01/17/2007 にアップした文章です。
しつこく、山本周五郎のテーマ・タイトルシリーズに戻ります。私は現在、長塚節(たかし)の『土』を電車の中で読んでおり(横田基地での通訳が始まりました。おそらく2月第1週くらいまで続くかな)、家では、家池波正太郎の大全集の『鬼平犯科帳』のところから(第4巻からおそらく第20巻くらいまで?)を読んでいます。だって、分厚くてバッグに入れて持ち歩けない(爆)。850ページもあるんだもん・・・。ただ、やはり『土』を読んでいて沁みてくるのは、山本周五郎を読んだ直後だから、というのはあります。Doppler Effect:ドップラー効果(音波などの波源と観測者との一方または双方が媒質に対して運動しているとき、観測者によって測定される波動の振動数が静止の場合と異なる現象。ドップラーが発見。波源と観測者が近づきつつあれば振動数は高く、遠ざかりつつあれば低くなる。光の場合には両者の相対速度だけで振動数の変化が決まる。)のようですね。
無償:(1)報酬のないこと。(2)無料であること。代価を払わないこと。
山本周五郎作品のなかで、「無償」について徹底して読みたかったら、『さぶ』を読むのがイチバンなのだろうと思います。このテーマ・コレクションは、短編から中編を集めたものです。『さぶ』のテーマは、「代償を求めない無償の献身」なのです。
人の美徳のなかにはさまざまなものがありますが、私の場合には、「無償の献身」はありえない。自嘲してしまうほどに、打算的で効率的で合理的なのです。そもそも、献身(自分の身をささげて尽くすこと。ある物事や人のために、自分を犠牲にして力を尽くすこと)というのが、私の中では「やらざるべきもの」となっています。なぜなのか?相手に「こちらが犠牲になっていること」を背負わせるのは、さぞかし、バレたときに苦痛だろうと思うのです。私がそんな相手ができたらつらくてつらくて、とてもじゃないが生きていけない。恩義を受けることはしますが、「犠牲(目的のために身命をなげうって尽くすこと。ある物事の達成のために、かけがえのないものを捧げること)」になられた日には、とてもじゃないが、生涯頭が上がらず、対等で公平なおつきあいができなくなってしまいます。恩義を感じることであれば、「恩返しをすればいい」と思えるのですが、身命までなげうってもらい、その人の人生まで損ねたり変化した場合、私はどうしたらいいんだよ?と、考えるだけで胸が詰まってしまう・・・。
ただし、「代償を求めない」というのには、たいへんに共感できるので、日ごろ、見返りは一切考えないように、人に対しては対峙しています。
奉仕:(1)国家・社会・目上の者などに利害を考えずにつくすこと。(2)サービスとして特に安く売ること。サービス。(3)神仏・師・主君などにつつしんでつかえること。奉事
代償:(1)他人に与えた損害のつぐないとして、それに相応するものを出すこと。また、そのもの。(2)目標を達成するために払ったもの。失ったもの。代価。(3)心理的・生理的に欠けたものを補う働き。
もちろん、交通事故の被害者などになったら、当然、その損害はいただきますよ(笑)。治療費や、動けなかったあいだの日銭など。が、誰かに軽く何かを頼まれたときに、ビジネス以外では、特に何も代償を求めないことは、私の習慣にしています。
主婦業だけをもしも私がやっており、こうした不満体質であると(苦笑)、主婦業という仕事に関しての鬱屈を、西さんに対して「こんだけやってあげてるのに」「なんで?」と不満タラタラになったと思うので、私は主婦を選びませんでした。学生をずっと続けて、西さんにも家事を分担してもらっていました。経済的に自分の食い扶持を出すために、不動産転がしをやったり、声が掛かれば翻訳や通訳をやったり、と、自分に見合った賢い選択だったと思うのです。主婦業には、間尺に合わない損が多い。24時間の仕事だし、子育ても含まれればとんだことになってしまいます。そのせいもあり、病気のこともあり、私は子どもを持たなかった。正解だったと思います。
チャットをさんざっぱらやっていた頃には、タダで山ほど翻訳などもしましたし、生活の知恵情報を流しだしましたが、それも代償を求めたことはありません。好きでやっていることですし、やったことで、究極的にオトクなのはむしろ私なわけです。どんな奉仕も、最後のところには、自分に戻ります。ボランティアも同じことです。物質的な代償ではなくとも、自己の中での範囲であれば、やはり精神的な代償として、自尊心を膨らますための満足感や充実感などは、きちんともらえることになっているわけです。なので、私は、「真の奉仕」は、やはり山本周五郎が描くように、「死」を以ってしか実現しえないものだと考えています。
私は、やはり「生きていてナンボのもん」と考えており、自分の生命を投げ打ってまで、誰かに奉仕したこともなければ、献身したこともありません。どんなに時間を使おうが、どんなにお金を使おうが、どんなに心を砕こうが、やはり「ソレ」を選んだのは自分であり、「させていただく」とは思いもすれこそ、「やってやっている」とは思えないでいます。
そんな、ある人の人生を左右してしまうような施しや献身をするのは、結局のところ、「与えた側」がその場からいなくなり、もう現れない、という条件がつかなければ、やはり無償にはカウントされないわけです。でなければ、「与えた側」が優位に立つだけで、「与えられた側」は施しも献身も要らなかったことに陥ってしまうことになると思うのです。
どうしても大それた無償の献身や奉仕がしたいのであれば、「匿名」は使うことができ、それはいろいろな人が体験していると思います。私も、「あるひとり」としての奉仕はさせていただいていますが、「それを言っちゃぁおしまいよ」がここにあるような気がするのです。特に私の場合は、今後、恋愛がらみはあるわけもないので、言う必要もなく、これは通さねばならぬ、と思うわけです>恋愛要素の可能性が少しでもある場合には、やはり名乗り出たほうがいい奉仕があるかもしれない。シンデレラストーリーや、足長おじさんなどに象徴されるように・・・。
なので、親子や友人や職場や師弟関係などで、「やってやった」を吹聴するやつは信じてはならぬし(爆)、ボランティアをしていることを言える人は、ボランティアをしていることに酔っているか、自分のためにやっているとみなしていいのです。
山本周五郎のテーマ・コレクションの中では、「無償」に限りなく近い献身や奉仕が見られます。「関われないけれども与える」「死んでもいいから与える」というのは、やはり深い。日本人が武士道を美と感じるのは、この「無償」に近いものを、主従関係に見ることができるからかもしれません。確かに、俸禄をもらっているので、当たり前といえば当たり前なのですが、それでも死や追放を以って身を賭することは、美しいです。
無償を考えつつも、私はここのところ、母に無償を強いているようなところがありました・・・。反省せねば・・・。通訳のお金の半分くらい、母にあげよう・・・←書いたからそうしないとね(爆)。
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