自殺を考えたことがある?

12/20/2007 にアップした文章です。

どのくらい責任が持てる言葉か自信はないのですが、「自殺を考えたことがない」という人や「挫折を感じたことがない」という人は、私個人は信用しません。経験至上主義者ではない私でも、経験主義は尊いものだと思っており、共感能力がそれに加われば、極端な経験主義に走る可能性もなく、平等などには決して生まれなくとも、ユニークで違いが多くとも、「人の気持ちがわかる能力」というのは、どんな人とでもきっとうまくやっていけると思える希望の星だからです。そのためには、どん底ではなくとも、多少の挫折や「死とはどういうものか?」を沈思した経験くらいはあってほしく、その中で「自殺をしたらどうなるか?」という仮説問題を解いてみたり、本当に自殺したくなるくらいのつらい体験があったりすることも決して恥ずかしいことなどではないと思うわけです。

どうやら、今年は拳銃による自殺が多かったらしい。ガン大国であるアメリカに住んでいた私としては、この「よくはない慣れ」を備えており、ガンを自殺の手段に選ぶ人は、本当に死ぬ気だったのだろうな、と推測してしまう冷たいところがあります。警察官などは、訓練を経ているわけで、その殺傷威力を知っており、当然、死ねるとわかっているからこそ使うわけです。

日本の自殺者の統計>http://www.t-pec.co.jp/mental/2002-08-4.htm 
h

私は心理学部在学中に、自殺の細かいことを学んだのですが、それにけっこう近いことを言っているサイトを抜いてみます。ただし、これらを書いている人の意図は別物で、本当に正確なものではないことは、肝に銘じておいてください。
http://en.wikipedia.org/wiki/Suicide_methods 英語

アメリカでは、自殺行為をするのは女性のほう男性より2倍から3倍多いのですが、一般に男性のほうが4倍も成功率が高いと言われており、これは明らかにガンのせいでしょう。日本では、自殺の成功率は10%未満と言われています。が、輸入できる薬の種類や量が増えたことや、ネットでのあからさまな自殺サイトの増加や、経済的理由での自殺者の増加、高齢者人口の増加などを鑑みると、ガンなしでも自殺は劇的に減ることはないのかもしれません。

自殺に関する事実を把握してみたあと、お決まりのように私の話を。私は17歳で躁鬱病と診断されたのですが、それまでよくも自分で生き延びたなぁと、ほとほと感心するのです。友人には17歳までに3人に自殺され、その誘惑はとても大きいものでした。エンドレスに思えるこの不愉快さがいつまで続くのか、つらくてたまらず、いっそ終わってしまったらいいのに、と思うこともしばしばでした。私は他人よりいつも元気で、いつも余計なことをして、いつも先回りをしており、自分では無口のつもりなのに口数が多いと誤解され、動いていないつもりでも動いているとみなされ、それによってトライアル&エラーの数が多いことで怒られ、成功するとやっかまれ、と、それが幼稚園から中学卒業くらいまでの私の疲れ知らずの繰り返しでした。うんと疲れても、私の場合は、躁状態ばかりが強いので、ただ眠るだけ。自分ではひどく落ち込んでいても誰にも気づいてもらえない。すとーんと落ちても、口が利けなかったり、食べられなくなったりするだけで、ひたすらケガをした動物のように休むだけなわけです。子どものことなので、14時間くらい眠る日があっても「遊んで疲れちゃったんだね」で済まされる。10時間眠ったあとでも、普段の口数が多かったり、行動が多かったりすることも含め、「普通よりちょっと元気ないね」とみなされるだけで、病気の範疇だとはみなされず、誰にも気づかれないまま高校生になります。私の読書量は、図書館の司書のお姉さんだけが知っており、母は気づかなかった。たとえ気づいたとしても、彼女にはそれが尋常ではないことはわからなかったかもしれない。

もちろん、私の読書は年齢的には余計なことも与え、世界観の中の「生死の命題」を含みました。そんなときに、中学時代の友人ら3人に自殺され、私も当然自分の自殺を考えたことはあります。精神科医は、「残念ながら大人になっても人生はラクになる、うんと楽しくなるっていう保証はないし、もっとたいへんになる」と言われて、死にたい気持ちは増えました。けれども、医者は言いましたね。「とりかえしがつかないことは、やる前にもっと考えてみたほうがいいんだよ」と。一度死んだら確かに戻ってこられる保証はないんだし、と、死ぬ行為を試みることはなかったです。

今もだいたい1日1冊の本を読んでおり、多い日には4冊ほど読めてしまいます。完全休日の日が必ず週に1日あるし、半休もありますから、年間400から500冊は読んでいるのだろうと思います。小さい頃は、これほどは読めませんでしたが、同級生と比べるとものすごいスピードだったに違いない。そのおかげで、貧乏に育ち、到底大学教育などは望めなかったはずでも、生命力を徒にたくさん生まれ持った私は、生きてきた人たちの軌跡をなぞったりすることで、本で読んだことの内容の模倣をかなり早くからしてきたわけです。高校生の頃から、自分で学費を出し、1年働いてから大学に行き、それもやめて、留学費用を貯めることもできました。自殺だけは、行動に移してはならぬ、といつも決めてきてはいました。

が、私ががんばり続けたのは、余力が残っているときに躁状態から、予兆もなしにすとーんと鬱状態に落ちるハザマで、もしかすると魔が差して、自殺してしまうことがあるかもしれないという恐怖感からです。「くたくた。もうこれ以上がんばれない」と思って眠ることほど、私を安心させることはないのです。時間が来たから眠るという贅沢は、私には若い頃はなかった。心理学を学び、自分なりの行動修正と認知修正をするまでは、私には「自殺しない保証」が得られませんでした。今はまったくのところ、尊厳死以外の自殺は考えていません。不可逆性のことをしでかすことができない人間であることがわかっており、疾病といっしょに生きていくことを覚えたあとは、生きていくのが本当に心からおもしろくなってきています。

私自身は、これを面と向かって誰かに話すことがこれまでできず、もっと子どもの頃にこの違いを話すことができたら、同士や共感者を見つけることもできたかもしれないと、今だから思えるのですね。だから、いじめによる自殺や、減らない日本の自殺に対しても、人間関係のコミュニケーションの質と量について、本当に気になって仕方がないわけです。特に、私も子どもの頃から、誰にも気づいてもらえず、本当に15年くらいは「どうしてだろう?」の答えが得られず、精神科に行くことができたのは、それだけで僥倖です。そのきっかけは、バイクの事故なのですが、記憶の途切れや認知の歪みを自分で「異常だ」と判断できたからなのです。でも、今、こんな大人になって思うのは、ストレスを受け続けてもわからない大人たちがたくさんいて、成人病がこれだけ蔓延して、その我慢を続けている大人たちを見ている子どもたちも、きっと要らない我慢をしているに違いない、ということ。子どもたちを守れる環境を用意したくとも、ひとりでできることが限られており、自殺者の数が減らないことを知らされ、本当に自分のことのように他人のことを考えてあげるゆとりもない。なんだか切ないです。

私ができることは、やはり接触を持てる人々の違いに気づくことくらいですし、楽観できる材料をたくさん提供することくらいなのですが、それなりにがんばっています。昨日も、A4に1000Wordsくらいある英語のリーディングマテリアルを、3時間かけて予習してくる生徒さんに向って、「お願いだからそんなに時間をかけないで」と、勉強の方法を披露しました。しかも2ページあるんだよ・・・(汗)。そんな時間があるならば、家族や友だちと話をしたほうがいい、と。長文読解は訳す必要などないのだと、力説し、その方法を披露したのですが、来週はその成果が顕れるかどうか、あと5日、とても楽しみではあります・・・。

自殺を考えたことがあるときには、それについて話せるほうがいい。昔話として、きっぱりさっぱり話せるようになったほうが、子どもたちや、友だちや同士のためにいいのではないかと思います。もちろん、判断するのはそれぞれの個人ですが・・・。人の気持ちを自分のことのように考えられるゆとり、ぜひぜひ持てるますように♪

