やっぱりこの仕事はいい!

2008/10/21 にアップした文章です。

 

産業カウンセラー講座が終了し、修了書をいただいたその足で、みんなで打ち上げに行きました。予定通り、飲み放題をアレンジしてくださった幹事さんに感謝しつつ、食べないままに2杯ずつオーダーを何度も展開し、あらゆる種類の焼酎割りを飲んだのです(笑)。いやー、フレッシュグレープフルーツを絞っても、飲み放題なのでびっくり!が、私がびっくりしている横で、「そんなの当然」だと教えてもらい、なんだかヨロコビも半減してしまい、「これまでいかに無駄にアルコールにお金を費やしてきたのか」を改めて考えつつ、最後なので、誰とナニを話そうかなどと考えながらも、どんどん酔いは廻っていったのでした。時間の感じ方というのは、みなそれほど大差はなく、「過ぎてしまったことは早く感じる」ことが割合としてはかなり多いらしい。しかも、「楽しいことは早く過ぎると感じる」のも同じらしい。いや、後者のほうはそうでもなかったようなのですが、今回(笑)。

 

月曜日は、キラクな自由業のおかげで、レッスン時間以外は、二日酔いを治すためにタダタダじっとしていたのですが、現実に戻ったような気持ちになったのは、1週間経って、生徒さんの進歩を確実に見ることができること。大人になると、それほど成長しない、と決めて掛かってしまうことが多いのでしょうが、私はラッキーなので、1週間での大いなる違いがわかり、本当にこの仕事はいいなぁと、昨日も二日酔いから復活したばかりの頭で強く思っていたのです。

 

何通かメールもあり、そこでもいろいろな報告があり、前回の話と比べてみると、意識できるようになったり、確実に演習問題に反映されていたり、本当に確実な進歩がある。これを生活の糧にできていることに、思いっきり感謝です。いやぁ、幸せモノだなぁ、私は、と思いながらも、なぜこんなになるまで飲んだんだ!と、メールの山を見て思っていましたが、昨日は投げやりに、何もせず、本を読みながらグルグルし、TVをつけてはグルグルし・・・を繰り返し、夕方にやっと復活したら、もうレッスンの時間でした。

 

今朝、メールの山に返信をしたのですが、ヤクザではなく、まっとうな仕事をしている産業カウンセラーのみんなは翌日しっかり仕事に行き、それぞれ謝意を表しつつ、筆記試験のための準備に向っているのだなぁというのがわかる内容のメール交換が開始しました。さらに、レッスンの申込みのメールが2通。次回のレッスンの予約メールがひとつ。驚くことでもないのでしょうが、あまりに私が産業カウンセラー講座の中で、商売を話すので(悩みがないので、漠然とした英語業界のあり方やらその他を話したりした・・・)、クラスメイトのうちふたりが、2月から(このタイミングは筆記試験が1月25日に終わるからなのです・・・)私の生徒さんになる、という予約をいただき、幸先はまったく悪くなく、Mixiのほうも、陽さんは数字的にご不満なのでしょうが、私としてはそれほど悪くないなと思っているのです。

 

そんなわけで、辞表を提出し(これまで、どのタイミングで独立に向けてプランするか、いろいろ迷っていたのですが、常勤の英語学校に週に3回行っていると、自宅でのレッスン時間の確保が難しく、さらに予約が入ってみない限りは、辞めるにしても生活費との兼ね合いが難しく・・・)、かなり気分はすっきりで、産業カウンセラー講座を修了したのでした。最長でも4週間で、私が担当していたクラスや生徒さんは、他の先生に振り分けられ、最短の場合にはおそらく2週間くらいでなんとかなるのではないかと・・・。そうなると、私はもう新宿に行くこともなくなり、ますます世間を知らないで、移動をあまりしないことになるのですが、それが理想なのでいいかな、とも(笑)。企業研修の仕事は常に1つか2つは入るので、都内には出るのですが、朝でないと受けるのは辞めようと思っています。

 

自宅レッスンが増えてますますひしと感じるのは、自分の好きな通りに授業プランが進められること。これはいい!どこかに属しているということは、その会社(学校という名称ではあったとしても、経営が絡んでおり)の方針や企業理念があり、それに従わねばならぬということ。私は、日本に戻って来て、日本人の英語熱はまだ冷めやらぬことを見て取ったときに、「まだ仕事として使えるのだ」と私的には歓んだ一方で、世界の中の日本の位置を考えると、少し虚しいなとも思ったのです。それは、英語業界の中での、NOVAなどに見られた前金制度や、サービス内容そのものに見られるような、「弱者から取ってみてもいいじゃないか・・・、相手が納得ずくであれば」的なやり方。

