移動を決意するとき

04/16/2008 にアップした文章です。

 

フィジカルな移動を決意するときってどんなときなのだろうか?周りからの後押しがなければ、なかなかできないのが、なべての人にたいてい当てはまるのではないでしょうか?そろそろ私の渡米20周年記念日が近づいており、その週はものすごく忙しく、死んでしまいそうなくらいなので、先に振り返ってみようかと・・・←けっこう気弱なくせに、スケジュールを入れているからおかしい(笑)。私は、両親が私が生まれる前年に、いわゆる文化住宅と呼ばれるような、長屋のように見える借家に、経堂から引っ越してきて以来、渡米するまでずっとその家しか知りません。



引越しをするような理由もなければ、経済的ゆとりもなく、その2間の借家を1間増やして、入れ替わり立ち代わり、いろいろな人といっしょに住みました。叔父・叔母(ふたり)・祖母(母方)・その内縁の夫・父・母・弟。そして最後に残ったのは、母と弟だけでした。その弟が結婚して2年目に入ったときに、家を購入し、同じ市内に移り、母もいっしょに引越し。姪っ子たちはその家で生まれており、彼女たちもなんらかの事情が生じない限りは、あの家しか知らないでお嫁に行くか、自立の道を選んでいくのでしょう。

 

渡米してからの私は、寮→Duplexに日本女子学生4人で共同生活→アメリカ人英語教師の家で間借り→パイロットの家に間借り→西さんと同居(飛行機学校近く)→西さんと同居(西さんの大学近く)→日本に一時帰国→西さんと同居(中古住宅購入)→西さんと同居(新築購入)→西さん台湾へ駐在(コンドミニアム購入)→コンドミニアムへ転居→ペット可アパート→帰国(調布マンション)

 

こう考えると、12回くらい引越しをしているということか・・・。アメリカ国内での引越しは、学生時代は、その岐路によって決められており、もちろんその進路は自分で決めているので自発的引越しでしょうか。その後、近隣の住宅を購入してヤドカリのように移転したのは、いわゆる不動産転がしです(爆)。2年半くらいですぐに引っ越してしまうのですが、家の値段が上がったときに少しずつ儲けてきた感じ。2年3ヶ月で1500万くらい儲かったことがあるので、マメであることはそれほど悪いことでもないようです。ただし、私は日々をマメにできないので、こうしたイベント化で済む範囲で終わらせているところ。実際にマメな人は、クレジットカードや会員カードの使い分けや、お店の使い分けやその他、いろいろしているんでしょうねぇ・・・。私はそのへんは、本当にどんぶり勘定です。

 

私の場合は、そのどれもが、自分の意志を9割以上反映しているものだったので、特にトラブルもなかったし、不平不満も残っておらず、移動そのものに関しても通り一遍のごくごくありがちなたいへんさしかないのです。ひとつを除いては・・・。

 

やはり長年住み慣れた家、特に両親の元から旅たつときには、それなりの覚悟は持っていました。が、そんなことを大げさに言えるわけもなく、かなり淡々とさらりと旅立ったのではあります(笑)。父は時代劇大好きな人だったですから、私には関係が薄い人たちまでも送別会に呼び(招かれた人々はさぞかし迷惑だったとは思う・・・)、そこで日本らしい目に見えない強制的お餞別までいただき、別れの言葉で父がひとりで泣きむせび、「重大なことをやらかしているんだぞ」ということを、私に刻印したかった模様です。そこで、時代劇調に、「故郷に錦を飾るまでは何があっても帰るな」「オレたちのことは死んだと思え」くらいなことを言い、彼は彼で自分に酔っていたんでしょうねぇ・・・。その宴会を開いた中華料理やさんはもう閉店してしまい、影も姿もありません。私が長年住んだ実家の建物と同じです。

 

父を尊重していた私は、それ以来、友だちの結婚式に帰るでもなく、親戚の結婚式に帰るでもなく、最初に戻ったのは、同じ飛行機学校の友だちがプレゼントしてくれたチケットで、でした。その子はなぜそんなことをしてくれたのか?私の親子の愛情の深さを慮ってくれたのか、ただのお嬢さまの気まぐれだったのか?なぜならば、彼女は、セスナのライセンスだけを取るために、しかも個人用のものだけを取得するためだけに、1年半だけの期間で留学していただけなのです。自分つきの教官に恋をして、アパート暮らしも体験し、たいへんに楽しそうでした。経済的にうんと裕福だとは自己申請していませんでしたが、私に10万近くするチケットをくれたのだから、やはりそれなりのゆとりがあったことは確かです。クリスマスプレゼントだったのですが、1月2日出発で、2年8ヶ月で勝手に里帰りした私に、父は、「お金はきちんと返せ」と言い、それでも楽しそうに居酒屋で宴会をしました。そのときは、次の帰国が2年後で父が死ぬとわかって看病のために本格的に戻ることになるとは思ってもみないことでした。

 

不思議と、私は日本に帰国したいという願望が欠落しており、ホームシックは一度も体験していません。冷酷なやつなのか?(笑)

 

私は毎週両親に手紙を書いていたのです。2年間、毎週土曜日、休みなく出し続けました。当時の電話代は、最初の1分が340円で、その後120円ずつという高額なもので、とてもじゃないが国際電話などキリがない。それに、インターネットもまだ出現していませんし・・・。貧乏学生でしたから、ヤオハン(現在はミツワという名で、中国系の会社に買い取られた)には、半年に一度行ければいいほうだったかもしれません。語学学校のときには、San Franciscoが近かったのですが、和食は10ドル分くらいしか買えず、あとはすべてチャイナタウンで調達していました。そのアジア食材をアレンジして、和食に変える知恵を身につけましたね。西さんが大学院生から駐在に切り替わり、それでも定期的にヤオハンに行こうとは思わなかったのですが、「あるんだから使えば?」と言われて初めて、「そうだなぁ・・・(苦笑)」と思ったほどです。私は生活をあまり上げないでおこうと慎重なやつなんでしょうね・・・。

 

それでも、それが悲しいとも切ないとも思わなかったし、ホームシックにも罹らず、日々は楽しく過ぎていきました。今回日本に戻ってきたことに関しても、「悔しさ」のほうが多く「ヨロコビ」はそれより少ないです。こんな気持ちになるとは思ってもおらず、母が残っている日本に対して、正直、申し訳ない気持ちです。日本文化や日本語が嫌いなわけでもないし、好きですから、こんなことを言うと誤解をされやすいのですが、どちらが私が私らしく生きていけるのか?と問われれば、やはりアメリカなのです。だいたい、40歳過ぎて、女性の仕事ががくんと減るような社会に、ヨロコビ満載で戻ってこれるわけもなく・・・(汗)。狭いところと広いところ、どちらがいいか?と問われたら、やはり広いほうがいいでしょうし、物価は安いほうがいいし・・・。が、強制的ではなく、自発的意志で戻ってきたので、できるだけがんばっているつもりです。

 

現在、TOEICを新人研修の一環で教えているのですが、彼らも今月中に配属がわかるそうで、全国のあちこちから研修地のある関東に来たものの、その後、関西に行く可能性もあり、既婚者も2名ほど居て、ワクワクドキドキしているところらしいのです。私に対して失礼だとは思いつつも、イチバンまじめそうに見える22歳が、午後の授業で少し居眠りをしました。新しい体験がてんこ盛りで、よほど疲れている模様。眠らせてしまうのは私が悪いので、アクティビティを増やし、Listeningに切り替えるなど、強弱をつけて、講義だけにしないよう、がんばってやってみました。

 

移動を決意するときは、くれぐれも自分の意志に基づいたものであることを祈ります。サラリーマン社会ではなかなか無理なのかもしれませんが、できるだけ反映されるもので、気持ちが明るくついていくものでありますように。

 

代謝の活発な春に

04/15/2008 にアップした文章です。

 

今日からコアリズムというDVDを開始しました。まだ、汗がダラダラです。いつになったら引くのか?と思いつつ、シャワーを浴びたあと、それでもまだ汗が出ている、この春の威力を改めて見直しているところです。校長センセのオススメの通り、プールに行くことも考えたのですが、実際は、時間の限定がきつく、とてもではないが、時間の合間を縫って行けそうにないのです。やはり泳いでシャワーを浴びて整えて出てくるとなると、1時間は必要です。しかも、空き時間が午前中に必ずあるとは限らない昨今、夕方から夜は無理で、日中がいいのか?と言われればそうとも限らず・・・。なので、DVDを購入して、家で開始してみることにしました。

 

母ができるものを、と考えると、Billy隊長のものは無理に決まっており、私ですらついていけるのかどうか自信もなく(笑)、以前母がフラダンスをやりたいと言っていたので探していたのですが、ラテンダンスを応用したエクササイズというので、買ってみました。私は腰痛持ちなので、できる運動に限りがあるのですが(椎間板の下から2番目と3番目がほぼ存在しない)、腰の周りの筋肉は欲しく、鍛えるためには腰を振るダンスというのは有効かもしれないと思ったわけです。

