手作りの温かみ

04/10/2008 にアップした文章です。

 

ここのところ、ファストフードはもちろん、お惣菜も食べていない私なのですが、帰国してすぐからではなかったのです。帰国してきたばかりのときには、おにぎりがコンビニで買えるヨロコビというのを噛み締めており、うれしくて、わざわざ「1個買い」というのをやるんですねぇ(笑)。そのおにぎり作りのたいへんさは、以前『決死のおにぎり作り』に書いたことがあります。アメリカに住んでいると、子どももおらず、大家族でもない私は、「炊きたて」で「具のバラエティ」があるおにぎりを作ることは、至福の贅沢で、大決心をしてスケジュールを立てないとできないことだったのです。そんなこともあり、コンビニでおにぎりを1個買いできるというのは、4ヶ月くらいエンジョイできました←相当に倖せのハードルは低い(爆)。

 

ところが、もう帰国して1年半経ったので、そんなヨロコビをむしろなつかしく思うようになり、食の安全さや自給率の低さも気になり、栄養の偏りや、糖分(甘み)寄りの味付けも気になり、ここのところ、まったくファストフードもお惣菜も、コンビニのおにぎりもお弁当も食べていない状況です。Lawsonでりらっくまの景品がつくというので、英語学校の社員の女性のために、サンドウィッチを買っていた時期があったのですが、それも飽きました・・・(汗)。

 

母が作る料理がイチバンなのは、

1. 原材料がある程度、昔育ちの母の目にかなったものであること

2. 調理法も昔ながらの方法で母がやっていること

3. 味付けも私のことを知っている母がやっていること

この3点に尽きますね。

 

外食したくないのか?と聞かれるのですが、私は外食は週に1回くらいでいいですねぇ・・・。どうせお酒を飲んでしまうことになるので、食事というよりは、肴・アテが重要なので、種類がちょこっとたくさん欲しいときには、外のほうが母の手を煩わせることもないのですが、お酒自体を私はここのところ遠慮しており、飲むと毎回、二日酔いになっているので、神様からの「そろそろ自重したら?」というサインだと思うので、控えております。その週に1回の外での飲食がないときには、母がビールを買っておいてくれて、500mlを2・3本飲むのですが、そうなると眠くなってダメです。よく働いている証拠なので、よしとしてあっさり眠ります(爆)。

 

そしてハタと気づいたところ、私は自分で料理をほぼ一切作っていないということがわかった・・・。「経済しなくちゃね」という母の口癖をきちんと体現しているせいなのか、土曜日にひとり+ネコたちの部屋に戻ると、書置きに、土日に食べるべき食品の羅列がしてある・・・。彼女なりに「経済して」買った材料を使って作った食品が並んでいるわけです。それを置き去りにして、外食したいわけもなく、してしまったら家庭内がぎくしゃくもするだろうし(笑)。というか、私のメンタリティは、会社員の中年のおじさんと似たようなものがあるので(笑)、用意されているものに対してのこだわりや要求はあまりなく・・・。そうですねぇ、せいぜい、麻婆豆腐が辛すぎると「食べられない」と怒るくらいなもんでしょうか・・・。ごはんを炊くのを未だに失敗することがある母にたまにびっくりするのですが(ファジーだと水の加減を測って炊くから失敗などないと思い込んでいたが、あまりの水分量の多さには適応できないんだろう・・・)、昨日、弟の嫁である義母が炊いたというお赤飯を食べたので、「ああ、世の中にはこういうこともあるんだな」と納得しているところです。でも、手作りだからそれだけでもう100点満点中80点は獲得ですしねぇ・・・。

 

私は料理をするのだけは好きなのですが、コンロが2個しかない今、どうもやる気が起きない。さらに、キッチンのカウンターの高さが私を疲れさせるのです。ねぎくらいは切るんですが、それも苦痛です。腰痛に響くような高さ・・・。さらに、蛇口を捻ってからお湯が出るようになるまでの時間が長すぎるのは、集合住宅だからなんでしょうかねぇ・・・。こらえ性のない短気な私にとっては、あまりいい環境ではありません。さらに、母が苦心してポジショニングをしているので、私にはその理屈・法則性がわからず(爆)。

 

自慢ではないですが、私は、料理は失敗しませんね。味も悪くないです。私自身は濃い味付けが好きなのですが、人様が来るときには調整しますしね。しかも速いというのが自慢ですか。それもこれも、アメリカで料理を始めて、最初から4つのコンロがあったことや、その上にオーブンレンジもあったし、冷蔵庫もでかければ、お湯もしっかり出たし、食器洗い機は常備だし、鍋釜やボウルの数も持てるほどの収納場所ですし、まな板ですら、ひとりで2枚も使っていたのです。広さというのはこういうときの武器なのだ(笑)。

 

そして、温かみですが、熱いものを熱いうちに食べられるという利点や、「食べたいなぁ・・・」とぼやくと、オムライスが出てきたりするのがすごいっ!←って、子ども時代と同じような要領で請求してるんだろ?と言われればその通りっ!(苦笑)母親はいくつになっても母親らしく、彼女のように親という部分よりも自分や女という部分が多いヒトであっても、やっぱり効果があるときには効果があるやり方で頼んでみるのは悪くない(爆)。そのやり取りすら温かみがあるんですよねぇ・・・。

 

今考えている、私にできる手作りの温かみは、教材です。既存の教材を選ぶというのが通常のやり方ではあるし、その学校学校が持っている教材に従うというのもありだし、莫大な数がある市販の教材を使うのもいいのだけれども、やはりオリジナルの教材やドリルを作ってみようかと思っているところです。でもなぁ、この手の手作りは、「温かい」と思ってもらえるよりは、「儲けようとしてるなぁ」と思われるんだろうか?←自虐的ではある・・・。

 

私は手作りができないやつなので、他人の手作りにいつも感心&歓心しているのですが、3月21日発売の『きょうの猫村さん』でも、猫村さんが働くお家の、整形大好きなママが子どもたちが小さい頃に下手ななりに作った手提げバッグについて描かれており、そこには「うわばきバッグ」「おけいこバッグ」「給食バッグ」などが登場して、いろいろな子どもの頃なりに使ったバッグについて思い出してしまいました。考えると、我が家も全部手作りだったよなぁと・・・。母は自分の洋服を作るために洋裁を志したのですが、結果オーライで、今でもなんだかいろいろ作っています。洋服のサイズ直しは日常茶飯事だし、洋服も作ってくれるし、バッグを直してくれたりします。私の職業柄、たくさんの教材やテストなどを持ち帰ったりするので、バッグはちっともファッショナブルではなくなり、ただただでかいものになりつつあったのですが(A4や、A4 が入るその一回り大きいプラスチックファイルが入らないといけない)、母が仕切りを作ってくれたり、ポケットをつけてくれたり、鍵をひょいと出せるように装着自由な仕掛けをしてくれたり、手作りになっています。わーい!

