移動を決意するとき

04/16/2008 にアップした文章です。

 

フィジカルな移動を決意するときってどんなときなのだろうか?周りからの後押しがなければ、なかなかできないのが、なべての人にたいてい当てはまるのではないでしょうか?そろそろ私の渡米20周年記念日が近づいており、その週はものすごく忙しく、死んでしまいそうなくらいなので、先に振り返ってみようかと・・・←けっこう気弱なくせに、スケジュールを入れているからおかしい(笑)。私は、両親が私が生まれる前年に、いわゆる文化住宅と呼ばれるような、長屋のように見える借家に、経堂から引っ越してきて以来、渡米するまでずっとその家しか知りません。



引越しをするような理由もなければ、経済的ゆとりもなく、その2間の借家を1間増やして、入れ替わり立ち代わり、いろいろな人といっしょに住みました。叔父・叔母(ふたり)・祖母(母方)・その内縁の夫・父・母・弟。そして最後に残ったのは、母と弟だけでした。その弟が結婚して2年目に入ったときに、家を購入し、同じ市内に移り、母もいっしょに引越し。姪っ子たちはその家で生まれており、彼女たちもなんらかの事情が生じない限りは、あの家しか知らないでお嫁に行くか、自立の道を選んでいくのでしょう。

 

渡米してからの私は、寮→Duplexに日本女子学生4人で共同生活→アメリカ人英語教師の家で間借り→パイロットの家に間借り→西さんと同居(飛行機学校近く)→西さんと同居(西さんの大学近く)→日本に一時帰国→西さんと同居(中古住宅購入)→西さんと同居(新築購入)→西さん台湾へ駐在(コンドミニアム購入)→コンドミニアムへ転居→ペット可アパート→帰国(調布マンション)

 

こう考えると、12回くらい引越しをしているということか・・・。アメリカ国内での引越しは、学生時代は、その岐路によって決められており、もちろんその進路は自分で決めているので自発的引越しでしょうか。その後、近隣の住宅を購入してヤドカリのように移転したのは、いわゆる不動産転がしです(爆)。2年半くらいですぐに引っ越してしまうのですが、家の値段が上がったときに少しずつ儲けてきた感じ。2年3ヶ月で1500万くらい儲かったことがあるので、マメであることはそれほど悪いことでもないようです。ただし、私は日々をマメにできないので、こうしたイベント化で済む範囲で終わらせているところ。実際にマメな人は、クレジットカードや会員カードの使い分けや、お店の使い分けやその他、いろいろしているんでしょうねぇ・・・。私はそのへんは、本当にどんぶり勘定です。

 

私の場合は、そのどれもが、自分の意志を9割以上反映しているものだったので、特にトラブルもなかったし、不平不満も残っておらず、移動そのものに関しても通り一遍のごくごくありがちなたいへんさしかないのです。ひとつを除いては・・・。

 

やはり長年住み慣れた家、特に両親の元から旅たつときには、それなりの覚悟は持っていました。が、そんなことを大げさに言えるわけもなく、かなり淡々とさらりと旅立ったのではあります(笑)。父は時代劇大好きな人だったですから、私には関係が薄い人たちまでも送別会に呼び(招かれた人々はさぞかし迷惑だったとは思う・・・)、そこで日本らしい目に見えない強制的お餞別までいただき、別れの言葉で父がひとりで泣きむせび、「重大なことをやらかしているんだぞ」ということを、私に刻印したかった模様です。そこで、時代劇調に、「故郷に錦を飾るまでは何があっても帰るな」「オレたちのことは死んだと思え」くらいなことを言い、彼は彼で自分に酔っていたんでしょうねぇ・・・。その宴会を開いた中華料理やさんはもう閉店してしまい、影も姿もありません。私が長年住んだ実家の建物と同じです。

 

