。恋愛における「相性」と同じだと思えるわけです。やっぱり私って細かいところがあるのかしらねぇ・・・・(汗)。

価値観:いかなる物事に価値を認めるかという個人個人の評価的判断。
世界観:(1)世界についての見方・見解。(2)〔哲〕〔(ドイツ) Weltanschauung〕世界についての統一的で全体的な理解。客観的な対象把握(世界像)にとどまらず、人の主体的な意義づけ・関係づけによって成り立つ。(3)文化人類学で、ある民族がもっている世界についての見方のこと。時間や空間の分類法、神話・儀礼などの中に見いだすことができる。
相性:(1)男女・友人・主従などが、互いに性格がよく合うかどうかということ。古くは生まれ年で判断し、特に縁組には重視された。(2)相手との性格や調子の合い方。合い口。
観:(1)目に映った印象。物事の様子・状態。(2)〔仏〕 特定の想念や心の本性などを心の中で観察し、仏教の真理に達する方法。→止観 (3)接尾語的に用いて、…に対する考え方・見方などの意を表す。

理想の人の条件を考えるに当たって、「価値観の合う人」というのがあるので、相性という言葉もついでに出てきてしまったのですが、「価値観」という言葉ひとつには、目的語(対象物)が必要です。それがどうも、日本語的な、よく言えば奥ゆかしい、悪く言えば曖昧な、どうも煮え切らない物言いだなぁと、私には思えるわけです。靄の中に置き去りにされた気分で私がさらに、「じゃぁ、あなたはどんな価値観を持っているの?」と問うと、ピンポイントされた答えが戻ってきたことはあまりないのよね・・・。それは、私がデートをしょっちゅうしていた10代の頃からですから、三島文学やら太宰やら、いろいろな人が使ってきたに違いない。戦後、この価値観が多様化していく中、とても便利な言葉になったのであろうと思うのです。

英語では、価値観というのは、Sense of Valuesという和英が最も多いのではないかと思うのです。これは訳者の物事を捉える位置を如実に表しています。「価値あるものへの(についての)感性・分別」というのが直訳ですので、この価値観という単語を単独で使うものではなく、実際は、まず最初に「価値あるものが何か述べよ」ということのあとに来るものだということがわかります。特に、英語圏は、ドイツ語や北欧語などと同様、Low contextと呼ばれ、万民がシェアできる物事というのが、High contextの言語を使う国々、日本語・中国語・ベトナム語・韓国語など、に比べて、数が少なくなります。そのため、ある事実やある物事を修飾するための言葉数が必要となり、それがなければ、何を一体話しているのか、通じなくなり、コミュニケーションは失敗と終わります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BE%A1%E5%80%A4%E8%A6%B3 価値観についてをいろいろ述べてあります。これを読むとふむふむと納得できる・・・。

どうも考えていくに、日本人は、価値観という言葉を、「価値がある物事についての考え方」について話しており、英語も話す私には「じゃ、その物事って何なのよ?」という苛立ちが募る、という構図のようだ。「だからぁ、基準となる美徳や価値あるものって、あなたにとって何なのよ?」と、どうしてもそっちを先に知りたいようだ。6歳の子どものようですが、私はHigh context言語・文化圏に生まれ育ったにも拘らず、人の多様化を強く信じているので、その「何を」をとりあえず、本人に明言してもらうことが必要らしい。

よくあるインタビューでは、いろいろな人がいろいろな例を取り、価値観について話してくれるのですが、どうも要約版や理路整然としたものは出て来づらい。ブレが多く、一貫性が見つからないことが多い。なのに、「価値観が合う人がいい」などと言う。そもそも、そんな価値観は誰も合わせられないと思うのだよ・・・。

そこで私が考えたのが世界観で、まずは、己の立ち位置をどのように視ているのかを知る。このほうが、価値観うんぬんと延々とやられるよりも、聴いている側としてはずっと理解度が上がるのです。とっつきの悪い難しそうな言葉ではありますが、命題である「人はどうしてひとりで生まれてきてひとりで死んで行くのか?」や「世界はどのように成り立っているのか?」「神は存在するのか?」なども世界観の中のひとつなので、みんながこれまで疑問に思ってきたことをただ改めて、「正解はないけど、どんなふうに考える?」と質問することで、個人の世界観は充分にわかります。「人は全般に善か悪か?」などもそれですし、それらであれば、小学校の頃から考えてきたこともいくつもあるわけです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E8%A6%B3