 

シャドーボックスやトールペイントなどは、私には到底できそうにはないのですが、西さんは大工仕事をするし、母は何でも作れるし、便利に暮しています。エンジョイする側で傍観しているだけではなく、何かいつか作る側にならないと、手作りの温かみを人様に分け与えることができないなぁと、しきりに反省しているのですが、何かいいものないでしょうかねぇ・・・。絵も描けませんからねぇ・・・。うーん・・・。何かいいアイディアがあったら教えてください(ぺこり)。

 

正義のためのチョイス

04/09/2008 にアップした文章です。

 

日々、小さい積み重ねが集積すれば、なんとか正義への貢献になるのではないか、と、私は政治に直接的な活動はしていないものの、日々の言動に気をつけています。子どもの頃から、やたらと「正義漢」ではありました。正義というものが何なのかわかっていなかった頃からだったのは、おそらく、父からの洗脳を見事に受け止めてしまっていたからなのでしょう。それを想うと、子どもの頃の環境というのは大切です。禁を破って、最近またVince FlynnのMitch Rappシリーズを、大切に大切に読み始めています。電車の中で、涙が溢れて仕方なく、どうしてこんなに泣けるのか?と、つくづく考えているところです。

 

正義:(1)正しい道義。人が従うべき正しい道理。(2)他者や人々の権利を尊重することで、各人に権利義務・報奨・制裁などを正当に割り当てること。アリストテレスによると、名誉や財貨を各人の価値に比例して分配する配分的正義と、相互交渉において損害額と賠償額などを等しくする矯正的(整調的)正義とに分かれる。また、国家の内で実現されるべき正義には自然的正義と人為的正義とがあり、前者が自然法、後者が実定法につながる。国家権力の確立した社会では、実定法的正義は国家により定められるが、これは形式化・固定化されやすい。そこで、各人がその価値に応じた配分を受け、基本的人権を中心とした諸権利を保障されるべしという社会的正義の要求が、社会主義思想などによって掲げられることになる。公正。公平。(3)正しい意味。正しい解釈。経書の注釈書の名に多用された。

道義:人としてふみ行うべき道。道徳。道理。

自然的:天然のままであるさま。人工の加わらないさま。

社会的:社会にかかわりがあるさま。社会性があるさま。

 

私は、子どもの頃は無力だったので、この自然的正義というのに畏怖を強く感じていましたね。毛虫がチョウチョになることや、水をあげた種が芽を吹き出し、花が咲き、実までがつくということなどで自然を学び、その後、自然界での弱肉強食を目の当たりにしていきます。そこに手を貸すことを、父はなぜかそれほど喜びませんでしたが、猫や犬や鳥を大切にすることは歓んではくれました。とはいえ、彼の場合、ヒトが作りだした社会に対する不平不満でいっぱいで、闘う態度を失うことなく、定年前に死んでしまいましたから、彼の場合は、この社会的正義というのに、いつも傾倒していたに違いありません。その彼は、本当に自然の摂理をしっかり身につけていたのか?おそらく、田舎の中の田舎のようなところに生まれ育ち、中卒のまま大工仕事の基礎を身につけ、東京に出てきて運転手の職にやっとありつき、自然の摂理が痛いほど理解できたうえで、人為的にヒトが動物でいないままの理想的な正義を、彼なりに追い求めていたはずなのです。だから、すっきりしたいがために、時代劇を見ていたんでしょうねぇ・・・。あの時代にだって不幸な人々はたくさん居たけれども、ドラマの中では、悪い人が斬られて、正義が勝つというのが、どうしても気持ちよかったんでしょう。

 

私が今読んでいるMitch Rappシリーズは、Executive Powerというものです。あらすじはこちら>http://blog.livedoor.jp/cyberbabe/archives/50709090.html 個人ブログなんですけど(笑)。

こんなに安いから決断して買ったんですよ>

http://www.amazon.co.jp/Executive-Power-Vince-Flynn/dp/0743453964

 

アメリカに住む前は、ヨルダン-イスラエル問題などには関心どころか、基礎的知識すらありませんでした。父にだってあったかどうか怪しいものです。アラファト大統領が1993年にノーベル平和賞をもらったときにも、アメリカ人で中東問題に興味がある友人たちは、そこそこの知識を持っており、そのおかげで私も「知りたい」「知らなくちゃダメだ」と思ったものです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%88 アラファト大統領について

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%8A%E5%95%8F%E9%A1%8C パレスチナについて

 

このような遠い世界で起きている不幸について、正義が体現されないことについて、私には何もすることができず、小さい女の子がレイプされたり、「死んだほうがまし。どうか殺してください」と懇願しながら拷問されたり、手足がないまま暮していく以外のチョイスがなかったりすることなど、日々の大半は忘れて暮しています。けれども、胸を張って言えるのは、自然的正義を理解した上で、社会的正義についての自分なりの意見を持っており、小さいことの積み重ねながらも、私なりの正義へのフェアネスを体現しつつ暮していくことは、片時たりとも忘れていないということです。

 

国防について考えている人々はたくさんいても、それを実行している人々というのは一握りです。その人たちは、体力も人並みはずれてあれば、知性や感性も研ぎ澄まされており、その人たちのおかげで世界が成り立っていることは忘れていません。だからこそ、こうした小説を読んで泣けてしまうんですが・・・。もちろん、そこには政治が絡み合い、その国防を体現している人々も責めの対象となってしまうのですが・・・。残念なことです。

 

その人たちの偉さを私も見習えるなぁと思うのは、贅沢をたまにはすることがあっても、基本は質素に暮していきたいと心がけており、そのためにはどうしてもないときを抜かして、私はマイボトルを持ち歩いていますし、お弁当も持っていきます←とはいえ、母親に作ってもらっていたんじゃ、とは思うんだが(爆)。しかも、お茶に農薬が入っていたというニュースまで入ってきていて、ちとびっくり←余談ですが・・・。多少の余剰金があっても、自分のために贅沢をするために使うことなく、必要最低限のもので暮していき、日ごろお世話になった方々や将来がある人々に分け与えたり、ごはんを食べてよく話す社交費として使うことにしています。形あるものをいくら持っていても仕方がないのは、国防をしている人々の人命救出大作戦や暗殺場面を読むとよくわかります。いつ死ぬか、という刹那な気持ちがないと、「必ず明日は来る」という奢りで、モノをたくさん持ちたくなるんだろうと思うんですね。

 

ダイヤだろうがサファイヤだろうが、ブランドの洋服やバッグだろうが、確かに商業的に成功する分野だし、モデルや芸能人もそれを持っていると、「第一印象」「容姿やイメージのアップ」で儲かる良循環に乗れるのかもしれません。が、私は質素に暮していくことを心がけています。ピアス以外での宝石は要りませんし、数も要りません(耳の数は増やせないし・・・爆)。

 

政治を見ていても、世の中の風潮のネガティブ面を見ていても、まずはひとりひとりが持つ、「ラクして儲ける」だとか、「人より良い暮らしをする」という考えに根付いているような気がしてなりません。それがなくなれば、蓄積したときにけっこうなパワーを醸すのではないかと考えていて、私は洋服も親の敵のように着るんですね(笑)。いやぁ、貧乏育ちをそのまま続けているだけって言われればそうなんですけど(爆)。

 

正義というのは長い遠い道のりなのだけれども、最初の一歩は、自然界を知ることではないのか?と思っています。そのあと、いろいろなことにぶち当たるのでしょうが、まずはそこから。そして、いろいろなチョイスをしていくことで、生き延びていくチャンスを増やし、賢く暮して、他人を自分と同じように扱えるヒトになってもらいたいものです。それが蓄積されれば、正義はいくばくかは実現できると思うのだけれどもなぁ・・・。

 

紀久美先生へのQ&A~心理学講座編~その92

友だちは多い方がいい?

