生死に対する感情

04/14/2008 にアップした文章です。

 

お葬式をイベント化しているゲンダイ日本人にとって、どうも死生観というのをしっかり持っている人々は、戦中・戦後まもなくに比べて、断然少ないのはわかるのだけれども、あまりに希薄な気がしている。それでも、犯罪の増減は劇的でもないし、トレンドにブレがあるとしても、長寿にはなっているにしろ、生死というのは「日常」なのだという意識があまりないようである。うーん。そして、裁判員制度に不参加したい理由の一位は理解できるよ。仕事を気軽に休めないというのは、勤労のゆえか、足並みを揃えて職場での人間関係を嫌ってか、はたまた生活苦などが身近にあるから、などといろいろな理由があることはわかる・・・。でも、あからさまに「えええええ、死体の写真を見ることがあるんでしょー。怖いぃぃ」というのはないだろう・・・(汗)。

 

元ニュースはこれ>http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080412-OYT1T00722.htm

最高裁がこのような制度を設けることは、当然なこと。

 

アメリカでは、チャレンジャーが落ちたときにも24時間以内には、すでにそこに見学に来ていた子どもたちが受けた心の傷のケアをするためのチームが発足し、「宇宙飛行士」の夢を捨てないで済んだ子どもたちも多く、ケアについての考えはかなり根底的に固まっています。

 

裁判員制度の折にも、申請さえあれば、裁判所つきのカウンセラーはたくさんいて、すぐに面談ができます>が、裁判中の場合には陪審員の資格が剥奪されることになります。が、途中脱落の理由に、急性PTSDというのは、かつてニュースになったことはなく、陪審員選択のシステムがしっかり樹立していることも貢献しているのでしょう。

 

今読んでいるMitch Rappシリーズでは、Navy SEALsのオペレーションの仕上げで、極悪犯人をTerminate(終わらせる=殺す)ことが使命になっているという箇所を昨日通り過ぎたのですが、国防というのはそういうことで、きれいごとでは決してないわけです。またもや、同じような誘拐事件や爆破事件などを起こす可能性のある相手に対して、無実の市民を巻き込んでも「我々のCause(目的)のためだ!」と平然と理論崩れをかざす人間たちに対しては、やはり「終わってもらおう」と考える国防第一な考えの人がいても不思議ではありません。私個人は、その決断ができないがゆえに、そんなビジネスをしていないだけで・・・>政治家のみなさんや自衛隊のみなさん、警察官などのみなさんは、そういう覚悟があるのだ、と、一般的に尊敬してしまう対象なのですが、言動不一致が多い人が目立ってとても悲しいゲンジツがあるんですが・・・(汗)。

 

さらに、彼らにはQuit(辞める・止める)というチョイスはないわけですよ。やめたときには、相手に自分が殺されるときなわけです。だから彼らの辞書にQuitという言葉はなく、任務においてその死生観というのは、固まっており、側面では原始的なようですが、実際、ヒトというのは生物のひとつなので、その側面も忘れてはいけないと思うわけです。

 

そして、この裁判員制度に参加したくない理由の、上位に来ているこれだ・・・。昨日は、急いで美容院に行ったのですが、そのときにも、「知らない人に電車のホームで背中を押されたり、すれ違いざまに刺されたり、なんてこと、最近ありますよね」という話になり、「確かにそうだよ・・・。なのに、死生観がどうも希薄なのは、どうしてなんだよ・・・」とふと、はたと、気づいたわけです。

 

私は、アジのたたきを生きているアジを捌いて作ることはしません。技術的にはできますが、やりたくないのでやりません。カニも同じです。が、ありがたく食べさせていただいています。ここが偽善と誠意の分かれ目ですが、Native Americans(昔のインディアン)のバッファローを大切にする気持ちなども、ここから来ており、「飽食はしない」「天からもらったものをありがたくいただく」という前提があるからこそ、ハンティングはしていいわけです。

 

SEALsなどに代表される国防も同じで、生命の大切さをわかっていればこそ、「どの生命が大切なのか」と、偽善者にならずにきっちり選ぶことができなければ、瞬時になんて到底無理なわけだし、そのような仕事にそもそも就けないわけですしね。

 

こうした熟慮の上に生活を続けている人々がいる中、「まったく知らない他人の死体なんて見たくないし、それが残虐だったら夢に見るから嫌だ」などと言っている場合ではないように思えるわけです。なぜならば、私たちの生死は、こうした国防をしっかり考えている人々のおかげで保たれている部分が大いにあり、私たちがやるべきところを、実際は分業して、死刑執行をしてもらっていたり、凶悪犯人を追いかけて殺してもらっていたり、ミサイルを撃ったりしてもらっているわけで。その裏側で、仲間の中から、「腐ったりんご」が出ても不思議ではなく(あれ?腐ったみかんだったっけ?)、その仲間を作ったのも、また、私たちひとりひとりが形成している社会のせいで、小社会がたくさん集まったものが大社会で、その大きな括りが国家で、それがいくつも集まったものが世界で、環境問題などを考えると、私たちは宇宙の構成員の一員としても、どう暮していくのがいいのか?すら考えたほうがよいわけです←ねばならぬ、とは言いません。そのほうが、個人も充実した暮らしができるという提案です。

 

Mitch Rappが大統領の筆頭秘書官に怒りを抑えて言うのですが、「感謝の心をカケラも持たないやつだけは許せないんだよ」と。本当に、他人のために、かなり多くの人々のために、国防をしている人々はそんな切ない気持ちでいつもいっぱいなんだろうということくらいは、ぜひぜひ理解していただきたく、死刑執行をしている刑務官や、死刑宣告をしている裁判官や、スパイ活動をしている人々など、私たちは決してひとりで、あるいは自分が選んだ、愛する人々とだけ暮しているわけではないことは、理解する必要すらあると思うのです。

 

裁判員制度は、国民の義務なのだから、せめて自分にできることはやろう、という気持ちから始まってくれてかまわず、その先にある、私たちの暮らしは私たちが作っていくのだ、責任を持って、という自覚がみんなに芽生えてくれるとさらにうれしい。私がうれしいのはおこがましいのですが、国防に携わっている人々、みんながうれしいと思うのです。

 

小さい頃から、私は消防官フェチでしたが(笑)、自分はそんな人の妻にもなりたくないとわかりつつ、やはり軍人や警察官など、危険の多い仕事をしてくれている人々はどうしても好きです。小説やドラマでしかわからないとしても、彼らがいてくれるからこそ、私はのほほんと生きていられることは、よくよくわかっています。ゴルゴ13が伝説的なベストセラーであることから、生死に対する感情は誰しも持っていることはわかるし、アクション映画がコケにくいのもそのせいです(安定した数字が取れるんですよねぇ・・・)。その感情を短絡的に受け止めて答えを出すのではなく、「裁判員制度参加してみるのもおもしろいだろうな。非日常を日常にできるチャンスだな」と思ってもらえるとうれしいし、そこに、たいへんな仕事を肩代わりしてくれている人々への謝意が生まれれば、さらにうれしいです。

 

紀久美先生へのQ&A~心理学講座編~その93

年を取っても、仕事は続けた方がいい?続けるとしたら、何のために??