価値観のほうは、世界観から派生している、さらに細かいひとつひとつの美徳や価値のある物事についての基準あるバロメータであり、世界観をまず視るほうがきっと手早いし、その個人に対する理解も進むと思っています。私は、哲学を教養課程でアメリカで取り直したので、これらの記述はそれほど苦でもないですが、カタカナがきついのと、英語のほうがもっと合理的で論理的には説いてあるとは思える・・・。こうした専門分野のことを、万民にわかるように書き、エンターテインするのが小説家や芸能人の務めだと思えるのですが、『ソフィーの世界』という本は、私は読んでいません。そもそも、ノルウェーでは、高校生が哲学のクラスがあるんだな、と改めて「いいなぁ」と思ってしまいました。受験に強くなるよりは、生きていくことそのものに強くなったほうがいいですわい。他にも利息の計算だとか、金融商品の紹介だとか、プレゼンの練習や意見の組み立てなんかがクラスに採用されたほうが、受験科目一色の高校生活よりずっと楽しいでしょうに・・・。私は中学の半ばくらいから、学校が好きではなかったですから、やってほしかった授業だったら山ほど言えますね。そのせいで、大人になってからの勉強は本当によく進みました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C

多感な時代に哲学の中心にある「世界観」を自分なりの「中途結論が何か?」というのを持っていない状態は、私はいかんと思います。グレたり、物事がうまく行かないのも、世界の中で自分がどこに位置しているのか、どうもわからないまま、出発点も到達点も現在地も目標地もどこもわからなくなってしまう。それなのに、世間では、恋愛や結婚や人間関係での「価値観」が多用されて、自分の価値観を考えてしまうのですが、その基礎になるものについて、整理整頓できていないわけです。これができれば、理数系ではないと言われている人でも、否応なしに図形を頭に描くようになります。マッピングです。

とは言え、自由きままに英語を教え、暇な時間を見つけてはパチンコをし(しかも読書しながらすこぶるいい勝率で勝っている)、なりふり構わずこぎれいにしていない、時々英語を話す、素っ頓狂で、冷たく厳しいやつに、あれこれ言われたくはないことでしょう。だからこそ、自分の世界観というのは持っていたほうがいい。世界観がしっかりしていれば、他人の目なども怖くなくなるし、必要な人の必要な意見がきっと聞けるようになります。自分の本当の価値、Self-Esteemがよいように上がるのも、これが分かれ目だと思うのです。

騙されたと思って、簡単な哲学書を図書館で借りてみるか、安ければ買ってみるといいかもしれません。私は梅原猛・内村鑑三・西田幾多郎、その他も読んでいますが、どうも最近は英語で読めるものに走ってしまいいけません。また図書館に行って借りてみます。ある批判には、「日本には哲学者は育たない」というものもあり、なかなか興味深いです。

自分の世界観が言える人は、やっぱりかっこいいです←なぜか最後は、女子高生ばりの発言になってしまった(爆)。

 

紀久美先生へのQ&A~心理学講座編~その61

Q61.

勉強をする時の「コツ」ってありますか?

 

A61.

これは英語だけではなくて勉強全般ということですよね?もちろんコツはあります!実際に勉強に手をつける前に、プランを立てることです。私個人は、子供の頃には勉強してこなかったんですが、29歳で大学に戻った時から本当に効率よく勉強してきた自負があります。科目・曜日・進度・傾向が違う習得する内容に関して、どの程度どこまで?いつまで?を大まかにきめた後、自分のスケジュールとすり合わせて、日々の習慣の中に入れてしまうことが大切でした。これでほぼテスト前までの準備は八割方できていることになるので。

例えば、火曜日の生物2時間の授業の後は、次の数学の時間までに一時間半ある、とすると、その一時間半でサンドウィッチを食べながら生物の復習はすべて終わらしてしまうということを習慣にしていました。ノートをきれいにとり直し、家に帰ってタイプをするだけという状態にしていたんですが、今の学生さんであればその場でノートパソコンで作成することは可能ですよね?おそらく私は、自分の手書きのノートをそのままスキャンして PC 保存したいと思うのです。それもあり。当時はスキャナーが非常に高かったので、家に帰ってタイプをし直していました。