 

(ちなみにまだ汗は引いていません・・・。エクササイズ終了後、即シャワーを浴びて、すでに20分経過しています)

 

私は正規品ではなく、英語でもよかったのですが、日本語がないと母がまったくできないので、Shop Japanで正規品を購入しました。9900円で高いなぁと思ったのですが、まぁ、しょうがないです。日本語バージョンにするのに手間賃を取られるのはねぇ・・・。ちなみにUSでは、DVDが6枚入っていて、4500円くらいで手に入ります。

https://www.exabody.com/disp/CSjUnitGoodsTop.jsp?dispNo=002031001&RedirectYn=true&GOODS_NO=69590&af_id=4>日本語版

http://www.corerhythms.com/ >US版。完全版でDVDが6枚。

 

この手の商品には騙されてはいけないと思いつつ、時間がないので、まぁ、妥協してみました。母も1月に70歳ちょっきりになったので、たとえ完璧なステップが踏めないとしても、ダンスだから楽しいだろうし、やる気は殺げないと思い・・・。彼女はまったく運動神経がないのです。ええ、Non-Existenceに近い(爆)。腹筋が一度もできない人は、私は彼女以外に見たことがありません・・・。私だけではなく、本人が最も気にしているのでしょうが、究極に困ることは、いつか寝たきりになることです。健康にぽっくり逝けるという保証は誰にもなく、やはり少しくらいは筋肉を増やしてほしいという願いが、彼女には強くあります。

 

それは、彼女だけに限ったことではなく、私にもシリアスな事情になっています。徐々に痩せてきているので、日本の生活は私には厳しいに違いなく、ダイエット目的よりはむしろ(もちろん効果があればそれに越したことはなし・・・)、内臓脂肪を減らしたり、心筋梗塞にヤバイ動脈硬化を軟化させたり、血中の酸素を増やしたり、筋肉を増やすという目的で初めてみました。脳のエクササイズは充分なのですが、身体全体を考えると、少しオソマツすぎます。私には、新生活もクソもないので、そろそろ空き時間を有効に使って、エクササイズをやらねば、帰国して1年半も経ってしまったのだから、運動不足の言い訳はもうないだろう・・・ということで(笑)。すぐに二日酔いになるのも、ひとつは「ほどほど」ができない性格のせいでもありますが、肝機能も下がってきているのだろうし、もう若くないということなんですよねぇ・・・。

 

とはいえ、昨日も年齢通りに見られなかったので、少しだけ安心しました(笑)←22から24歳の男子が女性の年齢をわかるとは言えず、微妙なところなのではありますが・・・(汗)。

 

春に最も新陳代謝が活発になるのだから、エクササイズグッズはこの時期最も売れるのか?と思えるのですが、そうした意識よりも、むしろ、「新生活が始まるから新しくこれもやってみよう」という意識のほうがずっと大きいようです。

 

http://www.noyukiga.net/shintin.html >春と新陳代謝

http://新陳代謝.hadateire.net/>代謝アップの方法いろいろ

http://kurashiinfo.kitaguni.tv/e510210.html>新陳代謝を高める飲み物

 

私はそもそも代謝が早いはずだったのですが、喫煙のせいで台無しになりましたね・・・。肺機能は直接的に、劇的に、下がってはいないものの、代謝にはひどく影響がありました。西さんも同じで、「喫煙者なのにどうしてマラソンができるのか?」というのは、いろいろな人に訊かれることです。まぁ、彼よりも私のほうがずっと本数が多いんですが・・・。喫煙をどうにかしてやめたいとは思いつつも、まだ実行するに至っておらず、どうしたらいいものかと、まだまだこれに関しては素人のように右往左往するばかり・・・(汗)。

 

(汗止まりました。30分近くかかりましたねぇ・・・)

 

校長センセのアドバイス通り、疲労がすぐに取れるように、半身浴か足湯は開始して、なるべく隔日くらいでは心がけています。毎日はちと無理ですねぇ。10時15分過ぎに疲れて戻ったあと、食事を先にしてしまうと、だらけてしまってお風呂が面倒になる(笑)。そもそも、高校生のときから、入浴(シャワーメインですが)は朝だったので、自然と「出かける前」が習慣になっており、夜ゆっくりと、というのが概念からすっぽ抜けているような感じ。でも、せっかく日本に戻ってきたのだから、と、がんばっているところ(笑)。

 

母が、ゴマ麦茶を手作りするようになったので、コーヒーのほかにゴマ麦茶を飲むことにしています。私は1日2リットルは軽く水分を摂るので、けっこうありがたい。しかも麦茶は大好きだ。漢方薬までは手が出ませんが、飲み物で調整するのは、日々のことなので(しかもしっかり2リットル以上飲めるので)大切です。

 

有酸素運動はこれで毎日30分は確保できるので、あとは定期的にマッサージに行けたら、言うことないし、いつかしっかりした禁煙プランができたら・・・と思っているところです。帰国して以来、劇的に細くなっていた髪が、やっと徐々に太さを取り戻してきました。日本に慣れたということなのでしょう。美容院で「少し太くなりましたね」と言われたのでうれしかった♪とはいえ、元が多いので、今の多さがスタイリングには最もラクではあるんですが、晩年のためにはもう少しがんばってもらわないと・・・←けっこう長く生きるプランらしい(笑)。母ほどではないにしろ(彼女は100歳まで生きそうだから・・・)。

 

もう一度、自分の暮らしが新陳代謝アップに繋がっているものかどうかチェックするのは、この時期有効です。食べ物は、牡蠣がいいんだなぁと、改めて校長センセをうらやんだ次第です(笑)。私はレバ-がダメなので、青魚と野菜をしっかり摂り、忘れないように適度に卵を食べることにします。うなぎはけっこう好きだな。でも中国製品には気をつけたいと思います(笑)。

 

みなさまの細胞も、「わーい!わーい!」と子どものように叫びながら転がりまわり、次々再生していることを祈って止みません。

 

生死に対する感情

04/14/2008 にアップした文章です。

 

お葬式をイベント化しているゲンダイ日本人にとって、どうも死生観というのをしっかり持っている人々は、戦中・戦後まもなくに比べて、断然少ないのはわかるのだけれども、あまりに希薄な気がしている。それでも、犯罪の増減は劇的でもないし、トレンドにブレがあるとしても、長寿にはなっているにしろ、生死というのは「日常」なのだという意識があまりないようである。うーん。そして、裁判員制度に不参加したい理由の一位は理解できるよ。仕事を気軽に休めないというのは、勤労のゆえか、足並みを揃えて職場での人間関係を嫌ってか、はたまた生活苦などが身近にあるから、などといろいろな理由があることはわかる・・・。でも、あからさまに「えええええ、死体の写真を見ることがあるんでしょー。怖いぃぃ」というのはないだろう・・・(汗)。

 

元ニュースはこれ>http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080412-OYT1T00722.htm

最高裁がこのような制度を設けることは、当然なこと。

 

アメリカでは、チャレンジャーが落ちたときにも24時間以内には、すでにそこに見学に来ていた子どもたちが受けた心の傷のケアをするためのチームが発足し、「宇宙飛行士」の夢を捨てないで済んだ子どもたちも多く、ケアについての考えはかなり根底的に固まっています。

 

裁判員制度の折にも、申請さえあれば、裁判所つきのカウンセラーはたくさんいて、すぐに面談ができます>が、裁判中の場合には陪審員の資格が剥奪されることになります。が、途中脱落の理由に、急性PTSDというのは、かつてニュースになったことはなく、陪審員選択のシステムがしっかり樹立していることも貢献しているのでしょう。

 

今読んでいるMitch Rappシリーズでは、Navy SEALsのオペレーションの仕上げで、極悪犯人をTerminate(終わらせる=殺す)ことが使命になっているという箇所を昨日通り過ぎたのですが、国防というのはそういうことで、きれいごとでは決してないわけです。またもや、同じような誘拐事件や爆破事件などを起こす可能性のある相手に対して、無実の市民を巻き込んでも「我々のCause(目的)のためだ!」と平然と理論崩れをかざす人間たちに対しては、やはり「終わってもらおう」と考える国防第一な考えの人がいても不思議ではありません。私個人は、その決断ができないがゆえに、そんなビジネスをしていないだけで・・・>政治家のみなさんや自衛隊のみなさん、警察官などのみなさんは、そういう覚悟があるのだ、と、一般的に尊敬してしまう対象なのですが、言動不一致が多い人が目立ってとても悲しいゲンジツがあるんですが・・・(汗)。

 

さらに、彼らにはQuit(辞める・止める)というチョイスはないわけですよ。やめたときには、相手に自分が殺されるときなわけです。だから彼らの辞書にQuitという言葉はなく、任務においてその死生観というのは、固まっており、側面では原始的なようですが、実際、ヒトというのは生物のひとつなので、その側面も忘れてはいけないと思うわけです。

