1999年に書いた文章です
これはアメリカで通語になっている、新聞コラムの相談室コーナーの名前です。日本でも新聞だけでなく、あらゆる雑誌にこのようなコーナーありますね?そこでの匿名性や発行部数や読者傾向などに合わせて、解答者もさまざまです。このAbby(アビー)さんっていう人はとっても人のためになった解答者だったのですね。 http://www.uexpress.com/dearabby
広く質問を投げかけることはとってもいいことですね。自分の視野の範囲以内だけで物事を考えずに済みますし、相談ごとが自分に直接関係なくてもその持ち上がっている内容でいろいろなことを考えるヒントになります。うまい使い方とまずい使い方があるとするならば、解答者が言うことを何でも信じてしまうことに私は危惧を感じてしまいます。
何にしろ、最終的には自己が決定する人生ではありますが、財テクにしろ、夫婦問題にしろ、法律で瑣末に決められていること(犯罪や民事裁判など)以外については、答えは限りなくバラエティがあるものであると思われる相談が多いです。そのバラエティを求めるための相談であれば、危ういと思わないで見ていられるのですが、「わらをも掴む」状態の相談に誰が何を言えるのかと思うと、私もこういうエッセイを書いていてどこかでひっかかってしまうんではないか?と何だか過剰に心配してしまいます。
インターネットの普及が進み、新聞や雑誌に投稿しなくても、時間を大きく開けずに解答が得られる簡単さがあり、どこのフォーラムでもそこの小文化に対応する相談ごとが多く見られます。チャットルームでも同様なことが起こります。ある特定の個人に向けた相談であるならば私事であることが綿密に語れても、パブリックに出るということでなかなか端折らねばならぬことも出てきます。そこで匿名性が尊ばれるようになり、その波紋もインターネットのなかでは大きな問題を抱えつつ将来に向かっています。いつか、特定のエリアでは特定のSNしか入力できないような構造になったらどうしましょ…。
どんな相談コラムでも言えることは、まず、第一に「答えはひとつじゃない」「ベストな解決は人それぞれ」であることを認識することなく相談している人がいかに多いのかということに驚かされます。もちろんたいへんに苦悩していたり困っていたりするわけですから、その判断力というのも曇っているチャンスはかなり多いでしょう。何がいちばん自分にとってはいいことなのか、それは人さまざまです。それを一般論にされてしまうことを覚悟で、あるいはすべてを丹念に語ることを覚悟での相談でなければ、なかなか根本解決というのはできない問題が多いことでしょう>財テクなんかは方法論だったりしますが、それでもバックグラウンドはかなり複雑ですよね?いつしかここで個人情報を流出する可能性も出てきます。倫理がはっきりしていない場で、「こういうことがあったんだよ」と言われてもいい範囲とそうでないことの判断は、たくさんの人が読める場所では限りなく受け止める人がするものであり、その危険性は相談者が引き受けねばならないことです。
まずは、権威への気づかぬうちの降伏。解答者のバックグラウンドが医師であったり、大学教授であったり、恋愛の達人に見えるタレントであったり、その権威にまず飲み込まれてしまいます。本当にほんとうにその人が自分の言っていることをわかっているのか、その見極めはどこで見ればいいのでしょうか?職業であるから、経歴がそう語っているから、というCredential(信用)を簡単に与えることはとても危険なことではないかと思います。実際に実力がある人は、重箱隅つつきや言葉尻を押さえたりしない限りにおいて、何があっても誠意を以ってその問題の本質を分析し披露してくれるはずです。もしも自分にわからないことであれば、調べたり、相談者や読者が調べるためのツールを紹介してくれたり、自分では手におえないとみなしたらさらに詳しい人を紹介してくれたり、「これはこの世界の常識である」などというあいまいなことは言わずに、はっきりと相談者にわかるように応えてくれるでしょう。
