ピノキオからの脱却 その2

12/13/2007 にアップした文章です。

昨日のエッセイは、ピノキオレベルのままで、まだ規範を学んでいる最中の人々が、細かい公的倫理を守らないことを書きました。事情があるにせよ、「出来心」「決まりに反する」という心を責めるのではなく、してしまった事実については、取り締まったほうがいいというのは、飲酒運転などで徹底ができたように、できないことではないと思うわけなのよ・・・。観光地でのゴミなんかを見ていると、本当に悲しくなりますぜ。どうしたら、人々が脱却できるか?というのは、私がひとりひとりに行脚して廻るわけにはいかないので、条例縛りをしたほうが早いんじゃないか?と、味も素っ気もない案を出したのですが、反対の人々はいるんでしょうねぇ・・・。

私は、暗い夜道を女の人が歩かなくてもいいようにするビジネスが発達すればいいのに、などと思い、一時期真剣に、夜行バス(終電間際のバス運行のスケジュールは、ベッドタウン近辺の駅前などで盛ん)とカップリングして、体育大などの女性がアルバイトをすればいいのにな、と、提案したことがあります。が、儲けが薄いので却下されたんだけれども(爆)。そういう、福祉や公共への貢献が手厚い事業をやりたい人々はあんまりいないんだよなぁ・・・。男性ひとりに送ってもらうのは逆効果で、その男性がストーカーになる可能性もあり、やっぱり穴がいろいろあったという企画でもあったのだけれども(汗)。

『人生に必要なことは幼稚園のお砂場で学んだ』というベストセラーがあったんですが、これには公的論理に対する規範も含まれており、平易で、幼稚園児にもわかるような言葉が羅列しています。では、なぜにこの人生のエッセンスの基本が、幼稚園で身につかないんだよっ!というのが、私の疑問だ・・・。

本当に簡単なことなのですよ。
・ みんなで分け合うこと
・ ずるをしないこと
・ 人をぶたないこと
・ 使ったものは元の場所に戻すこと
・ 散らかしたら後片付けをすること
などなど、特別難しいことは言っていない。

ピノキオが人として学ばねばならぬことはそんなにたくさんあったのだろうか?しかも、ピノキオは木製だけれども、ヒトにはDNAで確約されている可能性が詰まっており、それを開花させるかどうかの問題じゃーないのか?

大人になってもこれらのことができないピノキオステージにいる人々が、ポイ捨てをしたり、大型家電を山の中やプラント近くに行って棄てたり、他人にぶつかっても謝らなかったり、贈収賄をするんだよなぁ・・・。以前から私が言っている「ひとりひとりが自分のすべきことをしていれば、世の中はかなりよくなる」というのは、この『人生に必要なことはすべて幼稚園のお砂場で学んだ』に基づいているのですが、余計な知恵がついたから基本を無視するようになったのか、はたまたそもそも身についていないのか?で、対処法は分かれるわけです。

そもそも身についていない人というのはどのくらい実在するのだろうか?「みんな」がいなかったらきっと学ぶのは難しいのだろうし、遊びを繰り返ししなければ、機会の回数の問題で学習の場がなかった(少なかった)とも言えます。人知が駆使してきた原始的な器具遊びをせずに、いきなりビデオゲームやDSやその他を使う環境にいたら、バケツやシャベルや手を使う遊びはしなかったことになるし、それらが他のお友だちとシェアするものだということもわからなかったりすることもあるかもしれない。大人が打つ・殴るが問題視されていますが、子ども同士の殴り合いで死ぬことも大怪我をすることもなく、ふざけたはずみのプチ暴力も経験しないというのもあるかもしれない。

こんな基本的な環境が用意してあげられない親は、いったい何をどう考えて暮らしているのか?と、遊ぶだけ遊んできた私には不思議でならぬ。ピノキオステージで、思いっきりピノキオをしてこなければ、学べないことはあるのでしょう。それがゲンダイジンが持つ悲しい欠落の集大成として、公共モラルに反映しているのだよね・・・。

親が何でも先回りして、遊び道具を出してやったり片付けてやったり、分け合うことをせずに一人ひとりの盛り皿にしたり、一人遊びが優先のゲームを渡したり、会話が存在しなくても高揚感が得られる遊びばかりが流行するのは、やっぱり見直したほうがいいんだろね。

身につけたはずなのに、知恵がついて、基本をすっかり忘れている人々はどうなのか?電車の中での席というのは、「みんなのもの」でお砂場や、借りてきたバケツやシャベルと同義だとみなしてみて、それをどう使うか?というのは、会話が成り立てばかなりスムーズに行くはずなのだが、なぜか昨今では、「優先席」というラベルがあって、確かに、社会的に意識していていいんじゃない?と思えるんだろうが、目に見えない障害を持っている私などには便利に作用することはありえない。座ったら腰の痛みは見えないから気まずいしさ。誰かといっしょだったら、「立ちっぱなしは腰に悪いよ。空いてるから座れば?」と言ってもらえるフォローがあるのだけれども、私は電車では座らない。ガラガラだったら座るのだけれども、本を読みながらつり革で背中&腰伸ばしをするのが癖になっており、ひとりで「なんだかおっさんくさい・・・」と苦笑している日々です。

そもそも、他人と会話をしない乾いた社会になっているから、こういうことになるのだろうねぇ・・・。私はアメリカに住んでいたときには、外に出れば必ずstrangers(知り合いではない他人)と数回は会話をしたものです。スーパーでも他人と話すし、クラーク(販売員さん)たちとも話すし、公園ではHi! How are you?だとか、わんちゃん連れには話しかけないほうが不自然だし、子どもが元気よくHello, lady!と言ってくれるのは楽しみですらあった・・・。ビジネス街ではそれは省略される社会なのだけれども、エレベーターに乗っても「何階ですか?」と聞いてくれる人が少ないのには、驚いたりもして、私はこの逆カルチャーショックに1年もかかって慣れてきた模様。

ずるをしない、というのは「見つからなければいい」というバカげた気持ちから起こるのか?ずるをしてもどこかで誰かが必ず見ているとは言わないが(宗教じみてしまうので、無神論者には通用しないだろし)、自分は知ってるだろよ・・・と思うんだが。美徳や信念や大切なものを失うと、社会は殺伐としてきて、人々は他人を疑うようになるのだろうし、通用してしまう社会にもなるんだろうねぇ・・・。たまに、どうしても存在してしまう悪がいるのは古今東西仕方ないことで、ゼロ社会などはありえない。どこであっても同じで、農村だから安心だとか、ハイジのような純真な少女の近所に住んでるから大丈夫ということはありえないです。だから、自衛心が大切だし、自分にゆとりがあったら他人も助けてあげたいと思えるようなaltruism(利他主義)は大事なのだわ・・・。

心底、「自分は他人に迷惑を掛けない」「迷惑を掛けている分は他のことで貢献する」「ゆとりがあったら他人のことを助ける」という、本当に幼稚園のお砂場で習ったことの、スケールがちょこっと大きくなったことを日々続けていければ、ピノキオからは脱却しており、他人が操っている糸にもつれることもなく、糸を完全に断ち切ったあと、意志での行動規範ができるんだがなぁ・・・。そうすれば、条例がいくつあったって気にするこたぁないし、無駄な看板は撤去しろ!と叫べるはずなんだが・・・。

確かに私が田舎ちっくな名残のあるアメリカに住んでいたせいもあるのだけれども、サンフランシスコから車で30分のところにそんな町をキープできる広大さはすごいよ・・・。私は知らない人に「ご機嫌いかが?」と言われたら、けっこう元気が出るんだがなぁ・・・

ピノキオからの脱却 その1

12/12/2007 にアップした文章です。

スケール問題なのではありますが、私の行動規範には2個の主軸があり、ひとつは「面倒くさいかどうか」。もうひとつが「押し付けられているかどうか」です。元気が足りずに、さらに気力が充実していないときには、この最初の「面倒くさいかどうか」の境界線がズレまくるのですが、私が面倒だと思うことにはそれなりの基準点があり、「他人にどうこう思われることなどはかまわない」「他人様に迷惑をかけてはならない」など、校長センセがよくおっしゃる「公的倫理」を大きくクリアして、自分があとから困ることが多いのです。あとから困ったら、所詮やらねばならぬので、時間切れが見えてきたらやっぱりやることになっちゃうんですけどもね・・・。ただし、化粧や買い物や掃除など、やらなくてもいいだろう限度を見越しているので、そもそも化粧をしなかったり、必要最低限の買い物しかしなかったり、汚さないような合理的行動ラインを作ったり、など、日々それが行動指針になっているわけです。さて、ピノキオ・・・。ふたつめが大いに関連するわけです。

