01/21/2007 にアップした文章です。

 

ここのところ、家では池波正太郎の『鬼平犯科帳』、外では文庫本、と決めており、その理由は、全集で読んでいるので、850ページもあって持ち運びができないからです(笑)。思えば、私が大学生の頃は、3か4教科取ると、課題を英語で週に600ページ読んでいたので、今考えると私の読書スピードはだいたい合致しているようです。日本語なので2割り増しです(爆)。私は二宮金次郎のように、歩きながらでも本を読むんだなぁ。もちろん、混んでいる道ではやりません。人様にご迷惑がかかりますし、なんたって日本のちゃり族は脅威の存在なのだ(笑)。そして今日は鬼平犯科帳の序盤で気づいたことを。

『鬼平犯科帳』は、江戸時代、田沼政権後の腐敗した江戸支配をきれいに戻そうと、松平定信が老中として治めていた頃の時代設定です。1967年に単発として出発したものが、大好評が重なり、気づくと恐ろしく長いものになっています。池波正太郎の全集も850ページスケールのものが20冊ほどあるのですが(私は「鬼平犯科帳」部分だけを先に読もうとしている)、そのうちの3巻からいくつまでなのか、チェックしていません。誰か私と同じくらいの物好きがいて、たまにポツポツ借りられているので、いつもチェックできないのです。ただ、全部で135作あることはわかっており、ほぼすべて短編で、筋がきっちり終わる、かなり精神衛生によい書かれ方なので、途中で放り出して出かけなければならないことがありません。すっきりです。1967年から執筆され、作家の死(1990年)まで続けられたシリーズですから、貴重なものです。ちなみに文春文庫で24巻もあるので、途中が抜けると気持ちが悪いので、私は全集を借りることを思い立ったのです。

『鬼平犯科帳』の詳しいことはこちらを読んでみてください。TV化情報なども満載です。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E5%B9%B3%E7%8A%AF%E7%A7%91%E5%B8%B3 が、やはり読書したのとしないのでは、雲泥の差です。私はまだ10編ほどしか読んでいませんが、これらの情報にすでに物足りなさを感じています。
池波正太郎についてはこちら。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E6%B3%A2%E6%AD%A3%E5%A4%AA%E9%83%8E 

私が、「捕り物=ミステリ」好きなのは、ちゃんと結末があるからなのだろうと思うのです。ここのところも、かなり明快な文系ではなく、社会科学系なのだろうなぁ、と苦笑するゆえんです。ミステリ好きな方々は、きっと理系の人にも多いのではないのか?彼らは純文学はそれほど手が伸びないけれども、ミステリならば、と思うのかもしれない・・・。私は長ったらしい純文学は好きです。ただ、へビィなのと、感じ方はそれぞれなので、特に論議をしても、国語や現代国語の授業でもあるまいし、と思うところがあり、エッセイにはめったに書きません。たぶん、そこそこの外国・日本の名作は押さえてあると思います。

本題へ。火付け盗賊改めは、町奉行所よりも格が下だったということは、TVを見ている人たちもあまり知らないかもしれません。いつも町奉行所と縄張り争い・ライバル意識を持ち、給料や見返りも少なかった仕事です。実際に、長谷川平蔵(架空の人物)の石高は重要職らしくいいものです。四百石ですから、だいたい、1石=12万くらいで換算しているものが多いので、長谷川平蔵の年収は4800万円。が、この中から四百石だと7人から11人の下級武士を雇わねばならず、馬もあつらえねばならず、家内を預かる下女等も必要で、社交費などの献上品や見舞金なども今よりずっと大きな割合になります。江戸ではすぐに火事が起きるし、大水(洪水)で水浸しになるし、修繕費もバカにならなかったようです。高いと見るのか安いと見るのかは、見る人の金銭感覚かなぁ。浪人だけではなく、旗本や御家人(ご直参と呼ばれる人々)はたいへんでした。

そのために、勤務時間も長くなり、刑までのプロセスがたいへんに早い。長谷川平蔵の一声で、その場で何人も漸死させていますが、この強引さを見る人々はむしろ小気味よく感じるのでしょう。捕えた翌日に磔や火あぶりなどもあったようです。

士農工商を得に分けずとも、いわゆる、貧困のために生き延びることすら難しく、「飢餓を避けるために・衣食を得るために」、生き方を選べない人がいます。いや、実際は選べるのですが、おそるおそる始めたことが習慣化してしまい、そのほうが確実に飢えを凌げるし、衣食を確保できるので、ついつい流されてしまう。あるいは、そもそも個人の中の善悪判断についてのモラルが希薄だったために、根付くのが容易だったかもしれないことがあります。その中には、「家業」「友情の証」などとして託されたこともあるのでしょう。それは現代にも息づいています。割合としては少なくなったものの、やはりしっかり残っていると言えます。圏外にいる私は(継ぐべきものが何もなかった・笑)おキラクな身分です。家督にしろ(石高は生涯変わらないので、飢饉があるとたいへん)、稼業にしろ、家そのものにしろ、私には何もないので、アメリカにこんなに長いあいだ行っていられたのだろうと、倖せを感じます。

が、この善悪判断についてのモラルは、現代よりもずっと昔のほうが「生死」に関わってきます。今でも中国などは、裁判が早く、すぐに処刑されますが、ひとつ希望が持てるのが、「密偵制度」です。自分の稼業・仲間・信念を裏切ることを、よしとするのはおかしいって?うーん、私は「変わることを辞さない」というきっぱりした態度は、改良への導きであれば、いいことだと信じているのです。しかも、私の人生じゃないので、私がとやかく言うことはできないし、してもいけない・・・。

狗(いぬ) 盗人稼業から足を洗い、役所のために働く密偵の事を盗賊たちが蔑んでいう言葉。

わんちゃんではなく、けもの偏です。現代でもコレは息づいており、FBIも警察もたいていinformantときれいな呼び名になってはいますが、密偵・狗を使っています。Donny Brascoという映画で、Jonny Deppが、ギャングの密売・売春組織の中核に、3年以上も潜伏したことを描いたものがありますが、化けるのも至難の業ですし、第一連絡を取ることはたいへんに難しい。それよりも、やはり仲間としての信用を一度勝ち得たものを、そして善悪判断を自ら変えたであろう人々に働いてもらうのがよいのでしょう。

「脅し」を使って密偵にするのは、見ているほうもたいへんに気分が悪いのですが、『鬼平犯科帳』で密偵を勤めることになった人々(10編かそこらですでに複数登場)は、長谷川平蔵を尊敬し、火付け盗賊改めのさらなる反映と手柄を願い、江戸市中の人々の平和と安心を祈り、償いの意味を込めて、命を賭して働きます。しかも、長谷川平蔵は逃げてしまった密偵を解き放って、江戸外へ逃がしてしまうこともするのでした。それまで働いてくれた恩義に応えるというわけです。命が危なくなった場合には、ちゃんと想っているという証拠ですね。

もちろん、盗賊側としてみれば、自分がそれまでしてきたことを全否定するのはなかなかし難い。生死の境目に、自分を貫くために死を選ぶこともありですが、そうできない人がいたっていいではないですか。役に立つ生き方に変わることに、あまり文句をつけないであげたいものです。
いやー、さわりなのですが、てんこもりでいいですよ、『鬼平犯科帳』。どうしても私の脳裏には、松本幸四郎が浮かんでしまうのですが、当時それほど見たわけでもないのにねぇ・・・。ここのところ、「男気」について、またもや考えています。やはり長谷川平蔵という人のせいだと思われます。うーん、架空の人物にこれほど振り回されてどうするよ?(爆)

 

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