1999年に書いた文章です。
BBSになぜか小難しいお話が出てたので、何となく刺激されて久々に知識について考えてみたいかと思います。「信念と知識の関係」で「無知の知」について触れました。最後には、私個人は知識が少しでもあったほうが感じ考えたことを伝えられるようである、として少なくても基本をシンプルに受け入れている人っていいなぁ、うらやましいなぁと〆ました。
かなり中途半端であった…。
私が言いたかったことは、私は直感に頼れない人間で、今持っている直観というのは本能ではないことのほうがずっと多いということでした。
あ、直感と直観には違いがあります。
直感:(Cognition)説明や証明を経ないで、物事の真相を心でただちに感じ知ること。すぐさまの感じ。→ こちらがフィーリング
直観:(Intuition)一般に判断・推理などの思惟作用の結果ではなく、精神が対象を直接に知的に把握する作用。直感ではなく直知であり、プラトンによるイデア直観、フッサールの現象学的還元による本質直観等。→ こちらが経験則に基づく英知
うーん、説明が難しいか?でもトライ♪直観というのは、認知(感性に頼らずに推理・思考などに基づいて事象の高次の性質を知る過程)なのですが、今まで見て感じて考えたデータがたくさんあるのでいちいち引き出しから引っ張り出してこなくても、説明や証明がいらないのです。これはけっこう説明がつくことだと思うのですね。私にとっては西さんの会社の人事が当たってしまうのとか、レストランでごはんを食べたときに何が調味料に入っているかわかることが直感。火事や地震が起きたときに練習なんかちっともしてなくてもきちんと生き延びていけるくらいすごいやつが直観。あのThe Sixth Sense(邦題は知らないけど、もう上陸した?)のような、第六感です。説明がつかないけど、心の奥ぅの奥に秘められてあるやつです。
そういう意味でたくさんのデータから当たる確率が高いモノを引き出す時間が短いので、直観の使いまくりです。でも直感が試されたことはあまりないです。交通事故のときにも直観は働きました。たくさん運転して学習していたことや他人の交通事故体験を内的経験して得た資料です。これは知識になりました。だからデータです。でもドライブをしていない人で事故に巻き込まれた人でもちゃーんとベストな反応ができる人がいます。そういう人がうらやましいと私は心から思ってため息をついてしまうのですね。それがフィーリングである直感です。
好みの男の人を選ぶときでも直感を使える人はいます。私は直観を使っています。学習の成果なのです。こういう人ならばこうであろう、というデータがわんさかあって、それをちょろっと使ってしまっているわけです。けれども、直感でもう短時間でぞっこん惚れ込んでしまえる人はいます。ああいう直感が私にも欲しいです←もう必要ないのか?(爆)
私の直感が使えるときはとても少なく、何だかさみしくなってしまいます。感覚器官が使えるものほぼすべてに対して、アタマがぱちぱち働いていつしか本能を抑え込む癖がつきました。なぜなら攻撃性や群れることや危険なモノから遠ざかることも、ひとつの本能であるからです。大人になるということはこういうことなんでしょうか?もしも私が本能を抑えないで生きていたらどうなっていたか?と考えると怖いです。確実に大人にはなっていかなっただろうし、確実に自分勝手であっただろうし、確実に怠け者になっていただろうし、確実に他人に依存しまくっていたと思います。楽なことに流されて自分だけが生き延びることばかり考えていただろうなぁ、と。そしてちょろっとゆとりができてみたら自分の愛する人だけ(それもまた血縁だったり自分の好きな人だけだったりするんだろうな)によくしてたんじゃないか、と疑います。
世間はとてもおかしく、知識が増えれば頭がいい、とみなす人が多かったです。子どもも大人も今までのところ、変わりはありませんでした。いくら口で「いや、本当に頭のいい人は自分でひけらかしたりしないもの」とか、「頭より人間は心よ」と言っていても、知識の前には劣等感が増したり、自分の得た知識をひけらかすようなことが多くあります。
