父が亡くなったのが、 ちょうど30年前。 1993年の 1月30日でした。けれども まだ なぜか 昨日のことのように思い出してしまいます。 あの闘病の日々を。
私はアメリカから父の看病のために 日本に戻ってきました。夏が終わりそうな1993年の8月で、私は通院している必要 心配しながらも、 病院の ベッドが開かないことに 苛立ち 様々な ツテを使ってどうにかならないかと 奔走しました。 さらに自分のアルバイトも見つけ、GEOSで 絵を更新になりました。 どのくらいお金がかかるかもわからなかったので、派遣社員にも登録しました。 夜のバイトも探してみましたが まだ開始はしませんでした。
ベッドが全く見つからなくなっても会社に行けなくなることもなく、 父は痛み止めをもらいながらも 11月いっぱいまで働きました。 吐血して救急車で搬送されたので、 ようやく 狛江市の慈恵医大 第三病院に入院することができました。 なるから毎日私は父のそばにいようとしましたが、 母はあまりに悲しすぎたためなのか、 お芝居ができなかったのか、 1週間に1回しかお見舞いには来ませんでした。
そうなんです。 家族会議で父には 末期の胃がんだということは 伏せていたのです。 父の兄弟姉妹、その配偶者、 歳が それなりに行った 従兄弟たちと私で13名。 私以外の人々は皆、 がん告知に 反対しました。 ここ 民主主義の国なので、 私はそれに従うことにしましたが、 ほんの3日目で母が ばらしてしまったわけです。(-_-;) わざとではなく、父と話してる最中に泣いてしまったんですね。 どうしてバカではない父は、癌だということを知り、 当日 その日に退院してしまいました。
それから 2度目の吐血で救急車で運ばれるまで、私は1ヶ月 家で父を介護しました。 できることは本当に色々やったんです。 祈ることすら 一生懸命にしてしまいました。でも川崎の高津にある病院しか空いておらず、弟がようやくアメリカから戻ったのが、 父が死ぬ 10日前の1993年1月20日でした。 私が一番 泊まり込みが多かったのですが、本当にあっという間の10日でした。 最後の3日間だけ、 モルヒネ漬けで話ができなかったのですが、最後に話したのも 心臓停止を見守ったのも私でした。
ところが 私には墓石法では、何の権利もないんですから・・・。 母が亡くなった時に分けてくれると言っていた 骨も、弟はひとかけらもくれませんでした。父が使っていたものは何一つ持っていませんが、 家族の所有物だったものは まだあるので、 私はそれを1つか2つだけ アメリカに持って帰り、 自分が死ぬ時に骨といっしょに粉々にして一緒に撒いてもらうつもりでいます。 そのときは、アメリカから連れてきて 日本で死んでしまった 5匹の猫の骨も一緒なんですけどね。
父は私のことを誇りに思ってくれているでしょうか?そうであるように毎日を生きているのですが、今日は特にがんばってみます。
コメントを投稿するにはログインしてください。