トイレや移動、料理の前後、テレビの CM 時間など、空いた時間でテキストの章立てされている パーツパーツを読んでいくことにしていました。こちらが予習です。

多くの方はこのようにちぎって読むことにより「ええええ?頭に入らないじゃないか!」と思われるかもしれませんが、実は脳にとってはこの方がいいのです。ええ(笑)。私は英語で大学に通っていたので、知らない単語もちょいちょい出てきましたが、その際も単語は辞書をほぼ引きません。雰囲気で読むわけです(笑)。実際に授業を受けてイメージできなかった単語はほぼなく、心理学の中で病名やラテン語系の名称がついた部位などがわからなかっただけで、その際は、授業中にちょちょっと辞書を引きます。やはり予習をしておくと授業中の理解は格段に深まります。その後ノートをきちんとまとめねば、理解できないところが浮き彫りになるので、先生の Office hourに出向いて言って直接質問します。

科目にも寄りましたが、私はOffice hourをものすごく重宝に使っておりました (・・;) いつかどこかで書いたことがあるのですが、宗教学の授業では、9回書き直しをし、先生がコーヒーとクッキーを出してくれるほどになりました(笑)。

タイプをするのはとても早いので、ノートまとめが終わった時に宿題に手をつけます。多いのはエッセイなのですが、あの頃一生懸命短時間でエッセイを書いてきたので、今もテキストを作ったり、こうした文章を書くのは短時間で済みます。小さい力の蓄積ですよね。

日本では生涯で2-3回しか、中間期末テストの準備をしなかったんですが(笑)、アメリカで学生生活を再開した時にはしっかり勉強はしました。普段の生活でまとめたノートをもう一度しっかりまとめなおしたり、もう一度テキストを一気に読み直したりするだけで、ほぼ90%くらいは取れる気がしていましたね。さらに先生が授業中に「ここは出るよー!」と言ってくれる部分もいっぱいあったので、かなりお得な感じがしました。それって日本も同じなんでしょうか??(笑)

アメリカの大学ではグループワーク・実験参加・ボランティア参加なども、単位取得のために要求されているものもあったので、空いた時間はこれらに当てていました。私が嫌いだったのはグループワークで、自分の担当部分をしっかりやってくれない人や、やたら 話が長い人には時間を奪われている感覚があり、自分がたとえ多めにやることになったとしても、時間を食いつぶされるのは嫌な感じでした(笑)。

生活の中で机周りに何を置く、だとか、この時間にこれをする、などというリズムを作っておけば、これらのことはさほど難しくないんですが、人には向き不向きがあります。こと勉強になるとあるヒトたちにとっては、なかなか難しいのかもしれませんね。

私が今悶絶しているのはエクササイズです(笑)。このコツも知っているに違いないのに、ついつい仕事が優先されてしまいます 😢 このツケを払わなければならなくなるので、本当に定着化しなければならないと、腹をくくって習慣化を心がけております。

 

時間がないっ!

11/09/2007 にアップした文章です。

 

いえいえ、管理問題です。時間は24時間ちゃんとあるのですから、私の管理が徹底していないわけです。映画を満喫してしまったあと(やっぱりあのあとまだ1本見てしまいました・・・)、図書館に本を返しに行ったときにも、マメに足を運べるように3冊しか借りない予定だったのを、なぜか10冊も借りてしまい、昨日のうちに2冊を読み終わってしまう、という杜撰な時間の使い方。いけませんや・・・。時間との戦いは、私は割りとしっかりやってきていたのですが、遊び癖が出ると、それに流されてしまっていけません。なので、私には学校が必要なのです(爆)。

細々と続けている会社のほうの発注がかかり、その請求書を作ったり、荷物を送ったりするのもしていますし、発生する支払いや、税金等の問い合わせなどもあり、不思議と時間が取られます。これは「切り替え問題」で、慣れている仕事を続けてするほうがずっと能率がいいというのを反映しており、私は決して無能なはずはないのですが、たまにしかやらないことをやるにはどうも手間がかかってしかたがない。

さらに、英語学校では、プライベートレッスンがものすごく増えたので、個々人の生徒さんデータを収集し、メモ書き程度にしてきたのですが、どうやらファイルを作ったほうがいいかもしれません。学校側で基本的な、必要事項は作ってくれているものの、もう少し細かいものを作ったほうがいいのかもしれず。ある生徒さんは、積極的にJournal(いわゆる日誌。英語で書き込む)をやってくれているのですが、この返事は、1週間から2週間分で10分ほどでできるので、大したことはないのです。ただ、調べ物になると、調べ始めてみないと、どのくらいの時間がかかるのかわかりません。欲している資料だけではなく、さらに本人たちが気づかないその先を見てしまうと、検索大好きな私のサガとしては、どのくらい時間を要してしまうかわからなくなる・・・。特に、アメリカ留学については、たくさんの派生事項があります。車や住居なども含めると、本当に細かいことになってしまうのである。私は業者ではないので、提携会社を持っているわけでもなく(笑)、たくさんの可能性の中から、個人にマッチした傾向のものに狭めていくのは楽しいのですが、いかんせん、時間がかかる。これは穴でした。