 

多いほうがいい、とおっしゃる方はきっとたくさんいらっしゃるかと思います。広い世界に出て、そこにいる人々のいろいろな考え方が得られるから、などと尤もらしいことをきっとたくさん吹き込まれたこともあるかと思うのです。

 

心理学的には、「友だちは少ないほうがいい」という結論が出ています。ただし、心理学ですから統計学的な結論であり、判断は個人が決定してください。進化心理学という新しい学派の説明で、咀嚼するのが少し難しいかもしれません。



https://thoughtcatalog.com/natalie-villani/2017/03/9-reasons-why-intelligent-people-have-less-friends/

https://www.washingtonpost.com/news/wonk/wp/2016/03/18/why-smart-people-are-better-off-with-fewer-friends/?utm_term=.430a5d8f1367

https://www.mensxp.com/relationships/friendship/30010-this-research-suggests-that-having-fewer-friends-is-a-sign-of-your-intelligence.html




人口密度が多く、人が多い場所に住んでいると、いろいろな支障が起きます。ただ、知性が高い人は「よりよい選択」ができるという結論を元にすると、郊外や都市部に住んでいても、たくさんの友人の中から、自分にとって「最善・最良」の友人を選びます。その「考える」という面倒さをスキップしたい人は、そうしたそもそもの選択が必要のない、田舎を選ぶわけです。人々が少ないために摩擦も少なく、摩擦があっても、合議制でなんとか解決できるような。

 

友だちが少なくていい理由は他にもあります。刺激がたくさんある中に住んでいると、とにかく情報量が多すぎて、取捨選択しづらく、最善・最良から離れてしまうこともままあるわけです。友人がたくさんいるということは、その選択肢は増えるものの、基本のキが見えづらくなってきます。ゆえに、知的な人にとっては比較的「当たり前」の作業である「考える」という行為をなるべくスキップしたい人にとっては、友人が多くて自分のために選んでくれている状態を好みます。友人が多いということは、ひとりになる時間が物理的に少なくなりますし、考える時間が減ります。考える・読書をするなどというひとり作業の時間が減ると、知的発達が停滞してしまう方向に傾いてしまうのです。さらに、友人が多いということは、ひとりひとりの友人に対して割ける時間も少なくなってしまいます。ゆえに、深く考えて共感したり、コミュニケーションを密にしたり、高揚感を得る機会そのものが減ってしまう、という不利益が生じてしまいます。

 

時空を超え、物理を超え、他者の考えや気持ちを考えるためには、ひとりでいる時間を大切にできたほうがいいです。とはいえ、そのためには、幼少時代にその原型となる「友情」のありがたみ・深さは体験していないといけません。

 

知性が上がれば上がるほど、本当の意味での友人は減り、人間関係でも、「知り合い」「仕事仲間」「遊び仲間」「相談相手」「恋心を持てる人」などと、ジャンルが増えていくはずです。

 

少し考えてみてくださいね。

 





海の上で燃え尽きる

04/08/2008 にアップした文章です。

詩的に表現しましたが、今朝のニュースを題材にしたもの。不謹慎かもしれない私の第一声は、「うはぁ。誰だろう、これ考えた人・・・」というもの。母は、「火葬」と「船」がどうしても繋がらなかったらしく、ひとりでぼーっと肩と首のあたりを揉んでいて、ニュースが進むまで想像できなかった模様。「船の上で火葬を」のニュース見出しでは、わからない人は多いのかもしれません。私はすぐにわかってしまい、なんと現実的で嫌なやつなのか・・・(汗)。

 

土地が少ない日本であるからこそ、地上に建てたくない施設や建物というのはたくさんあります。非常に現実的なのですが、火葬場もそのひとつ。今ほど輸送システムが発達していなかった昔では、火葬場の近くには、たくさんのお墓もあり、近所の人々は生活していく上で、自分たちの「生」を常にネガティブな心理に影響するそういった建物を疎みます。そりゃ当然の気持ちですから、責めたてられぬ・・・。

 

これを突き詰めて考えるに、日本人の心持や暮らしぶりというのは、大いに変化しており、職住隣接という考えは発達しても、祖先のそばにいつまでも居たいという人々よりは、さまざまな理由があるにせよ、お墓は遠くにあって当たり前のような風潮になっています。そのせいで、お墓サービスという産業までが発達し、代理人である会社のクリーニングの人々が、お墓掃除をしてくれて、お参りまでしてくれて、その写真をデータ化して送ってくれるのです。ちなみに、なんでこんなことを調べなくてはいけないのか、日本で最もお墓参りの義務感が発達している県民は、鹿児島県人だそうで、鹿児島の人々には、お墓参りは日常にまだまだ根付いているといるのですね。

 

家・家格・家名とその歴史の問題ですから、さまざまな事情が発生し、時の流れと共に、諸問題が生まれてきます。そのせいで、自分が住んでいるそばにお墓がないことは、私としては少しさみしい。たとえば父の実家のお墓というのは、歩いて5分の山の上にあります。ええ、山の中に住んでいるんですって(爆)。神道の神主をして、小さいながらも神社をひとつ持っているせいで、奥津城と呼ばれるお墓は、りんご畑のすそにあります。叔父の家に行くたびに、お酒やご馳走に預かる前に、必ず挨拶に行くのです。が、父は次男なため、母の母が購入した、永代供養料も納めてある由緒正しい日蓮宗のお寺に入っており、そこはあまりに遠すぎて、勢いだけではお参りに行けないのが、私としては心苦しいのです。アメリカに居るならまだしも、どうして気軽に、ひょこひょこと行けないのか、父もさみしがっていることでしょう。祖父や祖母のほか、早産した兄弟と母の弟である叔父も、同じお墓に入っています。お金も時間もかかるようになってしまったことに、なんだかさみしさを感じますね。

 

そして・・・、その心の負担を考えていた矢先です。なぜならば、お彼岸が過ぎて、私は今年は忙しすぎて、完全休日というものが持てておらず、どうしていいか、二進も三進も行かなかったのです。どこかでずっと気にしており、申し訳ないと思いながらも、母が手紙をしたためて、お寺にお金を送るところも見ているわけです。その状態でこのニュース。

 

きっとたくさんの人々が、今住んでいるところから、お墓は遠いと思うのです。だったら、もう少し、その心理を広げてみて、船の上での火葬というのも、取り入れてみればいいのに、と。

 

考え方としては、とても論理的で冷たいのですが、団塊の世代が老齢化したときには、火葬場の予約やその作業が追いつかなくなるであろうというもの。確かに、日本の人口分布を見てみると、今までの火葬場の数では追いつかなくなるだろうという推論には、かなり納得できるのです。他人様が死にゆくことを想定するのは、気が引けるのですが、避けては通れない道です。むしろ、ご遺体をそのままにしておくほうが罰あたりです。

 

http://www.nippon-foundation.or.jp/org/press/2007/08102.html 財団ぐるみでがんばっています。

これによると、すでに火葬までを1週間待たねばならぬ状態に陥っているそうです。

http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn/20080407/20080407-00000044-jnn-soci.html 動画がついているのでわかりやすいです。

 

事実、多磨霊園のように著名人もたくさん眠っている地域はあり、それがむしろ「街の名声」になっているようなところもありますが、今、多磨霊園に新規でお墓を持てる人などそうそう居るわけでもないし、火葬場はこの近辺ではあそこに頼っていますが、確かに「どうしていつもいつも霊柩車ばかりなんだろう・・・」という子ども時代を過ごした私としては、火葬場というのは、人々に疎まれる存在なのだろうということは理解できます。

 

船が火葬場であれば、老朽化した際には、スクラップにできて、土地問題はないので、移動すらできます。近海内の少し沖合いまで出て、セレモニーもそこで済ますことができれば、いいお葬式もできるのでしょう。ただ、お葬式代というのは上がることになるのでしょうが・・・。ただ、海の上で燃え尽きていく愛する人を見た自分は、「散骨してもいいかもしれない」と思えるようになるかもしれません。私は、JFK(John F. Kennedy)の散骨風景を見て、自分もそうしてもらおうと決心したのです。モノクロのニュース画像だったのですが、とても強烈でした。父方の神道や、母方の日蓮宗のほか、日曜学校のカトリックや、アメリカでの宗教学の基礎網羅をしたのちである今でも、やはり私には散骨しかないと思っています。私は女で、守るべきお墓がなく、今、父が眠る参っているお墓は、弟一家のものへと移行していくわけです。骨になってから、誰かといっしょにいたいとは、私は思っておらず、自然に戻してもらえればいいのです。もちろん、献体したあとの残りでいいですし。

