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畏怖

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07/21/2007 にアップした文章です。

 

これについては、何度か書いたつもりでいたのですが、カケラ情報が多かったので、改めて。私が最も畏怖を感じるのは、頭のいい鋭い人なのですが、所詮、ナマミなので、お茶目だったり、オマヌケだったり、何かが大きく欠落している人としか、今のところおつきあいできていません。偉人と呼ばれた人々で、すでに亡くなったり、私が到底会えるような行動範囲に属していない人々の中には、私がそばに寄れないほどの(苦手という意味ではなく)、畏怖を感じる人たちがきっとたくさんいるんだろうなぁ、とワクワクしていることは事実です。

畏怖:大いにおそれること。おそれかしこまること。
畏い(かしこい):(1)自然や神など威力・霊力を備えているものに対して脅威を感ずるさま。恐ろしい。畏怖の念に堪えない。(2)高貴な者に対する畏敬の気持ちを表す。おそれ多い。もったいない。(3)身分・血筋などがきわめてすぐれている。高貴だ。(4)立派だ。素晴らしい。(5)都合がよい。具合がよい。(6)(連用形を副詞的に用いて)はなはだしく。ひどく。
威力:相手を圧倒する強い力。非常にすばらしい性能・力。

私は技術や(エンジニア)マインドをまったく持っていないようなので、シャーペンを見て、途轍もなく感動していたり、WilやPS2や3などに、大いに畏まっている人々の感性が、イマイチわかっていないらしいのですが、アレがわかるとまたおもしろきことなのだろうと思いながら、ないものねだりをしています。

私が凡人であるがゆえに、今のところ、生きているナマミ人間で、畏怖を感じたことはありません。Bill Gatesのスピーチにしても、「いやー、この人はすごい」とは思ったことは事実なのですが、「足元にも及ばないや」だとか、「怖い。近寄ると透かして見られてしまいそう」というような、威力を感じたことはないのです。まぁ、そんなに近しく話せるわけもないのですが・・・(笑)。

ここのところ、面接でいろいろな人に遭遇していますが、緊張は「いい塩梅」にしかしないのが私らしく、むしろ、もうちょっと緊張感があったほうがいいような気もするのです。面接官の私生活まで聴けてしまうのは、私の持っている何かがクリックするのでしょうが、それはそれでとてもいいことなのでしょうが、そうした「垣根取っ払い」からは、どうも畏怖は生まれない。

どうして、そんなに畏まりたいのか?と問われると、一口では言えないのですが、生命をもらった神秘というか、自分がゴビ砂漠の一粒にしか過ぎないことを、なんだかヒシヒシと感じたいわけですね。でないと、どうも、私の持っている躁鬱病の傾向で、Grandioseな勘違いばかりをしてしまいそうで、知らないうちに症状が出てしまいそうで、とっても不安なのは確かです。

完全無欠な人間は、少なくとも私のそばにはおらず、私から見て、どんなジャンルに於いても感服してしまう人間は、これまでいませんでした。私と比較して考えるのではなく、おそらく、小さい頃に刷り込まれたのであろう、宗教的な偉大さや自然の力に比しているものです。

たとえば、父の実家は代々続く神主で、氏子さんは約300戸。小さいながらも神社を持っており、山を分け入ったところには、古事記に出てきそうな自然に削れまくった祠のようなものがあります。そこには、年に1回以上は連れて行かれたものなのですが、背の高い樹木の下のジメジメとした苔むす道を歩いて、ようやくたどり着くような、「行き着くまでの儀式」があり、その時間は大人になれば、それほど長いものではないことはわかるのですが、匂いが濃厚になってゆき、光が弱くなってゆき、ウォーカーズハイにも見舞われ、どんどん畏怖を感じるシグナルばかりが準備されるわけです。

いや、たぶん、今、京極夏彦を読んでいるから、余計にそうした不思議を感じるのかもしれないんだが・・・。

祖父や叔父に、「神道では、人は死んだら神になれる」と、子どもにわかる程度のシンプルバージョンの神道を教わり、まずはショッキングなわけです。特に神秘的な力を持っていない私でも、死ねばいつか神になるのだと・・・。「そりゃダメだよ。私はなれないよ」と、なぜか焦る私に、祖父は全盲ながら、魔法使いのようなすごい威力を見せてくれて、それでも、私にとっては人間。食を不平も言わずに食べており、即身仏になるための修行などの、すごい行をやっているわけでもなく、「いいんだよ、何かひとつでもいいから、一生懸命やればいいよ」と励ましてくれました。高校を過ぎて、大学には入学したものの特に宗教にまったく興味がなかった私は、叔父の代になり、神仏習合や分離については少し話を聴いたものの、その後、アメリカで宗教学を習うまでは、まったくわかっていなかったも同然なのです。ところが、日々、彼らのそばにいたことで、私が理屈ではなく身につけたものは、「自然や神に対しての畏怖」でした。宗教学は、アメリカ人に習いましたよ・・・。論理的でとてもよかったです(きっぱり)。

ちなみに神道とは、こんな感じ>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%81%93

バチが当たるというコンセプトに対して、私は「へへへん」と思う子どもであった反面(父や母がどうもご都合主義で頻繁に使っていたせいで、結果その通りにならないことが多かったからんでしょうねぇ・・・)、自分の中にいるはずの神とは、いつも対峙してきました。そこで、畏怖をいつも持ち、たくさんの不思議が解決されるたび(それは科学の力が大きかったんですが)、それでも残るまだまだ不思議なこの世について、やはりものすごい畏怖を、自然と神に感じていくわけです。

宗教に関しては、神道以外にも、母方のお墓である仏教や、途中日曜学校にも通い、カトリックも学びましたが、どれも選ぶことには至りませんでした。その根底にあるのは、たとえピラミッドや万里の長城が人間の手によって造られたのは事実だとしても(充分すごいことだけれども)、やはり大水や台風や地震はものすごいものだったし、自然の壮大さ・厳粛さなどは、ちょっと頭で捉えられないほどのでっかすぎる、それでいて細密すぎるコンセプトの集まりだ、という曲げられない事実のせいです。たとえ、それらに誰が何を言おうとも、説こうとも、正解などがあるわけもなく、人類の英知は、有史以来、まだまだずっとコレに挑んでいくことになるからでしょう。私も凡人なので同じです。

今日も、眼を瞑ってYosemiteの紫がかったRock Climbingの壁面を思い浮かべただけで、涙がポロポロと出てきました。Death Valleyの過酷さを呈した塩の塊や放浪ロバを思い出して、さらに涙がポロポロ出てきました。こうして、PCを便利に重宝に使ってはいても、私はずっと何か大きなHigher Powerの掌の上で転がされていくだけなのを承知なので、いつまでも畏怖の心は持ち続けていこうと思っています。ただし、間違ったパワーの誇示には、あくまで反抗しますが・・・。

やっぱり、カリフォルニアに住んでいた頃は、畏怖に直面しようと思えば、ドライブで数分だったな、というのが、なつかしく思えているのかもしれません。映画でも、そういうところにやたらに弱いことを思い出す(笑)。『アルカトラズからの脱出』のSF湾の水がやたらと冷たいことだとか、Vietnam Warモノのジャングルサバイバルだとか、Vertical Limitの雪山のすごさとかね・・・。が、台風が来ており、ちょっと思い出したのかな・・・。

仕事の件が落ち着いて、普通免許を無事取ったあと、通信で気象学の講座を受け、大学院入学の準備をしたあと、私はしっかりと運動をしなくちゃ、と、なぜかここに落ち着いたのである。大きな自然と神の畏怖の前には、やっぱり体力だ(爆)。