ピノキオのことはみんな知っているようで、実は抜けている情報がけっこうあるかもしれない。おさらい
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%8E%E3%83%83%E3%82%AD%E3%82%AA%E3%81%AE%E5%86%92%E9%99%BA

ところが、原作では、コオロギのペペを、石を投げつけて殺してしまったりもする、やはり子ども向けの寓話の種類としては、グリム兄弟同様、日本の昔話同様、怖いところもあるんだ。けれども、この怖いところを直したところが広く知れ渡っているのは、大人が配慮したトレンドなのでしょうね、世界中どこでも。

心理学でもたまに題材にされるのが寓話なのですが、それは人々があらすじを知っていてわかりやすいからなのでしょう。ところが、実際はかぐや姫や桃太郎同様、口承の部分で抜け落ちて簡素化したり、残酷な部分が殺ぎ取られているものも多く、「では一体どこを見ているのか?」にはズレがあります。なんだかとっても手落ちな気分・・・。解説してからというのは、まるで国語の授業みたいになり、長い時間がかかってしまったり、焦点がブレたりすることもあるんじゃないのかなぁ・・・。

私はそもそも、木製のマリオネットに生まれてきたら、そのままでいたいと思うんだが、どうなのだろうか?いや、マリオネットは何も思わないだろうから、どうしてかわからないが生命を宿させる力がある存在には、マリオネットのままで放置しておいてほしいと願う人間である、というのが正しい表現なのだろうか?そして、よしんばそんなことがあったと1万歩くらい、いや、100万歩くらい譲ったとしても、人間規範を押し付けられるのはどうなのよ?と、さらに思うのだろうね・・・。ヒト目線はどうしてもやってしまうような、いけないことも大いにあるのではないのだろうか?が、こうした寓話が生まれるのはいいことなのだろうし、うーん・・・。

けれども、社会規範という社会が決めた公的倫理というのは、見えない糸があちこちに吊るされているようなもので、人々はみなマリオネット、ピノキオ以前の木製人型になっているのは確か。

規範:(1)行動や判断の基準・手本。(2)〔哲〕〔norm〕単なる事実ではなく、判断・評価などの基準としてのっとるべきもの。準拠。標準。規格。
倫理:(1)人として守るべき道。道徳。モラル。(2)「倫理学」の略。

ついこのあいだ知った新事実なのですが、私は人々をモデリングして学んでいただけなのです。が、ごめんなさい!私はエスカレーターを歩く人間なのだよ・・・。歩く歩道も歩く人間だ・・・。あれは、関西ではそもそもできたとき以来、ずっと、右側が歩かないで停まったまま運ばれる人用で、左側が歩く人用、関東ではその逆だったようですが、実際は歩いてはいけないらしい。というのも、「エスカレーターは人が歩くようにはそもそも設計されていない」とコメンテーターが言っていたのだけれども、それはダウト・・・。だって、成田やその他では、荷物が重い人たちが乗っても大丈夫だし、みんな歩いているしなぁ・・・。

私はそもそもイラチなので、行動が短い時間で処理できることは積極的にやります。が、他人様に迷惑を掛けない、という範囲で。エスカレーターの使用もそれで、特に人にぶつからなかったりしたら、目に見えない老朽化がどの程度かわからないし、サンダルを履いて歩けないので安全だし、歩いています。どうなんだろうね、これ・・・。このニュースを見てから、私の歩く率は減ってきています。これまでは100%歩いていたのだけれども、人がいないときに限って歩いている・・・。人がいるところまで来たら停まってしまう(笑)。「追い抜かされることに不愉快を感じる人だったらどうしよう・・・」と考えてしまうからなのだった。

もうね、こんなことは規範預けにしないで、「決めてよっ!」とイライラしている日々なのである。条例作れ!

喫煙者ですが、私は外でタバコは吸いません。観光地などでどうしても吸えない場合、吸える喫茶店を探したり、車に戻って吸ったりしますし、現在では家に到着するまでは吸いません。新宿のビル街で教えているときには、そのビルが作った公共の喫煙所があるので、そこで長い土曜日には吸うことはありますが、喫煙場所がないというのは、私が喫煙機会が減ることだと、なぜか歓んでありがたいと思っています。もうね、計算された動作ではなくて、習慣になっており、家では何時間あるいは何分間隔で吸っているのか、何がキューになっているのか、本当にわからないわけですよ・・・。ですので、コレも規範としては大いなる間違いではないと思うのだ。どうしても吸ってはいけない場所なら、もう細かに法律を作ってしまえ!と思う私は、あまりに人類を信頼していないのだろうかね?いや、してるんだけれども、確率的には「やらない人間」「できない人間」というのは実在することを、痛いほどわかっているので、良心任せにするこたぁないと思うのだよ。

たいへんにむかついてしまうのが、看板やサイン、の類。どうもあれらがあると押し付けられているという圧迫感に、空気が薄くなった感さえ覚える・・・。私はわんちゃんを散歩に連れていかないのですが、散歩にポピュラーな道路などには、「犬のフンは飼い主が持ち帰りましょう」などと書いてある。わんちゃんを飼っている人たちにとってみたら、「そんなの当たり前」「そんなこと言われなくちゃできないようだったら、そもそもわんちゃんを飼う資格がない」と立腹されるのではないのだろうか?「夜遅く一人歩きはやめましょう」という痴漢防止になっているんだか、啓発しているんだかわからない看板もかなりむかつくかもしれない。やめたくたってやめられない女性はいると思うんだよ。残業を断れないだとか、家賃のおかげでどうしても徒歩が長くなってしまうとか・・・。だったら、無料のエスコートサービスを考えてくれたりすればいいのに、その看板代金で、などと思うのは、私だけなんだろうか?さらに、駅前の歩道には、自転車が溢れかえっており、「違法駐輪は罰します」なんて看板は抑制効果など、微塵もないことを思いやられる・・・。いや、守っている人も確かにいるんだけどね・・・。

あまりに締め付けるのもよくないと思うんだけれども、どうしても守ってほしいことには、毅然とした行政側の態度は必要でしょ。だから、東京でもちょっと外れた道路の脇は、大きなゴミで一杯よぉ。冷蔵庫や自動車やエアコンを棄てに行く人々って、どんなに善人でもいるじゃない・・・。

マリオネットがピノキオになったときに、まだまだピノキオレベルで生活する人々はやっぱりいる、ということは、今日、確認していただけたでしょうか?明日はいよいよ脱却について。

師走のスケジュール

12/11/2007 にアップした文章です。

完全休日をカレンダーで見ています。世の中の人々は、28日までしっかり労働するのかなぁ・・・。去年はどうだったのか?去年は、外で働いていなかったので、カレンダーについてあまりよく憶えていないのです。英語学校のほうは、28日の金曜日から1月3日までお休みなだけだということが判明し(カレンダーを公開していたのは、とっくの昔だったのですが、私が意識しなかったというだけのこと・・・笑)、思ったより休日は少なかった・・・。とにかくぼーっと休んでいることが苦手なので、休日恐怖症のようになっており、どうやって日々を埋めていこうか、思案しているところ。

じゃ、どこか出かければいいじゃん!と言われても、私は混雑しているところ+いつもより物価が高い場所に行くなんて、とてもじゃないができない。貧乏でもないのだけれども、貧乏症なのはいつまで経っても直らず(笑)。お休みのあいだに一気にやっておくことは、探せばあるはず・・・。

ひとつは、ノビノビになっていた普通自動車の学科試験。年明け早々に学科試験を受けて、1月中に実地試験も受けてしまう、というのはあり。そうすれば、西さんがいなくとも、お彼岸には静岡にレンタカーで行けるし。いや、たぶん、このお彼岸ですら、日程をズラして行くには違いないのだけれども・・・(汗)。

もうひとつは、やっぱり教えていくことにもよく作用するので、TOEICの勉強をさらに進めること。要求されるとばかり思っていたのだけれども、実際は、次々と新規のクラスや新規の生徒さんが引きも切らず、一箇所の固定の英語学校では、週に2日で開始したところが、なぜかいつしか週に4日で、しかも土曜日は朝の10時から夜の8時まで満杯。夕方は通訳や翻訳の仕事が入ることもあるかと思っていたので、午後6時半くらいから、と限定していたのですが、積極的に満員電車に乗りたくもなく、毎週あるならば、と、午後5時から出る日もあって、気づくと時給月給は増えていた・・・。生徒さんはひとつのクラスを12週ほどで終えるのですが、なんだかいいことを書いてくれる人が圧倒的に多いらしいので、同じ生徒さんにまた遭遇できるように、と、簡単なクラスばかりではなく、もうちょっと進んだクラスも持たせてもらえているところ。さらに、プライベートでは、アメリカのアイビーリーグを目指しているGMAT&TOEFLの生徒さんが、わずか3ヶ月ちょいでゴールに到達してしまったので、その噂が広まり、私の生徒さんはますます増える・・・。生徒さんが増えると評価が上がり、時給も増える。