ネーミングという行為

12/19/2007 にアップした文章です。


名前の大切さというのは、まじめに考えたほうがいいのですが、私がここ1年でいつもいつもTVの前でひとりで大笑いしているのは、小林製薬なのです。彼らの製品のネーミングって、私のツボにはまるんですよ(笑)。本当に売りたいのか?開発者の了解を取っているのか?それとも開発者たちもこれくらいの遊び心があるのか?など、本当にいろいろなことを考えさせられてしまい、悲劇が多い昨今、小林製薬のCMでは笑わせてもらっています。特に、製品名をメモして、薬局やドラッグストアの人に「○×ください」と真剣に言っている様子を想像するだけで、本当におなかがよじれるほどおかしくなるわけです(笑)。

これが小林製薬の製品名から検索するサイト。五十音になっているので、飽きない程度に眺めてみてください。本当に笑えるから(笑)。

ミミクリン・アッチQQ・あら熱と~るのあ行から始まり、おもしろくない行はないですから(笑)。つい先日、くさくさすることがあり(企業の堅い頭の人から失礼なことを言われるような、理不尽なことです)、映画を見に行く時間もないし、なんだかとてもインスタントに笑いたくなったので、ネットを検索してコメディでも見ようと思ったのですが、そのときに点いていたTVで、小林製薬のコマーシャルがあって、また笑わせてもらえたので、このHPに言ったら、「製品名で検索する」というアイコンがあり、これをざらっと見るだけで、本当に笑えてしまった(爆)。

ひとしきり笑ったあと、会社情報のページを見て、「うはっ!まじめな会社なんだなぁ」と思ったのです。けれども、このネーミングが笑えることについては本音では書いてなく、この程度>お客様の「あったらいいな」をカタチにするhttp://www.kobayashi.co.jp/corporate/cb/brand/charter.html もしもお勤めの方がいたら、インタビューさせていただきたいくらい、このおもしろいネーミングへの信念やシステムや会議の様子などを実況していただける人に会いたい(爆)。

私はネコにしか名前をつけることがなく、人間の赤ちゃんに名前をつけたことはないです。そんな大役はもしもお願いされてもお断りします。繰り返し何度も何度も呼ばれたり、願いを込められたりすることで、私はその人の人生の責任を担うことになり、とてもじゃないが怖くてできない・・・。もしも子どもが持てていたら、やっぱり他人には頼めなかったと思うのです。が、子どもを持つことそのものを放棄してしまったのだから、やはり「やってないから言える言い草」ではあり、ネーミングという儀式(Ritual)のすごさに改めて驚いています。

しかも、私はセンスがないしなぁ(笑)。

うど-4匹生まれたネコの中でイチバン大きくて、行動がのっそりしていたから。

タンゴ-黒いネコだったから、昔流行した『黒猫のタンゴ』という歌をそのままもらって

ハイジ-アルプスの少女ハイジのように元気だったから

寅次郎-渥美清が死んでしまい、近所のガソリンスタンドのお兄さんが日本の寅さんの大ファンだったから

さくら-寅次郎といっしょにもらってきた姉妹ネコだったので、さくらでいいや、と(笑)。

これくらいいい加減で、何も想いもこめておらず、彼らが持ち合わせていた天性や事情だけでつけてきたわけです。なので、これは、私のいい加減さに反映しており、会社を起こすときにも、ネーミングはコンテスト形式だったのですが、私のものは却下。西さんが出したのが『鼎総合企画』なのです。しかも、鼎という駅は、父の実家の飯田市からひとつめの駅で、情報として持っていたはずなのに、思いつきすらしなかった。西さんは台湾にそのときの時点で5年住んでいたのですが、まぁ、日常的に見るものでもないしなぁ・・・

鼎:(1)〔金瓮(かなへ)の意〕食物を煮るのに用いた金属の器。→鼎(てい) (2)〔夏の禹王(うおう)が九鼎を作り、王室の宝とした故事から〕王位。また、王位の象徴。

しかも、私は世界史に弱いのよ(笑)。アジア史、特に中国史は大雑把にもわかっていないことが多い。アメリカに渡ったせいで、アメリカとヨーロッパ史の外郭や一部の詳細はわかるようになるべく学んだのですが、アジア史は抜けたまま。西さんのように、コツコツ独学で追求する暇はなかったんだよねぇ・・・。人類学や心理学でたまに出るまだら情報だけでも、だいたいの歴史がわかってしまい、そのまま類型化しないできてしまった。やっぱりやったほうがいいのか?

最近、事件のニュースで、子どもが被害者になったときに名前がテロップで出ますが、やっぱり名前って変遷するんだね・・・。私が姪っ子たちが生まれたときに、「ホステスみたいな名前」と思っていたのが、当たり前になっているのだなぁ・・・。

http://www.kodomo-namae.net/ranking.html 長いあいだの年代別になっている。でも1984年くらいまでしか遡っていない。

私の名前は、Googleしてみても、びっくりするほど出てくるものではないのです。1040件。たとえば、私の年代で流行った名前ランキングの1位だと、由美子で、540万件。割合でいくと、もうものすごい差。よくある名前というのもイヤかもしれないんですが、ない名前というのもそれほどよくもなく、私が自分の名前を好きになったのは、アメリカでファーストネームでフツーに呼ばれるようになってからです。時間がかかったなぁ・・・。

あ、そうか・・・。私は他人のあだ名もつけないなぁ・・・。名前はそのまま呼ぶ。相手がすでに申請している、広く知れ渡っている愛称があればそれを使う(許されるものであれば)。距離感によって、「さん・くん・ちゃん」で分けている感じ。でも、呼び捨ての友人もたまにいるか・・・。あれ、よく考えるとひとりしかいないかもしれない(爆)>ハワイ在住のAudit 会計士の親友。

校長センセのように、同窓会を毎月できるような和気藹々人間関係をたくさん持っていれば、呼び捨て友人はけっこうたくさんいるんでしょうなぁ。続くってだからステキ♪

でも、名前をつける段になると、私はやっぱり怯む(ひるむ)。私自身が名前を好きになるのに、25年くらいかかっており、なんだか重要なことだと思えるわけで・・・。繰り返し繰り返し呼びかけられたり、Identityに使われるのは、やっぱり名前って大切だ・・・。

だから小林製薬の製品名が私にはこんなにおもしろく思えるんだろうなぁ・・・。でもまだ大いに笑えるから、悲しくなったらまた見ることになるんだろうなとは思う・・・。もうひとつ気になっているのは、なぜ「引越しセンターサカイ」のCMがあんなにまともになってしまったんだろう?ということ。昔のハチャメチャなCMおもしろかったのにな。母はなぜ真面目になってしまったのかわからなかった・・・。ええ、彼女はTVを見ているようでまったく見ていないも同然なもので・・・(笑)。


紀久美先生へのQ&A~心理学講座編~その71

Q71.

子供の頃に何か習い事はしていましたか?

A71.

ど貧乏だったので皆様のように素晴らしい習い事はしてなかったんですが、母が習っていた洋裁の先生に薦められて、お月謝が500円のお習字教室があったので、そこには小学校3年生から中学校1年まで通わせてもらいました。ある私立高校の先生が教えてくださっていたんですが、最終的にその方は校長先生になりました。俳優の水谷豊さん出身の高校です。私もそこで楷書・行書・草書まで学び、いつも乱れた字をホワイトボードに書いているようではありますが(笑)、本気になれば書ける感じです(笑)。

小学校5年生のときに弟が3年生で、警察で無料の柔道を習っていたのですが、私はそれが大変羨ましく、どうしても合気道を習いたいと主張し、たくさんの家の仕事を引き受ける代わりに、月謝500円の合気道の道場に自転車で、小金井まで通うことになりました。片道30分近くかかってた気がします(笑)。高校1年生まで ON & OFF で通いました。当然月謝は5000円まで増えたんですが、高校生になってからは自腹です(笑)。そしてアルバイトが死ぬほど忙しくなり辞めてしまったんですけどね。確かに2級までしか行かなかったので、もう一度やり直してみるという手はあります。うーん、やりたいかどうか?ちょっと考えてみます。

それ以外の習い事はしたことがありません。塾も行きませんでしたし、代々木ゼミナールの全国模試だけを受けた気がします。実は、浪人していた1年間も、予備校には通っていません。

今やってみたい習い事はたくさんありますけど、いかんせん、時間がありません (・・;) できればピアノ、絵画、彫塑、粘土を習いたいです。あとは、おばあさんになる前にもう一度しっかり歌えることが必要になってきた気がするので(笑)、ヴォイストレーニングを受けてみたいですね。

ジムにちゃんと行けるようになったら、そこに付随している様々なクラスも取ってみたいです。エアロビはぬかします(笑)。本格的に縄跳びとか、ボクシングとかやってみたいなと思わなくもありません。