 

改装したHPの「はじめに」の中にも書いたのですが、私は「生徒さんが目標としていることを実現させるための、旅の目撃者として存在して、サポートしていければいい」と思っており、そこで私の生活が成り立っていけば、これほどいい商売はないと思うのです。余分にお金を取って廻そうとは思っておらず、前金で払いたい方には、それなりのご褒美があって然りだとも思うし、分かっていることに対してくだくだ無駄に教える必要もないし、それぞれが違う道のりでここまで英語と格闘してきた生徒さんに、同じプログラムでは躍進はないと思っているのです。しかも、入会金など要らないし、教材費は実費以外でありえないはず・・・。そんなキレイゴトばかり言っていて、本当に経営が成り立っていくのか?と問われても、やっぱりコレを貫かねばまったく意味がないと思えるので、たとえ流行らずバイトを横でやったとしても、私はこの方針でやっていこうと思っています。でないと、心が折れることになるので。心が折れると、本当にどうしていいのかわからず、自己の存在意義そのものまで危うくなってくるので、やはりこれしかないだろう、と。

 

しかも、英語を使ってこの先何かキャリアなどに生かしていくという意志が強い場合、今の英語学校が提供しているプログラムは足りないのだろうとも思うのです。日本人はテストがかなり好きで、資格化することは好きなので、それに対しての否定はしませんが、資格テストなどで点数を上げることと、英語の実力そのものを上げることは2つの別のことです。それを理解してもらわないプログラムを提供して、私は平然と教えていけない気分になり、英語と日本語の違いも説明しないままでやっていくこともたいへんにつらく、教材の限定などもとてもつらかったです。

 

最も大きな不満は、経営のMUSTなので詮無いことなのですが、ピンハネですね。家賃も払い、広告費も払い、他の従業員の給料も払い、いろいろなことに廻していかねばならぬのでしょうが、私はピンハネ指数に対して、この1年1ヶ月のうちの7ヶ月くらいは不満に思ってきました。生徒さんは「高い金を取りやがって」と思ってらっしゃるのでしょうが、私にはいくばくかの%しか入らず、学校によってもいろいろなのでしょうが、生徒さんが支払う20%くらいしかもらえていないケースが発生する割合が多くなると、どうしてもGoodwillや日本で派遣業が盛り上がっていることを意識せざるをえず、弱者を守らずさらにピンハネするという構図には、たいへんな憤りを覚えてきました。製造業にしろ、ものすごい率で原価に次々といろいろなコストを乗っけていくものですが、人的にサービスをしたものに関して、これほどの%だというのには、本当にびっくりでした。引越し業者であれば、日給1万の場合、仲介業者(派遣する側)がもらっているのが、5000円であることはないと思えるのです。ましてや、1人紹介して5万も払わされていたら、誰も人材派遣は使わないはず。前金をたくさん支払った生徒さんだと、1レッスンあたりの料金が割安になるので、28%くらいになることもあったのですが、30%は夢の夢でしたね。

 

なので、辞表を出してしまった今、生徒さんの数が増えれば、私としてはこれほどいい仕事はないのです。半額にしてさしあげても、私はコピー機の支払いもできるし、入会金も要らなければ、年会費も要らない。個人差があるアプローチを組めるし、その進歩を目の前で見ることが叶う。時間も無駄ではなくなり、眠る時間も増える←寝るのが好きなんだよねぇ、これが・・・。やっぱりこの仕事はいいです。通訳や翻訳よりもずっといい。笑顔が毎日見られること。コレほどいい仕事はないと思います。

 

 

興味は絞ったほうがいいのか?

2008/10/19 にアップした文章です。

 

これまで、何でも広く浅くやってきた私としては、この「興味は絞ったほうがよりよい」という意見に対しては、なかなかクビを縦に振れないところがあるのですね。私は基本的に、「熱しないし、冷めない」ところがあるので、一度熱してしまうと、心がそこから離れず、ちょっと病的なくらい偏執してしまうので、あまり自信を以って、興味を絞れない傾向もあります。しかも、熱して狂喜乱舞することも、それほど楽しくもないし、貫けないことに対しても、なんとなく軽薄感が否めず、自分がそうなることはとてもじゃないが、想像したくもない・・・。いや、他人がやるのはまったくいいんですよ。こんなの善悪でも是非でもないんですから。ただ、私がどこかでひねくれており、そこが私のユニークさを醸し出している、と、勝手に思ってください←思えないか(笑)。

