放言の緩み

4/04/2008 にアップした文章です。

 

「誰に聞かれてもいい」ということばかりを話して生きていくというのは、なかなか難しいものです。が、しかし、相手を選んだ言葉だけを、いつもいつも話しているというのも、「あなたは一体ナニモノなの?」と問われてしまうまずい態度ではあります。本当に考えていることが、話す相手によってブレまくるというのは、実際は「大して何も考えていない」ということでもあり、それは困る。放言が過ぎて、いろいろな人を傷つけたり、ある特定の団体やグループを傷つけるのもいいことではありません。うーん、困ったものです。どうしていますか?

 

放言:思ったままを言い放つこと。また、不用意になされる無責任な発言。放語。

緩む:(1)強く締めつけられた状態にあったものなどが、たるんでゆるくなる。ゆるぶ。(2)普通の固さよりもやわらかくなる。(3)(「口もとがゆるむ」の形で)きちんとつぐんでいた口があいて、笑い顔になる。(4)精神の緊張が弱くなる。たるむ。(5)規制・取り締まり・警戒のしかたが弱くなる。ゆるくなる。(6)気候のきびしさが弱まる。(7)しっかりしていた相場・値段が安くなる。

 

理想は、「思ったまま」が己をしっかり体現できたり、考えを如実に反映する言葉を発することなのですが、悲しい哉、この世のすべての現象や事象や感情は、言葉によって100%表現できるわけではありません。達人であれば、おそらく8割?9割?が話せるのかなぁ・・・。書くことも同じです。

 

私個人の体験では、最高でも7割でしょうね。表現したいことが、複雑なことであればあるほど、その割合というのは減ってきて、To be Continued・・・・(続く)が必要になります。ですから私のエッセイも続編があるものが多いわけです。言い切れなかった感が「常」で、「明日死ぬわけじゃないから続きにしよう」と、身勝手に前向きです←甘い!と感じる方は多いでしょうね。明日も明後日も今後も続く、とのんびり考えているからいけないのですが、「毎日が最後の日のように生きる」というのも、かなり自分にプレッシャーを掛けすぎることになるので、マイナス面も増えると思うんですよねぇ・・・。

 

シンプルに暮していけば、「○×のお店の○×が食べたい」と100%のことが言えているのでしょうが、実際は、「いつ」「誰と」「どこで」「どんなふうに」などがくっついてきて、私のように「家で食べたい傾向」がある人間は、食べたい対象物が言えても、なんだかすべてを言い切った感が薄いんですよねぇ・・・。ええ、まだ少しアメリカ暮らしをしていた名残があり、狭いお店で食べるくらいならば、家に持ち帰って食べることができるのであれば、家で食べたいと思うことはままあり・・・。誰か知っている人に見られるのも嫌だなと思うこともあり、ネコたちに分けてあげたいと思うこともあり・・・。しかも、歳を食ってきてから、一人前がすべてきれいに食べられなくなってきていることもあり、持ちかえれば母にヘルプしてもらってきれいに残さずに食べられるのになぁと思うこともあり。

 

難しいですよねぇ・・・。この手のチャレンジは、おそらく生涯続いていきます。言葉そのものも生きていてナマモノでどんどん変わっていくし、私の経験も積み重なっていき、事情も変わり、考え方も変化していくので、100%言えた、出し切った!という満足感を得ることは、言葉に関してはないような気がしないでもないです。

 

たまに、プロポーズや授賞式や謝辞を述べる席などで、「言いたいことはすべて言いました」と胸を張って言っている人がいるんですが、私としては少し羨望です。逆に、ネガティブな場合、裁判などで冤罪であろうが、実際に罪を犯していようが、代理人である弁護士も含めて、言いたいことがすべて言えるわけなどないと思うんですよねぇ。

 

自分の中での悶絶であればまだましなのですが、私は人を巻き込み、かなり好き放題に言いたいことを言う性質と来ている。

 

なんと言っても、嘘を長年ついていない私としては、誰に何を聞かれても大丈夫なように立ち居振舞っている「つもり」ではあるのですが、もちろん、そのせいで他人をOffend(攻撃をしかける)することはあります。たとえば本日なども、「東大や京大に入った人のすべてが天才なわけではないよ。個人差はあるけど、半分近くは、点数を取る技術であり、頭が純粋にいいというわけではないよ」などと、平然と言ってのけてしまったので、もしかすると周りにいた誰かは、ムカッと来たかもしれず・・・。たとえ詰問されても、私はそれを理路整然と討論する準備はありますが、その人にたまたま時間がないだとか、私が嫌いだとか、私のような輩がこれまでたくさんいてうんざりしている、などなどの理由で、結果的には「ただOffendされた気分」でその場を去ることは多いかもしれません。

 

私自身、アメリカではアイビーリーグではないものの、自分が一流校と言われるところを出たので、一流校を出た人間のすべてが天才でないことはわかります。ええ、私が天才ではないですから(爆)。そんなにゴロゴロ天才がいても世の中困るしね・・・。この考えは、たくさんの経験に基づいたもので、その多くの「点数を取る技術」が積み重なったものだけで、世の中に出てからも、学歴に助けられて頭がいいと扱われている人々は、何か錯覚をしているのではないか?と思うことがままあります。けっこうむかっ腹が立つことも多いんですよ。私は、未だに中学数学を自力で復習する気力がありますが、私と同い年の人で、同じことをやっている人は、広い世界で何人もいるかもしれませんが、割合的には少ないかもしれません。こんなことをしているのは、私が「賢いのだ!えへん!」という自負に満ち溢れていないからで、「使わなければ忘れるし、退化して慢心する」という注意深いステップを、日々に取り入れているに過ぎず、頭がいいなどということは生涯続くことでもないです。だから、生涯学生でいたいわけですよ。

 

ところが、これを「放言」だと受け取る人も多いし、「場」にそぐわないと考える人も多い。実際は、その場にいる全員が、私を先にOffendしたわけでもないので、たまたま居合わせた人々は気の毒ですし、関係ない人が話を漏れ聞いてしまった場合にはとんだトバッチリです。わかっていても、引き受けなければならないマイナスなのです。

 

講師としては、多くの人が持つ「勉強コンプレックス」を取り除きたくてたまらず、TOEFLやTOEICや英検の点数というのは、正確に英語力を反映しているものではなく、単なるバロメータであることをしっかり理解してもらいたいわけです。英語力がすでにソコソコついた人にとっては、技術を付け加えることで点数が取れるので、かなりハッピーな状況なのですが、英語力がつかない英語教育を施されている多くの日本人にとっては、「英語嫌い」「英語は難しい」「英語は頭のいい人にしかできない」という前提を取っ払ってからのほうが、学習の成果が上がるわけです。なので、ふたつの別のことである、英語力と点数を取る技術についてたまに話すのですが、周りで聞いているほかの先生や、学歴の高い生徒さんたちはむかっ腹が立つことでしょう・・・。

 

緩みに関して触れてきませんでしたが、私の言葉・表現に関する考え方を、そもそも緩めれば、放言の緩みも「仕方ないもの」とみなせるのかもしれないです。でも、事実だからなぁ。100%伝わることなどないということを前提に置かないで考えることはできないよなぁ・・・。欲することもなかなかやめられず・・・。うーん、難しいですなぁ。

 

盗聴のゲンジツ

04/03/2008 にアップした文章です。

 

信じられないことに、盗聴器というのは私たちが思っている以上に蔓延しているらしいです。そういった考え方を持つということそのものが信じられない私としては、どうも実感が湧かないのですが、報道番組やワイドショーの特集などで、たまに取上げられているらしい。母は、「ああ、最近そんなのが多いらしいよ」と軽く流しているのですが、どうも私にとっては信じがたいトレンドではある。母にしても、「一般庶民の生活ではなくて、フィクションに近い、ドキドキした暮らしをしている人々の生活」という感じらしく、まるでドラマを見ているように見ているらしい←やっぱりのんきである・・・。どうして、盗聴器をつけるのか?そりゃ、誰かを監視したり、状況把握したりしたいからなのだろうなぁ・・・。目的はわかったにしろ、そうした倫理的規範を超越した行動を、実際にしてしまうというのは、一体どういうことなんだろうか?