他にも登録していた会社からお誘いが来たりして、企業出向の英語講師のお誘いもあったりして、昼間であれば、と限定して3ヶ月クールのところであれば引き受けてもいいかな、と思ったりしているのです。通勤時間とズレていれば、特に苦痛でもないし、夕方からの仕事と繋がっていれば行動に無駄がなくなり、効率のいい仕事ではあります。

なぜこんなに働いていなければイヤなのか?と考えてみると、やはり母が働き者なので、家にいて、仕事らしきものをしていないと、どうもひどい罪悪感なのですよ・・・。読書や調べ物などは、やはり娯楽の範囲だし、仕事関連のメールや準備なども、母からしてみれば娯楽との境目があまりわからないものです。69歳の母を働かせておいて、私はのんびりしている構図、というのはどうも引け目や罪悪感にはなるのよね・・・。彼女がボーイフレンドの家に行っていれば、私はできるだけぐうたらしていられるのだけれども(とはいえ、何もしないことは不可能なので、やっぱり読書や調べ物やエッセイ書きをしているんですけどもね・・・)。

実質、1日4・5時間しか働くだけで生活していけてしまうのですが、やはり20代の頃のように朝から晩まで働きたいのです。なぜそんな苦労をしたいのか?と問われても、うーん、理路整然とは答えられない(笑)。働けるうちはフルに働かないといけない、と自分で決めているからなのでしょうね・・・。それに、私はやはり父と母の娘で、その血や考え方の一部が植えつけられており、働いていないと死んでしまうくらいなサメシステムが内蔵されているようです。

PCの前にいる限りにおいては、彼女は私が仕事をしているとはあまり思っていないようだ(爆)。ウェイトレスでもコンビニでも働いたら、彼女はきっと喜ぶに違いないのですが、腰痛持ちなので、きっとある程度の時間数しか入れないだろうしねぇ・・・(やるのがイヤなわけではなく、ウェイトレスなどは天職だと思っていたくらいだから、やりたいのは山々。強制的に歩けば健康にもいいし、外で働いていれば喫煙本数が減るのだよ・・・)。お惣菜やさんなどの募集広告などを見ていたら、英語の生徒さんに「先生はそんなことをしてはダメ!」と怒られてしまった・・・。確かに学校でそんなフリーマガジンを読んでいたのは失敗だった(笑)。特にイメージをパッケージにして売っているわけではないと思っていたのですが、生徒さんたちにしてみれば、英語ができるようになれば、職業に生かせると思っているんだろうし・・・。

そこで、近所で英語を教える仕事があれば、と探してみたところ、あったじゃん・・・。通勤に使う時間がない場所にありましたよ>徒歩2分。小学校から英語を教えてもらいたいという子たちは増えているようです。しかも、中学や高校、大学受験のための英語講師も、本当にそのへんの学生レベルでもできるようだし、主婦も歓迎している・・・。私は、塾というシステムがダメなので、あえて避けていたんですが、我慢すればあるのだろうねぇ。それに、英語の添削の仕事もあるんですねぇ・・・。いつだったか、修士論文を手伝って、メールを10往復もやって、1万円にしかならなかったことを考えて、なんとなく敬遠していたのです。が、進研ゼミなどでは赤ペン先生という固有名詞にもなっており、家でコツコツと添削する仕事ってあるんですねぇ←知らなかったということが既にいかんとは思うんだが(爆)。ちなみに、今教えている英語学校で、試しにどのくらいの時間でどのくらいの添削ができるのか?と時間を計ってみたところ、長文エッセイのタイプ打ちしてあるものは、1枚6分くらいでした。ということは、1時間で10枚できるってことだから、時給に換算するとけっこうなお値段になるんだろうねぇ・・・。1枚いくらくらいなんだろう?100円ってことはないと思うんだが・・・。と、調べてみたら、100円から1000円とばらつきありだった。ふぅむ。

けれども、プレゼンを作ったり、英語の添削をしたり、という仕事も、家にいることには変わりなく、母から見てみると同じなのか?赤ペンを持っているとそうでもないのか?自分の仕事でのプレゼンを作っていても、彼女としては何をしているか分からない様子(笑)。

実現するかどうかはわからないですが、あくまで時間が埋まるように仕事は探そうと思っているのだ。母はボーイフレンドと年越しで、西さんが戻れるかどうかはまだわかっておらず(中国も台湾もお正月はズレるので)、ネコたちは年越しの意味があまりわかっていないので、室内を暖かくだけしておけば、特にいつもと変わりない日々が過ごせると思うのだ。ただし、忘年会などもパラパラあるとは思うので、どんなことになるやらわからないのではありますが・・・>ほら、途中でやめることがなかなかできず、翌日は二日酔いになりがちなので(笑)。が、今月はまだ1回しか飲んでおらず(って、まだ9日だよね・・・)、先月も1回しか飲まなかったはず。一生懸命働いていると、母がなぜかビールを買っておいてくれるのですが、500mlを1本飲んでもういい感じです。やっぱり労働しないと飲めないのは、貧乏症の賜物なんでしょうねぇ・・・。

とりあえず完全休日は、27日から1月3日まで。8日間で通訳の仕事が発生するわけもなく、どうなることやら・・・。たぶん、ティッシュ配りなどであれば仕事はあるのだろうけれども、やっぱり立ちっぱなしはできないだろうなぁ・・・。やっぱりそれよりも試験に向けて勉強なのだろうか?授業準備は時間が掛からないんだよなぁ・・・(汗)。プレゼンを山ほど作ることにしようか・・・。

ファッションセンスを計ってみる

12/10/2007 にアップした文章です。

今日はあまりにやる気がフツフツと湧いてこなかったので、ここ3ヶ月分くらいのファッションチェックをしてしまいました。特に自分が着飾る必要を感じてはいないものの、流行を追いかけることを潔しとしないものの、まったくの門外漢でもいかん、という、「仕事で必要とする程度のレーダーに匹敵するくらいは、ファッションもセンスを磨いておく」という注意(笑)。心理学や英語を教える立場としては、やはり人様の心が動く様子を見るのはおもしろく、さらに、そこに本能的な作用が効いているかどうか見るのは楽しい。これをやっているときだけは、母も私の横に来て、いろいろ批判をするんだよなぁ(笑)。

さて、URLはコレ。英語なのだけれども、ファッションチェックのページで、Hit or Miss!というのが投票できるもの。英語であろうが、クリックしてれば次々進んでいくので、興味がある人はやってみてね♪投票した結果はすぐに出るので、自分のセンスがわかるはず・・・。

http://www.people.com/people/stylewatch/0,,,00.html

思うに、これらの中で、日本にもしっかり名前が行き渡っている率は低いのだろうと。だから、知っている人だから、という印象で決めてしまうことがないので、むしろ、いい統計が出るんじゃないかと思うのだが、いかんせん、私の持ち物サイトではないので、そんな統計は取れず(笑)。あとは、アジア人が黒人や白人やアジア人のファッションセンスだけではなく、それに付随するいろいろな印象や理想の決め付けやステレオタイプなども投票に影響すると思うので、かなり楽しい統計になるんじゃないかと思うんですが・・・。日本の大学の先生なんかは、こういう楽しい統計はやらないんだろうな・・・。私だったらやるけどな・・・←だから、大学の先生にはなれていないんだろうがっ!と怒られそうではあるんだけれども(笑)。

ファッションセンスとはなんぞや、というのは、きっと文化服装学院やら東京モード学院などで教えているのかもしれない。ちょっと調べてみよ・・・。

http://www.wish01.com/fashion.html
これにテーマを捧げているブログあり・・・。うん、読んでみる。要約としては、
第一に、その日の行動を考えて、それに合った服装をしていることが大切
第二に、自分に似合ったファッションを身に付ける事
うーん、あまりに漠然としている・・・。

たとえば学校のURLはこんな感じ。

http://afc.ac.jp/course/ スタイリング・コーディネーション・編集スタイリング・カラーコーディネート・センスアップが、主な授業科目らしい。

で、これに比べるとやっぱり老舗はすごい。文化服装学院。コシノヒロコ・ジュンコ、高田賢三、山本耀司らを流出しているだけのことはある・・・。
http://www.bunka-fc.ac.jp/index.html  http://www.bunka-fc.ac.jp/course/index.html 3年かかるんだなぁ・・・。

