大まかに出発点として語ることができるとすれば、ヒトは成功体験と失敗体験を積み重ねて生きていきます。しかも、ヒトは積み重ねの存在なので、過去の成功や失敗は「なかったこと」にはできず、リセットしたとしても、その傾向は残ります。できなかったことがいきなりできるようはならないし、できたことができなくなるにもそれなりにプロセスを要します。しかも、そこに環境や難易度などもあって、複雑にからんでくるわけですね・・・。
日本の文化の面倒くさいところは、「みんなで他のみんなを見張っている環境」であることです。純粋にひとりになれることは少なく、仕事もチームでやることの方が多いですし、作品や成果も他者に「受け容れられるか」「評価されるか」などという他者・多人数の中に個人が埋もれている、ひとりがたくさんいて社会が形成されるのが「当たり前」という感覚ですね。
ですから、ここで問題なのは、そもそもの成功と失敗をどう評価・査定するか?というのがひとつ。もうひとつは、自分以外の誰かが見ているものや見ていないものに関しての査定や努力の差異が出てしまうこと。3つめは、誰よりも抜きんでてできずともよく、自分の満足感よりは他者からの評価で決断することが多いかもしれない危惧。
- そもそもの成功・失敗の査定の曖昧さ
- 誰かが見ているか見ていないかで努力や査定が変動する
- 行動の努力の発露・動機は他者が認めてくれるかどうかーあるいは低い評価にならないように
この中間地点の「まぁ、大丈夫か」「OK」「フツーか」という評価は、大勢から抜きんでる成功でもなく、誰かに蔑ろにされるわけでもないので、ここはがんばらない可能性も高いのです。
しかも失敗体験は隠しておけるのであれば、隠し通したい、努力したくはない、と帰結することも多いのです。
成功に関しては、挫折、フツーになってしまわないために努力することはあっても、もっともっと上手になるためにそもそも成功していることの上の上を目指すことも、機会数としては少なくなるのが、日本文化です。
私は1988年渡米し、20年弱、アメリカで過ごしました。できるアメリカ人ほど、いつも努力してがんばるんですよね・・・。小さいことであっても、自分のMAXを捧げてくれるのでびっくりした覚えがあります。こんな夜中に疲れているだろうに、100万ドルの笑顔って・・・。ありがとう(^^♪ と歓んだこともあり(笑)。
とにかくすべてを成功体験とするために、前に前に進むヒトも多く、多様的なので、その努力の箇所や度合なども個々人によってものすごく変わります。普通だからいい、ということもないですし、私は今普通だけど、もうちょっとがんばる、などという前のめりな感じが私は好きでした。
そして、私はパチンコ台で『花の慶次』に出遭います。あら、昔の武士でこんなにアメリカンなヒトがいるのねぇ、とびっくりしたわけですね(笑)。成功にしていく、ってとっても大切です。少なくとも自分の中でケリをつけるようにするクセがついていることは、とっても大切です!みなさまはいかがですか?
コメントを投稿するにはログインしてください。