のどかな1日

07/28/2008にアップした文章です。

 

昨日、仕事のミーティングがあり、二日酔いで起きたあと、アポを取ってあった髪の毛をやっつけに行きました。やっつけ仕事なのか(笑)。いつになったら髪の色を真っ黒に戻そうかと思案しつつ、まだいいかと思い、冬だったらば重くてもいいしな、と考えながら、朝の10時前に駅前を歩いていたら、すでにものすごく暑く、ぐったりしてしまいました。美容師さんとはもう1年くらいのお付き合いになるところなのかなぁ。それまではいろいろなところに1・2回行ってはやめていたのですが、固定にしました。古い、流行遅れの髪型にも文句を言わず、きれいにやってくれるからです。私は、美容院にしょっちゅう行かねばならない髪型にすることだけはどうしてもできず、さらにメンテナンスが手間が掛からなければ掛からないほどいいのです。なので、長いままでいます(笑)。

 

お昼前まで掛かって、お昼ご飯にはぐったりしていたので、日本そばを食べました。氷で冷やしたそばつゆに、山菜とみょうがとねぎを入れて、昨日の残りの揚げ物を食べて・・・。でも、やっぱりぐったりで、二日酔いだったせいもあり、食えないなぁ・・・。

 

そして、無料動画で、鬼平犯科帳第1シリーズが8までアップされていたので、ざらっと見てしまい、すでに泣いてしまい(笑)、そのあと、京極夏彦原作のドラマ『巷説百物語』と映画『姑獲鳥の夏』も見てしまいました。気づけばこんな時間・・・。いくらお休みだからと言ってこれではいけない・・・。朝はかなりやる気があって、メールをやっつけたあと、エッセイも書こうと思っていたのですが、二日酔いで着手できませんでした・・・。ごめんなさい。

 

ちょっとしか食べなかったにも拘らず、おなかがいっぱいになって家にいると眠くなるのはなぜなんでしょうか?気の緩みなの?さっき、不覚にも『姑獲鳥の夏』の最中に眠ってしまいそうになりました。そして、外は何度か知りませんが、家の中は32度あるにもかかわらず、私はエアコンを我慢しています。今度は母が髪を切りに出かけたのです。ネコたちはベランダに出て、涼やかだと感じているらしく、エアコンはうどちゃんの神経痛にも悪いので(最近、後ろ足に神経痛が出てきたようなのですよ・・・。この8月17日で17歳になるんだから仕方ないといえば仕方ないんですが・・・)、なるべく人間が我慢なのだ。アイスノンを2個出してきて、首と名のつくところから冷やし始めています。手首・足首・首筋360度が終わったので、今度はリンパ腺に乗せています。太ももの内側とわきの下はかなり冷えます。体温が下がった感じです。

 

が、早いところ母が戻って来て、エアコンがつけられればそれに越したことはないんですが・・・。

 

今日は、母が戻ってきたら、図書館に行こうと思っています。鬼平犯科帳を見ていて、また読んでみたいと思うようになりました。さいとうたかをプロで、なにやら時代劇を描いているようで、このあいだ、コンビニで買ったのですが、やはり劇画はダメです。満足度が低いです。

 

今日は、レッスンがひとつもない珍しい日なのですが、午前中電話がかかってきて、9・10月に掛けての10週間の1時間半のレッスンを2クラス、企業研修で受けることになりました。朝の8:30から10:00なのですが、朝の混雑ってどれくらいなのだろうか?各駅停車で座っていくほうがいいのだろうか?

 

そして、あまりに暑いので、ホラーや恐怖物語の動画を探しているところです。が、私は夜中の3時であろうとも、この手のものが見れてしまうので、それほど効果はないのか・・・。

 

昨日のミーティングは実のある内容で、とても満足しました。来年の3月末までは、自宅レッスンを拡張しつつ、企業派遣もこのまま受けていき、夜の数日は英語学校の講師を続けていきますが、来年4月を目標に、自分たちの手で運営する英語学校を開こうと思います。パートナーに選んだ女性たちの性格を、私はとても気に入っており、なんだか心が弾むような思いです。HPも内容を、昨日のミーティングで話し合ったことに変えていきます。目下、コピー機がリースできるように審査に掛けてもらっているところで、それができればドリルや教科書もサクサク作っていけるので、楽しみです。英語学校の既存のコンセプトをどう変えてプレゼンしていくか?が問題なのですが、3人で総意が取れたので、あとはコツコツがんばるだけですね。

 

今日は、こうしてのどかな1日なので、産業カウンセラーの宿題をやろうと思います。3個宿題があったのですが、2個は土曜日、プライベートレッスンをキャンセルされた時間でやり終わってしまいました。あと1個、イチバン面倒なのは、10分間のテープをテープ興しせねばならないのです。なのに、もらった紙は3枚しかなく、そのうちの5分をテープ興し提出分としてもってこい、ということなのですが、気づきや反省、良いところが多かった5分にしてくれとのことで、うーん・・・、どうしたらいいものか。

 

2時間半くらい掛かるらしいんですが、私は一体どれくらいでできるんだろうか?ちょっと不安ではあります。そして、終わってしまったほうの2個のうちの1個の宿題のため、授業中メモを取っていなかったクラスメイトからメールがあり、メモを見せてほしいとのこと。ファックス番号待ちをしているところです。

 

今日はマンションの掃除があり、業者さんが入って、排水系の掃除をしていて、掃除機の親玉みたいな音がしているので、ネコたちはとても落ち着かないので、あまりのどかではなくなってきています。だったら、閉めてエアコン入れてあげたほうがいいのかなぁ・・・。でも、帰ってきたら母はなんと言うだろうか?うーん・・・。

 

私にはお盆休みはなく、カレンダー通りに学校があります。お盆のときこそ、勉強したい!という奇特な方がいらっしゃるそうで、電車も空いていて通いやすいし、エアコンが効いているので、1日中がんばるって人がけっこういるそうです。私の自宅での学生さんの夏期講習も少し入っているので、そっちも力を入れねばなりません。私のUS行きはまだはっきり決まっておらず・・・。

 

母がやっと帰ってきましたが、また買い物に出かけるそうです。うーん・・・。ちょっとエアコン交渉してみよう(笑)。こんな年齢にもなって、どうして彼女の許可が必要なのか(笑)。汗がいっぱい出ているのですが、やっぱり彼女は「そんなに暑くないでしょ」とあっさり言われてしまいました(笑)。うーん・・・。今日はこのように圧倒的にのどかなのです。でも強行にエアコンをつけて、昼寝をすることにしました。ネコたちをベランダから呼び戻し、すべてのドアを閉めましたので、今日はこのへんで。

 

 

モノの喩え

07/27/2008 にアップした文章です。

 

私は、英語講師をやっているときに、「英語の実力」と「技術力」のふたつは別物だということを説明するときに、「東大や京大に入ったヒト全員が自分よりずっと賢いと思うか?」という喩えを出すんですが、昨日はびっくりした・・・。生徒さんのひとりが、東大卒だった(爆)。そして、彼に「東大を入って出たからといってみんなが賢いわけじゃない」という話に乗ってもらえて、かなりの盛り上がりを見せ、なんだかものすごい説得力でした。ああ、よかった・・・。東大や京大卒の方々を傷つけるつもりではないことは、しっかり伝わったようで・・・。モノの喩えってかなり難しいですわね・・・。