 

私は、これを考えた人に、「頭のよさというのはこういうふうに使わないといけないよなぁ・・・」と、冷たいようですが、すごさを感じてしまった次第です。まぁ、これもビジネス化されると、人の生涯や死が軽率に扱われていくことになるのですが、最低限のビジネス化でお願いしたいと思います。

 

葬儀に参列するほうとしても、わざわざ時間を作って火葬場に行き、あの混雑している人々の苦痛・苦悶の表情に刺激されるよりは、海の上でカモメたちを見て、それぞれがデッキから海を見つめる時間が持てていいのではないかと、とても現実的なことを考えてしまう私ではあります・・・。私はあんなときに、小さい待合室に詰め込まれて、誰かと話すことは望みませんから。

 

そして、この発想をきっかけに、水上農園を作ることが実現して、日本の自給率も上がるといいなぁと思うのです。水上農園は効率がいいですよぉ。エジプト時代にナイル川でやっていたし、他の文明でもいくつかやっていたところがあります。日本の人々も、自分たちの土地の狭さを考えて、温故知新をして、そこから今できる知恵をバンバン出して、心意気は保ちながらも、生き延びていくことは可能だと思えたニュースです。が、たくさんの人々が混じっていくと、関わっていくと、いろいろ難しくて実現しないのかもしれないんですが、私は希望することはやめませんぜ・・・。

 

人と知り合うプロセス

04/07/2008 にアップした文章です。

 

人を知るというのは、それほど難しいことではないが、自分について伝えることはものすごく難しいと感じている人は割合的に多いのではないか?と思うのです。そして、他人の意外な部分を知ると、かなり感動するのではありますが、自分がどういう人間なのかを第3者の新鮮な眼で見た感想を、どう受け止めるかで、今後の人生というのは変わってくるのかもしれません。それが「出会い」の妙なのでしょう。ええ、昨日は、産業カウンセラー講座の初日で、私はクタクタに疲れてしまいました。驚くほど、エネルギーが必要なことを、実感してしまったのです。その説明をぜひぜひ・・・←説明じゃなくて、言い訳だろうって!?(爆)

 

日曜日の都内の教室に集まった人数は、70人ほどだったと思います(今、冷静に椅子と机の数とグループの数で考えている・・・)。その70人が5グループに分かれて、実技講座を受ける仲間になります。20回の講習中、8回が座学で、大きな教室で講義形式で行われるのですが、12回は昨日の1回も含めて、そのグループでの実践になり、カウンセリングノウハウをやるわけです。校長センセはすでに昔?に経験なされており、私の説明を読むのはなつかしいのかどうかわからないですが・・・。

 

お決まりのような自己紹介があり、「どうしてこの講座に参加したか」という志望動機を語るのから開始し、一体どのくらい話したんだろうか?というほど、話したし聴きましたね。聴くことはまったく苦ではないのに、どうしても話すことは苦痛だった。いや、私はTalkativeな先天性があるので、実際はそれほど苦痛ではないはずなのです。条件の問題です。その条件の最たるものが、「初対面で相手を知らない」ということ。

 

このエッセイも、実際は不特定多数の人をAudience(観客)としているはずなのですが、オンライン上にこれだけ(いわゆる星の数ほど)のブログがある中、私のブログを読んでくれている方々というのは、実際は「共通項」があり、私のエッセイというのは、その共通項に「共感できる」方々のみが再来するような要素が強くなっています。私のような思考回路を持たぬ方でも、概ねの意見が共通しているところが多いがゆえに、何度も訪れてくださっているわけです。でなければ耐えられないし、もう読んではいただけない。校長センセと陽さん以外で、リアルの友人にはほとんど言っておらず、西さんも多忙のため読むこともたまにしかなく、英語学校の生徒さんにも4人にしか教えていないわりには、アクセス数は毎日コンスタントに100は超えており、多い日にはなぜか300を超えます。

 

そのせいで、書いている私のほうも態度や内容について、調整ができており、知らないあいだにコミュニケーションが取れている状態になっています。コメントも、校長センセや陽さん以外の方に、ごくごくたまにはいただけますしね・・・。統計というのは、かなり読めば読めるものなのです。

 

ところが、昨日のメンツは、それぞれがみなユニークで特別ですばらしい方々なのでしょうが、「知り合うプロセス」で疲れてしまっている(笑)。これが、Selfの妙なのですが、私のハードルがいかに低く、「別段他人になど好かれたくはない」と思っていても、どこかでやはり常識的な「他人に迷惑を掛けない矜持」があるので、自分をどこまで出していいものやら調整をつけるのに、ものすごい努力を要するわけです。そして、この産業カウンセリング講座というのは、話し手であるクライアントさんに「そのようなストレスをかけずに話をじっくり詳細に聴く」というのが目的なので、ハナから問題にぶつかってしまうわけなのですね(爆)。

 

他人の話を聴く側というのは、「どんな情報がどれほど漏れているか」ということがわからない。ここが問題です。何度も繰り返すようですが、この世で自分の言いたいこと・頭と心に詰まっていることを、決められた限りのある時間で表現できた人というのには、今までお目にかかったことはありません。ピカソにしろ、モジリアーニにしろ、次々と作品にトライできたのは、「まだまだ表現したいことがあったから」なのでしょう。彼らがいかに天才でも、絵でもすべては描けない。料理人も同じことで、どんなに至高の逸品が作れたと満足しても、そこでは終われない。やはりそれは完璧ではなかったし、同じものを繰り返し表現できないだろうと、謙虚だからなのですね。どうも、Outputに関しては関心が高いのだけれども、Inputに関しては関心が低いのは、どんな人でも同じようです。

 

私も、講師をしていて、他人のことを「知りたい」という気持ちは、他人様に負けぬほど強いと思っているのですが、記憶力も書き留めなくともかなりのことを憶えていると自負しているのですが、相手が13人にもなると(さらに講師がふたりなので、合わせて15人)、相当に負荷がかかります。私がこれまで持ったグループの生徒さんたちは10人が最高で、それ以上はいなかったですし、範囲をある程度決めた情報を収集しているので、「そもそも全部は無理なので、ここだけを詳細に収集する」と、ハナからあきらめた態度を持つことができるわけです。しかも、何回も続くであろうレッスンの中、少しずつ分かっていけばいいとも選択できます。

 

13人の新しいクラスメイトに関しても、実際は「あと11回で知り合っていけばいい」という選択肢を選べればいいのですが、カウンセリングの授業なので、「初対面からできるだけ理解する」の「できるだけ」のハードルをあげてしまうがゆえに、私はかなり疲れたんだろうなぁ・・・。あ、なんだか字面で整理できていません・・・。

 

聴く側としては、「ささやかだけれども重要な違い」についてにアンテナを立ててよく考え、相手が話し易いような状況を提供していく。

 

話す側としては、「他人に迷惑をかけず、威圧感を与えず、聴きたいことを察知しつつ、シグナルを見逃さない」というのが、結論なのですが・・・。

 

そして、ここに捻りが入るのが、「初対面でまったく情報がなく、見た目の印象や、すでに持っている偏見や経験則で物事を測っている」ということ。

 

