日本でも始まったか、保育園の虐待問題 その2

07/09/2008にアップした文章です。

一昨日のエッセイでは、社会の構造全体を俯瞰して見たところで終わってしまいました。子どもを持っていない私でも、「子どもたちが未来を繋げる宝物」ということはよーくわかっています。が、同時に、私が子どもを持たなかった理由のひとつに「自己実現」があり、社会の現状と私の力量を比べてみて、やはり私には到底子どもは育てられないという結論に至ったせいでもあります。私には、誰かの手助けを受けずに、子どもを育てることができる技量もなく(家事は料理しかできないからなぁ・・・)、かと言って、心を穏やかに乱さずまま、誰彼かまわず預けられる性格でもなく・・・。女性であれば、誰でもこのジレンマとは人生のある時期、戦うものだとは思うのです。その答えが「少子化」という答えなのだということは、政治家の皆々様は強く認識していただきたいものです。

 

変化というのは、スピードがついていることがいいわけではありませんが、ひとつの要素ではあります。アメリカでは、Women’s Liberation Movementがあったのが、1960年代後半からで、女性学なるものがしっかりと大学に設置されたのが、1980年代。世の中では、「専業主婦は贅沢のひとつ」とすら言われるようになったのが、1980年代終わり。今に至ります。これがいいというわけではなく、選択肢があるということがポイントです。

 

日本にも、その流れは来て、1972年に中ピ連というのが結成されて、まずは「ピル」から始まりました。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E7%B5%B6%E7%A6%81%E6%AD%A2%E6%B3%95%E3%81%AB%E5%8F%8D%E5%AF%BE%E3%81%97%E3%83%94%E3%83%AB%E8%A7%A3%E7%A6%81%E3%82%92%E8%A6%81%E6%B1%82%E3%81%99%E3%82%8B%E5%A5%B3%E6%80%A7%E8%A7%A3%E6%94%BE%E9%80%A3%E5%90%88 

 

その後、一般にわかるように改正されたのが、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%87%E7%94%A8%E3%81%AE%E5%88%86%E9%87%8E%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E7%94%B7%E5%A5%B3%E3%81%AE%E5%9D%87%E7%AD%89%E3%81%AA%E6%A9%9F%E4%BC%9A%E5%8F%8A%E3%81%B3%E5%BE%85%E9%81%87%E3%81%AE%E7%A2%BA%E4%BF%9D%E7%AD%89%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%B3%95%E5%BE%8B 男女雇用機会均等法で、これも改正を重ねています。が、コレを見てみると、明らかに建前から開始して、半分以上が機能するようになり、社会に役立つようになるには、ものすごい時間が掛かっています。私はOLをしたことがないので、一般職と総合職というのすら知らなかったのですよ・・・(汗)。

 

やらないよりはいいけれども、本当に何か前進しているのかどうか疑ってしまうのが、現在のコレですよね・・・。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B7%E5%A5%B3%E5%85%B1%E5%90%8C%E5%8F%82%E7%94%BB%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E6%B3%95 確かに受け容れの箱を作るというのは大切です。が、あまりにスピードが遅いのでびっくりです。政治の力で、一般企業をどんどん巻き込む発想がないのか?と。そうやって、本当に機能するシステムを作っていくことが、雁首そろえていてできないのか?と・・・。自治体による一般市民の応募などを見かけますが、私は参加する気持ちにはなれないです。いじめ問題のときのことを考えると、さらに萎えますね・・・。

 

というわけで、こうしてスピードがまったく遅く、先進国に名を連ねているニッポンでは、育児も家事もまだまだ女性の負担が大きすぎる現状です。少子化率は上がるばかりで、子どもたちが増えることにはならず、国力のことをとやかく言いつつ、国防には鈍感にならざるを得ない状況をかもし出しています。そりゃそうだ・・・。見えない敵について考えるよりも、子どもをどこに預けよう?だとか、お金が足りないよ、今月、だとか、疲れすぎてるけど骨休めしたい、というほうが先立つんですから・・・。子どもがいない私ですらそうですから・・・。

 

そして、子どもを実際に預けた揚句に、虐待疑惑を受けるプロが出るようになった、というニッポンの現状です。私は保育士や幼稚園教諭などになろうと思ったことすらないので、詳細を知らないのです。で、調べてみることにしました。

内容としては、社会福祉・児童福祉・発達心理学・精神保健・小児保健・小児栄養・保育原理・教育原理・養護原理・保育実習理論、が要求されているので、虐待疑惑を受けてはいかんだろうとは思うのです。もちろん、福祉学・心理学・栄養学などでは、答えがひとつではない社会科学分野なので、各人が持つスタンスというのも違って当然です。ただ、法規の部分を理解するのは、万民に共通した項目なので、虐待については全面的に×だということは理解したうえで、仕事をしているはずです。

 

宇都宮の保育所の園長がインタビューを受けていましたが、「おしりペンペン程度であればやっていた」と認めています。親御さんもその程度であればいいと受容しているからこそ入れているのかもしれません。私のスタンスでは、他人の子どもに手を挙げるというのは無しですし、しかもその相手が、まだ口がスラスラと利けない年齢であれば尚のことです。中には、洗濯機のところに連れて行き、「言うことを聞かないと入れてしまうぞ」といった脅しまがいの保育もあったそうで、真偽のほどは「勧告」なので歴然としませんが・・・。

 

虐待という日本語自体がそもそも違うのか?

虐待:むごい取り扱いをすること。

むごい:(1)見ていられないくらい悲惨だ。いたましい。(2)思いやりがなくひどい。無慈悲だ。(3)程度が限度を超えている。はなはだしい。

 

程度問題らしいので、やはり判断は難しいのでしょう。が、こうしたことは今後も起こるに違いなく、人為ミスによる被害というのは、どんな分野でも起きます。ましてや、みな疲れていたり、生活に追われていたりする中、いくらプロといえども、コミュニケーションや信頼関係の最低ラインがあってこその契約社会なのでしょう。

 

人間関係が煩わしくない場合には、やはり親族や友だちに頼めるのであれば、お金のやりとりがあろうがなかろうが、子どもを預けるのに心配は要らないのかもしれません。核家族化というのも、それほど深刻ではないにしろ、子どもを頼めるくらいの人間関係というのは少なく、友だちもみな働いていたりします。

 

自分の子どもですら、虐待をしている報道が多いのだから、他人が誰も見ていないところで子どもとふたりっきりになったときに、全面的信頼を寄せていいものなのだろうか?ということも、考慮しなければいけないのが、世知辛い世の中です。アメリカでも、自宅で保育所をやっていた女性が、他の子どもが見ていないところで、男の子を階段から突き落としてしまうという殺人がありました。彼女はゼッタイに認めることはなく、科学的な証拠を使い、再度取上げてもらうまでに10年以上の歳月が掛かったのでした。しかも、食事に電子レンジでチン!するご飯を与えていたというのも、安価ではあったがゆえの、選択肢のなかった女性の悔いても悔やみきれないところです。

 

こうした事件は今後も増えていくのだろうか?と思うと、少し胸が痛くなりました。

 

他人に嫉妬するとはどういうことか?

