モノの喩え

07/27/2008 にアップした文章です。

 

私は、英語講師をやっているときに、「英語の実力」と「技術力」のふたつは別物だということを説明するときに、「東大や京大に入ったヒト全員が自分よりずっと賢いと思うか?」という喩えを出すんですが、昨日はびっくりした・・・。生徒さんのひとりが、東大卒だった(爆)。そして、彼に「東大を入って出たからといってみんなが賢いわけじゃない」という話に乗ってもらえて、かなりの盛り上がりを見せ、なんだかものすごい説得力でした。ああ、よかった・・・。東大や京大卒の方々を傷つけるつもりではないことは、しっかり伝わったようで・・・。モノの喩えってかなり難しいですわね・・・。



昨日、そんな話をしていて考えていたのが、モノの喩えで、小さい頃から私は具体的なイメージからもっと細部への理解を得るために、いろいろな人に「喩え」を求めてきました。気づくと持論である、映像化を知らずに習慣化していたようで。なので、理系な理解の仕方をそもそもしていたに違いなく、渡米してから航空学をやってもできることになったんでしょうね。言葉で理解することには限界があり、段階的には無駄な作業が入ります。英語を教えていて何をホザイているのかと笑われてしまいそうですが、言語は頭の中にあるイメージ(映像や図や表など)を文字化・言葉化することで成り立っているので、その映像化をフルに使うほうが、英語もずっと速く上達するのです。

 

なので、喩えがあったほうが、映像化もしやすくなります。が、文字化することで英語を習ってきた日本人には、なかなかUnlearningができない・・・。英語をなぜ和訳し続けながら時間を掛ける必要があるのか?と問うてみても、明確にその理由を答えられるヒトは少ないです(ゼロ、いないとは言いません。が、私はそれらの答えに納得したことは、ただの一度もないですね、今のところまでは)。

 

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私が小さい頃から喩えてもらって助かっていたのは、ぼやっとした子どもだったからではなく、むしろ、もっと深く知るために、具体的に知りたかったのでしょう。未知なる物事を自分の中に取り込むためには、既知をフルに駆動させて、どんな助けでも借りてしまえ!というのは、未だにやっていることですし、私のゆるゆるな性格はこんなところから生まれており、何かの主義に確固と寄ることがないのも、これが源なのではないか?と思っています。

 

この世に確かなことがそれほどないとわかっていても、私が確かだと言えるのは、

「すべての物事は繋がっている」ということ。

 

何かが世の中のすべてのものから孤立して存在しているということは、自然科学的見地からも、社会科学的見地からも、まったくありえない・・・。遠くのものがどうしてコレと繋がっているのか?と問われたときに、その道のりがどんなに遠くても、なるべく理解してもらえるようにつなげて説明しようとする態度があるのは、おおっぴらに「すべての物事は繋がっている」と言ってしまっているからなんですが(爆)。それに、私もそうやって、拙い喩えから得たものは多く(そりゃぁ、廻りは私と同じ子どもが圧倒的に多かったし・・・)、私の世界はどんどん繋がって行ったのです。そして、不思議なことに喩えを頻用すると、上手になってくるのですねぇ。

 

そこで、ふと立ち止まってみると、2週間前に悩まされた産業カウンセラー講座の座学のほうの講師が頻繁に使っていた口癖、「~みたいな」というのも、喩えから来ていることに気づくわけです。いや、あれだけ多いと、もちろん喩えから程遠いところにあるもののほうがずっと多いんですけどもね・・・。が、英語でも、Like~という言い方は子どもっぽいとはいへども、かなり使われています。10代の子たちは使わないと話せないかもしれないです。私の英語に関しては、日本のある文化や食べ物などを、○×の△のような、と喩えるときに、Likeを使っていたことを思い出し、ここに至ります。

 

コミュニケーションの核である目的は、「物事を伝え合う」ことにありますから、Like~、~みたいな、というのは、あって然りではありますが、あんなにたくさん使われると死にそうになりましたね・・・。数えたんですが(笑)。Monkのような強迫観念症になってしまったかと思っちゃいました(汗)。

 

英語を教えていても、友人と話していても、相手にわかるように、シチュエーションを替えたら、登場人物を替えたら、こんな話なのよ、というふうに伝えられるというのは、強みです。ビジネスでも同じなのでしょうし、料理などの味や感性が主の美術なども、主観をどのように客観に置き換えられるか?というのがキーになるんじゃなかろうかと・・・。

 

量子力学においては、完全なる客観はありえない、としています。John von Neumann(ジョン・フォイ・ノイマン)は、現在のコペンハーゲン解釈のための大きな礎になった考え方ですが、観察が起きたその瞬間に波動関数の収縮が起きるとしたのです。観察がなければ、いわゆる主観を持つ観察者がいなければ、収縮は起きず、そこには普遍が存在する。が、観察者がいてしまうがために変化がもたらされる。だとしたならば、この世は多くの主観の集まりでしかなく、似ていて非なるものばかりがたくさんたくさん集まっているのでしょう。

 

だとしたならば、どのくらい似ているのか?ということに対して繊細なほうが、きっと物事への理解というのは深くなります。私は、子どもの頃はそう思っていませんでしたが、ヘリコプターに乗るようになってから、よくそう思うようになりました。雲の下と上の世界の違いや、風が起きたときの向きによっての受け止め方の違いや、そもそものグラウンドスピードとエアスピードの違いなど、考えることはとても多かったのです。そして、それが私の主観なのか、本当に冷静に普遍的に物理の説明のように起きていることなのか、いつも混乱していたのですよねぇ・・・(笑)。とはいえ、すぐにけろっと忘れて、機内マイクつきヘッドフォンで『東京だよ、おっかさん』やら、『科学戦隊ガッチャマン』を歌ったことも事実です(笑)。

 

たとえば、心が非常に苦しいときや、胸が痛いときなど、他人に話しても理解してもらえなければ、やっぱりつらさは激減しないと思うのです。話したいなと思っても、話がうまく伝わらなければやっぱり話さなければよかったとすら思うこともある・・・。話すことそのものに勇気が必要だったのに、わかってもらえないとさらにつらさは増すかもしれません。「こんな感じ」でもいいので、喩えがあって、他人に伝わると、浄化効果(カタルシス)が起きて、なんとなく気分はラクになります。

 

理解も同じで、アノ手コノ手で喩えを使って説明してくれる人がいても、わからないと歯軋りです。喩えをうまく使うことができたら、本当に世界は広がっていき、深みを増していくと思うのです。

 

いい喩えあったら、教えてください。矢沢永吉は日本のミック・ジャガーというのやら、ソウル大学は日本の東大みたいなもの、と、いろいろ役に立つ喩えはあるんですよ♪

 

 

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