 

考え方は人それぞれだと思います。個人的な見解が優先される自己決定の事柄ですが、心理学的な説明も含めてお答えすると、仕事は続けたほうがいいです、自分のために。

 

健常者である限り、私は働き続けようと思っています。脳の老化を遅くするには、仕事や学業は続けていくに越したことはありません。不労所得が得られるようになったとしても、大学院に戻ったり、個人事業主としていくばくかの安全ネットはキープしていく予定ですし、今働いているあいだ、国に頼ることなく、年金保険なども購入し続けていきますし、貯金よりも投資をしていこうとしています。

 

たとえば宝くじや遺産相続やプレゼントなどで、生涯働かなくていい金額、あるいは生涯働かなくて済むような不労所得が得られるようなものを所有したとします。たとえば、家賃収入や発明の特許収入とかですね。

 

その段階で、自分のライフスタイルを劇的に変える、という人は、おそらくまだ自分の可能性が掘りこめていないと思って、現実からかなり遠いところの夢を実現しようとすると予測できます。そうなると、それまでに培ってきたスキルを土台にして、計画を実現しようとする人々とは、成功率が違いますよね?一歩一歩を着実に見える形にして、具体化を計測可能にして、次々と小さい成功を積み重ねて、大きな成功にしていくことが、計画=夢になります。

 

同時に、社会は変化します。自然災害が増えるとか異常気象だとか言いますが、物事を長い目で見ることができれば、過去に突然災害が訪れた歴史なども観れますし、予測は可能になってきます。社会も同じことで、人々の心や考えがどのように動くのか、ある程度見極めて予測できれば、「残高」で暮らしていくことにリスクがあることはわかります。

 

しかも、その残高が多ければ多いほど、砂糖に集まるありんこのような、お金に興味が強い人々が屯ってくるようになります。その人たちに、いちいちNO!と言い続けるのは、心の負担が大きいです。時間の無駄でもあります。

 

足が動かない、手が動かない、など部分的な老化であれば、まだ働ける何かは残っていると思うのです。たとえば、自転車の修理とか、植木の手入れとか、HPづくりとか、子どもたちに教える何かとか、バリキャリの第一線ではなくとも、自分の糊口を濯ぐだけの働きは、心のために「自信」となりますし、脳細胞も使わないものから死滅していきますから、ずっと働いていくのは自分のためです。

 

ただ、現役時代と違い、四苦八苦したり、ストレスをためたり、時間に追われたりしないスタイルを、30代から40代のうちに「可視化・イメージできる設計図」として持っている人と、そうでない人のリタイヤ後のことを考えてみてもらいたいと、Precious One English School ではご紹介しております。そのための心理レッスンだったりします。

 

「お金があったらそりゃぁ働かないよー!」とがんばってきた方は、それを学びに変換していただけたら、と思うのです。勉強でなくていいのです。豪華客船に乗って世界一周するのであれば、ダンスを開始したり、カジノでのいろいろなゲームを学んだり、料理によりもっと興味を持ったり、語学学習を再開したり、いろいろなことができます。

 

すべては、ひとりでしっかり生きていくため、自分のため、と腹を括っていければ、前倒しで考えて、その考える時間がたっぷりあったほうが、夢などではなく、夢=計画になる確率も増えていきます。

 

一考をお願いしたいです。心理レッスン楽しいですよ(^^♪



目標の立て方のコツ

目標を立てるには段階が必要です。なんとなく達成したい、というようなものではなく、具体的で自分の成長感に寄与するものであってもらいたいのです。大きな目標を立てるときに、

  • 目的を伴う
  • 論理的である
  • 倫理に背いていない
  • 動機が強く内側に向いている:多数決や外からの押し付けに大きく影響されていない

ということを念頭に置いてからピックアップしていただけたら、と思うのです。

 

その後、その目標を達成するためにはどうしたらいいのか?を情報収集をきちんとしてください。たとえば「英語を話せるようになる」では、目的もないですし、動機が外から来たのか自己成長のためなのかわかりません。もう少し具体化してもらえたら、自分に根差してきやすいです。

 

情報収集の期間が長ければやる気がなくなるので、しっかりインターネットを駆使して調べてください。その上で、段階的な中・小の目標を設定していただきたいのです。

 

英語でいえば、

  • Reading
  • Listening
  • Speaking
  • Writing
  • Grammar
  • Vocabulary
  • Pronunciation

などと分けて「中」とします。

 

小の目標としては、それらから派生してくるより具体的な目標が出てきます。Brainstormingをしたり、チャート化したり、色付けをして、区分・分類していきます。

 

その後、条件付けをします。

  • 時間・タイミング
  • 回数・量
  • 行動のパターンやオプション
  • できなかった場合の補完
  • どのように成果を測るか

などを具体化していきます。

 

ここまで計画できたら、もう半分はできたも同然で、漠然としていなければ人は自分が決めたことに従う、忠実でありたい、と思うものなのです。可視化する手段などもぜひとも付け加えていただき、ネットワーキングすることで、サボらないように、と自分の弱さをカバーすることも可能です。スクールに来ていただいて、ここを1年から2年のあいだで定着化させられれば、生涯英語から離れることはないと、Precious One English School では信じており、そのために心理レッスンも行っております。

 

できれば、自分が折れない心になるための術・知識を同時に学んでいける環境があれば、独学だけでも英語は使えるようになると思います!

 

待ち遠しいお休み

04/13/2008 にアップした文章です。

 

ここのところ、自分のせいではありますが、お休みがありません。もう昨年末くらいからずっと続いているのですが、1ヶ月くらい完全休日なく働いて、やっと1日確保して、また1ヶ月くらいない、というのが続いています。さらに産業カウンセラー講座が始まってしまったので、仕事のお休みは日曜日に確保していても、実際はお休みではなく、たいへんなことになっています。GWもすべて仕事が入り、6月の英検のための生徒さんを見ることになりました。商売繁盛でけっこうじゃないか!とみんなに言われているので、ここのところはやはりありがたく受け止めておこうと、やはり仕事を請け負っています。ということで、次の完全休日は、まったく見えない状態になりました・・・(汗)。

 

ぽっこり午前中が空いたりすることがあるので、しっかり遅寝をしようと思えばできないこともないのですが、リズムに則った暮らしをしているので、どうもなかなかできない・・・。自然に7時間前後で目が醒めてしまいます。どうも太陽に逆らえない私なのだ・・・。寒いときには、お風呂か足湯も入れるのですが、どうもここのところ暖かい日もあったせいか、「面倒くさい」が先立ち、悪循環を招いています。

 

いや、今日などは本当に物理的時間が足りないんですけども・・・>昨日は朝の10時からの授業で、夜の戻りが10時過ぎで、朝出発が8時なので。さすがに、5分休憩しかなくて、10時間働くと、座っていられる商売といえども、違う生徒さんとのべで20人近く会うわけで、けっこう疲れます。スタッフには、「けっこう大丈夫そうですね。もう1コマ入れてみますか・・・」などと言われていますが、芯のほうは疲れていることは、年齢のせいなのか否めません(苦笑)。

 

今日はこれから産業カウンセラーの講座のほうの授業なので、せいぜい授業中に眠ってしまわないようにしなければ・・・。何しろ、私は高校生のときに、2年と3年時は、ほぼ授業中は午前中眠っており、私専用のノート取りの友だちがいたほどで・・・(汗)。お弁当の匂いがしてくると起きるというすごい生活をしていましたからねぇ・・・。バイトで疲れたあと(ええ、バイト禁止だったんですけど、不思議とバレませんでしたねぇ)、朝はちゃんと起きて学校に行くのです。が、力尽きて眠る(爆)。私は昔から1日7時間は眠らないと使い物にならないので、どうしても保障しなくてはならなかったようです。そういうわけで、勉強をしたという記憶は、かなり希薄です。なので、今日も久々にやってしまうかもしれません。不思議とアメリカの授業中に、睡魔と闘った記憶は、2・3あるのだけれども、実際に眠ってしまったという記憶はあまりないんだよなぁ・・・。