:1 自分よりすぐれている人をうらやみねたむこと。2 自分の愛する者の愛情が、他の人に向けられるのを恨み憎むこと。やきもち。悋気(りんき)。

 

辞書通りの意味で使っていますよね?なぜこの感情が起きるか?というと、

 

  • 他人と比較するから
  • 好かれたいと望むから
  • 愛情の自由を認めないから
  • ネガティブを想定するから

 

が大きな理由です。

 

メカニズムとしては、社会動物として生まれたヒトは、どうしても人々の中で生きていくしかありません。しかも有利に生きていきたいわけです。ゆえに、どうしても他者と比較してしまうことが起きます。この比較する回数が多い人と少ない人がいて、さらに比較項目が多い人と少ない人がいて、多い人は嫉妬心が生まれやすいはずです。しかも、びっくりすることに嫉妬心は、自分よりも「格下のくせに」という感情から生まれやすいのでした。なぜにここでレベルやランキングが出てくるのか?というのが問題で、比較している中、そのほうがわかりやすいからでしょうね。年齢・立場・能力などなど、比較材料は山ほどありますから。その誘惑に負け続けると、嫉妬はクセになります。

 

誰かから好かれたいと望むのは、Maslowの欲求段階の3番目に属します。誰かと繋がっていたい、帰属していたい、という感情です。これはフツーの感情なのですが、好かれたい→独占したい、と大きく望みすぎると嫉妬が生まれやすくなります。

 

その愛する人に「思考や感情の自由」を認めないと、嫉妬は非常に生まれやすくなります。時間を超えて、ずっと愛していてもらいたい、と強く願いすぎると、他者の思考や感情に自由を与えなくなり、「自分と同化してもらいたい」「自分だけを見てほしい」と望んでしまうわけです。そうなると、安泰だと錯覚しているわけですね。実際は、変化しないものなどこの世にはさほど多くないのです。愛情ですら、増えたり減ったり、形は微妙ではありますが変わっていきます。深くなるといいんですけどね(^^♪ 

 

その相手が自由に誰かに愛情を持つと、どんな形であれ、自分の居場所がなくなると怯えてしまい、自信のなさからこれが加速度・乗数的に増えていってしまいます。愛にもいろいろな形があるのですけどもね (・・;)

 

これが、不安というネガティブな想定です。未来はまだ不確定なため、ヒトは必ず予測をします。大脳皮質が大きくなったため、これは避けられないです。そのときに、ネガティブな想定をしてしまうと、不安が増えていきますから、嫉妬が生まれやすくなってしまいます。今ある倖せが100と想定し、目減りすることを想定してしまうのですね。ポジティブな人は足されることを想定しますので、嫉妬は生まれにくいです。

 

さて、あなたはどの程度、嫉妬心を持っていますか?翻弄されたことはありますか?

 

私はド貧乏に育ったので、ゼロ出発なところがあり、メンタルでも加算方式でやってきたので、獲得型で、嫉妬が生まれることはほぼほぼないです。ラクです(笑)。

日本でも始まったか、保育園の虐待問題 その1

07/08/2008にアップした文章です。

社会の流れを見ていくというのはかなり興味深いものです。しかも、歴史や文化人類学や社会学や女性学などのテキストで見られるのではなく、ライブで生々しく、自分が生きているうちに見られるというのは、楽しいことです。実は自分の周りの出来事についてはみんな見ていることなのだけれども、興味がないがゆえに見落としているし、たとえ見ていても軽視しているので、『ひとりひとりが歴史の証人』というような、実感は湧いていないのですね。私にとっては、当たり前の出来事ではあったのですが、日本ではたいへんなことであり、ワイドショーでコメンテーター談によると、法令が整備されていないことも判明。そうなのか・・・、口がまだ利けない子どもたちを預かる保育園現状は、まだまだモラルで整備されていたのか・・・、それが崩れていこうとしているのか・・・と、物悲しい気持ちにもなったのでした。

 

栃木県宇都宮市の保育園について、市議会で6月から討議されていた議題。

口の利けない子どもたちを預かるというのは命がけなのだ、という反面、オーソドックスで昔からあるものから、欧米化で発達した商業化したものまで、いろいろあるのです。「親が働いているときには兄弟が分担して年下の面倒は見る」「子ども同士で遊んで面倒を見合う」「時間や場所を配慮して、近所の子ども(20歳以下)に安価にて支払い面倒を見てもらう」「資格がない大人に面倒を見てもらう(金銭とサービスの交換の有り無しは場合により)」「資格がある大人に面倒を見てもらう」と、かなりな段階があるのです。

 

核家族化という単語に惑わされてきていますが、実際のところ、日本では江戸時代からこっち、ずっと核家族の割合のほうが多かったのです。1920年代ですら、すでに55%もあり、急激に1970年代にその数は増えたものの(64%にまでになる)、ここのところは二世帯住宅やUターン・Iターンなどがあったり、物価上昇や環境問題や就労問題などがあったり、未婚の成人である子どもとその親が一世帯に含まれる割合というのは、数値的にドラマチックに変わっているわけでもなく・・・。現在は60%弱になっているようです。核家族は昔から多いのでした。

 

ちなみに核家族の定義は:

1. 夫婦とその未婚の子女

2. 夫婦のみ

3. 父親または母親とその未婚の子女

 

やはり、結婚の高齢化というのがこれを助けており、むしろNEETやパラサイトシングルに代表されるような、核家族形態というのがアピールされすぎているのが、どうも核家族が多いというイメージを助長したり、高齢者夫婦の社会から孤立した暮らしが目立つせいなのでしょう。

 

生産性を追求する資本主義社会を選び取った世界のトレンドの中で、日本もそれに鈍感でいるわけにはいかず、女性の社会進出は、アメリカの60年代後半から70年代にかけてのWomen’s Liberation Movement(ウーマンリブ運動)に影響され、遅ればせながらも女性の就労者は増えてきました。ところが、いつまで経っても、女性就労者のパートタイムや派遣労働者の数のほうがずっと多く、正業として登録される数は増えなくなっています。

 

生物学的な要因として、女性以外には授乳が困難だというのがあり、妊娠・出産そのもので、キャリアが一時停滞してしまう現状が手伝い、少子化もドラマチックに進みました。ハリウッド映画の 9 to 5 では、Jane Fonda, Lily Tomlin, Dolly Partonが、アメリカのその当時の現状を不満に思った3人の女性をおもしろおかしく描いていますが、それが1980年のストーリーです。とにかく不満だらけなのがよくわかる・・・(笑)。http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD2606/story.html >あらすじ全文。

 

28年前、アメリカではすでに、自社に託児所を設けるという発想がありました。それくらい、女性の社会進出が前向きに行われていたわけです。さらに、フレックス導入は、満員電車の緩和や生産性追求だけではなく、家庭も仕事も充実して、という建前をしっかり守ろうとしていた顕れになっていました。私がアメリカに住んだ1988年から2006年まで、「専業主婦は一部の富裕層の贅沢」とされており、夫の収入が1000万を超える家庭の妻ですら、働いていたのを見て、はじめはびっくりしたものです。ですから、国や行政を挙げて、そのシステムが機能するように、かなりのスピードを以って動いたことは明白です。

 