私個人のことを例に出してみると、ファッションセンスというのは、生きていくためにそれほど重要な位置にはないような気がしています。英語講師では、相手に不愉快な思いをさせねばよく、特に権威を象徴するような服装をせずともいいと言われているのですが、企業講師の場合はスーツでお願いします、とよく言われます。スーツもいろいろなのでしょうが、ユニセックスなものや制服ちっくなものであれば、特に苦情が出るわけでもなく・・・。私が困るのは足元で、歩く距離や立っている時間が長ければ長いほど、ヒールがダメだということ。履き替え術をしているのですが、それでもこれまでは何とか大丈夫でした。今後、企業セミナーが増えれば、履き替え場所をイチイチ探すのがたいへんかもしれないですが、障害についてそれほど狭量な人々もいないでしょうし・・・。椎間板が2枚ない人に厳しく冷たいという評判が立って困るのは企業さんのほうでしょうしね・・・。

2番目の自分に合ったファッションを、というのが曲者です。まずは、自分を知ることから開始せねばならぬ、ということではないですか・・・。私はアジア人女性にしては、年代の中では身長が高いほうなのですが、歳を経るとともに体重も増えてしまい、昔ほどいろいろな服が似合うわけでもなくなってきた(笑)。とにかくつまらなく見えるかもしれないけれども、シンプルなラインの服を選び、ごちゃごちゃとした装飾がないものを選ぶことにしています。ただでさえ派手な顔やいかつい肩が目立つようなものはダメで、お尻もふっくらしておらず扁平で、ふくらはぎがバランスを欠いて太いので、スカートをどうしても履かねばならぬときはロングを、たいていはパンツスーツを着ることにしています。しかも私は60年代後半から70年代のヒッピーの思想を悪いと思っていないので、脱毛というのをしない・・・。腋は剃るんですが、手足はしていませんので、足のほうは見せたくないのです。私は不愉快ではないですが、不愉快に思う人も多いだろうから・・・。

さらに、肌のトーンや髪の色などを考慮して、自分に似合う色というのがわかっていることが、ファッションセンスに含まれるのでしょう。私は日本人でもグリーンが似合うめずらしいやつですので、たまに着ている。でも、やっぱり無難なのが、黒やグレーや茶色で、これは本当につまらない(笑)。冬になってきて思うのが、「どうして日本人のコートはみなカラスみたいなんだろう・・・。あるいは渡り鳥みたいなんだろう(ほら、カナディアンギースとかの色を思い出すわけです、茶色で)・・・」ってこと。私はそれに加担したくないんですが、持っているコートがスプリングコート1枚で、それが黒い。ハーフコートは白いので、ちょっとは街を明るくすることに貢献しているのか?(笑)仕事でなければ、ウィンドブレーカーやジャケットなので、そちらはオレンジや赤などで楽しんでいるのですが、最近は仕事以外では、あまり積極的に外に出たくもないしなぁ(笑)。

私の母のように、フリルやレースや刺繍や縫い取りが好きな女性というのはけっこういるもので、その位置やデザインが醸しだす空間の機微というのがわかっていない人っていうのも、けっこういるものなのね・・・。私はそういったことに気を持っていかれるとか、エネルギーを費やすのがとてもイヤだし、もったいないので、装飾はないものを着ます。ついでに言うならば、歩く広告塔のように文字が入っているものも着ない。唯一の例外は、私の好きなアイスホッケーチームのロゴですか・・・。お金を払ってどこかのブランドを買ってあげた揚句、さらにサンドウィッチマンのようにその広告をしてあげるほど、私はお人よしではないのだ・・・。が、ホッケーチームは日本ではマイナーだし、一体感をひと時夢見ることができるので、リンクで観戦するときに着られるようなものを数個持っており、それは着ています。

ネックレスやブレスレットや指輪などの装飾品も私は一切つけません。ピアスだけだ・・・。数とお金にキリがないことと、やはり身支度をするときに時間が掛かることを私は本当に憎んでいる模様。化粧をして出かけねばならぬ機会が増えただけでも面倒くさくて仕方ないのに、さらに装飾品とは・・・。ちょっとうんざりしてしまうので、そもそも持たないことが肝要だと、もう渡米したときから決めてしまっていたのです。しかも欲しくもないしなぁ・・・。宝石のでかさを競うとキリがないでしょ(笑)。お金もキリがない(爆)。

ファッションセンスがいい・悪いということで、確かに他人様の印象が違うので、オトクなことや損した気分というのは生まれるのかもしれません。私は合コンに出るわけでもないので、そんなのどうでもいいですし(笑)。髪型ひとつでも私はローメンテを第一優先にしているので、ファッションセンスなど語ってはいけないやつなのかもしれません。が、心理学的には、コレについて他人様が右往左往しているのを見るのはおもしろい・・・。

時間があったら、海外の芸能人の普段着やパーティードレスの評価をしつつ、新しいドレスのデザインなど、楽しんでみてくださいね♪

着流しが似合う人

12/09/2007 にアップした文章です。

時代小説を読みつけて1年が経ったせいか、妄想とも想像とも言える範囲で、和服やかつらや殺陣などの理想型が自分の中で不思議と出来てしまっていることに気づく(笑)。いや、おそらく、父が生きていて、時代劇をたくさんいっしょに見た頃の蓄積などもあったり、途中、歌舞伎にも影響されたり、お相撲やら、美術館などで、まぁ、いろいろ余計な妄想も想像も入ったのだろうなぁとは思います。が、やっぱり笑えるくらいの殺陣や着流し姿の人々というのは、俳優でもいるもんで・・・(笑)。仕事を請けるときにオーディションってあるんじゃないんだっけ?と疑ったりします(爆)。

私は和装が圧倒的に似合わないので、他人のことをとやかく言ってワイワイ騒ぐ立場にあるわけもないはずなのだけれども、エンターテイメントというものだけに徹して、お客の立場で見させていただければ、やはり時代劇に出る人々は、和装がまず似合わないといかんでしょう・・・。では、和装が似合う条件って何なのだろうか?真剣に考えてみる・・・。

全般的和装情報>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E8%A3%85 
女性の結婚式用和服のサイト>http://www.watabe-wedding.co.jp/j_style/guide/003.html
http://e-wazakka.com/kimono/2-1.htm 補正をしてから着付け、というのが今の当然の概念らしい。ここには寸胴、しか書いていない。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q119992941 出典がどこなのかわからないのだけれども、なんだか説得力あり(笑)。

一生懸命探したのだけれども、なんだか濁している・・・。きっと着物は、砂時計型ではなく、お茶缶型の体型なので、着物が売れなくなったり、着付け教室の需要がなくなったりするので、おおっぴらに言わないんだろう・・・。そりゃー、専門家がいろいろ言っているんだから、私などが口を挟む余地などないようにも思うのだけれども、ゲンダイジンの体型であっても、着物が似合う人はいると思うけどなぁ・・・。芸能人では、吉永小百合と松平健が男女部門でそれぞれ選ばれたらしい。他にもお茶のCMでみんな和服を着ているけれども、宮沢りえはすごい似合ってるじゃないですか・・・。彼女は特に寸胴じゃーないでしょう・・・。

私がなぜ和装が決定的にダメなのか?というと、肩がハンガーだからなのだよ・・・。肩パッドが必要だったことがない・・・(汗)。で、調べてみると、やっぱりなで肩すぎる人の補正はあるのだけれども、やっぱりいかり肩の補正は首に近いところにハンカチなどを入れ込む程度のことしかできないらしい。どうやら仲間由紀恵がいかり肩らしくて、NHKの『功名ヶ辻』で着付けの人が苦労させられたらしい・・・(いずれも見聞で、私が彼女の着物姿を記憶していないところが悲しい・・・)。ひどい人は「田舎臭い」とまで描写していた・・・(汗)。たとえ私が痩せたとしても、儚(はかな)げな体型ではなく、着物は無理だろう・・・。けれども、時代劇に出ている人々の着物姿には、どうも点数が辛い気がする(笑)。どうしてなんだか・・・。

着流し:(1)男性の略式の和装。羽織・袴(はかま)をつけない着物だけの姿。(2)能で、袴をつけない装束。庶民や身分の低い者のいでたち。

結婚式の何重にも装ったものやら、羽織袴や帯刀した場合には、小物効果がぴりっと利いていて、ごまかされることもあるのだけれども、やっぱり帰国してとても悲しかったのは、水戸黄門だな・・・。腰に重心が来ていない感じがして、本当に助さん・格さんのふたりは運動能力が高いのだろうか?と、あからさまに母に言葉にして文句を言ってしまった・・・>母のせいでもないのだけれども・・・(汗)。しかも、横で由美かおるが相変わらずのすばらしい体型ではないですか・・・。黄門役も、昔の助さんである里見浩太郎だし、なんだか浮き彫りに差が出てしまうのだわ・・・。そして殺陣になると、やっぱり黄門さまより弱い従者はいかんと思うのだ。