 

興味を絞るというのは、選択肢の選択の究極のところにあるような気がしてしまうのは、私がどこかで、潔癖症的な考えに寄っているところがあるのでしょう。何かを選ぶということは、何かを捨てるということで、どの程度捨てるか?というのは、どのくらいのめり込むかによるのだろうとも解釈できて、私はどうしてもあまり興味を深く持ち、何かを追求するということができないようです。

 

うーん、でもなぁ、コレは後付の言い訳なんだよなぁ・・・←これ、自分で言わずともバレバレなので早期に書いたほうが、自分としてもキラク(笑)。

 

貧乏に生まれ育ったので、何かにのめりこむほどの機会そのものに恵まれなかった、というのが本当のところ。そして、ある程度育ったときに、この世には山ほどの選択肢があるとわかったときに、腰が抜けるほど驚き、これまで逃してきたいろいろなものについて、「悔しい!」と思うのは、自分があまりにみじめなので、「今後もコレ路線で行こう!」と決めるしかなかった、というのが実際なんだよねぇ・・・。

 

身についてしまった習慣ってコレくらい怖いってことなのだなぁ・・・←いや、本当に。

 

でも、ひとつだけ言えるのは、興味を絞ることが必要なことは、人生のある場面で何度か出てきます。身体がひとつしかないので、コレしか選べない類のものというのはあるわけで・・・。

 

たとえば、戸籍上のパートナー。戸籍では、日本国に住んでいる以上、パートナーはひとりしか選べないわけです。愛人や恋人を持つのは自由ですけれども、あの欄に書き入れることができる人はひとりっきりです。日本では、わりと短い期間で、結婚平均年齢がみるみるうちに伸びてしまいました(高年齢化しているということです)。その理由のひとつには、この「選べない」というのがあり、「もっといい人がいるんじゃないかと思ってしまう」という本音が反映しています。

 

私は西さんとは、結婚する予定ではなかったのです。というか、誰とも結婚する予定ではなかった・・・。が、便宜上、籍を入れたほうがいいことがたくさん重なってしまい、今に至っているような次第で、もしも入れなくても入れていてもあまり大差がないようであれば、籍を抜いてもいいかとすら思っています。が、言えることは、西さん以上に私を理解してくれる人は、なかなかおらず、それはもう出会ってかなり短い時期でわかっていたということです。今後も、もしも離婚して、西さんが他の人と恋愛しても、私の生涯の親友が西さんであることは不動ですし、その輝かしき玉座は西さん以外が座れるとは思えないでいます。他のみなさんも私のことを理解してくださっていることは確かなのですが、きっと今お持ちになっている以上の私のいろいろな側面を見ると、逃げるに違いなく(爆)。あるいは、「パートタイム的時間の過ごし方でよかった」と思うに違いなく(爆)。西さんは、どうして逃げなかったのか・・・。うーん、今もって不思議である(笑)。

 

なので、私はこれについても、特に「興味を絞る」などという大げさに考える必要性は生まれなかったのです。

 

シュミも特になく、今回、MixiやらHPやらを立ち上げたり改装するのに、「うーん・・・」と思いっきり唸ってしまいました。ないんですもん(笑)。生活の一部としての読書や映画を、シュミとするのはいかがなものかと思うし、かといって、そのへんの素人とは画一した、玄人はだしの技術を何一つ持っているわけでもなく・・・。

 

生徒さんの職業やシュミはいろいろあり、私はそれらに対して、「特に興味を絞る」というのに、どうも罪悪感を抱いてしまうのです。彼らはみな、「それがいいと信じて選んだ」わけで、私がそれぞれに同等に同調したほうが、グループレッスンなどのときは、いいのではないか?と思ってしまう。プライベートでは、同調というのは、とてもいいことなのですが、それも偽善だったら伝わらないしねぇ・・・。どこかで、小娘のように「世界平和」「世界平等」のような夢を抱いており、そんなものは、ヒトがヒトである以上、完全実現などありえないのもわかっていながらも、「私だけは選民するような人間ではいないようにしよう」というやたらと堅い信念があるわけです。いやー、無駄な信念ですよ(苦笑)。実際は、そんな純然たる「選民しない」などという言動は実現しえないわけで、どこかで線を引かねばならないのです。なのに、どうもそんなことをイチイチ考えてしまっている(笑)。

 