移民の国であるアメリカでは、個人主義という思想を採って来たこともあり、「近隣への頼みごと」をする気持ちの煩わしさや、情熱や時間のかかる投資を強いられる人間関係を奨励することなく、選択肢が多くなるために、お金を払う気持ちになれてそのゆとりがある人には、Daycareというプロが増えるための資格制度を増やしました。乗じてそれを商売にする女性も増えて、女性の味方は女性という構図ができ、幅広い選択肢の中から、自分のライフスタイルに合った子どもの預け方と働き方ができる土台ができたわけです。

 

ところが、そこは人間のやることですから、「腐ったみかん」はたくさんあります。移民の国なので、安価で子どもの面倒を見てくれる人を見つけるのは容易く、子育ての概念の違いから、たくさんの事件が起きました。あるいは、子どもを四六時中、しかも他人の子どもを見るというストレスから、虐待事件もかなりの数が起きたのです。殺人にまで発展したこともありました。事件が起きるたびに法令がさらに強化されて、今日に至ります。そのおかげで、近所の子どもたちに頼んでいた「うちの子の面倒見てね」というBaby-sittingも減り、大学生くらいにならないとお小遣い稼ぎができないことになっています。家庭で、親が依頼するBaby-sittingに関する法律はありませんが、資格がある人や営業所に課しているものは多く、その普及のせいで、親の意識もあがり、近所の子どもたちに頼むことが危険を孕むという判断をしたからなのでしょう。選択肢の幅は残してあるので、やりたい人はやればいいわけです。

 

江戸時代から1970・80年代くらいまでの日本でも、お隣の奥さんにちょっと子どもを預けるだとか、近所でみんなで遊んでいるからそこに座らせておいてね、と頼んで、買い物くらいであれば行けたんですよね。いつのまにか、公園デビューが流行したり、幼稚園のお受験まで流行したり、少子化そのものにくっついてきた現象というのもたくさんあります。

 

私には子どもがいませんが、私は自分の子どもを大人以外の人に面倒を見てもらうおおらかさがあるのだろうか?とふと考えてしまいました。私にはなさそうだ・・・。ネコですら、Cat sitterを雇ってお金を払う責任で契約書まで書いたのだから・・・。いや、ネコは私の子どもみたいなものですからねぇ・・・。ネコたちは、半日くらいまでなら、彼らだけでも過ごせるところが、子どもと違っていいところなのですが・・・。

 

明日は、もうちょっと詳しくプロによる虐待について書きます(久々のシリアルモノだなぁと感慨深いです・爆)

 

ゴミを集める人々の怪

07/07/2008にアップした文章です。

何をどう考えてもわからないことってあるじゃーないですか・・・。そのうちのひとつにコレがあるのです。だらしがなくて、どうしてか家がゴミ屋敷になってしまったという人が、顔を隠し音声を変えてもらい、TVのインタビューに応えていたのは、いくつか見たことがあるのです。が、意図的にゴミを集める人々もその横にあり、それがまったくわからない・・・。どうしてゴミを集めるのか?商業的理由だというのであれば、まぁ、少しであれば理解しましょう。でも、まったく使えないものを集めたり、使えるものでも放置しておいて貯めているだけの状態にしてあり売っていない状態のように見えるゴミ屋敷・・・。あれらって不思議だ・・・。では、と思ってちょっとリサーチ。



私は前者の気持ちであれば、わからないでもないです。私の場合、片付け物が嫌いなのですが、仕方なくやっており、どうにもこうにも山積になってしまうものは、領収書やその他の紙のたぐいなので、悪臭を放つわけでもなく、場所をうんと取るわけでもなく・・・。とはいえ、本などが積み重なると、片付けそのものがひどく面倒ではあります。分類やら傾向やら大事さ度合いやら・・・・。それがゆえに、正常思考のパターンの人々は、片付けモノをしてしっかり整理整頓するのでしょうが、私はモノを多く持たないことに徹しています(笑)。もー、面倒すぎるんだもん・・・。

 

名刺ですら2種類+支給された学校のもの2種だったり、教科書の類ですらもう軽く30冊くらいありますし、プリントになるとそんなどころではなく・・・。教科書だけならばいいのだけれども、事務処理の紙もけっこう存在して、どんどん混沌としてくるでしょ・・・。

 

洋服や化粧品やその他の持ち物は、すべて母が整理整頓してくれるのでいいのです。ただ、本と紙は私でなければできないのでした。ええ、英語で書いてあるものだけではなく、日本語のものも母は読む気なし(爆)。とにかく、サイズだけで片付けますから、余計に混沌としること多し・・・。その結果、無事に衛生的に生きていくことができていますが、バッグの中身の整理は、なぜか週に1回やらないとダメだ・・・。渡されたプリントなど、1週間に1回の生徒さんが多いので(悪いが多すぎる生徒数のため細かい内容を忘れてしまう・・・。2回や3回だと忘れないんだけど・・・。)、さらに添削を買って出ているので、整理をしないと電車の中で添削ができない・・・。本を読む量を少しセーブすれば、電車の中で暇ができるのでやっつけられるんですが・・・。

 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%94%E3%81%BF%E5%B1%8B%E6%95%B7 >すごい、Wikiの項目になっているとは・・・。これって社会現象だったのか・・・。問題なのはわかるのだけれども・・・。発生してしまう背景についての項目はなかなか興味深いです。

 

<自分の所有地にゴミ類を不法投棄されることに対する怒り>

ん?この日本語が不明瞭でよくわからないのだが、怒ってついでに集め始めてしまう、ということ?

 

<地域や親族への不信から、自分や財産に対して抱く不安>

ゴミを集めても財産に対して抱く不安は解消されないような・・・。

 

<(対象は何でも良い)コレクションの達成感を得るため>

これはコレクションをシュミにしている人がかなり多いことでびっくりすることなのですが、集めるということで達成感があるんだなぁ・・・。私はまったくカケラもないのですが・・・。

 

<(対象は何でも良い)処分する事への罪悪感>

これは母がそうだ!ワードローブがものすごい数なのですが、捨てたらもったいないという観念は、40年前の洋服を保存しているところにも見える・・・。もう二度と着ないだろう、というものも持っており、この罪悪感というのはあるんだろうな。戦中・戦後派の世代であれば、これはあるのかもしれないです。

 

<地域共同体(コミュニティ)からの疎外、孤立感>

疎外感や孤立感が昂じると、どうしてゴミ収集になるのかがわからず・・・。疎外されているから存在をアピールするために、ゴミを集めて他人に迷惑を掛けたいと思うってことなのか?