さらにパチンコ。この時間は読めない(爆)。昨日も謀らずも行ってしまったのです。母がコーヒー豆を買うというので、私の支払い&図書館にくっついてきたせいなのです。ランチに行き、そのまん前がパチンコやだったので、つい覗いたところがいけなかった。昨日は、完全休日だったので、時間がアリアリだと思っていたのがいけない・・・。昼の12時30分に入ったというのに、私が選んだ台は、緩やかに大した問題もなく出たのです。1回のアタリにつき、2箱が出る感じで、合計のアタリが8回。足し前してのつぎ込みがあったので、結果13箱だったのですが、「もうこの1箱でやめよう」と心の中で決心すると出てしまう・・・、という具合。投入額が5000円だったので、だいたい1箱分です。いつ止めても本当にいい金額だったのですが、どうも不文律であるにしろ、当たっている最中に立つ人はこれまで見たことがなく、それもスケベ根性なのでしょうが、出る限りは止められない、と惰性で続けており、気づくと、もう19時を過ぎており、出玉を計算してもらい現金を受け取ったら、もう19時半でした。7時間も座ったことになります。とはいえ、49000円の+だったので、時給で7000円となり、悪くはないんですが・・・。でも、それほど勝ちたいわけでもなかったので、けっこうな時間のロスです。バクチに続けて負けている方には、この発言は不遜すぎるのですが、私の勝率は高いので、どうも時間のほうが今は大切な時期・・・。ごめんなさーい!

そこで家に戻って、エッセイも書きたいと思いつつ(今日の分)、遣り残した仕事の続きをやったら、食にうるさい母に、「寝る間際に食べると身体に悪い」と言われ、しぶしぶPCの前を立ち、食事。そこで、話したがりの母と会話をしつつ、TVを観て、時間は過ぎる・・・。気になることはたくさんあるにしろ、たとえば、Unbelievable!のカタカナが、アンビリバボーというのはすごい・・・、と思いつつ、時間はどんどん過ぎていく・・・。CMでも気になることはあり、母と会話しながらも、気になることが山積でいけません。しかも、買い物してきたものを褒めてもらいたがったらしく、私が頼んでいた、ネコ用のブラシと爪きりをレシートまで出してきて見せるのよ・・・。櫛通りはどうか?切れ具合はどうか?と訊ねられてしまったので、ついやらざるを得なくなる・・・。時間は無情に過ぎていく・・・。

あ、そうそう。私はパチンコをしながら読書するのです(爆)。時間がもったいないから・・・。ただ画面を眺めてやり過ごすということができない・・・。なので、これまでゲーム全般が苦手だったのだと思われるのです。それなりにインベーダーゲームやらテトリスやらもできるのですが、「それだけしかできないという事実」にどうも疎ましさを感じるわけです。両手と視覚を使い、姿勢も要求されるので、他のことがなかなかできない。これは困る・・・←どうして困るんだか(爆)。パチンコの場合、右手のブレさえ生じなければ、タバコを吸うことや飲むことのほか、左手で持てるか膝の上で支えられる大きさの本であれば、ずっと読み続けられる。昨日も、7時間のうち、半分弱は本を読んでいたので、1冊終了したのです。上下巻の上なんですが。

なので、下巻について、ものすごくものすごく気になっていたのですよ。母から解放されて、すぐさま、PCに向ってエッセイを書けばよかったものの、どうしても続きが知りたくて、本を読んでしまいました。ところが、おなかがいっぱいだったので、眠ってしまい、起きたのが不思議と3時間後。そこでまた本に戻り、2時間後にまた眠ったわけです。合計で7時間半の予定なはずなのですが、ズレが生じてしまったせいなのか、私が起きたのは、本日は朝の10時。なので、朝の6時にアップするという習慣はまたも崩され、こうして書いているわけです。

だったら、読んだ内容から湧き起こされた何かまとまったものを書けよ!ともお思いになるでしょうが、どうしても時間がないことを言い訳しておきたかった(爆)。私は、だらしがない人間なので、自由な時間が多いと、このようにオマヌケな時間の使い方をしてしまうのです。スケジュールがかっちりきっちりしていたほうが、物事にメリハリができて、能率が上がり、スムーズに事は運び、それほどの事件もなくなるわけです。

