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家族について~社会性を身につけない大人たちと子どもたち(3)

2006年に書いた文章です。

 

社会性:1.(Sociality)ある社会に固有の性質。2.(Sociabilite・仏語)集団をつくって生活しようとする人間の根本性質。本能的なものと考える説がある。社交性。

少年犯罪が多発しています。しかし、低年齢層の犯罪そのものであれば、遠い過去からずっと行われてきたことです。だからと言って犯罪を正当化するものではありません。内容についての分析をしてみたいと思います。

まず、社会全体が豊かでなかった時代には、教育は労働よりも後回しにされてきました。資本主義が台頭するのは、封建主義時代で、産業革命によって確立しました。発達した動力機械の発明により、商品生産が第一次産業である農業・林業・漁業やその加工業にとって代わって主流となります。それまでの非効率的であった営みが、ぐんと高まり、「即労働力」であった家庭内における子どもたちに、初めて労働エネルギーのために子どもを産み育てる意義ではなく、第二次的な意義での「子どもとは愛しみ育む」という観念が流布しました。産業革命は1760年代のイギリスに始まり、1830年には欧米諸国全体に行き渡りました。それでも、教育が非常に大切にされるようになったのは後のことです。社会全体の変化には時間がかかります。

貧しさのなか、懸命に働いてきた人々が少しづつ豊かさに慣れるのには、マスメディアというテクノロジーがまだまだ発達していなかったために、現在想像するよりもずっとかかったことでしょう。子どもマンガ劇場シリーズで登場する主人公の子どもたちを思い出してみてください。泣いた覚えがある方も多いことでしょう。「フランダースの犬」などは学校に行けずに絵を描きたいという少年が貧しさと闘う涙を誘う物語です。1872年初版ですが、まだ教育が田舎の街まで流布されていなかったことがうかがえます。

日本でも国民に国家が教育を義務づけその提供を働きかけるのは明治時代です(国家統一が行われ、中央集中制度になる以前は、地方分権制度だったので地方によって勉学への重きの置き方や豊かさに差異がありました)。そして現在の教育基本法と学校教育法が制定されたのが、1947年(昭和22年)3月。翌4月から6・3・3・4制になり、義務教育は9年に延長され、男女共学が原則となりました。以来、細かな部分での修正はあったものの、時代に即しているかどうかの懸念は今でも多く取り沙汰されています。「対応が遅い」との批判が多く挙がり、実際のところは「ゆとりを持った教育」という目標で、文部省が基礎的な学習要項を削っていく風潮になっています>細かなところは省きます。

一方、法律も変化していきました。社会の変化に伴い、法律や法令を対応変化させていくのは社会の安定度を高めるために必須のことと言えます。少年法と呼ばれる法令だけでなく、犯罪そのものの質についてまだまだ分析が行われていて、テクノロジーの発展と社会の豊かさと共存せねばならぬ私たちの世代に要求されるべきなのは、一体何なのでしょうか?

世界が狭くなりました。国際化という名の下に他国の発達した仕組みや文化や商品を手軽に求められるようになってきました。私が子どもの頃には考えられなかった豊かさが手に入るようになりました。”Simple Is The Best”(簡素がいちばん)というコピーを流行させた会社もありました。けれども、Simpleから程遠いモノがあふれる世の中になってきました。その環境のなかで、犯罪が起きるのは、私たちがヒトの本能を見極めたり倫理や哲学を流布させるよりも、ずっとスピードが速まっています。その横で、使い方さえわからないような機械やシステムが開発され、本質を見逃したままに物事に翻弄されているかのように、私たちは犯罪が増えることにあっぷあっぷしています。

どんな法律にも穴があり、潜り抜ける方法があると言われます。Ultimate(究極の)な法制度などはこの世にはずっと存在しえないでしょう。変化がある限り、ヒトが個性的な集団である限り、そのすべてを網羅する法律が存続するわけはありません。法律を強化することも大切ですが、第一にできることは個人こじんの覚醒に他ならないと思います。自分が犯罪者にならないように、家族のメンバーが犯罪者にならないように、愛する友人が犯罪者にならないように、地域の誰かが犯罪者にならないように、何ができるかを考えてみる機会をすっ飛ばして、「他人の行動を批判し、自分を余分に庇う」ことに忙しいような感じを受けるのは私だけでしょうか?自分について問われれば、おチャラけ、さらに不幸自慢をし、他人については容赦がない、という構造が目立つような気がします。あ…、これは今に始まったことじゃないのかな…。

