改悛・悔悟などと同じ意味になるのですが、悔い改めることはなかなか難しいものです。まずは、自分の過ちに気づくことがやたらと難しい・・・。そして、それがなぜなのか?をしっかり見つめて、二度と起こさないようにする対策を立てて、それを実行するのは、うんと難しい・・・。
懺悔の意味は、日本人が考えているものと、他の文化で生まれ育った人とは少しズレがあるかもしれません。
仏教で,罪を悔いて許しを請うこと。懺は kṣamaの音写を略したもので,「忍」の意。罪を許して忍ぶようにと他人に要請すること。悔は過去の罪を悔いて,仏,菩薩,目上の者,大衆の前に告白し,わびること。
キリスト教で,神の代理とされる司祭に罪を告白し,ゆるしと償いの指定を求めること。告解として制度化されたが,このような形式を認めないプロテスタントの教会もある。
Ispoved’
ロシアの作家 L.トルストイの深刻な告白の書。 1879年書上げ,82年に加筆して雑誌『ロシア思想』に発表したが,すぐに発禁になった。『アンナ・カレーニナ』執筆中からトルストイは人生の意義や目的,神,死,信仰などの問題をめぐって,自殺をしかねないほど真剣に思い悩みはじめるが,この精神的苦悶から神を認識することによって危機を脱するまでのプロセスを赤裸々に告白したもの。
日本では、神仏があまりに日常的すぎて、改めて神と対峙するような機会が少ないのかも?と思うことが間々あります。しかも、日常的には人々に揉まれつつ共存している状態なので、神よりも人を指針・目安・バロメータにすることが多く、つきあう人々に因って行動や心持ちが変わることが多いのでしょう。
個人主義の文化圏では、他人の顔色よりも、神の示す正しい道 Righteous lifeが最も尊いものと位置づけられているので、個々人はそれぞれ神と対峙する時間が多いのです。
それゆえ、日本では「役割重視」となってしまい、男女・年齢・仕事の仕方・夫婦の関係性・親子では子どもの発達ステージなどなど、「ふさわしい取るべき行動」がかなり多くの人により、「多数決化」されており、個人のユニークさや、状況によって変わるVariable(変化のある数値)にはあまりこだわらない傾向があります。
神から許されるというのは、どうやって証明されるのか?というのは、気の長いことだなぁといつも感心するのですが、悔い改め行動をしっかりと変えて、時間が経過したのち、倖せになっている、ということで証明されているようです。多くの人々が未だ宗教心を失わず、信仰をなんらかの形で持っていることで、正しく生きていきたいという欲の強さは、見ていても本当に助かった!という気持ちになります。
私が懺悔をしているか?他者にすることはあまりないですねぇ・・・。謝罪することはありますけども、懺悔ほどのマグニチュードで悪いことは、昨今していない感じです(笑)。大人になったと自覚できる前は、よく懺悔したものです (・・;)
最近、思い悩むことは、仕事の量の多さがメインなので、懺悔するほどの悪いことをする時間すらない感じですね。みなさんはどうでしょうか?自分が目指す、神に認められるRighteous way of lifeをしっかり持っておりますか?
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