広く浅くしか知っていなければ、実際に自分の感情が表に出ないようにしておけば、私はきっと他人が傷つくような対応や反応をしないで済むかもしれない、などと思いつつ、その裏では、まったく興味がなさそうで暖簾に腕押しな人だと思われるマイナスもあるとはわかりつつ・・・。

 

そして、私のシュミは無難に、「読書」「映画」くらいなんだよなぁ(笑)。本当に無難すぎる・・・(汗)。どうしてここに冒険がないのか、自分でもたまさか情けないのである(笑)。が、貧乏暇なしは、私の人生ずっと続いてきており、西さんが引っ張って始めようよ、と言ってくれたスキーとテニス以外は、あまり功を奏しておらず、もうひとつのアイスホッケー観戦は、家でもできちゃうしなぁ(笑)。アルゼンチンタンゴも動画で今は充分アクセスできてしまい、クラブやバーに出かける必要もなく、日本ではとても人口が狭いと思えているので、動画のほうがいいのだろう・・・。何か興味を絞って開始するようなゆとりがないことが、いつも私の課題になっているわけです。いつでも広く浅く、なんだよなぁ・・・。

 

というわけで、いつも「興味は絞ったほうがいい」というのは、おおっぴらに言えないでいます。なぜならば、英語を使いたいと思っている生徒さんにも、「英語を通じて、すべての興味や能力を繋げていくこと」に価値を置いているのですね。いまさら、英語ができても仕事にはならず(けっこう増えているんですよ、昔に比べて)、プラスアルファがなければあまりキャリア的には意味がない。教養としては使えても、仕事には結びつかないのです。なので、すでにある興味を英語に繋げることを手助けしているだけで終わっており、何か新しい興味を見つけて、それを絞っていくというのは、私は手助けをしておらず・・・(汗)。

 

うーん、興味は絞ったほうがいいのだろうか?どう思いますか?

 

 

英語への苦手意識。何から克服したらいい?

いくつか候補があります。ご自分が最も速く&早くできるものから開始するといいです!少しラクになって、もっとラクになって、いつしかそれが「もー、数年前からそうだった!」という状況になれば、英語のことも「けっこう得意だったかも」「嫌いじゃなかったかも」と疑えるくらいになります(笑)。簡単なものから開始してみると、サクサク進みます!

 

多くのことが、現在のあなたの認知(=考え方)を変えることなので、頑固だった自分の考え方を緩めて、どんどん成功体験に変えることへと導きます。

 

  1. 語彙
  2. 学習法
  3. 教材とコスト
  4. 学習にかかる時間
  5. 英語そのものに対する知識
  6. 見知らぬ文化の理解
  7. 文法や4技能についての理解

 

代表的なのはこの7つのエリア

 

1.語彙

 

語彙数はさほどなくてOKなのです。日常的にも自分からアウトプットして使う日本語は、わずか300語以下。そもそも日本語でどのくらいの語彙を使っているかチェックしてみてください。

 

https://www.arealme.com/japanese-vocabulary-size-test/ja/

 

これがあなた個人の語彙数のMAXです。英語でもこれを超えることはないので、道のりはどのくらいか?を見ることができます。しかも、日本語を並行して上げていかねば、語彙そのものは追いつく勢いでも、実際に「話せる」までがなぜこんなに遠いんだろう?と、原因究明の探求心は煽られます。

 

2.学習法

 

自分に最もマッチした学習法を模索しましょう。暗記・ドリル・コピー・テンプレート作成など、さまざまあると思うんですが、本当にそれでいいんだろうか?誰かはそれで成功したかもしれないですが、自分に本当に合っているのか?を考えてみてください。どれをやればいいのかわからない場合、プロに相談する手はあります。無料体験レッスンにたくさん行ってみて、考えを練りましょう。Precious One English Schoolの無料体験レッスンはこちらから:無料体験レッスン 2時間

 

3.教材とコスト

手軽で安価なものをゲット!が大切です。でないと続きません!(笑)さらに問題なのは、きっちり基本を網羅しているかどうかです。土台作りに失敗してきたからゆえ、話せるようにはなっていないのですし、成功体験がないため苦手なのです。ではどれが?というのを考えてみてください。

 

4.学習にかかる時間

 

日々のどのくらいの時間を割くのか?トータルでどのくらいかかるのか?をしっかり見極めてみましょう。

 

