04/20/2007 にアップした文章です。
なんだかなぁ、1日以上が過ぎた報道を見ていて、またもや不思議な感覚に突き落とされ、どうもこの不可思議から抜け出せないでいるところ。政治と暴力は切っても切れない関係ではないのか?なのに、どうしてこうも正々堂々と当たり前のことを言うために、報道陣やTVや紙面やその他を使い、国民全体のお金を無駄遣いするのか・・・;広告やその他、私たちが消費者として支払っている商品に含まれる一部(かなりの割合)が、こうしたメディアを支えるスポンサーになっている企業から支払われているがゆえに・・・。こう・・・ためになる話をしてくれるならば、「授業料」という名目で、お金を払うことは辞さないのだけれども、どうしてこういう無駄遣いを平然と、正義を振りかざして止まないだけの方法論しか持たないかなぁ・・・。
元ニュースはコレ;
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/nagasaki/news/20070418k0000e040025000c.html
何を考えているんだか知らないけれども、大昔から暗殺は政治家には「まず気をつけねばならぬもの」ではなかったのか?平和ボケしているというのは、このへんからも言われることじゃーないのか?もちろん、テロルを許していいなどとは譲歩し、暴力の正当性を主張するわけがないのだけれども、なんだかわかりきったことをさも大そうに述べることが、どうも芝居がかっていて背筋がゾクゾクします。
歴史的にも数々の暗殺が実行されており、未遂で終わったものもあれば、惜しくて悔やまれる喪失もたくさんありました。が、惜しまれるほどの材でない人が、そもそも政治家になろうと志して政治家を続けたり、暴力に対する準備がない人が、ぼーっと起きてからいきり立つようでは、政治の本質がわかっていないわけなのです。どうなのよ?このへんは・・・。昨日まではエプロンをしていた;昨日まではスーパーキャブで集金をしていた;昨日まではオフィスワークをしていた;昨日まではお笑いをしていた;昨日までは芸能人だった、などなどの人々が、「我こそは」と思うときに、「たとえ生命を賭しても」という覚悟があるのかどうか、ぜひ、ここで国民が問うてみたほうがいいのでしょう。
衝撃的な映像がダメな方は見ないでください。浅沼稲次郎の暗殺事件の映像あるんですね・・・。http://youtubejapan.blog72.fc2.com/blog-entry-921.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E4%BA%8C%E7%9F%A2
ちなみに犯人は、その後、自殺を遂げています。http://www004.upp.so-net.ne.jp/kuhiwo/dazai/otoya.html
http://homepage3.nifty.com/mrbfkisami02/page019.html
http://www.ishiikazumasa.com/reference/otoya/farewell_father.html
これが代表的な近年の日本での暗殺ですが、江戸時代は辻斬りに見せかけてまでもして、暗殺された政治家は多い。幕末などは、勤皇の志士たちが死体の山が出来るほどに殺されました。井伊直弼が桜田御門で雪の日の朝に暗殺されたことは、教科書にも載っていることです。明治に入ってからも、キリがないほどの人命が絶たれました。横井小楠・広沢真臣・大久保利通・伊藤博文・森有礼・原敬と、枚挙に暇がありません。歴史の教科書みたいになっちゃったけど(笑)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
この中にもあるように、みなさんが生きていた時代にも、たくさんのテロリズムは起きており、それについて国民のために、楯になってもらいたい政治家が、暴力を「許さない!」「ゼッタイにあってはならない!」と、至極当然のことを、息巻いていてどうなるんだか・・・(汗)。しかも、起きる前にどんな対策を立てていたのか?と振り返ると、本当にオソマツなのです・・・。きちんと警護を行っている政治家の割合はどれくらいなのか?公人として生きていくのが、どれだけつらいことなのか?裏表なく、自分の私生活も犠牲にせねばならない人生であっても、それだけの価値があるがゆえに政治家になろう!という志を抱いたはずだ、と、私などはナイーブに信じたいわけです。
世界まで手を広げたら、アメリカでもたくさんの血が流れましたし、ロシアなどでもひどい惨劇が起きています。昔むかし、ローマ時代からあったことなのですから、政治家たるもの、暴力への警戒は怠ってはならぬのです。
中でも忘れられないのは、John F. Kennedy大統領暗殺で、私はわずか11歳で『ダラスの熱い日』を読んだのです。アメリカに行ってからも、この事件については考えさせられることばかりでしたし、その後、たくさんの不運に遭遇したケネディ家全体についても、目撃者となりました。たくさんのアメリカ人が、忘れていない事件で、2039年のファイルの全公開が待ち遠しい人々ばかりです。私もそれまでは生きていたいと思うのよ(笑)。
他にも、American Civil Rights Movementでは、本当にたくさんの人が暗殺されました。40年経った今でも、まだ裁判が継続されているものもあります。アメリカは自国の歴史にケリをつけるため、公平さを欠かぬよう、まだまだ前向きに対処しています。そこのところは、日本のメディアにはなかなか強調されません。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E6%B0%91%E6%A8%A9%E9%81%8B%E5%8B%95 この映画欄のところは、たいへん乏しい・・・。けれども、親切に投稿するほど私には今時間がないのですわ・・・。
こうしたたくさんの壮絶さを知っていて政治家になったんだよね?そうであってほしいのだけれども、違うの?と、ひとりひとりに聞いて廻りたい気分になりました。こう考えるのも、高所を専門にやる足場鳶(とび)さんたちの仕事を実際に見ることができたこともあります。彼らは、毎日、骨身を削って危険に曝されており、生命保険などにも入れない。入れてくれる保険会社があっても、条件はたいへんに厳しい。トラックの運転手さんたちの仕事も見ました。不眠不休というのは、彼らのことを指すくらいに、過酷な仕事です。看護婦さんたちも同じで、人々の死を毎日見つめながら、自分の魂まで削るほどのつらい感情の浮き沈みに耐えておられます。「先生」と呼ばれるようになって、政治家は、テロルに対して何を考えているのか?当然の、職業リスクだと思ってくれなければ、こっちのほうがやってらんないよっ!という気分なのです。正直に真面目にやっている人々に対して、顔向けできるのかよっ!と、まで思うわけなのです。
では、私自身はどうなのか?ええ、ええ、やくざな稼業で、ラクして儲ける道を探しているように見受けられるでしょう。そう感じる方には弁明いたしませんし、効率や合理性を求める傾向がいやらしいというのは事実です。でも、またもや新しいプロジェクトが立ち上がりそうなので(複数)、やはり身を粉にして奔走しなければならなくなりそうです。通訳の短期のバイトも、真剣にやりますよぅ。しかし、昨日も感じたのですが、英語であっても、教えるってのはタダでもやりたいことです。楽しいです。しかも、みんなすごい努力してくれるんだよねぇ。捨てたもんじゃーないなぁ、と、本当に笑みばかりの午後でした。
政治について、私は大した期待はしていないのですが、この日曜日の市議会選、心して行ってきます♪
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