もっと実利的な、株入門とか、ファイナンシャルプランナーとか、そういうのがいいんでしょうか?いやいやいや・・・・、要らないね(笑)。

テニスとスキーをアメリカに帰ったら毎日のようにしたいと思っているので、とにかく筋肉が必要です!基礎体力をもっと上げて、頑張って習い事に行きたいかなーと思います。


いい想い出がない

12/18/2007 にアップした文章です。


どん底映画などでよくあることなのですが、「生まれてきてこれまでいいことなんて何もなかったし・・・」というつぶやき。気持ちの持ちように関して、誰か他人がとやかく言えることではないですし、変えようと躍起になっても無理やりでは何も変わりません。ただ、その回想をいっしょになぞってみることで、もしかしたらいい想い出にぶちあたるかもしれないし、このあと思い出すとそのなぞってみてくれた人がいっしょにいてくれた、ということがいい想い出そのものになるかもしれない。この楽観と悲観は、人生の岐路に当たるのかもしれないなぁと考えています。

想い出:(1)前にあった出来事や体験を心に浮かべること。また、その内容。追憶。追想。(2)昔を思い浮かべる材料となる事柄。

回想:過ぎ去ったことを振り返り、思いをめぐらすこと。

私は至って厳しくて冷たい人間なのです。鬱病の人たちのそばにいると、彼らのためにはよくはないことでしょう。ただし、カウンセラーやセラピストとしてであれば、決められた時間で効果を上げることはできるのではないかと思います。私という人間は、健常者のみなさますら、長い時間いっしょに居るとイライラさせるわけです(笑)。なので、長時間はいけませんや・・・。

書いたように、まずは他人の話に耳を傾ける人間が実際に存在するということは、それだけで実際はBlessing(恵み)です。このクソ忙しい師走に、人々には人々それぞれの人生がある中、距離感をぐーんと縮めた話ができる人がそこに居てくれるということはとてもステキなことです。

核家族になったことで、老若男女が交流する機会の回数が減ったことにより、その質も落ちたことは事実です。うちの姪っ子なども、私が母に2年半前にマンションに移動してもらったがゆえに、その機会を減らしてしまいました。が、母が同居することは孫たちにはいいことだったかもしれませんが、母自身が老け込んだり、だるいゆるゆるな生活をすることになったり、それを防ごうとする彼女は他の家族との足並みを揃えない小社会での異色モノになる可能性が多く、ボーイフレンドの家に泊まりに行くことすら、理解を得られないような年齢に、孫がなってきたというのもあり、いい選択だったと思っています。母は自分の都合と孫たちのスケジュールを考えて、電話や赴いて交流は続けていますが、回数は以前よりぐんと減っています。質はどうなのか?これも下がったのかもしれないし、本人ではないので、私が冷静にカウンセラーのように分析しようとは思っていません。母にとってだけ考えると、以前より今の暮らしのほうが倖せな気持ちになることは多いです。質も格段といいです。ただ、姪っ子たちのことを考えると「未来への希望」という意味ではよくないことは多いかもしれません。

母の場合は、ネコたち相手でも会話をしますから、孫たち相手でも会話をしていたのですが、ネコたちの場合は目や足や身体全体などでそれを聞くのに対し、孫たちはジャッジメントをするわけです。それにお嫁さんが加わったりすることで、息子であるパパやだんなにも入る話や入ってほしくない話や進んで言ってほしい話など、もうぐちゃぐちゃになるわけですね(笑)。フツーの人間の暮らしの中では、『判断・評価をしない』でとりあえず100%受け止めて根に持たない、などということは、かなり理想的すぎてハードルの高い状況なのです。

私のほうがまだ「まし」だというだけで、私もまさかその理想的な『判断・評価をしないで、100%受け止めて根に持たない』というのからは、程遠い。ただし、彼女は弟の家にいるときとは違い、家事全般を仕切るという仕事があり、私の衣食住の実際(経済ではなく)を支配しており、私はそれについて頭が上がらないという点が違い、威張れるのですね(笑)。それを与えられているかいないかで、彼女のSelf-esteem(自己尊敬心)は大きく違う。元々家事全般が大好きだったけれども、お嫁さんが来たことで、「女ふたりは台所に要らない」ということで、彼女が引いたわけです。キッチンをふたつ持つこともできず、孫たちができた手前、まったく別個の食事形態にすることもできず、ましてや不和じゃありませんしね・・・。身体も不自由なわけでもないですし。

もしも、身体が老化のために不自由を感じるようになったり、能力が発揮できない場面が増えた上に、経済的負担になったらますます、高齢者の方々は「これまでだって何もいいことはなかった」と思ってしまう傾向になることでしょう。それを考えると胸が痛みます。同居でもうまく人生は進んでいかない。

けれども、高齢者だけの宅構えや一人暮らしもまた経済的に、立ち行かないし、不安が多くて大きいことになり、それもやっぱり社会が高齢者をなきものにしている、足を向けて寝ているような状態だと思えるわけです。

昔むかしお世話になったお店の経営者が、「夢は孤児院をやること。だってさ、老人ホームは夢がないじゃない」と言っていたのですが、20数年前の話ではありますが、私はそのときに非常に不愉快だったことを思い出しています。「この人とはやっぱり根本的な世の中の見方が違う」とそのときに思って、やっぱりことごとくいろいろなことで衝突していました。今考えても、私はその人に迎合しなくてよかったと思っています。

私のおじいちゃんは魔法使いでした。私が生まれて物心ついた頃には全盲でしたから、その目が見えない世界でも健常者に限りなく近く、健常者よりもずっと上手にいろいろなことをこなすことに、私は畏怖すら感じていたわけです。そのおじいちゃんが教えてくれたことに対して、今でもやはり背くことはできないし、老人の暮らしは夢がない、老後の人生には華がない、などとは到底思えないわけです。私はこうした祖父を持っていたからこそ、「好きな季節はいつ?」と訊かれても、子どもらしく「春」「夏」などと答えず、10代の頃には「冬」と答えており、アメリカに行ってからは自分の生まれ月を含む「秋」と答えるようになりました。人の人生を春夏秋冬に喩えたとして、私は冬に凄み・畏怖を感じていたということなのでしょう。

今も確かに時間に追われて毎日を過ごしているのですが、つい一昨日も、父の実家から電話がかかってきました。向こうからかかってきた電話だというのに、ずいぶんと長電話をしてしまいました。おじさんも73歳になるので、やっぱり行かないといけません。相変わらず毎晩飲んでいるというので、安心はしましたが、話をすることがお宝なのだから、と思ったわけです。それは、彼ら高齢者に施すということなどではなく、むしろ、恩恵をこちらが受けるという教えを請う気持です。叔父には、神仏稀釈や日本書記のほか、田んぼでのスケートやりんごの花粉つけやもぎりなど、本当にいろいろなことを教えてもらいました。おじいちゃんのときと同じです。いっしょに住んだのは、夏休みの短い1ヶ月を数年なのですが、私はそんな時間を持てて、いい想い出がたくさんあって、「つまらない人生だった」とは、老いても金輪際思うわけがないという自信があるわけです。

若い人たちが「いい想い出がない」というのは、あまりに能動的さがなくて、楽観性がなくて、甘えを見ている気がします。私は至って冷たくて厳しいのだ(笑)。障害者であろうとも、高齢者であろうとも、明日を信じて夢を見続ける人々は確実にいるというのに、もったいないと思えてしまうのです。

まずは生まれてきたという奇跡については、彼らはどう思っているのかなぁと。3億個もあった精子が、1個かアクシデントで2個しか出ていない卵子と遭遇し、流れてしまうこともなく、細胞分裂を繰り返して9ヶ月のあいだに、お母さんのおなかの中で大きくなって、まともに今のように喋れて聴けて動けるようになるまで、少なくとも育んでもらったということ。それもまた奇跡です。私は、「どうして私が歩けるようになったときの、父や母の顔を記憶していないのかなぁ」と残念でなりません・・・←無理な注文なんだけども(笑)。

いい想い出は必ずあるはずです。今思い出せない人には、いっしょに回想する時間を持つだけで、本当に暖かい時間が持てて、そのままそれがいい想い出になります。年末が来て、家族や親戚やお友だちと過ごす時間が多くなったら、ぜひぜひ、いい想い出の話をしてみてくださいね。

