実際これについては、長さで気付いている生徒さんも多いです。同じことを言うにも、英語は長い!と。コレは漢字のせいだけではなくて、本当に結果論としてそうなっちゃうんですね。
その理由は、英語の本質が、
- 距離感
- 立ち位置・目線
- 考え方
を入れ込まないと成立しない、コミュニケーションが取れない、理解されない、という構造だからです。しかも、英語を話す人々の人口はそもそも多い。
母語として話す人は5億人強程度ではあるけれども、第二言語として話す人は多いのです。
↑小さくて見づらいかも、だけど。
なぜ英語が公用語か?というのは、たくさんの言語の中でも文法がかなり簡易なので、他のヨーロッパ諸国の人々が学びやすいというのがあると思います。日本人をはじめとするアジア人には難しいけど(笑)。
言葉を尽くす理由は、
- そもそも相手が察する能力があるとは限らない
- そもそも相手の思想や傾向、論理や性格がわかるとは限らない
- そもそも相手が得意とする話の内容なのかどうか、今の話の内容をどこまで理解しているか、わからない
ということがあるわけです。なぜならば多様的だから。特に、世界の公用語になるには、このような前提があるほうが言語としては無理がない。
日本のように文化が「水準・普通・平均」に集中しすぎていて、広がりが少ない場合、この平均から外れた人には生きづらい半面、真ん中に近い人々にとっては、言葉を尽くす理由もなければ、前提も要らないわけです。
だから、日本語をそのまま日本語に訳すことが英語だと思っているとしたら、やはり大間違いで、そこは端折りすぎていたり、相手に「察すること・空気を読むこと」をとても大きく期待しているものを、そのまま英語にするので、上記の3点の「限らない・わからない」が発生します。
ゆえに言葉を尽くす必要性があり、「普通は、みんなは」というのが通じないのです。普通ではない環境で育ったり、考え方を持っている人など、行動様式の違いなどを、尊重しない限り、差別ですからね・・・。(・・;)
そして、私のようにかなり小さい頃から、違う考え方をしたり、着目ポイントがとっても下だったり(地面とか、虫とかね・・・笑)、モノによってはものすごく俯瞰して物事を観たりしていると、このズレをいちいち話していい環境のほうが、ぐーんとフィット感があるわけです。だからこそ、英語はかなりすんなり聴けて話せるようになったんだろうと思うのです。
心が納得したというか・・・。
しかも勉強をしないほうがいいという新説を、やはり日本では受け入れてもらえず (・・;) 私はまだまだ孤独な気持ちでおりますが、それでもあれよこれよ、と手を尽くすだけではなく、説明するのに言葉を尽くしているのでした。押してもダメなら引いてみな、とか、これがダメならこっちだ!とかね・・・。
その日々はさほど悪いものではなくて、本当に楽しい日々なのです。みんな違っておもしろい。と本当に心から思うようになってきて、生きていくのが本当にラクになりました。
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