再放送の『暴れん坊将軍』に出る人々でも、たまにものすごく似合わない人がいるのだけれども、松平健や北島三郎はものすごく似合ってる。ゲスト出演している人々で似合わない人がいると、「なるほどこれじゃ主役やレギュラーに選ばれないはずだ・・・」と思えるもんねぇ。

びっくりしたのが、ジャニーズがやった『必殺仕事人2007』で、ジャニーズなのに、ゲンダイジン体型なのに、ダンスが上手なのに、みんな似合っていた・・・。東山紀之は日本髪が似合う顔立ちなのだけれども、松岡昌宏って人(この程度しか過去20年の日本の芸能界は知らないのだ・・・。しかも、この彼がたぶん『天と地と』で上杉謙信をやるんだろうと思うんだが、正解だろうか?)が和装が似合っていたので、かなりびっくりした・・・。でも髪は現代風だったんだよな。三田村邦彦風だった。いっそ、山崎努くらい徹してくれれば、役柄的にもよかったかもしれない・・・。

藤田まことの着流し姿および八丁堀姿は、いつ見てもすごいと思う。ただの理想型なので、本当に江戸時代の奉行所役人がみんなあんなだったとは思ってはいけないのだろうけれども、パチンコでアニメーションになってもなんだかいいし、実写が出てきてもいいし、なんだかやっぱりいいなぁとわけもなく感じる・・・。そもそも、私は必殺シリーズが大好きなので、ちょっとここにはひいきが入っているのだけれども、マフラーなどなかった時代に、あの手ぬぐいに毛の生えた程度の首を温めているようなもので顔を隠しつつ、刺し斬るのを見ると、なんだかじーんとするくらい(爆)。しかも、彼なりの正義を貫く瞬間だしなぁ・・・。

そして、今、再放送をしているのが、『暴れん坊将軍』の後に、『八丁堀の七人』というやつで、私はこれを知らなかったのです。なんだかシリーズ化していたようだ・・・。びっくらこいたのが、主題歌が鈴木雅之だったこと。コラボ流行だとしても、なんだかすごい(爆)。ラブバラードが彼の特許だと思っていたのだけれども、こんなのもありなのか・・・。しかもタイトルから縦書きではなく横書きなのである。ながら見をしているのですが、ちょっと勉強してみた。2000~2006年だから、私が知っているわけもないのか・・・。うーん。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E4%B8%81%E5%A0%80%E3%81%AE%E4%B8%83%E4%BA%BA 必殺にも出ていたのだけれども、これの村上弘明がめっちゃくちゃかっこいいではないですか・・・。話し方がわざとらしいのではありますが、これが意図なのだろうからそれは目をつぶるとして・・・。いや、姿はあれは中村主水の藤田まことや、徳川吉宗の松平健くらい似合っている・・・。着流しが似合うってところがやっぱりポイントなんだよなぁ・・・。

最後には、私の男性の好みになってしまったようです(汗)。私は容姿はそれほど重視していないのですが、シンプルない出で立ちでも自信あるように振舞える人が好きなんだろな、と、着物と絡めて考えが行き着きました。殿様やお姫様の衣装をつけていて立派に見えるのは当然だろうけれども、ゲンダイジンなのに不思議と、それでもやっぱり着流しがさらりと自然な人が好きなんだろうなぁ、と。

それは洋服でも同じことで、ファッションの移り変わりをまったく気にしておらず、自分らしく自信をもって振舞っている人がいいのだ、ということに帰結します。洋服の着流し=ジャージでもないんでしょうが(笑)、何を着ていてもきりっとしている人が私は好きだ。

生まれ順にこだわる人々

12/08/2007 にアップした文章です。

実は、心理学の世界でも、この生まれ順による後天的獲得性格というのは、論議の話題にはなっています。性格心理学と社会心理学を混ぜたものなのですが、子どもが多い家族を持つ社会が、少なくなってくるとこのような論議に注目するという流れになっているわけです。世界的に先進国は少子化がめまぐるしく進むところが増えており、こうした気にもしなかったことがどんどん学術的に尤もらしく語られるようになるんだろう・・・。これに驚いたきっかけは、仕事をしていて、母が見ていたみのもんた(爆)。聞いていただけなので、どこの大学の教授がどんな調査や実験を元に展開しているのかチェックできなかったのですが、かなり決め付けモードだったことだけが聞き取れた・・・。ふぅ・・・。

http://en.wikipedia.org/wiki/Birth_order 英語なのですが、論議対象だということになっています。Adler, Freud, Jung(アドラー、フロイト、ユング)らが最初に着目したのですが、彼らの実験やリサーチ方法そのものが、かなり覆されている割合が多いので、そのやり直し実験やリサーチで、おそらく注目するに値するのでしょう。

そもそも持って生まれた先天性やDNAに組み込まれたものが、咲くか咲かないか?の分かれ目は、後天的な環境に点在する環境要因であることはしつこいほど述べてまいりました。個体のコントロールできる範囲が小さいものや、刺激となる外側(環境)を屁ともせず先天性があまりに強いために押し進み、大した影響が出ない場合などがあります。が、そもそも二元性の強さというものは真ん中らあたりに来ることのほうが多いわけで(たとえば生まれながらに明るい子であっても、しつこく強く長いあいだ、暗い材料ばかりを与えられたらたまったものではなく、暗いほうになびくのは頷ける結果だということ)、環境がこれでもか!とばかりに繰り返し一定の刺激を送り続ければ、「それが当たり前」と受け止めるのは必至だということです。

大きな影響には、親の態度。長子には「長男だから」「長女だから」という不思議な希望が湧き上がり、男女の分け目には「男の子らしく」「女の子らしく」だというものから始まり、「賢くあってほしい」「優しくあってほしい」などなど、本当に親の態度はいろいろなこれでもかっ!という繰り返しで表現されていき、個体である子どもたちは、何の不思議も疑問も持たず、それをすんなり受け止めていくのですね。せいぜい、疑問をふと持つようになるのは、幼稚園くらいで、そのときもすんなりと納得しやすくなっている子のほうが多いのかもしれません。

生まれ順が崩れるのは、もって生まれた先天的な疾病や、障害や、目に見える成長の遅れなどがあり、そうなるとたとえ長子であっても、長子としての期待は全身で受け止める必要はなくなるようです。時代小説などでも同じで、側室の子どもに生まれても、正室の子どもに生まれても、サバイバルの次に大切なのが、家を受け継げるかどうかなので、先天的な疾病や障害は重いハンディです。

社会的性別の混乱というのは、4・5歳くらいまでは普通表面化しません。幼稚園や小学校に上がるようになり、「当たり前の安定した小社会」を見せられるようになり、子どもたりとて、自分が他人と違うことを表面化させないことも覚えます。私はそもそも、ゲイであることやバイであることを、「性同一障害」ということそのものを、どうして精神疾患に入れるのか?と疑問を持っています。障害手帳などをもらいたい人がいても不思議ではないので、そのチョイスも残しておいて、そうでない人には障害者だというラベル貼りはやめたらいいでしょうよっ!つまんないマニュアルだと思うし、【正常状態】をしっかり定義できるかと言い切れるやつがいるとしたらば、私はその人は軽蔑しますぜ。最小公約数以外のことは言えないだろうよ・・・。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E5%90%8C%E4%B8%80%E6%80%A7%E9%9A%9C%E5%AE%B3 

他にも、生まれ育っている家の社会的階層の位置(金持ちだったり貧乏だったり)や宗教や生まれた地域(場所)などは、生まれ順と同様に、「自分の選択ではない偶然によるゼロ地点の決定」なわけですよ。なので、生まれ順もこれらと同様、性格を形成する大きな要因になると言われているわけです。

日本語でどんなことを言っているサイトがあるか検索してみました。どうぞ♪
http://adv.teglet.co.jp/doc/68/
http://www22.tok2.com/home/kiyotan/aisyou.html

うーん、どれも占いの域を出ていないんだなぁ・・・。考えてみると簡単だとは思うのだけれども、まずは、家の中での親の態度(生まれ順や男女について)の傾向をまず解析したあと、家で過ごす時間と外で過ごす時間の比較(現在完了形で、生まれてから今までのことを考えてみる)、仲良くしている友だちの兄弟の中での位置や、その考え方の傾向の解析。さらに、自分がそもそもそのような行動規範を持っているかどうか、考え方はどうか、などなど、という調査をしてからでないと、こんなことは簡単に言えっこないのである・・・。占いと同じではないかい・・・(汗)。