 

<収集癖が病的にまで高じることによる> 

街角に捨てられているゴミを見つけると寂しそう、悲しそうに感じ自分のところに連れてくる。「仲間」も多いので安心。ゴミを捨てろと言うのは、訳あって自分のところに身を寄せている仲間を見捨てろというのと同義。古くからの知り合いに囲まれて暮らしている自分を非難する方がおかしい。ゴミと言うな云々、という精神状態でゴミ収集を加速するケース。 

私にはこの心配はなさそう・・・。モノを擬人化するというのは、ぬいぐるみや愛着のある道具に関しては、誰でも多少はあるとは思うのですが、完全なる擬人化への論理性がないから、ゴミがいろいろな種類になるのか・・・。でも、その囲んでくれているゴミたちを、大切に扱っているか?というとそうでもないような・・・。

 

<経済的困窮(家電リサイクル法対象四品目の安価な引き取り)>

<古物商による在庫増加に伴う管理の不行き届き> 

このふたつは、私はわかるような気がします。もちろん、社会問題にまでなってしまう行き過ぎのケースは、病的なラインを超えてしまったものだろうとは思うんですが・・・。

 

<近隣住民による空家、空地への不法投棄。(ごみ屋敷が整地再開発され、新築物件として転売された後も不法投棄の悪習が抜けず新居者とトラブルになる場合がある)> 

ということは、これはゴミ屋敷を複数の人間で作り上げて、犯人探しができないような状態にし、ゴミそのものには嫌悪感を持っているということなのか・・・。八王子あたりの山の中も30年くらい前からこんな状態になっていたところはあったなぁ・・・。他人の土地に自分のゴミを捨てるということに関してはまた別の話なので割愛。

 

<注意欠陥障害(AD/HD)などの病気。サリ・ソルデン著『片づけられない女たち』を参考。先天的なドーパミン分泌不足等で入浴や掃除等が億劫になる> 

などの病気、というのはわかります。いろいろなケースがあり、脳内ケミカルに左右されていることで、ゴミ屋敷を作ってしまうようなことはあるのでしょう。統合失調症(精神分裂症)やある一部の人格障害でも、これはありそうです。

 

しかし、深かったなぁ・・・。今度はそんなことに注意してワイドショーで取上げられたら見てみようと思います。よくしてあげた大家さんを殺害した、という事件があったので、ちょっと調べてみたんですが、その容疑者は賃貸している一軒家に10年ゴミを蓄積させていき、そのうちの7年は家賃を滞納し、もう使えないほどの状態になったので、近所の公園で暮らしていたそうです。

 

ここは駅前なので、そんな家は見かけませんが、もしも自分のそばにそういったケースがあったら、どうしたらいいのか?というのを考えてみたいと思います。

http://www.real-hand.com/service/residence.html >ちなみに片付けられない人のためのサービスもあるんですなぁ・・・。すべて捨ててしまえるのであれば、これはいいのかも。私は母が居る限り大丈夫ですっ!

ダンスができると・・・

07/06/2008にアップした文章です。

私は、とにかく10代の頃からバイトばかりをしていて、まともな遊びをしていませんでした。いや、それなりには遊んだはずなのですが、バイトが終わってから駐車場で待ち合わせをして、車を持っている人たちに乗せてもらって海に行って、車中で歌を歌って話しをして、海辺では爆睡して1日が過ぎるだとか、バイトの前後にお茶やごはんに行くだとか、まぁ、そのくらいです。みんな青春時代はどこかに出かけたりしたんだろうなぁ・・・。私は地方のバイトも積極的にやっており、特にサーキットで開催されるものがあれば、ナレーターコンパニオンやイベントガールなどをやって、ついでにレースをエンジョイしていたんですが、ロードレースだったので、出かける場所は、菅生・筑波・鈴鹿と決まっており、たまにゆとりがあると、名古屋や大阪などに寄る程度。



10代でまず最初にトレンドになったのが、ディスコ。今はクラブと呼ぶのだそうですが、「同じじゃん・・・」と醒めていては、流行に敏感じゃないということなんでしょうね・・・。私の同級生は、中学の頃から年齢を詐称して出入りしている子たちも数人いました。高校生のときに、数回行ったことがある程度で、どうしても好きにはなれませんでした。そこでみんながしている踊りというのが、どうも楽しそうには思えず、自意識過剰だったのか、万民と同じことをしたくなかったのか・・・。

 

私の生徒さんの中に、フラメンコをしている方がいらっしゃるのですが、彼女は朝起きて一発、すぐにフラメンコをするというすばらしさ。ソムリエのライセンスを持っており、どうやら結婚も決まりそうで、イタリアにも居た経験があり、英語はまだ勉強の余地があるのです。どうしても英語の読みがイタリア語に影響されているというところがあり・・・。ただ、彼女のフラメンコへの情熱を見ていると、どうも「いいなぁ・・・」と。

 

どうしてダンスってそれなりにみんな、ある程度魅かれるんだろうか?

 

私がイチバン好きなのは、アルゼンチンタンゴです。バンドネオンの音を聴いただけで泣けてくることが多いので、おそらく輪廻転生があるとしたならば、私は南米に生きたことがあるのかなぁと思うほど・・・。では、よく見る動画を・・・。

 

私がイチバン好きなのは、ありがちなコレ>映画True Lies, Scent of a Womanなどで使われたもので、クラシックです。Por Una Cabezaという曲で、大御所であるCarlos Gardelという人が有名なんですが。

http://jp.youtube.com/watch?v=dBHhSVJ_S6A&feature=related >Scent of a Womanバージョン。

http://jp.youtube.com/watch?v=JXZRiX6PxFA&feature=related >True Lies バージョン 女優が違うのでもうひとつ>http://jp.youtube.com/watch?v=P3-p0v3aVis&feature=related 

※上記のリンクは現在は動画の再生ができなくなっています。

典型的なアルゼンチンタンゴはこんな感じ。距離と足の動きがクイクイッとなっているところにご注目。>http://jp.youtube.com/watch?v=Rqyna96iQYk&feature=related (この曲もクラシックです)

私が大好きな男性タンゴダンサーがこの人なのですが、おっさんシュミなので(笑)。でもこのセクシーさというのは、日本人男性にはなかなかなく・・・。体力が必要だろうと思うのだけれども、すごいよなぁ・・・。

http://jp.youtube.com/watch?v=mDhXTW2FlN8 

 

アメリカの地元にForever Tangoのツアーで来るときは、かぶりつきで見ていました(笑)。

 

他にもSalsaであれば踊りたいかもと思って、SFのダウンタウンまで出たことがあり、ラテン系のダンスを網羅していて、フラメンコのプロの踊りはいいなぁとやはり思いますね。あとは、Lambadaという種類のアマゾンダンスの発展版。Dirty Dancingとも言われたやつです。

 

この前アップした通り、ラテンの幾種類もの世界選手権を目指すものは、このあたりで見られます。

http://jp.youtube.com/watch?v=WpiDiOpBEA8&feature=related 

 

そして、50年代のダンスは、これで見られますね。映画 Blast from the Pastからのワンシーンです。

http://jp.youtube.com/watch?v=2NfSRdb2HAo このコメディはありえない設定なのでかなりおもしろいです。

 

日本では、阿木耀子女史が最近フラメンコの主催者をやっているそうで。山口百恵他の情熱的な歌詞を書いて一斉風靡した人が魅かれるわけなので、やっぱり与えられるものは大きいのだろうなぁと思うのです。フラメンコで曽根崎心中をやっちゃうあたりすごいですよねぇ。

 

というわけで、私はアメリカで社交ダンスを一通り、アダルトスクールで習ったのですが、その前にもジルバやルンバやチャールストンなどであれば、22歳くらいから24歳くらいまでのあいだに、お金持ちの紳士たちに連れていってもらったところで、数度楽しく踊ったことはあるのです。まぁ、踊れていなかったんでしょうが・・・。

 

西さんを連れてダンスを習ったときには、やはり連れてきてよかったと思いました。結婚式で花嫁の足を踏んだだけあったんですよ(笑)。ワルツくらいはできなくちゃねぇ・・・(汗)。

 