 

盗聴:他人の会話を(機器などを用いて)気づかれないように聞くこと。ぬすみぎき。

監視:(1)不都合な事の起こらぬように見張ること。(2)旧刑法で、再犯防止のための付加刑。受刑者の釈放後、一定期間執行するもので、その期間住居移転の自由は認められず、警官によってその生活が監視される。

管理:(1)管轄・運営し、また処理や保守をすること。取り仕切ったり、よい状態を維持したりすること。(2)私法上は、財産などについて、その性質を変更しない範囲で保存・利用・改良を目的とする行為。または、他人の事務について、その内容を現実化するための行為。

 

盗聴>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%97%E8%81%B4 

盗聴法について>

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AF%E7%BD%AA%E6%8D%9C%E6%9F%BB%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E9%80%9A%E4%BF%A1%E5%82%8D%E5%8F%97%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%B3%95%E5%BE%8B

 

盗聴が犯罪だということは、たいていの人がわかるとは思うのですが、ではどんな罪に問われるのかは、詳しくはわからないかもしれません。

断りなく他者の住居施設への侵入 住居侵入罪

有線通信の盗聴 電気通信事業法違反、有線電気通信法違反

特定の相手方への無線通信を傍受し、知りえた事実を他者に漏らす 電波法違反

付きまとい ストーカー規制法違反

他者からの電気供給(盗電)による盗聴器機能の持続 窃盗罪

盗聴器が使用する無線送信電波が、その周波数の使用を禁止されている場合、あるいは制限を超えた電波出力を発生するもの 電波法違反

 

ストーカー法が日本にもできてからずいぶん時間が経ちましたが、そのせいで、盗聴はさらに増えたのか?あるいは、盗聴器を売る人間がいるからこそ、お手軽な手に届く範囲の値段であるから手に入れて使うのか?いろいろ考えてしまいます。

 

する側の人間の心理としては、「愛する人の動向がわかればやりたい」「自分に利益がもたらされるのであればやりたい」という誘惑に打ち克つのは、並大抵のことではなく、相当の努力を要します。ところが、それは犯罪で、やってはいけないとわかっていても、「手に入れられるのだからやってしまおう!」と、どうもハードルが低いことや、「見つからないだろう」という安易な結論への論理も手伝っているのでしょう。

 

私が考え難いのは、同居人である妻の盗聴をする夫・・・。自分が仕事に出かけていて、留守にする時間が長いあいだ、浮気をしているのではないか?という疑惑を持ち、盗聴器を自分の家につける人がけっこうな数いるのだそうです。「うーん、そもそもどうして結婚したんだ?」と、真顔で尋ねてみたくなります。「その程度の信頼度で結婚に踏み切り、財産管理を預け(あるいはシェアし)、子どもも作ったのか?」と、たいへん不思議な気持ちにさせられてしまうのです。

 

ストーカーをしたとしても、住居にまで侵入するというのは、常軌を逸している行為であることは、平常であればわかるものの、募る想いが、ヒトをどんどんエスカレートしていく心理状態というのは、メカニズムとしてはわからないでもないです。ただし、そのへんくらいからが「来た道を戻れるか戻れないか」の分かれ道で、ストーキングが終わったあと、正常な心理のまま残りの人生を暮していけるかどうかのバロメータになると思われます。盗聴をするときのジレンマが、「ずっと見張っていたいが、仕事があるからできない。だから効率や合理を取って盗聴をする」という動機であれば、間違った論理であるにせよ、エスカレートはマイルドでしょう。が、「もっと詳細に隅から隅まで知りたい」と、窓辺や階下に佇みながらも盗聴行為をするのであれば、もう引き返せないところにまで来ているのでしょう。もっと危険を孕む行動に出る可能性はぐんと広がっていきます。そうなると、気づいたときにプロに頼むしかないのですが、警察はアテにできないという苦情ばかりが入ってきます。どうやって自衛したらいいでしょうか?

 

これは大問題です。

 

盗聴をいつされるのか?誰かからされるのか?は、あまり他人事ではなく、引越しやさんの中には、「盗聴器探知サービス」を開始しているところもあります。引越しの季節ですが、若いお嬢さんに一人暮らしを初めてさせる親御さんなどは、このサービスが高いながらも、使っている人が増えているそうです。

 

http://www.call0222.com/service/ansin.html

http://www.welcome-basket.co.jp/tocho_con.html

 

盗聴器探知のサービスそのものが、商売になるほどに蔓延しているわけですよ。

http://www.jmsg.com/

http://www.to-ch.com/

http://www.i-lock.jp/

 

私の家は大丈夫そうなのですが、一人暮らしの方々や、家に財産を置いている方々など、心配な人は、一考する価値はあるかもしれません。「私だけは大丈夫」というのは、この世にあまりないんですよね。母が家にいる我が家は、盗聴をしかける時間がほぼないのですが、今度引っ越すようなことがあれば、サービスを受けてみようかと思います。

 

Loved Oneを亡くしたとき

04/02/2008 にアップした文章です。

 

昨日の授業で、生まれて初めて、身内を亡くした日の人を教えるという不思議な状況に陥りました。そもそも、どうして授業に来てしまったのか?から疑問を呈したのですが、そのあともかなり普段とは違った状況になり、ほぼカウンセリング状態になりました。思うに、こうしたアジャストメント時期に当たるとき、昔であれば、大家族がそれぞれ支えあったり、友だちがいてくれたり、乗り越えられる愛を得られていたのでしょうが、今、携帯が発達し、人々は家ではなく、お勤めに行き、不在者を時間に捕まえられない悶絶があるのでしょう。どうしたらいいのか・・・と思ったときに、普段の生活で会う人々の誰かに、ついついConfine(打ち明ける)してしまうことになるんでしょうね。

 

私は、たまたまカウンセリングの技術や論理を学んだからいいようなものの、素人さんたちは、昔の人ならばまだしも、どのように対応しているのかな・・・と気になりました。泣かれてしまったのですが、それは相手が誰でもよかったわけで、私だから泣いたわけでもなく、それをどのように昇華し、「不在」に順応していくか?に立ち向かえる体力や気力をチェックしてあげられるといいのですが、ひとしきり泣いて、悲しみのどん底まで足をつけない限りは、浮き上がるのは少し難しくなります。

 

わざわざどん底まで下がる必要がある問題というのは少ないですが、人生のある時期やある物事においては、どん底まで下がったほうがいいことがかなりあります。たとえば、この「愛する人を失う」というものがそれ。中途半端な落ち込みや悲しみという感情や、その人がこれまで与えてくれていたことやその人にこれまで与えていたものなどを整理して補償する項目等を考え付かないままの状態にしたまま、「代替存在」で埋めてしまっていいのか?という質問をしてみない人は多いわけです。亡くなった人というのは二度と戻ってきませんが、生きている人の中から似た人を探すという行為に移行するだけで、何も解決していない人は多いのです。もしも、「愛する人を恋で失った場合」であれば、同じタイプの人を好きになり、同じような失敗をしでかし、何度も繰り返す、というのが、メカニズムとしてわかることでしょう。

 

大切な人を失ったことで、環境が変わったというのに、自分だけは変わらないという、ある意味での傲慢さは、ツケを伴っていくわけです。感情だけを大きく優先させることで、行動がより定着化してしまい、考える余地・チャンスをも、愛する人と同時に失ってしまいます。これは大きなロスとなります。

 

ひとりが苦手な人は、おそらく、このどん底まで下がるということが、なかなかしにくいのではないでしょうか?「ひとりでいろいろと考えると、グルグルと悪い方向、悪い方向に物事を考えてしまう」という不安が大きすぎて、とてもひとりではいられない。そして、考えることや、感情的に感じていることを整理できぬまま、誰かに会うことで、それが自分の考えや感じていることなのか、他から入ってきたことなのか、境界線がつかなくなってしまう。適切なアドバイスや、自分を見つめるための材料をくれる他者との話し合いというのは有効ですが、ヒトというのはかなり身勝手なイキモノで、自分の考え方の範疇からは抜け出せないものです。なので、適切なアドバイスや、悩んでいたり落ち込んでいたりする本人の裡側を見つめるための材料を、いつも提供できる人々ばかりが集まるとは限らない。

 