ちなみにPrecious One English Schoolでは、映画を字幕ナシで見られるようになるまでに、個人差がありますが、4か月から1年2か月くらい。座学は基本禁止です。レッスンは週に2時間。あとは習慣を変化させるための意識作りで出来上がっています。できちゃったもの勝ちで、自分の満足感は、短くできてしまったほうが、勉強をたくさんしないほうが、もっともっと大きいはずです。

 

努力して、がんばって、時間をかけて、膨大な量をやれば、できるようになって当たり前。むしろ、がんばらないで、短い時間で、最低限の回数や量で、どれだけの成果が上がるか?というチャレンジ実施中です。



5.英語そのものに対する知識

 

英語と日本語の違いをはっきりと確信的に羅列できるでしょうか?違いと共通点を把握せずに英語をしっかり学ぶことは可能なのでしょうか?ここをぜひとも押さえてください。日本語をこれまでずっと使い続けてきた「クセ」はなかなか抜けるものではありません。英語学習をするためには、「観方」を変えて考えていくことがいくつかあります。でなければ、英語は使えるようにならないです。

 

6.見知らぬ文化の理解

 

そもそも自分は「新しいもの」「知らないこと」「違うもの」に対して、寛大なのか、受け容れOKなのか、しっかりチェックしてから開始したほうがよさそうです。心理テストなどで自分のオープンさを確認してみましょう。

 

その上で、どのくらいこれらを受け容れてきたか、振り返ってみましょう。

 

もしも、相当寛大ならば、吸収することは多し。苦手ではなくなる日は近いです。

 

7.文法や4技能についての理解

 

英語の中での文法の立ち位置・4技能の役割など、少し考えてみてください。Precious One English Schoolでは、英文法を「やり直し」します。日本の英語教育で学んでいることは、実用として使う英語のリズムとはかけ離れたものが多く、暗記や理屈ばかりが先行し、重視されているため、そこを入れ直していきます。

 

順番も大切ですし、やり方や理解もどの程度かを見極めたり、頻度なども考慮しつつ、体感に落すために座学は避けます。

 

あなたは英語が苦手のままでいいですか?いやいや、避けて通れない時代はすぐそこまで来ています。ぜひとも得意・好き!になってください。<(_ _)>



焦りの日々

2008/10/18にアップした文章です。

 

時間があるようでないのが、ナマケモノでぐうたらで、面倒くさがりの苦悶なのである。時間がきっちり決まっており、しっかりと計画など立てずとも、時間の流れでかなり強制的に動くことが日々の習慣になっている場合はいいのだけれども、私はなぜか好き好んで、自由業を選んでしまったがゆえに、自分の弱点に反した自律をいつも選ばされるような形になっているのであった。が、面倒くさがりなのを考慮しても、やはりどこかの会社にまっしぐらに長いコミットメントをするというのは、やっぱり無理。これまでの長い人生の中でも、「アルバイト」「契約社員」「委託」しかやってこなかったわけなので、それでも「契約社員」というのにもかなりの負担を感じてきてしまったので、やっぱり選んだ自由業あるいは自営業が最もいいのです。その代償は、自律という大きなものなのですが、私は自分が思っているほどはだらしなくないのかなぁとも思えつつ、やっぱりこれはネックだなぁと(笑)。

 

時間が細かく刻まれているスケジュールになっており、美容院に行けていないのです。これ、大問題です。なぜならば、今度の日曜日は、産業カウンセラーコースの最終日で、そのときに誰かが「写真を撮ろう!」と言い出すに違いなく、まさかイマドキで白黒写真というのはありえないので、髪のグラデーションも写ってしまい、「だらしない感」が出てしまうのではないかと焦っているのであった・・・。応急処置としては、帽子を被るという手があるのですが、私ほど帽子が似合わないやつはいないだろう・・・と思えるほど似合わないので、コレは却下・・・。が、本当に時間がない・・・。

 

今日は、このあとこれ1本を書いたら、友だちがアマチュア軍団で出している、グループ写真展に出向きます。つきあいだから、というのではなく、本当に以前から楽しみにしていたのです。MixiでもMy Mixiに登録してくれているのですがコレ>http://phatphoto7.exblog.jp/ わんちゃんのランドセルがやたらとかわいい(笑)。

 