Second Nature

12/17/2007 にアップした文章です。

これは、日本語でも使う人は使うんだろうな。英語では、本能の次くらいに上手にできたり、しょっちゅう自然にすんなりやっていることなどを指します。ヒトの本能に根ざしたものは、すべての人が持っているもので、強弱があったとしても、さして驚くべきことではないですよね。けれども、不思議なSecond Natureを持っているヒトというのは、けっこういるようです。それに、心理学的な潜在的パワーや能力の種々のものは、開花し、そのまま続けていけば、簡単にSecond Natureとなりうるものなのです。習慣化、というのがキーですね。どのくらい定着するか?ということで、Second Natureになるかどうかが決まります。

Googleってみると会社やバンドの名前に途轍もなく多いんだなぁ。これは、「私たちのしていることは、自然で、生まれつきの資質があることなんですよ。ちょこっとやったらこんなにすごいことになった」と示したいわけですなぁ・・・。

癖とSecond Natureが違うのは、その効用性でしょう。癖はいいものもあれば悪いものもあるけれども、Second Natureは往々にしていいことを指すはずです。努力を要さずともらくらくとやすやすとできる、というような自慢の種になることが多いのでしょう。が、一般的には、「根付いた習慣」を本質としています。定着するには、それこそ本当に繰り返してやったことなのでしょうが、生まれ持った性質というのと密接な繋がりがあります。

OCD(Obsessive-Compulsive Disorder)の人々は、自分でコントロールしきれないほどのSecond Natureをたくさん持っているのです。あんなに物事をきれいに整理整頓したり、物事にこだわりすぎて、時間の感覚や経済観念をかなり長いあいだ忘れることができるというのはすごい。私は無になることができないと、これについては諦めきっているので、全体とはいかずとも部分を忘れられるような集中力や、ひとつのことにこだわることは、よく顕れればステキなSecond Natureだと思えるわけです。

それに、自閉症の中でも特にサヴァン症候群に類する人々は、魔法のような記憶力や数字への強さを示すことが多いです。サヴァン症候群でなくとも、一芸に秀でている人々が多いことは知られています。彼らにとっては当たり前の能力ではありますが、日常生活を過ごすのに必要な能力に欠けることがあるのも確か。なので、訓練により日常的なことがある程度できるようになると、スーパーな人々ではあり、彼らにとっては私たち凡人が「日常的な能力」とみなしていることがSecond Natureのように花開くものであったとしたらいいのだけれども、自閉症はまだまだ未知なことが多く、本当に残念です。

私の場合も、躁鬱病を持っているので、NatureなのかSecond Natureなのか、微妙なところがたくさんあり、「ただの強弱問題なんじゃないか」と思えるところがたくさんあるのですが、活字中毒なのはやはり典型的なSecond Natureです。つり革広告をひとしきり読み終えるというのも、なぜかプログラムされており、このところ困っているのが、近視がさらに進んでいるところ。本当に近場のものしか読めず、すぐに自分の手元にある本に落ち着いてしまわねばなりません。

人間ウォッチングも私のSecond Natureなのですが、これのせいでの功罪の罪はあり。髪が細くなったのも、近視が進んだのも、東京では、狭いところにモノがカラフルにたくさん詰まっているからですし、それぞれの動体(Animated objects)の動きが狭さに伴い大きくないことのせいです。なにしろ、アメリカでは、フリーウェイどーん!山どーん!海どーん!キャンパスどーん!というスケールの大きなものばかりで、学生街の町並みは小さくてかわいらしくて「なんだか、清里や軽井沢のお店の並びみたい」と思えるほどに小さく感じたのですが、東京では大型量販店以外は、みなあんな感じだ・・・。人々は、小さい空間でコマコマ動いており、それは当たり前のこととは言え、なんとなく目は疲れる。このSecond Natureはやはり自然に出てきてしまう類のものなので、意識的にやめようと思わない限りは続いてしまい、こうしたネガティブな結果も得られてしまうわけです。ポジティブな結果としては、逆カルチャーショックが多少軽減したことがあるので、大いなる文句は言えないんですけれども・・・。彼らがいなければ、私は駅構内をまともに歩くことなどできなかっただろうし(なんだか暗黙のうちの了解というのは多く、券売機にしろ歩行にしろ、リズムってぇもんがある)、人々の真似(モデリング:模倣学習)をしたがゆえに買えたものがけっこうたくさんあったり、使えた品物もたくさんあります。

Second Natureの中でおもしろいのが、どんなに酔っ払っても、ちゃんとコンタクトを外して眠ったり、化粧を落として眠ることができる人がいるのに、それらができない人々がいること。もちろん、酔っ払い程度にもよりますし、そのときのムードにもよるのでしょうが、なんだかすごい。私は正体がなくなるまで酔ったとき以外は、コンタクトも外しますし、化粧も落とせます(笑)。時計ですら「うっとうしい」と思うやつなので、普段お化粧をしないわけです。だから、酔うと余計にうっとうしさ加減が増すのでしょう。そんなに正体がなくなるまで酔うことは、日本に戻ってきてから一度もありません(笑)。Social Drinkerに再生しましたからね♪

他にも私のSecond Natureの顕著なものは、「余剰なものを持たない」というのがあり、母とは正反対で、すぐにあげてしまったり、棄ててしまったり、処分しようとする傾向があります。クリスマスがあって、クリスマスプレゼントをたくさんの人に配りました(笑)。英語学校の生徒さんには、英語の本をあげたのです。もちろん私の読み古しだということは納得済みなのですが、洋書は日本ではやはり高いので、けっこう歓んでいただけたし、先生のほうから生徒さんにクリスマスプレゼントなどということは期待されていなかったようです。他にも景品ライターを「いいな♪かわいい♪」などと言われると、すぐにあげちゃいますね(笑)。マニキュアなども同じで、いつまでも持っていても固まってしまうので、「使いかけだけど・・・」と断ってからあげてしまいます。私の気前のよさというのは誤解されているようで、わざわざ買ってさしあげることはたまにしかせず、お祝いもキャッシュ(現金)が多いのです。その人がイチバン欲しいものは、その人以上に知っている人はいないとみなしており、出産や結婚や卒業祝いなどは、決まってキャッシュですね・・・。冷たい(爆)。私がモノをあげる人というのはごく限られており、モノを上げた場合には、私が処分したいもの、ということが多いことは、ここで明言しておきましょう(笑)。

とんだSecond Natureではある・・・。

何かがあればすぐに歌を歌っていたのだけれども、そのSecond Natureは消えたようです。なぜならば、アメリカに住んでいた頃のようにひとりになれる場所が少ないから。母の前で歌うのはいいんでしょうが、彼女の場合、私が歌うと部屋から出てきて「何か言った?」とすぐに質問するんだ(笑)。それに、車に乗らなくなったので、移動のときにあれほど歌っていた歌をもう歌わなくなった・・・。シャワーのときに歌うこともなくなったのは、マンションなので、通気孔は全戸に通じているんじゃないか?と、どうも迷惑を考えてしまうのだった。へたくそでも音痴でもないのだけれども、他人の歌声なんて聴きたくない人は多いだろうし。このSecond Natureがなくなってしまったのは、本当に惜しいのである。私はヘリにひとりで乗っているとき、無線をインターコムにしてよく歌っていたんだ(笑)。

どんなSecond Natureがあるのか、考えてみるのはおもしろいです。癖のほうは悪いこともわんさかあるのでしょうが、Second Natureはひょっとすると長い時間をかけて、あなたをユニークにしてくれたものかもしれない。どうでしょう?

時間に縛られない日

12/16/2007 にアップした文章です。

人間には悲しいことに時計を日常に取り入れてしまえた脳の発達がありました。それが蔓延して、お日様の陰りや月の光や潮の満ち引きのアバウトなものではなく、時分秒が刻まれる正確なものになってしまったがゆえに、便利ではあるけれども、どうもどこかで縛られています。それがあまりに進みすぎると、遊ぶに遊べなかったり、勉強や仕事がこなしきれなかったり、と、弊害もかなり出るわけです。バランスの取れた生活は、可能なのかどうか?人による、というのがこの答えです。あなたはどうでしょう?

