1999年に書いた文章です
面と向かってまじまじと他人のことについて「あの人はアタマがおかしいから」と言放つ行為があります。私は守備範囲を広く持ち続けていきたいので、冗談で「アタマがおかしい」とか「くるくるぱー」だとか、いわゆる Politically Incorrect(政治的に間違っている、社会的・行政的にふさわしくない)とされる言葉に関しても、場面ばめんでかなり実感のこもった語感が伝わる、という遊び心も持っているつもりでいます。私自身も全面的に平和で穏便な言葉だけを使うつもりはないですから、たまに誤解されますし。
それらの場面で理解の仕方が人それぞれなので、ここで問題が起こりやすくなります。
ハゲている人にハゲと面と向かって言ってはいけないと思う人!ちょっと考えてみてくださいね。いちばん無難なのは、全面的にハゲについては口にしないことです。けれども、どうしてもハゲている部分に注目してじろじろ見てしまったり、わざと視線を避けるようなことがあって、心にどうもそれがひっかかっていることがハゲている本人に伝わってしまう場合はどうなんでしょ?私はどうしてもそっちのほうがひっかかると思うのですね。
ハゲている人はハゲていない人からのたくさんの反応の統計を持っています。祖父がそうでしたし、父も54歳で死ぬまで剃り込み型ハゲへの路線を突っ走っていました(まだ額はたくさんありましたが、両脇からどんどん退行していくアレです)。彼らだけでなく、年上の友人や、髪の量が11年前よりがっくり減った西さんや、その他の友達からの個人的な統計を聞くと、「髪の話題を意識的に避けることのほうにより居心地の悪さを感じる」ということで、できることならば一度だけでもいいから、ハゲに対する明確な意見を聞けたら、あとは触れなくてもいいし、触れたい場合ならそれなりのスタンスが取れてラクである、というわけです。うーん、私にもこの気持ちはすごくよくわかる…。なるほどぉ、と肯いてしまいました。
ハゲている、ということへのハゲていない人からのスタンスによって対応策がある、ということでしょうか?統計がたくさん取れ切ってしまえた人は、本当にハゲに対しての態度が確固としています。私はそういう凛々しい態度が大好きです。
小学校から合気道を習っていたのですが、そこで遭遇した29歳の彫塑家は「ハゲる家系だからさぁ。げーじゅつかだしぃ、運動家だしさぁ」と2日に一度丸まるとアタマの毛を全部剃っていました。昔版のMichael Jordan(マイケル・ジョーダン)です♪私は彼に小学校5年生で遭ってしまったので、それ以来、ハゲを隠す行為というのがどうもだめです>すだれ・バーコード・ばれてしまうかつらに植毛。実際、ショーン・コネリーだってセクシーですしねぇ。私には容姿はほぼ関係ないのである♪
(ちなみに、ハゲの遺伝は女性ホルモンなので母がキャリアになり、女性には多少しか影響が出ませんが、男性に著しく出ます。ご自分がハゲるかどうか知りたい場合は、お母さんのお父さんを見るといいです。ハゲていたらハゲる確率は高いです。それからストレスがものすごく大きく影響しますので、ホルモンバランスが大きく崩れるような暮らしを改めることですね)←余談なんだけど、一応ハゲを例に出したので♪
ボランティアに出ていて感じ考えることですが、「当事者」である本人たちは、自分たちが他人と違うことに関して触れてもらってかまわない、という人たちばかりです。学習障害であろうが、エイズであろうが、白血病であろうが、彼らはプロに助けてもらい、自分自身でその状態を理解し、他人とのお付き合いや人目にアジャストする期間が過ぎれば、あとはもう、自分が取った統計で凛々しい態度を取っています。アジャストメントピリオドに位置している場合でも、ポジティブに自分の状態はこうである、ということを学習し慣れようとする求心力に吸い込まれて生きる意志があり、「ごく自然に接してくれることがいちばんうれしい」というのが本音であります。
私も1年間、身障者暮らしをしましたが(本屋で転倒しヘルニアになり、さらに交通事故に遭い再発し、手術してのちリハビリ)、コミュニケーションのない「探り合い」はかなりつらかったです。「わかるわぁ」と言っていてとんちんかんなことをしたり言ったりしてくれる人よりも、「わからない。どんどん言ってね」のほうがラクだったし、スーパーや病院などのパブリックでもごく自然に避けてもらえたり、「どうしちゃったの?」と尋ねてもらえたり、自分の腰痛エピソードを披露してくれる人がたくさんいたりして、私はかなり楽しくラクに身障者暮らしができました。もちろん私のコンディションはTemporary(一時的)なものだったからでしょ、と言い切られてしまえばそこまでですが、歩けないことは「最も不幸なことのうちのひとつ」ではありませんでした。
