子どもの頃から今まで育ってきたことを振り返ったことがあるでしょうか?Precious One English Schoolの英語基礎コースでは、心理レッスンの中で積極的にやっていただいております。そのときにみなさんが気づくのは、「多く学びすぎたこと vs. 学び足りなかったこと」がまさしく、自分が思い通りの人生を送れていないことの原因になっていることがあるってこと。びっくりするわけなのです。
ヒトとしてできることが多ければ、それが日本語であろうが英語であろうが、それこそまだ学んでいないスペイン語や中国語であろうが、開発する余地があって、合わせていく基準値がわかろうというものです。が、多くの方々は、自分が日本語という自分の基礎力の中で、何がどのくらいできて、何をどのくらい極めたいのか、などなど、あまり煮詰めて見てはいないようです。
しかも、一芸に秀でることなど「無理だ」と思ってらっしゃる方も多く、秀でるというのが何を指すのか?ということすら、あまり深くは考えていないのかもしれないです。
秀でる:1 他よりも特にすぐれている。ぬきんでる。2 くっきりと目立つ。りっぱである。
これもね、誰かと比べてということではなくて、自分の中でというのでいいと思うのですが、どうしても相対評価にしてしまうことも多いのではないでしょうか?
能力の開発をしたくてもできない、という事情があれば理解したいと思いますが、生きている限り学ぶことはまったく止まないわけで、だとしたら開発する余地があるものはたくさんあると思うんですよね。なぜそれをやらない?と、もったいないとすぐに感じてしまう私などは考えてしまうのです。
そして私は子どもの頃から自分の選んできた道がさほど悪くないな、と思ってきました。その証明みたいなものが2013年の学会論文を英語で読んだときに腹落ちした感じです。そしてこれらのスキルをつけてきた2030年は必ず来るか?死ななければ来る(笑)。もうすでにけっこうついてきているけれども、もっとこれらを極めることができる素地があると思うとうれしくてたまりません。ただ、残念なのは、日本語で表現できない内容もけっこうある(笑)。英語で、アメリカの大学で学んだことをわざわざ日本語に直さないで来てしまったことも多いのですよ・・・。^^;
今、うちのスタッフたちと言っていることもけっこうおもしろく、
「そば打ちやりたーい!」
「湯葉が作れるとうれしーい!」
「働く時間を減らして遊びたーい!」
「もっとおもしろいことを簡単に実現できるようにしたーい!」
などと、能力を開発したいことに注力しているわけですね。誰かに与えられることはほぼ望んでおらず、自分たちが動くことで、楽しくなることを求めている感じがたいへんに見ていてうれしいです。私も一枚も二枚も乗っかりたいです。
その他にも楽器ができるようになりたいとか、日曜大工はこの程度までできるようになりたいとか、母が遺したミシンもあるからミシンで縫い物ができるようになりたいとか、まだまだ能力開発に余念がなく、この年齢になってもまだやるのか・・・・と自分でも呆れることはあるんですが、やりたいところですね・・・。
能力はまだまだ開発できる、と信じているでしょうか?ぜひともトライしてください!
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