むしろ、落ち込んでいること=悪いこと、とみなすヒトはかなり多く、ただただ「忘れるための明るい材料」をよしとすることも多いです。そうなると、「根本問題」は、ただ横に移動させられただけで、まだそこにある状態が続きます。対峙することを割けただけ、という状態がずっと続き、二度とその根本問題のせいで、またさらなる問題が起きなければいいのですが、ヒトの習慣は学習の成果なので、その習慣をドラマチックに直すことはできかねるので、またもや同じような問題は起きるのです。愛する人がいなくなったがために起きるさまざまな感情の揺れやフィジカルに起きていく諸問題は、ただ続いていきます。いつ起きるのか待っているのは、活火山がいつ噴火するのか?と似たような状態なわけです。

 

私は何度も何人も愛する人をこれまでに失ってきましたが、そのたびにやはり同じように悲しみますし、痛みが軽減することはありません。ただ、ひとつだけ言えることは、いったん底まで落ちてしまったほうが浮き上がるための時間は少なくて済むし、泣いて悲しんだ自分がけなげだったことや、愛した事実をきちんと受け止めて、またその人を失ったあとでも、なんとか生きていけるという自信も持てるようになりました。どうにかして浮き上がり、息継ぎをする術を知っており、その人と過ごした時間や、濃厚だったはずのいろいろな想い出をひとつずつ訪ねることができ、悲しみと対峙した分だけ強くなれたことを実感して、また青い空を見たり、緑の山々を見たり、湖や海のうねりを見たりすることができ、生きていること、その不思議について、感謝をし、その人の分までもがんばろうという気持ちになれます。自分がいかに小さい存在なのか、それでもいかに強く深いものを得てきたのか。

 

愛する人を失うと、生きる気力や意志がなくなってしまうことがあるのはなぜなのでしょうか?おそらく、そもそものところで、砂粒よりも小さいだろう自分を、心の底から認知していないからなのです。そして、同じように、砂粒よりも小さかったであろう愛する人を失ったことで、こんなにも心が動揺し、悲しみ、裂け、痛み、甲斐のないことを、どうしてもやはり認められないからなのです。その人がいてくれたから自分は生きてこられた感謝を、その人がくれたものすべてを胸の中に生き続けさせて、またしっかり歩いていく謙虚さが持てないからなのではないのか?と問うてみることが大切です。

 

今、冷静なときは、こんな問いかけができるのですが、実際に愛する人を失ったときには、そんなことができる人は少ないでしょう。ですから、人はひとりでどん底まで沈むことがなかなかできません。たくさんの家族に囲まれていたり、近所の人たちがもっと近しく、友だちと心の対話もできていたりした時代には、カウンセラーは必要がありませんでした。知恵がある大人たちは、相手にわかる方法でコミュニケーションが取れていたからですし、連綿と続いてきたたくさんの生命体について、輪廻転生や八百万の神などを創造し、心の動揺を鎮める術としてきたからです。

 

科学が進み、神の存在を、死後の世界を、好き勝手に否定することが自由になりました。が、神がいないことも、死後の世界がないことも、証明しきれた科学者は誰ひとりとしていません。ゼロを証明するのは至難の業です。ならば、心が折れたときくらい、愛する人たちが天国では死後も楽しく生きていてほしいと願うくらい、自分に許してあげたらどうでしょうか?私はそうしています。ガンや病気で逝った愛する人は、痛みから解放され、きっと生前にした善行を労われて、倖せにしており、私を見ていてくれていることだと、私は勝手に信じることにしています。そして、私はまだこっちでがんばる。不在はしばらくのあいだで、私がけなげにがんばっていけば、彼らも倖せで、私も倖せで、きっと何かおもしろいことが死後には起きるかもしれない、と、心が折れているときには、思ってもいいではないですか。

 

小さい存在ではあるけれども、連綿と続いていく気が遠くなるくらいの時間の流れの中、私たちは確実に生きており、明日へ何かを繋げているのだから、思いっきり悲しんだあとには、また繋げていく何かのために、けなげに歩いていくしかないようです。

 

とはいえ、私も次に誰かを亡くしたときに、こう自分に言い聞かせられるのかは、自信がありません。でも、そのつもりです。

 

バランス感覚

04/01/2008 にアップした文章です。

バランスを取る感覚というのは、万民に平等に与えられている能力でもなく、「これが最低限」というのは、一体どんなバロメータなのかな?と、昨日はずっと考えていました。子どもたちですら、学校と家庭のバランスがあり、他と己というふたつの世界のバランスを取らねばならず、このバランス感覚をよくよく使えるようになると、どんないいことがあるのかと考えてしまったわけです。うーん、体操が最初に思い浮かんでしまう私は、本当に凡人なのか?(爆)

 

バランス:(1)つりあい。均衡。かたよりがないこと。(2)貸借の均衡。

つりあい:(1)釣り合うこと。均衡。調和。バランス。(2)〔物〕 一つの物体に働くすべての力の合力がゼロとなって、まったく力が働かないときと同じ状態。この状態では一つの物体に働く二つの力の大きさが等しくたがいに逆向きである。平衡。

平衡:〔天秤(てんびん)の両端に載せた物の重さが等しく竿が水平になっている意から〕(1)物の釣り合いがとれていること。ある物質やある状態が、変化することなく、安定に存在していること。また、その状態。(2)力が釣り合っている状態。力学的平衡。(3)系のエネルギーが変化しない状態。熱平衡。様々な系について、相平衡・化学平衡・放射平衡などが定義されるが、いずれも熱平衡の特殊な場合である。

系:(1)ある関係のもとにつながった統一体。体系。(2)〔数・論〕〔corollary〕一つの定理から派生的に導かれる命題。多くは利用価値の高い場合に導かれる。(3)〔地〕 地質時代区分の「紀」の期間に形成された地層・岩体。(4)〔system〕物理・化学・生物などの分野で、一定の相互作用や相互連関のもとにある、もしくはあると想定されるものから成る全体。力学系・生態系・神経系・開放系など。

 

うん、この『系』という考え方がキーなのでしょうね。学校にしろ、家庭にしろ、仕事にしろ、この系であり、それぞれの系をどのような「関係」で繋げて統一体として、自分が捉えているか?というのが、バランスの取り方の、そもそもの妙や技術や賢さとなってくるわけですな。一定の相互関係や相互連関という、関数でいうところのブラックボックスを考えられる頭は、義務教育を終えていればできるはず・・・。

 

ただ、理解できることと、自分なりの体系を築きあげて、意識しつつ、フルに活用しつつ暮していくのとは、別の話・・・。どうもバランス感覚がなっちゃーいない暮らしぶりだなぁと思う人々も多いのは確か。だから、ストレスに負けたり、健康を害したり、心の病が浮き彫りになってきたり、と思うのです。

 

平衡感覚:(1)空間における身体の位置や運動の変化を感知する感覚。内耳の前庭器官および半規管がこれをつかさどる。平衡覚。(2)物事を一方にかたよらず判断し処理する能力。

 

平衡覚:(前庭感覚)平衡(身体の傾き、全身の加速度運動)に対する知覚であり、内耳の流体を含む腔に関係する。方向や位置確認も含めるかどうか意見の相異があるが、以前の奥行感覚と同様に”方向”は次感覚的・認知的な意識だと一般的に考えられている。

 

http://www2.edu.ipa.go.jp/gz/a-cg/a-500/a-510/IPA-acg320.htm どれを見ればいいかわからないかもしれません。が、とりあえず、こんなにすごいメカニズムを体内に持っていることだけは、ぜひぜひご理解いただけrば、と思います。

 

http://en.wikipedia.org/wiki/Equilibrioception>英語版

 

私は船酔いだけではなく、小さい頃は、バスだけでもなく、電車酔いというのまでしており、「この子の三半規管はどうなってるの!?」とよく言われていたものです。電車酔いをする理由は、電車の中で本を読むからなんですが、今となってはもうすっかり大丈夫です、おかげさまで。自分が運転できるもので、うんと運転が下手な人の乗り物に乗っていると酔いますし、遊園地では遠心力がかかるものに乗ると酔います。コーヒーカップも酔いますから、子どもにせがまれることがこれまでなくてよかったです。姪っ子たちはそろそろジェットコースターに乗れてしまうので、コーヒーカップにはわざわざ乗りたいとはせがまないでしょう・・・。ヘリでは、夜間飛行をしていても、特に視覚ブレが起きて、ライトの基準目印がないと錯覚を起こしてしまうのですが、ヘリの場合は、飛行高度が低いので、たいてい大丈夫です。このところ、ものすごく広大で、錯覚を起こすような風景は見ていません。

 