ハゲていることも、白血病もエイズも学習障害も、その他の疾病や障害状態も、人間にとって「最も不幸なこと」と結論づける患者や身障者は少ないわけです。年季の入っていないアジャストメントピリオド(その状態に慣れる期間)で「私は世界一不幸だぁ!」と嘆き哀しむことは多々あるのかもしれませんが、彼らにとってもっともっと不幸なことは、身体的に奪われていない豊かさを他人に奪われた状態にさせられてしまうことである、と私は考えています。
「ハゲだから女性にもてないでしょうねぇ」と本人のいないところで言う心ない人は実在します。白血病やエイズ患者に「生い先が短くてかわいそうね」とかわいそうな人ラベルを貼る人もたくさん実在します。何らかの精神病をわずらっている人に対しても「あの人はアタマがおかしいからしょうがないわよ。放っておくのがいちばん」と本気で相手をしない人もたくさん実在します。
そんなことを言放つくらいなら、一度本気でその場所から離れてみて、彼岸から風景を見てみればいいんじゃないか?と私は思っています。哀しいけれど、自分で体験しないとわかりっこない、と決め付けている人はたくさんいます。私は共感という才能を学習でいかに伸ばせるか、ということを強く信じていますが、信じない人も山ほどいます。
あるいは、「ボランティアに出ている」「私の友達にもそういう人がいる」と言っているわりには No Idea(わかっていない)という事実にもたくさん遭遇します。わかっていないことがいけないことではなく、わかったつもりでいることが不思議なのですね。一度ボランティアしたからわかった、ではないし、友達とどの程度のおつきあいなのか?と考えこまされてしまいます。「まだまだわからないから教えて」ではなく、「やっぱりねぇ。あの人は病気だから(あるいは障害があるから)○×なのよねぇ」などと平気で言う人にはどうも抵抗したくなりますね、私は。自分のなかでの中途結論はいいですよ、いくら出しても。けれども、「当事者に限りなく近い感じ方考え方」ができるというのとはまだ離れていないか?と疑う気持ちがあったほうが、当事者にとっても自分にとってもますますいいことであると思います。
私は、他人が持ち得ている他の豊かさを、まるっきりないものとし、強盗のように奪う無責任すぎる人のほうがうんとかわいそうであると思います。他人のコンディションについて無関心であることもかなり問題ですが、中途半端に関心を持ったあとでこのような判断に達することも大きな問題です。本人に言ってあげてほしいものです。そうすれば患者や障害者からいかに豊かなことが学べるか、身を以って知ることができるのに、と思います。
自分たちが「正常で普通の暮らしができる。これからもっとしあわせになることができる」と安心することは、自分たちを基準の場所に置き、患者や障害者の位置を自分たちより下げていることに気づいていないのでしょうか?足がなくてもしあわせにはなれるし、余命が短くてもしあわせにはなれるし、学習障害があっても学習はできるし、精神病であってもしあわせにはなれます。そんな事実もわからないっていうわけなんでしょうか?うーん、パワーゲームが好きな人は放っておけばいいんだろうけれどもねぇ。それにしても、狭い価値基準の範囲であります。
病気のアジャストメントピリオドにいるあるお友達が私に言いました。「この病気に罹って、いろいろな人を知って、自分はよかったと思っている」と。私も持病と闘い長い歳月を経てきましたが、それなりの社会生活やそれなりの学習やそれなりのしあわせを保ち、まだまだ進んでいます。無関心な人たちの「あの人はアタマがおかしいから」には何百回も遭遇しました。そしていつしか「他人にどう思われてもいいの」というところまでこぎつけました。だからと言って、私が他人全般を無視して傲慢な態度に出ているわけではなく、「本気である人には本気な態度で」「どうでもいいと思って私に本気で対峙してくれない人にはそれなりの態度で」になってしまうことを、誰が責められるでしょうか?
社会が円熟していないなかで、アタマがおかしいとみなされている人は座敷牢に閉じ込められずともまだまだ肩身を狭くしています。そのなかで、意地でも肩身を狭くしていない私が受ける風当たりは大きく、よく泣きますが、泣いた分以上に楽しいことも多く豊かな暮らしになっていることは、胸を張って矜持を保つことができることです。
西さんがハゲても私は彼を今よりもっともっと愛していくし、身体が動く限りはボランティアも止めないし、自分について価値基準を広げることも、しあわせを追求することも止めません。あと1万回「あの人はアタマがおかしいから」と言われることにも準備万端です。抵抗する体力も戻りました。
そしてもうすぐ新しい千年期が来ます。社会はどんどんいい方向に向かうのでしょうか?
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