↑へんな理屈だとは思うんだけど、これなのよねぇ・・・。自由業という職業や、内職などには向いていると思うのだけれども、コンスタントに仕事がないとヤバイという、表裏一体のだらしない性格の傾向があるのだ。しかも、周りにいる人間にも、「忙しい」と宣言するほどのスケジュールがないと、おつきあいは生じる。基本的に、私はいわゆる「いいやつ」なので、人の話は徹底して聞く傾向にあり、どこかでセンを引かないと、その話はとめどもなく続いていくのだ・・・。こうして時間は過ぎていくんだろうな、と、他のいろいろな人の事情や、取り囲まれている環境などを考えたのです。

私は、普段はハイパーなので、いつも忙しく見えるらしい。英語学校でも、コマ数を増やすときに、恐縮した様子で申込みがあります。てきぱきと無駄なく動いているように見えてしまうのでしょうが、実際はそれほど逼迫して忙しいわけではなく、時間はそれなりにあるのだ。が、やっぱり自分にとっては、忙しくしていたほうがいい、というのを、昨日は実感したのであった。完全休日には、完全休日と言いきれるくらいにしておかねば、と心に決めたのである。細かい作業は時間がかかり、それが慣れている作業でなければ、倍の時間を確保しておくことが大切。銀行は混んでいる(笑)。図書館も平日の昼間は暇な人々がたくさんいて、時間は読めるものではない。平日のランチも、12時台は会社員で混むので避けること。などなど、教訓が数々あった日だったのです・・・。

 

映画三昧

11/08/2007 にアップした文章です。

昨日は、久々に呆けてしまい、映画三昧をしました。PCで無料配布の映画を見たのですが、その本数がまたもや飽きれる(笑)。7本ですよ・・・(汗)。TVで見ると、母がいるので英語で見られないのです。なので、PCでヘッドフォンで聴きつつ、字幕を無視するのですが、「へぇ、こんなのも日本に来るんだね・・・」というようなものまであり、ついつい夢中になってしまいました。
Pay It Forward
Wag the Dog
Mystery, Alaska
Secretary
Stanley and Iris
Lethal Weapon
Bringing out the Dead
どれもアメリカで見たことがあり、数度目だったのですが、英語が聴けるなら♪と歓んで観ました。

私は映画フリークなのですが、ケーブル導入以来、勉強に支障さえ出なければ、1日5~8本くらいは映画を見ていました。ケーブルで、映画チャンネルが110チャンネルくらいあり、24時間、私が見たことのない映画がやっていたわけです。観たことがあるものでも、よければ何度でも見ましたし、何かやりながらの場合には、何度目かのほうがよかったりもしました。新しい発見などもあり、何度観ても同じところで泣くのか?笑うのか?などの実験も自分で自分にやっていましたね・・・・。PCを点けっぱなしにしているのと同じ感覚で、ケーブルの映画チャンネルはいつも点けていました。ただし、法医学モノや事件解決モノなどがある場合だけは、そちらに変えるという感じ。ベッドルームにもTVがあり、ひとり暮らしだったのに、TVは2台ありました。リビングでお客様に見せるものと、自分で寝る間際まで見ていられるように、です(笑)。

が、最後の1年ほどは、子どもの頃に戻り、寝る間際に読書をしながら眠る癖をつけたので、夢が整然としてきた感じです。

観た映画の本数なのですが、おそらくもう10000本くらいにはなっているんじゃないかと思われるのです。日本に住んでいる頃に見た映画は、わずか30本くらいだと思います。宮崎監督の映画になったアニメも、ほぼ英語で見ています。英語のほうがいい映画が半分くらいです。主張がはっきりメリハリがつきますね。

私がひとりでささやかに自慢しているのは、日本には決して渡らないであろう、B級映画の帝王と呼ばれる、Eric Robertsの映画101本のうち、70本ほどは制覇していることですね(笑)。彼は、Julia Robertsの兄さんなのですが、たいてい主演で、やくざちっくな役や、探偵役が多いのです。日本のVシネマっぽい感じですかね。完結してくれるので、それなりに筋は読めるのですが、けっこういいです(笑)。こんな人です。

http://www.allcinema.net/prog/show_p.php?num_p=38074
この資料はあまりアップデート率が高くないようです。Juliaが子どもを産んでからは、めっきり仲良しです。しかも、彼の娘が女優デビューをしたので、家族の行き来は頻繁になっているようです。