昨日、そんな話をしていて考えていたのが、モノの喩えで、小さい頃から私は具体的なイメージからもっと細部への理解を得るために、いろいろな人に「喩え」を求めてきました。気づくと持論である、映像化を知らずに習慣化していたようで。なので、理系な理解の仕方をそもそもしていたに違いなく、渡米してから航空学をやってもできることになったんでしょうね。言葉で理解することには限界があり、段階的には無駄な作業が入ります。英語を教えていて何をホザイているのかと笑われてしまいそうですが、言語は頭の中にあるイメージ(映像や図や表など)を文字化・言葉化することで成り立っているので、その映像化をフルに使うほうが、英語もずっと速く上達するのです。

 

なので、喩えがあったほうが、映像化もしやすくなります。が、文字化することで英語を習ってきた日本人には、なかなかUnlearningができない・・・。英語をなぜ和訳し続けながら時間を掛ける必要があるのか?と問うてみても、明確にその理由を答えられるヒトは少ないです(ゼロ、いないとは言いません。が、私はそれらの答えに納得したことは、ただの一度もないですね、今のところまでは)。

 

詳しいことがお知りになりたい場合は、ぜひ英語を私から習ってみてくださいね←広告(爆)。

 

私が小さい頃から喩えてもらって助かっていたのは、ぼやっとした子どもだったからではなく、むしろ、もっと深く知るために、具体的に知りたかったのでしょう。未知なる物事を自分の中に取り込むためには、既知をフルに駆動させて、どんな助けでも借りてしまえ!というのは、未だにやっていることですし、私のゆるゆるな性格はこんなところから生まれており、何かの主義に確固と寄ることがないのも、これが源なのではないか?と思っています。

 

この世に確かなことがそれほどないとわかっていても、私が確かだと言えるのは、

「すべての物事は繋がっている」ということ。

 

何かが世の中のすべてのものから孤立して存在しているということは、自然科学的見地からも、社会科学的見地からも、まったくありえない・・・。遠くのものがどうしてコレと繋がっているのか?と問われたときに、その道のりがどんなに遠くても、なるべく理解してもらえるようにつなげて説明しようとする態度があるのは、おおっぴらに「すべての物事は繋がっている」と言ってしまっているからなんですが(爆)。それに、私もそうやって、拙い喩えから得たものは多く(そりゃぁ、廻りは私と同じ子どもが圧倒的に多かったし・・・)、私の世界はどんどん繋がって行ったのです。そして、不思議なことに喩えを頻用すると、上手になってくるのですねぇ。

 

そこで、ふと立ち止まってみると、2週間前に悩まされた産業カウンセラー講座の座学のほうの講師が頻繁に使っていた口癖、「~みたいな」というのも、喩えから来ていることに気づくわけです。いや、あれだけ多いと、もちろん喩えから程遠いところにあるもののほうがずっと多いんですけどもね・・・。が、英語でも、Like~という言い方は子どもっぽいとはいへども、かなり使われています。10代の子たちは使わないと話せないかもしれないです。私の英語に関しては、日本のある文化や食べ物などを、○×の△のような、と喩えるときに、Likeを使っていたことを思い出し、ここに至ります。

 

コミュニケーションの核である目的は、「物事を伝え合う」ことにありますから、Like~、~みたいな、というのは、あって然りではありますが、あんなにたくさん使われると死にそうになりましたね・・・。数えたんですが(笑)。Monkのような強迫観念症になってしまったかと思っちゃいました(汗)。

 

英語を教えていても、友人と話していても、相手にわかるように、シチュエーションを替えたら、登場人物を替えたら、こんな話なのよ、というふうに伝えられるというのは、強みです。ビジネスでも同じなのでしょうし、料理などの味や感性が主の美術なども、主観をどのように客観に置き換えられるか?というのがキーになるんじゃなかろうかと・・・。

 

量子力学においては、完全なる客観はありえない、としています。John von Neumann(ジョン・フォイ・ノイマン)は、現在のコペンハーゲン解釈のための大きな礎になった考え方ですが、観察が起きたその瞬間に波動関数の収縮が起きるとしたのです。観察がなければ、いわゆる主観を持つ観察者がいなければ、収縮は起きず、そこには普遍が存在する。が、観察者がいてしまうがために変化がもたらされる。だとしたならば、この世は多くの主観の集まりでしかなく、似ていて非なるものばかりがたくさんたくさん集まっているのでしょう。

 

だとしたならば、どのくらい似ているのか?ということに対して繊細なほうが、きっと物事への理解というのは深くなります。私は、子どもの頃はそう思っていませんでしたが、ヘリコプターに乗るようになってから、よくそう思うようになりました。雲の下と上の世界の違いや、風が起きたときの向きによっての受け止め方の違いや、そもそものグラウンドスピードとエアスピードの違いなど、考えることはとても多かったのです。そして、それが私の主観なのか、本当に冷静に普遍的に物理の説明のように起きていることなのか、いつも混乱していたのですよねぇ・・・(笑)。とはいえ、すぐにけろっと忘れて、機内マイクつきヘッドフォンで『東京だよ、おっかさん』やら、『科学戦隊ガッチャマン』を歌ったことも事実です(笑)。

 

たとえば、心が非常に苦しいときや、胸が痛いときなど、他人に話しても理解してもらえなければ、やっぱりつらさは激減しないと思うのです。話したいなと思っても、話がうまく伝わらなければやっぱり話さなければよかったとすら思うこともある・・・。話すことそのものに勇気が必要だったのに、わかってもらえないとさらにつらさは増すかもしれません。「こんな感じ」でもいいので、喩えがあって、他人に伝わると、浄化効果(カタルシス)が起きて、なんとなく気分はラクになります。

 

理解も同じで、アノ手コノ手で喩えを使って説明してくれる人がいても、わからないと歯軋りです。喩えをうまく使うことができたら、本当に世界は広がっていき、深みを増していくと思うのです。

 

いい喩えあったら、教えてください。矢沢永吉は日本のミック・ジャガーというのやら、ソウル大学は日本の東大みたいなもの、と、いろいろ役に立つ喩えはあるんですよ♪

 

 

コンビニ規制どう思う?