このようにすごいものを統括している脳を、使おうと思えば使ってあげられる余地を残しつつ、まだまだ使っていない人が多いのでは?と、思ってしまう次第です。ワーク・ライフバランスなどというのを、政府がらみで推進しているようですが、そんなことを他者から言われなければできないってどうなのよ?と、思ってしまう私は勤勉でも勤労でもないのか?でも、なんだか本当にみんな忙しがっているような気はする・・・。本当に忙しいのかどうか・・・。私はこうして、完全休暇はないといえども、こうしてエッセイは毎日出せているわけで、ソコソコの時間はありますからねぇ・・・。 まったくお休みのないお母さんや主婦よりはましで、さらに仕事を持っているお母さんよりは天国です。

 

家族を支えている男性諸氏は、一度就職すると、長いお休みは辞めるまで取れないのが現実のようです。実際は、「育児休暇」を男性に出している会社もありますし、勤続すると「リフレッシュ休暇」というのもあるようですが、取っている人々はそれほど多くはないのでしょう。うーん・・・。やはり取ることで何かネガティブ要素が生まれるがゆえに、きっと取らない人々ばかりになっているんでしょうね・・・。

http://www.mhlw.go.jp/toukei/itiran/roudou/jikan/syurou/07/3a.html 厚生労働省の休暇についての数字。こうして見てみると、やはりヨーロッパなどと比べてとても少ない・・・。

 

バランス感覚については、実際は、ワークライフなどということではなく、もっと細部を追求したかったのですが、たぶん、人々はもうこのへんの入り口で引っ掛ってしまっているのでは?と疑ったら、少しおぞましくなってきてしまいました・・・。

 

家と家庭と自分の仕事やプライベートでの愉しみなど、いろいろな『系』を分けた上で、さらにその関連性や重きや実際にかかる時間やニーズなどをしっかり考えて、その割り振りができるのが、平衡感覚なのでしょう。さらに、仕事能力から見てみると、この平衡感覚というのは、小さいプロジェクトから、世界情勢までも含む仕事にも当てはめていけて、小さい頃から鍛えられていたはずなのに、なぜかそれをフル活用しているように見受けられる人というのは、ごく少ないのかもしれない・・・。仕事ばかりしていて、リタイヤしたあとに、「オレの人生はなんだったんだろう?」と思う人は、そのすばらしい仕事での平衡感覚というのを、フル活用してこなかったわけで・・・。

 

私が常日頃思っている『大きな図柄』というのは、この『系』の繋がりや大きさや位置や重さなどが、しっかり頭の中に描けているかどうか?で、人生の質が大きく変わるということなのだった。自分の均衡状態は、自分にしか管理できず、どんなにすごい宇宙みたいな脳を持っていても、それをナヴィゲートするのは自身なのだという自覚があるかないかで、大いに変わっていくのである。

 

うーん、春なのに風邪をひいてしまい、またもや水のような鼻水を盛大に出しているので、今日はこのへんで。

 

間違った先入観の一例

03/31/2008 にアップした文章です。

 

今日のニュースでうれしいものを見つけました♪時事通信らしい記事なんですが、『移民が増えると犯罪は減少』というもの。校長センセもごらんになっただろうなぁ・・・と思いつつ、お題にしてしまうことに←お題不足なんですよ(汗)←社会はともかく、個人的にあまり悪いことも起きず、穏やかな春の日々を送っているのだ。日本は外国人に厳しいように思えるのだけれども、その懸念の最大が犯罪率の増加なのでしょう。刑法の違いのせいもあるような気がしますが、私の意見としては、日本の美徳も欠点両方の凝縮は「鎖国」にあったと見ているので、これについては興味深く読ませていただきました。すごいなぁ、こういう研究を丹念に続けた学者って。私は学者に向かないよなぁ・・・(汗)。

 

http://www.jiji.com/jc/c?g=int_date2&k=2008032700585  元記事です。移民が増えると犯罪は減少。なんとステキなことでしょう♪

リンク切れなのでこちらをどうぞ:https://ameblo.jp/evening–primrose/entry-12383080860.html 

 

実際に、刑務所に収容されるようになってしまった外国人の数は増えているのですが、訪問数や滞在数(合法的なもの)との割合は発表されているのだろうか?そこが手落ちなのである。どう見ても、私が日本から渡米した1988年に比べると、外国人は増えた。何倍くらいに感じるかというと、私的には倍くらい。見た感じ、観光客だけとも限らず、住んでいる人も圧倒的に増えた。

 

来日外国人犯罪者数はここからリンクに飛んでいただきたい。PDFなので貼り付けができないのです。>http://www.moj.go.jp/ 全般的に犯罪そのものも件数は減っており、検挙率だけが上がっているようで、特に世の中の治安は悪化していないというふうに受け取れますが、内容についてはどう評価したらいいのか・・・。

 

http://www.moj.go.jp/NYUKAN/nyukan67-2.pdf 入国者は倍くらいらしい。在留者は、673万人くらい。この59ページ中の20ページめに、外国人登録者数が書いてあります。200万人を超えています。あ、こっちのほうが見やすい>http://www.immi-moj.go.jp/toukei/index.html Damn! 法務省!

 

私自身もアメリカでは、外国人登録者だったわけですが、ほんの数年前までは、指紋押捺すら求められなかった。それを考えると、アメリカはあまりに寛大だった・・・。テロ以来、いろいろなことが変わりましたが、特にみんなを疑っているわけでもなく、「もしものときの事後直後管理のためのスピーディーな資料にするために収集するようになった」と私はみなしているので、大きな不快感などはありません。その指紋が外部に漏れることもないので、善良な人間であれば抵抗感はないのかもしれません。ただし、日本の在日韓国人に対する指紋押捺問題とは大いに別なことです。ただ、管理されて生きていることを実感してしまう瞬間ではあり、自由という標榜に少し邪魔が入った気がして残念ではあります。

 

さて、アメリカで丹念な研究をしてくれた学者先生(全般的にお医者様と呼称するより、ずっとこの場合的確であると思ふ・・・)のおかげで、『移民が増えると犯罪は減少』と発表できるデータが取れました。そのメカニズムは?

 

まずは移民した本人たちからの視点。私もその立場に居たことがありますから、けっこう語れます(笑)。外国に行くというのは、さらに住むというのは、「いろいろと勝手が違う」という概念がまず浮かびます。子どもじゃーあるまいし、とりあえず、言語からして違うので、他のいろいろなことが違うという結論にはとりあえず達する。そうなると、いろいろな違う場面での違うことを「自ら学ぼう」「馴染もう」「危険を回避しよう」という意識は働きます。無知であることが後ろめたいような気持ちにもなり、「生まれ育ったところの常識が、ここでは必ずしも通用するとは限らない」と、赤ちゃんからの成長過程を、姿かたちは大人だけれども、言葉も完璧ではないし、いろいろなことを知らないがゆえに、「もう一度ハナからやり直し」している感が生まれます。

 

ところが、文化的な違いにアジャストできない部分をかなりたくさん持ったまま暮らしていく人は、かなり多い。だからこそ、アメリカは、昔は人種のるつぼ、現在ではトスサラダと言われているのですが、いい意味での「取り入れ」は浸透しており、アメリカでお寿司も食べられますし、靴を脱ぐ習慣について引越しやさんや修理やさんと語れますしね。日本人が治安の違いから「犯罪のターゲット」になる機会は増えますが、「犯罪を生む側」になる機会は、無意識のうちには、あまりないことでしょう。人前でDVをやって逮捕される例は、かなり稀だと思われます。まぁ、これについては子どもの躾についての大いなる違いがあり、外国人が子どもを公共の場所で殴ったりすると、確かに逮捕された例はかなりあるんですが・・・。

 

ただ、「自分が生まれ育ったところと勝手が違う」という意識は、多かれ少なかれ誰しも持っていることは、子どもでない限り、あると思うわけです。そのこと自体が、ヒトを謙虚にしますから、犯罪にすぐに手を染めるなどという機会そのものが少なくなります。ましてや、お金を稼ぐというたいへんさは、言語をある程度まで理解していなければできず、たくさんの母国語を話す人間がそもそも犯罪をして暮している環境にいて、そこにリクルートされなければなかなか始めるきっかけすら掴めないです。

 

少なくとも、私は19年のあいだ、誰かに「犯罪しない?」と暗にですら誘われたことはありませんでしたね・・・。まぁ、私が向いていないからリクルートもなかったんでしょうけれども・・・。

