ピノキオからの脱却 その1

12/12/2007 にアップした文章です。

スケール問題なのではありますが、私の行動規範には2個の主軸があり、ひとつは「面倒くさいかどうか」。もうひとつが「押し付けられているかどうか」です。元気が足りずに、さらに気力が充実していないときには、この最初の「面倒くさいかどうか」の境界線がズレまくるのですが、私が面倒だと思うことにはそれなりの基準点があり、「他人にどうこう思われることなどはかまわない」「他人様に迷惑をかけてはならない」など、校長センセがよくおっしゃる「公的倫理」を大きくクリアして、自分があとから困ることが多いのです。あとから困ったら、所詮やらねばならぬので、時間切れが見えてきたらやっぱりやることになっちゃうんですけどもね・・・。ただし、化粧や買い物や掃除など、やらなくてもいいだろう限度を見越しているので、そもそも化粧をしなかったり、必要最低限の買い物しかしなかったり、汚さないような合理的行動ラインを作ったり、など、日々それが行動指針になっているわけです。さて、ピノキオ・・・。ふたつめが大いに関連するわけです。

ピノキオのことはみんな知っているようで、実は抜けている情報がけっこうあるかもしれない。おさらい
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%8E%E3%83%83%E3%82%AD%E3%82%AA%E3%81%AE%E5%86%92%E9%99%BA

ところが、原作では、コオロギのペペを、石を投げつけて殺してしまったりもする、やはり子ども向けの寓話の種類としては、グリム兄弟同様、日本の昔話同様、怖いところもあるんだ。けれども、この怖いところを直したところが広く知れ渡っているのは、大人が配慮したトレンドなのでしょうね、世界中どこでも。

心理学でもたまに題材にされるのが寓話なのですが、それは人々があらすじを知っていてわかりやすいからなのでしょう。ところが、実際はかぐや姫や桃太郎同様、口承の部分で抜け落ちて簡素化したり、残酷な部分が殺ぎ取られているものも多く、「では一体どこを見ているのか?」にはズレがあります。なんだかとっても手落ちな気分・・・。解説してからというのは、まるで国語の授業みたいになり、長い時間がかかってしまったり、焦点がブレたりすることもあるんじゃないのかなぁ・・・。

私はそもそも、木製のマリオネットに生まれてきたら、そのままでいたいと思うんだが、どうなのだろうか?いや、マリオネットは何も思わないだろうから、どうしてかわからないが生命を宿させる力がある存在には、マリオネットのままで放置しておいてほしいと願う人間である、というのが正しい表現なのだろうか?そして、よしんばそんなことがあったと1万歩くらい、いや、100万歩くらい譲ったとしても、人間規範を押し付けられるのはどうなのよ?と、さらに思うのだろうね・・・。ヒト目線はどうしてもやってしまうような、いけないことも大いにあるのではないのだろうか?が、こうした寓話が生まれるのはいいことなのだろうし、うーん・・・。

けれども、社会規範という社会が決めた公的倫理というのは、見えない糸があちこちに吊るされているようなもので、人々はみなマリオネット、ピノキオ以前の木製人型になっているのは確か。

規範:(1)行動や判断の基準・手本。(2)〔哲〕〔norm〕単なる事実ではなく、判断・評価などの基準としてのっとるべきもの。準拠。標準。規格。
倫理:(1)人として守るべき道。道徳。モラル。(2)「倫理学」の略。

ついこのあいだ知った新事実なのですが、私は人々をモデリングして学んでいただけなのです。が、ごめんなさい!私はエスカレーターを歩く人間なのだよ・・・。歩く歩道も歩く人間だ・・・。あれは、関西ではそもそもできたとき以来、ずっと、右側が歩かないで停まったまま運ばれる人用で、左側が歩く人用、関東ではその逆だったようですが、実際は歩いてはいけないらしい。というのも、「エスカレーターは人が歩くようにはそもそも設計されていない」とコメンテーターが言っていたのだけれども、それはダウト・・・。だって、成田やその他では、荷物が重い人たちが乗っても大丈夫だし、みんな歩いているしなぁ・・・。

私はそもそもイラチなので、行動が短い時間で処理できることは積極的にやります。が、他人様に迷惑を掛けない、という範囲で。エスカレーターの使用もそれで、特に人にぶつからなかったりしたら、目に見えない老朽化がどの程度かわからないし、サンダルを履いて歩けないので安全だし、歩いています。どうなんだろうね、これ・・・。このニュースを見てから、私の歩く率は減ってきています。これまでは100%歩いていたのだけれども、人がいないときに限って歩いている・・・。人がいるところまで来たら停まってしまう(笑)。「追い抜かされることに不愉快を感じる人だったらどうしよう・・・」と考えてしまうからなのだった。

もうね、こんなことは規範預けにしないで、「決めてよっ!」とイライラしている日々なのである。条例作れ!

喫煙者ですが、私は外でタバコは吸いません。観光地などでどうしても吸えない場合、吸える喫茶店を探したり、車に戻って吸ったりしますし、現在では家に到着するまでは吸いません。新宿のビル街で教えているときには、そのビルが作った公共の喫煙所があるので、そこで長い土曜日には吸うことはありますが、喫煙場所がないというのは、私が喫煙機会が減ることだと、なぜか歓んでありがたいと思っています。もうね、計算された動作ではなくて、習慣になっており、家では何時間あるいは何分間隔で吸っているのか、何がキューになっているのか、本当にわからないわけですよ・・・。ですので、コレも規範としては大いなる間違いではないと思うのだ。どうしても吸ってはいけない場所なら、もう細かに法律を作ってしまえ!と思う私は、あまりに人類を信頼していないのだろうかね?いや、してるんだけれども、確率的には「やらない人間」「できない人間」というのは実在することを、痛いほどわかっているので、良心任せにするこたぁないと思うのだよ。

たいへんにむかついてしまうのが、看板やサイン、の類。どうもあれらがあると押し付けられているという圧迫感に、空気が薄くなった感さえ覚える・・・。私はわんちゃんを散歩に連れていかないのですが、散歩にポピュラーな道路などには、「犬のフンは飼い主が持ち帰りましょう」などと書いてある。わんちゃんを飼っている人たちにとってみたら、「そんなの当たり前」「そんなこと言われなくちゃできないようだったら、そもそもわんちゃんを飼う資格がない」と立腹されるのではないのだろうか?「夜遅く一人歩きはやめましょう」という痴漢防止になっているんだか、啓発しているんだかわからない看板もかなりむかつくかもしれない。やめたくたってやめられない女性はいると思うんだよ。残業を断れないだとか、家賃のおかげでどうしても徒歩が長くなってしまうとか・・・。だったら、無料のエスコートサービスを考えてくれたりすればいいのに、その看板代金で、などと思うのは、私だけなんだろうか?さらに、駅前の歩道には、自転車が溢れかえっており、「違法駐輪は罰します」なんて看板は抑制効果など、微塵もないことを思いやられる・・・。いや、守っている人も確かにいるんだけどね・・・。

あまりに締め付けるのもよくないと思うんだけれども、どうしても守ってほしいことには、毅然とした行政側の態度は必要でしょ。だから、東京でもちょっと外れた道路の脇は、大きなゴミで一杯よぉ。冷蔵庫や自動車やエアコンを棄てに行く人々って、どんなに善人でもいるじゃない・・・。

マリオネットがピノキオになったときに、まだまだピノキオレベルで生活する人々はやっぱりいる、ということは、今日、確認していただけたでしょうか?明日はいよいよ脱却について。

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