 

そして、この裁判員制度に参加したくない理由の、上位に来ているこれだ・・・。昨日は、急いで美容院に行ったのですが、そのときにも、「知らない人に電車のホームで背中を押されたり、すれ違いざまに刺されたり、なんてこと、最近ありますよね」という話になり、「確かにそうだよ・・・。なのに、死生観がどうも希薄なのは、どうしてなんだよ・・・」とふと、はたと、気づいたわけです。

 

私は、アジのたたきを生きているアジを捌いて作ることはしません。技術的にはできますが、やりたくないのでやりません。カニも同じです。が、ありがたく食べさせていただいています。ここが偽善と誠意の分かれ目ですが、Native Americans(昔のインディアン)のバッファローを大切にする気持ちなども、ここから来ており、「飽食はしない」「天からもらったものをありがたくいただく」という前提があるからこそ、ハンティングはしていいわけです。

 

SEALsなどに代表される国防も同じで、生命の大切さをわかっていればこそ、「どの生命が大切なのか」と、偽善者にならずにきっちり選ぶことができなければ、瞬時になんて到底無理なわけだし、そのような仕事にそもそも就けないわけですしね。

 

こうした熟慮の上に生活を続けている人々がいる中、「まったく知らない他人の死体なんて見たくないし、それが残虐だったら夢に見るから嫌だ」などと言っている場合ではないように思えるわけです。なぜならば、私たちの生死は、こうした国防をしっかり考えている人々のおかげで保たれている部分が大いにあり、私たちがやるべきところを、実際は分業して、死刑執行をしてもらっていたり、凶悪犯人を追いかけて殺してもらっていたり、ミサイルを撃ったりしてもらっているわけで。その裏側で、仲間の中から、「腐ったりんご」が出ても不思議ではなく(あれ?腐ったみかんだったっけ?)、その仲間を作ったのも、また、私たちひとりひとりが形成している社会のせいで、小社会がたくさん集まったものが大社会で、その大きな括りが国家で、それがいくつも集まったものが世界で、環境問題などを考えると、私たちは宇宙の構成員の一員としても、どう暮していくのがいいのか?すら考えたほうがよいわけです←ねばならぬ、とは言いません。そのほうが、個人も充実した暮らしができるという提案です。

 

Mitch Rappが大統領の筆頭秘書官に怒りを抑えて言うのですが、「感謝の心をカケラも持たないやつだけは許せないんだよ」と。本当に、他人のために、かなり多くの人々のために、国防をしている人々はそんな切ない気持ちでいつもいっぱいなんだろうということくらいは、ぜひぜひ理解していただきたく、死刑執行をしている刑務官や、死刑宣告をしている裁判官や、スパイ活動をしている人々など、私たちは決してひとりで、あるいは自分が選んだ、愛する人々とだけ暮しているわけではないことは、理解する必要すらあると思うのです。

 

裁判員制度は、国民の義務なのだから、せめて自分にできることはやろう、という気持ちから始まってくれてかまわず、その先にある、私たちの暮らしは私たちが作っていくのだ、責任を持って、という自覚がみんなに芽生えてくれるとさらにうれしい。私がうれしいのはおこがましいのですが、国防に携わっている人々、みんながうれしいと思うのです。

 

小さい頃から、私は消防官フェチでしたが(笑)、自分はそんな人の妻にもなりたくないとわかりつつ、やはり軍人や警察官など、危険の多い仕事をしてくれている人々はどうしても好きです。小説やドラマでしかわからないとしても、彼らがいてくれるからこそ、私はのほほんと生きていられることは、よくよくわかっています。ゴルゴ13が伝説的なベストセラーであることから、生死に対する感情は誰しも持っていることはわかるし、アクション映画がコケにくいのもそのせいです(安定した数字が取れるんですよねぇ・・・)。その感情を短絡的に受け止めて答えを出すのではなく、「裁判員制度参加してみるのもおもしろいだろうな。非日常を日常にできるチャンスだな」と思ってもらえるとうれしいし、そこに、たいへんな仕事を肩代わりしてくれている人々への謝意が生まれれば、さらにうれしいです。

 

正義のためのチョイス

04/09/2008 にアップした文章です。

 

日々、小さい積み重ねが集積すれば、なんとか正義への貢献になるのではないか、と、私は政治に直接的な活動はしていないものの、日々の言動に気をつけています。子どもの頃から、やたらと「正義漢」ではありました。正義というものが何なのかわかっていなかった頃からだったのは、おそらく、父からの洗脳を見事に受け止めてしまっていたからなのでしょう。それを想うと、子どもの頃の環境というのは大切です。禁を破って、最近またVince FlynnのMitch Rappシリーズを、大切に大切に読み始めています。電車の中で、涙が溢れて仕方なく、どうしてこんなに泣けるのか?と、つくづく考えているところです。

 

正義:(1)正しい道義。人が従うべき正しい道理。(2)他者や人々の権利を尊重することで、各人に権利義務・報奨・制裁などを正当に割り当てること。アリストテレスによると、名誉や財貨を各人の価値に比例して分配する配分的正義と、相互交渉において損害額と賠償額などを等しくする矯正的(整調的)正義とに分かれる。また、国家の内で実現されるべき正義には自然的正義と人為的正義とがあり、前者が自然法、後者が実定法につながる。国家権力の確立した社会では、実定法的正義は国家により定められるが、これは形式化・固定化されやすい。そこで、各人がその価値に応じた配分を受け、基本的人権を中心とした諸権利を保障されるべしという社会的正義の要求が、社会主義思想などによって掲げられることになる。公正。公平。(3)正しい意味。正しい解釈。経書の注釈書の名に多用された。

道義:人としてふみ行うべき道。道徳。道理。

自然的:天然のままであるさま。人工の加わらないさま。

社会的:社会にかかわりがあるさま。社会性があるさま。

 

私は、子どもの頃は無力だったので、この自然的正義というのに畏怖を強く感じていましたね。毛虫がチョウチョになることや、水をあげた種が芽を吹き出し、花が咲き、実までがつくということなどで自然を学び、その後、自然界での弱肉強食を目の当たりにしていきます。そこに手を貸すことを、父はなぜかそれほど喜びませんでしたが、猫や犬や鳥を大切にすることは歓んではくれました。とはいえ、彼の場合、ヒトが作りだした社会に対する不平不満でいっぱいで、闘う態度を失うことなく、定年前に死んでしまいましたから、彼の場合は、この社会的正義というのに、いつも傾倒していたに違いありません。その彼は、本当に自然の摂理をしっかり身につけていたのか?おそらく、田舎の中の田舎のようなところに生まれ育ち、中卒のまま大工仕事の基礎を身につけ、東京に出てきて運転手の職にやっとありつき、自然の摂理が痛いほど理解できたうえで、人為的にヒトが動物でいないままの理想的な正義を、彼なりに追い求めていたはずなのです。だから、すっきりしたいがために、時代劇を見ていたんでしょうねぇ・・・。あの時代にだって不幸な人々はたくさん居たけれども、ドラマの中では、悪い人が斬られて、正義が勝つというのが、どうしても気持ちよかったんでしょう。

 

私が今読んでいるMitch Rappシリーズは、Executive Powerというものです。あらすじはこちら>http://blog.livedoor.jp/cyberbabe/archives/50709090.html 個人ブログなんですけど(笑)。

こんなに安いから決断して買ったんですよ>

http://www.amazon.co.jp/Executive-Power-Vince-Flynn/dp/0743453964

 

アメリカに住む前は、ヨルダン-イスラエル問題などには関心どころか、基礎的知識すらありませんでした。父にだってあったかどうか怪しいものです。アラファト大統領が1993年にノーベル平和賞をもらったときにも、アメリカ人で中東問題に興味がある友人たちは、そこそこの知識を持っており、そのおかげで私も「知りたい」「知らなくちゃダメだ」と思ったものです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%88 アラファト大統領について

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%8A%E5%95%8F%E9%A1%8C パレスチナについて

 

このような遠い世界で起きている不幸について、正義が体現されないことについて、私には何もすることができず、小さい女の子がレイプされたり、「死んだほうがまし。どうか殺してください」と懇願しながら拷問されたり、手足がないまま暮していく以外のチョイスがなかったりすることなど、日々の大半は忘れて暮しています。けれども、胸を張って言えるのは、自然的正義を理解した上で、社会的正義についての自分なりの意見を持っており、小さいことの積み重ねながらも、私なりの正義へのフェアネスを体現しつつ暮していくことは、片時たりとも忘れていないということです。

 

国防について考えている人々はたくさんいても、それを実行している人々というのは一握りです。その人たちは、体力も人並みはずれてあれば、知性や感性も研ぎ澄まされており、その人たちのおかげで世界が成り立っていることは忘れていません。だからこそ、こうした小説を読んで泣けてしまうんですが・・・。もちろん、そこには政治が絡み合い、その国防を体現している人々も責めの対象となってしまうのですが・・・。残念なことです。