07/26/2008にアップした文章です。

 

アメリカで暮らしてしまった今となっては、私は朝型人間なので、コンビニ規制があっても特に困らないのです。いやぁ、アメリカ人は朝型人間が多いですよ・・・。朝のニュースを4時から見る人口は多いんだろうと思うよ。だって、フリーウェイのラッシュが開始されるのは、6時台ですからねぇ。しかも、エクササイズを取り入れて暮らしている方々というのは、朝やる人が多いです。その手の番組も朝からたくさんあり・・・(笑)。私は、ばばぁになってから朝型になったわけでもなく、アメリカに行った24歳半くらいから朝型になったので、今ではそれが当然になっており、お日様が昇ると起きてしまうという損なこともあるくらいです。



今、夜の商売をしているので、家に帰ってくるのが10時15分くらいなのです。9時半まで教えて、いろいろやって、新宿駅で9時50分に乗るんですね。準特急なのですが、10時6分くらいに到着し、まごまごしていなければ、10分くらいには家に到着なのですが、暑いせいなのか、母に電話をして献立を聞いて、それによってはビールを買って帰るのでした(笑)。彼女が買っておいてくれることもあるんですが、あまり飲んでもらいたくないらしいので(自分は飲むんですけどね・・・)、しかも私のお財布からお金が出たほうがうれしいらしいので、電話をいつも待っているような状態で・・・。カエルコールは続いていきます。

 

でもなぁ、冬はこんなじゃなかったんだけどなぁ・・・。

 

環境問題について意識を持つことが、生活の中に蔓延してきました。環境省では、小池百合子大臣の頃にものすごいキャンペーンをやったそうで、番組の取材をOKにして、そのレポートに来た芸能人を「大使」に任命してしまったりだとか、子どもたち向けの本の作成やら、エコ会員を作ってしまったりだとか、クールビズだとか、本当にいろいろなことをしたんですねぇ・・・。

 

本当にエコ化にどのくらい数値として貢献しているのかは謎ではありますが・・・。まずはこの時期、意識問題に触れていこうということだったのかもしれません。

 

1日だけでも主要ビルなどが節電するとCO2の排出量がものすごく減るそうですから、やっぱりアレは続けたほうがいいのでしょう。夏至の日にやっていましたよね。私は暗いところは大丈夫だし、特に観光地に行くわけでもなく、ビルの中に居ることはあっても外でそれを眺めることはほぼないので、イルミネーションで心が温かくなるわけでもなく・・・。特に、このクソ暑い時期にイルミネーションは見ているだけで暑い(笑)。蛍の灯りを水辺で見ているならまだしも、エアコンが効いていた屋内から屋外に出て、粋も何もないです・・・。

 

うーん、花火大会に出かけているのか男女で浴衣を着ている人なども、電車でたまに見かけますが、これからはその風景も増えていくのでしょう。でも暑いよなぁと思います。昔の川っぺりとは違うだろう・・・と。

 

さて、コンビニ規制。本当に深夜以降の営業をやめるとどうなるのか?数字で示したサイトはないのか?と探してみました。わずか0.1%なんですってね。どう多く見積もった計算をしても0.54%らしい。1%行かないのかよ・・・とアゼンとしてしまいました。

 

国民のライフスタイルを変えてやれ!という示唆がない限り、資本主義の王道をニッポンが貫く限りにおいて、コンビニの深夜規制はバカなアイディアなんでしょう。

 

エコ関連では、社内の28度エアコン設定なんかもバカみたいです。能率が悪くなるので、結局残業をせねばならなくなり、時間が長くなれば、それだけエアコンもつけているに違いなく・・・。だったら26度くらいの設定にしておいて、みんなできっちり6時に帰ればいいじゃん・・・と思うんですけども。強制的に閉めてしまえばいいくらいでしょう。残業もみんなですればいいじゃん・・・と思うのだ。だから曜日を決めて残業デーを設けているところもあるんだから、強制ではなく、とりあえず意識をくすぐった結果、良心が何をしようとしていくのか?を見守っていけばいんじゃないのかなぁ。

 

相変わらず、私ってゆるいやつだよね(爆)。

 

調布駅で準特急を降りて、夜の10時過ぎでも暑いなぁと思う私は、ビールを買う必要があるときに入るコンビニにはかなり救われる・・・。ひんやりしていて、一心地なのです♪

 

サービス業などをしていて、その時間帯しか買い物ができない、という人々というのは、コンビニがあれば確かに助かるんでしょうけれども、実際はそれを改めたほうが、そのヒト個人の幸せには繋がりますぜ。お休みの日にまとめ買いをするとか(スーパーなどでしっかり安売りにめぼしをつけて買い物したほうが安いに違いなく・・・)、少しでも生活をお日様に合わせたほうが、寿命も延びますし、頭もすっきりですしね。

 

ただ、それは個人の選択なので、私がどうこう言うことでもなく、そうしたい人々に国力をこの先預けていくのがイヤだ!不安だ!と、政治家のみなさまが思っているから、暗に二酸化炭素排出量のせいにして、コンビニ規制をしていくのか?とも思えるわけです。数字が1%に満たないものに、どうしてこんなにリキを入れているのか意味がわからず・・・。

 

それよりも、電力は昼間に消費されることのほうがずっと多いのだから、工場のほうを深夜にフル活動させて、安い料金で使わせて、昼間は閉める方向にすればいいと思うんだけどもなぁ。で、深夜手当てを見込んだ格差がある職種についている人々に、数ヶ月から数年、健康を我慢してもらって貯蓄してもらうっていう手もありでしょう・・・。やっているところはたくさんあるのかなぁ・・・。

 

私は、この夏、すでに夜エアコンをつけておやすみタイマーをつけつつ、寝ています。我慢してきたのだけれども、もう無理だ・・・。風がある日もたまにあるんですが、その風の方向がマンションの建ち方と逆方向のときがあり、そんなときは無効なので。しかも、ネコたちが私にひっつき虫のようにペタンとくっついて眠るので、暑いんだよなぁ。枕にはアイスノンをタオルにくるんでクビを冷やして眠っています。

 

私が夜の12時過ぎにコンビニを使うことはなく、東京に帰ってきてからまだ終電体験もありません。が、コンビニを使う人たちにとっては、やっぱりこの規制はおかしいんでしょうし、業界全体にとっても打撃でしょう。意図はどこにあるのかなぁ・・・。国としての対面は、数字で示すものだと思うので、特にメリットないような気がするんだけどなぁ・・・。

 

 

親の過保護、とはどこからを言う?

ひとつ明確にしておいたほうがいいのは、過保護と過干渉の違いです。

 

過保護:子どもなどを、必要以上にいたわって育てること。保護過剰。

過干渉:虐待の一種であり「保護者が我が子を一人の主体的な人間として認めず、その子供の意思や思考、自我の発達や自主性などを否定して、操り人形のごとく親の意のままにコントロールしようとすること」である。

 

保護:外からの危険・脅威・破壊などからかばい守ること。

 

危険:1 あぶないこと。生命や身体の損害、事故・災害などが生じる可能性のあること。また、そのさま。「身に危険が迫る」「高所での危険な作業」⇔安全。2 悪い結果を招く可能性があること。また、そのさま。「国際的に孤立する危険がある」「危険な賭 (か) けに出る」

脅威:強い力や勢いでおびやかすこと。また、おびやかされて感じる恐ろしさ。

破壊:建造物・器物・秩序・組織などをこわすこと。また、それらがこわれること。

 

まずは「何から守るのか」をどのように守る側が感じるか?で大いに過保護は変わってきます。

 

