責任の取り方 後編

10/28/2007 にアップした文章です。

 

いやー、全部見切れなかった(爆)。家に戻れたのは、8時25分頃だったのですが、そのとき把握したのが、すでに「家庭における責任感」というテストが終わっており、舛添厚生労働大臣がわずか10分ちょいで退席した、という感じ。そのあと、「社会における責任感」というテストを画面でやっていたので受けたのです。もちろん、正確に測る(順位が出るらしい)には、携帯からやるのがよかったのですが、どうも頭がデジタルになりきっておらず、アナログ部分も多いので、ごはんのしたくのほうが優先であった(爆)。そうそう、私は時計の表示もデジタルはダメですね。どうしても円形になっている時計表示のほうが実感と計画が立てられる。

時期がぴったりと合ってしまったために、亀田家問題を取上げており、今朝のニュースを見ても、いろいろなところで星の数ほど取上げていて、いいことを言っている人々がいるにも拘らず、やはりメディア全体での反省感、責任の取り方というものには、反映されていない模様であるのはわかった・・・。校長センセがコメントでおっしゃっていたように、責任の取り方というのは5時間の枠であっても、てんこ盛りに問題提示は可能であっても、解決への方向性を提示して一丸となって進むまでには至らず・・・。カリスマ性を持つ才能あるビートたけしを以っても(やはり疑問なんだけれども、どういうラインで、北野武とビートたけしを使い分けているんだろうか?)、人々にどの程度訴えかけられるか?というのには、限界があるんだろうな、と思えたのです。

しかも、私は見ながら満腹になってしまい、その日の授業が10-20だったこともあり、疲れていて寝てしまった(爆)。というのも、私がぐいぐい引き付けられる内容ではなかったってことなんでしょうね・・・。久米宏とテリー伊藤と小倉智昭も出てきたのだけれども、私はその論議の途中で力尽きてしまい、「そんなにすごいこと言ってくれないんだな」と思いつつ、ネコたちを撫でつつ、TVをつけっぱなしにして眠ってしまっていた・・・。タイマーもつけておらず、起きると2時だった(爆)。情けないことに、自分が22時までは起きていたのか、いつ寝たのか、まったくわからない状態になっていたのである・・・。

東国原知事も遠隔中継出演をしており、番組全体の構成や仕掛けは、それなりに「悪くない」とは思えたのだけれども、まぁ、寝てしまったくらいなんだから、大したことがなかったと言える・・・。あれだけの資金力とコネクションを以ってしても、やはりテーマが壮大すぎるというのは、そもそも思っていたことなのだけれども・・・。

日本での会社社長や役員などの引責辞任の話についても見たのだけれども、尻つぼみで終わってしまった感があり、そのあと久米宏たちが出てきたので、どうもやる気が持続できなかったように思える。辞職をすることで、どんな責任が取れるのか?という話をスタジオでしていたのだけれども、予測通りというか、斬新な答えをしてくれる人々がおらず、そこらへんからすでに興味が失せた模様。東国原知事が、「欧米諸国では、すぐに記者会見を開いて謝ると、賠償金・保険金などの問題が出るからでしょ」という発言があったときに、そこから話が発展するのか?と思いきや、発展しなかった・・・。

私のスタンスは、当然、留任して責任を取る、のほうで、辞職して次に任務に当たった人たちは迷惑千万すぎます。日本の伝統としてすぐに記者会見をして謝罪しなければいけないというのが主流であれば、謝る内容を工夫すればよい・・・。とにかくすぐに謝るのではなく、「事実を確認してから謝る」でいいんじゃないかと私は思っています。「疑いを招くようなことになり申し訳ございません」という謝罪をしたのち、事実把握や調査委員会などの担当責任者で、問題解決に最も近い人間の記者会見を数回に分けてしてもらったほうが、消費者の立場としては安心できるんだが・・・。

いや、実際は、私は記者会見は要らないと思うんですが、アナウンスメントをパブリックにしなければならぬ、という考えが日本ではまだ主流ならば、ですよ・・・。

インターネットのHPでするのも、TVのための映像を撮るために会見を開くのも、意義は大して変わりはなく、「国民・消費者が知りたいこと」を網羅していればかまわないわけですよ・・・。東国原知事は、「賠償金・保険金の関連性」を示唆したけれども、実際に、資本主義の中に位置していれば、これに対する懸念は、営利団体としては持っていなければつぶれるでしょう。つぶれたときに、社員の家族や地域社会に対するモラルと秤にかけろってことなのかしら?「騒動を引き起こしたこと」に対しては謝辞をしっかりして、迅速な根本的問題解決のために、すぐに調査委員会を発足させるとか、外部の調査諮問を使うなど、オープンに問題を解決する姿勢を見せてくれるのが、重役たちが辞めるよりよっぽど大切なんだけどねぇ・・・。辞めて何になるのよ?と・・・。私的財産を没収する権利が、会社という団体や日本社会にあるわけでもなく、横領や贈収賄の疑惑があれば、調査次第では、のちのち没収できるし、いつでもクビにできたり、辞意を表明することはできるのだから、あんな早期に辞めてもらっても、消費者である私には何の感慨もないのだけれども・・・。

潔いという言葉の意味が、実際のところ、あまりよくわかっていないのではないかと・・・。

潔い:(1)卑怯な点や未練がましいところがなく立派である。悪びれない。(2)汚れがない。清浄だ。(3)心やおこないにやましいところがない。潔白だ。(4)清らかで気持ちがよい。

社会的な地位を剥奪することが、この世の死以外の最も重い制裁であるという考え方が、どうも違うのだろうと思うのです。だから、いじめをつらく感じる子どもたちも増える。私などは、そもそも社会的役割そのものを軽視している部分が大いにあり、その社会的役割に対する誤差を充分にターゲットに入れて、個々人の別を考えていけるので、社会のスタンダードがどうであれ、地位剥奪は大した制裁ではないと考えています。地位にしがみついている人にとっては、確かに重い制裁なのだろうけれども、世間を見てみてよ。アメリカ式に、ステップアップ転職が流行になってきた現在、終身雇用を貫く人々はだんだん減ってきました。「しめた♪」とばかりに解雇される人だっているかもしれない。それよりも、針の筵(むしろ)にずっと留まらなければならないほうがつらいと思う人には、留任させたほうがいいでしょう。まぁ、最終的には本人の意志ではありますが・・・。

この引責辞任というのは、ゲームが害悪だと言っていた人々の「リセット」と同じ機能を果たしていませんかい?と思うのです。もちろん、念入りに取材や調査ができる人に遭遇してしまえば、辞任したあとの人生は難しいものになりますが、このご時勢、他人にそこまでの関心を寄せる人々が少ないだろうと高を括ることだってできます。経済的蓄積をすべて取上げられなければ、辞任した人々はそれなりにうまくやっていけてしまうことでしょう。

ああ、この話題ひとつでここまで書いてしまいました・・・。眠って失敗したなぁ、と思いつつ、眠ってしまえるくらいの意見しか出ていなかったとも思えて、それでも「私が眠ったあとにお歳暮やお中元でもらった桃の缶詰を内緒で食べていた両親たち」を思い出し、どうも「楽しいことは私が眠ったあとに起こった」という疑いからも抜け切れない(爆)。ブログを検索してみたのですが、大した意見はまだアップされていなかった。それでもやっぱり「逃がした魚が大きかったらどうしよう・・・」とは思っており、自分の豪胆さの欠落に嘆くのである(笑)。