 

その人たちの偉さを私も見習えるなぁと思うのは、贅沢をたまにはすることがあっても、基本は質素に暮していきたいと心がけており、そのためにはどうしてもないときを抜かして、私はマイボトルを持ち歩いていますし、お弁当も持っていきます←とはいえ、母親に作ってもらっていたんじゃ、とは思うんだが(爆)。しかも、お茶に農薬が入っていたというニュースまで入ってきていて、ちとびっくり←余談ですが・・・。多少の余剰金があっても、自分のために贅沢をするために使うことなく、必要最低限のもので暮していき、日ごろお世話になった方々や将来がある人々に分け与えたり、ごはんを食べてよく話す社交費として使うことにしています。形あるものをいくら持っていても仕方がないのは、国防をしている人々の人命救出大作戦や暗殺場面を読むとよくわかります。いつ死ぬか、という刹那な気持ちがないと、「必ず明日は来る」という奢りで、モノをたくさん持ちたくなるんだろうと思うんですね。

 

ダイヤだろうがサファイヤだろうが、ブランドの洋服やバッグだろうが、確かに商業的に成功する分野だし、モデルや芸能人もそれを持っていると、「第一印象」「容姿やイメージのアップ」で儲かる良循環に乗れるのかもしれません。が、私は質素に暮していくことを心がけています。ピアス以外での宝石は要りませんし、数も要りません(耳の数は増やせないし・・・爆)。

 

政治を見ていても、世の中の風潮のネガティブ面を見ていても、まずはひとりひとりが持つ、「ラクして儲ける」だとか、「人より良い暮らしをする」という考えに根付いているような気がしてなりません。それがなくなれば、蓄積したときにけっこうなパワーを醸すのではないかと考えていて、私は洋服も親の敵のように着るんですね(笑)。いやぁ、貧乏育ちをそのまま続けているだけって言われればそうなんですけど(爆)。

 

正義というのは長い遠い道のりなのだけれども、最初の一歩は、自然界を知ることではないのか?と思っています。そのあと、いろいろなことにぶち当たるのでしょうが、まずはそこから。そして、いろいろなチョイスをしていくことで、生き延びていくチャンスを増やし、賢く暮して、他人を自分と同じように扱えるヒトになってもらいたいものです。それが蓄積されれば、正義はいくばくかは実現できると思うのだけれどもなぁ・・・。

 

海の上で燃え尽きる

04/08/2008 にアップした文章です。

詩的に表現しましたが、今朝のニュースを題材にしたもの。不謹慎かもしれない私の第一声は、「うはぁ。誰だろう、これ考えた人・・・」というもの。母は、「火葬」と「船」がどうしても繋がらなかったらしく、ひとりでぼーっと肩と首のあたりを揉んでいて、ニュースが進むまで想像できなかった模様。「船の上で火葬を」のニュース見出しでは、わからない人は多いのかもしれません。私はすぐにわかってしまい、なんと現実的で嫌なやつなのか・・・(汗)。

 

土地が少ない日本であるからこそ、地上に建てたくない施設や建物というのはたくさんあります。非常に現実的なのですが、火葬場もそのひとつ。今ほど輸送システムが発達していなかった昔では、火葬場の近くには、たくさんのお墓もあり、近所の人々は生活していく上で、自分たちの「生」を常にネガティブな心理に影響するそういった建物を疎みます。そりゃ当然の気持ちですから、責めたてられぬ・・・。

 

これを突き詰めて考えるに、日本人の心持や暮らしぶりというのは、大いに変化しており、職住隣接という考えは発達しても、祖先のそばにいつまでも居たいという人々よりは、さまざまな理由があるにせよ、お墓は遠くにあって当たり前のような風潮になっています。そのせいで、お墓サービスという産業までが発達し、代理人である会社のクリーニングの人々が、お墓掃除をしてくれて、お参りまでしてくれて、その写真をデータ化して送ってくれるのです。ちなみに、なんでこんなことを調べなくてはいけないのか、日本で最もお墓参りの義務感が発達している県民は、鹿児島県人だそうで、鹿児島の人々には、お墓参りは日常にまだまだ根付いているといるのですね。

 

家・家格・家名とその歴史の問題ですから、さまざまな事情が発生し、時の流れと共に、諸問題が生まれてきます。そのせいで、自分が住んでいるそばにお墓がないことは、私としては少しさみしい。たとえば父の実家のお墓というのは、歩いて5分の山の上にあります。ええ、山の中に住んでいるんですって(爆)。神道の神主をして、小さいながらも神社をひとつ持っているせいで、奥津城と呼ばれるお墓は、りんご畑のすそにあります。叔父の家に行くたびに、お酒やご馳走に預かる前に、必ず挨拶に行くのです。が、父は次男なため、母の母が購入した、永代供養料も納めてある由緒正しい日蓮宗のお寺に入っており、そこはあまりに遠すぎて、勢いだけではお参りに行けないのが、私としては心苦しいのです。アメリカに居るならまだしも、どうして気軽に、ひょこひょこと行けないのか、父もさみしがっていることでしょう。祖父や祖母のほか、早産した兄弟と母の弟である叔父も、同じお墓に入っています。お金も時間もかかるようになってしまったことに、なんだかさみしさを感じますね。

 

そして・・・、その心の負担を考えていた矢先です。なぜならば、お彼岸が過ぎて、私は今年は忙しすぎて、完全休日というものが持てておらず、どうしていいか、二進も三進も行かなかったのです。どこかでずっと気にしており、申し訳ないと思いながらも、母が手紙をしたためて、お寺にお金を送るところも見ているわけです。その状態でこのニュース。

 

きっとたくさんの人々が、今住んでいるところから、お墓は遠いと思うのです。だったら、もう少し、その心理を広げてみて、船の上での火葬というのも、取り入れてみればいいのに、と。

 

考え方としては、とても論理的で冷たいのですが、団塊の世代が老齢化したときには、火葬場の予約やその作業が追いつかなくなるであろうというもの。確かに、日本の人口分布を見てみると、今までの火葬場の数では追いつかなくなるだろうという推論には、かなり納得できるのです。他人様が死にゆくことを想定するのは、気が引けるのですが、避けては通れない道です。むしろ、ご遺体をそのままにしておくほうが罰あたりです。

 

http://www.nippon-foundation.or.jp/org/press/2007/08102.html 財団ぐるみでがんばっています。

これによると、すでに火葬までを1週間待たねばならぬ状態に陥っているそうです。

http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn/20080407/20080407-00000044-jnn-soci.html 動画がついているのでわかりやすいです。

 

事実、多磨霊園のように著名人もたくさん眠っている地域はあり、それがむしろ「街の名声」になっているようなところもありますが、今、多磨霊園に新規でお墓を持てる人などそうそう居るわけでもないし、火葬場はこの近辺ではあそこに頼っていますが、確かに「どうしていつもいつも霊柩車ばかりなんだろう・・・」という子ども時代を過ごした私としては、火葬場というのは、人々に疎まれる存在なのだろうということは理解できます。

 

船が火葬場であれば、老朽化した際には、スクラップにできて、土地問題はないので、移動すらできます。近海内の少し沖合いまで出て、セレモニーもそこで済ますことができれば、いいお葬式もできるのでしょう。ただ、お葬式代というのは上がることになるのでしょうが・・・。ただ、海の上で燃え尽きていく愛する人を見た自分は、「散骨してもいいかもしれない」と思えるようになるかもしれません。私は、JFK(John F. Kennedy)の散骨風景を見て、自分もそうしてもらおうと決心したのです。モノクロのニュース画像だったのですが、とても強烈でした。父方の神道や、母方の日蓮宗のほか、日曜学校のカトリックや、アメリカでの宗教学の基礎網羅をしたのちである今でも、やはり私には散骨しかないと思っています。私は女で、守るべきお墓がなく、今、父が眠る参っているお墓は、弟一家のものへと移行していくわけです。骨になってから、誰かといっしょにいたいとは、私は思っておらず、自然に戻してもらえればいいのです。もちろん、献体したあとの残りでいいですし。

 

私は、これを考えた人に、「頭のよさというのはこういうふうに使わないといけないよなぁ・・・」と、冷たいようですが、すごさを感じてしまった次第です。まぁ、これもビジネス化されると、人の生涯や死が軽率に扱われていくことになるのですが、最低限のビジネス化でお願いしたいと思います。

 

葬儀に参列するほうとしても、わざわざ時間を作って火葬場に行き、あの混雑している人々の苦痛・苦悶の表情に刺激されるよりは、海の上でカモメたちを見て、それぞれがデッキから海を見つめる時間が持てていいのではないかと、とても現実的なことを考えてしまう私ではあります・・・。私はあんなときに、小さい待合室に詰め込まれて、誰かと話すことは望みませんから。