他にも山ほどB級は制覇していますが、特にB級とも思えない質のものに遭ったりするのが、ものすごいオトク感なのですよねぇ・・・。低予算であってもいいものを作っている、がんばっている人々は確実に存在します。アメリカでは、Robert Redfordらが旗手になっているSundance Film Festivalが有名ですが、Independent filmsのチャンスはどんどん増えてきています。いい傾向です。

ところで、この7本の中で私が特に好きに順位をつけられるか?たぶんつけられない・・・。まったくジャンルが違うというのも多いし、それぞれのよさというのがあって、どうもオススメは決定できない。私はかなりいい加減なやつなので、ある特定の人にはオススメできるんですが、万民に「これはいいよ!」とは思えない性質です。申し訳ない。が、私のアイスホッケーへの想いいれは強いので、Mystery, Alaskaはみなさんに見ていただきたいのですが、きっとわからないんだろうな(笑)。

日本に戻ってきてから、ほんの2・3本のドラマを見たきりですが(なぜか続かない。どうしても翌週のその曜日のその時間にTVの前に座っていられず・・・。ひとつには「縛られたくない!」という抵抗感があるせいなのですが、そもそも私はそれほど観たいと思っていないのかもしれず・・・。さらに英語講師は夜の仕事なので、それほど邪魔されずに済むわけです。

ということで、やっぱり映画なんですが、貧乏でもないのに、どうしてか1800円は払いたくはない(爆)。アメリカで最初に見た映画は、たったの$1だったのです。学校での団体割引があり、英語の勉強にもなるので、毎週のように行っていました。その後も、夕方5時前に映画館に入れば、夜の半額です。その最初の値段が$3から開始し、18年半後でも、$6.50でしたから。Large drink & Popcornのほうが、映画代金よりも高いのだ(爆)。不思議ではあったけれども、あそこで何も買わない人のほうが少ないので、やっぱり映画館の存続のためには買うようにしていました。これらを考えると、やっぱり日本の映画は高いし、字幕までついているし(あの字幕にはやはり納得はどうしてもできない・・・)、ドリンクのサイズも小さすぎるし、炭酸が効いていないし、おせんべを食うのはやっぱり邪道ではないかと思うのだ。パチンコやならばいいにしろ、なぜ映画館で?(笑)それに椅子がゆったりしているところは、なぜかさらにお高い指定席なのですよね・・・。うーん・・・。

なので、しばらくは無料のこうした映画を見るのが続くのでしょうが、やっぱり出たほうがいいのかなぁ、とも思う。レディースデーで1000円だからいいという問題でもないので、どうも行く気にはならぬ・・・。それに最近、DVD化されるのは早いしなぁ、と。日本に戻ってきて何がつらいかってことの中に、やっぱり映画はあります。悲しいなぁ、と思います。もっとケーブルも安くなればいいのだけれども、やっぱり映画チャンネル100局なんて不可能な数なのかなぁ・・・。などと、いろいろ考えながら、夜は更け、私はもう1本くらい見てしまうのかもしれない・・・・(汗)。

 

日本語と英語、それぞれの特徴は?

Precious One English Schoolでは、「人生が変わらない英語ならば学ぶ必要はない」とまで 言い切っています。ものの見方や考え方を多様化へと広げていけること。それにより世界が広くなること、自分を深く知ることができること。そこから始めてみませんか?

私たちは普段日本語を使って暮らしていますので、日本語の特徴をそれほどわかっていないような気がしませんか?特に英語と比較した時に、文法や語が来る語順、 表記の違い、アルファベットの違いなど、形式的な事に非常に囚われているということに気付いているでしょうか?

ヒトというのは、エネルギー保存の法則をめいっぱい使っているので(笑)、必要以上のことは考えないでいるのです。でなければ、日々の生活に疲れてしまうわけです(笑)。

とはいえ、 英語を学ぶときに非常に重要なのが、日本語と英語の特質・ 本質の違いについて、 目に見えないことをしっかり理解することです。目に見えることになるまでにどのようなプロセスがあったのか、どのような原因があったのか、それらが理解できることによって、習得のための道のりが見えてきます。根本的に押さえていかねばならないことがこれまで日本の英語教育でしてきたこととは、全く違うことがわかってきます。

そして多くの英語スクールは、紆余曲折をし試行錯誤をし、これまで進化はしてきているものの、まだまだ足りない状態です。Precious One English Schoolはどう違うのか?主宰の私が現在考えることができるギリギリのところまで、まだまだ毎日進化をして行こうと思っています。たくさんの生徒さんのパターンの統計を取って、 何が最も機能するのか、何が有用なのか、どこが一番効率がいいのか、などなど、まだまだ進化の余地はあると思っています。