私の場合、「お姉ちゃんだから」という言葉が母から発せられるのを封印したのが、たいへんに早い時期で、幼稚園の年長の頃。姉だからと言って、弟をどこにでも連れていく必要もなくなったし、面倒を見る必要もなくなったし、限りなく自由に遊べるようになったことに、たいへん歓んでいた(笑)。その代わりに、母が弟を甘やかしたのだろうけれども、私には知ったこっちゃないわけです(冷たい・・・)。私はやりたいことが満載で、遊びたくて、プレッシャーはただでさえ大きいのだから、余計なものは省いてきたわけで・・・。なので、私が典型的な長女の性格を持っているとみなされるのは、誤差がありすぎですな。

http://www.geijyutuniyoru.com/kenkyunote/kenkyuunote-10.html
真剣にこんなことを書いている人がいると思うと、ちょっとびっくりです・・・(汗)。
http://www.stwds.com/active/lesson/psychology/2.html こんなのもあった。なんだかすごい自信なんだなぁ・・・。

私は、この生まれ順を克服して生きてきたはずなので、やっぱりサラサラ信じていないわけです。これを信じてしまうと、障害を持った人々はずっとそれを重荷に感じて負荷に耐えなければならず、ゲイに生まれた人々は不自由を感じ続けなければならず、貧乏に生まれた人々はその社会的悪循環から抜け出すパワーを少ししか持たないことを肯定するわけになってしまうわけで・・・。

誰かに問われなければ、私は自分に弟が居ることすら忘れてしまいます(笑)。これは子どもの頃からずっと同じです。誰かの面倒見がいいなどということはなく、訊ねて依頼されなければかなり放置しておきます。が、地下鉄などで外国人が地図を開いて迷っているとすぐ助けますから、必要性によるんでしょう・・・。

運命論を強く排除したい私としては、「自分の選択ではない偶然によるゼロ地点の決定」には、最後まで抗っていただきたい。それくらいの生命力がなくてどうするっ!?とむしろ問いかけたいところですな・・・。

しない決断

12/07/2007 にアップした文章です。

何かをする、ということをオススメしておいて、しない決断を話すというのも、掌返しの掟破りではありますが、校長センセにコメントをいただいて、やはりもう少しクリアにしておいたほうがいいだろう、と・・・。しない決断の例で簡単なのは、「寄り道」かもしれない。ところが、私は寄り道大王だったんだよなぁ(爆)。でも、大人になってからは、寄り道はまったくしないで済んでしまっているんだよなぁ・・・。その決断は相当に簡単。お金があるかないか、体力があるかないか、本当の本当に見たいかどうか、会いたいかどうか、などなど、指標になるものがたくさんあるから。子どもの頃は、好奇心の塊だったし、体力はあったし、お金がかからない遊びに徹していたし(笑)。

たとえば、寄り道と同じなのが浮気。同じにするなって!?(爆)いや、それができるんだなぁ・・・。充分恋愛をしてから結婚していれば、「浮気はするもんじゃない」という結論にいつかたどり着く。たどり着かない人々は未だにいるのだけれども、その人たちが間違っているというわけではなく、まだまだ成長過程なんでしょう(私はそうみなしているんだけれども、もちろん愛人関係となり、お金ですべてを解決していると豪語でき、実行しているのであれば、浮気ではなくて契約でビジネスなので、私の知ったこっちゃないです)。浮気も寄り道も、Taking risksという意味では同じですね。そのリスクのおかげで楽しい思いができるか否か。拾い物があるかどうか。が、マグニチュードが違うのは、傷つける人々の範囲でしょう。浮気をすれば、家族持ちであればすでに家族が傷つく。何もないとしても、です。寄り道の場合は、危険な目に遭えば傷つきますが、帰宅が遅くなる程度であれば怒られて二度としないと誓わされる程度でしょう。

浮気も寄り道も大いにネガティブではないのだけれども、他にもこういった「人それぞれでしょ」ということでも、する-しない決断を迫られることはよくありがち。

が、私が「しない」と決めていることはごく少ないです。なので、「する-しない」では、「する」を圧倒的にオススメするのです。してみない限りは、自分の経験則を掴むことができないので、数撃ってみて、そののち、自分のスタイルを確立していくのが得策。

私がしないこと;
・ 嘘
・ 人殺し
・ 生きている動物を調理する・エサにするなど
・ リスクが高いスポーツ:バンジージャンプ、レース関連(若い頃やったんでいいです、もう)、スカイダイビング(セスナは運転できるんで、これもいいです。ヘリの訓練でauto rotationというエンジン停止をして不時着寸前で復活させるまでの練習を繰り返しやったんで)などなど。
・ 物欲を充たすための買い物(消耗品のみOK)
・ 詐欺(嘘をつかないことにしているので、金品を奪ったり損害を与えたりすることはほぼ不可能にはなっている・・・)
・ できない約束(忘れたりできなかったときにはあっさり申請して、宿題延長を願い出る)
・ 暴力
・ 自分がやられてイヤなことを他人には意図的にしない

うーん、これくらいしか思い浮かばないのだけれども、やらないと決めていることはきっと他にもあるはず。ただ、羅列できないだけなのだろうな。今度やらないことと決めていることが見つかったら、メモっておくといいかもしれない(なぜ?笑)。

ここでの判断は、やはり個人の善悪や倫理、行動規範という当たり前のことの他に、追随する損得の効率や可能-不可能の予測や、経済的ゆとりなどがあるのでしょう。結果が読めるかどうか?というのが最も大切なことなのだろうけれども、一昨日と昨日書いたように、いかんせん、先読みに論理性をつけて物事を考えることをあまり教育されていない事実が浮かび上がっており、「これをしたらどうなるか?」を子どもの頃にうんとエクササイズしておく必要あるだろな・・・と、ひとりごちています。

私は、もう失敗・粗相を山ほどやってきましたから、今思うと、「どうして敗北感も抱かず、あれだけトライアルをしたもんだ・・・」と半ば呆れるほどです。霜を踏み鳴らし、うれしくてたまらず、サクサク・ザクザク・シャリシャリ・ジャリジャリなどの音の違いだけに着目し、布製の靴から水気が浸入し、靴下にまで到達することなど、まったく考えてはおらず、家に帰って母親に怒られる。「どうしてそんなことをしなければいけないの?」と問われても、彼女には音の違いの機微を判別することに対する好奇心などは、コレッポッチもわからない。私は、この歳であってもわかるんだよなぁ・・・。もしも霜が乱立している土を見かけたら、今でもやることは保証できますね・・・(汗)。でも学習済みなので、靴と靴下は気にするとは思う・・・。そうあってほしいけれども(笑)。そのあと、同じことを毎冬何回くらい怒られたか?怒られる前に自分で靴と靴下をお風呂場に持って行って洗うことを覚えて、まだまだ続けていたことは確か・・・。でもね、その靴と靴下を「どうしてバケツかタライに入れて運べないの?玄関が汚くなるでしょう!」と、途中にも挫折はたくさんあるわけです(爆)。

そして私は結論に至るのだ。浮気にしろ、寄り道にしろ、霜踏みにしろ、散財や買い物や習い事や恋にしろ、「とりあえずやってみて痛い目にあったり、挫折感がなければ、納得しないから、やらない決断までにはなかなか到達しない」というもの。もうひとつの可能性としては、誰かがやっていてその時間がかかるプロセスを眺め見て、自分のことのように感じることができてやらない決断に至るという方法。不可逆性の高いものはコレですな。人殺しなどは、たいていの人がしていないはずで、犯罪の報道や犯罪解析番組などを見て学ぶという意味では、やはり科学的解析以外の恩恵はあるわけです。

大人になってしまった人々が、自分で体感するほどに子どもたちに学ばせてあげるゆとりがあるかどうか?というのは、けっこう難しいのかもしれないです。母は、私に料理を仕込みませんでした。冷蔵庫の中の材料が無駄になり、光熱費がかかり、貧乏な我が家にはコスト的に耐え難いものだったからなのでしょう。でも、その他のことはたいていやらせてもらえましたから、失敗をしたからこそ、「もうやらないぞ」という決断ができたような気がするわけです。

さらに、共感能力が高まれば、他人がした失敗から、学ぶことは真実可能なわけで・・・。ただし、気がないということが最もでっかい障害になり、学ぶことができない人たちは、誰かの人生は完全に誰かのもので、自分には関連も関係もない、と決め付けている場合、これはなかなか捗らない学習なわけです。「なるほどねぇ」と他人のゴシップをしたあと、けろっと忘れてしまい、自分が同じことをしていることに気づけないということを繰り返していても、自分の愚かさ加減には気づけない。ここで「しない決断」をすることは選択肢としてあったんですけどもねぇ・・・。所詮身体はひとつしかないし、時間はみなに平等に24時間あるので、すべてを体験することは無理です。なので、他人の体験を有用に活用することは、脳が大きくなったヒトの特権でもあるわけです。使わない手はないんだよ、と、繰り返し言いたいところです。

私の年末の「しない決断」の大きなものは、【風邪をひかない】というもの。決めればできるのか?ええ、これはできそげです。私は、10年に一度しか風邪を引かないので、きっと今年も大丈夫でしょう。あと7年くらいは大丈夫なはずなのです(笑)。

紀久美先生へのQ&A~心理学講座編~その69

Q69.