 

そして、この発想をきっかけに、水上農園を作ることが実現して、日本の自給率も上がるといいなぁと思うのです。水上農園は効率がいいですよぉ。エジプト時代にナイル川でやっていたし、他の文明でもいくつかやっていたところがあります。日本の人々も、自分たちの土地の狭さを考えて、温故知新をして、そこから今できる知恵をバンバン出して、心意気は保ちながらも、生き延びていくことは可能だと思えたニュースです。が、たくさんの人々が混じっていくと、関わっていくと、いろいろ難しくて実現しないのかもしれないんですが、私は希望することはやめませんぜ・・・。

 

人と知り合うプロセス

04/07/2008 にアップした文章です。

 

人を知るというのは、それほど難しいことではないが、自分について伝えることはものすごく難しいと感じている人は割合的に多いのではないか?と思うのです。そして、他人の意外な部分を知ると、かなり感動するのではありますが、自分がどういう人間なのかを第3者の新鮮な眼で見た感想を、どう受け止めるかで、今後の人生というのは変わってくるのかもしれません。それが「出会い」の妙なのでしょう。ええ、昨日は、産業カウンセラー講座の初日で、私はクタクタに疲れてしまいました。驚くほど、エネルギーが必要なことを、実感してしまったのです。その説明をぜひぜひ・・・←説明じゃなくて、言い訳だろうって!?(爆)

 

日曜日の都内の教室に集まった人数は、70人ほどだったと思います(今、冷静に椅子と机の数とグループの数で考えている・・・)。その70人が5グループに分かれて、実技講座を受ける仲間になります。20回の講習中、8回が座学で、大きな教室で講義形式で行われるのですが、12回は昨日の1回も含めて、そのグループでの実践になり、カウンセリングノウハウをやるわけです。校長センセはすでに昔?に経験なされており、私の説明を読むのはなつかしいのかどうかわからないですが・・・。

 

お決まりのような自己紹介があり、「どうしてこの講座に参加したか」という志望動機を語るのから開始し、一体どのくらい話したんだろうか?というほど、話したし聴きましたね。聴くことはまったく苦ではないのに、どうしても話すことは苦痛だった。いや、私はTalkativeな先天性があるので、実際はそれほど苦痛ではないはずなのです。条件の問題です。その条件の最たるものが、「初対面で相手を知らない」ということ。

 

このエッセイも、実際は不特定多数の人をAudience(観客)としているはずなのですが、オンライン上にこれだけ(いわゆる星の数ほど)のブログがある中、私のブログを読んでくれている方々というのは、実際は「共通項」があり、私のエッセイというのは、その共通項に「共感できる」方々のみが再来するような要素が強くなっています。私のような思考回路を持たぬ方でも、概ねの意見が共通しているところが多いがゆえに、何度も訪れてくださっているわけです。でなければ耐えられないし、もう読んではいただけない。校長センセと陽さん以外で、リアルの友人にはほとんど言っておらず、西さんも多忙のため読むこともたまにしかなく、英語学校の生徒さんにも4人にしか教えていないわりには、アクセス数は毎日コンスタントに100は超えており、多い日にはなぜか300を超えます。

 

そのせいで、書いている私のほうも態度や内容について、調整ができており、知らないあいだにコミュニケーションが取れている状態になっています。コメントも、校長センセや陽さん以外の方に、ごくごくたまにはいただけますしね・・・。統計というのは、かなり読めば読めるものなのです。

 

ところが、昨日のメンツは、それぞれがみなユニークで特別ですばらしい方々なのでしょうが、「知り合うプロセス」で疲れてしまっている(笑)。これが、Selfの妙なのですが、私のハードルがいかに低く、「別段他人になど好かれたくはない」と思っていても、どこかでやはり常識的な「他人に迷惑を掛けない矜持」があるので、自分をどこまで出していいものやら調整をつけるのに、ものすごい努力を要するわけです。そして、この産業カウンセリング講座というのは、話し手であるクライアントさんに「そのようなストレスをかけずに話をじっくり詳細に聴く」というのが目的なので、ハナから問題にぶつかってしまうわけなのですね(爆)。

 

他人の話を聴く側というのは、「どんな情報がどれほど漏れているか」ということがわからない。ここが問題です。何度も繰り返すようですが、この世で自分の言いたいこと・頭と心に詰まっていることを、決められた限りのある時間で表現できた人というのには、今までお目にかかったことはありません。ピカソにしろ、モジリアーニにしろ、次々と作品にトライできたのは、「まだまだ表現したいことがあったから」なのでしょう。彼らがいかに天才でも、絵でもすべては描けない。料理人も同じことで、どんなに至高の逸品が作れたと満足しても、そこでは終われない。やはりそれは完璧ではなかったし、同じものを繰り返し表現できないだろうと、謙虚だからなのですね。どうも、Outputに関しては関心が高いのだけれども、Inputに関しては関心が低いのは、どんな人でも同じようです。

 

私も、講師をしていて、他人のことを「知りたい」という気持ちは、他人様に負けぬほど強いと思っているのですが、記憶力も書き留めなくともかなりのことを憶えていると自負しているのですが、相手が13人にもなると(さらに講師がふたりなので、合わせて15人)、相当に負荷がかかります。私がこれまで持ったグループの生徒さんたちは10人が最高で、それ以上はいなかったですし、範囲をある程度決めた情報を収集しているので、「そもそも全部は無理なので、ここだけを詳細に収集する」と、ハナからあきらめた態度を持つことができるわけです。しかも、何回も続くであろうレッスンの中、少しずつ分かっていけばいいとも選択できます。

 

13人の新しいクラスメイトに関しても、実際は「あと11回で知り合っていけばいい」という選択肢を選べればいいのですが、カウンセリングの授業なので、「初対面からできるだけ理解する」の「できるだけ」のハードルをあげてしまうがゆえに、私はかなり疲れたんだろうなぁ・・・。あ、なんだか字面で整理できていません・・・。

 

聴く側としては、「ささやかだけれども重要な違い」についてにアンテナを立ててよく考え、相手が話し易いような状況を提供していく。

 

話す側としては、「他人に迷惑をかけず、威圧感を与えず、聴きたいことを察知しつつ、シグナルを見逃さない」というのが、結論なのですが・・・。

 

そして、ここに捻りが入るのが、「初対面でまったく情報がなく、見た目の印象や、すでに持っている偏見や経験則で物事を測っている」ということ。

 

私は昨日の最初の自己紹介で、「19年弱アメリカに住んだので日本には心理学のカウンセリングシステムがしっかりと確立しておらず、どの資格を取ればいいかわからなかった。この講座が日本で認知されているので参加した」と言ったので、それにすぐに食いついてもらい、話す内容はそれほど心配せずともよかったのです。私に関することではなく、アメリカとの違いについては、山ほど語れる・・・(爆)。迷惑を掛けるほど、Me!Me!Me!を連呼しなくて済んだのです。

 

でも疲れた・・・。これがあと11回続くのだと思うと、しかも途中で「印象」という容姿のプレゼンが出てくると思うと、なんだか憂鬱です。背は縮められないし、スーツもあまり着たくないしなぁ・・・。長時間なんですもん(爆)。

 

というわけで、人と知り合うプロセスというメカニズムを、もう少しよく考えてみると、「最高の出会い」をもしかしたら、ここまでで喪失してきたかもしれないことに気づけて、今後はそんなことがないようにできるかもしれません。自分をどのようにプレゼンするかについても、けっこういろいろなことが考えられるかもしれません。疲れますけどね(爆)。

 

放言の緩み

4/04/2008 にアップした文章です。

 

「誰に聞かれてもいい」ということばかりを話して生きていくというのは、なかなか難しいものです。が、しかし、相手を選んだ言葉だけを、いつもいつも話しているというのも、「あなたは一体ナニモノなの?」と問われてしまうまずい態度ではあります。本当に考えていることが、話す相手によってブレまくるというのは、実際は「大して何も考えていない」ということでもあり、それは困る。放言が過ぎて、いろいろな人を傷つけたり、ある特定の団体やグループを傷つけるのもいいことではありません。うーん、困ったものです。どうしていますか?

