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10/04/2007 にアップした文章です。

 

愛想がいい、という表現に代表されるように、人当たりについては人それぞれだという観念が多いのでしょうが、実際のところは、「人に帰属」しているものではなく、「環境に反応」しているということもままあり、私は人柄を決め付けるのは、ここでも苦手です。昨日の『沈黙はぬるいシャワー?冷たい滝?』の続きなのですが、書ききれなかった、相手との関係について追っかけ。口数が多い、というのも、ちょっと考えてみたいと思います。

そもそも、人はなぜ表現するのか?私の答えはかなり明快で、まずは原感情である、「心地いい-気持ち悪い」から発したものを考えます。余計な口を利く人の中には、この「自分の心地よさバロメータ」に左右される人は多いように思えます。絵画や詩、料理や工作などの表現方法に比べると、インスタントであるこの言葉を発するという行為は、かなりの人が「軽んじて使っている」と思えるわけです。こうして、エッセイを日々書き続ける私にしても同じことで、本当に熟慮しているかどうか?自己中心的に物事を済ませていないか?など、あら捜しをされたらたいへんです(汗)。

もうひとつ、言葉を発する理由が、母が年がら年中、たまに西さんがやるように、「頭の中での考えを言葉に発することにより強化する」という役割をフルに使っている場合があり、相手に見せるわけでもなく、確認の意味があるわけでもないのに、話している人というのは、かなり多い数、実在します。私はやらないので、気持ちはわからないのですが、脳の使い方の問題なのかもしれません。

「人に聞かせるためではない言葉」というのは、私の場合は、Cursing(雑言)くらいで、しかもたいていは英語ですかね・・・。日本語で言うと、他者にわかってしまうので、コレは便利に使っています(笑)。何か物事がうまく行かなかったときには、Shit!(とてもじゃないですが、日本語では同じことは言えません・・・)。痛いときにはOuch! ちょっとした失敗をしたときには、Oops!(おっととと、だとか、やばっ!のような感じかなぁ)。と、人様に聞かせないためには、けっこう便利なんだよなぁ(笑)。自分の失敗や痛みや苛立ちを表現したい人はいるのかもしれませんが、私は喜怒哀楽が元々激しいと、小さい頃からよく怒られていたし、確かに振幅の差がありすぎる自覚もあるので、他人様を巻き込まないように、常に心がけています。そのせいなのか、「会話する必要のない言葉」というのに関して、どうも見極めが甘いようです。あるいは、私はあまりに冷酷で淡白なので、アメリカ暮らしが長くて心地よかったせいもあり、「他人のSOSに鈍感」なのかもしれないですね・・・。相手としては、「拾ってくれることを祈るような気持ち」で発している独り言は多いのかもしれません。が、私は私に向けられている言葉しか、基本的には拾わないのです。例外は子どもと老人でしょうか。迷子や暇を持て余している方々などには、懇切丁寧に立ち止まって、まったくの他人でも躊躇しつつ、会話をつなげようとします。

校長センセがコメントで書かれていた、「長時間いっしょになる飛行機での隣の人」ですが、私は、「挨拶はするが会話に発展させない」が基本です。自分が後から座ったときと、相手が来たときに挨拶は交わしますが、たいていの場合は、相手が能動的に話しかけない限り、自分からの発話はありません。どうしても気になる行動に出た場合に、質問するということが、過去、何度か発生しました。私の大好きな作家の本を読んでいたりだとか、外国人で日本語の教材で勉強をしてつまっていたりとか、明らかに私の近所に行くところだとか、そういうことですか・・・。あまりに袖を摺り合わせることに慣れきっている方々に、余計な気を使わせてもいけないので、私は、相手に合わせるようにしています。逆に、旅に慣れていない方とは疲れるので私のほうが遠慮です。私は自分が腰痛持ちなので、体勢をよく変えるし、いつも通路側でないと気がすまないし、眠れなければ電気はつけておくし、そのことで会話が発生することはありますが、好きな時間に眠りたいだろうし、好きに時間を潰したいだろうし、と、相手に下駄を預けてしまう方式です。ただ、基本態度としては、ドラマのような出会いはない、に1票なので(笑)、基本的には眠ることに終始努力しています。電車やその他で、まったくの他人に出会ったときには、また別物なのですが(あまりいい解答ではなかったんだろうな・・・爆)。