ちなみに、私は誰かが見ていなくても赤信号は必ず止まりますし、空き缶も拾いますし、丸裸のお金でも交番に届けますし、余分なおつりは返します(たまに気づけないこともあるんだけれども)。そのときに、たけしが「こんな小さなことで運を使うのはイヤだ」と言っていましたが、なんだか共感。でも、そのあと「だからギャンブルはやらないの」という発言があり、ちょいと反省(爆)。私はギャンブルをし通しで、人生だけでは飽き足らず、カジノもパチンコもやっています。やっぱり全体の運っていうのに影響あるんだろうな・・・などと、オカルト的なことを考えてしまいました。

責任の取り方は、またどこかで論じているブログやHPを探して、もう一度真剣に書こうと思います。

人の能力が伸びるとき

ここではタイミングと条件を考えてみます。発達心理学的な考え方をまず前提としてご理解ください。ヒトは必ず「積み重ねの存在」なので、過去の経験から逃れることはできず、それを薄くしたり、奥のほうに閉じ込めたりすることは可能ですが、やはりそこに依然存在していくことは確かです。さらに、もうひとつの条件としては、DNA遺伝子でもらった器量・能力の器があります。これに関しては、多くの人々が諦めモードのほうが強いので、特にネガティブなことを羅列する必要すらないと考えるのですが、生まれながらにいいものを持っていたとしても、生まれたあと、育つ過程でそれが開花しないことも十二分に考えられます。ある刺激がない限り、その才能にはタッチすることすらないかもしれないわけです。逆に、みなさんが考えているDNAの重要度というのは、少し大げさモードになっている気がします。天才か秀才と呼ばれるほどのIQを持つ人々は、自然の摂理的発生頻度なので、全体の2.14%ほどしかいません。天才の中で群を抜いて明らかな人々は、実際には、0.13%しかおらず、ここが天文学的な頭脳を持って生まれた人々です。全人口が77億人だとしたら1000万人程度しかいません。日本の1.268億で考えると、16万5千人に減ります。しかも、ここには学歴を伴うケースなどに確実性はありません。なので、考えることすらしなくていいのでは??と思っちゃいますね(笑)。むしろ、着目点は、「持ち得ているものをまだ学ばないことにより、学び方を習得していないことにより、開花させていない」ことであって、生まれではないわけです。

 

ここまでご理解いただけたら読み進めてくださいませ♫

 

ヒトの成長にはささやかですが重要な時間のラグが生まれます。Slight, but significant differences と呼びますが、時間だけではなく、さまざまなユニークさ、特別さ、はここから生まれます。選択肢の数が2つ(コンピューターなどのような二進法)では、「頭がいいー悪い」の2つしかなく、とても窮屈な可能性を小殺ぎとるモノの見方です。ここを十進法・百進法・千進法・万進法などにして、測りの目盛りを増やすことが、ヒトがヒトゆえにできる複雑さを引き受けられる恩恵です。が、簡便や合理を追求する傾向もよいことがありますから、せめてヒトを見るときには、もう少し目盛りの数を増やしてもらえたら、と願うばかりです。

 

標準的なヒトの成長・発達段階の時期というのは、小さい頃は医師や保健師さんなどのアドバイスがあり、親御さんとしては一喜一憂することでしょう。が、そのズレは生涯、必ず辻褄が合うようにはできますので、生物学的・医学的なDisadvantages:不利・損失だけを念頭にまず置いてほしいです。

 

さて、フツーに暮らしている人々がイッタイ人口のどれくらいか?というと、大きなパワーがかけられない限り、おおよそ、68.2%です。フツーよりちょっと頭がいい・ちょっとお金持ち・ちょっときれい、など、人工的後天的パワーがかからない部分は、およそ16%。フツーよりちょっとおバカさん・ちょっと貧乏・ちょっとブス、なども同じく16%ほどです。そうなると全体の96.4%弱ほどになります。

 

ヒトの成長には確かに段階がありますが、そのひとつひとつの段階で「ある程度」は習得できても、やはり生涯それを使いまわしていかねば、忘れてしまうことや実力発揮できていないこともたくさんあります。段階的なことはおそらく生涯で考えると、Erik Eriksonのものがわかりやすいかと思います(ちなみにPrecious One English Schoolでは詳細に理解してもらっております)。https://hoiku-childcare.com/erik-homburger-erikson-hoikushi-shiken/

そして一般的な成長のための条件が環境内にいくらあっても、この段階を踏んだ発達をそれなりに遂げてきていない限り、伸びの大きさ・ジャンプは期待できません。なぜならば持っているポテンシャルは、やはり順番通りに開きやすいものだからです。

 

条件はいくつかあります。

 

1. 自分の考えが最も正しいという前提を捨てていること

2. 他者の話を広く深く聴く準備ができており、さまざまな方法・方向にオープンなこと

3. 変化を恐れないこと

4. 今回の伸びあるいは目標の先にも、キリがないほどの先があることを知っていること

5. 自分の感じ方・考え方を整理し、他者に評価をしてもらう勇気を持つこと

6. 成功するまでのプロセスを楽しめるように工夫を凝らせていること

7. 健康にそれなりに自信があること。特に睡眠時間

8. よい人々・理想像に近い人々に囲まれること

9. 楽観的である自分を常とできること

10. 何度もトライアルしなければならないことに耐えうる時間と心のゆとりがあること

 

と10個に絞ってみました。

 

Precious One English School では、英語レッスンにもこの発達段階を入れ込み、これらの条件を満たすようなレッスンを英語でも展開しています♫

貧困を感じるトキ

10/27/2007にアップした文章です。

 

商売を始めるということは、経済的ジェットコースターに乗ることなのだ。貧困を感じたときはありましたよ・・・。西さんは、エリートとまで分類されずとも、まぁ、平均よりはいいほうのビジネスマンだったので、私は子どもにかかる分を、すべて学費として使って来られましたから。商売で出て行くお金というのは、計画以上でした。それにしても、どうしてこうも日本は格差社会になったのかなぁ、と、アメリカに住んでその格差を見てきた私は、つくづく考えています。大まかな答えはわかっています。社会学的連鎖なわけです。家庭ごとでの進化と学習の連鎖。『菊次郎とさき』で、たけしの母親であるさきが言っていた通り;貧乏だから教育をまともに受けられない、教育を受けられないとまともな職業に就けない。まともな職業でないといいお給料がもらえない。という連鎖なわけです。教育は本当に平等になってきているのか?ここが問題だよね・・・。

そもそも、「平等」という考えは、幻想である、と、私は冷淡に考えています。なので、意識をして「公平」という言葉で置き換えることが多いです。

平等:(1)差別なく、みなひとしなみである・こと(さま)。⇔不平等 (2)近代民主主義の基本的政治理念の一。すべての個人が身分・性別などと無関係に等しい人格的価値を有すること。(3)〔仏〕 真理の立場から見れば、事物が独立しているのではなく、同一の在り方をしていること。⇔差別(しやべつ)
公平:かたよることなく、すべてを同等に扱う・こと(さま)。主観を交えない・こと(さま)。⇔不公平
同等:(1)等級・程度が同じである・こと(さま)。(2)資格・技量が同じである・こと(さま)。(3) ⇒同値(どうち)
主観:(1)対象について認識・行為・評価などを行う意識のはたらき、またそのはたらきをなす者。通例、個別的な心理学的自我と同一視されるが、カントの認識論では個別的内容を超えた超個人的な形式としての主観(超越論的主観)を考え、これが客観的認識を可能にするとする。→主体 (2)自分ひとりだけの考え。⇔客観
客観:(1)主観の認識・行為の対象となるもの。主観に現れるもの。世界。かっかん。(2)特定の認識作用や関心を超えた一般的ないし普遍的なもの。主観から独立して存在するもの。客体。かっかん。⇔主観