たとえば昭和生まれ&育ちの私は、調布市深大寺から多摩川まで、バスを2つ乗り継ぐ距離を、子どもたちだけで夏休みの冒険をさせてもらえたのですが、イマドキはきっと無理でしょう。しかもその子どもの総数は8名だったので、誰に統率力を期待していたのか?も今となっては謎です(笑)。

 

さらに、父の田舎の「天竜峡」という駅まで、あずさでひとりで旅をしたことも小学校1年生ですでにしていたので、何を危険・脅威と定義するのか?は違います。そしてこんな育ちをした私は、その後、バイクに乗ったり、サーキットランをしたり、ヘリコプターのパイロットのライセンスを取得するわけです。

 

でもバンジージャンプはしないんですよ(笑)。なぜならば、サービスを提供している団体をどの程度信用するか?がぼやけすぎているので、それを測るのが面倒くさいからです(笑)。まぁ、「でかさを体験するために北海道に行くといいよ」と言われて、「え?カリフォルニアの砂漠や森林や渓谷のほうがずっとでっかいと思うよ」というのと同じです。

 

むしろ子どもがどの程度、「自分で自分を自治していけるか?」という能力を見極める、親の力や先生などの大人の力のほうがずっと重要です。子どもや小社会のルールによって違いますから、一概に「これが正解!」というものはないはずです。

 

私個人は、比較的野放し状態に育ったことを、今非常に感謝しています。でなければ今の私はいなかったし、勇気も持てなかったし、自由の重大さを満喫できなかったと思うのです。

 

むしろ、保護しているつもりで、過干渉しているほうがもっと重篤な罪です。虐待の一種ですから、児童相談所にリポートしてもいいレベルです。とはいえ、これはどこでもかなり行われていることで、この線引きも非常に難しいのが現状です。

 

自分の意のままに、ではなく、本当の意味での「危険・脅威・破壊」を考えたり、価値観の多様性の中しっかり自分らしく生きていけるようにするためには、自分らしさについての引き出しをたくさん増やしてあげられるような育て方をして、制限ばかりではないことが大切だろうな、と思います。

 

とはいえ、昭和のような育て方はもうできないんでしょうね・・・。(・・;)

 

 

 

現代におけるゴシップの役割

07/25/2008 にアップした文章です。

 

今日はけっこういい記事を見つけましたねぇ。しかも、中央日報からなので、ちょっとうれしい。昨日、私が受け持っていた韓国人の女の子の授業が終了し、彼女は2ヶ月ほど日本と韓国を行ったり来たりの生活になります。彼女は私のことを好いてくれており、メールを約束してくれていたり、英語の勉強の続行や、将来設計などの相談などをしたりすることは自明になっており、私ももう少し日韓関係について考えたほうがいいのかなぁと思っているところ。私個人は、韓国に対しての悪感情はなく、感情ではないところで、冷静に論理的に物事を解析したいと願っていて、それを言動に反映させていきたいと毎日思っています。今回、彼女の大学の面接試験の準備で、それについては本当にいろいろ考えさせられました。



元記事はコレ>例は、韓国の芸能界のゴシップなのですが、特に日本でも米国でも同じことで・・・。

http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=102785&servcode=100&sectcode=120 

 

そもそもの実験を行ったのは、米国で、とはあるのですが、科学者の名前が書いていないところが悲しいです。さして重要ではないと思っているのだろうか?私が見るに、これは進化心理学をやっている人々か、文化人類学や社会心理学のある分野での実験なのです。この実験の設定は、リアルライフを反映した凝縮版でなければならず、仮想とはいえども、なるべく忠実に深層心理を通って、行動に顕れるものではなくてはならず・・・。けっこういいセン行っているんじゃないかなぁと思うのですが、論文そのものを見ることができないので、ちょっと残念。

 

生きていくことそのもの=サバイバル、という前提が成り立つので、それを小さいスケールで設定するのですが、損益がゲームの目的である、メンバーの価値了解が至って明確な貨幣による投資ゲーム。そこには、情報が入るというもので、2種類あり、ひとつは投資活動そのものに反映される類の情報で、もうひとつは投資先のヒトに関する情報。それぞれにポジティブとネガティブな情報があるが、ゴシップという後者の影響のほうが、投資活動そのものの情報よりも影響が大きかった、という結果が出たのですって。

 

なんとなくわかる・・・。

 

「人間は他人の形態を常に観察できないため、他の人が集めてきた情報であるゴシップに大きく頼る方向で進化してきた」「ゴシップを通した情報共有が集団の紐帯感を強め、各自が評判を憂慮して協力的に行動するよう導く肯定的な効果を発揮した」

 

これを狩猟活動などに置き換えてみるといいのだろうと・・・。グループで狩りをするのが主流だったのは、大きな動物を分配して生活をしていた狩猟民族で、たとえ仕留めても個人ではとても運び切れなかったり、保存や冷蔵ができないので、分配したほうが効率的で無駄がない場合、多くの部族は男の人たちが幾人かのグループを作って活動します。狩猟そのものの活動情報よりは、残された女性や若くてまだ狩猟グループに入らない人々たちは、ゴシップのほうを信じた、ということになります。でも、当時は、きっと純粋に口伝を今よりもずっと信じたのだろうし、マスメディアなどがないがゆえに、情報の統一性も大きかったのだろうと思えます。良い・悪いというヒトの判断なども、きっと今とは格段に違っていただろうし・・・。

 

残された女性たちは、分配方法にはいろいろな方法があったにせよ、自分とその子どものサバイバル率を増やすために、狩猟が上手な男を選びたいはず。若くて狩猟グループにこれから入る男性たちも、いっしょに活動したほうが学ぶものが多かったり、分配率が高くなったりするので、きっと、有効なのは、狩猟そのものに関する情報のはずなのです。

 

現代に生きる私たちも、「口コミ」が流行ったり、これだけの情報誌がたくさん出ていたり、大きくてたくさんの利益が出ている会社には、多くTV局や雑誌社やIT業界や広告会社などが座しています。たくさんの感じ方や考え方があっていいはずですが、その良い・悪いというのが、どうも他人を評することになると、しかも匿名性を帯びると、どうも悪いことばかりが氾濫しちゃってるんですねぇ・・・。昔の匿名性などというのは、探偵や刑事が来たときに、「ここだけの話ですよ・・・」などと言いつつ、秘密めいて話をしたり、近所での井戸端会議で小さい世界のことだけを話してきたはずでした。ところが、新聞に投稿欄ができたり、TVやラジオにはがきが出せるようになり、今度はネットだ・・・。その受け口というのはきっと大昔の何万倍くらいになっていることでしょう。いや、もしかすると、もっとかもしれないです。

 

もうひとつ考えると、情報を正確に流すというのは、かなりな労力が必要です。ゴシップには少しだけ、その苦労や情熱やエネルギーが少なくて済むようなところがある。プロは別でしょうけれども(というかそう願いたいだけですけども・・・)。

 

そして、その情報が正確でなければ、情報処理や解析ができるわけもなく、人々はどんどん横道に逸れていき、論理性は減り、ゴシップ性が高くなっていく・・・。

 