 

商売繁盛で何を言う!なのですが、まだまだこの世には、英語が話したい人、マスターしたい人というのが大勢いるのだ、だから授業があるのだ、と感心しまくっています。特に、英検は、年間3回しかないので、その前にはたくさんの人々がプロに来るのだということは、噂では聞いていたのですが、実際に体験してみると、すごい数です。英検の利点は、生涯そのスコア(級)を持ち続けていられることで、TOEICやTOEFLのように2年で期限切れはありません。もちろん、期限を添えずに履歴書などに書く人もいるのでしょうが・・・。高得点でなければ、錆びることは多く、スコアの浮き沈みは、TOEICでは900点を超えないとやはりあるのでしょう。TOEFLもSpeakingがあるので、100点超えをした人でも、やはり錆びることはあるのかもしれず・・・。

 

私が盛大にお休みを取れないでいるのは、この「断れない性格」が相当に影響しているせいなのでしょう。私に頼みごとをするのは、かなり成功率は高いのです。いや、できることであれば、ですよ(笑)。できないことは、最初から引き受けませんから・・・。学校をやめてしまった生徒さんでも、授業の最中に教えた添削物のためのメールアドレスなどは保管してくれてあり、そこにさほど図々しくない依頼は来ます。かわいらしければかわいいほど、けなげであればけなげなほど、私は奉仕をしてしまう傾向にあり(誰でもか・・・)、「断れない性格」も大繁盛です。

 

さらに、スケジュール組みも、「お願いします」で断った例はなく、今回スケジュール調整のために、7ヵ月半で初めて、2コマをキャンセルしました。びっくりされた(爆)。私のほうは、「仕事をいただく」と思って仕事をしているのですが、どうやら他の講師さんたちは、「やってあげる」という態度の人も少なくないようなのです。ふうむ・・・。安定した仕事になると、そんな態度にもなれるのか・・・などとも思ったのです。そもそも、英語ができる人で、英語講師1本で食べている人は少なく、私のほうがきっと例外なのです。1本の人は、配偶者の収入がいい女性で、収入はすべて余剰に廻せるゆとりがある人が多いです。

 

さらに、自宅にても教えているのですが、こちらも断れるわけもなく、かわいくて仕方がないので、ごはんまでいっしょに食べに出かけている始末。ええ、私が払います(笑)。人数がバンバン増えるとそういうわけにも行かなくなるのでしょうが、今のうちです。エンジョイしています。

 

そんなことが重なり、私にはお休みがありません。産業カウンセラーの講座は、1ヶ月に4回くらいある日曜日中、1回がお休みなので、今のところはそれを待とうと思っていたのですが、実際は、英検が迫っているために、最初の4月27日のお休みがなくなりました。他にもプライベートだけの日に、キャンセルなどがあり、お休みが取れるかと思いきや、まったくキャンセルなどの気配はなく、キャンセルの後にすぐに埋まっている状態で、仕事でキャンセルをしてしまった生徒さんたちが、私の授業が取れない状態なので、もう1日増やしてくれないか?と訊ねられている最中ですが、これ以上は無理・・・。

 

そして、4月は、新入社員の研修のため、企業派遣での講師の仕事も入り、昼間も忙しく立ち働くことになっており、それが明日から始まります。今日は、そのせいで、産業カウンセラー講座が終わってから、合間を縫って美容院に行くのです。ちょっと髪が見苦しい手前くらいまで来ている・・・。地元であれば、飲みに誘われてもひょっとしたら行けるのですが、ちょっとGW過ぎるまで、先が見えません。

 

やはり花粉症などではまったくなく、あの鼻ぐずぐずと咳は、風邪の症状でしたが、いつの間にか治まっていたので、医者要らずのまま今日に至っています。今日はお弁当を詰めるだけ詰めたのですが、おかずを作り置きしてくれたのは母で、私はハムステーキ(なんだかものすごい分厚い塊があったので、スライスしてみた)を自分で焼いただけで、ネコたちを見て、「知ってる?ネコの手が借りたいってこんなことだよ・・・」と言っていました(笑)。6月14日だったか、15日だったかが英検なので、それまではこんな日々が続くのかもしれません。せめて、体調だけはキープしないとなぁ・・・。でも、ここのところ、代謝がいいようで汗をかくのです。寒暖の差に気をつけないと、また風邪をひいてしまうかもしれません。どうもまだ白人体温なのは直っていないようだ・・・。

 

明日のエッセイは、ニュースか何か、今日あったことなどから拾って、きちんと書かせていただきます。が、今日はちとぼやかせていただきたかった(爆)。自分が引き受けていることとはいえ、断れない類のことを断らずに仕事が増えていることで、中年サラリーマンのようなメンタリティに陥りそうな私に、ぜひぜひ喝を入れていただければと思います←甘え(爆)。あ、でも痩せそうです(爆)。

 

留学準備の手伝い

04/12/2008 にアップした文章です。

 

仕事上、留学準備をし、人と別れなければならぬことはかなりあり、クラスが終わることはもちろん、留学をするので長の別れもけっこう体験しています。生徒さんによっては、「金の切れ目が縁の切れ目」になることもあり、英語学校というのはまだまだ儲かる商売なのだなぁと実感している日々ではあります。相場よりも安いはずの、私が常勤で働く学校では、それでもプライベートレッスンは、40分で1万円もかかるすごいレートです。なので、引き止めることもできず、安くコツコツ英語の勉強を続ける方法というのを、どうしても教える機会が生まれてしまいますが、経営者としてはソレは痛いことなのでしょうね。



留学前に、まったく英語面では準備をしていかず、私は20年前(そうなんですよ、1988年4月26日だったので、本当にそろそろ20年になるのです)、渡米しました。お金だけは準備し、書類もしっかり準備したものの、肝心の英語に関してはまったく、何もせずに渡米したのです。それでも何とかなった(爆)。なので、私は「個人差」はあると思うのですが、予算がしっかり「英語分」の枠が取れている場合、留学してから英語を勉強してもいいのだと奨めています。ただし、勉強の仕方がわからなかったり、日本人としての根本解決手段がわからなかったり、意見の主張があまりに希薄でできない場合には、日本で英語の準備はある程度していったほうがいいと、本人に率直に伝えています。

 

典型的日本人の文化やメンタリティを背負って暮している場合、アメリカに行って困ることはかなりあります。たとえ英語ができた場合でも、「なぜこのヒトたちはこんなに物事をはっきり言うのだろうか?」だとか、「口数が多いから、何が肝心だったのかわからない」だとか、「親切ぶってるけど、実際は助けになってくれない」などなど、いろいろなことで戸惑うと予測できるのです。どれも文化的背景があり、言語がもたらすメンタリティの違いがあるのですが、それを「実践で体験してかなり速いスピードでわかる人」であれば、留学して英語を学んだほうがきっとトータルの時間は短くて済むし、得るものも多いと思うのです。

 