こんな難しい概念を、日々の生活で切り分けてチャカチャカスイッチを変えて考えていくことは、たいへんに難しいことです。しかも、ヒトはSelf(自己)を中心に生きており、物理的にも視点などの感覚を含め、それしかできない、という限界だらけです。そこを踏まえた上で、「自分が扱ってほしいように他人を扱う」という態度を持てるか持てないか?が分かれ目になるわけです。

貧困に喘いでいる人々は確実に増えています。
貧困率について>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%A7%E5%9B%B0%E7%8E%87 2005年には、日本は世界で2番目にランクしています。
ただし、どんな統計でも平均化することでの無理や語弊は生まれますので、2位というのを鵜呑みにしてはいけないとは考えます。もう少し、他の軸を加えて考えていく必要はあるのです。

資本主義においては、やはりお金がモノを言う。民主主義においては、平等な財産の分割はありえない。その上、それなりの教育を身につけなければ、技術もつかないし、いわゆるいい職には就けず、「食べていくのが必至」状態から、なかなか抜け出せないものなのでしょう。だとしたならば、国家が公平なモノの見方をし、誰でも受けられる教育制度を考えていかなければならないわけですが、どうもうまく機能していないらしい。

私的な意見では、文部科学省は山積された問題を解決できるとは、自分たち自身でも考えてはいないようだし(そりゃ、公的にはがんばっていることを見せなければならないわけですが。いじめ問題を対処している姿を見ても、どうも希望は持てない・・・)、ハローワークなどでの補助金なども門戸が開けたかのように見える、実質的な補助金ダウンではあるような気がします(2年以上しなければ数字になって顕れないにしろ)。

そもそも、心の問題のほうが大きいのかもしれない。「出世したいと思わない」というのは、もう少し言及していかねばならぬことで、その代わりに「専門職として生きたい」「家族を大切にしたい」というのがあるのかもしれません。多様化は、進化論を考えればいいことです。ただし、「今の自分よりも一回りも二回りも上を行く志」に欠けるというのは、あまりいい心の状態ではなく、諦観・無力感・失望感などを持つことが日常化しているのだとしたら、国力や社会としては大問題です。アメリカでも、アメリカンドリームを持たぬアメリカ人を山ほど見ました。その代わり、アメリカンドリームを掴もうとする移民たちをたくさん見ました。そして、富裕層に属す200余年の歴史の中で伝統を持った家々は、守ることに懸命で、積極的に新たなアメリカンドリームを求めることは稀でした。

個々人が持つ態度、全体として、成功はしたけれども自分も通ってきた道を考えて、他人に差し伸べる余地を持っている人間が多いか否か?

これが、社会の連鎖を断ち切るキーになると思われるのです。大金持ちが寄付という話も、日本での規模はまだまだ小さく、「ちょっとしたいい話」もアメリカほど溢れておらず、私は、うれし涙はあまり流さない日々を送っています。アメリカに居るときよりもニュースが画一的なせいなのかなぁ・・・。Noblesse oblige意識はまだまだ低い気がします。「ボランティアはそもそも自分のためにやっている」と言い切れる率も低い。日本の宗教の在り方がここで大きく現れています。

持っている所持品・金を自分のためには使うが、他人のためにはなかなか使わない、というのが横行すると、やはり累計的に見ていくと、莫大なことになります。自分のためには大いなる消費生活をする、というのも、ゴミ問題と同様、累計的に見ていくと、ものすごい大きなものになります。通販でBilly Blanksが売れた値段、すごいですよね(笑)。50億円?その分、まるまる教育の機会を与えられない子どもたちに廻せたら、ものすごい花が咲くんですが・・・。その中にどれだけの大輪があるのか、想像しただけでワクワクしますが・・・(汗)。

私自身が、その連鎖の中に埋もれる予定だったので、英語が話せるようになったり、ヘリが飛ばせるようになったりするとは思わないで来たかどうか?私は、生命力の強いサバイバーだったので、いつもどこかで楽観的にひまわりの大輪を咲かせることができると思ってきました。信じる力は絶大なパワーを持ちます。なので、私は教えることが好きだということにも繋がります。未だに母には、英語が「それほど話せるわけない」と思われていますが(笑)。

私は、ひもじかった頃のことを憶えていますね。もう忘れたほうがいいんでしょうか?もうジャガイモとかカボチャとかおかゆなどは食べたくはなく、できたら避けたい食べ物です。高価でしょっちゅう買えなかったせいから来ているのか、お菓子も食べません。こうして染み付いていることが私を動かし、誰かがサバイバルできる足しになればいいな、と思っています。

躓く女たち

10/26/2007 にアップした文章です。

 

びっくりしてしまったのは、女性の平均年収の低さ。これじゃぁ、女性の倖せを掴む道は、まだまだ山アリ谷アリなんだろうなぁ、と、つくづく思ったわけなのですよ。もちろん統計学というのは、見方によって解釈はいくらでもできるし、プロセスに立ち会わないと正確かどうかだってあやしい。世間を眺めたときにも、外国人が「日本女性はいつもきれいにしている」などという褒め言葉は発するけれども、「仕事ができる女性の軍団」などとは評価された例はないよね・・・。私はアメリカに居るときに、Living as a Japanese woman is one of the most difficult things in the world(日本人女性として生きることは、世界で最も難しいことのうちのひとつだ)とつくづく言われたことが、数度ありました。それは、私が日本を出てしまったことを慰めるつもりだったのかもしれません。でも、戻ってきて1年。そう思うな・・・。

躓く(つまずく):(1)爪先がものにひっかかって体がよろける。けつまずく。(2)物事が中途で障害にあってうまくいかなくなる。中途で失敗する。

白馬に乗った王子様について書いたり、大黒摩季の『夏が来る』について書いたことがありますが、私が『躓く』という語彙を使ったのにも意味があり。おそらく、多くの女性のゴールはまだ、「生涯独身で、ひとりで稼いでしっかり生きて、子どもも産んで育てる」という覚悟にはなく、「途中でいい男の人と結婚し、半分以上の経済的負担を彼に担ってもらい、その代わり子育てや家事で貢献する」というフェアネスを求めたゴールなのではないかと思うのだ。そこで、「女性がひとりで生きるのはおかしい」「子どもは二親揃っていなければダメ」などという当たり前を切々と説く人々がいるんだろうけれども、私はそうは思っていない。なんせ、ヒトはひとりで生まれてきて、ひとりで死んでゆくのだ。

↑この前提の理解は重要。

だからこそ、結婚できなかったり、子どもを産んでいない状態の女性たちは、「躓いている」と感じざるを得ないのではないかと・・・。だって、ゴールまでにはクリアせねばならぬポイントがかなりたくさんある(笑)。そのせいで、結婚した時点をゴールだと思ってしまう人も多いわけだ。時間が足りなくなるならまだしも、実際には若い女性でも、最初からゴールをここだと思いながら(本人が強く意識しているにしろ、していないにしろ)言動を繰り広げている人たちはけっこう多いように思える。

何度も書きますが、私は生涯独身でまったくかまわないと思っていたし、自力で自分の食い扶持くらい稼げなくてどうする!?とも思っていたし、子どもも一時期(30代)では迷ったのだけれども、結局持たなくてよかったと思っています。なので、「女性がひとりで生きるのはおかしい」「子どもは二親揃っていなければダメ」などという当たり前を切々と説く人々には抵抗感があり、「あなたはナニサマ?」といつも感じています(笑)。親戚のおじさんやおばさんでもあるまいし・・・。たとえ、父親や母親であっても、自分の人格や人生と、子どもの人格や人生をごっちゃにしてもらっちゃー困るでしょ・・・。