井戸端会議などでは、秘密や他人の評価などをしたヒトは、近所にやはりいつかバレたりしていたのです。その制裁というのもあり、村八分になるようなこともあったり・・・。が、匿名性というベールの内側で、人々は、面と向かった他人には到底言えないようなことが言えるようになってきています。特に、無機質のスクリーンの向こう側のナマミの人間について、しかも一度も会ったことがないヒトについて、思いを馳せることはなかなかできないです。

 

生業でもないことで、細心の注意を払い、他人を傷つけないようにするって、かなりたいへんでしょうし、自分が生活していく上で受けているストレス値も、大昔に比べればひどく上がっています。いや、ここ20年ですらこんなにドラマチックに変わっていることは、私が請け負います(笑)。私の知っていた20年前の東京と、今の東京は、ものすごい差がありますから。ストレス度合いは、私がアメリカカリフォルニアの田舎な暮らしに慣れてしまったせいもあるにせよ、やはりそれを引き算しても、格段の差です。便利になった反面、Give and Takeしてしまった代償がここには満ち溢れています。ええ、エレベーターの中で他人に話しかけられないつらさ、まだ味わっていますし(笑)。20年前は話せたんだけどなぁ(笑)。私は六本木でも銀座でも挨拶してましたけどねぇ・・・。

 

というわけで、私はゴシップをあまりよしとせず、記事を見ることは見ても、誰が書いているのか、どこが発信元なのか、どういった証拠があるのか、などなど、しつこく見るのを癖にしています。ただ、私も東京生活に疲れてしまっており、時々、よく数字などのデータを集めることを面倒くさがって後回しにしたり、誰かに頼ったりしていますよね・・・。

 

もう少し、意識しながら他人のゴシップはするようにお願いしたいです。悪口は、本人に言えることだけしか言わない、というのを、私は励行しています。まぁ、Obama氏や福田総理やその他の人々に生涯、一度たりとて逢えるとは思っていませんが、それでもそれを励行しています。きっぱりした覚悟がないと、きっと近くにいるヒトのことも、いつしかおざなりに悪口を言ってしまうかもしれませんので・・・。

 

 

口先ばかりではいけないよ

07/24/2008 にアップした文章です。

 

「口先ばっかりではいけない」と、小さい頃には何度言われてきたことか・・・。ふぅ。今でも自分で自分に言い聞かせるほどなのですが、やはり人間というのは怠惰にできているのね・・・。生徒さんにも大共感してもらえる率が高いのは、「どうもやる気が起こらない」というもの(笑)。みんな英語は話したいのだけれども、そのためにはどうすればいいのかわからない・・・。まぁ、わからないから習いに来ているのではありますが・・・。その教える側にいる私とて、英語はできるようになったものの、ほかのことでは日々「やる気がフツフツと湧いてくるための工夫」をいつも駆使して、なんとかがんばっているだけに過ぎず・・・。なので、みんなの気持ちはすぐわかるのよぉぉぉ。

 

けれども、その「口先ばっかり」は、たいていの大人であれば、自分の身の回りのことだけにしておくはずなんですが、そうでもない他人様に迷惑を掛けるヒトもいたりはしますよね・・・。そうなると、いっしょに行動したり、仕事をしたり、アテにできなくなる回数が増えると、人間関係として解消したくなるのが常・・・。

 

ひょっとすると、私に友人が少ないのはそのせいなのか?と少し反省してみたりはしますが、私の友人が少ないのはそのせいではなく、私がハイパーがゆえに、人様を心地悪くしてしまうことが主原因のようです。圧倒的にそうですね。なので、宴会要員としては貴重だったり、元気がないときに逢って話をするのには便利だったりするのですが、いつもいっしょに行動するのは、おそらくとてもたいへんなのでしょう。

 

私は、生徒さんに頼まれた添削でも、約束した調べ物でも、授業で次に教えることにしたものでも、翻すことはないのですが、忙しくて忘れたりすることがあっても、英語学校なので、資料揃えにはあまり不自由しないせいがあるし、特に準備が長い時間かからないせいもあります。

 

ところが、娑婆でしっかり額に汗をして働いている皆々様のお仕事というのは、おそらく段取りが大切で、かなり時間のかかるものでもあり、自分のメインの仕事の他に頼まれ仕事や、プライベートがあったりなどして、どんどんとThings to Doリストは埋まっていくわけですよねぇ・・・。そして、し忘れてしまったことどもが増えて、最も理不尽な扱いを受けたような気持ちになるのは、うんと近い人たち軍団と、(どうでも)いい人たち軍団と、ひとりでも何でも何とかやってしまう人たち軍団なのですよねぇ。

 

これらの軍団に属すると、かなり損した感があり・・・。

 

当の本人には悪気はないのですが、やることがたんまり増えてしまうとやっぱりどこかで犠牲(者)が出るわけで・・・。

 

どうしてできないことをできると言ってしまうのか?というところから始めてみます。結論から言えば、真ん中に御座しているのは、Selfです。自己を愛おしいと思う気持ちが強いがゆえに、「できない」とは言えない。周囲に無能とも思われたくはないし、タイムマネージメントができないとも思われたくない。さらに、自分は価値が高いはずなのだから、できないわけはないし、とかなり高を括っています。瞬時に自分のThings to Doリストを振り返ることができればいいんですが、必ずしもそうできるとは限らず・・・。特に依頼するヒトとの関係にも重要性があり、自分が極端に好きか嫌いな人であれば、「できない」とは必ず言えないわけで・・・。安定した関係を保っている場合によっては好きにも嫌いにもなるような相手からの依頼であれば、冷静になれるんですが、人間関係にはほとんどDynamics(力学)が働いています。そのせいで、No!とは言えないことは増えていく・・・。

 

できることを頼まれているにしろ、その前に口先で引き受けてしまったことがどのくらいの量があり、どのくらいの時間がかかるのか?というのも大切な査定ですが、これをしっかりできていない場合、けっこうな破綻が来ますよねぇ・・・。そうして犠牲になるのは、子どもとのキャッチボールの時間だけではなく、ごはんすら最後にいついっしょに食べたのかわからず、ごはんを食べたにしろ、話は聞けないし、コミュニケーションスキルがどんどん下がっていき、家庭が機能していかなくなるんですよねぇ・・・。

 

いろいろなニュースで、「子どもの気持ちがわからない」と叫ぶ親の様子が伝えられていますが、向き合う時間が物理的に少ないのであれば、しかも自分の暮らしと心と身体がバラバラだったら、やっぱり無理だよね・・・としか言えず・・・。

 

自分についてのことだけに限定できている人たちについては、善人がゆえにひとりで悩むのよねぇ・・・。私も目標を高く設定しており(億単位のお金を貯めて、生涯学生をまたアメリカでやりたいというのが目標。でかいのである・・・)、それまでの小さなBaby Stepsをしっかり考えていくのが必須だと、日々邁進しているところなのです。いろいろな障害があったのですが、やっとまともなレベルくらいにはCounter-culture shockも克服し、たまに立ち止まったりはしていますが、何とか日々をつつがなく暮らせるようにはなっています。暑さがネックではあるんですが(爆)。

 