今日はそのあと、常勤している学校で、2コマのプライベートレッスンがあり、戻りは夜の21:30頃。これは英検の準1級対策の、第一弾なので、まったく予習が必要なわけでもなく、かなりラクなのです。しかも、いつもと違い、1コマ分(40分)早く帰宅できるので、かなりゆとりがある。が、帰宅してからは、日曜日分のエッセイも書きつつ、産業カウンセラーコースのクラスメイトに配るための、「筆記試験のための勉強方法ガイド」を書いて、印刷して、コピーせねばならぬのです。なぜ、そんなことを買って出てしまったのか?というと、私のほうが、強制力がないと、きっと筆記試験の1月25日まで勉強しないからなのです(笑)。ほら、アメリカの大学では、心理学部だったので、特に内容に難易度を感じているわけでもなく、ただ、日本の労働法規などを加えればいいだけなので、最初からナメているようなところがあり・・・(汗)。校長センセご指摘の通り、アドバイスの通り、やはりカタカナに抵抗があったり、偏重ぎみの内容に、どうもやる気がフツフツと湧いてこないという危惧は高く、「ええい!有言実行だい!こっちから買って出てしまえ!」というのがあったのです。しかも、毎週のように日曜日に会っていたみんなと、急に、ブチッ!と関係が切れてしまうことへの感傷もあったに違いなく・・・。グループメール内だけでも交流できて、しかもたまには勉強会が催せるのであれば、やっぱりやろうかな、と。「時間がないのに、いいのかよ・・・」とひとりごちつつ、やっぱりやろうと決めているのでした(笑)。

 

そのあと、土曜日は、朝の10時から午後20時までが普段の常勤英語学校でのスケジュールなのですが、移転があってから減っており、午後1時半から午後20時までが常になりつつあったのです。ところが、金曜日のプライベートの生徒さんが、昼12時に2コマ移動して入れてくださったりもして、いつもより時間が足りない感がある。その上に、うれしいことに、HP画面からの「無料体験レッスン」の申込みが来たので♪その最も早いスケジュールが、土曜日の午前中ということで、決行!

 

なので、土曜日のスケジュールは、いつも通り朝を有効に使いつつも、シャワーも1日のスケジュール(添削含む)も終えてから、朝の9時半から一発目のレッスンが入っているのでした。その生徒さんと駅までいっしょに出て、終日、その後はレッスンが詰まっています。そのあと帰宅して21時くらいから、日曜日分のエッセイが書けなかった場合のことを補助して、さらに産業カウンセラーの勉強法についても書いて、月曜日の朝のエッセイも、と行きたいところなのですが、それはきっと無理でしょう←二日酔いの予定だし・・・。

 

日曜日の産業カウンセラー講座は最終日なのですが、代々木なので、出発時間が水天宮のときとは20分違います。閉校式のあとの打ち上げも決まっているので、かなりキラクです。しかも2次会にもいくメンツは決まっているので、さらにキラクです(笑)。なので、翌日は二日酔いになるに違いなく、もしかしたら、誰かが泣くかもしれず・・・←泣くヒトは決まっているんですけどもね(笑)。私は人前では泣きませんし。

 

Mixiでのコミュニティ開始からほぼ10日。HPの改装からも同じだけの日々が過ぎました。生徒さん確保は、かなり順調に進んでおり、それでもMixiで協力してくださった陽さん(このブログにいつも「おひさしぶりです」でコメントしてくださっています)は、「もっと数は伸びたはず」と残念そうです。

 

私のほうは、この産業カウンセラーが終わったことを機に、11月1・2日には、NPOおよび駅前英語学校の共同パートナーとなる人と、泊りがけ打ち合わせをしようとしているのです。温泉があって、ケーブルが室内までついていて、打ち合わせをしつつ、食事の心配をせず、疲れたら温泉にいける、という場所で、能率よくかなり煮詰めてしまえるかと・・・。いろいろ検索しているのですが、安ければ安いほどいいので、まだまだ検索中(笑)。

 

時間割をしっかりと揃えることや、スカイプレッスンでのサイト、および、テキストをバンバン作る、という作業もあり、私のようなのらりくらり・面倒くさがり・だらしない人間には、ハードルがたくさんあり、けっこうたいへんです。が、共同パートナーになる人は、1月まで会社を辞めないので、それまでは私ひとりで、しっかりがんばらねばならず、コツコツとした事務作業は、西さんに頼めるところは頼みたいところなのですが、実際はアイディアはこの頭の中に入っているので、私がある程度まで形づけなくてはならず・・・。

 

しかも!11月には家の目の前にある電気通信大学の学園祭があるので、その前でビラ配りができるように、ビラを作成せねばならぬのでした。それは、またもや全面的に西さんに頼んでしまうことになるのですが(爆)。配る人はどうしようと思い、いろいろ調べてみたのですが、雇用はできる模様。生徒さんで、土日に来てくれる方には、バイト代か無料レッスンか飲みをご馳走する名目で、頼んでみてもいいかと・・・←ひどい(笑)。子どもを使ってはいけないことが判明したので、けっこう考えあぐねてしまいますね。

