自分の中の未知の能力はどう開花する?


これはねー、本当に難しいんですよ (・・;) 色々な人に出会って、色々な刺激を受けて、どの程度、自分の奥の奥の方に眠っている才能や熱意まで触れてくれるか?というのにかかってきます。ある体験をした時に、その手前にある感情や成功体験をしない限り、そのもっと奥まった所には行けないんですよね。だからその感情や成功体験、うまく行ったり、もっと先があるという認知、外からもっともっと追いかけてくる刺激など、いっぺんにうまい具合にタイミングが重なるという僥倖があるとさらによしなんですけどね・・・。

普通に平成に暮らしていても、とっても冷静で自分のことをよく知っている場合には、大きな刺激がなくても、自分の未知の能力に対して考える深さというのは得られるはずです。

経験主義:人間の全ての知識は我々の経験に由来する、とする哲学上または心理学上の立場である(例:ジョン・ロックの「タブラ・ラサ」=人間は生まれたときは白紙である)。 中でも感覚・知覚的経験を強調する立場は特に感覚論と呼ぶ。

人は、経験の数や質によって、どのように知識を使えるか?というのが変わってきます。変数になるわけです。さらにこの中には感覚や感性など、体感として落としているものもたくさんあるわけです。知識を実際に行動化することが可能であれば、自分のまだ未知なる才能や、逆にドロドロした黒い部分など、そこに存在することだけでも感覚的にわかってくると思うんですね。なぜならば、全ての事は繋がっているということが頭でも体でも分かってくるからです。

どのような繋がり方をしているのか?というのを、単純に運動などで、料理やモノづくりなどで体現している人もたくさんいます。知識も、実験やリサーチなどを重ねられる人もいますし、コミュニケーションを絶妙ようにすることが可能な人もいます。

そうしたたくさんのを織目が複雑なことの細細部にまで目が行き、意識化でき、その想像はつくかどうか?により、存在していることはわかっている、では何なのか?という探究心に変わっていけば、実際に体験したり見たり知ったりした時に、きっとわかると思います。

私の記憶は八歳ぐらいからものすごく鮮明なんですが、その前のことはとても強烈なもの、自分の芯に近いものに限られています。これがたくさんの才能を開花の積み重ねではなかったのか?と、今は思いあたっています。それは今でも続いており、この先も世界や環境の中での物事が変わった時に、自分の才能や知識がどのように変化して使えるかどうか?を検証しつけていくことで、きっといくつかの未知なるものえっとつながっていくんだと思います。

泳げなかった人が泳げるようになるくらいの、ものすごく大きな変化・才能の開花、はこの年齢になるとさほどないのかもしれません(笑)。が、まだまだアルゼンチンタンゴ・そば打ち・ハンガリー語などなど、やりたいことはいっぱいです(笑)。

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