私は基本的に「有言実行」をよしとしています。でないと、できないことのほうが今よりずっと多くなるので。大昔の日本人の美徳がどうもできない性質らしく、宣言してしまわないと、どうもそれに辻褄を合わせられなくなり、どうでもよくなってしまうことがあるんですよねぇ・・・。弱い人間である(爆)。

 

そこで、Selfへの愛がありますから、「自分だけは裏切らない」というマントラを唱えることにして、何とかやろうとするわけです。このブログも、今回初めて1週間ほどお休みしてしまいましたが、それまではかなり長いあいだ、1日だけ二日酔いでお休みするなどはしたものの、日本とアメリカを往復するあいだにも、日数とエッセイ数の辻褄が合うように、としっかりプランニングまでしてアップしていたのですね。こうして半パブリックなところで宣言をしてしまったことに関して、責任を持つ行動をするのは当たり前の自己愛で・・・。

 

私にはコレが機能するので、有言実行は他のことにも多用しています。「口先ばっかり」と母に言われるのが、最も悔しいことなので、家の中でのこともかなり効率的にやれるようになっており、できないことは最初から放棄(爆)。私の機嫌がよいと、稼ぎもアテにできて、ネコたちも機嫌がよいので、母は昨日の夜は、ネバネバ丼を作ってくれたのですが、TVで見るよりおいしくなかった・・・(汗)。夏バテにはならぬよう、と、母の愛情であったのですが、そのネバネバ丼を食べていたときに、「世の中は口先ばっかりのヒトたちだらけだね」と言っていて、何かのTVのせいだったとは思うんですが、なんとなくこのお題に行き着きました。

 

そして、母が、「そういえば、あんた、最近口先ばっかりじゃなくなったね・・・」とめずらしく褒めてくれました。やっぱりたまには休んでダレて家でのんびりしてみるもんだなぁ(笑)。しゃかりきに張り切りすぎて、自己愛に充ちてしまうよりは、自分の能力を知ってセーブすることのほうが大切な場合もあるし、っていういい例でした。

 

口先ばかりになっていないかどうか、たまにはチェックしてみてくださいね♪

 

 

英語がなかなか聞き取れない原因とは?

昔むかし、日本人は「日本耳」というすばらしい耳を先祖代々持っていたということです。現代では、その日本耳を持つ割合は、10%、10人にひとりになってしまったということなのですが、近代化から現代化が進み、自然の音に触れあい、生活の中で音を使うことが減り、鋭敏度が減ってしまった結果、視覚ばかりを使い、聴覚が鈍化してきています。そのため、英語だけではなく、Listeningそのものの能力が目減りしており、そこを改善したあとのほうが、英語のListeningも順調に運ぶ、と考えているのが Precious One English Schoolです。しかも、Listeningの学習だけで3-6時間ほど、基礎コースの中に採り入れています。

 

単なる多聴では、あまり効果がありませんし、教材選びも入念にしたほうがいいですし、目的意識を高めたり、何を聴くのかはっきりさせたり、語彙に関しての疑念や自信のなさなども明瞭にしてどのような態度で臨むのか決定づけ、日本語に決して直さないようにして聴くように、という方法をしっかり身に着けることが大切です。

 

日本語でListeningをマスターしたプロセスを、残念ながら多くの私たちは記憶していません。なぜならば、それは胎児の頃から生まれた環境が与えた音を、最初のうちは「言語」として捉えておらず、さまざまな音を脳が成長するにつれ、どんどん区別したり、分類したり、無意識のうちに聴いていたからです。

 

現在、Listeningに喘いでいる方々は、おそらくたくさんのノイズをいっしょに取り込んでしまっています。音がもたらすものがイッタイ何なのか、その中で優先順位として何を聴くようにしたらいいのか、どうすれば「理解」に到達するのか、などなど、あまり順番を組み立ててもいないのです。

 

日本語では子どもの頃、本能の命ずるままにしてきたはずです。そこには心理的な動機の第一義は、「Survival:生き残るため」しかなく、それに沿った聴き方ができていたのですが、大人になり、さほど不自由をしていないので、しかも第二言語なので、聴くことを何か特別なことのようにして、特に母語に置き換えることを「当たり前」としているわけです。

 

英語は英語で。

日本語は日本語で。

自然音は自然音で。

などなど、聴くことに関してもう一度、初心に戻ってみることが大切です。

 

でなければ、音を捉えているのではなく、「意味」を捉えている自分に気づけません。英語のListeningはなぜか、「意味を捉え理解すること」としているのです。が、実際に音から理解できることは多岐に渡り、「意味」限定ではないことに気づいてください。

 

感情もたくさん入っています。喜怒哀楽だけではなく、皮肉や反意、戸惑いや強調、本当にいろいろが入っていて、母語では「言葉が与える意味」だけではなく、かなりまんべんなく優先順位をつけて聴こえるようになってきたはずです。

 

そこに戻ることができる学習法を得ること。

 

でなければなかなか聴き取れません。しかも多聴から離れる勇気持てますか??

 

 

近視の進み

06/30/2008にアップした文章です。

ちょっとびっくりしているのが、帰国してからの近視の進み方。そりゃぁ、特記したいくらいの進みなのです。子どもでもあるまいし、どうしてこんなに進むのか?PCを使っている時間はまったく変わらないし、TVも真剣には見ておらず、むしろアメリカに居た頃より時間は減っている。難を言えば、画面が少し小さくはなったのですが・・・。中学の頃、最初にめがねをかけ始めたときには、0.5という緩やかさだったのですが、どんどん進み、渡米したときには0.2を切るようになりました。そのせいで、日本ではパイロットができないのだ、というのも選択肢が閉ざされた理由。

 

そもそも、どうしたメカニズムで近視が起きるのだろうか?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A6%96

なんとなくはわかっていたものの、こうして説明されるとクリアだなぁと感心してしまった(笑)。

 

私の場合、遺伝による要素は低いのではないかと思われるのです。母方には近視は2代前までは誰もおらず、父方では父の6人兄弟のうち、2人が近視だったのですが、後天的だったため。ひとりは、洋裁学校に通い、それを職業とした結果、近視になり、もうひとりは兄弟中で最も勉強したために近視になったのが19歳のとき、ということ。

 

私は、小学校5年くらいから遠くがあまり見えなくなってきていたものの、周りの大人は誰ひとり気づいてくれなかった、という有様。なぜならば、近視という選択肢すら彼らは持たなかったわけで、家が狭かったために、TVは1mくらいのところで見ていて、不自由な態を見せなかったこともあり、勉強など家でしたことはないので(笑)。私自身も、黒板さえ見えればいいのだ、という程度にしか認識しておらず、イチバン後ろの席から(勉強しない子って、後ろの席が好きだよね・・・汗)見えなくなりつつあったときでも、特に授業中は勉強をしていなかったため(学校には遊びに行っていた・・・)、特に気にしてはいなかった・・・。

 

そして、年に1回ある身体検査で引っ掛ったのが始まりで、学校の先生が親に言うことになったという事実。それが中学2年のときかなぁ。母の第一声は、「まったくこの子は金食い虫だねぇ・・・」というもの(爆)。めがねは確かに高いし、本来なら無用のものであったはずで、申し訳なかったよ・・・。