大昔、フリーになったばかりの古館伊知郎氏が言っていたのですが、「沈黙が怖いから話してしまう」というもの。彼の場合は、沈黙している時間の質と、話しているときの時間の質のギャップはとても大きいのでしょう。未だに思うのですが、彼のF-1中継に勝るものはないですね。プロレスもそうでしたが、あの頭の回転の速さは、ニュースステーションに生かされているとは、私はあまり思っておらず・・・(あ、どうでもいいことだった・・・)。にらみ合いやテリトリー相互認知とごくごく似たことだと思えるのですが、動物でも、自分のテリトリーを確保するときに、マーキングをしてある領域に誰かが入ってくると、唸りあいをしますよねぇ・・・。私はそういった意味での、「私はあなたの敵ではないよ」というシグナルは送るのですが、そのあとに関しては、沈黙は大いに許容範囲です。英語が話せるようになるまでは、「沈黙が怖い」という感覚はありました。それは一重に、「相手が自分の敵なのかどうか」が見極められないから、ということに尽きていたと、今ならば言えることなのです。

一旦、自分の敵などではなく、自分のテリトリーやプライバシーを侵害しない人・モノと定義づけられた場合、私は、沈黙はまったく大丈夫です。友人と喫茶店にいても、居酒屋やレストランにいても、無理やり会話を続けようという気はなく、湧いてくる頭の回転に任せているところがあります。私のキャパだけではなく、相手の心持や状態、キャパにも左右されているので、守備範囲が広いほうの私が合わせる、というのが、礼儀だと考えているせいですか・・・。私を多少なりとも知っている人は、わかってくれているので、沈黙している私を怖いと思うわけもないので、そうさせてもらっています。「あー、この人は黙っていても頭の中がパチパチと、コンピューターのように動いているんだろうな」と、友人たちはみな、自然にみなしてくれているので、かなり助かります(笑)。

しかし、面接や単発の通訳の仕事や英語学校の生徒さんなどで、初対面の人とは、過去1年でおそらく200人以上には会いましたが、私は「愛想の悪いやつ」と評価されたことは一度もありません。むしろ、「口数が多い明るい人」と思われてしまうようです。そう思ってくれる誤解は、それで私のアドバンテージなんで、いいんですけどね♪

が、仕事柄、話し疲れるということは、今はまだ体験したことがなく、「コレも伝えたい。アレも伝えたい」と時間が足りない感が多いので助かっています。いつか、この発言をしたことを忘れて、傲慢にも「話し疲れちゃうよね」などと言うことがあるのでしょうか?(笑)

実際のところ、私だけでも、自分という人間からの事情ではなく、環境に左右されている例がこれだけ多いのですから、やはり自分だけではなく、社会的影響Social Influenceの力はでかいのではないか?と、他人を見るときにも考えてあげるといいんじゃない?と、提案させていただきたい。

「相手は自分を映す鏡である」というのも事実ではありますが、それだけではなく、「自分は相手を映す鏡」でもあり、その鏡の存在そのものが、日光や温度やロケーションや構成する人々やその目的や質などに左右されているということを、ぜひぜひ忘れないでいただきたいものです。そして、自分が大切に思っている人や、好もしく思っている人々が、どのくらいの数の顔を自分に見せてくれているのか?と、その数の多さに歓べるくらいのゆとりがあってほしいものなのです。「大勢の女とつきあうよりも1人の女を深く知ったほうがいい」と言った男の人は古今東西多いですが、こんなことを知っていたからかもしれません。

ただし、意味もなく不機嫌に沈黙している、依怙地だったり、いじわるだったり、自己中心的な動機も、混ざっていることは確かです(笑)。それがあまりに多い場合は、その人の性格や人格なので、会話がたくさん欲しい人は早いところ見切りをつけたほうがいい場合もあります(笑)。

会話する関係の数は、実際はあまり重要ではなく、しかも、会話する関係の中でも、会話の数ではなく会話の質が重要なのですが、そう思わない人たちはけっこうまだまだたくさんいるのかもしれません。冷静な私が思うに、人間の会話の7割から9割は無駄が多いんだと思うんですよ(笑)。ただ、教える立場としては、アレもコレもヒントにしていただけるかもしれないと、そこからザル目の細かいことを祈りながら発しているというところ・・・。仕事場でのメモやメールなどでも、要約版でもなく(そのためにE-mailが開発されたってぇのに)ダラダラと書いている人はいますよね・・・。考えてみるのもいいかもしれません。