ところが、日本人の留学生がアメリカだけではなく、海外にたくさん出ており、「英語くらい話せなくちゃねぇ・・・」という時代になった今も、語学留学のみの成功率は低いままです。私の時代ですら、10人に5人はなんとかCommunity College(2年制の短大)に行けましたが、残り5人は、2年近く英語学校に通い続けるだとか、そのまま帰国するだとか、英語力が足りないまま専門学校に行くだとかいう始末だったわけで、現在も、3ヶ月の留学を何度も続けたりするケースは多いらしい。その5人の中で、しっかり4年制大学に進学できる人はさらに半分に減り、卒業までたどり着けるケースは、その半分だと考えたほうがいいのです。さらに、現地に残り、そこで就職ができるケースというのは稀で、暮らしぶりというのを改めて見つめ直すことができなければ、順応がむずかしく、鬱病に罹ったり、日本人コミュニティにしがみついて暮したり、帰国したときに振り返って、一体何が達成できたのか?と虚しい気持ちになること間違いないわけです。

 

順応:(1)環境や境遇の変化になれること。(2)生物体の機能・性質・状態が、与えられた外部条件の持続的な変化に応じて変化すること。(3)〔心〕 感覚器官が同一刺激を連続して受容すると、それに対する感受性が低下する現象。匂いに対する嗅覚の順応や視覚の明順応・暗順応の類。

 

生物学的な要因と、社会的な要因(心理や慣習や行動の法則性など)を考えるにあたり、まず、ヒトとしての環境要因を考えていきます。が、南極や北極などの極地でなければ、たいていのヒトは留まり、生きつづけてきたわけですから、厳しい状況が見つかったとしても、サバイバルは不可能ではなく、やはり社会的要因が大きいのだと気づきます。その中の何なのか?を見極めるくらいまではできても、さらに根本解決をしていくのは、なかなか難しい。

 

なぜならば、日本人として生まれ育った中で「正しい」と教えられ続けてきたものを、「否定」しなければならない状況も生まれてくるからです。それは、Selfを否定することにもなり、悶絶が起き、Self-Worth(自己価値)にまで発展することも少なくありません。

 

私は、自分の体験も踏まえて、それらの困難に遭遇しても、根本解決ができる能力を持った生徒さんであれば、英語は英語学校で、100%英語環境で学んだほうがずっと学ぶスピードが速いと考えています。誰しもが英語のNativeの土地で学ぶことがベストではないですから。

 

この春にも5人ほどの生徒さんが留学に旅立っていきましたし、6月から8月のサマースクール時期にも、相当数の生徒さんが旅立っていきます。その書類の準備くらいは、タダで請け負っており、調べ物や判断なども、彼らがひとりでやるよりは、私がHPなどをちゃらっと見たほうがずっと早いので、休憩時間などに引き受けています。どんなことが起きて、何が予測できて、どんなコースが開けてくるのか?などになると、話が長くなるので、プライベートレッスン枠を確保してくれる生徒さんたちもいます。が、なるべくタダでやって差し上げたいのではある・・・←学校的にはNGなのだろうけれども。

 

ところが実際問題として、「このヒトなら大丈夫」という人は、なんらかの学びをきっと海外に住むことでしてくれるというぐらいで、成功する確率はやはり厳しいものがあり、彼らが望むゴールまで行けるのかどうか?を考えると、英語力よりはメンタリティのほうがずっと心配である。「この人ならなんらかの不幸なアクシデントがない限り大丈夫」と思える人は、本当に少ないのです。が、個人的に私が住んでいた地域を、いつか初対面で泣いた看護婦さんに紹介して、彼女とはずっとおつきあいしていけると思っており、私の知り合いも何人か紹介する予定です。修羅場を潜り抜けているところが、彼女の成功確率をうんと高くしていると思うし、何より「違い」をいくつも見てきているのでしょうね。しかも、その違いとは、臓器だったり、ヒトが根底の生命について考える現場での心理であり、「ささやかだけれども重要な違い」についての膨大な経験則というのを持っている。彼女の英語力は、ESLの現地での集中英語学校では、10クラス中4くらいなのですが(ListeningとSpeakingを考慮すると下がる)、それでも半年みっちりやれば、必ずレギュラークラス(くっついている大学に進学すること)ができると思えるのです。半年でダメなら、9ヶ月で何とかなります。

 

最初は彼女を口実にして、私も6月に久々に渡米しようと思っていたのですが、彼女のほうから「最初の3ヶ月は寮に入ります」と、アパート暮らしを延期する報告があったのです。さすがに考えることが違う。一人暮らしが長いので、寮は無理かと思っていたのですが、「寮の不自由さも最初に経験しておかないと、きっとその後はできなくなるから」という理由。「どうせなら、本当の貧乏な学生暮らしをしている中で、英語をしっかりやりたい」という本人の希望なので、私は3ヶ月経ったのち、8月末に行くことにしました。そこで、アパート探しや、車の購入などを手伝う予定。

 

私の20周年記念が来るのですが、留学というのは並大抵なことではなく、誰でも行けば話せるようになるわけでもないです。それはやはりメンタリティの準備ですね。自己主張がどうしてもできないヒトは、そっちからまず手をつけたほうがいいし、違いに対して居心地が悪い人はそれに慣れることが大切です。さらに、勉強法というのが問題で、調べたりするのはインターネットのおかげでうんと簡易になりました。それでも留学の成功率が断然増えないのは、どうしてなのか?純日本的文化やメンタリティを持ったままでも、切り替えチャンネルを持って国際化意識を持つことは可能です。私は時代劇大好きですし(笑)→昨日は、途中からでしたが『剣客商売』見ました(爆)。文化的な違いを考えてみて、それでも順応できる自信はつけてほしいものです。

 

手作りの温かみ

04/10/2008 にアップした文章です。

 

ここのところ、ファストフードはもちろん、お惣菜も食べていない私なのですが、帰国してすぐからではなかったのです。帰国してきたばかりのときには、おにぎりがコンビニで買えるヨロコビというのを噛み締めており、うれしくて、わざわざ「1個買い」というのをやるんですねぇ(笑)。そのおにぎり作りのたいへんさは、以前『決死のおにぎり作り』に書いたことがあります。アメリカに住んでいると、子どももおらず、大家族でもない私は、「炊きたて」で「具のバラエティ」があるおにぎりを作ることは、至福の贅沢で、大決心をしてスケジュールを立てないとできないことだったのです。そんなこともあり、コンビニでおにぎりを1個買いできるというのは、4ヶ月くらいエンジョイできました←相当に倖せのハードルは低い(爆)。

 

ところが、もう帰国して1年半経ったので、そんなヨロコビをむしろなつかしく思うようになり、食の安全さや自給率の低さも気になり、栄養の偏りや、糖分(甘み)寄りの味付けも気になり、ここのところ、まったくファストフードもお惣菜も、コンビニのおにぎりもお弁当も食べていない状況です。Lawsonでりらっくまの景品がつくというので、英語学校の社員の女性のために、サンドウィッチを買っていた時期があったのですが、それも飽きました・・・(汗)。

 

母が作る料理がイチバンなのは、

1. 原材料がある程度、昔育ちの母の目にかなったものであること

2. 調理法も昔ながらの方法で母がやっていること

3. 味付けも私のことを知っている母がやっていること

この3点に尽きますね。

 