 

放言:思ったままを言い放つこと。また、不用意になされる無責任な発言。放語。

緩む:(1)強く締めつけられた状態にあったものなどが、たるんでゆるくなる。ゆるぶ。(2)普通の固さよりもやわらかくなる。(3)(「口もとがゆるむ」の形で)きちんとつぐんでいた口があいて、笑い顔になる。(4)精神の緊張が弱くなる。たるむ。(5)規制・取り締まり・警戒のしかたが弱くなる。ゆるくなる。(6)気候のきびしさが弱まる。(7)しっかりしていた相場・値段が安くなる。

 

理想は、「思ったまま」が己をしっかり体現できたり、考えを如実に反映する言葉を発することなのですが、悲しい哉、この世のすべての現象や事象や感情は、言葉によって100%表現できるわけではありません。達人であれば、おそらく8割?9割?が話せるのかなぁ・・・。書くことも同じです。

 

私個人の体験では、最高でも7割でしょうね。表現したいことが、複雑なことであればあるほど、その割合というのは減ってきて、To be Continued・・・・(続く)が必要になります。ですから私のエッセイも続編があるものが多いわけです。言い切れなかった感が「常」で、「明日死ぬわけじゃないから続きにしよう」と、身勝手に前向きです←甘い!と感じる方は多いでしょうね。明日も明後日も今後も続く、とのんびり考えているからいけないのですが、「毎日が最後の日のように生きる」というのも、かなり自分にプレッシャーを掛けすぎることになるので、マイナス面も増えると思うんですよねぇ・・・。

 

シンプルに暮していけば、「○×のお店の○×が食べたい」と100%のことが言えているのでしょうが、実際は、「いつ」「誰と」「どこで」「どんなふうに」などがくっついてきて、私のように「家で食べたい傾向」がある人間は、食べたい対象物が言えても、なんだかすべてを言い切った感が薄いんですよねぇ・・・。ええ、まだ少しアメリカ暮らしをしていた名残があり、狭いお店で食べるくらいならば、家に持ち帰って食べることができるのであれば、家で食べたいと思うことはままあり・・・。誰か知っている人に見られるのも嫌だなと思うこともあり、ネコたちに分けてあげたいと思うこともあり・・・。しかも、歳を食ってきてから、一人前がすべてきれいに食べられなくなってきていることもあり、持ちかえれば母にヘルプしてもらってきれいに残さずに食べられるのになぁと思うこともあり。

 

難しいですよねぇ・・・。この手のチャレンジは、おそらく生涯続いていきます。言葉そのものも生きていてナマモノでどんどん変わっていくし、私の経験も積み重なっていき、事情も変わり、考え方も変化していくので、100%言えた、出し切った!という満足感を得ることは、言葉に関してはないような気がしないでもないです。

 

たまに、プロポーズや授賞式や謝辞を述べる席などで、「言いたいことはすべて言いました」と胸を張って言っている人がいるんですが、私としては少し羨望です。逆に、ネガティブな場合、裁判などで冤罪であろうが、実際に罪を犯していようが、代理人である弁護士も含めて、言いたいことがすべて言えるわけなどないと思うんですよねぇ。

 

自分の中での悶絶であればまだましなのですが、私は人を巻き込み、かなり好き放題に言いたいことを言う性質と来ている。

 

なんと言っても、嘘を長年ついていない私としては、誰に何を聞かれても大丈夫なように立ち居振舞っている「つもり」ではあるのですが、もちろん、そのせいで他人をOffend(攻撃をしかける)することはあります。たとえば本日なども、「東大や京大に入った人のすべてが天才なわけではないよ。個人差はあるけど、半分近くは、点数を取る技術であり、頭が純粋にいいというわけではないよ」などと、平然と言ってのけてしまったので、もしかすると周りにいた誰かは、ムカッと来たかもしれず・・・。たとえ詰問されても、私はそれを理路整然と討論する準備はありますが、その人にたまたま時間がないだとか、私が嫌いだとか、私のような輩がこれまでたくさんいてうんざりしている、などなどの理由で、結果的には「ただOffendされた気分」でその場を去ることは多いかもしれません。

 

私自身、アメリカではアイビーリーグではないものの、自分が一流校と言われるところを出たので、一流校を出た人間のすべてが天才でないことはわかります。ええ、私が天才ではないですから(爆)。そんなにゴロゴロ天才がいても世の中困るしね・・・。この考えは、たくさんの経験に基づいたもので、その多くの「点数を取る技術」が積み重なったものだけで、世の中に出てからも、学歴に助けられて頭がいいと扱われている人々は、何か錯覚をしているのではないか?と思うことがままあります。けっこうむかっ腹が立つことも多いんですよ。私は、未だに中学数学を自力で復習する気力がありますが、私と同い年の人で、同じことをやっている人は、広い世界で何人もいるかもしれませんが、割合的には少ないかもしれません。こんなことをしているのは、私が「賢いのだ!えへん!」という自負に満ち溢れていないからで、「使わなければ忘れるし、退化して慢心する」という注意深いステップを、日々に取り入れているに過ぎず、頭がいいなどということは生涯続くことでもないです。だから、生涯学生でいたいわけですよ。

 

ところが、これを「放言」だと受け取る人も多いし、「場」にそぐわないと考える人も多い。実際は、その場にいる全員が、私を先にOffendしたわけでもないので、たまたま居合わせた人々は気の毒ですし、関係ない人が話を漏れ聞いてしまった場合にはとんだトバッチリです。わかっていても、引き受けなければならないマイナスなのです。

 

講師としては、多くの人が持つ「勉強コンプレックス」を取り除きたくてたまらず、TOEFLやTOEICや英検の点数というのは、正確に英語力を反映しているものではなく、単なるバロメータであることをしっかり理解してもらいたいわけです。英語力がすでにソコソコついた人にとっては、技術を付け加えることで点数が取れるので、かなりハッピーな状況なのですが、英語力がつかない英語教育を施されている多くの日本人にとっては、「英語嫌い」「英語は難しい」「英語は頭のいい人にしかできない」という前提を取っ払ってからのほうが、学習の成果が上がるわけです。なので、ふたつの別のことである、英語力と点数を取る技術についてたまに話すのですが、周りで聞いているほかの先生や、学歴の高い生徒さんたちはむかっ腹が立つことでしょう・・・。

 

緩みに関して触れてきませんでしたが、私の言葉・表現に関する考え方を、そもそも緩めれば、放言の緩みも「仕方ないもの」とみなせるのかもしれないです。でも、事実だからなぁ。100%伝わることなどないということを前提に置かないで考えることはできないよなぁ・・・。欲することもなかなかやめられず・・・。うーん、難しいですなぁ。

 

盗聴のゲンジツ

04/03/2008 にアップした文章です。

 

信じられないことに、盗聴器というのは私たちが思っている以上に蔓延しているらしいです。そういった考え方を持つということそのものが信じられない私としては、どうも実感が湧かないのですが、報道番組やワイドショーの特集などで、たまに取上げられているらしい。母は、「ああ、最近そんなのが多いらしいよ」と軽く流しているのですが、どうも私にとっては信じがたいトレンドではある。母にしても、「一般庶民の生活ではなくて、フィクションに近い、ドキドキした暮らしをしている人々の生活」という感じらしく、まるでドラマを見ているように見ているらしい←やっぱりのんきである・・・。どうして、盗聴器をつけるのか?そりゃ、誰かを監視したり、状況把握したりしたいからなのだろうなぁ・・・。目的はわかったにしろ、そうした倫理的規範を超越した行動を、実際にしてしまうというのは、一体どういうことなんだろうか?

 

盗聴:他人の会話を(機器などを用いて)気づかれないように聞くこと。ぬすみぎき。

監視:(1)不都合な事の起こらぬように見張ること。(2)旧刑法で、再犯防止のための付加刑。受刑者の釈放後、一定期間執行するもので、その期間住居移転の自由は認められず、警官によってその生活が監視される。

管理:(1)管轄・運営し、また処理や保守をすること。取り仕切ったり、よい状態を維持したりすること。(2)私法上は、財産などについて、その性質を変更しない範囲で保存・利用・改良を目的とする行為。または、他人の事務について、その内容を現実化するための行為。

 

盗聴>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%97%E8%81%B4 

盗聴法について>

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AF%E7%BD%AA%E6%8D%9C%E6%9F%BB%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E9%80%9A%E4%BF%A1%E5%82%8D%E5%8F%97%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%B3%95%E5%BE%8B

 

盗聴が犯罪だということは、たいていの人がわかるとは思うのですが、ではどんな罪に問われるのかは、詳しくはわからないかもしれません。

断りなく他者の住居施設への侵入 住居侵入罪

有線通信の盗聴 電気通信事業法違反、有線電気通信法違反

特定の相手方への無線通信を傍受し、知りえた事実を他者に漏らす 電波法違反

付きまとい ストーカー規制法違反

他者からの電気供給(盗電)による盗聴器機能の持続 窃盗罪

盗聴器が使用する無線送信電波が、その周波数の使用を禁止されている場合、あるいは制限を超えた電波出力を発生するもの 電波法違反

 

ストーカー法が日本にもできてからずいぶん時間が経ちましたが、そのせいで、盗聴はさらに増えたのか?あるいは、盗聴器を売る人間がいるからこそ、お手軽な手に届く範囲の値段であるから手に入れて使うのか?いろいろ考えてしまいます。

 