私は昨日の最初の自己紹介で、「19年弱アメリカに住んだので日本には心理学のカウンセリングシステムがしっかりと確立しておらず、どの資格を取ればいいかわからなかった。この講座が日本で認知されているので参加した」と言ったので、それにすぐに食いついてもらい、話す内容はそれほど心配せずともよかったのです。私に関することではなく、アメリカとの違いについては、山ほど語れる・・・(爆)。迷惑を掛けるほど、Me!Me!Me!を連呼しなくて済んだのです。

 

でも疲れた・・・。これがあと11回続くのだと思うと、しかも途中で「印象」という容姿のプレゼンが出てくると思うと、なんだか憂鬱です。背は縮められないし、スーツもあまり着たくないしなぁ・・・。長時間なんですもん(爆)。

 

というわけで、人と知り合うプロセスというメカニズムを、もう少しよく考えてみると、「最高の出会い」をもしかしたら、ここまでで喪失してきたかもしれないことに気づけて、今後はそんなことがないようにできるかもしれません。自分をどのようにプレゼンするかについても、けっこういろいろなことが考えられるかもしれません。疲れますけどね(爆)。

 

『剣客商売』のドラマ

04/06/2008 にアップした文章です。

 

家でぼーっとTVのコマーシャルを見ていたら、なんと池波正太郎の『剣客商売』がドラマ化されていることを、本当にいまさら知った・・・。うーん、どうして見逃していたのか?そりゃ、私が日本に不在だったからいけない(爆)。が、帰国してはや1年半、これまではやっていなかったと思うのだがなぁ・・・。『仕掛け人梅安』だって1回だけしかやってないしさ・・・。あの手のものはしょっちゅうやるわけじゃないのだろう。しかも、『鬼平犯科帳』だって、シリーズ復活はしていないし、『必殺シリーズ』とて、ジャニーズの面々がキャストされていて、話題になっただけだしなぁ。時代劇が好きだということそのものが、すでに時代遅れなのかもしれない・・・(汗)。

 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%A3%E5%AE%A2%E5%95%86%E5%A3%B2

なんだよぉぉぉ。これまで3回もドラマ化していたのか・・・。山形勲はもう亡くなったのではないのか?ということは、大昔・・・。うーん、見ると、私はまだ4歳だった模様。知らないはずだよなぁ・・・。その次の中村又五郎版のものは、1982年と83年で、私がまだ高校生だった頃。バイトをしていてドラマをロクに見た記憶がないので、やはりこれも見ていなかったんだなぁ。そして、イチバン新しい藤田まこと版は、98年から。しかも、シリーズだったんじゃないかぁぁぁぁぁぁ!

 

でも、はたと考えると、どうして小男の秋山小兵衛を、藤田まことがやっているのか不思議ではある・・・(汗)。どうしてなのか?時代劇ができる人が少なくなっていはいるものの、あまりにも無理はある・・・。うーん。

 

海音寺潮五郎が、なぜに池波正太郎のことをあんなにも評価していなかったのか?を考え続けて、それでもやっぱりわからず。史実を曲げすぎているということなのか、リサーチの仕方が間違っているのか、日本語の使い方がお気に召さなかったのか、いろいろ考えたのだけれども、私には気づけないままでいます。

 

でも、英語学校でも私の時代劇好きはすでに定説化されており、「勧善懲悪が起きてほしい正義の人」とさわやかな評価になっているのだ(爆)。パチンコまで「必殺仕事人」をなぜやるのか?と、時代劇に興味がない人には、少々混乱を来たしているらしいのです。http://www.jidaigeki.com/index.html 昨日も授業中に時代劇の話をしていたところ、このチャンネルがあることを、生徒さんから教えてもらい、真剣に導入を考えているところなのである(笑)。なんだよ、このチャンネルでは、『剣客商売』もちゃんとやっているではないか。『鬼平犯科帳』もあるし、大昔の大河ドラマまで再放送してくれているではないか・・・と、かなり愕然としているところ。

 

私の時代劇好きは、どうしてなのか?とよく問われるのですが、そりゃそうかもしれない。19年近くアメリカに住んでいたというのに、朝の10時半から、時間があるときには、勇んで『暴れん坊将軍』を見て、3回に1回くらいは泣いているわけで・・・(爆)。しかも、ジャニーズの面々が時代劇をできることを、かなり真剣に語るのはおかしいのかもしれないし・・・。この理由はしっかりあって、やはり殴られても殴られても、私はやはり父が好きだった証拠のようなものだろうと思うのです。父は生きていたら72歳。昭和11年生まれで、美空ひばりの同級生なのですが、2勤2休の運転手の仕事をしていたせいで、かなりちゃんと向き合えたのですが、その媒体の大きなひとつが時代劇。平日であれば、TBSで夕方から必ず時代劇の再放送をしており、それが三井物産の提供だったのです。ストーリーはパターン化しているし、「そりゃないだろう」の撮影内容などもあるにも拘らず、私はやっぱり時代劇が好きだ!と思えるのは、この父との時間を思い出せるからなのだろうと考えています。

 

アジのたたきも自分で作れないわりには、他人が勧善懲悪をしてくれるのはとても好きで、「やれやれぇ!」とどこか野次馬的要素が出てしまうのも、時代劇ならではなんだよなぁ・・・(汗)。

勧善懲悪:善をすすめ、悪をこらしめること。勧懲。→勧懲小説

リアリティがないものを見てよく歓べるね、とも言われるのですが、それならHarry Potterだって居るなんて言えるわけもなく・・・。

 

今回題材にしているのは、藤田まこと演じる秋山小兵衛の息子、大治郎を名乗る辻斬りが現れるもの。うーん、よく憶えているなぁ(笑)。http://www.fujitv.co.jp/fujitv/news/pub_2008/08-057.html しかも、監督は、三ツ矢歌子のだんなさんの小野田嘉幹ではないですか。もう80歳を超えているだろうと思って調べてみると、83歳だった・・・。すごーい!

 

でもやっぱり藤田まことがなぜ秋山小兵衛なのか?という謎は残る。あんなに上背があるし、違うよねぇ・・・。好々爺ではあるけれども、イメージは違う。けれども、他の人がやって成功するか?と言われれば、そりゃぁ、藤田まことであれば、視聴率は取れるんだろう・・・。うーん・・・。

 

というわけで、私はこのスペシャルは見たいなと思いつつ、楽しみにしていて、英語学校の授業を、3時からにしてもらい(看護婦さんのプライベートレッスンを3時に繰り上げてもらい、5時から韓国人のTOEFLの授業をして、7時15分にはお家に戻れる)、準備万全なのです(爆)。そんなにまでして見たいか?と問われると、いや、見たい(爆)。じゃ、録画すればいいじゃん、と言われるかもしれないのですが、録画はしたくない。運というものを多少試してみたいところがあり、縁があるかないかを便利な機器で解決したくはないのです。

 

あ、まずい。もう学校に行く時間です。今日から産業カウンセラーの講座が始まります。今日のエッセイは、少々短いのですが、お許しください。ここのところ、時代劇好きの人には遭遇しておらず、私の年代ではもうダメなのかなぁ・・・。昨日は、看護婦さんの授業のあと、いっしょにごはんを食べたのですが、またご馳走してしまいました(笑)。ええ、またワインを飲みました。今日も緩やかにまだお酒が残っているのですが、昨日ほどの二日酔いではありません。量が断然違いましたから・・・。

 

がんばって授業を聞いてきますぅ←聞くだけの授業じゃないといいな、と思っている・・・(笑)。

 

放言の緩み

4/04/2008 にアップした文章です。

 

「誰に聞かれてもいい」ということばかりを話して生きていくというのは、なかなか難しいものです。が、しかし、相手を選んだ言葉だけを、いつもいつも話しているというのも、「あなたは一体ナニモノなの?」と問われてしまうまずい態度ではあります。本当に考えていることが、話す相手によってブレまくるというのは、実際は「大して何も考えていない」ということでもあり、それは困る。放言が過ぎて、いろいろな人を傷つけたり、ある特定の団体やグループを傷つけるのもいいことではありません。うーん、困ったものです。どうしていますか?