もちろん、国家力維持や増大のために最も直接的なのは、人口増加です。が、産んで育てるための整備が足りないことを実感させるからこそ、子どもの出生率は減っているのだと認識はしているようですが、あの少子化対策委員会って機能しているんでしょうかね?私は日本国民として生き抜くことよりは、世界の人口増大のほうを心配しています。確かに、日本という国が成立していかねば、本当にこんなのんきなことは言っていられないのですが、女性の肩に責任をのし掛けるのではなく、社会全体で考えねばならぬことなのですから、たかだか私ひとりに対する説得力もないのであれば、なんとなく肩透かしではあります・・・。

それに、子どもは二親揃っていなくても、元気に健全に育ちますから。どんな発達心理学でも、生物学でも、生理学でも、ゲイの両親に育てられるとまともな大人に育たないとは証明できていませんし、二親揃っていても犯罪人を出す家庭はありますし、天才や秀才と呼ばれる人々の親たちの子育てがどのようだったか、ケーススタディにはなっても、絶対的バロメータというのは、「とにかく生き延びてチャンスを繋げること」以外には、存在していません。

私などは、放任や欠落よりは、過干渉により余分な癖・歪んだ知識・傲慢な世界観を身につけてしまった人が、よりよく生きるサバイバル率のほうを心配しています。Learningのほうが、Unlearningよりは容易です。個人だけではなく、小社会である企業や団体、国家などにもこれは当てはめて考えられます。発展途上国と呼ばれる国々のほうが、未来は明るい。なぜならば、身につけることはたくさんあるにしろ、呪縛や抑圧や除去せねばならない悪しき体質となってしまっている蓄積を、丹念に取り除く作業にエネルギーを使う必要がないからです。

躓くには、「理想の持ち方」がそもそも問題なんだということを、ここで強く言ってみているわけです。これまで常識・当たり前と言われていたことが、本当に今後も通用するのか?ヒトは所詮、社会動物の端くれに過ぎないであろうに、なぜか地球を制覇して、自然を蹂躙するようにまでなりました。産業革命以降、技術革新がどんどん進み、動物としては生きていることを意識しているヒトは、ごくごく少なくなってきました。そもそも、男女が共同作業をし、狩猟や農耕をしたり、部族や他部族間との協調を社会性として身につけてきたはずであるのに、ヒトを当てにしなくていいシステムを、技術革新のおかげで作りすぎました。ならば、女性も、生物学的非力さを問題とせず、庇護下をゴールにせずともいいではないですか・・・。

白馬に乗った王子様を見つけて、その人のすばらしい遺伝子を残すためにしっかり生殖年齢まで育てる。可能な限り、子どものサバイバルチャンスを増やしてあげるために、いい学校に行かせる。などという構図は、もう追いかけなくてもいいような気がしています。そもそも、ヒトは増えすぎた。無駄な空気も電気などのエネルギーも使いすぎる。ならば、よりよい、についての質を考えてみてもいい頃かと思うわけです。

ゴールも多様であっていいわけで、本人が違うゴールを持っていれば、たとえ社会から見て「躓いている女」とレベル貼りをされても、特に本人のSelf-Esteem(自己尊敬心)が下がるわけでもない・・・。子どもが欲しければ、経済力を身につけておけばいいでしょう。ただし、人間関係スキルは、大事なサバイバルスキルなので、持っていない人はそもそも子どもを産んで育てることは難しくなると、予測できたほうがいいです←自分のことらしい(爆)。

誰がどんなゴールを持ってもいいではないですか・・・。あなたの娘でもないし、孫娘でもないし、姪っこでもない。それよりも、あなたの息子や孫や甥っこたちが、女性を粗末に扱わないよう、ジェントルマン教育をしたほうがいいです。まぁ、男性を粗末に扱う女性を避けて通ることは、しっかり教えてください(笑)。

多様なゴールを持っていれば、女性は「躓き感」に苛まれて生きないで済むように思えるのです。私ですか?躓き感は体験したことがありますが、それはひとえに、ヒトという動物として、時間を無為に過ごしすぎてサバイバルチャンスを減らしたときに起きます←それくらいは分析しているらしい(笑)。病気で3年ほど無為に過ごしたように思えたとき、渦中に居るときにはそう思って焦っていましたねぇ・・・。今ではいいレッスンだった、生き延びることができてよかった、と、感謝の気持ちでいっぱいですが。

 

たけしの日本教育白書

10/24/2007にアップした文章です。

 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9F%E3%81%91%E3%81%97%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%95%99%E8%82%B2%E7%99%BD%E6%9B%B8

どうして、先んじてやるのか?予習目的なのだった(笑)。私のクラスの生徒さんには、予習は一切課さないのです。なぜならば、数年や10数年前に一度学んだことに関して、「どのくらい記憶しているか?」という苦痛を、家で、しかもひとりでやってほしくはないのです。学んだ直後に練習問題を解くのに比べて、倍以上は時間が掛かるので、学校や仕事に支障が出て、やる気が半減します。私が教えたあとにも問題が解けないようであれば、私の落ち度なので、そうしてもらっています。ただし、放任ちっくな香りがするので、翌週などに質問が出ないことをそうそう歓んでもおられず(爆)。

ところが、今回の私はあえて予習をするわけです。なぜならば、数年前のことでもなく、日々格闘しているはずの事柄なので、有言実行を宣言し、さらにおもしろく番組を見るにはいいわけです。うん、土曜日の仕事が8時まであるので、たぶん全部は見られないのだけれども、まぁ、戻ってから見る予定。

責任:(1)自分が引き受けて行わなければならない任務。義務。(2)自分がかかわった事柄や行為から生じた結果に対して負う義務や償い。(3)〔法〕 法律上の不利益または制裁を負わされること。狭義では、違法な行為をした者に対する法的な制裁。民事責任と刑事責任とがある。
任務:課せられた仕事。果たすべきつとめ。
義務:(1)人が人として、あるいは立場上、身分上当然しなければならないこと。責務。(2)〔哲・倫〕〔duty〕道徳的な必然性をもつ原理によって人が課せられる、ある行為をなすべし、またはなすべからずとする強制・拘束。(3)法律が人に課す拘束。あることをせよとする作為義務と、してはならないとする不作為義務がある。
償い:つぐなうこと。また、そのための金銭・財物など。
償う:(1)埋め合わせをする。特に、弁償する。(2)罪やあやまちの埋め合わせをする。

明確にしておかねばならぬ日本語って、思ったより多いよな、と、大人になってからも思うので、子どもたちはきっとさらに混乱なんだろね・・・。実際、英語を教えていて、日本語の意味が「共通の定義」になっていないものが、どれだけ多いかというのを実感している日々です。前々から私は辞書の意味をここで明記しておくことにしています。本来であれば、自分が調べるほうがずっと身につくのは当然なのですが、私のための私の考え方を披露するので、それに沿うんだよ、という宣言を態度として示していることになっているので、我慢してくださいませ。

『嘘は本当に方便なのか?』にも書きましたが、嘘は子ども時代に学びます。その学びが徹底されれば嘘はつきにくくなったり、つく対象や人々を選り分けたりすることになるのです。嘘がない環境などというものは、バブルや無菌室に住んでいるわけでもないので維持し続けることはできず、いつか目撃したり、トライしてみて通用したり、加減学習ができて、嘘をつくことは「当たり前」と受け止める人間ができあがるわけですね。