する側の人間の心理としては、「愛する人の動向がわかればやりたい」「自分に利益がもたらされるのであればやりたい」という誘惑に打ち克つのは、並大抵のことではなく、相当の努力を要します。ところが、それは犯罪で、やってはいけないとわかっていても、「手に入れられるのだからやってしまおう!」と、どうもハードルが低いことや、「見つからないだろう」という安易な結論への論理も手伝っているのでしょう。

 

私が考え難いのは、同居人である妻の盗聴をする夫・・・。自分が仕事に出かけていて、留守にする時間が長いあいだ、浮気をしているのではないか?という疑惑を持ち、盗聴器を自分の家につける人がけっこうな数いるのだそうです。「うーん、そもそもどうして結婚したんだ?」と、真顔で尋ねてみたくなります。「その程度の信頼度で結婚に踏み切り、財産管理を預け(あるいはシェアし)、子どもも作ったのか?」と、たいへん不思議な気持ちにさせられてしまうのです。

 

ストーカーをしたとしても、住居にまで侵入するというのは、常軌を逸している行為であることは、平常であればわかるものの、募る想いが、ヒトをどんどんエスカレートしていく心理状態というのは、メカニズムとしてはわからないでもないです。ただし、そのへんくらいからが「来た道を戻れるか戻れないか」の分かれ道で、ストーキングが終わったあと、正常な心理のまま残りの人生を暮していけるかどうかのバロメータになると思われます。盗聴をするときのジレンマが、「ずっと見張っていたいが、仕事があるからできない。だから効率や合理を取って盗聴をする」という動機であれば、間違った論理であるにせよ、エスカレートはマイルドでしょう。が、「もっと詳細に隅から隅まで知りたい」と、窓辺や階下に佇みながらも盗聴行為をするのであれば、もう引き返せないところにまで来ているのでしょう。もっと危険を孕む行動に出る可能性はぐんと広がっていきます。そうなると、気づいたときにプロに頼むしかないのですが、警察はアテにできないという苦情ばかりが入ってきます。どうやって自衛したらいいでしょうか?

 

これは大問題です。

 

盗聴をいつされるのか?誰かからされるのか?は、あまり他人事ではなく、引越しやさんの中には、「盗聴器探知サービス」を開始しているところもあります。引越しの季節ですが、若いお嬢さんに一人暮らしを初めてさせる親御さんなどは、このサービスが高いながらも、使っている人が増えているそうです。

 

http://www.call0222.com/service/ansin.html

http://www.welcome-basket.co.jp/tocho_con.html

 

盗聴器探知のサービスそのものが、商売になるほどに蔓延しているわけですよ。

http://www.jmsg.com/

http://www.to-ch.com/

http://www.i-lock.jp/

 

私の家は大丈夫そうなのですが、一人暮らしの方々や、家に財産を置いている方々など、心配な人は、一考する価値はあるかもしれません。「私だけは大丈夫」というのは、この世にあまりないんですよね。母が家にいる我が家は、盗聴をしかける時間がほぼないのですが、今度引っ越すようなことがあれば、サービスを受けてみようかと思います。

 

Loved Oneを亡くしたとき

04/02/2008 にアップした文章です。

 

昨日の授業で、生まれて初めて、身内を亡くした日の人を教えるという不思議な状況に陥りました。そもそも、どうして授業に来てしまったのか?から疑問を呈したのですが、そのあともかなり普段とは違った状況になり、ほぼカウンセリング状態になりました。思うに、こうしたアジャストメント時期に当たるとき、昔であれば、大家族がそれぞれ支えあったり、友だちがいてくれたり、乗り越えられる愛を得られていたのでしょうが、今、携帯が発達し、人々は家ではなく、お勤めに行き、不在者を時間に捕まえられない悶絶があるのでしょう。どうしたらいいのか・・・と思ったときに、普段の生活で会う人々の誰かに、ついついConfine(打ち明ける)してしまうことになるんでしょうね。

 

私は、たまたまカウンセリングの技術や論理を学んだからいいようなものの、素人さんたちは、昔の人ならばまだしも、どのように対応しているのかな・・・と気になりました。泣かれてしまったのですが、それは相手が誰でもよかったわけで、私だから泣いたわけでもなく、それをどのように昇華し、「不在」に順応していくか?に立ち向かえる体力や気力をチェックしてあげられるといいのですが、ひとしきり泣いて、悲しみのどん底まで足をつけない限りは、浮き上がるのは少し難しくなります。

 

わざわざどん底まで下がる必要がある問題というのは少ないですが、人生のある時期やある物事においては、どん底まで下がったほうがいいことがかなりあります。たとえば、この「愛する人を失う」というものがそれ。中途半端な落ち込みや悲しみという感情や、その人がこれまで与えてくれていたことやその人にこれまで与えていたものなどを整理して補償する項目等を考え付かないままの状態にしたまま、「代替存在」で埋めてしまっていいのか?という質問をしてみない人は多いわけです。亡くなった人というのは二度と戻ってきませんが、生きている人の中から似た人を探すという行為に移行するだけで、何も解決していない人は多いのです。もしも、「愛する人を恋で失った場合」であれば、同じタイプの人を好きになり、同じような失敗をしでかし、何度も繰り返す、というのが、メカニズムとしてわかることでしょう。

 

大切な人を失ったことで、環境が変わったというのに、自分だけは変わらないという、ある意味での傲慢さは、ツケを伴っていくわけです。感情だけを大きく優先させることで、行動がより定着化してしまい、考える余地・チャンスをも、愛する人と同時に失ってしまいます。これは大きなロスとなります。

 

ひとりが苦手な人は、おそらく、このどん底まで下がるということが、なかなかしにくいのではないでしょうか?「ひとりでいろいろと考えると、グルグルと悪い方向、悪い方向に物事を考えてしまう」という不安が大きすぎて、とてもひとりではいられない。そして、考えることや、感情的に感じていることを整理できぬまま、誰かに会うことで、それが自分の考えや感じていることなのか、他から入ってきたことなのか、境界線がつかなくなってしまう。適切なアドバイスや、自分を見つめるための材料をくれる他者との話し合いというのは有効ですが、ヒトというのはかなり身勝手なイキモノで、自分の考え方の範疇からは抜け出せないものです。なので、適切なアドバイスや、悩んでいたり落ち込んでいたりする本人の裡側を見つめるための材料を、いつも提供できる人々ばかりが集まるとは限らない。

 

むしろ、落ち込んでいること=悪いこと、とみなすヒトはかなり多く、ただただ「忘れるための明るい材料」をよしとすることも多いです。そうなると、「根本問題」は、ただ横に移動させられただけで、まだそこにある状態が続きます。対峙することを割けただけ、という状態がずっと続き、二度とその根本問題のせいで、またさらなる問題が起きなければいいのですが、ヒトの習慣は学習の成果なので、その習慣をドラマチックに直すことはできかねるので、またもや同じような問題は起きるのです。愛する人がいなくなったがために起きるさまざまな感情の揺れやフィジカルに起きていく諸問題は、ただ続いていきます。いつ起きるのか待っているのは、活火山がいつ噴火するのか?と似たような状態なわけです。

 

私は何度も何人も愛する人をこれまでに失ってきましたが、そのたびにやはり同じように悲しみますし、痛みが軽減することはありません。ただ、ひとつだけ言えることは、いったん底まで落ちてしまったほうが浮き上がるための時間は少なくて済むし、泣いて悲しんだ自分がけなげだったことや、愛した事実をきちんと受け止めて、またその人を失ったあとでも、なんとか生きていけるという自信も持てるようになりました。どうにかして浮き上がり、息継ぎをする術を知っており、その人と過ごした時間や、濃厚だったはずのいろいろな想い出をひとつずつ訪ねることができ、悲しみと対峙した分だけ強くなれたことを実感して、また青い空を見たり、緑の山々を見たり、湖や海のうねりを見たりすることができ、生きていること、その不思議について、感謝をし、その人の分までもがんばろうという気持ちになれます。自分がいかに小さい存在なのか、それでもいかに強く深いものを得てきたのか。

 

愛する人を失うと、生きる気力や意志がなくなってしまうことがあるのはなぜなのでしょうか?おそらく、そもそものところで、砂粒よりも小さいだろう自分を、心の底から認知していないからなのです。そして、同じように、砂粒よりも小さかったであろう愛する人を失ったことで、こんなにも心が動揺し、悲しみ、裂け、痛み、甲斐のないことを、どうしてもやはり認められないからなのです。その人がいてくれたから自分は生きてこられた感謝を、その人がくれたものすべてを胸の中に生き続けさせて、またしっかり歩いていく謙虚さが持てないからなのではないのか?と問うてみることが大切です。

 

今、冷静なときは、こんな問いかけができるのですが、実際に愛する人を失ったときには、そんなことができる人は少ないでしょう。ですから、人はひとりでどん底まで沈むことがなかなかできません。たくさんの家族に囲まれていたり、近所の人たちがもっと近しく、友だちと心の対話もできていたりした時代には、カウンセラーは必要がありませんでした。知恵がある大人たちは、相手にわかる方法でコミュニケーションが取れていたからですし、連綿と続いてきたたくさんの生命体について、輪廻転生や八百万の神などを創造し、心の動揺を鎮める術としてきたからです。