計画を立てる「コツ」があったら教えて下さい。

A70.

コツ:骨は体の中心にあり、体を支える役目を果たしていることから、人間の本質や素質などを意味する。 そこから、コツは勘所や要領も意味するようになり、物事の本質を見抜き、自分のものにすることを「コツをつかむ」と言うようになった。

計画を立てるまず一番の骨は何か?しっかりした目標を立てることです。目標そのものにブレがあったり、 具体性がなかったり、測るものがなかったり、タイミングがずれていたり、倫理的論理的に妥当性がないものだったりすると、計画を立てるその後の甲斐がありません(笑)。

ぼやっと「英語が話せるようになりたい!」というのでは、ブレまくります。具体的ではないですし、どのように目標を達成したか測れません。時間の縛りもある程度必要ですし、手段や条件なども加えなければ行動には移せません。

これらの大きな目標を立てる前に、日々の小さな目標クリアできる人間になってみるのが一番大切かなと思います。

100円ショップなどで、ホワイトボードを購入し、Things to do list:やるべきことを箇条書きにし、クリアしていくことが可能であれば、小さい積み重ねができ、大きな目標まで到達することもやはりできることなのです。

1日分が綺麗に行動かできるようになったら、週や月、3か月など、もっとまとまったものができれば、大きな目標にもタックルできます♬

そこに時間軸をつけて、いつまでに終わらせる、どのように終わらせる、どうであれば成功である、など具体化してることをプランしてください。計画倒れになるのは、遠くて見えていないステップを埋めることができないからです。大きな目標とあなたの間には、今、長い長い距離があります。その上がっていくステップの具体的なイメージと、上がるためには何をしたらいいか?がクリアに見えていることが必要になってきます。

そのためには自分が今やっていることの精度を上げて、時間をかけず成功することを習慣にします。そうすれば、大きな目標もきっとできる感へと繋がります。

Precious One English School では、心理レッスンで目標設定を12番目に学んでいただきますが、それまでの11レッスンで、この目標設定に必要なためのスキルを見直していただいています。ゆえに、設定した時にはできるようになっている、もう行動に移すことができる、という段取りです。

How to 本などでも、段取りがありますよね?やはり一朝一夕にはうまくは行きません。物事の本質を見抜く力をつけるためには、毎日真剣に日々を大切にして過ごしていただけたらと思います。

学力低下がまた話題に・・・ その2

12/06/2007 にアップした文章です。

理科的な学力というのは何なのか?と、この理科離れについて今日は考えてみたいと思っています。なぜならば、暗記の答えはできているのに、ではなぜ?という論理についてわからない模様。マニュアルを徹底することで平均化を図ることには成功しても、その先がないんだよっ!ってことに、文部科学省の学習要綱には目覚めてほしいところ。まぁ、日本国民のほぼすべてがそれらの犠牲者なのですが、幸福の追求が憲法にて保障されている限りは、大人になってからはみんながそれを整備しようとするのは、大人の義務でもあるのであった。

理科:(1)学校教育で、自然界の事物・現象を学ぶ教科。(2)自然科学の学問。また、それを専攻する大学の部門。理学部のほか、工学部・医学部・農学部などを含めていう語。
⇔文科

どんなものをどのように分類しているか?ということからして、やっぱり手落ちは数多くあるのだ。これを参考にしてみてくださいまし。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%86%E7%B3%BB この中でもこんな記述は見逃せない:生徒や学生の気質としては、「理系は理詰めで厳密さを求めるが社会性には乏しく、文系はその逆」というイメージが一部に存在する。同様の類型化に、理学や哲学等の基礎学系は理論や手続き重視で理屈っぽく、工学や医学や社会科学等の応用学系は結果重視で必ずしも厳密さを求めない、とか、経済学専攻の人間は社会性があってつきあいやすいが、理工系は堅苦しい人間の集まり、というようなものもある。しかし、個々人の気質により大きな幅があり、必ずしも画一的にそのような見方は当てはまらない。これらはあくまでステレオタイプであり、個々人の性格を左右するものではない。

私個人は、日本の教育にどっぷり浸からせられており、アメリカに渡るまでは、自分は、理科科学は苦手なのだと、強くつよく思い込んでおりました。ところがぎっちょん、航空学校に行った途端、「数学も科学も得意じゃん・・・」と、自分の脳みそが吸収したのち、搾り出す答えに呆然と驚いた次第です。私個人は、心理学部でしたが、pre-requisite(必修科目)には、生物学や動物学、人文科学と呼ばれる範囲の哲学や宗教学や人類学なども要求されており、本当に社会科学というのは真ん中らへんなのだろうな、と実感していたわけです。どうせ理系になるならば、医学や工学などをやったほうがオトクと考える人は多いのかなぁ・・・。いやぁ、all roundedな人間になるのであれば、真ん中はオトクなんだけどなぁ(苦笑)。

ちょっと考え込んでみて、最初に思い出したのは、「観察能力」。事実を事実として受け止める眼力ですかね。もちろん、その記録が次に来るんですが、視力がない方には障害となりますが、ここはちょっと我慢していただきたい。事実を事実として受け止められないのは、なぜなのか?マニュアルが徹底しているのであれば、A=Bであると決め付けるのは得意になって然りなのでは?と、不思議に思えるわけです。暗記な答えについては学力テストの中では、そこそこ上位に食い込んでいるらしい・・・。その理由を問われると、平均値まで下がるらしいのである。ニッポン・・・。観察すらしておらず、与えられたものを丸呑みして信じている段階なのかい?え!?と思えるんだけれども、英語講師をしていても、けっこうその功罪は見えているので(特に罪なほう)、やっぱり事実を事実として受け止めすぎており、その背景・理由などはあまり気にしてこなかったらしい。

たとえば、数日前の「崖っぷち究極問題」を出しても、質問をしてくる人はとことんいない。ゼロとは言い切らないのだけれども、ゼロに限りなく近い。たとえば、誰が地上に最も近いところに位置しているのか?だとか、木や岩の丈夫さ加減や、天候も聞かないし、時間も暗さも風向きも聞かない。どうもあまりに簡素だとしても、質問をしてはいけないことが前提になっているようである・・・。いけない、というほどの強い肯定ですらなく、与えられた物事の中で、というのがエチケットですらあるようだ・・・。最初に助ける人を選んだ理由についても、誰か他人を説得できるような熱意ある論理はほぼなく、母親の場合は「生んでくれたから」「長いあいだ慈しんで育ててくれたから」だったり、養女の場合は「考えた揚句養女にして、責任がある」「最も長く生き延びていけるのは彼女だから」というこじんまりした、誰でも思いつきそうな理由だったりする・・・。

まず、事実をすべて収集するということはあまり癖になっていないらしい<見解その1>。

事実をすべて収集したとしても、ネット社会などで見られるように、その情報処理が適切でないことはあまりに多いのである・・・<見解その2>。私の質問は「誰を最初に助けるか?」であって、「他の3人は見捨てろ」ってことでもなければ、「次は誰?」かもしれず、処理がうまくされないようなのだよねぇ・・・。

私は理科の観察がものすごく嫌いだったのです。カシオペアの移動を日記につける、などという宿題が出ると、自分の立ち位置を「この電信柱」と決めたはずなのに、厳密ではないがゆえにどの程度動いているかわからず・・・。あの木とあの木とあの木と月を参照にしていたのになぁ、などとすごいオマヌケだったわけですなぁ。その当時、空にマス目を描く方法を教師が教えてくれたならば・・・と、航空学校での空の領域を学んだときに思い出したくらいだったのですよ。さらに、動く理由についてもそれほど教えてもらわなかったことについて、空域の重大さを学んだことと引き比べると疑問に思えた・・・>ちなみに大統領が来たりするとローカルの空域は一時的に変わったりするのだ。困る(爆)。