私は元来働き者な性質なのですが、ひとつの会社や企業に属したこともなく、いろいろなところを渡り歩いたハグレモノです。アメリカに行っても、契約ベースの話を自分から求める時期もあれば、勉強に没頭した時期もあり、帰国してからも数ヶ月、遊んできたようなものになってしまい、本格的に外出をして仕事に出かけるようになったのは、いつだったか?と思い出すのも面倒くさいくらいに、ここのところ毎日仕事に出かけており、完全休日の日を見つけるほうがたいへん・・・。英語講師はコマ数を埋めることで成り立っているので、契約している会社(学校)はかなりの数に上り、時間から時間という仕事柄、どうもここのところ時間に縛られている感が重い感じなのです。うーん、いかん・・・。

でもなぁ、小学校の頃から、時計を眺めては「早くチャイムが鳴らないかな。ドッヂボールだ!」などと思っていたこともあり、その頃に比べると、時計を見るのは教える内容の時間配分のためで、過ぎる時間は早すぎてイヤになってしまうほど・・・。逆の意味ではあっても、やっぱり時間には縛られているのだなぁ・・・。

最低限の時間の束縛というのは、誰かといっしょに住んでいれば、食事の時間やお風呂の時間、就寝時間があるんでしょうね。私は、母が食事の時間を支配すると思っていたのですが、実際は、私の仕事時間がマチマチなので、彼女が譲歩してくれるので助かっています。ブツブツと「夜10時半に食べるなんて信じがたい!」と言いつつも、自分は済ませているので、出してくれます(笑)。シャワーは、私は高校生の頃から、湯沸かし器からシャワーノズルをつけて朝入るようにしていたので、夜のお風呂は私がバイトで遅くなると種火すら落とされてしまっていました。こんなに便利になったので、バスタブに浸かることがなければ、時間を合わせずともよいのです。赤ちゃんや子どもさんがいる家庭は、規律正しいお風呂を励行しているんでしょうねぇ。ちとうらやましい。就寝時間も同じで、母とは別の部屋ですから、まぶたが重くなるまで本を読んでいます。TVをつけっぱなしにして本を読み始めるのですが、TVはつまらなくなったりいい番組がなければすぐに消します。TVにタイマーを付けて寝る癖がついていたのですが、1年半か2年弱くらい前にすっかりその癖は直しました。最初の夢にどうもTVの内容が出てきてしまうことに気づいたからですね。読書の内容に沿った夢はそれほど見なくて済んでいます。おそらく、音と光で刺激されていない分、自分が想像を駆使しなければならないので、強烈でなければ、夢にまで侵害することがないのでしょう。時代小説を読んでいるとき、特に、池波正太郎の『鬼平犯科帳』や『剣客商売』を読んでいた頃は、たまに斬りあいの夢を見ましたが、私は合気道はやっていたものの、剣道をやっていなかったので、本当に想像の産物でした(笑)。京極夏彦のものは、映像化は本当に個人差があるんでしょうねぇ・・・。映画を見たことがないのですが、第二作目が映画化されるということなので、ついでにレンタルして第一作目を見てみるのもいいかもしれません。私の想像とどのくらいの差があるのか・・・。

完全休日には、「ある程度」時間に縛られない暮らしができます。この前の日曜日も意識して、時計を見ずに、お日様だけを頼りに過ごしてみました。日が暮れてしまってからは、自分の読書スピードに頼ってみた(笑)。時計は全部裏返しにしておき、外に出ないでみる。ご丁寧に、私は小学生の実験のように、ポストイットの小さいものを、PCの時計にも貼って隠していたわけです(私の場合は画面の右下に出るようにしているのですが、そこに貼っておくと時計は見えない)。前日の土曜日は、夜の8時まで教えているので、帰ってごはんをひとりで食べて、エッセイを書いて、ネコと遊んで、読書をして、岡田准一が出ているSPというのを見てから眠ったのです(なんか好き、これ♪)。寝るときにはまた読書をしていたら、すーっと眠くなって、「よしっ!明日はまぶたが寝すぎてくっつくくらいまで寝てやる!」と決意してから眠った。

ところが・・・。なぜかお日様がカーテン越しに指してきたら起きてしまった。7時間半眠って、8時ちょい過ぎだった・・・。なんだよ、いつもと大差ないじゃん・・・。

結果、それほどに差し迫った締め切りがあったわけでもなく、「できるところまでをこなす仕事」と読書と料理とシャワーとネコと遊ぶので、しっかり時間に縛られない最低限で暮らせて、なんだか身体はノビノビしたようです。不思議と、6時間くらいするとおなかは空くものなのですねぇ・・・。忙しいときや移動でどうしても摂れないときなどは、外的要因でごまかされているだけで、身体は「欲しいよぉ!」というシグナルをしっかり出しているのであった。私は水分を1日2リットル以上飲むのですが、それには砂糖が入らないコーヒーなども含まれています。朝沸かしたコーヒーがなくなると、ひたすらお水を飲むのですが、やっぱりそれも家に1日いると、ちゃんと辻褄が合っており、ちゃんと2.2リットルくらいにはなっているわけですよ。外に出ると、無理やりサーモスの500mlや途中で買う150円500mlが必要ですから、2リットル行かない場合には、帰宅してから残りを飲むわけで、翌日に道理で顔がパフパフ(むくんでいる様子)になるわけだ・・・と、なぜか納得したわけです。

シャワーにしろ、いつもは外出前に匂いをゼロ近くにして、と思って浴びているわけですが、何もすることがないと「入らなくてもいいか」とは思いつつも、なんだか外的要因が薄かったり少なかったりするので、身体の声に相談してみることができる・・・。「暇なんだからさぁ、足のかかとの手入れしてよぉ」だとか「顔の産毛剃ってよぉ」などと言っているような気がして、母がいないので浸かることはなかったのですが、いつもの7分よりもずっと長い時間、シャワーを浴びる羽目になっておりました。

暇なのに、TVを見ない。日曜日には、昔むかしからあった『新婚さん!いらっしゃい!』を見てもいいかななどと思っているし、そのあとの『アタック25』を見てもいいかなとは思う。老舗の代表である『笑点』や『ちびまる子ちゃん』『サザエさん』と続いていることは続いているんですが、特に見る気にもならなかった・・・。暇だから見ないのかもしれない、と、なぜだか思ったわけです。しかも、頭の後ろっ側のどこかで「せっかくノビノビ自侭にやったんだから、TVを見て台無しにするなよな・・・」と囁かれたのかもしれず・・・。お昼寝をして英気を養おうとも思ったのですが、ネコと読書をしながらゴロゴロしていたにも拘らず、働いて疲れているわけじゃないから、眠れないし(笑)。

そんなわけで、母がボーイフレンドの家から戻る夜の9時15分くらいまで、私はぼーっと暮らしたのよ。で、お日様通りに暮らすって本当はかなりいいことなんだろうと、途轍もなく実感したわけですね。

こうした実験をこんな年齢になってやる私も私なんですが、なんだか健康であることにさらに感謝したんですよ、深く。身体に支配されていることをまず知って、そのあとそれを調整する能力がつくって、理想じゃないですかい?私はDNAがラッキーなところがけっこう多く、歯並びがめちゃくちゃいいし、風邪も10年に一度しか引かないし、寒がりでもないし、痛みにも強いし、鼻水も出ないし、さらに感謝は続くのよ・・・。お日様はやっぱりすごいです。太陽、太陽、と気軽に並みの感謝しかしていないと、きっとどこかでツケを払うことになると思うんですよ。せめて、お子さんがいるご家庭は、お日様に沿って暮らしてみるのがいいかもしれないです。

Need to know Basis

12/15/2007 にアップした文章です。

生きている心地がしないくらいにぞーっとしたのは、イージス艦の機密情報漏洩。私が今調べられる範囲での、調査対象者は、すでに100人にも及ぶとのこと。なぜ機密なのかどうもわかっていない人々にまで、その情報がつまっているものの存在へアクセスできるというのは、どういうシステムなのだろうか?もしも、イージス艦が取上げられてしまったとしたならば、中国や北朝鮮やパキスタン(これはないか・・・)などから、核兵器やミサイルが飛んできても探知できないんだぞ、という意識が、一般市民である、虫けら同然である私にもわかるってぇのに、国防をしているメンバーに100人近く(一般市民もきっと入っていると想定し)もそんな浅はかな人間がいるとは、マンガのような話なのだ・・・。いなかっぺ大将のほうがまだ子どもたちに夢を与えるだけ(私ももらった)存在意義があるのだ。