外食したくないのか?と聞かれるのですが、私は外食は週に1回くらいでいいですねぇ・・・。どうせお酒を飲んでしまうことになるので、食事というよりは、肴・アテが重要なので、種類がちょこっとたくさん欲しいときには、外のほうが母の手を煩わせることもないのですが、お酒自体を私はここのところ遠慮しており、飲むと毎回、二日酔いになっているので、神様からの「そろそろ自重したら?」というサインだと思うので、控えております。その週に1回の外での飲食がないときには、母がビールを買っておいてくれて、500mlを2・3本飲むのですが、そうなると眠くなってダメです。よく働いている証拠なので、よしとしてあっさり眠ります(爆)。

 

そしてハタと気づいたところ、私は自分で料理をほぼ一切作っていないということがわかった・・・。「経済しなくちゃね」という母の口癖をきちんと体現しているせいなのか、土曜日にひとり+ネコたちの部屋に戻ると、書置きに、土日に食べるべき食品の羅列がしてある・・・。彼女なりに「経済して」買った材料を使って作った食品が並んでいるわけです。それを置き去りにして、外食したいわけもなく、してしまったら家庭内がぎくしゃくもするだろうし(笑)。というか、私のメンタリティは、会社員の中年のおじさんと似たようなものがあるので(笑)、用意されているものに対してのこだわりや要求はあまりなく・・・。そうですねぇ、せいぜい、麻婆豆腐が辛すぎると「食べられない」と怒るくらいなもんでしょうか・・・。ごはんを炊くのを未だに失敗することがある母にたまにびっくりするのですが(ファジーだと水の加減を測って炊くから失敗などないと思い込んでいたが、あまりの水分量の多さには適応できないんだろう・・・)、昨日、弟の嫁である義母が炊いたというお赤飯を食べたので、「ああ、世の中にはこういうこともあるんだな」と納得しているところです。でも、手作りだからそれだけでもう100点満点中80点は獲得ですしねぇ・・・。

 

私は料理をするのだけは好きなのですが、コンロが2個しかない今、どうもやる気が起きない。さらに、キッチンのカウンターの高さが私を疲れさせるのです。ねぎくらいは切るんですが、それも苦痛です。腰痛に響くような高さ・・・。さらに、蛇口を捻ってからお湯が出るようになるまでの時間が長すぎるのは、集合住宅だからなんでしょうかねぇ・・・。こらえ性のない短気な私にとっては、あまりいい環境ではありません。さらに、母が苦心してポジショニングをしているので、私にはその理屈・法則性がわからず(爆)。

 

自慢ではないですが、私は、料理は失敗しませんね。味も悪くないです。私自身は濃い味付けが好きなのですが、人様が来るときには調整しますしね。しかも速いというのが自慢ですか。それもこれも、アメリカで料理を始めて、最初から4つのコンロがあったことや、その上にオーブンレンジもあったし、冷蔵庫もでかければ、お湯もしっかり出たし、食器洗い機は常備だし、鍋釜やボウルの数も持てるほどの収納場所ですし、まな板ですら、ひとりで2枚も使っていたのです。広さというのはこういうときの武器なのだ(笑)。

 

そして、温かみですが、熱いものを熱いうちに食べられるという利点や、「食べたいなぁ・・・」とぼやくと、オムライスが出てきたりするのがすごいっ!←って、子ども時代と同じような要領で請求してるんだろ?と言われればその通りっ!(苦笑)母親はいくつになっても母親らしく、彼女のように親という部分よりも自分や女という部分が多いヒトであっても、やっぱり効果があるときには効果があるやり方で頼んでみるのは悪くない(爆)。そのやり取りすら温かみがあるんですよねぇ・・・。

 

今考えている、私にできる手作りの温かみは、教材です。既存の教材を選ぶというのが通常のやり方ではあるし、その学校学校が持っている教材に従うというのもありだし、莫大な数がある市販の教材を使うのもいいのだけれども、やはりオリジナルの教材やドリルを作ってみようかと思っているところです。でもなぁ、この手の手作りは、「温かい」と思ってもらえるよりは、「儲けようとしてるなぁ」と思われるんだろうか?←自虐的ではある・・・。

 

私は手作りができないやつなので、他人の手作りにいつも感心&歓心しているのですが、3月21日発売の『きょうの猫村さん』でも、猫村さんが働くお家の、整形大好きなママが子どもたちが小さい頃に下手ななりに作った手提げバッグについて描かれており、そこには「うわばきバッグ」「おけいこバッグ」「給食バッグ」などが登場して、いろいろな子どもの頃なりに使ったバッグについて思い出してしまいました。考えると、我が家も全部手作りだったよなぁと・・・。母は自分の洋服を作るために洋裁を志したのですが、結果オーライで、今でもなんだかいろいろ作っています。洋服のサイズ直しは日常茶飯事だし、洋服も作ってくれるし、バッグを直してくれたりします。私の職業柄、たくさんの教材やテストなどを持ち帰ったりするので、バッグはちっともファッショナブルではなくなり、ただただでかいものになりつつあったのですが(A4や、A4 が入るその一回り大きいプラスチックファイルが入らないといけない)、母が仕切りを作ってくれたり、ポケットをつけてくれたり、鍵をひょいと出せるように装着自由な仕掛けをしてくれたり、手作りになっています。わーい!

 

シャドーボックスやトールペイントなどは、私には到底できそうにはないのですが、西さんは大工仕事をするし、母は何でも作れるし、便利に暮しています。エンジョイする側で傍観しているだけではなく、何かいつか作る側にならないと、手作りの温かみを人様に分け与えることができないなぁと、しきりに反省しているのですが、何かいいものないでしょうかねぇ・・・。絵も描けませんからねぇ・・・。うーん・・・。何かいいアイディアがあったら教えてください(ぺこり)。

 

正義のためのチョイス

04/09/2008 にアップした文章です。

 

日々、小さい積み重ねが集積すれば、なんとか正義への貢献になるのではないか、と、私は政治に直接的な活動はしていないものの、日々の言動に気をつけています。子どもの頃から、やたらと「正義漢」ではありました。正義というものが何なのかわかっていなかった頃からだったのは、おそらく、父からの洗脳を見事に受け止めてしまっていたからなのでしょう。それを想うと、子どもの頃の環境というのは大切です。禁を破って、最近またVince FlynnのMitch Rappシリーズを、大切に大切に読み始めています。電車の中で、涙が溢れて仕方なく、どうしてこんなに泣けるのか?と、つくづく考えているところです。

 

正義:(1)正しい道義。人が従うべき正しい道理。(2)他者や人々の権利を尊重することで、各人に権利義務・報奨・制裁などを正当に割り当てること。アリストテレスによると、名誉や財貨を各人の価値に比例して分配する配分的正義と、相互交渉において損害額と賠償額などを等しくする矯正的(整調的)正義とに分かれる。また、国家の内で実現されるべき正義には自然的正義と人為的正義とがあり、前者が自然法、後者が実定法につながる。国家権力の確立した社会では、実定法的正義は国家により定められるが、これは形式化・固定化されやすい。そこで、各人がその価値に応じた配分を受け、基本的人権を中心とした諸権利を保障されるべしという社会的正義の要求が、社会主義思想などによって掲げられることになる。公正。公平。(3)正しい意味。正しい解釈。経書の注釈書の名に多用された。

道義:人としてふみ行うべき道。道徳。道理。

自然的:天然のままであるさま。人工の加わらないさま。

社会的:社会にかかわりがあるさま。社会性があるさま。

 