 

放言:思ったままを言い放つこと。また、不用意になされる無責任な発言。放語。

緩む:(1)強く締めつけられた状態にあったものなどが、たるんでゆるくなる。ゆるぶ。(2)普通の固さよりもやわらかくなる。(3)(「口もとがゆるむ」の形で)きちんとつぐんでいた口があいて、笑い顔になる。(4)精神の緊張が弱くなる。たるむ。(5)規制・取り締まり・警戒のしかたが弱くなる。ゆるくなる。(6)気候のきびしさが弱まる。(7)しっかりしていた相場・値段が安くなる。

 

理想は、「思ったまま」が己をしっかり体現できたり、考えを如実に反映する言葉を発することなのですが、悲しい哉、この世のすべての現象や事象や感情は、言葉によって100%表現できるわけではありません。達人であれば、おそらく8割?9割?が話せるのかなぁ・・・。書くことも同じです。

 

私個人の体験では、最高でも7割でしょうね。表現したいことが、複雑なことであればあるほど、その割合というのは減ってきて、To be Continued・・・・(続く)が必要になります。ですから私のエッセイも続編があるものが多いわけです。言い切れなかった感が「常」で、「明日死ぬわけじゃないから続きにしよう」と、身勝手に前向きです←甘い!と感じる方は多いでしょうね。明日も明後日も今後も続く、とのんびり考えているからいけないのですが、「毎日が最後の日のように生きる」というのも、かなり自分にプレッシャーを掛けすぎることになるので、マイナス面も増えると思うんですよねぇ・・・。

 

シンプルに暮していけば、「○×のお店の○×が食べたい」と100%のことが言えているのでしょうが、実際は、「いつ」「誰と」「どこで」「どんなふうに」などがくっついてきて、私のように「家で食べたい傾向」がある人間は、食べたい対象物が言えても、なんだかすべてを言い切った感が薄いんですよねぇ・・・。ええ、まだ少しアメリカ暮らしをしていた名残があり、狭いお店で食べるくらいならば、家に持ち帰って食べることができるのであれば、家で食べたいと思うことはままあり・・・。誰か知っている人に見られるのも嫌だなと思うこともあり、ネコたちに分けてあげたいと思うこともあり・・・。しかも、歳を食ってきてから、一人前がすべてきれいに食べられなくなってきていることもあり、持ちかえれば母にヘルプしてもらってきれいに残さずに食べられるのになぁと思うこともあり。

 

難しいですよねぇ・・・。この手のチャレンジは、おそらく生涯続いていきます。言葉そのものも生きていてナマモノでどんどん変わっていくし、私の経験も積み重なっていき、事情も変わり、考え方も変化していくので、100%言えた、出し切った!という満足感を得ることは、言葉に関してはないような気がしないでもないです。

 

たまに、プロポーズや授賞式や謝辞を述べる席などで、「言いたいことはすべて言いました」と胸を張って言っている人がいるんですが、私としては少し羨望です。逆に、ネガティブな場合、裁判などで冤罪であろうが、実際に罪を犯していようが、代理人である弁護士も含めて、言いたいことがすべて言えるわけなどないと思うんですよねぇ。

 

自分の中での悶絶であればまだましなのですが、私は人を巻き込み、かなり好き放題に言いたいことを言う性質と来ている。

 

なんと言っても、嘘を長年ついていない私としては、誰に何を聞かれても大丈夫なように立ち居振舞っている「つもり」ではあるのですが、もちろん、そのせいで他人をOffend(攻撃をしかける)することはあります。たとえば本日なども、「東大や京大に入った人のすべてが天才なわけではないよ。個人差はあるけど、半分近くは、点数を取る技術であり、頭が純粋にいいというわけではないよ」などと、平然と言ってのけてしまったので、もしかすると周りにいた誰かは、ムカッと来たかもしれず・・・。たとえ詰問されても、私はそれを理路整然と討論する準備はありますが、その人にたまたま時間がないだとか、私が嫌いだとか、私のような輩がこれまでたくさんいてうんざりしている、などなどの理由で、結果的には「ただOffendされた気分」でその場を去ることは多いかもしれません。

 

私自身、アメリカではアイビーリーグではないものの、自分が一流校と言われるところを出たので、一流校を出た人間のすべてが天才でないことはわかります。ええ、私が天才ではないですから(爆)。そんなにゴロゴロ天才がいても世の中困るしね・・・。この考えは、たくさんの経験に基づいたもので、その多くの「点数を取る技術」が積み重なったものだけで、世の中に出てからも、学歴に助けられて頭がいいと扱われている人々は、何か錯覚をしているのではないか?と思うことがままあります。けっこうむかっ腹が立つことも多いんですよ。私は、未だに中学数学を自力で復習する気力がありますが、私と同い年の人で、同じことをやっている人は、広い世界で何人もいるかもしれませんが、割合的には少ないかもしれません。こんなことをしているのは、私が「賢いのだ!えへん!」という自負に満ち溢れていないからで、「使わなければ忘れるし、退化して慢心する」という注意深いステップを、日々に取り入れているに過ぎず、頭がいいなどということは生涯続くことでもないです。だから、生涯学生でいたいわけですよ。

 

ところが、これを「放言」だと受け取る人も多いし、「場」にそぐわないと考える人も多い。実際は、その場にいる全員が、私を先にOffendしたわけでもないので、たまたま居合わせた人々は気の毒ですし、関係ない人が話を漏れ聞いてしまった場合にはとんだトバッチリです。わかっていても、引き受けなければならないマイナスなのです。

 

講師としては、多くの人が持つ「勉強コンプレックス」を取り除きたくてたまらず、TOEFLやTOEICや英検の点数というのは、正確に英語力を反映しているものではなく、単なるバロメータであることをしっかり理解してもらいたいわけです。英語力がすでにソコソコついた人にとっては、技術を付け加えることで点数が取れるので、かなりハッピーな状況なのですが、英語力がつかない英語教育を施されている多くの日本人にとっては、「英語嫌い」「英語は難しい」「英語は頭のいい人にしかできない」という前提を取っ払ってからのほうが、学習の成果が上がるわけです。なので、ふたつの別のことである、英語力と点数を取る技術についてたまに話すのですが、周りで聞いているほかの先生や、学歴の高い生徒さんたちはむかっ腹が立つことでしょう・・・。

 

緩みに関して触れてきませんでしたが、私の言葉・表現に関する考え方を、そもそも緩めれば、放言の緩みも「仕方ないもの」とみなせるのかもしれないです。でも、事実だからなぁ。100%伝わることなどないということを前提に置かないで考えることはできないよなぁ・・・。欲することもなかなかやめられず・・・。うーん、難しいですなぁ。

 

紀久美先生へのQ&A~心理学講座編~その91

「日本人」は世界の中でどんな立ち位置にいるのでしょう?

