社交辞令ではなく、本当に褒める機会というのは実際のところ、非常に少ないことに気付いていますか?多くのニンゲンは、自分のためにさまざまな物事を行っています。褒めるという行為もそのうちのひとつ。
褒める:1 人のしたこと・行いをすぐれていると評価して、そのことを言う。たたえる。 ⇔ そしる/けなす。
2 祝う。ことほぐ。
褒めるメリットがたくさんありすぎて、多くのニンゲンは、「自分のために」を主に損得勘定で褒めていることのほうがずっと多いのです。私個人はそのことに、割と早期に気付いてしまい、10-12歳の頃にニンゲン不信に囚われるようになってしまったので、その後、かなりやさぐれて生きてきたのかもしれないです。(‘◇’)ゞ
ヒトの行動は93%以上のことが無意識で、反応、つまり生活習慣に支配されています。ということは、この褒めるという行為も例外ではなく、褒めることを学ぶときに左右されていくのです。他にも、暴力・差別・学習の仕方・ヒトの分別などなど、多くの場合が無意識です。
フロイト派が好きな方々は、この無意識が多すぎることには気付いておりますよね?(笑) しっかり意識ができ、考えられている部分というのは、凡人は3-6%ほど、秀才や考えるクセをつけているヒトでも10%ほど。でないと、エネルギーを脳が消費しすぎて生きていくのがたいへんだからです。意識と無意識のハザマに前意識というのがあり、それがフロイト派の定義ですが、認知心理学では Schemaと呼びます。このSchemaの整理整頓がしっかりできている場合には、意識化できる行動を短期間で修得し、その後、無意識の習慣にできる、という仕組みです。
英語学習などでコレを使うと、苦痛は減りますね、確実に。
さて、褒めることですが、メリットを自分に多く来るようにしてしまいます。
たとえば、同僚や上司や部下を褒めることで、仕事がスムーズに行くがゆえに、気分をよくしてもらって仕事が捗るようにする、というのも、直接的に、あるいは近々の時間で、誰かが不幸になることがないためにやっているだけのメリットーデメリットを主とした行動です。
ところが長い目で見ると、この褒めるという行為の定着は害にもなるわけです。
このように、ニンジンがなければ動かないという「賞罰方式:Operant Conditioning」という循環に入ってしまうからなのですよね。ということは、長い目で見るとこのヒトを安易に褒めるというのはよろしくないのかもしれず・・・。すぐに動いてもらいたいときにはその有効性は高いですが、ご褒美がどんどん巨大化していく懸念が生じるので、乱発頻用はNGです。
では、どうすればいいのか?本当の誉め言葉とはナニなのか?
そのヒト由来の努力をした結果についての正しい評価が誉め言葉となっているのであれば、本当の意味での誉め言葉だと思います。努力が軽く、お手軽なものや、生まれながらにして自分が努力しなくても手に入っているものに関しては、褒めてすらいないのではないか、と疑ったほうがいいです。たとえば顔立ちとか。顔が織り成す表情について、しっかり意識して見つめることができて、なおかつ褒めることができればそれは、褒めていることなのだろうと思いますが・・・。
さらに、もっと伸びる可能性が大きいというのが、究極の誉め言葉だと、私自身は感じてきました。みなさんはいかが?
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