 

私が近視になった原因は、ただひたすら読書のせいです。しかも暗いところで少ない灯りで読んでいたため。寝ろ!と言われてからも読んでいたのですが、布団の下で懐中電灯で読んだこともあり、後日、それがバレて、「電池のほうが高い」という結論に達したあと、「昼間読め!」モードに変わり、それも外で遊ぶことに優先されてしまっており、みんなが起きているときにTVを見ないで読む、というルールに変わったのだった。だが、それでもやっぱり読んでいて、ひとりの部屋がなかったために、母が起きて何かを続けているときに読み、真っ暗になったら寝るということに落ち着いたのだけれども、中学になって、一部屋がもらえたときには、あまり関係なく、スタンドを点けて読んでいましたね。

 

同時に、私はあまり煌々と明るい光が好きでもなく、乱視もあったために、アメリカの間接照明は不愉快ではありませんでした。日本から来たヒトはみな、口々に、「アメリカの家って暗いね」と言うのですが、西さんは未だに言うんですが(爆)、私は特に暗いと思わないくらいで・・・。

 

やはり24歳過ぎてから勉強をするようになったので、それからもまたもや近視は進んでいきます。10代の頃、本はまだ読み続けていましたが、バイトのほうが優先されており、私の生活の優先順位は、1.バイト 2.恋愛 3.読書 うーんと順位が下がって勉強だったのです。でも、恋愛というのもいい加減なものだったなぁと、今にして思えばわかるんですが(爆)。まぁ、あそこでやっておいてよかったのでしょう。そのあいだ、近視はあまり進まず、0.2くらいで安定していました。

 

バイトでせっかく稼いでも、容姿を気にする10代では、定期的にコンタクトレンズにかなりの金額を持っていかれ、それに関してはかなり痛みを感じていました。同時にコンタクトを外したあとにはめがねも必要で、両方にかなりのお金を持って行かれてしまうわけです。バイトが優先なので、図書館に行ける時間も限られており、買えるものなら買いたいという願いもあり、お金を稼ぐようになったあとは、物欲がたくさん充たされると思い込んでいたのですが、どれに対してどのくらい費やせるか?というのは限られていましたよね・・・。結局、私の場合は、学費も自分で高校から出していたし、生活費も入れるように指示されていたし、自分のものは自分で当然買えと言われており、毎月4万ほど稼いでいたバイト代も、夏休みには12万にもなったバイト代も、瞬く間に消えるわけです。何の贅沢もしませんでした。必要なものだけしか買えなかった(爆)。

 

めがねは当時でも2万くらいはしたんですよねぇ・・・。

 

アメリカに行ってびっくりしたのは、医者からの処方箋がないとめがねが作れないこと。なので、賢いお店は、お店内に目医者を置いているのです。なので、最初はそれを高く感じていました。でも、めがねは分厚いし、コンタクトのほうがずっと安かったので、コンタクト1本にしようと思ったほど。でも、やっぱりめがねは必要なんですねぇ・・・。私はパイロットの学校に行っていたので、Ray Banのサングラスに度を入れる、というのが主流でかっこよかった(爆)。光度に応じて黒くなってくれるという先進技術を使っためがねを作ったのですが、1年も経つと、光度が強すぎてなかなか透明に戻らなくなっていき、2年くらいで使えなくなってしまったのだった(爆)。

 

しかも、パイロットの試験といえども、座学がけっこうあり、勉強はしましたねぇ・・・。近視の度合いは進んでいきました。そして大学に戻り、PCを導入し、ますます近視は進んだのですが、0・08くらいで止まっていたはずなのです。

 

が、このあいだ、帰国したばかりのめがねがどうも見えないので、めがねやさんに行ってみたところ、1年半ちょいで0.02もなかったという事実。なぜにこんなに進んでしまったのか?めがねをかけているのに、TVが見えないというこの不具合(笑)。もうコンタクトでは矯正しきれないかもしれず・・・(乱視があるので余計に。私はソフトしかできないんだよぉぉぉ)。

 

なんとなくわかる気がするのは、全体的に狭いところにいろいろな色でいろいろなものが詰まっている感というのがあり、目に大きな負荷をかけているなぁとは思っていたんだ・・・。アメリカに居たときには、どーんと3車線か4車線ずつのフリーウェイがあり、その右か左には海が広がっており、反対側には山があり、という風景は、私の視力にはなかなかよく作用していたのです。ところが、日本に帰ってきて東京ではそのような風景はあまりなく・・・。

 

今悶絶しているのは、アメリカに行く8月に新しいめがねとコンタクトをアメリカで購入するか、近所のめがねやさんで購入するか、というもの。技術的には日本のめがねは進歩しているんですが、値段が倍だな(爆)。コンタクトはアメリカのほうが進んでいるし・・・。だったら、コンタクトはアメリカで、めがねは日本、というのが妥当なんだろう・・・。また、大きな金額がこれに持っていかれてしまうのだ。お金をたくさん稼ぐようになっても、なんだかやっぱり腹立たしいのはなぜなんだろうか?(爆)

 

 

テロリズムに対しての考え方

06/29/2008 にアップした文章です。

 

北朝鮮へのテロ支援国家解除がなされました。これについて、猛反発な方々がたくさんいて、なんだか立派だなぁ・・・と感じています。私はMitch Rappシリーズを夢中になって読んでいるところなのですが、世の中というのは、一般市民にはわからないところで、複雑に絡み合った物事というのがあると私などは信じており、誰もが参加しない物事があってもいいのではないか?と考えてしまうようなところがあります。それはおそらく、面倒くさがりでズボラなところからも出ており・・・。ただ、やるならとことん責任を持ったほうがいいと考えているので、口を出すならばしっかり行動を伴わせないとならん、とも思うからで、ある種の逃げでもあるのでしょう。なので、発言をしている人々に対しては、「それだけの国防や世界平和についてのコミットメントがあるのか・・・」と、畏怖の気持ちと共に、「言動が伴ってないじゃん・・・」という不可思議さも感じることが多いのです。

 

まずはテロリズムについての理解を。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AD%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0 

 

スタンスをはっきりしなければ、テロリズムについては語れないということがわかってきます。自分、周囲、国家ごとの主観が、この考え方に反映してくるので、私などは、自分の主観で周りや国が動かれても困るよな・・・と思うやつなので、これについては大声を高らかに上げられないわけです。世界平和が来るとは思っておらず、では、どの程度の世界平和が実現可能なのか?ということを掘り下げて考えるには、ヒトが進化の中で獲得してきてしまった、心的進化なども文化・文明と共に考えるという、面倒くさい作業をしたのち、やはり私は、世界平和の実現は、かなり確率論としては低いと考えており、「みかん箱の中にはやはり腐ったみかんが実在する」という事実を否定するのは、知性をいくばくか持つモノとしてはできないでいます。

 

そこで、それに対してどの程度の努力をするか?ということが問われるわけです。

 