私は、子どもの頃は無力だったので、この自然的正義というのに畏怖を強く感じていましたね。毛虫がチョウチョになることや、水をあげた種が芽を吹き出し、花が咲き、実までがつくということなどで自然を学び、その後、自然界での弱肉強食を目の当たりにしていきます。そこに手を貸すことを、父はなぜかそれほど喜びませんでしたが、猫や犬や鳥を大切にすることは歓んではくれました。とはいえ、彼の場合、ヒトが作りだした社会に対する不平不満でいっぱいで、闘う態度を失うことなく、定年前に死んでしまいましたから、彼の場合は、この社会的正義というのに、いつも傾倒していたに違いありません。その彼は、本当に自然の摂理をしっかり身につけていたのか?おそらく、田舎の中の田舎のようなところに生まれ育ち、中卒のまま大工仕事の基礎を身につけ、東京に出てきて運転手の職にやっとありつき、自然の摂理が痛いほど理解できたうえで、人為的にヒトが動物でいないままの理想的な正義を、彼なりに追い求めていたはずなのです。だから、すっきりしたいがために、時代劇を見ていたんでしょうねぇ・・・。あの時代にだって不幸な人々はたくさん居たけれども、ドラマの中では、悪い人が斬られて、正義が勝つというのが、どうしても気持ちよかったんでしょう。

 

私が今読んでいるMitch Rappシリーズは、Executive Powerというものです。あらすじはこちら>http://blog.livedoor.jp/cyberbabe/archives/50709090.html 個人ブログなんですけど(笑)。

こんなに安いから決断して買ったんですよ>

http://www.amazon.co.jp/Executive-Power-Vince-Flynn/dp/0743453964

 

アメリカに住む前は、ヨルダン-イスラエル問題などには関心どころか、基礎的知識すらありませんでした。父にだってあったかどうか怪しいものです。アラファト大統領が1993年にノーベル平和賞をもらったときにも、アメリカ人で中東問題に興味がある友人たちは、そこそこの知識を持っており、そのおかげで私も「知りたい」「知らなくちゃダメだ」と思ったものです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%88 アラファト大統領について

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%8A%E5%95%8F%E9%A1%8C パレスチナについて

 

このような遠い世界で起きている不幸について、正義が体現されないことについて、私には何もすることができず、小さい女の子がレイプされたり、「死んだほうがまし。どうか殺してください」と懇願しながら拷問されたり、手足がないまま暮していく以外のチョイスがなかったりすることなど、日々の大半は忘れて暮しています。けれども、胸を張って言えるのは、自然的正義を理解した上で、社会的正義についての自分なりの意見を持っており、小さいことの積み重ねながらも、私なりの正義へのフェアネスを体現しつつ暮していくことは、片時たりとも忘れていないということです。

 

国防について考えている人々はたくさんいても、それを実行している人々というのは一握りです。その人たちは、体力も人並みはずれてあれば、知性や感性も研ぎ澄まされており、その人たちのおかげで世界が成り立っていることは忘れていません。だからこそ、こうした小説を読んで泣けてしまうんですが・・・。もちろん、そこには政治が絡み合い、その国防を体現している人々も責めの対象となってしまうのですが・・・。残念なことです。

 

その人たちの偉さを私も見習えるなぁと思うのは、贅沢をたまにはすることがあっても、基本は質素に暮していきたいと心がけており、そのためにはどうしてもないときを抜かして、私はマイボトルを持ち歩いていますし、お弁当も持っていきます←とはいえ、母親に作ってもらっていたんじゃ、とは思うんだが(爆)。しかも、お茶に農薬が入っていたというニュースまで入ってきていて、ちとびっくり←余談ですが・・・。多少の余剰金があっても、自分のために贅沢をするために使うことなく、必要最低限のもので暮していき、日ごろお世話になった方々や将来がある人々に分け与えたり、ごはんを食べてよく話す社交費として使うことにしています。形あるものをいくら持っていても仕方がないのは、国防をしている人々の人命救出大作戦や暗殺場面を読むとよくわかります。いつ死ぬか、という刹那な気持ちがないと、「必ず明日は来る」という奢りで、モノをたくさん持ちたくなるんだろうと思うんですね。

 

ダイヤだろうがサファイヤだろうが、ブランドの洋服やバッグだろうが、確かに商業的に成功する分野だし、モデルや芸能人もそれを持っていると、「第一印象」「容姿やイメージのアップ」で儲かる良循環に乗れるのかもしれません。が、私は質素に暮していくことを心がけています。ピアス以外での宝石は要りませんし、数も要りません(耳の数は増やせないし・・・爆)。

 

政治を見ていても、世の中の風潮のネガティブ面を見ていても、まずはひとりひとりが持つ、「ラクして儲ける」だとか、「人より良い暮らしをする」という考えに根付いているような気がしてなりません。それがなくなれば、蓄積したときにけっこうなパワーを醸すのではないかと考えていて、私は洋服も親の敵のように着るんですね(笑)。いやぁ、貧乏育ちをそのまま続けているだけって言われればそうなんですけど(爆)。

 

正義というのは長い遠い道のりなのだけれども、最初の一歩は、自然界を知ることではないのか?と思っています。そのあと、いろいろなことにぶち当たるのでしょうが、まずはそこから。そして、いろいろなチョイスをしていくことで、生き延びていくチャンスを増やし、賢く暮して、他人を自分と同じように扱えるヒトになってもらいたいものです。それが蓄積されれば、正義はいくばくかは実現できると思うのだけれどもなぁ・・・。

 

紀久美先生へのQ&A~心理学講座編~その92

友だちは多い方がいい?

 

多いほうがいい、とおっしゃる方はきっとたくさんいらっしゃるかと思います。広い世界に出て、そこにいる人々のいろいろな考え方が得られるから、などと尤もらしいことをきっとたくさん吹き込まれたこともあるかと思うのです。

 

心理学的には、「友だちは少ないほうがいい」という結論が出ています。ただし、心理学ですから統計学的な結論であり、判断は個人が決定してください。進化心理学という新しい学派の説明で、咀嚼するのが少し難しいかもしれません。



https://thoughtcatalog.com/natalie-villani/2017/03/9-reasons-why-intelligent-people-have-less-friends/

https://www.washingtonpost.com/news/wonk/wp/2016/03/18/why-smart-people-are-better-off-with-fewer-friends/?utm_term=.430a5d8f1367

https://www.mensxp.com/relationships/friendship/30010-this-research-suggests-that-having-fewer-friends-is-a-sign-of-your-intelligence.html




人口密度が多く、人が多い場所に住んでいると、いろいろな支障が起きます。ただ、知性が高い人は「よりよい選択」ができるという結論を元にすると、郊外や都市部に住んでいても、たくさんの友人の中から、自分にとって「最善・最良」の友人を選びます。その「考える」という面倒さをスキップしたい人は、そうしたそもそもの選択が必要のない、田舎を選ぶわけです。人々が少ないために摩擦も少なく、摩擦があっても、合議制でなんとか解決できるような。

 

友だちが少なくていい理由は他にもあります。刺激がたくさんある中に住んでいると、とにかく情報量が多すぎて、取捨選択しづらく、最善・最良から離れてしまうこともままあるわけです。友人がたくさんいるということは、その選択肢は増えるものの、基本のキが見えづらくなってきます。ゆえに、知的な人にとっては比較的「当たり前」の作業である「考える」という行為をなるべくスキップしたい人にとっては、友人が多くて自分のために選んでくれている状態を好みます。友人が多いということは、ひとりになる時間が物理的に少なくなりますし、考える時間が減ります。考える・読書をするなどというひとり作業の時間が減ると、知的発達が停滞してしまう方向に傾いてしまうのです。さらに、友人が多いということは、ひとりひとりの友人に対して割ける時間も少なくなってしまいます。ゆえに、深く考えて共感したり、コミュニケーションを密にしたり、高揚感を得る機会そのものが減ってしまう、という不利益が生じてしまいます。