父を尊重していた私は、それ以来、友だちの結婚式に帰るでもなく、親戚の結婚式に帰るでもなく、最初に戻ったのは、同じ飛行機学校の友だちがプレゼントしてくれたチケットで、でした。その子はなぜそんなことをしてくれたのか?私の親子の愛情の深さを慮ってくれたのか、ただのお嬢さまの気まぐれだったのか?なぜならば、彼女は、セスナのライセンスだけを取るために、しかも個人用のものだけを取得するためだけに、1年半だけの期間で留学していただけなのです。自分つきの教官に恋をして、アパート暮らしも体験し、たいへんに楽しそうでした。経済的にうんと裕福だとは自己申請していませんでしたが、私に10万近くするチケットをくれたのだから、やはりそれなりのゆとりがあったことは確かです。クリスマスプレゼントだったのですが、1月2日出発で、2年8ヶ月で勝手に里帰りした私に、父は、「お金はきちんと返せ」と言い、それでも楽しそうに居酒屋で宴会をしました。そのときは、次の帰国が2年後で父が死ぬとわかって看病のために本格的に戻ることになるとは思ってもみないことでした。

 

不思議と、私は日本に帰国したいという願望が欠落しており、ホームシックは一度も体験していません。冷酷なやつなのか?(笑)

 

私は毎週両親に手紙を書いていたのです。2年間、毎週土曜日、休みなく出し続けました。当時の電話代は、最初の1分が340円で、その後120円ずつという高額なもので、とてもじゃないが国際電話などキリがない。それに、インターネットもまだ出現していませんし・・・。貧乏学生でしたから、ヤオハン(現在はミツワという名で、中国系の会社に買い取られた)には、半年に一度行ければいいほうだったかもしれません。語学学校のときには、San Franciscoが近かったのですが、和食は10ドル分くらいしか買えず、あとはすべてチャイナタウンで調達していました。そのアジア食材をアレンジして、和食に変える知恵を身につけましたね。西さんが大学院生から駐在に切り替わり、それでも定期的にヤオハンに行こうとは思わなかったのですが、「あるんだから使えば?」と言われて初めて、「そうだなぁ・・・(苦笑)」と思ったほどです。私は生活をあまり上げないでおこうと慎重なやつなんでしょうね・・・。

 

それでも、それが悲しいとも切ないとも思わなかったし、ホームシックにも罹らず、日々は楽しく過ぎていきました。今回日本に戻ってきたことに関しても、「悔しさ」のほうが多く「ヨロコビ」はそれより少ないです。こんな気持ちになるとは思ってもおらず、母が残っている日本に対して、正直、申し訳ない気持ちです。日本文化や日本語が嫌いなわけでもないし、好きですから、こんなことを言うと誤解をされやすいのですが、どちらが私が私らしく生きていけるのか?と問われれば、やはりアメリカなのです。だいたい、40歳過ぎて、女性の仕事ががくんと減るような社会に、ヨロコビ満載で戻ってこれるわけもなく・・・(汗)。狭いところと広いところ、どちらがいいか?と問われたら、やはり広いほうがいいでしょうし、物価は安いほうがいいし・・・。が、強制的ではなく、自発的意志で戻ってきたので、できるだけがんばっているつもりです。

 

現在、TOEICを新人研修の一環で教えているのですが、彼らも今月中に配属がわかるそうで、全国のあちこちから研修地のある関東に来たものの、その後、関西に行く可能性もあり、既婚者も2名ほど居て、ワクワクドキドキしているところらしいのです。私に対して失礼だとは思いつつも、イチバンまじめそうに見える22歳が、午後の授業で少し居眠りをしました。新しい体験がてんこ盛りで、よほど疲れている模様。眠らせてしまうのは私が悪いので、アクティビティを増やし、Listeningに切り替えるなど、強弱をつけて、講義だけにしないよう、がんばってやってみました。

 

移動を決意するときは、くれぐれも自分の意志に基づいたものであることを祈ります。サラリーマン社会ではなかなか無理なのかもしれませんが、できるだけ反映されるもので、気持ちが明るくついていくものでありますように。

 

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