ウッチャンナンチャンのウッチャンの方(こういう言い方ひどいよねぇ・・・。でも日本に居なかったので、彼らの売れ方や経緯などがわかっておらず、自然敬意が湧いていないようなところがあり・・・)が、社交ダンスの番組をやっているではないですか。あれを見て、みんな楽しそうだなぁとは思うのです。すごく意外な人が出ていたりすると、どんなふうに踊るのかなぁと楽しみでもあるくらいです。

 

では、自分がやりたいか?というと、またもや絵画と同じように順位が下がるんだよなぁ・・・。プールのほうがまだ上かもしれない(爆)。こうして家で動画で見れてしまうからなのか?面倒くさがりなだけなのか?何かに超夢中になったり、シュミの域までにすることを厭うているのはなぜなのか?と、ダンスができたらいいだろうになぁと思いつつも、二の足だらけなのでした。

 

そして、ずっと音楽を流して見ていて時間が過ぎる。とはいえ、ご安心を。私はいっぺんに3つくらいのことをしているので、これを書きながら、動画を流して小さいウィンドウにしてあり、歌いながら(歌詞があるものは)、タバコを吸って、TVまで見ちゃっているのだ(爆)。やることはやっているのであった。

 

今日は産業カウンセラーの講座が2週間ぶりにあるので、お弁当を持っていくのですが、おかずは母が準備してくれてあるので、自分で詰めるだけです。アイスコーヒーまで完備してくれてあり、ありがたいです。今日は、講座が終わったあと、3時間くらい期末テストの準備のために高校1年生の女の子のレッスンです。月曜日も続きがあり、昼間はぐだーっと眠っていられるのですが、ダンスをするくらいの気力はないだろうなぁ(笑)。コアリズムはたまにやっていますが、あれは踊りではなくて、エクササイズだしなぁ・・・。

 

いつか、ゆとりができてダンス教室に通いたいと思うのだろうか?はてはて・・・。

身体は正直

07/05/2008にアップした文章です。

最近のおまじないは、「2度目の夏なのだから、我慢しようよ」というもの。これは、「日本に、長く東京に住んできた人にだって暑いんだから」という慰めにもさしてならないとはわかっていても、と何とかその場をやり過ごすような、自分に対する言い聞かせ作戦を取ることを、ここ数日やっています。さすがにネコたちは鋭く、湿気がぐわーっと増えてきてから、すぐに食欲が落ちて、おなかを壊す子もいたので、それをサインにして、「そろそろだな・・・」と感じてはいたのですが、やはりここ数日、私はつらいです(笑)。身体は正直なもので、けっこうぐったりしますよねぇ・・・。そろそろエアコン稼動なのです。



でも、考えると、7月4日だとか5日まで、一度も使わなかったというのがむしろすごいことなのかも。去年だったら、もうこの状態のときには使っていたのかもしれず・・・(ブログを少し振り返ってみましたが、かなり参っていた様子がうかがえます。しかも、タイトルにはせず、愚痴ちっくに散りばめてありますね・・・。もちろん、今年と去年の夏の様相も違っているとはいえ・・・)。でも、わからないのは、寝るときも点け始めるようになったのがいつなのか?ということ。今年はまだまだ大丈夫そうです。まだまだと言っているうちに、1週間が過ぎ、2週間が過ぎ、きっと使っているとは思うんですが・・・。熱帯夜というのがきっとキーワードなんだろうな・・・。

 

ネコたちの身体は本当に正直で、今、暑くなってきている日々に、ネコの後ろをくっついていけば、心地よいところが探せます。ただし、そのエリアが狭いと、彼らの身体しか置き所しかないので、ヒトである私は諦めざるを得ず・・・。エアコン全開になる前に、ネコたちのシャンプーをしてあげないといけないんですが、湿気がありすぎてもできず、今日は断念しました。掃除機の次の天敵がドライヤーなので(笑)。

 

私の場合、エアコンがない場所にいなければならないのが、調布駅から徒歩と、新宿駅からの徒歩と、電車の待ち時間。合わせて1日20分弱程度でしょうか。まだ家ではエアコンを使っていないのですが、生徒さんが来た日には積極的に使うことになります。おそらく明日からかなぁ・・・。昨日は除湿をしておきました。夜は比較的涼しいと使わないのですが、マンションおそるべしなところは、気温があまり下がらず、風通しが悪いところ。なので、明日あたりから使うかもしれません。

 

学校は高層ビルにあるのですが、ロビーからエアコンがかかっているとはいえ、弱いです。歩いてきて、エレベーターに乗ると、瞬く間に汗がじわーっと出ます。止まると汗が出るって、子どもの頃のトイレ休憩と同じだな、と、いつも笑ってしまうんですが(笑)。たまに、コンビニに寄るときには、コンビニの冷気がとてもうれしいです。英語学校は、なぜか土曜日の午後6時にはエアコンが止まってしまいます。なので、午後6時以降のレッスン枠はないほうがいいんですが、8時まであるので、今年の夏は耐えられるのかどうか・・・。私は採用が、8月30日で、9月からの勤務だったので、記憶にないんですよねぇ・・・。今のところは、身体が正直なので、これが最も心配です。もう夏の土曜日の6時以降は、入れない主義を宣言してしまおうか・・・とも思っているのです。今持っている韓国人の高校生の女の子は、7月一杯でおしまいで、そのあと、韓国と日本を行ったり来たりするので、固定ではなくなるので。

 

その後、彼女がTOEFLに切り換えるにしても、8月は避けてもらう手があります(笑)←そんなに不安らしいな、私・・・(爆)。

 

夏休みの昼間は、何人かの生徒さんが、自宅でレッスンを受けるので、その間は「お金をもらっているんだから」という正々堂々たる理由でエアコンが掛けられるのです←どうも貧乏性なので、ひとり+ネコたちでエアコンはつけられないという(爆)。去年の夏、エアコンが壊れたので(保証があったので修理代はほぼタダで手間賃だけだったんですが)、そのとき、腎臓移植をした叔母が、腎臓を提供した叔父に頼んで、母の部屋にエアコンを入れたのです。メインの部屋のエアコンが直ったあと、母は、そのエアコンを大して使わなかったのです。熱帯夜と、洋裁をしていたときくらいかなぁ。そうした貧乏性の母といっしょに暮らしているので、私がエアコン所望するときには、正当な理由が必要なのだった。

 

去年の場合、そうした理由が見つけられないときには、図書館に逃げるか、パチンコやに逃げるという手を採っていたのです(笑)。どこかで食事をするような贅沢は、冷やし中華くらいしかなく、あー、あるいはお肉お肉したものを食べたいときくらいで、真昼間からビールでもないし、夜の授業がメインなので自重して生き延びるモード全開ですしねぇ・・・。

 

今日は、お客様があったので(社労士さん)エアコンをつけてみました。快適です。除湿なんですが、除湿するだけでこんなに身体が歓ぶのかぁ・・・と。

 

しかし、ここまで書いてきて、こんなに夏を恐怖に思っているヒトというのは、健常者の中では稀だろうな、と(爆)。自分があまりにチンケな存在だということが、身に染みています。先ほど、またもや留学生の看護師さんとスカイプをしたのですが、彼女も自分の言いたいことが言えない悶絶で立ち止まってしまうことが多いらしい。私は、そこを体験したことがあるし、それを超えたときの気持ちよさを伝えることができたのですが、結局、19年後、彼女と同じようなことを体験したのち、何が最もダメなのか?というと、身体的なことなんだ、と・・・。