 

時空を超え、物理を超え、他者の考えや気持ちを考えるためには、ひとりでいる時間を大切にできたほうがいいです。とはいえ、そのためには、幼少時代にその原型となる「友情」のありがたみ・深さは体験していないといけません。

 

知性が上がれば上がるほど、本当の意味での友人は減り、人間関係でも、「知り合い」「仕事仲間」「遊び仲間」「相談相手」「恋心を持てる人」などと、ジャンルが増えていくはずです。

 

少し考えてみてくださいね。

 





海の上で燃え尽きる

04/08/2008 にアップした文章です。

詩的に表現しましたが、今朝のニュースを題材にしたもの。不謹慎かもしれない私の第一声は、「うはぁ。誰だろう、これ考えた人・・・」というもの。母は、「火葬」と「船」がどうしても繋がらなかったらしく、ひとりでぼーっと肩と首のあたりを揉んでいて、ニュースが進むまで想像できなかった模様。「船の上で火葬を」のニュース見出しでは、わからない人は多いのかもしれません。私はすぐにわかってしまい、なんと現実的で嫌なやつなのか・・・(汗)。

 

土地が少ない日本であるからこそ、地上に建てたくない施設や建物というのはたくさんあります。非常に現実的なのですが、火葬場もそのひとつ。今ほど輸送システムが発達していなかった昔では、火葬場の近くには、たくさんのお墓もあり、近所の人々は生活していく上で、自分たちの「生」を常にネガティブな心理に影響するそういった建物を疎みます。そりゃ当然の気持ちですから、責めたてられぬ・・・。

 

これを突き詰めて考えるに、日本人の心持や暮らしぶりというのは、大いに変化しており、職住隣接という考えは発達しても、祖先のそばにいつまでも居たいという人々よりは、さまざまな理由があるにせよ、お墓は遠くにあって当たり前のような風潮になっています。そのせいで、お墓サービスという産業までが発達し、代理人である会社のクリーニングの人々が、お墓掃除をしてくれて、お参りまでしてくれて、その写真をデータ化して送ってくれるのです。ちなみに、なんでこんなことを調べなくてはいけないのか、日本で最もお墓参りの義務感が発達している県民は、鹿児島県人だそうで、鹿児島の人々には、お墓参りは日常にまだまだ根付いているといるのですね。

 

家・家格・家名とその歴史の問題ですから、さまざまな事情が発生し、時の流れと共に、諸問題が生まれてきます。そのせいで、自分が住んでいるそばにお墓がないことは、私としては少しさみしい。たとえば父の実家のお墓というのは、歩いて5分の山の上にあります。ええ、山の中に住んでいるんですって(爆)。神道の神主をして、小さいながらも神社をひとつ持っているせいで、奥津城と呼ばれるお墓は、りんご畑のすそにあります。叔父の家に行くたびに、お酒やご馳走に預かる前に、必ず挨拶に行くのです。が、父は次男なため、母の母が購入した、永代供養料も納めてある由緒正しい日蓮宗のお寺に入っており、そこはあまりに遠すぎて、勢いだけではお参りに行けないのが、私としては心苦しいのです。アメリカに居るならまだしも、どうして気軽に、ひょこひょこと行けないのか、父もさみしがっていることでしょう。祖父や祖母のほか、早産した兄弟と母の弟である叔父も、同じお墓に入っています。お金も時間もかかるようになってしまったことに、なんだかさみしさを感じますね。

 

そして・・・、その心の負担を考えていた矢先です。なぜならば、お彼岸が過ぎて、私は今年は忙しすぎて、完全休日というものが持てておらず、どうしていいか、二進も三進も行かなかったのです。どこかでずっと気にしており、申し訳ないと思いながらも、母が手紙をしたためて、お寺にお金を送るところも見ているわけです。その状態でこのニュース。

 

きっとたくさんの人々が、今住んでいるところから、お墓は遠いと思うのです。だったら、もう少し、その心理を広げてみて、船の上での火葬というのも、取り入れてみればいいのに、と。

 

考え方としては、とても論理的で冷たいのですが、団塊の世代が老齢化したときには、火葬場の予約やその作業が追いつかなくなるであろうというもの。確かに、日本の人口分布を見てみると、今までの火葬場の数では追いつかなくなるだろうという推論には、かなり納得できるのです。他人様が死にゆくことを想定するのは、気が引けるのですが、避けては通れない道です。むしろ、ご遺体をそのままにしておくほうが罰あたりです。

 

http://www.nippon-foundation.or.jp/org/press/2007/08102.html 財団ぐるみでがんばっています。

これによると、すでに火葬までを1週間待たねばならぬ状態に陥っているそうです。

http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn/20080407/20080407-00000044-jnn-soci.html 動画がついているのでわかりやすいです。

 

事実、多磨霊園のように著名人もたくさん眠っている地域はあり、それがむしろ「街の名声」になっているようなところもありますが、今、多磨霊園に新規でお墓を持てる人などそうそう居るわけでもないし、火葬場はこの近辺ではあそこに頼っていますが、確かに「どうしていつもいつも霊柩車ばかりなんだろう・・・」という子ども時代を過ごした私としては、火葬場というのは、人々に疎まれる存在なのだろうということは理解できます。

 

船が火葬場であれば、老朽化した際には、スクラップにできて、土地問題はないので、移動すらできます。近海内の少し沖合いまで出て、セレモニーもそこで済ますことができれば、いいお葬式もできるのでしょう。ただ、お葬式代というのは上がることになるのでしょうが・・・。ただ、海の上で燃え尽きていく愛する人を見た自分は、「散骨してもいいかもしれない」と思えるようになるかもしれません。私は、JFK(John F. Kennedy)の散骨風景を見て、自分もそうしてもらおうと決心したのです。モノクロのニュース画像だったのですが、とても強烈でした。父方の神道や、母方の日蓮宗のほか、日曜学校のカトリックや、アメリカでの宗教学の基礎網羅をしたのちである今でも、やはり私には散骨しかないと思っています。私は女で、守るべきお墓がなく、今、父が眠る参っているお墓は、弟一家のものへと移行していくわけです。骨になってから、誰かといっしょにいたいとは、私は思っておらず、自然に戻してもらえればいいのです。もちろん、献体したあとの残りでいいですし。

 

私は、これを考えた人に、「頭のよさというのはこういうふうに使わないといけないよなぁ・・・」と、冷たいようですが、すごさを感じてしまった次第です。まぁ、これもビジネス化されると、人の生涯や死が軽率に扱われていくことになるのですが、最低限のビジネス化でお願いしたいと思います。

 

葬儀に参列するほうとしても、わざわざ時間を作って火葬場に行き、あの混雑している人々の苦痛・苦悶の表情に刺激されるよりは、海の上でカモメたちを見て、それぞれがデッキから海を見つめる時間が持てていいのではないかと、とても現実的なことを考えてしまう私ではあります・・・。私はあんなときに、小さい待合室に詰め込まれて、誰かと話すことは望みませんから。

 