 

アメリカから戻って11年が過ぎました。が、英語を使えるAdvantagesがいくつかあるので、インターネットで繋がっている分、臨場感に多少のズレがあっても、日本が『ガラパゴス症候群』であることは、ひしと感じています。とはいえ、私も日本人ですから、日本語や日本人、日本文化の悪口が言いたいわけではありません。ただ、客観的に冷静に見つめて、いいところは促進し、悪いところはいい方向に行ける余地はないのか?を探したいと思うのです。

 

https://www.garo.co.jp/inoue/?cat=11 世界からの日本の評価

https://forbesjapan.com/articles/detail/21836 Forbes

https://news.infoseek.co.jp/feature/japanese_culture_reaction/ ランキング

https://www.madameriri.com/2016/03/25/world-ranking-about-japan/ もうひとつさまざまなランキング これはちょっと考えさせられてしまいます。

 

このように親日家は山程いますし、愛が深い人も思ったよりも多い人数ですが、いかんせん、コミュニケーションがしっかり取れていないというのが問題なのだろうなぁと思ったりします。やはり多くの外国人にとって、日本という国、日本人という人々、日本人が営んでいる日本文化というのは、まだまだ謎が多いのです(笑)。ゆえに、しっかり伝えることをしない限り、伝わらないままなことも多いまま残っていくのだろうと思います。

 

どんな国の人にも理解されることはたくさんあると思います。どんなバックグラウンドであっても、リスペクト:ある一定の尊重や尊敬は、得られることだらけですが、多くの場合、その起源や由来、理由や実際を伝えきれていないため、理解されないまま Wow! How mysterious! で終わってしまうことも ^^;

 

私も1988年までは日本を旅行でしか出たことがなく、それ以降、アメリカから日本を眺めたときに、違った感想をたくさん持ちました。感動したことも多くありましたし、誇りに思えたことも多くありました。今も、日本に生まれ育ったことは、大きなAdvantageのひとつだと強く言えます。もしもアメリカやヨーロッパや東南アジアや中近東に生まれたとしたら、今の私は出来上がってはいないことは請け合えてしまいます。

 

この不思議な国で、それなりの規範や文化、人々や物事に触れて、私は大人になりました。よいところだけを拾い取り、さらに諸外国のよい文化を拾い取り、と、ずるい??ことをしているような気になることもあります。けれども、短い人生ですから、これくらいのわがままはさせていただけたらうれしいです。

 

URLを見ていろいろと考えていただけたら、英語をしっかり学んでいただいて、いろいろな国の方々とコミュニケーションが取れるよう、多様性を深めて、新しいことを受け入れるようにしてくださいませ。日本の未来のためにもよろしくお願いいたします (._.)

 



盗聴のゲンジツ

04/03/2008 にアップした文章です。

 

信じられないことに、盗聴器というのは私たちが思っている以上に蔓延しているらしいです。そういった考え方を持つということそのものが信じられない私としては、どうも実感が湧かないのですが、報道番組やワイドショーの特集などで、たまに取上げられているらしい。母は、「ああ、最近そんなのが多いらしいよ」と軽く流しているのですが、どうも私にとっては信じがたいトレンドではある。母にしても、「一般庶民の生活ではなくて、フィクションに近い、ドキドキした暮らしをしている人々の生活」という感じらしく、まるでドラマを見ているように見ているらしい←やっぱりのんきである・・・。どうして、盗聴器をつけるのか?そりゃ、誰かを監視したり、状況把握したりしたいからなのだろうなぁ・・・。目的はわかったにしろ、そうした倫理的規範を超越した行動を、実際にしてしまうというのは、一体どういうことなんだろうか?

 

盗聴:他人の会話を(機器などを用いて)気づかれないように聞くこと。ぬすみぎき。

監視:(1)不都合な事の起こらぬように見張ること。(2)旧刑法で、再犯防止のための付加刑。受刑者の釈放後、一定期間執行するもので、その期間住居移転の自由は認められず、警官によってその生活が監視される。

管理:(1)管轄・運営し、また処理や保守をすること。取り仕切ったり、よい状態を維持したりすること。(2)私法上は、財産などについて、その性質を変更しない範囲で保存・利用・改良を目的とする行為。または、他人の事務について、その内容を現実化するための行為。

 

盗聴>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%97%E8%81%B4 

盗聴法について>

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AF%E7%BD%AA%E6%8D%9C%E6%9F%BB%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E9%80%9A%E4%BF%A1%E5%82%8D%E5%8F%97%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%B3%95%E5%BE%8B

 

盗聴が犯罪だということは、たいていの人がわかるとは思うのですが、ではどんな罪に問われるのかは、詳しくはわからないかもしれません。

断りなく他者の住居施設への侵入 住居侵入罪

有線通信の盗聴 電気通信事業法違反、有線電気通信法違反

特定の相手方への無線通信を傍受し、知りえた事実を他者に漏らす 電波法違反

付きまとい ストーカー規制法違反

他者からの電気供給(盗電)による盗聴器機能の持続 窃盗罪

盗聴器が使用する無線送信電波が、その周波数の使用を禁止されている場合、あるいは制限を超えた電波出力を発生するもの 電波法違反

 

ストーカー法が日本にもできてからずいぶん時間が経ちましたが、そのせいで、盗聴はさらに増えたのか?あるいは、盗聴器を売る人間がいるからこそ、お手軽な手に届く範囲の値段であるから手に入れて使うのか?いろいろ考えてしまいます。

 

する側の人間の心理としては、「愛する人の動向がわかればやりたい」「自分に利益がもたらされるのであればやりたい」という誘惑に打ち克つのは、並大抵のことではなく、相当の努力を要します。ところが、それは犯罪で、やってはいけないとわかっていても、「手に入れられるのだからやってしまおう!」と、どうもハードルが低いことや、「見つからないだろう」という安易な結論への論理も手伝っているのでしょう。

 

私が考え難いのは、同居人である妻の盗聴をする夫・・・。自分が仕事に出かけていて、留守にする時間が長いあいだ、浮気をしているのではないか?という疑惑を持ち、盗聴器を自分の家につける人がけっこうな数いるのだそうです。「うーん、そもそもどうして結婚したんだ?」と、真顔で尋ねてみたくなります。「その程度の信頼度で結婚に踏み切り、財産管理を預け(あるいはシェアし)、子どもも作ったのか?」と、たいへん不思議な気持ちにさせられてしまうのです。

 

ストーカーをしたとしても、住居にまで侵入するというのは、常軌を逸している行為であることは、平常であればわかるものの、募る想いが、ヒトをどんどんエスカレートしていく心理状態というのは、メカニズムとしてはわからないでもないです。ただし、そのへんくらいからが「来た道を戻れるか戻れないか」の分かれ道で、ストーキングが終わったあと、正常な心理のまま残りの人生を暮していけるかどうかのバロメータになると思われます。盗聴をするときのジレンマが、「ずっと見張っていたいが、仕事があるからできない。だから効率や合理を取って盗聴をする」という動機であれば、間違った論理であるにせよ、エスカレートはマイルドでしょう。が、「もっと詳細に隅から隅まで知りたい」と、窓辺や階下に佇みながらも盗聴行為をするのであれば、もう引き返せないところにまで来ているのでしょう。もっと危険を孕む行動に出る可能性はぐんと広がっていきます。そうなると、気づいたときにプロに頼むしかないのですが、警察はアテにできないという苦情ばかりが入ってきます。どうやって自衛したらいいでしょうか?