同様に責任も同じはずなのですが、実際は「子どもはできる限り子ども時代をエンジョイしたほうがいい」というのを、周囲にいる大人が強く支持する場合、子どもに義務を与える量や質にばらつきが出ます。ここに嘘がコンバインされていくと、「やったよ」と監視されていなければ嘘をつける・・・。けっこう怖い構図なのです。子どもに課せられる責任を伴う行動とは何か?ということすらわからない人はいるのかもしれない・・・。

共同で使用している歯磨き粉のチューブをしっかり閉めることなども責任の端緒だし、食卓の食器を洗い場まで下げることなども、実際は「割らない・効率よく下げる・人の邪魔をしない・食べている人に気を使う」などなど、いろいろなことを学ぶ責任が伴う課題(Task)です。家庭では、「お手伝い」という名目でいろいろなことをだんだんしていくように躾けたり、教育したりするのでしょう。

私の場合は、「子どもの仕事」として、「仕事が終わらない場合はメシ抜き」だとか「学校に通えない」という罰があったので、やらざるを得ず、責任は当時から重くのしかかってきていたようです。貧乏でよかったと思うのは、両親は教育をするつもりじゃーなかったのだけれども、結果的に教育になっていたということ(爆)。

ここで英語の助動詞がいい説明になるのですが、
・ have to
・ should
・ must
どれも義務ややらなくちゃを表現することなのです。ところが、日本の文法の教科書はこの違いについて、明確には教えておらず、ひどいところでは「同じ」としています。ところがぎっちょん・・・。

・ have to;自らが認知して自らがやらねばと決めた事柄がある場合に使う。責任の取り方は、個々人に掛かってくるものです。
・ should:モラル・道義・生物学的なことに関与する「せねば」「すべき」で、個体差が多いもの。では、なぜhave toと分けるかというと、家のルールや、クラスルール、学校ルールなど、法律で定められていないにしろ、明文化されないものに関してはこれを使うわけです。日本文化を保っている家元などはかなり多くの人に使えますよ、これ。責任の取り方は、追放だったり、罰だったりします。小社会が決めたものですね。
・ must;法的で定められていることや、不可逆性の強いものについて使う。人殺しをしてはいけないなど、法律や条例に盛り込まれていることが多い。責任の取り方は最も明確で重い。

この3つの差異がわかっていれば、教育白書の内容がどうであれ、『責任の取り方』というのは、おもしろく見られるかもしれません。日本では、「すべき」「しなくちゃいけない」という言い方を、十把ひとからげにしているところがあり、なかなか問題の本質が見えてこないかもしれないです。そのあと、どの程度の責任を取るか、どんな取り方がもっともフィットするのか?など、派生していく基本的な視点です。ある家やある小社会のshouldがmust, have toとは違うことは、この世には山ほどあります。それをわかっていないで論じることは、かなり無理がある・・・。それが視野が狭いということに繋がり、生かされているという謙虚さからほどと遠い日常的態度になるのやもしれません。

とりあえず、土曜日が楽しみである♪

 

紀久美先生へのQ&A~心理学講座編~その57

Q57.

いわゆるDQN(ドキュンネーム)についてはどう思いますか?

 

A57.

時代が変わっていく中、名前にも物や事、現象などと同じように、流行というものがあって当たり前かとは思います。

ただ、その先駆者となって名前を付けられる方の子どもたちは、少し気の毒に思うこともあります。

親としては先見の明があり、大人になってからも生涯ずっと、いい名前だと温めてくれる♬と願って付けた名前ではあるのでしょうが、少し早すぎていわゆるDQNネームになってしまっているケースが、かなり多く見られるのではないでしょうか?

例えば、Naomiナオミ、という名前は、 https://en.wikipedia.org/wiki/Naomi_(given_name)
そもそもヘブライ語から来ています。辞書にも載っている名前ですし、これが世界中に流布してきたということについては、多くの方が知らないのかもしれません。なぜならば日本ではナオミという名前はとても popular だからです。たくさんの漢字に当てはめることができますし、日本語の音としても、かなり自然な感じがします。

女の子の名前「子」がつく時代も長かったですし、今でも続いています。「美」がつく名前が流行ったこともあります。私の名前も「美」がついています。

国際化に伴い、様々なアイディアでお母さんお父さんたちが色々な名前を考え着くのは悪いことだとは思いません。が、それを生涯使う子どものことも考えて、あまり先走った名前ではない方がいいようには思います。

それほど件数が多いわけではないでしょうが、実際に法律に触れるようなものも過去にはありました。「今でしょ!」の林修先生は、親の学力とDQNネームについて関連性があるのではないかと述べております。

本人が愛着を持てない言葉であれば、この先も裁判などで改名の手続きが行われることはあるかもしれません。ただ、親が生きている間は言えないまま、悩み続ける子たちも相当数いるのかもしれませんね。インターネットのハンドルネームや、アーティスト活動での別名など、自分のアイデンティティを他に昇華させる方法もあるかもしれませんが、やはりあまりにも特異な名前を付けられたら、子どもとしてはつらい人生になるかもしれません。

元々の考え方によるとは思います。子どもの人生は誰のものか?本人のものである、と考えられるかどうかの線引きがあります。願いを込める、希望を込める、愛を込める、という名づけができればいいですが、やはりこれも行き過ぎではなく「中庸」がいいんでしょうね。

宇宙旅行

10/25/2007 にアップした文章です。

 

プリンセス天功でもあるまいし、莫大なお金がない限りは、宇宙旅行などできるわけがないとまだ考えている私は、夢がないんだろうか?そのくせ、宇宙モノ映画は相当に好きなのである。SF一辺倒ではなく、宇宙へ科学的技術を駆使して、という筋立て(まぁ、もちろん落ち度はあって、そんなわけないだろうっていう突っ込みはできるんだけれども・・・)があれば、かなり楽しめています。夢を持っている人間が好きなのに、私としては壮大な夢が持てないというのは、どうしてなんだろうか?と、凡人たるいろいろな欠点をまたもや考え込んでしまうのだけれども、論理的を目指すとその代償はやっぱりあるんだろね・・・。ところで、宇宙旅行、行きたいですか?

いやぁ、私は可能であれば、やっぱり行きたいですよ。家でTV見ているほうがいいじゃん、という意見もわからなくもないですが、一度行けば気が済むと思うので、リスクが低くて、価格が安ければ、ぜひ行きたいです。そこで、ガガーリンが言ったことを確かめてみたいですねぇ。

「地球は青かった」というのは、意訳で、実際には「地球は青いヴェールをまとった花嫁のようだった」と、ロマンチックに表現しています。自著の中では、「地球はみずみずしい色調にあふれて美しく、薄青色の円光にかこまれていた」と言っているのですが、やっぱり想像はできても、見てみなければ実感として伴わないのではないかと思えるので、どうも見てみたい。これはただの好奇心に他ならず、「だから何なの?」と言われても、そのあとどのようにこの体験を応用するかはやってみなければわからず・・・。他にも、「神はいなかった」という著名な言葉も残していますが、出典ははっきりしていないらしいです。本人の自著の中にもないらしい。が、親友が書いた本の中に逸話が載せられており、それが一人歩きしているらしい。

宇宙から帰還したガガーリンの歓迎パーティにロシア正教のモスクワ総主教アレクシー1世が列席しており、ガガーリンに尋ねた。
総主教「宇宙を飛んでいたとき、神の姿を見ただろうか。」
ガガーリン「見えませんでした。」
総主教「わが息子よ、神の姿が見えなかったことは自分の胸だけに収めておくように。」
しばらくしてフルシチョフがガガーリンに同じことを尋ねた。総主教との約束を思い出したガガーリンはさきほどとは違うことを答えた。
ガガーリン「見えました。」
フルシチョフ「同志よ、神の姿が見えたことは誰にもいわないように。」(レーニン主義は宗教を否定している)