 

受け容れる側の観点からしてみると、たとえ「訳のわからないことをやるやつら」と見てみたとしても、アンテナの張り方が違っていると思えるわけです。「人々はみな違って当たり前」という概念が、行き渡っていたので、もう少し見方が散漫ではないと思える。かと言って、私は見張られているという気持ちになったことはなかったですね。日本に居たときのような「お互いがお互いを見張る」という効果が出る方法も、「やらねばならぬからやる」というのではなく、「興味があるから見ている」という、自発的なベクトルが出ていたように思えるのです。

 

私は己を知っていましたから、貧民街で生き残っていけるとは思えず、家賃は我慢して多く出すようにしてきました。かといって、お金持ち住宅地に行っても見張られてしまうので(笑)、見栄を張ることなく、身の丈に合うところを選んできたし。貧民街というSegregationが起きてしまうのは、自然発生ではとてもおもしろいと思うのですが、日本は雑居型のほうが圧倒的に多くなってしまっています。土地がそもそも少ないからなのでしょうね。自衛するための手段は、お金持ちはたくさん持っていますし、リソースに手が届くところに位置しています。いや、日本も安価で自衛のための手段はだんだん増えてきたような気もしますけども・・・。

 

1万のために人殺しをするほど、生活に困っている地域には、システムがきちんと機能している、というのも、長年の経験則をしっかり生かしているからこそ、なのでしょうか。それでもとりこぼれが起こり、日本にも悲惨なニュースがたまに入ってきますが、日本でも犯罪の型はアメリカ化しているような気もしている・・・。

 

ただ、移民が増えると犯罪は増える、というのは、ただの先入観、というのは言えると思いますね。日本でもやってみたらいいのになぁ・・・と思いますが、きっとやらないんだろうなぁ・・・。少しずつ増えていくのは目を瞑るとしても・・・。

 

紀久美先生へのQ&A~心理学講座編~その90

「日本人」は世界の中でどんな立ち位置にいるのでしょう?

アメリカから戻って11年が過ぎました。が、英語を使えるAdvantagesがいくつかあるので、インターネットで繋がっている分、臨場感に多少のズレがあっても、日本が『ガラパゴス症候群』であることは、ひしと感じています。とはいえ、私も日本人ですから、日本語や日本人、日本文化の悪口が言いたいわけではありません。ただ、客観的に冷静に見つめて、いいところは促進し、悪いところはいい方向に行ける余地はないのか?を探したいと思うのです。

 

https://www.garo.co.jp/inoue/?cat=11 世界からの日本の評価

https://forbesjapan.com/articles/detail/21836 Forbes

https://news.infoseek.co.jp/feature/japanese_culture_reaction/ ランキング

https://www.madameriri.com/2016/03/25/world-ranking-about-japan/ もうひとつさまざまなランキング これはちょっと考えさせられてしまいます。

 

このように親日家は山程いますし、愛が深い人も思ったよりも多い人数ですが、いかんせん、コミュニケーションがしっかり取れていないというのが問題なのだろうなぁと思ったりします。やはり多くの外国人にとって、日本という国、日本人という人々、日本人が営んでいる日本文化というのは、まだまだ謎が多いのです(笑)。ゆえに、しっかり伝えることをしない限り、伝わらないままなことも多いまま残っていくのだろうと思います。

 

どんな国の人にも理解されることはたくさんあると思います。どんなバックグラウンドであっても、リスペクト:ある一定の尊重や尊敬は、得られることだらけですが、多くの場合、その起源や由来、理由や実際を伝えきれていないため、理解されないまま Wow! How mysterious! で終わってしまうことも ^^;

 

私も1988年までは日本を旅行でしか出たことがなく、それ以降、アメリカから日本を眺めたときに、違った感想をたくさん持ちました。感動したことも多くありましたし、誇りに思えたことも多くありました。今も、日本に生まれ育ったことは、大きなAdvantageのひとつだと強く言えます。もしもアメリカやヨーロッパや東南アジアや中近東に生まれたとしたら、今の私は出来上がってはいないことは請け合えてしまいます。

 

この不思議な国で、それなりの規範や文化、人々や物事に触れて、私は大人になりました。よいところだけを拾い取り、さらに諸外国のよい文化を拾い取り、と、ずるい??ことをしているような気になることもあります。けれども、短い人生ですから、これくらいのわがままはさせていただけたらうれしいです。

 

URLを見ていろいろと考えていただけたら、英語をしっかり学んでいただいて、いろいろな国の方々とコミュニケーションが取れるよう、多様性を深めて、新しいことを受け入れるようにしてくださいませ。日本の未来のためにもよろしくお願いいたします (._.)

 

超高級飛行機シート

03/30/2008 にアップした文章です。

 

国内線では、JALやANAで超高級のファーストクラスシートができたらしい。うーん、どうしたことだ・・・。最高距離と、最大滞空時間は、国内線ならば、3時間行くか行かないくらいではないのか?沖縄だって2時間50分。千歳だと2時間かからない・・・。では、沖縄から千歳までだと?直行便がないそうだ(爆)。うーん、だとしたらファーストクラス料金(8000円らしい)を2回払わなければならぬではないか・・・。しかも、ちょっとした国内旅行よりは、ハワイやグアムや台湾や韓国旅行のほうが、ずっとツアーであれば安くあがる。国内線でのこの高級感への求心力というのは、本当にあるのか?

 

いやー、売れているらしい。乗車率は、80%くらいらしいのである。おそらく、マイレージクラブの方々にサービスをしているのが、半分以上ではないか?と私などは、猜疑心が強いために疑ってかかっているのではあるが・・・。

 

JAL>http://www.jal.co.jp/inflight/dom/f/brand/jal_f.html

 

あなたは、こうした超高級シートに乗りたいですか?

 

ANAのCMで、三國連太郎が息子の佐藤浩市と共演していることだけに、どうも囚われておりました(汗)。「へぇ、大勢の中の2人ではなくて、出演者2人でも共演できるんだ・・・」「ふたりとも丸くなったもんだ・・・」などと、のんびりと見ていた・・・。あまりにもボケた見方ではあった・・・。なぜに、あのふたりのギャラが払えるのかを考えてみるべきではあったし、そのコンセプトに注目してみるべきでもあったように思えたのは、このトレンドである・・・。

 

私の答えは、「いや、8000円も出してそんなシートに乗りたくないっ!」というもの(爆)。

 

国際線で、滞空時間プラス地上待ち時間が8時間であれば、眠りも入りますし、食事も入りますし、そりゃ、ビジネスやファーストであることに越したことはないです。疲れないでゆったりしたあと、すぐに仕事ができたほうがいいですもん。仕事とも限らず、遊びであっても、精力的にいろいろ行きたいところに行き、会いたい人に逢うことができます。でも・・・、国内線でしょ・・・・(汗)。

 

とりあえず、私には『蓄積疲労』という現象は稀にしかなく、しかも出張が決まっていたならば、調整しますわなぁ・・・。西さんは一時期、出張の鬼で、海外出張ばかりだったんですが、それでも台湾から、中国・シンガポール・タイ・マレーシアが多く、たまにアメリカ本土やヨーロッパが入る程度。後者だと、かなり調整しなければいけないんですが、行き先が前者の場合はバスに乗るくらいに気軽なものでした。ええ、パッキングは西さんのほうが私の18倍くらい上手です。日本にも、2泊3日くらいで戻ってこられますから。そうした体力と瞬発力はあります。私も、そんな彼と長年いっしょにいるので、調整くらいはできますぜ。パッキングの美しさや効率性はともかく・・・(汗)。

 

台湾までは、成田から3時間半のスケジュールではあるんですが、だいたい3時間くらいで到着してしまいます。もちろん季節にもよりますが・・・。ガソリンを節約する飛び方で、あの航空時間は出ていますので、急げばコストはかかりますが、到着しちゃうもんです。季節により風の向きや、航路によってはジェットストリームも強いので、けっこう早く到着できちゃうもんです。ちっこいヘリコプターですらそうなんですから、ジャンボクラスのものは、もっと言えるでしょう。荷物の多さでまたさらに違いますしね。荷物の制限も厳しくなっているし、超過したら前のようにサービスはあまりしてくれず、超過料金を厳しく取り立てますから、ガソリンくらい使ってくれとは思う。しかもサーチャージ取ってるしなぁ・・・。

 