機密:〔枢機に関する秘密の意〕重要な秘密。主に政治上・軍事上の事柄についていう。
枢機:(1)物事の肝心なところ。最も大切なところ。肝要。枢要。(2)大切な政務。(3)てづる。縁故。

もうこれだけ調べただけで、どのくらい大事(おおごと)なのかはわかってくれよ・・・(汗)。

イージス艦については、意味と分類はこっち。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%82%B9%E8%89%A6

イージスといえば、イギリスには商業化しているディフェンス部隊があり、お金さえあれば雇えるのだ。まるっきり、私が好きなMitch Rappが出てくる小説シリーズも、嘘ばかり大げさばかり書いてあるわけではなく、やっぱり「火のないところに煙は立たない」ってことになります。平和ボケしている日本人と、いろいろな人が言いますが、私は平和ボケしていないので、国防に関しては本当に何もできないとはいえ、関心高し。自分が率先してやる気がないからこそ、やってくださる人々を信頼するしかないのだけれども、今度のことのようなことがあると、「やっぱり日本から逃げないといけないのかな・・・」などと、気の弱いことを考えてしまうのである。ネコまで引越しさせたのにさ・・・。

昨日のコメント欄にあったように、「子どもたちは外で遊ばなくなった」という原因を考えてみると、物騒になったから外でスーパーバイジングなしで遊ばせて安心できない、という心の動きが考えられ、マスローの階層欲求説にもあるように、安全の確保は、ヒトがサバイバルするために必要な「寝る・食う・性生活を営む」の次に来る、ものすごく重要な要素なのである。

まぁ、私も他人任せにしているんだから、感謝こそすれ文句など言ってはいけないのかもしれないのだけれども、役割分担を国民全員が担っているとしたならば、自衛隊に奉職している人々は、その重要性やリスクを理解していてほしい。訓練学校の生徒がやったわけではなく、彼らを教える人々や、ランクが上の人々がどうして!???と思ってもいいよね?

ニュースを読んでいて気になったのが、どのくらいの位置にいる人々が今回の漏洩に関与していたか?ということ。そこで調べてみた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E4%B8%8A%E8%87%AA%E8%A1%9B%E9%9A%8A#.E6.B5.B7.E4.B8.8A.E8.87.AA.E8.A1.9B.E5.AE.98.E3.81.AE.E9.9A.8E.E7.B4.9A これの7.に詳しく載っているので見てね。これを見ると、階層そのものは5つに分かれていて、その上から2番目の人々から最も下の階層にまで渡っているわけです。

これだけシステムとしては整っているのだから、機密取り扱いやその存在意義については、しっかり浸透していたと信じたいわけです。やはり個人の問題になるのか?

私は司馬遼太郎の『坂の上の雲』がNHK大河ドラマになると聞いて、泣きそうに狂喜したのですが、秋山真之他、明治の創設期からの汲み汲みと受け継がれた精神はどうなっとるんじゃい!と、まずとても悲しかったかもしれず・・・。http://www.nhk.or.jp/matsuyama/sakanoue/ (これもしばらく眺めてしまい、「へぇ、こんなキャストなのか」と。「90分X13回で完結できるんかい・・・」とも・・・。)ついでなので、こちらも読んでおいて、小説を未読の方の好奇心をそそっておきます(笑)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E3%81%AE%E4%B8%8A%E3%81%AE%E9%9B%B2 

あ、こんなに長々とぼやきを述べましたが、私は凡人がゆえに、Need to know basisである機密事項は、知らされなくてもまったくかまわない。もちろん、知的好奇心は騒がないわけはないのだけれども、私はそれを知るというコミットメントがきっとできないことはわかる。そのくらいの知性はちゃんと持ち合わせています。「虹はなぜ七色なの?」などというのとは違うのである。もちろん、まったく知る必要がないかどうかを決めるのは、私だけではなく、世界のシステムや論理に絡め取られており、あなたもやってみたいですか?」と自衛隊募集や警察官募集などで、形式だけとしても尋ねられてはいたわけです。けれども私はその機会を見過ごした。それは「選ばなかったツケ」ですから、私もそれをしっかり納得しているということなので、見たくても見てはいけないことはしっかりわかる。

たとえ、自衛隊や警察に入ったとしても、私がその階段を登りつめることは難しすぎたであろうし(当時は女性の自衛官や警察官が昇級するのは、今よりももっとチャンスは少なかった)、縛りつけや決まりを「なぜ?」と聞かずに自分をそれまで押し殺していくことが到底できそうになかった・・・(マインドセットとしては、その権力や権威を手に入れるまでは我慢できる、という人はいるらしい。私はそのあいだ、死んだような気持ちになってしまうだろうと予測したし、馴らされることも心配したわけです)。マイナス120%くらいで、選べない道だったわけですね。

だからすでに私はそれほどの機密を知る権利を放棄したことはわかっているわけです。が、その機密を大切に扱えない人に、機密近辺にいてほしくはない、というリクエストはしてもいいでしょう・・・。私と大差ない同類だったんかい、おまえは!というような。いやいや、私のほうがずっと機密の大切さをわかっておるわい!というくらいの憤りか・・・。

システム内で、モラルや理解のテストはしょっちゅう行われているとは想像するのだけれども、風刺やダメ出し映画や小説では、杜撰さがいろいろ取上げられているけれども、少なくとも日本は戦争にはここまでは積極的に参加しないで済んできたし、それなりに機能しており、感謝すらしていたのだけれども、どうも私の中の自衛隊への信頼は失墜した・・・。もちろん、がんばっている人々にはひどい言いようなのだけれども、申し訳ない。母いわく、「上が悪いんだよ」と、いつもの簡素化した言い方をしていたのだ(笑)。私はそれだけだとは思わないのだけれども・・・。

これだけゴシップが蔓延し、知らずともいいような、どうでもいいようなものを、ニュースと呼ぶ人々が増えてしまった昨今、自衛隊だけに、警察官だけに、他にも守秘義務が必要な職業者だけに、鋭い規範を求めるのは無理なのかなぁ・・・。私は、友だちの秘密すら西さんにも言わないやつなのですが、聞くときには「それは私が知っていたほうがいいことなの?知る必要があることなの?」とは、重要であればあるほど、人に問いかけることにしています。どうも「王様の耳はロバの耳」がイヤになっている傾向はあるもんで(笑)。

アメリカにいるときに、日本のニュースは私は特に知らなくても、恐怖感がなかったです。でも周りには、恐怖感があって、むさぼるように手に入れていた人々もいました。どこまでが「知る必要がある」ニュースなのか、情報なのか、改めて考えてみるのもいいかもしれません。

紀久美先生へのQ&A~心理学講座編~その70

Q70.

新年の抱負はありますか?

A70.

仕事に対しての新年の抱負は沢山あるんですが、とにかく全てがこれから受けていただく生徒さんや、今受けて頂いてる生徒さんに、本当の意味で、英語が使えるようになってもらえるようにするためのものです。もちろん稼ぎたいという気持ちもたくさんあります(笑)。もうお金の苦労はしたくないですし、これまでのように清貧( 無理に富を求めようとはせず、行いが清らかで貧しい生活に安んじていること)を続けていると、スクールが潰れることにもなりかねません(笑)。ちょっと頭を使って、せめて維持してプラスの方向でいられる仕組みを作っておおかねばならないと思っております(笑)。

個人的な新年の抱負ですが、とにかくこの多忙を少しでも減らし、健康のために何かしたいです。夢中になれるぐらいジムに行くとか、ジムにちゃんと行けたら、+ボルダリングのトレーニングを開始するとか、体力を30代ぐらいにしておきたいなあと思っています(ちょっと欲張りすぎか??)