 

これは大問題です。

 

盗聴をいつされるのか?誰かからされるのか?は、あまり他人事ではなく、引越しやさんの中には、「盗聴器探知サービス」を開始しているところもあります。引越しの季節ですが、若いお嬢さんに一人暮らしを初めてさせる親御さんなどは、このサービスが高いながらも、使っている人が増えているそうです。

 

http://www.call0222.com/service/ansin.html

http://www.welcome-basket.co.jp/tocho_con.html

 

盗聴器探知のサービスそのものが、商売になるほどに蔓延しているわけですよ。

http://www.jmsg.com/

http://www.to-ch.com/

http://www.i-lock.jp/

 

私の家は大丈夫そうなのですが、一人暮らしの方々や、家に財産を置いている方々など、心配な人は、一考する価値はあるかもしれません。「私だけは大丈夫」というのは、この世にあまりないんですよね。母が家にいる我が家は、盗聴をしかける時間がほぼないのですが、今度引っ越すようなことがあれば、サービスを受けてみようかと思います。

 

Loved Oneを亡くしたとき

04/02/2008 にアップした文章です。

 

昨日の授業で、生まれて初めて、身内を亡くした日の人を教えるという不思議な状況に陥りました。そもそも、どうして授業に来てしまったのか?から疑問を呈したのですが、そのあともかなり普段とは違った状況になり、ほぼカウンセリング状態になりました。思うに、こうしたアジャストメント時期に当たるとき、昔であれば、大家族がそれぞれ支えあったり、友だちがいてくれたり、乗り越えられる愛を得られていたのでしょうが、今、携帯が発達し、人々は家ではなく、お勤めに行き、不在者を時間に捕まえられない悶絶があるのでしょう。どうしたらいいのか・・・と思ったときに、普段の生活で会う人々の誰かに、ついついConfine(打ち明ける)してしまうことになるんでしょうね。

 

私は、たまたまカウンセリングの技術や論理を学んだからいいようなものの、素人さんたちは、昔の人ならばまだしも、どのように対応しているのかな・・・と気になりました。泣かれてしまったのですが、それは相手が誰でもよかったわけで、私だから泣いたわけでもなく、それをどのように昇華し、「不在」に順応していくか?に立ち向かえる体力や気力をチェックしてあげられるといいのですが、ひとしきり泣いて、悲しみのどん底まで足をつけない限りは、浮き上がるのは少し難しくなります。

 

わざわざどん底まで下がる必要がある問題というのは少ないですが、人生のある時期やある物事においては、どん底まで下がったほうがいいことがかなりあります。たとえば、この「愛する人を失う」というものがそれ。中途半端な落ち込みや悲しみという感情や、その人がこれまで与えてくれていたことやその人にこれまで与えていたものなどを整理して補償する項目等を考え付かないままの状態にしたまま、「代替存在」で埋めてしまっていいのか?という質問をしてみない人は多いわけです。亡くなった人というのは二度と戻ってきませんが、生きている人の中から似た人を探すという行為に移行するだけで、何も解決していない人は多いのです。もしも、「愛する人を恋で失った場合」であれば、同じタイプの人を好きになり、同じような失敗をしでかし、何度も繰り返す、というのが、メカニズムとしてわかることでしょう。

 

大切な人を失ったことで、環境が変わったというのに、自分だけは変わらないという、ある意味での傲慢さは、ツケを伴っていくわけです。感情だけを大きく優先させることで、行動がより定着化してしまい、考える余地・チャンスをも、愛する人と同時に失ってしまいます。これは大きなロスとなります。

 

ひとりが苦手な人は、おそらく、このどん底まで下がるということが、なかなかしにくいのではないでしょうか?「ひとりでいろいろと考えると、グルグルと悪い方向、悪い方向に物事を考えてしまう」という不安が大きすぎて、とてもひとりではいられない。そして、考えることや、感情的に感じていることを整理できぬまま、誰かに会うことで、それが自分の考えや感じていることなのか、他から入ってきたことなのか、境界線がつかなくなってしまう。適切なアドバイスや、自分を見つめるための材料をくれる他者との話し合いというのは有効ですが、ヒトというのはかなり身勝手なイキモノで、自分の考え方の範疇からは抜け出せないものです。なので、適切なアドバイスや、悩んでいたり落ち込んでいたりする本人の裡側を見つめるための材料を、いつも提供できる人々ばかりが集まるとは限らない。

 

むしろ、落ち込んでいること=悪いこと、とみなすヒトはかなり多く、ただただ「忘れるための明るい材料」をよしとすることも多いです。そうなると、「根本問題」は、ただ横に移動させられただけで、まだそこにある状態が続きます。対峙することを割けただけ、という状態がずっと続き、二度とその根本問題のせいで、またさらなる問題が起きなければいいのですが、ヒトの習慣は学習の成果なので、その習慣をドラマチックに直すことはできかねるので、またもや同じような問題は起きるのです。愛する人がいなくなったがために起きるさまざまな感情の揺れやフィジカルに起きていく諸問題は、ただ続いていきます。いつ起きるのか待っているのは、活火山がいつ噴火するのか?と似たような状態なわけです。

 

私は何度も何人も愛する人をこれまでに失ってきましたが、そのたびにやはり同じように悲しみますし、痛みが軽減することはありません。ただ、ひとつだけ言えることは、いったん底まで落ちてしまったほうが浮き上がるための時間は少なくて済むし、泣いて悲しんだ自分がけなげだったことや、愛した事実をきちんと受け止めて、またその人を失ったあとでも、なんとか生きていけるという自信も持てるようになりました。どうにかして浮き上がり、息継ぎをする術を知っており、その人と過ごした時間や、濃厚だったはずのいろいろな想い出をひとつずつ訪ねることができ、悲しみと対峙した分だけ強くなれたことを実感して、また青い空を見たり、緑の山々を見たり、湖や海のうねりを見たりすることができ、生きていること、その不思議について、感謝をし、その人の分までもがんばろうという気持ちになれます。自分がいかに小さい存在なのか、それでもいかに強く深いものを得てきたのか。

 

愛する人を失うと、生きる気力や意志がなくなってしまうことがあるのはなぜなのでしょうか?おそらく、そもそものところで、砂粒よりも小さいだろう自分を、心の底から認知していないからなのです。そして、同じように、砂粒よりも小さかったであろう愛する人を失ったことで、こんなにも心が動揺し、悲しみ、裂け、痛み、甲斐のないことを、どうしてもやはり認められないからなのです。その人がいてくれたから自分は生きてこられた感謝を、その人がくれたものすべてを胸の中に生き続けさせて、またしっかり歩いていく謙虚さが持てないからなのではないのか?と問うてみることが大切です。

 

今、冷静なときは、こんな問いかけができるのですが、実際に愛する人を失ったときには、そんなことができる人は少ないでしょう。ですから、人はひとりでどん底まで沈むことがなかなかできません。たくさんの家族に囲まれていたり、近所の人たちがもっと近しく、友だちと心の対話もできていたりした時代には、カウンセラーは必要がありませんでした。知恵がある大人たちは、相手にわかる方法でコミュニケーションが取れていたからですし、連綿と続いてきたたくさんの生命体について、輪廻転生や八百万の神などを創造し、心の動揺を鎮める術としてきたからです。

 

科学が進み、神の存在を、死後の世界を、好き勝手に否定することが自由になりました。が、神がいないことも、死後の世界がないことも、証明しきれた科学者は誰ひとりとしていません。ゼロを証明するのは至難の業です。ならば、心が折れたときくらい、愛する人たちが天国では死後も楽しく生きていてほしいと願うくらい、自分に許してあげたらどうでしょうか?私はそうしています。ガンや病気で逝った愛する人は、痛みから解放され、きっと生前にした善行を労われて、倖せにしており、私を見ていてくれていることだと、私は勝手に信じることにしています。そして、私はまだこっちでがんばる。不在はしばらくのあいだで、私がけなげにがんばっていけば、彼らも倖せで、私も倖せで、きっと何かおもしろいことが死後には起きるかもしれない、と、心が折れているときには、思ってもいいではないですか。

 

小さい存在ではあるけれども、連綿と続いていく気が遠くなるくらいの時間の流れの中、私たちは確実に生きており、明日へ何かを繋げているのだから、思いっきり悲しんだあとには、また繋げていく何かのために、けなげに歩いていくしかないようです。

 

とはいえ、私も次に誰かを亡くしたときに、こう自分に言い聞かせられるのかは、自信がありません。でも、そのつもりです。