 

毛穴の調節が、四季があるところに住んでいる人々と違ってしまってから19年後。戻って来て一巡したあと、またもや最も厳しい夏が来るわけで、この心理的なものを除いた、純粋に身体的な順応の低さというのは、まったくどうしたものなのか・・・。

 

あせもが出てるわけです、この季節ですでに(爆)。赤ちゃんのように、シッカロールつけまくりなのですが、シャワーも1日2回を開始してしまったところなんですが、母や周りの人々とあまりに反応が違う・・・。駅前などをよくよく見て歩いていると、半袖ではなく、紫外線防止のために長袖で耐えられている女性は多い(ヤバイ、見てるだけで暑い、と思う私は、この部分に関しては心理的よね・・・)。しかも、化学繊維素材のところに汗が出て乾かないと、あせもになることを知りつつも、人に見られているので、そうそう汗を拭いておられず・・・(しかも、ブラジャーのラインだったり、ウエストラインだったりするわけで・・・)。こうして悪循環に嵌まり、正直な身体は素直にダメージを受けて、心理的に萎えていくわけである。これがまだ7月はじめのお話で、8月の猛暑になったらどうなるのか?明るくあせも対策ができているのだろうか?

 

今日、母にはSee Breezeのシャンプーを頼みました。トニックシャンプーで気分だけでも違うシャワーが楽しめたらな、と(笑)。母は、こんなに神経質になっている私を心配し、扇子を新調してくれ、さらに花王のさらさらパウダーシートなるものを大量に買ってきてくれました(笑)。休憩があれば、トイレに行って、全身を拭きたいくらいですが、まぁ、生徒さんの前なので、アルコールシートとさらさらシートで何とか切り抜けます(爆)。

 

ということもあり、私は化粧をしないでいますが、化粧をしているヒトを、ある意味、敬意、いや、畏怖すら持って眺めています。正直な身体がゆえに、みんなたいへんなのだろうから、きっと私のこの異常すぎる夏への恐怖は、過ぎたるものなのだろうなぁ・・・(爆)。



知っていたら使える形容詞は?

まず日本語でどの程度形容詞を使っているか、チェックをお願いします <(_ _)> 日本語では、0-1の2進法で話す場合が多く、かなり簡素な形容詞しか使っていない可能性が高いのです。英語講師をしていて思うのは、やはりそれ方式で、日本語→英語に訳して話している・書いている人が多く、だったら「よい」はgood、「ダメ」はbad などのように単純な2択に当たる形容詞を使ってしまっています。それに少しだけ色をつけて great などを使える人も増えますが、いやいや、そんなもんじゃー、心の機微は伝わらないよね・・・、ということになっていきます。

 

https://hanasu-eigo.com/2016/12/30/219/ こういう便利なサイトはありますが、ニュアンスは伝わるでしょうか?

 

イメージとしては、「聴き手がすぐに映像が思い浮かぶような言葉遣い」です。

 

Precious One English Schoolでは、形容詞・副詞というレッスン1時間の中で、約400の通常使いの形容詞、約400の感情を表す形容詞、合計800を手渡しします。なぜならば、前出のように0-1の二択だけで形容詞を使うような英語使いにはなってもらいたくないためです。しかも、ものさしには強弱があり、その尺の違いを「体感」していただきたい、という意味も込めています。

 

ここでちょいと語彙についてのReviewですが、日本語で「体感」して使えていない単語は、英語でも使えるようになるわけはないわけです。たとえ口に出せたとしても、意味を違って聴き手に捉えられる可能性はあるかもしれないです。ゆえに、まずやっていただきたいことは、日本語での形容詞の語彙を増やしていただきたい、ということです。

 

Wiktionary 形容詞リスト

 

感情を表す形容詞 日本語

 

感情の形容詞をきっちり説明

 

ここにはかなりの数の日本語の形容詞が載っています。そのうちのいくつは、アウトプットで使えますか?インプットであれば聴いたり読んだりすればすぐに使えるものもあるかもしれません。かなり限られた形容詞を使っていることに、まず「覚醒」していただきたいのです。

 

そして、その中で自分がよく使うもの・使いたいものを英語で調べてみてください。それが「知っていたら使える形容詞」です。

 

大きいものを単純に big, large だけで表現するのではなく、ポジティブな感情を単純に happy とするのではなく、さまざまな形容詞があるのだ、ということをまず認識して、その後、自分はどんなことを表現したいのか?を考えてみてください。

 

High Contextである日本語を使っていると、low context の英語では、幅の狭い単語があることに気づけません。ぜひともトライしてみてください!

日本では生涯未婚率が高くなっていますがなぜ?

 

経済的な理由がずしんと結果に反映されるいい例が、生涯未婚率でしょうねぇ。一言で言えば、「社会が悪いから」「結婚によさを認められない」で片づけたいところですが、ちょっと考えていきましょう。

 

経済的な男女差というのが少しずつ薄れてきた結果、必ずしも女性は結婚という職業を選ぶ必要性がなくなったことが第一に挙げられます。

 

1985年に制定されて、1986年から実施された男女雇用機会均等法により、女性の雇用機会が増えて、「腰かけ」「寿退社」などの現象が劇的に減りました。30年経ちましたので、女性が管理職に就くことも実現してきましたが、そのスピードは遅い、と私個人は感じています。まぁ、人員を丸ごと取り換えたり、意識を変革するのはけっこうな時間がかかるのですよねぇ。

 

他にも貧富の差がアメリカのように広がってきて、子どもを育てたり、生活していくことそのものが非常にたいへんな層の厚みが増えてきたことがあります。新カースト制度 このピラミッドを見ていただくと、中流以上で生活していくためには、昭和までの男性がBreadwinnerとして外で働き、女性は子育てと家事に専念する、という形では到底無理!という層の厚みが増えてきたのです。そうして、無理やりに二馬力で働いて、子どもを託児所に預けたり、高齢化社会になったために親世代に頼るという状態が、かなり「普通」になってきて、その四苦八苦ぶりを横目で見て、人々がどう感じてきたか?

 

おそらく、「夢に描いたような結婚生活などないに等しい」と思うようになっていると予測できてしまいます。イクメン・家事分担などが男性に伸し掛かってくるようになり、そもそも自由でいたい男性たちは、結婚に夢を抱かなくなっていくのは当然なのかもしれません。

 

女性側からしてみても、こんなにがんばっているのに誰も認めてくれない、という想いは増えることはあれ、減ることもない状態が、発言小町などで多く見られます(私個人は、週に1回ほど発言小町を見て、世相を学んでいるのでした)。

 

さらに、恋愛→結婚というコースのほうが、お見合いや紹介よりもずっと増えたことも一因としては挙げられます。昔は、適齢期なるものがあって(遠い目)、近所のおばさんやおじさん、親戚などなど、おせっかいな人々が段取ってくれたものだったのですが、イマドキは、核家族化も進み、どんどんと結婚は産業となってきています。結婚式をしない傾向も増えてきて(経済的な理由だけではなく、自由度の推進もあって)、その分、「いい出遭い」が重要だとアピールされていき、結婚で人生が左右されるようなことも、実際は今も昔も変わらないのかもしれません。だとしたら、結婚しないで左右されない方がいい!と思う人も増えますよねぇ (・・;)

 

とはいえ、淋しい&寂しい気持ちも増えていき、確信的に結婚しない、未婚でいる、という人々よりも、Ambivalentに結婚しない人も増えているのかなぁという感想にはなっております。

 

私は一度結婚して離婚したので、結婚はもういいです(笑)。社会が求めるようなことは今後ないことを祈りつつ、自由に暮らしていけたらと思います!