でないと、たまにある連続10レッスン12レッスンに耐えられそうになくなってきました(笑)。ご飯を食べないことは全く問題ないんですが、へとへとになって後半の生徒さんにご迷惑をかけることだけは避けるのでありませんっ!結構、実年齢よりも体力に無理はきくんですが、もっと聞かせなければという気になってきました(笑)。

さらに今年は1ヶ月に1-2回は、完全休日がどうにしかして取れればと思っています。

でないと漢字検定準一級を受けられないのです(笑)。オフがない限りどうしても仕事をしてしまい、自分の勉強が進まないというこの体たらく (・・;) 数学のやり直しや、物理のやり直しも目白押しでてんこ盛りです (・・;)

しかも旅行に行きたいわけですよ!少なくとも一泊2日ぐらいにどうしても前半で行きたいです。天皇陛下も新しく即位なさりますし、どこかでしっかりお休みが取れればと思っています。

仕事面で新しいことをたくさんやるので、きっとそのご褒美で、お休みが取れるかと思うのです。そうしたらやりたいことをこれまでしてこなかったので、しっかりやろうと思います!まあ特に大きなことをやりたいと思ってたわけじゃないんですけどね(笑)。ごくごくフツーのことですけどもね (・・;)

断捨離傾向にある私の荷物ですが、どうにかしてミニマムに減らせないかとも思っています。これも前半の今年の抱負です。とにかく紙類の断捨離ができればスクールも相当綺麗になります(笑)。

そして私の目標達成率は90%以上なので、きっとできると信じています♬


肩こり・冷え性・鈍い反応

12/14/2007 みアップした文章です。


私自身はまったく肩こりの自覚もなく、冷え性からは縁遠くなり、反応は極めて鋭く速い。冬になったからと言って困ることもなく、日々をむしろ、夏よりも楽しく暮らせております。が、英語の生徒さんたちは、マフラーに手袋にコート、その上鼻水や咳など、寒さによるしわ寄せを日々見ているところなのです。うーん、どうしてなんだ?夏よりもずっとずっと過ごし易いのは、私だけなのか?

温度設定は、室内は20度くらいでいいということを、校長センセにコンファームしていただき、ものすごい安堵感です。現在、室内温度は20.5度。ちょうどいい感じなので、暖房はつけていません。大人ふたりとネコたちが息をして、PCとTVがついていて、炊事のガスの名残があって、それでもう暖が取れてしまうマンションは恐るべしだ・・・。去年よりも今年のほうが寒いという予報が出ましたが、我が家ではハロゲンヒーターのみを使うことにしており、ネコたちがいるので、寒がるようであれば30分くらいつける程度。その威力は即効で、ネコたちはすぐに眠ってしまうし、私は1枚脱いだほうがいいのか?というくらいになります。ちなみに、私は冬でも室内では2枚で暮らしています。アメリカでは半袖だったので、母に「ここは日本なんだからいい気になりなさんな!」と言われて、やっぱり長袖シャツにして、その上に半纏かフリースを着ることにしたのです。それは去年から始まったのですが、どうも厚着をしているような不思議な感覚(笑)。まだまだ身体はアメリカ仕様なのである。

電車の中ってどうしてあんなに暑いんだろうか?人々の息があれだけすごいんだから、暖房は入れる必要はないと思うんだが・・・。各駅停車はイチイチドアが開くので、まぁ、暖房はありなのだろうけれども、私が使っている特急は要らないですぜ、と思うの。新宿から私の住む調布までは、15・6分で、途中明大前しか停車しません。どうして冬なのに、夏のように顔に汗をかかねばならぬのか?と、よく不思議に思うことあり。なので、これが進むようであれば、私はホームでコートやジャケットを脱がねばならぬ羽目に陥ることになります。もうすぐそんな感じ・・・。時間帯にもよるのですが、授業が9時半までが多いので、10時前くらいの電車は、酔っ払いばかりでもなく、残業した人々もいて、超混雑でもないのです。朝の満員電車には数回乗りましたが、あんなひどい状態でもないので、女性専用車輌を利用する必要はないのですが、酔っ払いが多いときには女性専用車輌のほうがいいかもしれないと思うくらい、人々の息というのはすごい。アレに気づかず乗っていられる人々は倖せである・・・。

私が夏場の電車で座らないのは、冷房の通気孔から遠いからで、冬場は足元が熱すぎるから。こう、全体的なセントラルな温度調整はできないものなのだろうか?昔よりはずっと改善されたのではあるんでしょうけれども・・・。

あ、どんどんただの不平になっていく・・・(汗)。

生徒さんたちや町行く人々を見ていて思うのは、みんな末端が寒いんだなぁ、ということ。足や手や顔が寒いらしい。私は、今でも「出かける間際にシャワーを浴びる」を励行しています。タバコくさいと周りに気の毒なので、出かける間際にきれいにして、吸わないままで出先で仕事をするわけです。しかもドライヤーを使わない主義(こんなことに主義主張もないもんだよなぁ・・・。ただ単に使えない、という技術面なことと、マメではないのでドライヤーを使う時間がもったいないというだけの話)なので、濡れた髪のまま歩いているわけですが、まったく風邪などを引く予感が兆したことなどありません。新宿に到着して、ビルに入って、クラスに入って、準備をさっさか済ませて、最初の授業の真ん中くらいまでは、まだ髪は濡れていますな(笑)→自然乾燥には、髪がちと長めなので1時間前後かかるらしい。

私は常に読書をしており、家から駅までも、階段以外の駅構内でも、駅から下りたあと目指すビルに到着するまでも、エレベーターに乗ってからも、ずっと本を二宮金次郎のように読んでいます。電車の中では、肩こりをしないように(習慣なのでPCの前に座っているよりは、読書姿勢のほうが肩こり誘発要素は低いとは思うんですが)、つり革に必ず片手ずつは掴まって、腰から頭までを伸ばす運動をひとりで取り入れているので、気づく人には「この人、おっさんみたい・・・」と見つめられていることでしょう・・・。ショルダーバッグを利用しているので、肩甲骨を廻しストレッチすることも習慣になっており、クラスの前には必ずやっている模様・・・。特にそのときには凝りなどは感じているわけじゃーないんですけども、もう習慣なのでやらざるを得ないというか、意識しないとやめられないというか・・・。授業中も、足や腰を伸ばしたり、立ったり座ったり、たいへんによく動くので、生徒さんたちの目線が動く動く(爆)。ただし、プライベートレッスンのときには座りっぱなしで、私としてはグループを教えたほうが身体はラクなんですけどもね←結果論なのか、ただの精神的なものなのかは不明。

とにかく寒さをあまり感じていないので、手袋はしていないし、ホッカイロも要らないし、マフラーはおそらく中学以来したことがないかもしれない。あ、スキーのときもやっぱりしていない・・・。カラーが高いウェアを着ていただけで、吹雪いたときには顔マスクが首元まであったというだけの話。今年の1月と2月、横田基地での外での通訳の仕事があったときには、母が心配して手袋を持たせてくれたのですが、かなり初期である数日めに南武線で落としてしまい、それからはなくて済んだしな・・・。防寒がしっかりしているパンツの下にタイツを履け!とも言われたのですが、実行したのはわずか3日だった・・・。暑かったんですよ。

あ、またもや冷え性の人の敵になるようなことを羅列して・・・。意味がないじゃないか・・・。

冷え性にいいのは、たくさんのネットサイトで言っていることなのですが、日ごろの暮らし方そのものを改善するってことで、対症療法ではないということです。

うげ、こんなすごい名前のサイトがあった>http://www.garafaku.com/cold/ 冷え性改善研究所 さらにすごいのがある>http://www.hiesyo.com/taisaku/ 冷え性ドットコム これらのドメイン名が取れるところがすごいと思う・・・。

私は、シャワーのみで、一冬に3回ほどしかお風呂に入らなかったのです、去年。それでも冷え性体質にならなかったようだし、今年は暇があれば入ろうかとも思うのですが、追い炊きができないので(ただお湯をバスタブに入れるだけ)なんとなくやる気が殺げるわけです。ネコたちがかわいそうにアメリカの家のときのようにそばに来られないし・・・。アメリカの家のときは、バスタブはカーペット敷きのバスルームにあり、その奥にドアつきのシャワーストゥールとトイレがあったのですよ。だから、本を1時間や2時間読んでいて、私が浸かっているあいだじゅう、何匹かはそこで寝たり、水をいじったりしていたわけです。でも、マンションなので、ドアがあってタイル。しかも、一畳欠けるくらいのスペースしかないし、水びたしだし・・・。

バイクや自転車に乗ってあちこちに出かけた頃は、手袋をしていたのですが、なんだかそれも遠い昔の話のような、いや、まるで昨日のことのような・・・。母は69歳にもなってまだ原付に乗って、洋裁に通っているのですが、彼女もそれほど寒がりじゃないので、遺伝なのかなぁ・・・。

日々の中にストレッチを入れたり、身体が温まる食べ物を摂り入れたりするのは大切です。しかも、対症療法として手先や足先を温めたいのであれば、先っちょにカイロを入れるのではなく、大動脈がある箇所やおなかにカイロを入れたほうがいいでしょう。血流がよく流れますから、結局血行がよく流れることになりますもん(素人考えじゃないと思うんだけど・・・)。