こうなってしまった世間を修正することに参加する気持ちがあるのならば、非建設的なことで御託を並べても何かがポジティブに変化するとは、私個人は思えないわけです。少年犯罪が起きた→大人として刑法を受けさせる→見せしめになる→犯罪が減る、という安直な構図には説得力がありません。さらには、「どうして現場で射殺しなかったのか?」という意見もあります。事実、動機も犯行に至るまでの計画方法も家庭環境や彼自身の歴史について、資料のないままに問題解決ができる、と思い込めること自体がたいへんに稚拙すぎるのではないでしょうか?科学者であろうと、教育者であろうと、エンジニアであろうと、料理人であろうと、画家であろうと、材料なくしてモノを作ったり問題を解決したりすることは不可能です。同様に、社会問題であれ、できうる限りの資料を集め、それらの重要なものと瑣末なものとを選り分け、枝葉を作っていき、何がどう因果関係があり、何がどう関連性があり(因果関係と関連性は別物です)、そこで初めて問題解決までの糸口が見つかるというものです。しかも、原因はひとつだけではない、と疑うことさえしないのはどうしてでしょう?

だのに、安直に「親の育て方が悪い」とできる短絡さに、私はどうしても驚愕してしまいます。「いい・悪い」の二元論であれば、犯罪はやはり悪いことです。

このように、論理的なモノの見方考え方が身についておらず、バランスの偏った感情論を振りかざして人間の生命を罰するだけで、救済の逃げ道を確保しない態度は問題ではないでしょうか?大人たちがこれであれば、自然と子どもたちもその傾向を受け継ぎ、犯罪の防止が期待できるとは私には思えないでいます。

もちろん、被害者に対して日本の法制やケアはまだまだ不整備です。しかし、同時に加害者たちに対してもまだ抜け穴がたくさんあります。「犯罪者の更正のために国民が税金を払うのはおかしい」とする意見にはさらなる疑問があります。「そうなのね?あなたは絶対に犯罪者にはならないのね?」と面と向かって言いたくなってしまいます。信号無視はFelony(重罪)ではありませんが、当て逃げやひき逃げは軽犯罪ではありません。雨のなか、「何かにぶつかったかも?」と思っても立ち止まって確認せずに行き過ごしてしまっても犯罪者になるわけです。絶対に有り得ない状況ではなく、誰しも犯罪者になる確率がゼロではありません。ましてや、自分の怒りや衝動をこれまでコントロールできてきたとしても、何らかの状況で人を傷付けないという保証もまったくないわけです。もちろん、そこに悪意や計画性があったかどうか、というのは大きな情状酌量のバロメーターですが、実際にその悪意や計画性について、考えが稚拙であった少年たちを作り出す一端を大人が提供した、という罪悪感のカケラもないのでしょうか?私にはあります。

「自分はやることやってんだからいいんだ」というその大人たちの身勝手さを見て育つ、子どもの気持ちになってみると、「なりたくてなったんじゃねぇよ。それしか知らなかったんだよ」という叫びが聞こえてきそうでもあります。実際に、経済的にも物理的にも移動がなかなか難しい子どもたちには、広くたくさんの世界の人々を見るチャンスは少ないのかもしれません。あるいは、習い事や学校など、大人に「これがいいのよ」と押し付けられたまま、その狭い世界で友達も選ばざるを得ないでいるのかもしれません。ならば、本当に大人たちは人間として可能な限りの愛情や環境を子どもに提供しているのでしょうか?壊れている状態が続いても、拠り所となる「あなた(の存在)を否定しないからね」という気持ちが表現されているのかどうか、疑問になりました。射殺や死刑は存在の否定です。誰かが誰かのBeingの否定はできない、と私個人は考えています。生きているうちも同様です。存在までも否定することはしちゃいけないだろうと。

『金曜日の妻たちへ』が流行して以来、男性社会に妻たちが叛乱を起こしているという風潮がありました。この少年犯罪は子どもたちからの切ないメッセージなのかもしれません。年だけが加齢しても比較されて生きづらい子どもたちが、大人に対して「僕はここにいるんだよ」と言いたいことが根本だったのかもしれません。社会の一員であることを認めてもらえなかった犯罪者が、さらに社会からさらに深く抹殺されてしまうのを見るのは忍び難いことです。排斥することが明日への光に繋ぐものなのか、私はそうは思えません。

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