どうやって背景や事情や条件を掴み、どうやって情報処理をするのがいいか?という方法論について、あまり小中学校でやってこないがゆえに、受験という理不尽すぎる制度にも抵抗せず、その精度にも疑問をあまり持たず、大人になって、理不尽を受け止めながら生きていくことで流されていき続けるんだろうなぁ・・・。

大義名分として、どうもごちゃごちゃしているのは、個性を伸ばすという不思議な括り目標。そもそも個性とは何か?に同一見解ができないまま、その個性を伸ばすというのは無理難題なのではないか?と思えるのだけれども・・・。

個性:個人・個物を他の人・物から区別しうるような、固有の特性。パーソナリティー。

その人だけがオリジナルに持っているもの、という幻想はあまり持たないほうがよく、実際は、いろいろな要素をどのような度合いで持っているか?というところが個性の観点なのである。得意なことを伸ばし、不得意なことを平均値にまで持っていく、ということを徹底して、それが実現したとしたならば、優秀面での個性が光っていき、劣性が全体的になくなっていき、能力そのものは上がる、という結果が得られるわけなんですが、そうも行かない。理想の世界であります。でも、目標や夢を持つことは悪くないんで、それはいいとしてみます。でも、自分の個性すらこうして曖昧なんだから、その事実を事実として見つめられる方法や、情報処理をする方法など、とてもじゃないが、親とてわかっていないのではないのか?

だから、学力が低下しただの、理科能力が低いなどと、事実を羅列して歓んでいる場合でもないんだろうよ・・・。私ができることは、相も変らず、英語学校で、みんなにとっての「目からウロコ情報」を教えて、動機付けをしっかりしてやる気をキープ・向上してもらい、状況判断やら理由付けをしっかりしてもらい、効率のよさや人間関係が円滑になるような英語を身につけてもらうだけなのだけれども、まぁ、楽しくやっています。

ちなみに、アメリカでは、子どもであっても、「その子は男?女?」と赤ちゃんについて質問したり、ノーベル賞学者についても「何賞?」「後継者はもう居るの?」と聞いてみたり、と、質問の嵐となります。それが事実を事実として受け止める最短の道なのでしょうねい。私は理科が得意だと気づけたのは、小さい頃から「なぜなぜ坊や」だったことと、アメリカに渡ってからパイロットなのに気象学や航空力学などをやったことによるんでしょう。しかも英語というロジックが整然と通る言語でやったことなのでしょう。

今でもなぜなぜ坊やが健在なので、TVの画面を見ていていきなり、図式化したら地デジはどのようにするのが最も万民にわかりやすいんだろう?などとひとりで考えています。島根県に住んでいる中学もロクすっぽ出ていない82歳のおばあちゃんに説明できるくらいの根気があるように、などと、ひとりで仮説質問を無理やり作ったりしています(爆)。少なくとも私の学力の低下は、認知症以外には阻まれないぞ!と意気込みつつ、お題を終えることにします・・・。

学力低下がまた話題に・・・ その1

12/05/2007 にアップした文章です。


昨日、6時間もぶっ続けにお友だちと話したあと、授業をして家に戻ったところ、TVではまたもや、星野ジャパンの絶賛やら事件やらをやっており、その中に、高校生の学力低下という話題があった・・・。そこでも、勉強時間やらゆとり教育やらいろいろコメントされていたのですが、私としては「またかよ・・・」という感じですな。学力ってそもそも何なのよ?誰がどうやって何があれば学力があるって決めるのよ?というそもそもの条件をクリアして、ニュースを受け止めているかどうかが、すでに気になる私なのであった・・・←いつも通りあまのじゃく(笑)。

学力:学校などにおける系統的な教育を通じて獲得した能力。教科内容を正しく理解し、それを知識として身につけ、その知識を応用して新しいものを創造する力。がくりき。

テスト:試験。検査。審査。

試験:(1)物事の性質・能力などを知るために、ためし調べてみること。テスト。(2)人の性質・能力や学習の成果などを種々の問題に対する解答を通して調べること。

検査:ある基準に照らして適・不適、異常や不正の有無などをしらべること。

審査:くわしく調べて、価値・優劣・適否などをきめること。

まぁ、私もそれほど融通が利かない人間で居続けるのも疲れるんですが、在り方は一貫性を持たせたほうがいいんで、貫きましょう←ぼやきに近い(笑)。

そもそも、テストとは何なのよ?ということから。私はテスト好きな人間だと自称しているのですが、それもこの年齢になったから言えることで、フツーはテストなど好きではない人間のほうが多いでしょう。その割には、心理テストや占いが好きなのは、その結果により何か大事(おおごと)なことが左右されないから。言い訳を準備してあげていないテストほどイヤなことはないんだってば・・・。私がテストが好きな理由は、自分の実力が査定できるからなのですが、自分の立ち位置をいつもいつも知っている状態というのは、私にとっては「自衛」の大きな要素なのですが、そうでもない安全な場所にフツーは生きていることのほうが多い。もしものことや危険なことは、そうそうめったに起こらない場所を選び、人々は生きているわけです。なので、もしものことが起きたり、危険なことが起きたりすると、人々は集団でさらにバカになる。私はせめて、自分だけでも愚かな振る舞いをするまいぞ、と決意しているところがあり、それを貫きたいがために、どうしてもテストでチェックしたいというところなのか・・・。

けれども、大前提は、テストは100%の精度はないということ。ただの参考資料なんだよっ!健康診断でガンが見つからなかったけれども、数週間後にガンだと告知されて訴訟をした例は、私は少なくとも聞いたことがない。健康診断はそういうものだと、みんながきちんと受け止めていたり、100%の精度がないということをしっかり明言しているからなのです。

ところが、学力を査定するものになると、どうもみんなその疑問をそれほど顕わに露骨に表面には出さないようである。私も日々、英語講師という仕事をしているのだけれども、どんなにいいテストでも精度は95%。でもコレは稀です。テストなどは占いに近いものがあり、統計学の一環なので、それで打撃を受けたり、進路や将来が決められたりするのは、そもそも私は嫌悪感を隠せないほど反対です。精度は低いんだよっ!

日本が教育に試験制度をそこここに使っているのは、なんだかやっぱり間違った理解と方向性のような気がしてならぬ。たとえば、高校でも大学でも受験をするときに参考資料とするのが、当日の1日限りの試験の結果。他には内申書。受験料。これらが主流で、他には、面接・小論文・実技検査などが入る程度なのでしょう。

内申書の内容はこんな感じ>これは高校受験の内容。

1; あなたの名前、生年月日、現住所、等

2; あなたが受験する学校名

3; 3年間の出欠状況

4; 3年間の出欠状況

5; 健康状態

6; 9教科の観点別学習状況

「観点別」例えば国語の評価でも、

表現力や、言葉についての知識など、細分化して評価されている。

最近では小学校の通知表にも採用されたりしいているので、

既におなじみかも・・・

1; 9教科の評定

いわゆる内申点算出方法は、各県ごとで違う。

2; 学校生活関係のこと

3; 部活動、校外活動(ボランティア等)の活動状況

4; 学校での生活態度(思いやりがある・・・等)

5; 学校長の署名

内申書というのは誰が書いているのか?というのも問題視されていない・・・。ひとりの先生が主観で書いていることは考慮されないのか?どうして、複数の人々で考慮しないんだ?と、私などは怒りがこみあげますが・・・。

小論文を義務化すると何かたいへんなことがあるんだろうか?そりゃ、学校側の労力は増えるんだろうが、ナマの声という意味では、生徒本人のナマの声が聞けるだろうに・・・。テストを受けたあと、自分が感触的にできなかったものをひとつ落とせるだとか、そういうのがあってもいいだろうしさ・・・。面接のための策略や対策でまた塾などが儲かるという恐れがあるにしろ、マニュアル化されたものを受け容れる学校側にも問題があることを指摘したいし、誰がそもそも主役なのか考えていただきたいもんだ・・・。

都立の高校受験などは、この当日試験と内申書だけなので、ほとんどロボットのように選別されているように思えるんだよな。それを子どもたちが感じていないわけもなく、日々の生活が楽しくなるなんてことは、なんだか希望は持てない。暗記ばかりに力が入り、自分で物事を考える力がつくなどとは到底思えない。だってぇ、受験用の勉強をしていたらそうだろ・・・(汗)。

そもそも、学力の系統分けや重要点を文部科学省の学習要綱が網羅していないのに、ボタンの掛け違えもいいところだ、と、子どもたちを責めるようなことはやめてほしいもんだ。

こう力が入るのは、私が勉強嫌いな子どもで、本当に勉強をしないで大人になったせいであり、大人になって自分で勉強のヨロコビをわかったからです。明日に続きます。