 

というわけで、物事はかなり順調には進んでいるのですが、時間に追いかけられているのは、私らしくないということで、かなり焦っています。この日々から早く脱出するためには、もう少しシステマティックな癖をつけないとなりません。これができてしまえば、山を越えるんですけどもね・・・。まずは、産業カウンセラー講座が終了してから、ゆっくり考えることにします。目の前にあることを、「やっつけ仕事」でなく、満足度を高くこなしていくのが大切なことです。

 

では、写真展に行ってきます!

 

 

 

イライラした時は言葉に吐き出したほうがいいの?

Freud派によると出したほうがいいです(笑)。これは、Psychodynamics のモデル図です。

 

不安が募ると持ちきれないので、身体的に症状が出てしまう、とされています。その症状が:


  • 胸の痛みまたは不快感
  • 窒息感
  • めまい、ふらつき、または気が遠くなる
  • 死への恐怖
  • 正気を失うことや自制を失うことへの恐怖
  • 非現実感、違和感、または外界との遊離感
  • ほてりまたは悪寒
  • 吐き気、腹痛、または下痢

 

英語ではこの状態になってしまうことを Panic Attackとしています>図のイチバン下。

 

過去の出来事を紐解き、社会で生きていく中で感じる自分の中の軋轢の根源を見出し、解決することによって、鬱病などにならないように、とするのがサイコセラピーの考え方の発祥です。最初は、催眠術なども使っていました。この過去の出来事の中、どのような事件・事態があり、どのように感じ、どのように反応したかを明らかにすることやその事自体を「退行」(Regression)と呼びます。



退行:防衛機制のひとつであり、許容できない衝動をより適切な方法で処理するのではなく、自我を一時的または長期的に、発達段階の初期に戻してしまう事


ただ問題は、多くの人々がそれらの過去の出来事を過大評価してしまい、自分以外のことの「責任」にして、自分で対処することがないことにあるかと思うのです。たとえ、それがよしんば誰かのせいだとしても、もう元に戻すことはかなり難しいので、自分の中でどのように昇華していくのか、考えてみないと、同じストレッサー(不安を引き起こすストレスの元)に出遭ったら、かなりの確率で同じ行動を起こすと思うんですよ。


他者、しかもその過去を変えることなど不可能に近いので、This momentにおける自分の人間関係を代表として、環境をしっかり整え、自分の考え方を見つめるほうが、ずっと有効だと思います。


それゆえ、Psychodynamicsが重要視されたセラピー一本槍という流行ではなく、さまざまな有効性と信頼性が高いセラピーを使うプロが増えてきたわけです。


行動療法と認知療法を合わせたものが最も効く、という問題行動が最も多く、今はそれを支えるために、性格・社会・進化・臨床・発達などの他学派の研究が進んでいます。


というわけで、質問の答えとなるのですが、ぜひとも「ひとりのときにしてください」(笑)。冷静になったときに振り返りができるように、ICレコーダーに録音しておくと、かなりいいと思います。


「誰かに親身になって聴いてもらうだけで心が軽くなる」というのは事実です。心の中を言葉にして誰かに聴いてもらい、整理整頓するプロセスを踏めるのはとってもいいことではあります。ただ、相手はプロではないですし、しかもただ吐き出すだけで終わってしまっては、「不平不満をしょっちゅう口にすること」があなたの行動パターンになり、性格になってしまいます。それでは問題が解決するどころか、友人の幅が減り、家族にも面倒を掛けることになります。


プロに行くほどのイライラではない場合は、誰かと話す場合には、「必ず結論へと導き、ポジティブな行動変化を約束すること」を条件にしてみてください。この条件があれば、友人も同じ内容を「仏の顔も三度までルール」を使ってくれるはずです。そして本当に変わること。


倖せにならないのであれば、怒りや不安を八つ当たりに使い、「そうした人なのだ・・・」と烙印を押されることがありませんように。

 