自己表現って?

07/04/2008にアップした文章です。

インターネットの利用のうち、ブログが注目されているのは、みんなが簡単に使えるという点が大きいのです。掲示板システムを開発したり、ホームページをソフト化したりしたエンジニアもすごい評価はもらっていますが、やはりこのブログというのは、マイクロソフトの流れを汲んだ、愚民(こうして十把ひとからげにするのは自嘲でもあるんですが、一から学ぶ必要なく、簡易で利便性だけで使えるものを使う人々という意味)にとっては、たいへんにすごいモノの出現だったわけです。少なくとも使うのであれば、その機構(システム)や成り立ちくらいは知っておこうよ、とキャンペーン実施中ですが、私がこの程度のことしか言えないのは、学んでいないからです(笑)。が、校長センセもいらっしゃるし、シリコンバレーに住んでいたおかげで、概要をしっかり学ばせてもらえてきたので、何とか大きく赤っ恥を掻かないでいられているわけで・・・。



今日の基記事はコレ>http://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/0807/03/news054.html

MixiやYahoo!などのニュースサイトは、それぞれの記者さんが要約を記事にしているので、ここまで細かくは読むことができないのです。

 

これ、驚きませんか?私が驚いたのは、インターネットハイウェイには、ゴミだらけという事実です。海にたとえるならば、難破船だらけ、ということなのか・・・。登録だけして使っていないものは、ものすごい割合なのだった。

 

人口1億3千万ほどのうち、PCにアクセスしている数が(調べればきっとわかると思うのだけれども、日々刻々と変わっているに違いなく、さらに問題としては、会社のイントラネットからのものや、家庭の光ファイバーからのものなど、セキュリティシステムに阻まれてどうせ正確な数などは出ないのである・・・)、およそ6割だとしても(ちょっと多めな気もするのです。高齢者や小学生くらいまでは、それほど日常的にアクセスしているかどうか疑問だし、家庭にPCがあっても使わない主婦や学生は確実に居て、携帯であればアクセスしているのかもしれず・・・)、7800万人。ブログの数は、1690万。4人にひとりがブログを持っているということなのですね。でも、アクティブなブログは、そのうちの308万なので、25人にひとりがブログをやっており(とはいえ、会社を持っている人などは個人で3つも4つもやっているだろうから、20人にひとりくらいの割合なんだろうなぁ・・・)、5.5ブログのうちひとつがアクティブに更新されている、と。しかも、そのアクティブの定義が、1ヶ月に1回以上の更新らしいから、かなりオソマツではあるのだ・・・(汗)。

 

かなりのゴミの量だよね・・・。削除することすら忘れているものがかなりあり、しっかり削除処理がしてあるものが、2243万というのだから、飽きっぽい人の数もかなり知れるものではあるのだ。けっこう怖い数字です。1ヶ月に1回の更新すらできないブログの存在意義というのも、かなり不思議で、もしも商売だったら、そんなブログ誰が信じるのだろうか?とも・・・。

 

(西さんの会社のブログもあったんですが、まったく更新していないのは、運営方針を変えたからで、一般のネット閲覧者は、マーケットの対象外だからですね)

 

テラバイトというこのカタカナにはどうもなじみがないのですが、表になっているので、見てみてください♪

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%A9%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%88 

 

ちょっと心配なのが、これだけの電気を使ったものが運営されるには、どのくらいの電気が必要なのか?ということ。24/7(24時間週に7日不休ということ)で動いているものがかなり多いのだろうし、修復などには、通常異常の電気量がかかるのだろうね・・・。エコを一生懸命がんばりつつも、このへんのエネルギー量というのは、誰か教えてくれないかなぁ・・・と思う。

 

まぁ、数的感想はこれくらいにして・・・。

 

目的は、こんな順位になったのだそうです。

自己表現:30.9%

コミュニティーの形成:25.7%

アーカイブとしての利用:25.0%

収益目的:10.1%

社会貢献:8.4%

 

自己表現:(1)内面的・精神的・主体的な思想や感情などを、外面的・客観的な形あるものとして表すこと。また、その表れた形である表情・身振り・記号・言語など。特に、芸術的形象たる文学作品(詩・小説など)・音楽・絵画・造形など。(2)外にあらわれること。外にあらわすこと。〔明治時代に作られた語〕

 

私としては、1.日本語文語と口語を混ぜた文章の維持 2.継続していくことで自分を鍛える を目的のふたつに挙げているのですが、あえて非公開にしないのは、特にそのことについて選択しないで済むのであれば、そのままでいいかな、という程度。しかも、広くからのひっかかり具合で(コメントやトラックバックなど)何か見えてくるものがあるかもしれない、というのもあるから。自分の中の何かを外に表現していくことで何かを達成したいということはあまりなく、この1.2.の目的がメインです。啓蒙ちっくな考えもないし、誰かに何かを押し付けたくもなく、記録としての使い方(アーカイブ)というのが私に当て嵌まるものなのでしょう。

 

もうちょっとソフトが使えたり写真を撮ったりするのであれば、確かに自己表現できるのかもなぁと思います。料理レシピだとか、クラフト(手で作ったもの)のアップだとか、それをコミュニティー化したりとか、ブログの可能性はでかいですよねぇ・・・。ただ、個人情報とのせめぎあいがあって、そんなに自由には表現できないというのも、きついのかもなぁ・・・と。

 

それに・・・、そんなに簡単に放棄してしまうほどの自己表現というのは、なんだ?とも思うのではあります。1ヶ月に1回の更新で表現できたと満足できるわけはないとも思いますし・・・。

 

役立つ情報提供をして、社会貢献できれば、本当に理想的なんでしょうねぇ・・・。私にはそんなものはなく・・・(汗)。

 

とはいえ、発信側に、素人が廻れるようになったわけなので、この意義や可能性については、大いに考えてみたほうがいいのでしょう。私は、いつか自分の限界を感じたら、非公開にするやもしれません。聴く耳を持っている、およびバーチャルとリアルの境目がほぼなく嘘はついていないよ、という態度の現われとして、公開にしているのですが、限界を感じたら非公開なんだろうなぁ・・・。メールや掲示板は、お返事を書くというのがMUSTなので、かなり物理的限界を感じたものなのですが、私のブログにコメントを書いてくださる方はうんと少ないので、まったくキャパ範囲内でよかったです←コメントを残したい方に防衛線を張っているわけではないので、誤解なさらずお願いします(笑)。

 

またもや週末が来てしまったので、忙しいのであります。お給料をもらっても、それを使えるチャンスがないというのは、かなり虚しく、だからこそ冷蔵庫も買えたといえば買えたんですが・・・(汗)。自己表現どころではない、という現実をお伝えしているのが、私のリアリティのようで・・・(汗)。