笑えてしまうのは、相手によってはっきりしているはずのYes-No Questionの答えを変えていること。これは、シニカルな政治体制・宗教や思想への反発なのだろうけれども、なんだか宇宙に行ったがゆえに、こんな高等ジョークが言えることが、やたらとうらやましい。「道を歩んで到達したものだけが与えられる特典」なのである。もちろん、これも親友の著書の中にあるだけで、本人が言ったとは確実性がないのだけれども・・・。

宇宙旅行は実際にビジネスになっているらしい。うーん、私はまだそこまで楽観視はしていないのだけれども、大真面目でいつか本当に人類が地球を出て、宇宙を行き来するとしているサイトを紹介してみておくね。
http://uk2.jp/main/content/view/13/29/ 宇宙旅行の会社
JTBも真剣なのだ。HPによると2008年から開始らしい。一体いくらかかるのか、どこを見ても書いていない。敷居が高すぎて、暖簾もくぐれないではないか・・・。
ただし、無重力体験旅行はすでに実施されている。団体で申し込んでも105万かかって、さらに現地でのいろいろな出費や国内移動やお土産代などかけると、130万くらいか?無重力体験をするのにこんなにかかるとは・・・。個人向けだと、団体パッケージよりもずっとアクティビティが少なくなる。でも45万くらい。どうだろう?
外から地球を見ることであれば、パッケージでできる。でも1225万くらい。高い(爆)。

英語の授業でも、スペースに関する教材はけっこうあり、みんなに「行きたいか?」は聞いているのですが、8割が現実的で、「宇宙に行くより日々の暮らし」という意見が圧倒的。やはりまだまだ価格的に高すぎる・・・。「いくらだったら行ってみたいか?」との問いには、「300万くらいまで下がったら考えてみてもいい」ということらしい。人によっては「稼げるようになっていたら年収くらい」という答えだった。私だったらいくらになったら考えるかなぁ・・・。もちろん、自分の収入との兼ね合いもあるんだろうけれどもね・・・。

アメリカでは、NASAでのキャンプが毎年ものすごい数行われており、体験キャンプは激安。宇宙への夢はこんなことで養われるんでしょうな。
http://www.kennedyspacecenter.com/educatorsParents/camp.asp

日本も種子島にロケットセンターがあるんだから、やればいいのにね・・・。http://edu.jaxa.jp/ こんな程度にはやっているらしい。ところで、西さんは、子どもの頃、ここに連れて行かれて「でっかい人間になってもらえるように」という親の希望を肩に感じたらしい。彼は宇宙開発には一家言持っている(爆)。

前にエッセイで書いたDan Brown Deception Pointには、NASAの苦しさや目標などが詳しく書かれており、Dan Brownがリサーチしたことを責任を持って書いているのだから、ほぼすべて活字になっている部分には、信憑性はあるんじゃないかと思われます。もちろん、フィクションですから色ツケもありますが・・・。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%BB%E3%83%97%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%88

私は、JFK時代に生まれているので、宇宙への夢が前世代よりもう少し希薄ですが、現代人よりはあるのかもしれない。現代の人々は、エアロスペース業をしている人々に振り回されている感がしないでもないのです。いや、もちろん私も宇宙旅行をしたいと思えばそうなんですけどね・・・。実際、私と同年代かそれ以上の人々が、アニメ化や映画化をしたおかげで、宇宙への夢は繋がっていると言えるのですが、その受け手となった若い世代の人々が、どのように宇宙旅行にタックルしていくのか、見ものではあります。

考古学や天文学などを基礎にした人々のロマンが大きく左右される学問は、なかなか発展しずらいものなので、こうして商業価値とカップリングされていくのですが(考古学ではその価値を値段にする。宇宙旅行の値段は莫大であるなどなど)、たまねぎの皮をどんどん剥いていき、その中心のところに、どんなロマンがあるのか?を考えてみるのはおもしろいんじゃないかと思うのです。

でもなぁ、私は宇宙飛行士になりたいとも思えなかったしなぁ・・・。私の時代は一般人が宇宙飛行士になるにはたいへんだったのだ。しかも日本人が選ばれる日が来るなどとは思わなかったし(爆)。で、パイロットになったのだけれども、そこがいいところ止まりだったんだろねぇ・・・。私より上の世代のアメリカ人たちは、「21世紀になったらみんなで月旅行に行ける」と、学校の授業で教わっていたそうです。日本もその熱を充分もらっていたのでしょう。

ああ、行けるもんなら行きたいよなぁ・・・。

 

責任の取り方 前編

10/24/2007 にアップした文章です。

 

どうやら、フジTVで長く続いている、教育関係の番組を今度の土曜日にやるらしい。その中で、ビートたけし(北野武で出演するのではない模様)と爆笑問題が、『責任の取り方』についてを取上げているらしいのである。母のほうがTVをよく見ているので、「どんなCMやっていた?」と聞いても、彼女は興味のないことはスルーなので、大した情報は得られなかった・・・。そこで我慢して、ちょっと真剣にCMも見ていたらやっていたのです。確か、去年だかに石原慎太郎を招いてやっていたやつではないかと思うのだ。そこで私はまたもや、石原慎太郎の器を再確認したんだった。はい、都内ロケーションなどの促進や、経済効果に対する政策には一定の評価ができますが、私は彼の根本的な考え方には同調できません。

 

どうして、先んじてやるのか?予習目的なのだった(笑)。私のクラスの生徒さんには、予習は一切課さないのです。なぜならば、数年や10数年前に一度学んだことに関して、「どのくらい記憶しているか?」という苦痛を、家で、しかもひとりでやってほしくはないのです。学んだ直後に練習問題を解くのに比べて、倍以上は時間が掛かるので、学校や仕事に支障が出て、やる気が半減します。私が教えたあとにも問題が解けないようであれば、私の落ち度なので、そうしてもらっています。ただし、放任ちっくな香りがするので、翌週などに質問が出ないことをそうそう歓んでもおられず(爆)。

 

ところが、今回の私はあえて予習をするわけです。なぜならば、数年前のことでもなく、日々格闘しているはずの事柄なので、有言実行を宣言し、さらにおもしろく番組を見るにはいいわけです。うん、土曜日の仕事が8時まであるので、たぶん全部は見られないのだけれども、まぁ、戻ってから見る予定。

 

責任:(1)自分が引き受けて行わなければならない任務。義務。(2)自分がかかわった事柄や行為から生じた結果に対して負う義務や償い。(3)〔法〕 法律上の不利益または制裁を負わされること。狭義では、違法な行為をした者に対する法的な制裁。民事責任と刑事責任とがある。

任務:課せられた仕事。果たすべきつとめ。

義務:(1)人が人として、あるいは立場上、身分上当然しなければならないこと。責務。(2)〔哲・倫〕〔duty〕道徳的な必然性をもつ原理によって人が課せられる、ある行為をなすべし、またはなすべからずとする強制・拘束。(3)法律が人に課す拘束。あることをせよとする作為義務と、してはならないとする不作為義務がある。

償い:つぐなうこと。また、そのための金銭・財物など。

償う:(1)埋め合わせをする。特に、弁償する。(2)罪やあやまちの埋め合わせをする。

 