そして、この発想をきっかけに、水上農園を作ることが実現して、日本の自給率も上がるといいなぁと思うのです。水上農園は効率がいいですよぉ。エジプト時代にナイル川でやっていたし、他の文明でもいくつかやっていたところがあります。日本の人々も、自分たちの土地の狭さを考えて、温故知新をして、そこから今できる知恵をバンバン出して、心意気は保ちながらも、生き延びていくことは可能だと思えたニュースです。が、たくさんの人々が混じっていくと、関わっていくと、いろいろ難しくて実現しないのかもしれないんですが、私は希望することはやめませんぜ・・・。

 

人と知り合うプロセス

04/07/2008 にアップした文章です。

 

人を知るというのは、それほど難しいことではないが、自分について伝えることはものすごく難しいと感じている人は割合的に多いのではないか?と思うのです。そして、他人の意外な部分を知ると、かなり感動するのではありますが、自分がどういう人間なのかを第3者の新鮮な眼で見た感想を、どう受け止めるかで、今後の人生というのは変わってくるのかもしれません。それが「出会い」の妙なのでしょう。ええ、昨日は、産業カウンセラー講座の初日で、私はクタクタに疲れてしまいました。驚くほど、エネルギーが必要なことを、実感してしまったのです。その説明をぜひぜひ・・・←説明じゃなくて、言い訳だろうって!?(爆)

 

日曜日の都内の教室に集まった人数は、70人ほどだったと思います(今、冷静に椅子と机の数とグループの数で考えている・・・)。その70人が5グループに分かれて、実技講座を受ける仲間になります。20回の講習中、8回が座学で、大きな教室で講義形式で行われるのですが、12回は昨日の1回も含めて、そのグループでの実践になり、カウンセリングノウハウをやるわけです。校長センセはすでに昔?に経験なされており、私の説明を読むのはなつかしいのかどうかわからないですが・・・。

 

お決まりのような自己紹介があり、「どうしてこの講座に参加したか」という志望動機を語るのから開始し、一体どのくらい話したんだろうか?というほど、話したし聴きましたね。聴くことはまったく苦ではないのに、どうしても話すことは苦痛だった。いや、私はTalkativeな先天性があるので、実際はそれほど苦痛ではないはずなのです。条件の問題です。その条件の最たるものが、「初対面で相手を知らない」ということ。

 

このエッセイも、実際は不特定多数の人をAudience(観客)としているはずなのですが、オンライン上にこれだけ(いわゆる星の数ほど)のブログがある中、私のブログを読んでくれている方々というのは、実際は「共通項」があり、私のエッセイというのは、その共通項に「共感できる」方々のみが再来するような要素が強くなっています。私のような思考回路を持たぬ方でも、概ねの意見が共通しているところが多いがゆえに、何度も訪れてくださっているわけです。でなければ耐えられないし、もう読んではいただけない。校長センセと陽さん以外で、リアルの友人にはほとんど言っておらず、西さんも多忙のため読むこともたまにしかなく、英語学校の生徒さんにも4人にしか教えていないわりには、アクセス数は毎日コンスタントに100は超えており、多い日にはなぜか300を超えます。

 

そのせいで、書いている私のほうも態度や内容について、調整ができており、知らないあいだにコミュニケーションが取れている状態になっています。コメントも、校長センセや陽さん以外の方に、ごくごくたまにはいただけますしね・・・。統計というのは、かなり読めば読めるものなのです。

 

ところが、昨日のメンツは、それぞれがみなユニークで特別ですばらしい方々なのでしょうが、「知り合うプロセス」で疲れてしまっている(笑)。これが、Selfの妙なのですが、私のハードルがいかに低く、「別段他人になど好かれたくはない」と思っていても、どこかでやはり常識的な「他人に迷惑を掛けない矜持」があるので、自分をどこまで出していいものやら調整をつけるのに、ものすごい努力を要するわけです。そして、この産業カウンセリング講座というのは、話し手であるクライアントさんに「そのようなストレスをかけずに話をじっくり詳細に聴く」というのが目的なので、ハナから問題にぶつかってしまうわけなのですね(爆)。

 

他人の話を聴く側というのは、「どんな情報がどれほど漏れているか」ということがわからない。ここが問題です。何度も繰り返すようですが、この世で自分の言いたいこと・頭と心に詰まっていることを、決められた限りのある時間で表現できた人というのには、今までお目にかかったことはありません。ピカソにしろ、モジリアーニにしろ、次々と作品にトライできたのは、「まだまだ表現したいことがあったから」なのでしょう。彼らがいかに天才でも、絵でもすべては描けない。料理人も同じことで、どんなに至高の逸品が作れたと満足しても、そこでは終われない。やはりそれは完璧ではなかったし、同じものを繰り返し表現できないだろうと、謙虚だからなのですね。どうも、Outputに関しては関心が高いのだけれども、Inputに関しては関心が低いのは、どんな人でも同じようです。

 

私も、講師をしていて、他人のことを「知りたい」という気持ちは、他人様に負けぬほど強いと思っているのですが、記憶力も書き留めなくともかなりのことを憶えていると自負しているのですが、相手が13人にもなると(さらに講師がふたりなので、合わせて15人)、相当に負荷がかかります。私がこれまで持ったグループの生徒さんたちは10人が最高で、それ以上はいなかったですし、範囲をある程度決めた情報を収集しているので、「そもそも全部は無理なので、ここだけを詳細に収集する」と、ハナからあきらめた態度を持つことができるわけです。しかも、何回も続くであろうレッスンの中、少しずつ分かっていけばいいとも選択できます。

 

13人の新しいクラスメイトに関しても、実際は「あと11回で知り合っていけばいい」という選択肢を選べればいいのですが、カウンセリングの授業なので、「初対面からできるだけ理解する」の「できるだけ」のハードルをあげてしまうがゆえに、私はかなり疲れたんだろうなぁ・・・。あ、なんだか字面で整理できていません・・・。

 

聴く側としては、「ささやかだけれども重要な違い」についてにアンテナを立ててよく考え、相手が話し易いような状況を提供していく。

 

話す側としては、「他人に迷惑をかけず、威圧感を与えず、聴きたいことを察知しつつ、シグナルを見逃さない」というのが、結論なのですが・・・。

 

そして、ここに捻りが入るのが、「初対面でまったく情報がなく、見た目の印象や、すでに持っている偏見や経験則で物事を測っている」ということ。

 

私は昨日の最初の自己紹介で、「19年弱アメリカに住んだので日本には心理学のカウンセリングシステムがしっかりと確立しておらず、どの資格を取ればいいかわからなかった。この講座が日本で認知されているので参加した」と言ったので、それにすぐに食いついてもらい、話す内容はそれほど心配せずともよかったのです。私に関することではなく、アメリカとの違いについては、山ほど語れる・・・(爆)。迷惑を掛けるほど、Me!Me!Me!を連呼しなくて済んだのです。

 

でも疲れた・・・。これがあと11回続くのだと思うと、しかも途中で「印象」という容姿のプレゼンが出てくると思うと、なんだか憂鬱です。背は縮められないし、スーツもあまり着たくないしなぁ・・・。長時間なんですもん(爆)。

 

というわけで、人と知り合うプロセスというメカニズムを、もう少しよく考えてみると、「最高の出会い」をもしかしたら、ここまでで喪失してきたかもしれないことに気づけて、今後はそんなことがないようにできるかもしれません。自分をどのようにプレゼンするかについても、けっこういろいろなことが考えられるかもしれません。疲れますけどね(爆)。