ヒトの歴史をしっかり知ることや、人類学のバックグラウンドを網羅すること、ヒト&人の心の動きを把握すること、社会生活においてはどのように変化がもたらされるかなど、まだまだ進化の最中です。

たくさんの学説がありますが、これまでハズレがさほどない軸の持って行き方は、「採集&狩猟民族」 vs . 「農耕民族」という根本的ライフスタイルの違いです。

それを何年も数千年も数万年も数十万年も続けることにより、この場合ヒトの考え方や行動の仕方に違いが出てきます。

欧米圏では、その地理的特徴がゆえに、農耕文明がしっかり発達してからも、 かなりの人口を採集&狩猟民族に残してきました。それゆえにヒトの気質や生活様式などに、圧倒的農耕民族のグループとは違う、特徴が生まれます。

言語は「 ヒトの考えや感情を象る」という宿命を持ち、多人数になればなるほど、その影響力は無限大になっていきます。文字を持つことでさらにそれは強化され、進化し、近代化の一途をたどります。

狩猟民族にとっては、「距離」「時間」「即決断」が生命の存続を左右する 必須な要素ですが、多くの人々が穏やかに長い時間をかけて作物を育てるという農耕社会では、これらはさほど大切なことではないので、言語もこれに伴い発達していきます。

つまり、日本人のメンタリティ・日本語の持つ大いなる常識を以てして、英語を学ぶことはとても難しいことなのです。

Precious One English Schoolでは、無料体験レッスンの生徒さんにまずお声かけをします。「あなたが英語がこれまでできなかったのは、まったくあなたの責任ではありません。なぜならば日本に生まれ育ち、日本語を使ってきたのだから」

海外に出た人々が日本に戻り、あるいはこうして通信・メディアが発達し、たくさんのニュースや出来事が入ってくるようになりましたが、それでも日本で生まれ育った日本人は、このメンタリティでしか物事を見ることができないのです。そしてこのメンタリティーでしか物事を解釈することができないわけです。

違うものの見方・考え方を、まず学んでいただくことが英語習得の早道です。しかも日本は資源が限られています。世界に通用する人材になるためにも、こうしたものの見方や考え方は「強み」にしかなりません。

無料体験レッスンはこちらから

物忘れ

11/07/2007 にアップした文章です。

 

私には物忘れをしたということがあまりなく、「記憶力だけで生きているようなもんだから」というのが口癖になっています。出てこないものは、どこに整理しておいたのかわからないだけで、頭の中のどこかに入っていることはわかっています。ところが、私がDNAを半分もらった母は、ものすごい度合いの物忘れ大王で、歳のせいではなく、30代からなのですよ。不思議だ・・・。彼女は真剣に物忘れをしていると思い込んでいるのですが、実際は記憶というメカニズムをわかっていないだけで、認知症などの心配はまだしなくていいようです。今日は、物忘れについて。

物忘れ:しばしば物事を忘れること。
記憶:(1)経験した物事を心の中にとどめ、忘れずに覚えていること。また、覚えている事柄。(2)〔心〕 経験したことを覚えこんで保持しておき、のちに過去の経験として再生する働き、また、その内容。

まず始めに考えなければならないことは、「本当に記憶に刻まれているのかどうか?」ということ。忘れてしまったのではなく、実際はインプットされていないことというのは多いものです。記憶に留まるためのメカニズムというのがあり、その手順を踏んでいなければ、思い出すも何もないわけです。

視覚と聴覚に障害を持たぬヒトであれば、覚醒しているあいだに無数の情報が、意志とは関係なく、半強制的に入ってきます。そこで、ヒトは選択をしているわけです。意識的なものと無意識的なものがあります。視覚や聴覚の受容範囲があり、基準が決められ、それを超えるものは印象に残り易く、記憶に留まり易くなります。ただし、異常な状態で記憶したものは、偏りも起き易く、事実を事実として記憶しているかどうかも疑問が残ります。事件の当事者の証言が曖昧になりやすいのはこのためです。ここで、意識をしているかどうか?という分かれ目が問題になり、無意識のうちの記憶は信頼性が低くなります。莫大な量の音や景色やヒトの顔など、いちいち憶えているわけもなく、その必要性もないため、「本当に刻まれているか?」を問いただす必要が出ます。

私の母の場合はこれですよ・・・。TVをガラスの眼で見ており、記憶する意図がないのに、「忘れてしまった」とのたまう・・・。ありえない(爆)。気がないから憶えていないのです。見ているもの、聞いているものを憶えようという気がない状態の場合、引き出す記憶はそこにないわけです。ここがわかっていないんだなぁ、彼女・・・。しかも、彼女は家事をいろいろとしながら、立ったり座ったりしつつ見ているので、もしも「憶えたい」と思ったとしても、記憶するためのたくさんの障害物があります。