私的には、台湾は国際便という気がしないくらいの距離です。今、労働が続いており、休憩でタバコを吸い損ねると、「おいおい、太平洋線をフライトしたくらいタバコを吸っていない・・・」という表現が流行っています。朝の10時から夜の8時まで仕事をすると、それくらいになりますから・・・。5分休憩しか入らず、高層ビルの下までエレベーターで下って、喫煙して戻ってくるには、やはり10分休憩は必要です。5分だと、すぐそばの同階上にあるトイレに行くのが関の山です。

 

しかも、移動している最中の飛行機って、景色は離陸と着陸の時間くらいしか楽しめないではないですか・・・(私はもうそれを楽しむことすら放棄していますが・・・)。まぁ、雲をボーっと見ているだけでも癒されるという方が大勢いることにしてもいいです。最大で2時間50分中、食事が来て、景色を愉しんだ他、少ない人数で独占できるきれいなトイレに行ったとしても、一体+8000円の価値があるのか?私は腰痛持ちなので、シートはいいに越したことはないんですが、2時間50分のあいだに、食事を無視して寝ることもできず、180度リクライニングシートでもないのに・・・と思いますねぇ。

 

しかも、食事は老舗料亭がプロデュースしたものだそうで、それでもお弁当箱に入っているという貧相さらしい。ちっとも超高級ではないぞ、と、このコンセプトを怒りたいくらいです(笑)。夜はお皿で出てくるらしいけれども、それほどすごいっ!とは思えず・・・>写真を見てみてください。

http://www.jal.co.jp/inflight/dom/f/meal/(JAL)

http://www.ana.co.jp/dom/inflight/premiumclass/swf/index.html (ANA)

 

さらに、ファーストクラスの乗務員さんたちは、とにかく回数たくさん来てうるさい(笑)。本人たちに悪気はなくとも、放置しておいてくれないのだ・・・。飲み物だけで3回は来ることでしょうし、食事の上げ下げだけで2回(もしもお皿で分けてくるとしたらうんざりとした回数になる)、おしぼり2回は必須。ということで、2時間50分のうち、7回来られても、あなたはまだシートをゆったり満喫して、寝たり本を読んだりできますかい?

 

私には無理です(爆)。食事は抜かしてしまうくらいの覚悟ならば眠れます。それは前後のスケジュールにもよりますが、私は自分が飛行機の運転ができるので(とはいえ、ジャンボはできませんが・・・)、他人の離着陸のときに神経が尖って仕方ないので、離陸前に眠ることにしています。そうすれば、おしぼりも回避できるし、食事も無視できるし、いいんですよ。が、そうだとしたならば、シートだけが豪勢であればよく、特に8000円を支払ってまで、ということでもないような・・・。先ほど書いたように、国際線であれば話は別なんですけども、私のように大阪や小松空港や鹿児島くらいまでしか行かないやつにとっては、本を1冊読めるか読めないか程度の時間なので、大丈夫なんですよ・・・。

 

サービスされたい病というのは、私にはなく、放置しておいてもらいたいので、やはりこうした高級感あふれる国内線のサービスというのは、無用の長物です。みなさんはどうなのだろうか?広島くらいまでであれば、私は新幹線のほうがやっぱり飛行機より便利だと信じています。1時間25分の航空時間に、30分前乗車や広い空港の徒歩や駅前まで出ることを考えたら、やっぱりここから東京駅まで行って、3時間10分乗っても大した差にはならないと思いますね。実際に調べたら、飛行機だと30分早く、値段は2600円高かった。さらに1時間25分のために8000円を足すなんてことは考えられず・・・。

 

果たして売れるのか?うーん・・・・。

 

久々に数学でも・・・

  1. 03/25/2008 にアップした文章です。

 

ここのところ、頭が硬化しているのではないか?という疑いを持って、なぜか中1からの数学をやり直してみようかと思い始めています。なぜならば、英語学校という名目で、年齢の下のほうの下限を定めておらず、英語をやりたい人なら誰でも基本はOKなので、「そこで数学の質問でも出た日には・・・」と少し考えたのです。「なんでそんな暇なことを・・・」と言われそうですが、実際は、問題は1題につき、2分もかかるわけもなく、連立方程式や一次関数ですから、やっぱり1問で2分くらいだよねぇ・・・。私は、中学の頃にはすでに「女の子は別に数学なんてできなくてもいいよ」と言われて、それに洗脳されぎみだったところもあり、それほど真剣に数学をやった記憶がなく、そのあと、アメリカで教養からやり直したときには、日本語の問題ではなく、全問英語だったので、日本語の問題でもやってみようかな、と。

 

中学校2年くらいの数学からでもいいか、と目次を見てみたところ、

1. 式の計算

2. 連立方程式

3. 一次関数

4. 平行と合同

5. 三角形と四角形、円

6. 確率

となっている。もう少し詳しく見てみると、単項式の情報や累乗、除法などもあって、なんだかとてもなつかしい気もするのだけれども、やっぱり英語でやったGeometryのクラスのほうが簡単だったろうな・・・と思ふ・・・。でも、英語で授業を受けつつも、私は九九だけは日本語だった・・・。

 

私の生徒さんで韓国人の女の子はもっと不思議で、中学校から在日の韓国学校に通い始めているのだけれども、やっぱり数学の問題の九九の部分は日本語でやっているらしい・・・。英語は、私が教え始めてからは、訳すことをしなくなったし、訳している暇があるほどの量や時間のゆとりもTOEFLの問題ではないのだけれども、国語能力について知りたかったので、いろいろインタビューしたところ、韓国語の小説は生涯で、教科書に載っている断片的なもの以外は、1冊しか読んだことがないのだそうだ。が、小説は、日本語でなぜか原作が英語のものを翻訳してあるものが大好きだそうで・・・。なんと複雑な頭になっていることよ・・・と不憫に思えたのです。彼女は早くアメリカに行けたほうがいいのですが、親御さんに従うしかないところがあり、早く自立できる道をどうしても見つけてほしいですね。

 

彼女は数学もよくできるので、今度は高校の教科書を彼女からもらおうかと思ったのですが、いかんせん、韓国語であった・・・。誰かきっと持っているだろうから、どんなものなのか、参考書や受験用以外のものを見たいので、「欲しいっ!」と呼びかけておこう・・・。ちなみにこの問題集は生徒さんからもらったもの。なので、「欲しいっ!」と言えばけっこうモノは集まるのかもしれないと思ったりする・・・。今までも、地方のおみやげをもらったり、日本の流行物をもらったりしています。うーん、あまり積極的に「欲しいっ!」と言わないほうがいいのかもしれない・・・(汗)。

 

そして中断して、連立方程式をやってみた。できた♪うーん、できるんだなぁ(笑)。英語でも日本語でもそう変わらないということがわかりつつあり、GREの勉強以来だから、およそ6年ぶりに真剣に数学の問題を解いてしまった。楽しいじゃん・・・♪とオドロキとヨロコビの入り混じり(笑)。

 

先週末の金曜日と土曜日は、総計4人の生徒さんに、「日本語での読書スピードを調べる」という課題を出したのですが、私はそれについて、「いつもと違う面倒なことを宿題として出した」という罪悪感がいくばくかあったようで、「自分にも何か課題を出さねば・・・」と、この土日に考えていたのです。それがなぜか数学だったとは(笑)。

 

やっぱり1問につき、2分くらいはかかりましたね。加減法と代入法があったのですが、両方憶えていました。なんだかパズルのようでとても楽しかった。もし、これをずっと続けていて、誰かがごはんを食べさせてくれると申し出てくれたならば、今の私であれば歓んでやるところなのになぁ・・・。けれども、ホンモノのこの年頃の人々は、きっとこれはやりたくないことのほうに寄っているんでしょう・・・。

 

ついでに、証明のページを見てみたら、角度を出す問題などがありました。合同ってやつです。「うーん、どういう理屈だったかなぁ」と思いつつ見てみると、けっこう楽しい(笑)。やっぱり私は、数学は嫌いではないらしい。

 

そんなこんなを寝そべりながらやっていて(たいへんに悪い態度です。本当は机に向ったほうがいいのに、簡単な問題だと高を括って、寝そべりながら(いつ寝てもよかったので)やっていたら、ベッドの上が消しゴムのかすだらけになった(笑)。なんだか私は誰に提出するわけでもなくとも、きれいに書きたいやつらしい。