情熱を賭けて

07/03/2008にアップした文章です。

賭け事のススメをたまにしているような気になるんですが、そうではありません。表現として、ギリギリの勝負どころだよ、ということを言いたいだけで、実際に物理的にお金が移動するような賭け事をせずとも、毎日の生活の中で、ギャンブルはできます←同じことなのか?(笑)昨日、10回のレッスンを申し込んだ女性の最終日でした。彼女は必ずTOEIC950点が取れる人であるのに、どうしてなのか英語を放置しておいた、という状態について、性格や暮らし方など、最終日にまたもやかなり話したのでした。情熱を賭ける対象物についての、自分の心の動きなどをしっかり把握できたら、英語だけではなく、人生も、かなりの割合でラクになるのになぁと・・・。笑顔で別れたのでよかったのですが、もう一度、レッスンではない場でお会いしたいものです。

 

英語がまったくできない、という人に問題はあるのか?いや、ないです。まったく問題はないですね。ただ、この日本の英語熱というのは、いつから始まってこれだけのものになってしまったのか?ということを考えてみると、世界の構造や成り立ちや移り変わりがわかってくるかと思います。それをわかった上で、英語ができたほうができないよりまったくいい、という結論には達するはずです。

 

この論理性を身につけてきた人々が、英語をやらないわけはないので、私の生徒さんは、親御さんから押し付けられた方以外には、この「英語ができないよりはできたほうがいい」には賛同してくれます。ただし、その論拠については、ばらつきがあります。その論拠は、国際化してきた日本社会の世界での位置や機能なども含み、大きな枠から考えていき、最後に自分中心のことまで持ってこられて初めて、本当に英語をやる気になると思うのです。あるいは、自分の身の回りのことから始めてももちろんいいんですが、それでは大志になりにくいこともあります。大志とならねば、続けていくことはできず、優先順位が下がるわけです。

 

大志:大きなこころざし。大望。

志:(1)心に決めて目指していること。また、何になろう、何をしようと心に決めること。(2)人に対する厚意。人を思う気持ち。(3)好意・謝意などの気持ちを表す贈り物。また、故人を悼んで供える物やお布施などの上書きの語。(4)追善供養。

 

実際は、例では、この大志の対象物が英語なだけであり、どんな情熱でもいいんですが・・・。

 

この大志・情熱を賭ける対象物がないヒトや、その順位や優先度などがしっかり把握できていないヒトがあまりに多いことに、私はかなりびっくりしています。私が面倒くさいヤツなだけなのでしょうか?

 

小さい頃には、お気に入りの遊びがあり、それができない天候やら条件(メンツや時間や場所やその他)のときには、順位が下がったもので遊んでいくわけです。なんで、あんなにしつこいくらいに、同じ遊びを繰り返し繰り返し、飽きもせずにできたのか?私は、今、思うんですよ。まさしく、そのあとの人生で来る、大志を全うするために、擬似訓練をしていたのだということを。

 

失敗にクチビルを噛んだことや、顔を真っ赤にして泣きそうになるのを我慢したことや、言い訳がましいテレをみんなに見せたことや、できたときに自慢しすぎないことや、その他、本当にすべてが、この大志や情熱に向けた予行演習だったのだということは、今になればよくわかるのですが、そんなことを意識しているヒトは、基本的にとても少ないです。

 

小さい頃、何を繰り返しやっていたかも忘れてしまっていたり、どうしてあんなに好きだったのかも忘れていたり、好きなものそのものを持っていなかったことすらあり・・・。外で仲間と身体を使って遊ばなかったり、ひとりでも遊べる器具がたくさんあったり(器具じゃなくてゲームだよね。電子製品だ・・・)、遊びではなくて、勉強に向けさせられたり、なんだかそこからして、ボタンの掛け違いなんだろうと思うのです。

 

が、いいニュースは、これからでも決してこれらを意識して、繰り返しやっていくということは遅くないということ。能力を伸ばしたり、学習を実際にしたり、のTrial &Errorというのは、いくつになっても可能なことがステキです。

 

特に性悪説に肩を持つわけではないんですが、生き延びるためのエネルギー保存のために、生命体は「ラクな方」に流れる傾向があります。自分がスキルアップしてラクになるまである作業をやり達成感を得るのではなく、ラクな方法に変更してしまうのですね。問題がそれほどシビアでなければ、切り換えた方法すら放棄します。

 

私が縄跳びや水泳やマラソンやドッヂボールやその他、あれほど一生懸命やったのは、その当時は知らなかったものの、Highが得られたからです。ノルアドレナリンやセロトニンがしっかり脳の中で、ウニョウニョと動いて、私を気持ちよくさせてくれていたんですね。茂木先生などは、これを勉強で得ていたようですが、私は遊びと読書でしか得ていませんでした(笑)。今言えることは、繰り返しの情熱の対象物は、どんなものでもいいのだ、ということです。勉強だったら、親がこの法則を躾や教育に使えてしまうので、強制が掛かり、自主性が損なわれてしまうと、少し悲しいです。リスクです。私は講師ですが、使いませんよ・・・(汗)。

 

実は、昨日もEvitaを死ぬほど繰り返し見ていたし、おまけに夜中の2時にDon’t Cry for Me ArgentinaやI’d be surprisingly good for you, You Must Love Meなど、歌っていたのよ(笑)。ネコが寄ってくるからどうしたんだろう?と思って足元を見ると、私が声を出しているからじゃん・・・(爆)。しかも、繰り返し、何度も何度もしつこく歌ってるんだよねぇ・・・。途中で止められなくなり、アナログ時計で残り時間を逆算して、やっとの決意で止めたんですが・・・。

 

それでも今日は眠かった・・・。

 

私はこの「気持ちいい瞬間」というのが、相当頻繁に得られているようで、だからこの仕事も好きなようです。自分だけではなく、他人の脳みその中は見ることができないのだけれども、人体実験を自分の意志でしているヒトたちを外から観察しているような気持ち←わかるだろうか?

 

こうした対象物が、小さい頃の背の高さの目線と、私は今もなんら変わらないので、このあいだも、「絵心がない」とひとりで言い切ってしまったので、各種の花を描いてみたのであった。我が家には今、ホワイトボードがあるので、消したり描いたりできてよろしい♪気づいたら1時間も経っており、モデルになる実際の写真をネットで探しては、がんばってみたのだけれども、やっぱりダメなんだよなぁ・・・。

 

生徒さんのひとりが、プロはだしの絵を描くのです。ネコなんか紙から飛び出てくるかと思ったくらい・・・。私はルーブルにも4日間通ったし、オルセーにも3日通ったくらい、見るのは好きなのよね・・・。なので、実際どうして描けないのか、試してみたら、まぁ、夢中になったなった・・・(汗)←成果が得られなかったのは、やっぱりノウハウがわかっていないので、教室に通ったほうがいいとは思った(爆)。ただし、私にとっての絵画が描けるようになる、というのは、今のところ優先順位がかなり低いので、たぶん、教室に行くことはしばらくないのではないかとは思うのだ。ただし、こうしてチェックしてしまうあたり、小学生の頃と目線はまったく変わらず・・・。

 

他の人はこうしたことをしていないのだろうか?と不思議に思ったので、今日のエッセイになりました。遅くなってごめんなさい(ぺこり)。