悪気:相手に害を与えようとする気持ち。悪意
悪意:①他人に害を与えようとする心。他人を憎む心。わるぎ。わるげ。 ↔ 好意
②わるい意味。意地のわるい見方。 ↔ 善意 「 -に解釈する」
③〘法〙
㋐自分の行為が法律上の効果を生じることを知っていて,あえてその行為をする意志のこと。例えば,ある取引について存在する特殊の事情を知っている第三者を「悪意の第三者」という。道徳的善悪とは別のもの。
㋑他人を害する意思。 「 -の遺棄」
▽↔ 善意
すでにいろいろな人が言っているかもしれないのですが、悪気がない、というのは、本当に正当化において説得力があるんでしょうか?これは、論理的には正しいかもしれないのですが、精神的には「言ったもの勝ち」なことになってしまい、迷惑や負担を掛けられた側の一人負けになってしまうので、個人的には強く、「そりゃないよ・・・」と反論してしまう部分です。
コンセプトを理解していない人に、そのコンセプトの履行を要求するのはひどい・酷・無理・不可能という論理ですね。
物分かりがよい、ゆとりがある、側に立つと、大いに奉仕する義務がある、と考える人は多いようです。『三匹のおっさん』では、不法投棄をしている初老の男性が、「あの人は地主さんでお金持ちなんだから、払っても当たり前なんだよ」などと、自分ではなく、持っている人が払えばいいのだ、ということを正当化しておりました。すごい論理の破綻です。まったく他人である自分が出すゴミが、なぜに他者に払ってもらえると思えるのか?でも、こんなことって日常にけっこう多いのです。
出す側が、相手の自尊心を傷つけないために、「今回はいいよ」とか、「気にしないで」というのがアリなのか?というと、それは個人の自由ですから、もちろんアリなんだろうけれども、受け取った側のほうは、これでいかほど傷つくのだろうか?とも考える余地あり。これが押し付けの偽善になることもあるのだろうから、とあたら人間の心というのは、難しい (・・;)
確かに物事の成り立ちや仕組みを理解していない人たちが、悪意がないままする言動については、多少の寛大さは必要なのかもしれませんが、法律ではそこに年齢制限を設けています。国では、義務教育を国民に課しており、その範疇なのだから理解していて当然、という見方です。
私自身も相当にお人よしなので、あるモノやある能力に関して、惜しみなく出す性質の傾向が強く、たまに「あちゃー、やり過ぎたかも」と思うことシキリ・・・。が、「事実は小説よりも奇なり」なので、100件に1件以上の割合で、「意図的だったのか?」と思わされてしまうことも、結果論としてあるのです。悪意はない、わざとではない、理解が足りなかった、という演出をする人というのは、たまにいるのですよね。本当に理解していなかったのであれば致し方ないのですが、理解したあとも続行するということも、私は何度も繰り返し見てきました。背中を向けたら、ペロッと舌を出して、「得しちゃった♪」とほくそ笑んでいることだって、もしかするとあったかもしれないのです。
悪意がないんだからしょうがない、と、簡単に言えなくなってきています。小さいことだったら寛大にどーんと引き受けてきたのですが、何度も何度も繰り返されると、辟易度が増します。
そこで、コンセプトを理解しようとする前向きな姿勢があるかどうか?というのも、問いかけてみたいところですね。理解はしたけど、感情的にしたくないから、利益にならないからしない、というチョイスをしたのち、だったら確信的ですし、私には関係ないから理解しないよー!という態度だったら、なんだかもうご縁を切りたくなってしまいますよね。そして、何度くらい、どのくらいの深さで、問題になっているコンセプトを理解してもらうため、こちらが説明しなければならないのか?と考えると、この程度についても、相手の個体差やコンセプトの複雑さによって、面倒くさいことになりますよねぇ (・・;)
みなさんもきっと心当たりがあると思うのです。どうしてます?私のチョイスとしては、お人好しを一切止める、というのがあるらしいのですが、それじゃー、私個人が私自身として正しく成り立たなくなるわけですよねぇ・・・・・・・・・・・・。
純真すぎて悪気とかそういうことではない (・・;)
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