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10/27/2007にアップした文章です。

 

商売を始めるということは、経済的ジェットコースターに乗ることなのだ。貧困を感じたときはありましたよ・・・。西さんは、エリートとまで分類されずとも、まぁ、平均よりはいいほうのビジネスマンだったので、私は子どもにかかる分を、すべて学費として使って来られましたから。商売で出て行くお金というのは、計画以上でした。それにしても、どうしてこうも日本は格差社会になったのかなぁ、と、アメリカに住んでその格差を見てきた私は、つくづく考えています。大まかな答えはわかっています。社会学的連鎖なわけです。家庭ごとでの進化と学習の連鎖。『菊次郎とさき』で、たけしの母親であるさきが言っていた通り;貧乏だから教育をまともに受けられない、教育を受けられないとまともな職業に就けない。まともな職業でないといいお給料がもらえない。という連鎖なわけです。教育は本当に平等になってきているのか?ここが問題だよね・・・。

そもそも、「平等」という考えは、幻想である、と、私は冷淡に考えています。なので、意識をして「公平」という言葉で置き換えることが多いです。

平等:(1)差別なく、みなひとしなみである・こと(さま)。⇔不平等 (2)近代民主主義の基本的政治理念の一。すべての個人が身分・性別などと無関係に等しい人格的価値を有すること。(3)〔仏〕 真理の立場から見れば、事物が独立しているのではなく、同一の在り方をしていること。⇔差別(しやべつ)
公平:かたよることなく、すべてを同等に扱う・こと(さま)。主観を交えない・こと(さま)。⇔不公平
同等:(1)等級・程度が同じである・こと(さま)。(2)資格・技量が同じである・こと(さま)。(3) ⇒同値(どうち)
主観:(1)対象について認識・行為・評価などを行う意識のはたらき、またそのはたらきをなす者。通例、個別的な心理学的自我と同一視されるが、カントの認識論では個別的内容を超えた超個人的な形式としての主観(超越論的主観)を考え、これが客観的認識を可能にするとする。→主体 (2)自分ひとりだけの考え。⇔客観
客観:(1)主観の認識・行為の対象となるもの。主観に現れるもの。世界。かっかん。(2)特定の認識作用や関心を超えた一般的ないし普遍的なもの。主観から独立して存在するもの。客体。かっかん。⇔主観

こんな難しい概念を、日々の生活で切り分けてチャカチャカスイッチを変えて考えていくことは、たいへんに難しいことです。しかも、ヒトはSelf(自己)を中心に生きており、物理的にも視点などの感覚を含め、それしかできない、という限界だらけです。そこを踏まえた上で、「自分が扱ってほしいように他人を扱う」という態度を持てるか持てないか?が分かれ目になるわけです。

貧困に喘いでいる人々は確実に増えています。
貧困率について>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%A7%E5%9B%B0%E7%8E%87 2005年には、日本は世界で2番目にランクしています。
ただし、どんな統計でも平均化することでの無理や語弊は生まれますので、2位というのを鵜呑みにしてはいけないとは考えます。もう少し、他の軸を加えて考えていく必要はあるのです。

資本主義においては、やはりお金がモノを言う。民主主義においては、平等な財産の分割はありえない。その上、それなりの教育を身につけなければ、技術もつかないし、いわゆるいい職には就けず、「食べていくのが必至」状態から、なかなか抜け出せないものなのでしょう。だとしたならば、国家が公平なモノの見方をし、誰でも受けられる教育制度を考えていかなければならないわけですが、どうもうまく機能していないらしい。

私的な意見では、文部科学省は山積された問題を解決できるとは、自分たち自身でも考えてはいないようだし(そりゃ、公的にはがんばっていることを見せなければならないわけですが。いじめ問題を対処している姿を見ても、どうも希望は持てない・・・)、ハローワークなどでの補助金なども門戸が開けたかのように見える、実質的な補助金ダウンではあるような気がします(2年以上しなければ数字になって顕れないにしろ)。

そもそも、心の問題のほうが大きいのかもしれない。「出世したいと思わない」というのは、もう少し言及していかねばならぬことで、その代わりに「専門職として生きたい」「家族を大切にしたい」というのがあるのかもしれません。多様化は、進化論を考えればいいことです。ただし、「今の自分よりも一回りも二回りも上を行く志」に欠けるというのは、あまりいい心の状態ではなく、諦観・無力感・失望感などを持つことが日常化しているのだとしたら、国力や社会としては大問題です。アメリカでも、アメリカンドリームを持たぬアメリカ人を山ほど見ました。その代わり、アメリカンドリームを掴もうとする移民たちをたくさん見ました。そして、富裕層に属す200余年の歴史の中で伝統を持った家々は、守ることに懸命で、積極的に新たなアメリカンドリームを求めることは稀でした。

個々人が持つ態度、全体として、成功はしたけれども自分も通ってきた道を考えて、他人に差し伸べる余地を持っている人間が多いか否か?

これが、社会の連鎖を断ち切るキーになると思われるのです。大金持ちが寄付という話も、日本での規模はまだまだ小さく、「ちょっとしたいい話」もアメリカほど溢れておらず、私は、うれし涙はあまり流さない日々を送っています。アメリカに居るときよりもニュースが画一的なせいなのかなぁ・・・。Noblesse oblige意識はまだまだ低い気がします。「ボランティアはそもそも自分のためにやっている」と言い切れる率も低い。日本の宗教の在り方がここで大きく現れています。

持っている所持品・金を自分のためには使うが、他人のためにはなかなか使わない、というのが横行すると、やはり累計的に見ていくと、莫大なことになります。自分のためには大いなる消費生活をする、というのも、ゴミ問題と同様、累計的に見ていくと、ものすごい大きなものになります。通販でBilly Blanksが売れた値段、すごいですよね(笑)。50億円?その分、まるまる教育の機会を与えられない子どもたちに廻せたら、ものすごい花が咲くんですが・・・。その中にどれだけの大輪があるのか、想像しただけでワクワクしますが・・・(汗)。

私自身が、その連鎖の中に埋もれる予定だったので、英語が話せるようになったり、ヘリが飛ばせるようになったりするとは思わないで来たかどうか?私は、生命力の強いサバイバーだったので、いつもどこかで楽観的にひまわりの大輪を咲かせることができると思ってきました。信じる力は絶大なパワーを持ちます。なので、私は教えることが好きだということにも繋がります。未だに母には、英語が「それほど話せるわけない」と思われていますが(笑)。

私は、ひもじかった頃のことを憶えていますね。もう忘れたほうがいいんでしょうか?もうジャガイモとかカボチャとかおかゆなどは食べたくはなく、できたら避けたい食べ物です。高価でしょっちゅう買えなかったせいから来ているのか、お菓子も食べません。こうして染み付いていることが私を動かし、誰かがサバイバルできる足しになればいいな、と思っています。