明確にしておかねばならぬ日本語って、思ったより多いよな、と、大人になってからも思うので、子どもたちはきっとさらに混乱なんだろね・・・。実際、英語を教えていて、日本語の意味が「共通の定義」になっていないものが、どれだけ多いかというのを実感している日々です。前々から私は辞書の意味をここで明記しておくことにしています。本来であれば、自分が調べるほうがずっと身につくのは当然なのですが、私のための私の考え方を披露するので、それに沿うんだよ、という宣言を態度として示していることになっているので、我慢してくださいませ。

 

『嘘は本当に方便なのか?』にも書きましたが、嘘は子ども時代に学びます。その学びが徹底されれば嘘はつきにくくなったり、つく対象や人々を選り分けたりすることになるのです。嘘がない環境などというものは、バブルや無菌室に住んでいるわけでもないので維持し続けることはできず、いつか目撃したり、トライしてみて通用したり、加減学習ができて、嘘をつくことは「当たり前」と受け止める人間ができあがるわけですね。

 

同様に責任も同じはずなのですが、実際は「子どもはできる限り子ども時代をエンジョイしたほうがいい」というのを、周囲にいる大人が強く支持する場合、子どもに義務を与える量や質にばらつきが出ます。ここに嘘がコンバインされていくと、「やったよ」と監視されていなければ嘘をつける・・・。けっこう怖い構図なのです。子どもに課せられる責任を伴う行動とは何か?ということすらわからない人はいるのかもしれない・・・。

 

共同で使用している歯磨き粉のチューブをしっかり閉めることなども責任の端緒だし、食卓の食器を洗い場まで下げることなども、実際は「割らない・効率よく下げる・人の邪魔をしない・食べている人に気を使う」などなど、いろいろなことを学ぶ責任が伴う課題(Task)です。家庭では、「お手伝い」という名目でいろいろなことをだんだんしていくように躾けたり、教育したりするのでしょう。

 

私の場合は、「子どもの仕事」として、「仕事が終わらない場合はメシ抜き」だとか「学校に通えない」という罰があったので、やらざるを得ず、責任は当時から重くのしかかってきていたようです。貧乏でよかったと思うのは、両親は教育をするつもりじゃーなかったのだけれども、結果的に教育になっていたということ(爆)。

 

ここで英語の助動詞がいい説明になるのですが、

・ have to

・ should

・ must

どれも義務ややらなくちゃを表現することなのです。ところが、日本の文法の教科書はこの違いについて、明確には教えておらず、ひどいところでは「同じ」としています。ところがぎっちょん・・・。

 

・ have to;自らが認知して自らがやらねばと決めた事柄がある場合に使う。責任の取り方は、個々人に掛かってくるものです。

・ should:モラル・道義・生物学的なことに関与する「せねば」「すべき」で、個体差が多いもの。では、なぜhave toと分けるかというと、家のルールや、クラスルール、学校ルールなど、法律で定められていないにしろ、明文化されないものに関してはこれを使うわけです。日本文化を保っている家元などはかなり多くの人に使えますよ、これ。責任の取り方は、追放だったり、罰だったりします。小社会が決めたものですね。

・ must;法的で定められていることや、不可逆性の強いものについて使う。人殺しをしてはいけないなど、法律や条例に盛り込まれていることが多い。責任の取り方は最も明確で重い。

 

この3つの差異がわかっていれば、教育白書の内容がどうであれ、『責任の取り方』というのは、おもしろく見られるかもしれません。日本では、「すべき」「しなくちゃいけない」という言い方を、十把ひとからげにしているところがあり、なかなか問題の本質が見えてこないかもしれないです。そのあと、どの程度の責任を取るか、どんな取り方がもっともフィットするのか?など、派生していく基本的な視点です。ある家やある小社会のshouldがmust, have toとは違うことは、この世には山ほどあります。それをわかっていないで論じることは、かなり無理がある・・・。それが視野が狭いということに繋がり、生かされているという謙虚さからほどと遠い日常的態度になるのやもしれません。

 

とりあえず、土曜日が楽しみである♪

 

 

自分を変えるには?

どう変わりたいか?はきちんと見えているでしょうか?ここが大切ですから!何をどう変えたいのか?がはっきりアテがついていない状態では何も始まりません。

 

改めて、本当に変わりたいかどうか?をまず考えてみたほうがいいかと思います。漠然としたChangeというのは、自主的なものではなく、おそらく強制的だったり受動的だったりすることが多いのです。

 

たとえば、繰り返し小さいミスをしてしまう、忘れ物をしてしまう、などの軽く見えて災害級ではないことを変えたいというのであれば、けっこう簡単なのです。認知症になっていない限りは。脳を活性化させるためにできることは、行動修正をするか、自分の認知を変えるか、の2種類に関係ある対策を書き出し、実際に運用できるように組み立てていけばいいわけです。少しハードルが高くなるのは、OO恐怖症と言われる類のものがありますが、それらもプロは割と簡単に導けますし、強さによっては時間がかかるかもしれませんが、変えられないものではありません。

 

まず、大切なのは、本当に変えたいかどうか?でしかないのです。本当に変えたいのであれば、もう50%は成功しています。ここで心と頭に変えたいモードを刻み込むことが大切です。しかも、このときに、本当に変わりたいとならない場合、変わったあとのメリットとデメリットを、実際に書き出してみると効果が上がります。数ももちろんですが、質に対しても評価します。これには、Benjamin Franklinが発案した Pros &Consのシートが役立ちます♬ >https://www.youtube.com/watch?v=IMPxxNDv42M 英語なのですが、youtube には翻訳機能があるので、それで見てください!非常に客観的に見ることができるので、決意が鈍ることなく、踏み出すことが可能になります!

 

子どもの頃から頭の中でこのようなことをしているとは思うのですが、複雑になればなるほど、書き出さないと混乱してきますよね。しかも、これをもう少し項目分けができれば、もっとどうやればいいか?も見えてきます。そして、もしかすると自分が「どのように変わりたい」がもっと洗練されてくるかもしれないわけです。稀に、「やはり変わりたくない」というのもあるかもしれないのでご注意(笑)。

 

さらに、イチバン効くのは、その変わりたい目標をすでに到達している人を探します。その方々とおつきあいすればいいわけです。ヒトは他者を模倣学習するようになっているので、知らない間に学んでいることが多いのです。しかも1対1のときなどは、相手が鏡のようになってくれるので、模倣しやすく、とても自然な形になります。あまりに大勢だと最初のうちは圧迫感があるかもしれません。ひとりだけダメダメだー!と落ち込むことになると困るので、まずは少人数に当たりをつけて♬

 

もしも相談やフランクな話ができる友人がいれば、積極的にそんな話もしてみるといいと思います。ただし、場所とタイミングはしっかり見極めて!