 

そしてふと思ったのが、裏紙にやっていたのですが、「確か学生の頃は、罫線が引いてある紙を使っていたなぁ・・・」ということ。確かにあれがあるかないかで、数学のノート取りや計算というのは、格段に違いが出るかもしれない・・・。そのせいで、Neat(きちんと)に書くために消しゴムをたくさん濫用して書き直したんだろう、と、この律儀なところも意外とあることに気づいたわけです。Conditionedされていたということなのね・・・>条件下で訓練されたということ。

 

いやー、久々にやってみるもんですよ。いい発見があります。これくらいのレベルから開始すれば、数IIBくらいまでやってもいいかななどと思える(笑)。だってぇ、計算ミスを未だにするってことにも気づいたら、「うがぁ、電卓の使いすぎなのかしら・・・」などと反省もするし、初歩的な分数や小数などが出てきたときには、「あれ?どうやるんだったっけ?」と日ごろにない計算にワクワクした(笑)。

 

「もしも、数IIBくらいまで続けるくらいの気持ちがあるなら、インド式をやってみたらどうなの?」と、電卓なしでは計算もできない母に言われてしまった(爆)。うーん、インド式は相当いいらしいな・・・。数独も校長センセがおもしろいとおっしゃっていた。そうなると、読書の時間が減るのか?やっぱりもう少し、数学をやってみようかなぁ・・・。

 

実は、私の生徒さんのうちのひとりが、数学科を出て、イギリス留学で大学院に行こう!と目指しているので、少しそれに触発されたのもあるのです。どのくらいの証明問題ができるのか?言葉ではできても、数式ではできないのか?いや、今ならばきっとできるだろう、と・・・。こうして、いくつになっても、学生でいたい血のようなものは、またフツフツと滾(たぎ)ってしまったのである・・・(爆)。

字を書くヨロコビ

2008年3月くらいにアップした文章です。

なぜかヨロコビシリーズになっているのか?と思いつつも、我が家にホワイトボードが届いてからこっち、どうしても字を書くのが楽しくてならぬ・・・。まだそれほど使っていないのだけれども、しかも掃除は母任せなのだけれども、字を書くのっていいですねぇ♪幼稚園の頃、初めて字を書けるようになったのですが、近所ののんちゃんがいわゆる早期教育を受けていて、私の家では焦りまくり、無理やりという流れではあったのですが、あれが正解でしたね。字だけ読めて書ければ、あとは図書館任せ、本任せでOKという放置状態に、今は感謝しています。そののち、習字も習わせてもらっていたのですが、それは母の洋裁の先生が紹介してくれたので仕方なく・・・。その証拠に弟は行かせてもらえず、格安であった(いくら30年前だからって、1ヶ月4回1000円スタートはすごいよねぇ・・・)。

漢字検定もいつか受けてみたいなぁと思っているのですが、それには他人に判別していただけるような字を書かねばならないではないですか。英語講師が板についてきてから、ホワイトボードに毎日何かしら書いているのですが、その書き方というのもなんだかとても要領がよくなってきており、まとめ方も見せてあげられるというのがうれしくて仕方ない。

 

しかし、私は字がそれほどきれいでもなく、「別に・・・。うん、読みやすいんじゃない」程度なのです。さらに、英語は小文字のn とuの判別がつきにくいらしく、さらにrがやはり読みづらいらしい。申し訳ない・・・。筆記体よりはいいよねぇ、と思いつつも、字を書くスピードをもう少し遅くすれば読みやすいだろうに、とは思う。が、遅く書けなくなってしまっているところがいかんです。しかも話しながら書くことが多いですから。生徒さんたちには、わずかでも多く、発音を実際に聴いてもらう機会を増やしたいがために、生徒さんに発音してもらう時と自分が発音するときのメリハリを意識してつけています。字を書いているときに、必ず発音するようにしており、それを聴いて違いをわかってくれる機会の数を増やすことは、日本人講師といえども大切です。

 

私が常任している英語学校では、黒のほかに、青・赤が常備なのです。私はそれに緑を加えるべきかどうか、今思案中です。色があったほうが楽しいことは楽しい・・・。強度や重要度やアクセントや判別の容易さを色で分けるというのは、なかなか贅沢でもあります。私が小さい頃の黒板というのは、白を貴重にしてあり、あまり赤(正確にはピンクだった・・・)や黄色や青は使われておらず・・・。なんだか贅沢品だったような。おそらく、高かったんでしょうねぇ。今、ホワイトボード用のマーカーをネットで売っているところを見てみても、値段はまったく変わりません。不思議だ・・・。技術の進歩なのか?

 

しかも、教えていて思うのですが、英語に自信がない生徒さんたちの場合、「ホワイトボードに書く」というのであれば、それほど抵抗もなく、むしろ楽しい模様。3分で3文考えてもらい、それをホワイトボードに行き書いてもらい、みんなに確認してもらうのは、発言して発音するよりはずっと気楽な作業らしい。さらに、先週のReviewを、生徒さんにまとめて5分から10分ほどしてもらうこともあるのですが、ホワイトボードをどうしても使いたいのです。なぜなのか?は次の段落で。前に立ってもらってテレも隠せるようで、これはいい♪

 

こうして考えると、日本人がWritten Language(書かれた言語)に頼る率というのは、かなり大きなものなのだなぁと思えてならぬのです。私はこれを、初めてアメリカに行ったときに痛感して、歯軋りをしたものです。生徒さんたちが、先週の授業のReviewをどうして書いて説明したいか?というと、発話だけではなかなかしきれなく、例文を書いたり、私がまとめたものをそのままコピーしたりすることが多いです。その後、自分としては納得して複写したはずなのに、どうしてか行間が残っていない・・・。ということは、私はもっと細かく説明を書かねばならぬことになってくる。授業時間が減っていく。とジレンマがあるわけです。

 

そもそも、なぜ、日本人はWritten Languageに頼るようになっているのか?言語的に派生した文化や意識の問題なのですが、あるひとつの言葉がもたらず常識がかなり広範囲で共通していることによります。個人的意識は総意に沿うものが望ましいとされてきているので、語彙にはそれほどのブレが生まれないと、どうしても思い込んで暮しています。なので、写している最中にはそれほど気にならない理解のズレやブレが、自分が説明する段になると、どうも埋まらない。

 

それに拍車をかけるように、TVも字が濫用されています。タイトルやキャスト表示などは仕方ないとしても、字幕やニュースの要約など、知らず知らずのうちにWritten Languageに頼っていることを、日本で暮している日本人は気づかない。報道に携わったり、文章を書くことを生業としていたりする人々が、すでに一般人のために要約してくれたものをただひたすら読むだけの日々になっているわけです。そして、知った気になり、わかった気になる。弊害は途轍もなく大きいと思われます。

 

私はアメリカで、TVを見ていきなり気づきました。ニュースなのに、映像以外の文字がほとんど登場しない。しりもちをつくほどびっくりしましたね。スッテンコロリン状態でした。タイトルくらいです。あとは、中継をしている先のロケーションくらい。記者の名前すら出ないことが多い。有名記者やコメンテーターやキャスターであれば、ますます出ない・・・(汗)。私がPeter JenningsやDan Latherを正確に知ることができたのは、TVを見ながらアメリカ人に質問をしたからで、ひとりだったら、おそらく長いあいだたどり着けなかったことでしょう・・・。この常識を押し付けない態度は、ほとんど建前だけではなく、本音としてアメリカには全般的に存在しています。情熱を持って調べなければ、なかなか情報というのは確保できないのだ。厳しいサバイバルが求められている世界だな、などとハードボイルド風に思ったわけです。

 

そこでWritten Languageに長く冒されてきた私は、クイズ番組でパネルのあるものを選ぶわけです。そうすれば、スペルもわかるし、発音しているのも聴けるし(問題を読むときや、正解を繰り返すときなど)、少しだけ移行していける気がしたわけです。

 

その後、アメリカ人の「要約」が全般的にあまりに下手なことに気づくわけです。頭がいい人はチャートや図式化することがたいへん上手なのですが、そうでもない人は、だらだらと文章で書く。ひょっとすると、日本人としてWritten Languageに冒されてきたメリットというのもあったかもしれない、などと思った瞬間です。

 

ただし、昨今の日本人は、長い文章そのものから遠ざかっているので、「ああ、そういうふうに要約するのか!」(英語でいうと、Aha!)というようなことが、どんどん無くなっている気がします。