 

科学が進み、神の存在を、死後の世界を、好き勝手に否定することが自由になりました。が、神がいないことも、死後の世界がないことも、証明しきれた科学者は誰ひとりとしていません。ゼロを証明するのは至難の業です。ならば、心が折れたときくらい、愛する人たちが天国では死後も楽しく生きていてほしいと願うくらい、自分に許してあげたらどうでしょうか?私はそうしています。ガンや病気で逝った愛する人は、痛みから解放され、きっと生前にした善行を労われて、倖せにしており、私を見ていてくれていることだと、私は勝手に信じることにしています。そして、私はまだこっちでがんばる。不在はしばらくのあいだで、私がけなげにがんばっていけば、彼らも倖せで、私も倖せで、きっと何かおもしろいことが死後には起きるかもしれない、と、心が折れているときには、思ってもいいではないですか。

 

小さい存在ではあるけれども、連綿と続いていく気が遠くなるくらいの時間の流れの中、私たちは確実に生きており、明日へ何かを繋げているのだから、思いっきり悲しんだあとには、また繋げていく何かのために、けなげに歩いていくしかないようです。

 

とはいえ、私も次に誰かを亡くしたときに、こう自分に言い聞かせられるのかは、自信がありません。でも、そのつもりです。

 

バランス感覚

04/01/2008 にアップした文章です。

バランスを取る感覚というのは、万民に平等に与えられている能力でもなく、「これが最低限」というのは、一体どんなバロメータなのかな?と、昨日はずっと考えていました。子どもたちですら、学校と家庭のバランスがあり、他と己というふたつの世界のバランスを取らねばならず、このバランス感覚をよくよく使えるようになると、どんないいことがあるのかと考えてしまったわけです。うーん、体操が最初に思い浮かんでしまう私は、本当に凡人なのか?(爆)

 

バランス:(1)つりあい。均衡。かたよりがないこと。(2)貸借の均衡。

つりあい:(1)釣り合うこと。均衡。調和。バランス。(2)〔物〕 一つの物体に働くすべての力の合力がゼロとなって、まったく力が働かないときと同じ状態。この状態では一つの物体に働く二つの力の大きさが等しくたがいに逆向きである。平衡。

平衡:〔天秤(てんびん)の両端に載せた物の重さが等しく竿が水平になっている意から〕(1)物の釣り合いがとれていること。ある物質やある状態が、変化することなく、安定に存在していること。また、その状態。(2)力が釣り合っている状態。力学的平衡。(3)系のエネルギーが変化しない状態。熱平衡。様々な系について、相平衡・化学平衡・放射平衡などが定義されるが、いずれも熱平衡の特殊な場合である。

系:(1)ある関係のもとにつながった統一体。体系。(2)〔数・論〕〔corollary〕一つの定理から派生的に導かれる命題。多くは利用価値の高い場合に導かれる。(3)〔地〕 地質時代区分の「紀」の期間に形成された地層・岩体。(4)〔system〕物理・化学・生物などの分野で、一定の相互作用や相互連関のもとにある、もしくはあると想定されるものから成る全体。力学系・生態系・神経系・開放系など。

 

うん、この『系』という考え方がキーなのでしょうね。学校にしろ、家庭にしろ、仕事にしろ、この系であり、それぞれの系をどのような「関係」で繋げて統一体として、自分が捉えているか?というのが、バランスの取り方の、そもそもの妙や技術や賢さとなってくるわけですな。一定の相互関係や相互連関という、関数でいうところのブラックボックスを考えられる頭は、義務教育を終えていればできるはず・・・。

 

ただ、理解できることと、自分なりの体系を築きあげて、意識しつつ、フルに活用しつつ暮していくのとは、別の話・・・。どうもバランス感覚がなっちゃーいない暮らしぶりだなぁと思う人々も多いのは確か。だから、ストレスに負けたり、健康を害したり、心の病が浮き彫りになってきたり、と思うのです。

 

平衡感覚:(1)空間における身体の位置や運動の変化を感知する感覚。内耳の前庭器官および半規管がこれをつかさどる。平衡覚。(2)物事を一方にかたよらず判断し処理する能力。

 

平衡覚:(前庭感覚)平衡(身体の傾き、全身の加速度運動)に対する知覚であり、内耳の流体を含む腔に関係する。方向や位置確認も含めるかどうか意見の相異があるが、以前の奥行感覚と同様に”方向”は次感覚的・認知的な意識だと一般的に考えられている。

 

http://www2.edu.ipa.go.jp/gz/a-cg/a-500/a-510/IPA-acg320.htm どれを見ればいいかわからないかもしれません。が、とりあえず、こんなにすごいメカニズムを体内に持っていることだけは、ぜひぜひご理解いただけrば、と思います。

 

http://en.wikipedia.org/wiki/Equilibrioception>英語版

 

私は船酔いだけではなく、小さい頃は、バスだけでもなく、電車酔いというのまでしており、「この子の三半規管はどうなってるの!?」とよく言われていたものです。電車酔いをする理由は、電車の中で本を読むからなんですが、今となってはもうすっかり大丈夫です、おかげさまで。自分が運転できるもので、うんと運転が下手な人の乗り物に乗っていると酔いますし、遊園地では遠心力がかかるものに乗ると酔います。コーヒーカップも酔いますから、子どもにせがまれることがこれまでなくてよかったです。姪っ子たちはそろそろジェットコースターに乗れてしまうので、コーヒーカップにはわざわざ乗りたいとはせがまないでしょう・・・。ヘリでは、夜間飛行をしていても、特に視覚ブレが起きて、ライトの基準目印がないと錯覚を起こしてしまうのですが、ヘリの場合は、飛行高度が低いので、たいてい大丈夫です。このところ、ものすごく広大で、錯覚を起こすような風景は見ていません。

 

このようにすごいものを統括している脳を、使おうと思えば使ってあげられる余地を残しつつ、まだまだ使っていない人が多いのでは?と、思ってしまう次第です。ワーク・ライフバランスなどというのを、政府がらみで推進しているようですが、そんなことを他者から言われなければできないってどうなのよ?と、思ってしまう私は勤勉でも勤労でもないのか?でも、なんだか本当にみんな忙しがっているような気はする・・・。本当に忙しいのかどうか・・・。私はこうして、完全休暇はないといえども、こうしてエッセイは毎日出せているわけで、ソコソコの時間はありますからねぇ・・・。 まったくお休みのないお母さんや主婦よりはましで、さらに仕事を持っているお母さんよりは天国です。

 

家族を支えている男性諸氏は、一度就職すると、長いお休みは辞めるまで取れないのが現実のようです。実際は、「育児休暇」を男性に出している会社もありますし、勤続すると「リフレッシュ休暇」というのもあるようですが、取っている人々はそれほど多くはないのでしょう。うーん・・・。やはり取ることで何かネガティブ要素が生まれるがゆえに、きっと取らない人々ばかりになっているんでしょうね・・・。

http://www.mhlw.go.jp/toukei/itiran/roudou/jikan/syurou/07/3a.html 厚生労働省の休暇についての数字。こうして見てみると、やはりヨーロッパなどと比べてとても少ない・・・。

 

バランス感覚については、実際は、ワークライフなどということではなく、もっと細部を追求したかったのですが、たぶん、人々はもうこのへんの入り口で引っ掛ってしまっているのでは?と疑ったら、少しおぞましくなってきてしまいました・・・。

 

家と家庭と自分の仕事やプライベートでの愉しみなど、いろいろな『系』を分けた上で、さらにその関連性や重きや実際にかかる時間やニーズなどをしっかり考えて、その割り振りができるのが、平衡感覚なのでしょう。さらに、仕事能力から見てみると、この平衡感覚というのは、小さいプロジェクトから、世界情勢までも含む仕事にも当てはめていけて、小さい頃から鍛えられていたはずなのに、なぜかそれをフル活用しているように見受けられる人というのは、ごく少ないのかもしれない・・・。仕事ばかりしていて、リタイヤしたあとに、「オレの人生はなんだったんだろう?」と思う人は、そのすばらしい仕事での平衡感覚というのを、フル活用してこなかったわけで・・・。

 

私が常日頃思っている『大きな図柄』というのは、この『系』の繋がりや大きさや位置や重さなどが、しっかり頭の中に描けているかどうか?で、人生の質が大きく変わるということなのだった。自分の均衡状態は、自分にしか管理できず、どんなにすごい宇宙みたいな脳を持っていても、それをナヴィゲートするのは自身なのだという自覚があるかないかで、大いに変わっていくのである。

 

うーん、春なのに風邪をひいてしまい、またもや水のような鼻水を盛大に出しているので、今日はこのへんで。