記憶は昨今、諸説があり、わかりにくくなっているのですが、2つに分かれています。
short term memoryとlong term memory
short term memoryは、学者によってprimary, active, working memoryなどとも呼ばれますが、説によって名称が違うだけで、導入部分であることには変わりはありません。許容能力は、ヒトによって差がありますが、脳が正常に機能していれば、±7桁の数字や3から9つの言葉が憶えられます。脳の部位としては、脳の前部分、前頭葉であることはわかっています。記憶できる時間は、20秒から30秒ほどとされており、意識をして次のステップへと記憶の階層を深めていかねば失われます。ヒトによっては1分ほど記憶できる場合もあります。

Long term memoryには段階があり、ここで、中期記憶とする学者もいます。学習と記憶を繋げる場合には、この中期記憶と長期記憶を別個にしておくと便利ではあります。が、どのようなプロセスを辿るかにより使われる脳の部位が違い、結果、記憶の差が出ます。

Explicit memory (declarative memory) 意識をすれば言葉などで取り戻せるもの。言語性記憶とも呼ばれます。
これらの中には、2種類あり、
Episodic memoryは生活の中で過去にあったこと。
Semantic memoryは資料や物や人の名前などやその意味について。
Implicit memory (non-declarative memory) 器具や身体を使って記憶を取り戻せるもの。非言語性記憶とも呼ばれます。
Procedural memoryは、物事の手順や運動のコツなどです。自転車に乗る・泳ぐ・計算をする・タイプをするなどがこれに当たります。

と、これだけ説明してもあんまり実感は湧かないだろうなぁ・・・と思いつつ。

私の場合は、憶える気もないのに憶えていてしまうのですが、それは取り込み方の問題です。この分野は、学習という経済的利益をもたらす大きな市場があるので、力を入れて日夜行われているのですが、最も定着しないのは、Semantic memoryという意味記憶です。要するに、その個人にとって、その物事は意義・意味があるかないか?で、記憶できるかどうかに大きな差が出るわけです。そこでも取捨選択をしており、優先順位をつけたり、関連性を持たせたり、いろいろなことが学習の方法として提案されています。どれが本人にとっていいのかは、個人差がありますが、まずはその情報が自分に意義・意味があるのかどうかを見極めるのがいいでしょう。その重要性によって、記憶はされますから。

おかしいのは、睡眠記憶なのですが、寝ているあいだに記憶するというのはちとおかしい。睡眠の役割の中には、「他の情報を入れない」「記憶の整理をする」という2つが混ざっており、その2つが記憶に役立つがゆえに、睡眠しているあいだに学習できているという錯覚を引き起こさせているだけで、あんまり褒められる商法ではないです。ヒトの脳は、睡眠中に刺激全般・記憶に留まる情報を退けることで、休息モードに入ります。さらに、朝・昼・晩までに受けた刺激全般と記憶を脳が処理していきます。ファイルに取り込み、コンピューターで言われる最適化をするわけなのです。なので、睡眠時間が足りない人は、覚醒時間の能率が上がらなかったりするわけですね。これがその日の分、行われなくなってしまうからです。ですから、私は睡眠の大切さをしつこく書くわけですな・・・。

この整理ができない状態で、次々と情報を入れても、記憶には留まりません。ごはんをしっかり食べたり、リラックスしたり、眠ったりするのは、本当に大切なんですよぅ。

母は物忘れをしているのではなく、こうした悪循環を若い頃から続けてきただけなのです。もしやすると、老化して脳のキャパが下がることはあるかもしれません。が、まだまだ先でしょう。私も飲酒を過ぎなければこの脳はずっと健在な時間が長いまま生きていけると思うのですが、どうでしょうか・・・。

記憶力がいい人というのは、実際は雑多多種な情報を、自分に関連性のあるように整理整頓できている状態が続いているだけです。それほど個人によってキャパの違いはありませんので(ささやかだけれどもこのへんが重要な違いになるのかもしれない・・・。が、私はたいていの人が自分の欲するほどの記憶くらいはできると思っています。脳に障害がない限り、日ごろの生活を振り返ればしっかりと改善できる)、チェックしてみるといいかもしれません。物忘れを老化のせいにするのは、最終段階です。まだまだできることがたくさんありますので、振り返ってみてください。