 

しかも、アメリカでもインターネットが普及してこっちは、Written Languageに頼る傾向の割合は増えている気がします。学力がさらに落ちるのか、あるいは「中庸」に行き着き、そこで落ち着き、学力アップに繋がるのかは不明です。未来が語ってくれることでしょう。

 

そんなこんなを考えているうちに、いつしか私は、Audienceが小さいとしても、私も「伝える側」に立ってしまっていることに気づきます。ならば、それを要約するノウハウまでに広げて書こう、と。そんな決意は、決められた範囲での時間やコース内容などに阻まれるのではありますが、今のところ好評をいただいており、毎日が楽しいです。しかし、字を書けるってすごい。Written Languageを持てる民族に生まれて本当によかったよ♪

 

性を売る仕事

03/23/2008 にアップした文章です。

 

予告通り、Hundred-Dollar Babyを読み始めて、仕事が忙しかったことを予測し、温存しつつ、楽しみつつ、ゆっくり読もうと思っていたのに、1日で終わってしまった・・・(汗)。うがぁ。金曜日の夜、電車の中で読もうと思っていたのですが、添削があったのでそちらをやりつつ、「えへへ、読めなくなってよかった」とにやにやしつつ、その後、コピーをしつつ、Anticipationを高めつつ、とても緊張していたのです。Speed Readingというグループの時間に、そのChapter 1がどのくらい難しいのか?という質問だったので、コピーをして見せてみたところ、「読めるかもしれない♪」と生徒さんたちに言われて気をよくし、その帰り道から読み始めたのでした。

 

金曜日の夜は、翌日の仕事がたいへんなこともあり、母がなぜかケンタッキーフライドチキンの金黒ごまなんとか揚げというのをつまみに、ビールを2本買ってきてくれてあり、堪能してしまい、そのまま爆睡。翌日の電車の中から読み始めたのですが、朝の10時から夜の8時までのうち、当日キャンセルが2コマあり、その時間におにぎりを食べながら読んだだけで、100ページを超えてしまった!この本はわずか300ページ弱なので、いささかヤバイと思いつつ、帰り道にすでに160ページを超えてしまったので、もったいないと思いつつも、夜道で二宮金次郎をしながら帰宅。ごはんをひとりで食べながらも読み続け、そのまま読み終わってしまったのでした。惜しい。クタクタに疲れていたら、今日まで楽しめたものを・・・。

 

今日の仕事も、午後1時から夜の8時過ぎまでなので、なんだかエッセイのことを気にかけつつ、一気に読み上げてしまったのでした。ネタバレがあるので、ご自分で、日本上陸を待ちたい方は、この先は読まないでくださいね。

 

スペンサーシリーズの第2作で、スペンサーはスーザンとも出会うのですが、その事件は悲惨なもので、15歳の少女が大人の思惑に翻弄され、いつしか売春をして独り立ちし、親からも学校からも離れて生きていくというものでした。事件が解決した最後に、スペンサーはApril(エイプリール)の成長しきれていない主張を飲むしかないことになります。この決断を、私は最初、「すごすぎる」と思ったのですが、いつになったら「ツケ」が追いかけてくるのだろう?と思ったのです。Robert B. Parkerが生きていて書いているあいだに何かが起きるであろう、と。スペンサーは、エイプリールの「あんな親とは縁を切るし、学校なんか信用できない。私は売春をして生きていく」という決心を受け容れ、「どうせ売春をして生きていくのであれば、最もリスクの少ない高級コールガールの道へ」と、New Yorkのマダムのところに彼女を連れていくのでした。

 

売春のまとめ日本語版 

http://en.wikipedia.org/wiki/Prostitution 英語版

 

そして、シリーズ35作中半分くらいのところで、エイプリールが再登場します。今度は、高級コールガールになり、間違った男と恋愛をし、マダムのところから脚抜けをして、その男がPimp(上前をはねて統括する)になり、利用されまくっていたところで、またもやスペンサーが助け出すという設定。無事に、高級コールガールに戻ってしまうわけです。そこでもチョイスがあることを示されるのですが、15歳から続けている仕事から、彼女は離れることができませんでした。

 

そして、35歳になった彼女が登場するHundred-Dollar Babyですが、悲しい結末でした。もちろん、これはRobert B. Parkerの世界観が作ったものですが、マダムのほうは、ボディガードだった恋人に死なれ、娘同様に育ててきたエイプリールのために、ボストンに支店を、損を覚悟で出してやります。話が進むにつれ、物語の全容は明白になるわけですが、私はどうも第10章くらいからわかってしまっていました(今回は、64チャプターまであった)。

 

女として性を売るには、男に頼らねばならず、それでも男たちには裏切られ続け(エイプリールの場合は父や本気で好きになった何人かのクライアント)、肉体的衰えがあり、幸せとは言い切れない毎日が続き、マネージメント(女でも女性からPimpingするということになっていく。が、女の子たちに好条件で助け合いながらやろうとする)に立っても、クライアントからは「ボスとやらせてくれ」という高額な頼みはある。マネージメントは、地元のマフィアや警察との密な繋がりが必要で、神経を尖らせておかねばならないことがたくさんあり、それらはほとんどが男たち。

 

エイプリールのPsyche(サイキ)は壊れていることが、読み進めるにつれ分かってきます。筋肉が必要とされる仕事もあり(暴力で身を守る)、上前をはねようと狙うイタチのような人々がたくさん出現し、彼女が疲れ果て、マダムにはなりきれないこともわかっていき、本当の愛を見つけようとしても、彼女をまるごと受け容れてくれる人はどうも見つからない。

 

スペンサーは彼女を助け続けることを使命としているのですが、今度も助けることだけに固執し続けます。が、殺人が2つ起こり、その犯人が彼女であることを疑えてしまったときに、彼は彼女を警察に渡すことを拒否します。対峙して話し合いがもたれたときに、彼女の銃口に曝されるのですが、彼女は矛盾を裡側に抱えながら、彼に救い続けてもらうことを選ばずに、自滅することを選び続けた自分の人生を清算してしまいます。結末は、読みながらわかっていたはずでしたが、悲しかったですね。

 

私は個人的に、風俗や売春に対して偏見は持っていません。以前も書きましたが、「その事実、体験をずっと抱えながら生きていくのは至難の業」だということは、今もやはりこの小説を読み終えて揺らいでいません。がゆえに、私はPTSDにもなったのだろうし、売春を生業にしたこともないのでしょう。マダムは、経営をしながらも、自分はとても早い時期に売春そのものを止めていました。それがコツだと語る場面があります。私はそのようには割り切れない性格なので、やらなかった自分に対しては及第点を上げています。

 

人がどのようにどんな職業を見て査定するかなどは、実際は根底事項ではなく、自分が人々の思惑に翻弄されやすい人間なのかどうかを見極めているかどうか?が、そもそもの問題なのかもしれません。もっと根底にあるのは、自分がしてきたこと、積み重ねである自分の過去の行動に対して、どれだけの正当化が自分の中でできるのか?です。嘘や無理な正当化は、孕んだ矛盾をどんどん大きくさせていくだけで、何も鎮めていかず、心が壊れたまま、幽霊のように生きていくことになってしまうのかもしれません。自分の存在や考え方を否定されたあと、再出発やセカンドチャンスを信じることができないまま、路線変更ができなければ、売春は生業にしないほうがよさそうです。夢をかなえるために、売春をして元金を掴んだとしても、その事実はいつまでも自分を追いかけてくる。それに耐えられない人は、時間がかかったとしても地道にお金を貯めたほうがいいです。

 

私は未だに売春が悪いことだと思っておらず、子どもでもなく、強要ではない場合、大人同士が報酬を挟んで性行為をすることは、その個人たちの意思決定だと考えています。ただし、危険要因がたくさんあるので、それに向き不向きもたくさんあることは確かです。性病や暴力やその他、実際にイメージだけではない実在する危険要因を回避するか、解決できる能力がなければ、サバイバルはできません。サバイバルしたあと、辞めたいと思っても辞められるかどうかは、個人に掛かってきます。過去は必ずくっついてきて、葛藤をもたらします。

 

そしてスペンサーは、大きな心の傷をまた引き受けて、探偵仕事を続けていくのでした。とはいえ、私はRobert B. Parker氏の健康が心配です。ずっと書いてくれぇぇぇ。