 

プロのカウンセラーを思い切って訪ねてみる手もありますよ♪

 

私個人も、英語スクールをやりつつも、日々、生徒さんからさまざまな相談事を聴いています。割と簡単に応えてコンパクトにまとめてしまう傾向はあります。なぜならばカウンセリングセッションではないので(笑)。とはいえ、けっこうきっかけとしてはいいみたいですので、英語に興味があれば、心理レッスンもしっかり行っているPrecious One English Schoolの無料体験にお申込みください <(_ _)>

二度とない瞬間を求めて

10/23/2007 にアップした文章です。

 

大いなる矛盾ではあるのですが、二度とない瞬間を求める気持ちは誰しもあると思うのです。その対象が何なのか?が人によって違うということ。子どもの頃から、私の軸は、「達成感」「獲得」でしたが、同じ軸を持つ人は多く、それがどんな分野で発揮されるか?が人によって多様なのもおもしろいところ。二度とない瞬間を求めすぎて、「さっきのに似ている近い瞬間たち」がたくさん貯まりすぎて、ここのところ、あまりおもしろくない感じ。何贅沢こいているんだ!と父親が生きていたら怒鳴られて、ポカンと一発殴られそうですが、わずか数ミリだとかミクロン単位での違いではあれ、「達成した瞬間の気持ちよさ」と「達成に近い瞬間の気持ちよさ」は、もー、驚くほど違う。運動や技術系のことでは、たいへんにありがちなのですが、子どもの頃と違い、職人の道を選ばなかった私は、この繰り返し作業をあまりしないにも拘らず、他にも反復作業というのはけっこうあるんだなぁ、と、不完全燃焼な気持ちなのよ・・・。

たとえば、私にとっては読書。速読は一時期考えたことはあるのですが、カメラ読法をすると味わいもないし、映像化するよりは文字を写真に撮っているようなもので、瞬間的に差異が付き難い。私のようにページ数をこなす人間にとっては、映像化のほうがずっと速いことになります。そうなると、同じ作家を総なめしていくやり方だと、風景も似たようなものになり、混乱が混乱を呼び、頭の中のファイルが整理しきれなくなる(爆)。そこで、このファイルが整理されると、やたらと気持ちがいいのですよ。NHK大河ドラマを見たことは無駄ではなく、高校時代の日本史の先生に「時代劇のあんなことは本当であればありえない」などというトリビアをもらったことなど、けっこう役立っているわけです。池波正太郎をはじめ、時代小説は続いており、時折他のジャンルも入れるのですが、かなり頭の中は時代劇化していて、ありえないことに対してはちゃんと疑問視しなければと思っています。が、映像化は楽しい。ファイルにきちんと入れ込むのも楽しい。が、どうしてなのだろうか?実生活でのモノを整理整頓するのが大嫌いというのは・・・(汗)。

アインシュタインは、E = mc2 を考え出したときに、このエクスタシーに似た「二度とない瞬間」の達成感を得たと語っています。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3 アインシュタインについて

私にもそんな瞬間を持ったことがあり、それはあまりに凡人なので、数学でした。航空学校に行っていた頃、マッハという想像世界の、ノットからマッハ計算をしていたときの話です。私はそれまで数学は苦手だと思い込んでいたので、解けるわけないし、つまらないと思ってやり続けていたのですが、実際はその問題が解けたあと、不思議とスラスラ、他の物理的公式を使った問題をやるのがやたらと好きになった・・・。想像できなかった音速が、私に想像できたがゆえに、どうも解けるようになったのだ、とわかるまでには、まだ時間がかかるのですが・・・(ここが天才でもないゆえんなわけよね・・・)。おかげで、大学に戻ってからも、数学はとても成績がよかったのです。アインシュタインほどの天才レベルではないにしろ、あのときの快感というのは、とても表現しきれないです。

そうなると、ダヴィンチなどは何度このような体験をしているのか?と不思議に思えてくるわけです。すごいですなぁ・・・←想像しているだけなのに、やたらとすごいことだと思っている。もしかすると、そんな達成感での快楽はなかったかもしれないのに(爆)。彼には日常的すぎて・・・。

これまで試験と名のつくものを山ほど受けてきた私ですが、おそらくその総計は1000を超えているのではないかと思うのです。自分でも自分に問題を見繕ったりするところがおかしい(笑)。エッセイを書いている最中、何かの調べ物をしていて、クイズや問題サイトに行くと、エッセイを書いている最中だということを忘れて、問題を解いている始末です。ただ、記憶力がいいので、同じサイトを何度も使えないところがみじめです。答えを暗記しちゃってるんだよね・・・。ただ、100点というのは、小学校の頃を除いて、わずか2・3回しか取れたことがなく、たいてい90点以上であれば満足するというのが悲しかったですか・・・。大人になってからの話で、中学・高校・日本での大学では、テストすら休むほどにまともな生徒ではなかったのですが・・・(汗)。その100点を取れた問題にぶち当たったときも、アレに似た達成感みたいなものがあるわけです。いわゆる、本当の頭のよさが試されているわけではなく、勉強法や山かけの論理が当たったという気持ちよさなんです(爆)。

買い物にしても、同じ商品をものすごい破格で買えたときには、同じくらいの快感があるのかもしれません。私の場合は、不動産の値が上がったときに売る決意をして計算をしてもらったときですか・・・。1軒を2年3ヵ月後に査定してもらったところ、13万ドル(1500万)も上がっていたことがあり、本当にジャンプして歓んだほどだったのです(爆)。

こうして、振り返ってみると、私はどうも時間がかかる努力な達成に歓ぶ傾向があるらしい・・・。リサーチをしっかりして、いろいろな角度から検討した揚句、獲得して表現して、結果を待つという醍醐味なのか?

母に意見を聞いてみると、「凡人は、朝、目が醒めたときに快感を実感することが多いんじゃないのかな。最近、歳をとってきたから爽快な気分でよく寝たってのがないもん」と、とても個人的なことを語るのであった・・・。そういえば、私は日本に戻ってくるまでは、PTSDに悩まされた3年間を抜かして、たいていの場合は睡眠が直接的快感であったのだけれども、在って当たり前と思ってきた感がある・・・。今でも眠ることがイチバン好きだから、コレが失われたら、本当にきついかもしれない。けれども、この歳になっても7時間半も毎日眠らないとうまく生きていけないので(たまに6時間しか眠れないと、相当活動力が落ちる)、悩まされる年齢になるまでにはまだまだ時間がありそうです。確かにそうかもしれない・・・。この場合、母は「二度とない瞬間を求めて」をしているようだ・・・。すぐに眠るんだけれども、深くもなさそうだし、すぐに起きてしまうし、時間も短いからなぁ・・・。

さらに凡人はきっと、セックスで「二度とない瞬間を求めて」をしているのかもしれません。私はないですが、もしも丸まる健全であれば、せっせとしていたかもしれず・・・。

とはいえ、私は、子どもの頃のブランコやドッヂボールやかけっこからして、「二度とない瞬間を求めて」をやりすぎてきたような帰来があり、今、このエッセイを毎日書いていても、自分で何度も惚れ直して読み直してしまうような一本が書けないものかなぁ・・・と日々足掻いているわけです。いや、ないんだよねぇ・・・。トホホ。成長したからもっと理想が高くなったのか、もう書きすぎてネタがないからなのか、原因はいくつかあると思うのですが、どうもいいのが書けない。でも、チャレンジは続く・・・。

英語の授業にしても「二度とない瞬間にごく近い似ている瞬間たち」ばかりです。まったく悪くないのだけれども、生徒さんも私もいっしょに高揚感を得られるほどでもなく、マジカルなモーメントはない感じ。そんなにしょっちゅうあったら、私は何かの新興宗教の教祖になっているかもしれないのだが・・・(爆)。こうして死ぬまで、「二度とない瞬間を求めて」を続けていくんでしょうねぇ。果てしない旅路ではあるんですが、ため息をつくほど疲れてしまっているわけではなく、なんだか歓んでやっているようですね・・・。すごいひらめきがあるといいのだけれども、どうも凡夫にはそれなりのひらめきしかなく、コツコツとやるしかないようで・・・。

ただ、私にはサンフランシスコの坂道を登りきったあとに見た、エメラルドグリーンの海の風景があるので、これを二度とない瞬間だという基準にしています。アメリカに初めて行ったときに、ケーブルカーを使わず、苦労をして登ったあとに見えた風景。「私はこの先もがんばれる」と確信した瞬間でしたから。あれくらい、すっきりきっぱり「私はこの先もがんばれる」と思えるようになるには、やっぱり日ごろの充電が大切なのかもしれないなぁ・・・・。