私も自分が持ち得ている知識について「ひけらかし野郎」と思われているのですが、動機が違うと思っています。この世にあるたくさんのわからないことを自分だけのデータを引き出し直感で処理したり、直観(本能部分)に頼らないでしっかり生きていくために参考資料としているつもりです。心のなかにあるいろいろな感情や考えたことが、言葉にできて他人と交わることができたら楽しいし充実すると思っているからです。でももちろん一歩間違えばただのひけらかしだと思われることはあります。けれども何度も書いているようにわかるまで、納得するまで説明する労力は惜しみません。その態度はかなりたいへんです。でも出しちゃったものについての責任を取りたいとは思っています。
それにねぇ、知識の量や質というのは頭のよしあしと関連性はあっても、因果関係はないです。けっこうきっぱり言わせていただきます。知識が多いから頭がいいわけではないし、専門知識だけ深く本質を突けるくらい持っていても他のこととのAssociation(関連性)が持てずに生きていくための応用ができなければ、心がこもらなければ頭が本当にいいとは言えないと思います。これは個人的な定義ですが、私テキな馬鹿の定義を参考にしてもらえればわかります。たしかタイトルは「サイバースペースで書いていいことと悪いこと(2)」です。うーん、仕方ない今日いっしょにもう一度アップします←お引越ししたときに全部やれよ…(汗)。
ましてや他人にわかってもらうために書くのではない知識の羅列は何になるのかな、と思ったりします。それで私もたいへん苦しんだり悩んだりしながら、データのなかからどうやって変形させてPresentationしようかなぁと毎日これ書いてます。西さんや留学生のOくんは私の考え方のプロセスがわかってきているので実生活でも問題あまりないです。幼いところや俗っぽいところも含めて、それでもブッダの道を行こうとしていることが理解してもらえています。BBSに書いてくれている人のなかでももちろん私についての理解の深浅がまちまちです。けれども「逢いたいと本気で思ってくれる」という興味を私はとっても尊重します。同じだけの本気さで私もそれについて説明することは惜しみません。そんなの無理だということもよ~くわかっています。けれどもやってみることに大きな価値があると私は思っています。
でなければ知識が増えても私には意味がないことだからです。心のなかにあるもやもやを、到底言葉になんかできないことを、丹念に表現しようとチャレンジする意志は投げ出したくはありません。1万投げて手応えがあるものが1つでもいいわけです。もちろん疲れます。けれども1個が返ってきたときのヨロコビというのはあとの9999個の乱投に使ったエナジーを補って余りあるものだったりします。少なくとも私はそう感じます。そうでなければ「やっていけねぇよ!」なのかもしれません。
頭のよしあしをそのまま心の善し悪しにまで持っていこうとすることは大わざなのかもしれません。けれどもチャレンジすることに意義がある。オリンピックではないのですが、私はそう思います。わからない言葉が出てきたらわかるように鋭意努力すること。それによってしわが減ったりはしないし、筋肉が増えたりはしていないのかもしれませんが(たとえ脳みそのしわでも)、不知から知にすることは楽しいことです。増えすぎてお荷物になっている感がある、お荷物にふりまわされている、と指摘されることは多いです。確かにそれはあります。でもこれも選択です。じゃ、文句言うなよ、なんですが、ご指摘があったらちゃんと説明しているつもりです。Whining(くーんなどと哀れっぽく鼻を鳴らす、むずがる、ぐずる、泣き言、愚痴を言う)のつもりではまったくありません。もしもそう取れたらごめんなさい。そういうつもりはまったくありません。
だからデータが少なくてもすっきりきっぱりたおやかに物事の本質がつかめて、さらにそれを基本に自分らしく言動している人を見掛けるとすごいなぁと思います。私も飲み屋さんでそういうふうにできたらいいなぁと思います←なぜ飲み屋…??汗。
わからない言葉が出てきたら自分の元にある資料で調べてみて、それでもわからないときには素直に尋ね聞けることができる心が、頭のよしあしにかかるような気がします。知らないことが頭の悪い証拠ではまったくないし、見識ひけらかすより私にとってはずっとずっとかわいげにみちあふれたすてきな姿勢♪と感じます。私もそうできるようにいつも心がけています。プライドなんかくそくらえ、というのが頭のよしあしにはあります。ただ、心の善し悪しについては譲れないことについての矜持(自分の能力を信じていだく誇り)があったりするのかもしれません…。
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