寝るときは、ネコを抱いて寝るので暖かいですね。ところが暑くなりすぎて、ネコたちのほうで途中で逃げるんですけども(笑)。ネコが寒がっているかどうかは、丸まって眠っているか、おなかを出して眠っているか、伸びて寝ているかでわかります。みんなが丸まったときに暖房をつけることにしています←とても経済的(笑)。

冬でもシャープな女の人って、なんだかとっても少なくて、テンションが下がる忘年会はちとイヤだなぁ、と感じたので、書いてしまいました(笑)。ええ、忘年会、今年はちょろっとあるんですよ。


ピノキオからの脱却 その2

12/13/2007 にアップした文章です。

昨日のエッセイは、ピノキオレベルのままで、まだ規範を学んでいる最中の人々が、細かい公的倫理を守らないことを書きました。事情があるにせよ、「出来心」「決まりに反する」という心を責めるのではなく、してしまった事実については、取り締まったほうがいいというのは、飲酒運転などで徹底ができたように、できないことではないと思うわけなのよ・・・。観光地でのゴミなんかを見ていると、本当に悲しくなりますぜ。どうしたら、人々が脱却できるか?というのは、私がひとりひとりに行脚して廻るわけにはいかないので、条例縛りをしたほうが早いんじゃないか?と、味も素っ気もない案を出したのですが、反対の人々はいるんでしょうねぇ・・・。

私は、暗い夜道を女の人が歩かなくてもいいようにするビジネスが発達すればいいのに、などと思い、一時期真剣に、夜行バス(終電間際のバス運行のスケジュールは、ベッドタウン近辺の駅前などで盛ん)とカップリングして、体育大などの女性がアルバイトをすればいいのにな、と、提案したことがあります。が、儲けが薄いので却下されたんだけれども(爆)。そういう、福祉や公共への貢献が手厚い事業をやりたい人々はあんまりいないんだよなぁ・・・。男性ひとりに送ってもらうのは逆効果で、その男性がストーカーになる可能性もあり、やっぱり穴がいろいろあったという企画でもあったのだけれども(汗)。

『人生に必要なことは幼稚園のお砂場で学んだ』というベストセラーがあったんですが、これには公的論理に対する規範も含まれており、平易で、幼稚園児にもわかるような言葉が羅列しています。では、なぜにこの人生のエッセンスの基本が、幼稚園で身につかないんだよっ!というのが、私の疑問だ・・・。

本当に簡単なことなのですよ。
・ みんなで分け合うこと
・ ずるをしないこと
・ 人をぶたないこと
・ 使ったものは元の場所に戻すこと
・ 散らかしたら後片付けをすること
などなど、特別難しいことは言っていない。

ピノキオが人として学ばねばならぬことはそんなにたくさんあったのだろうか?しかも、ピノキオは木製だけれども、ヒトにはDNAで確約されている可能性が詰まっており、それを開花させるかどうかの問題じゃーないのか?

大人になってもこれらのことができないピノキオステージにいる人々が、ポイ捨てをしたり、大型家電を山の中やプラント近くに行って棄てたり、他人にぶつかっても謝らなかったり、贈収賄をするんだよなぁ・・・。以前から私が言っている「ひとりひとりが自分のすべきことをしていれば、世の中はかなりよくなる」というのは、この『人生に必要なことはすべて幼稚園のお砂場で学んだ』に基づいているのですが、余計な知恵がついたから基本を無視するようになったのか、はたまたそもそも身についていないのか?で、対処法は分かれるわけです。

そもそも身についていない人というのはどのくらい実在するのだろうか?「みんな」がいなかったらきっと学ぶのは難しいのだろうし、遊びを繰り返ししなければ、機会の回数の問題で学習の場がなかった(少なかった)とも言えます。人知が駆使してきた原始的な器具遊びをせずに、いきなりビデオゲームやDSやその他を使う環境にいたら、バケツやシャベルや手を使う遊びはしなかったことになるし、それらが他のお友だちとシェアするものだということもわからなかったりすることもあるかもしれない。大人が打つ・殴るが問題視されていますが、子ども同士の殴り合いで死ぬことも大怪我をすることもなく、ふざけたはずみのプチ暴力も経験しないというのもあるかもしれない。

こんな基本的な環境が用意してあげられない親は、いったい何をどう考えて暮らしているのか?と、遊ぶだけ遊んできた私には不思議でならぬ。ピノキオステージで、思いっきりピノキオをしてこなければ、学べないことはあるのでしょう。それがゲンダイジンが持つ悲しい欠落の集大成として、公共モラルに反映しているのだよね・・・。

親が何でも先回りして、遊び道具を出してやったり片付けてやったり、分け合うことをせずに一人ひとりの盛り皿にしたり、一人遊びが優先のゲームを渡したり、会話が存在しなくても高揚感が得られる遊びばかりが流行するのは、やっぱり見直したほうがいいんだろね。

身につけたはずなのに、知恵がついて、基本をすっかり忘れている人々はどうなのか?電車の中での席というのは、「みんなのもの」でお砂場や、借りてきたバケツやシャベルと同義だとみなしてみて、それをどう使うか?というのは、会話が成り立てばかなりスムーズに行くはずなのだが、なぜか昨今では、「優先席」というラベルがあって、確かに、社会的に意識していていいんじゃない?と思えるんだろうが、目に見えない障害を持っている私などには便利に作用することはありえない。座ったら腰の痛みは見えないから気まずいしさ。誰かといっしょだったら、「立ちっぱなしは腰に悪いよ。空いてるから座れば?」と言ってもらえるフォローがあるのだけれども、私は電車では座らない。ガラガラだったら座るのだけれども、本を読みながらつり革で背中&腰伸ばしをするのが癖になっており、ひとりで「なんだかおっさんくさい・・・」と苦笑している日々です。

そもそも、他人と会話をしない乾いた社会になっているから、こういうことになるのだろうねぇ・・・。私はアメリカに住んでいたときには、外に出れば必ずstrangers(知り合いではない他人)と数回は会話をしたものです。スーパーでも他人と話すし、クラーク(販売員さん)たちとも話すし、公園ではHi! How are you?だとか、わんちゃん連れには話しかけないほうが不自然だし、子どもが元気よくHello, lady!と言ってくれるのは楽しみですらあった・・・。ビジネス街ではそれは省略される社会なのだけれども、エレベーターに乗っても「何階ですか?」と聞いてくれる人が少ないのには、驚いたりもして、私はこの逆カルチャーショックに1年もかかって慣れてきた模様。

ずるをしない、というのは「見つからなければいい」というバカげた気持ちから起こるのか?ずるをしてもどこかで誰かが必ず見ているとは言わないが(宗教じみてしまうので、無神論者には通用しないだろし)、自分は知ってるだろよ・・・と思うんだが。美徳や信念や大切なものを失うと、社会は殺伐としてきて、人々は他人を疑うようになるのだろうし、通用してしまう社会にもなるんだろうねぇ・・・。たまに、どうしても存在してしまう悪がいるのは古今東西仕方ないことで、ゼロ社会などはありえない。どこであっても同じで、農村だから安心だとか、ハイジのような純真な少女の近所に住んでるから大丈夫ということはありえないです。だから、自衛心が大切だし、自分にゆとりがあったら他人も助けてあげたいと思えるようなaltruism(利他主義)は大事なのだわ・・・。

心底、「自分は他人に迷惑を掛けない」「迷惑を掛けている分は他のことで貢献する」「ゆとりがあったら他人のことを助ける」という、本当に幼稚園のお砂場で習ったことの、スケールがちょこっと大きくなったことを日々続けていければ、ピノキオからは脱却しており、他人が操っている糸にもつれることもなく、糸を完全に断ち切ったあと、意志での行動規範ができるんだがなぁ・・・。そうすれば、条例がいくつあったって気にするこたぁないし、無駄な看板は撤去しろ!と叫べるはずなんだが・・・。

確かに私が田舎ちっくな名残のあるアメリカに住んでいたせいもあるのだけれども、サンフランシスコから車で30分のところにそんな町をキープできる広大さはすごいよ・・・。私は知らない人に「ご機嫌いかが?」と言われたら、けっこう元気が出るんだがなぁ・・・