インターネットの相談においては、バックグラウンドを暴露している人もいればそうでない人もいます。SNに染み付いた何かを相談者がどのように受け止めるか、という感性や概念に掛かっていて、ここでは限りなく「一個人として楽しむ」が大前提であるところを、書き続けている長さによりそのついてしまったイメージや力に左右されることがあり、これもやっかいです。ここまで考えることはないのかもしれませんが、これも私がAOLのMBに書くことに疲れてしまった理由のひとつです。バックグラウンドを説明したい場面がたまたまあったりすることがあり、それを知っている人もいれば知らない人もいて、どんどん長いスパンで考えると話がごっちゃになります。知らない人に合わせて書くようにしていたつもりですが、もちろん人間である私には間違いが多かったです。失敗だなと自分が明かに思えるようなことも何度かしました。残ってしまう投稿を自戒する材料にして、書きたいと思っても書かないようにしてみたり…。そして今では自由さがあるこのエッセイがいちばんである、ということに甘んじています。もちろん先のことはわかりません。
次に考えてしまうのが、その解答への多数決分布です。常識という名の下に、人々は「普通それはおかしいでしょう」「そんなの説明なんかいらないでしょ。人間として私たちが長年やってきたことでしょう」と証拠を提示しないで解答をする人も多くいます。フォーラムでの投稿などではスレッドが続き、その数の多さで力関係が生じます。是非論になったり、フレーミング(Flaming)になったり、所詮一般論にできないことをしようとしている無理さ加減が大きく歪んで反映します。少ないバックグラウンド情報での誠意のある解答は、できる範囲がとても狭く「なだめる」「応援する」だけになってしまいます。それが相談者の欲しいものであればそれもいいでしょう。実際に問題に対峙している時点で、ある程度の答えというのは見えているのかもしれず、ただただ背中を押してほしいだけな場合というのはままあります。あるいは、本当にNo Ideaですべての意見が新鮮に見える場合というのもあるのかもしれません。それにも問題がなきにしもあらずです。リアルタイムでの共生している人に相談できないことがある、というのは確かにいくつかは存在するでしょう。けれども、やはりいっしょに生きて行く人は紙面の向こうや画面の向こうにいるわけではありません。新鮮な答え、新しいモノの見方を広く模索する以外の利用法に私は少し疑問を感じます。
そしてその利用人口に偏りがあればあるほど、その多数決というものが顕れます。主流となる基本的な概念です。それは学校であろうが、フォーラムであろうが、社会や友達のサークルであろうが同じでしょう。3人以上集まればそこではもう多数決が存在し得るわけです。
果たしてそれはどの程度その個人に当てはまることなのでしょうか?その個人が多数決や慣習や常識に当てはまらない場合には、とんでもないことが紙面の向こうや画面の向こうで起こったりはしないでしょうか?私はそれを心配してしまうようになりました。離婚相談ひとつにしても、堕胎問題ひとつにしても、彼氏とのケンカひとつにしても、個人にとっては大きな問題であり、パブリックで話せないことはたくさんあります。ましてやパブリックにはたくさんの複雑な力学がはらみ、その不思議な方向性にいつしか疲れてしまう人も確実に存在します。私の判断力には間違いもありますが、個別にメールをくれる方々に対して私ができる限りにおいての誠意を私的なメールで見せることは必至でした。そして能力の及ばない私はつぶれました。たくさんの人々の個人情報を抱えていきました。許可なしの情報流出はひとつもしていないつもりですが、もしもあったら苦情メールをください。
ガキの使いじゃないんだから、1から説明する必要がない、と判断する理由が私には見つかりません。なので、私の文章は長くなります。それでも自分の頭のなかで考えていることできちんと体系化できていないことも多く、誤解ばかりが生まれます。けれども、それが私の考える誠意であると思うので続けてきました。
そしてDear Abbyになりきれなかった私は、今日もまたマイクロソフトジャパンや英語のたくさんのフォーラムにある相談ごとを見てため息をついています。プロや行政に行ったほうがいいだろうと思える人もたくさんいます。そんな基本的なテクニカルなことは自力でどうして探せない情報なの?と思える相談もたくさんあります。けれどもいちばんぐちゃぐちゃな相談は、人間関係にまつわるものです。
いつかこれが職業になったときにどう反映するのかどきどきしながら、また次から次へと湧いてくる相談事を眺めています。長くおつきあいしているネットの友人は確実に自力で自分の問題を解決できる方向へと変化しています。私もそうでありたいなと思いつつ、やはり相談ごとは個別に限るよな、なんて思っている次第です。
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