私はどうも緩やかすぎるほどの人間なようで、不良行為と言われることや、全うではないとラベル貼りされてしまうようなことも、甘受します。できる-できないの問題ではなくて、多様性を認めるということを第一前提に考えると、「それもあり」と認めなければ、私がただの偽善者になるから、するわけです。そして、それを続けているうちに、本当に「アリだな」と思うようになり、どうせ生命体などは、みな、混沌の中でそれぞれ生きているのだから、何かの基準や何かの規律などは、それぞれが作り、それに対してそれぞれが責任を負うことだな・・・と、とても緩くて、とてもラクな結論を持つことになってしまっています。

 

誰かを自分の思い通りにしよう!という情熱がどうしても持てない・・・。

 

そのくせ、英語講師なのである(爆)。なので、日々、「中学ではここまで」「高校ではここまで」「受験を通ってきたらここまで」「仕事で使うならここまで」などという概念に、たいへんな反撥を覚えつつ、押し付けがましくもなく、宿題もさほど出さず、ゆるやかーにレッスンをしています(笑)。ただし、成果はそれなりに上がる生徒さんは多いです。それは、その人の目標は他人と同じではない、ということを是認しているところから始まると思うのです。

 

『英語力と英語の問題を解く技術力はふたつの違うものだ』

というところから始めているので、技術力が欲しいヒトはそれを教えるし、長い目で見た英語力が欲しいヒトにはそのように教えるという、私主体の考え方を押し付けないように、と心がけているわけです。

 

回り道をしましたが、テロリズムに関しても、私はアクション映画肯定派なので、やはり暴力を行使しなければならない場面があるという考え方の全否定はしません。さらに、Mitch Rappシリーズを読み進めていて、泣いたり感動したりする場面があるわけで、国防に人生を賭ける人々に感謝こそすれ、否定などは一切しません。逆に、平和そうに見えていても、牛や鶏や魚を殺して食べているのは事実で、それも暴力の一種と考えるヒトがいても、それも否定はしません。行き過ぎな考え方だという意見は言えても(じゃ、何を食って生きていけばいいのだ?という問いはでき、それに対する充分現実的な答えがなければ、否定するというのもあまりしたくはありません)、それぞれが持つ考え方の自由というのは、保障したいと思っています。

 

でなければ、私などはここまで存在してこられたかどうか・・・というのも疑問になり・・・。

 

ただし、こうした緩やかな考え方をしており、誰も否定しないでおきたい私が、無差別テロに遭ってしまったらどういう考え方になるか?というのは、まだまだ想像の域を超えないので、Mitch Rappシリーズを読み続け、Tom Clancyを思い出し、今度はゴルゴ13なども読んでみようかと思っているわけです(マンガを読んでこなかったので、いまさら新鮮かもしれないと思い・・・笑)。

 

無差別テロが有効に機能するための条件は以下のようです。

1.十分な破壊力を持つ武器が入手可能であること。

2.世論に働きかけるための十分なコミュニケーション手段が確保できること。

3.国家主体が世論(支持)の変化に敏感かつ脆弱であること。 

 

つい先日は、秋葉原事件のことを、芥川賞作家の平野啓一郎氏が「テロ」だと言っており、新作の『決壊』は奇しくも、容疑者の談と被るところがいくつかあったと、ジャーナリストとの対談で話していたのです。TBSの夜の番組だったような・・・。私は最近の直木賞・芥川賞作家を知らず(過去20年分くらい知らないようだ・・・爆)、ちょっと読んでみようかと・・・。

 

日本もこの条件を備えているということを、認める人々はどれくらいなのかなぁ・・・。3.などは、愚民政策の主たるもので、消費生活や流行などに顕れるように、政治がそれに向けられると脆弱以外のナニモノでもなく・・・。2.の意味では、マスコミは大いなる役割を持っており、その責任がいかに大きいのかを、知っていてやっているのかどうか、疑うところ大です。

 

アクション映画を見ていると、1.の破壊力のある武器などは、いくらでも転がっているわけで、そのせいもあって、「よくもまぁ、ヒトは他人を信用して暮らしているなぁ・・・」と思うのです。バッグの中にナイフを持っているヒトというのは、かなり多いと思うんですが・・・。アメリカはライセンス制度ではありますが、日本よりも銃器を持っているヒトは多いし・・・。いまさらそんなことに驚くこともなく、けっこうみんなぼやーっと過ごしているのでしょう。

 

私はボケないためにも、やはり国防について命を張っている人々の小説を続けて読み、自分の意見は自分の意見として、象って行き続けたいと思っています。ただし、他人様に自分の考え方は、今後も押し付けないように・・・。

 

 

性格は大人になってから変わることはあるのか?

当然あります。事故や事件に遭遇するようなショッキングなヘビィなことがあると変わりやすいですが、日常的にも既存の「認知」「環境」にジワジワと新しいものを入れ込んでいるので、それらが蓄積したときにいいタイミングで変わることがありますし、悪い意味でも変わることがあります。

 

性格をきちんと定義してみたことがあるでしょうか?

 

英語では Personalityが個人が持っている性格の全体的なことを言います。その中に、先天性が強いもの:Temperament/dispositionがあって、後天性が強いもの Characteristicsがあり、その両方の影響が強くコンスタントに出るものを Traitsと呼びます。

 

少なくとも私たちが暮らしている「環境」は変わらないようでかなり流動的に変わっています。環境要因となるものは、

 

・親・兄弟などの家族

・友人たち

・配偶者やパートナー

・先生

・上司や同僚や後輩

・知り合い

など人間

 

・住んでいる場所

・時代がもたらすさまざまな変化:音楽・事件・流行など

・職業的な日々繰り返される課題

・学生であれば学習内容

など廻りにあるもので生活に影響をもたらすもの

 

他にも

・宗教

・躾や主義

・政治や経済状態

・戦争や競争

など

 

たくさんのものに個体は影響されて生きています。どんなに明るく育ったとしても、事件や事故に巻き込まれて、その上誰も助けてくれず、行政にも支援が求められなかったり、経済的な苦境に陥ったりすれば、性格も変わります。

 

逆に無人島に閉じ込められたことを想像してみるとわかりやすいかもしれません。生きる術を知らないからと死ぬことを選ぶ人は、育ってきた過程でそうした「認知」を持っている人ですから、苦境に立ち向かわないかもしれませんが、生き延びるためにヒトはけっこう努力するものです。

 

こうしてインフラが整い、恵まれた環境の中にいると、「性格なんて変わるわけない!」と思っている人も多いんじゃないでしょうか?

 

昔の人が言った「苦労は買ってでもしろ」というのは、きっと成長のために大切だから、という意味が強いんですね。

 

充分に恵まれた中、スマホの機種や容姿やファッションなどにだけこだわっていると、よい方向に成長する機会を逃してしまうかもしれません。そうした意味では、何もない停電状態や脱インターネットで過ごしてみる、など昔返りをしてみると、思いつくこともあるかもしれません。性格もきっと変わります>まず少しずつのカケラである認知が変わります。

 

やってみる価値はあると思います!

 

が、大切なのは、「いい性格とはどういうものか?」という理想形を自分が持っていることですね(^^♪