うまくは言えないけれど

2008/10/17にアップした文章です。



考えていることをなぜかうまく表現できない。これはよくあることです。英語だから、じゃないですよ(笑)。日本語について考えても、きっと考えを言葉にする、というプロセスが「面倒くさい」ということは、かなり多いのではないか?と思うのです。それはそれでまったく是非を問うことでもなく、ナニがバロメータになっているのか、考えてみることのほうがきっとキラクに暮らしていけます。が、問題は、言葉にするときについて、「どうしてその考えを言葉にしたほうがいいのか?」を考えずに、行き過ぎてしまうことは多いのだろうとも思っています。なぜか、男性は無口で寡黙なほうが、かっこいいという風潮もあります。「男は黙ってサッポロビール」だったり、みんなで身勝手に高倉健さんは無口だと思い込んだり・・・←相当おしゃべりらしい(笑

 

西さんもかなり寡黙です。放置しておけば、何も話さずに12時間くらいは猶に過ぎていきます(笑)。私も特に話す必要がなければ話さないやつなので、家の中はネコの鳴き声だったり、映画の台詞だったり、メールが来た音だったり、と、それほど騒がしい家内ではないのです。が、母と暮らすようになって違ってきたのは、彼女は、自分でナニかに打ち込んでいるときには、居るのか居ないのかわからないほどに静かなのですが(洋裁だとか片付け物だとか料理など)、特に集中力が必要とされない作業をしているときには、独り言なのか、私に話しているのか、まったく判別がつかないことを話し続けています(笑)。それは、生徒さんがいらしていても同じなので、「第3者がいても話しているのだから、伝えたいことなのだろう」と推測して、会話してみると、そうでもなかったりするので、かなり肩透かしなことが多いのです(笑)。

 

私は「口数が多い人間」とみなされることにはまったく異議はないのですが、それは他の人といっしょに居るときだけで、ひとりだったり、少人数だったり、必要がないときにはかなり静かです。では、なぜ、話してしまうのか?とむしろ考えるのですね。ここが、私が「おしゃべり」と「無口」のボーダーラインだろうと考えるのです。

 

私は、おしゃべり寄りなので、「なぜ話してしまうのか?」を考える。が、西さんは無口寄りなので「なぜ話さなければならないのか?」を考える。ここもまた二元論なのですねぇ。

 

私は話し始めると、機関銃のように話せますし、話したほうがいいことは100%自分の中にあったとしたら、なるべく100%に近いように話したいと願います。なぜならば、「理解されるための努力」というのは、私の中では「せねばならぬ誠意」だと考える、かなり基本的にはいいやつだからなのでしょうね(笑)。逆に西さんのほうが、私よりはずっと面倒くさがりかもしれず、冷たいやつなのかもしれず、かといって中途半端にいいやつでもあり、質問をされれば誠意いっぱいに応えるのですが、「なぜ話さなければならないのか?」と、場面やメンツなどを考えることすら難しく感じてしまい、放棄しちゃうパターンは多いと思われる・・・。

 

私は、つい最近も、「情報量が多すぎて混乱する生徒さんが多い」とご指摘を受けたのですが、確かに、ゲンダイでは、インターネットがこれほど発達して、情報量が多く、情報処理能力が足りなかったり、偏った世界観を持っていることで間違った情報処理をしたりする場面には、かなり多く遭遇します。なので、私の態度というのは、かなり迷惑を生み出しているのかもしれない・・・と思わずもなく・・・。ただ、それらの情報が、「聞き手に引っ掛るかどうか」というのは、個人差なのですね。一般的な平均値は統計として取れたとしても、ナニがどのくらいの強さで引っ掛るか?というのは個人差なのです。プライベートレッスンでは、その成果というのはその場でわかる部分が大きいのですが、グループで教えているとそれはなかなか把握しきれない。ザルの目が粗い生徒さんもいれば、ものすごく細かいザルの目を持っている生徒さんもいて、「情報量が多くて困る」という指摘は、それほど多発するようなことではないと、私個人は解釈しているのです。

 

かたや、コレが基本!という情報というのは、「またか・・・」ということがかなり多く、それがどんなふうに発展していくか?というのがキーポイントだと思うのですね。

 

たとえば、「時間を大切にしましょう」というのは、誰でも言える・・・。が、どうして大切にしなければならないのか、相手に響くようにうまく言えないことはかなり多い。きっと、今日、日本だけで行われた「時間を大切にしましょう談話」の中でも、ザルの目を通り過ぎてしまい、受け手の心にずしんと響かなかったものは、かなり多いと思うのです。

 

西さんはそういった意味で、かなりケチなのでしょう。自分の経験則をすべて出してから、整理整頓して、その目の前にいる相手に対して、どのくらいの誠意を以って、あるひとつの話をすれば効果的なのか、あまり深く考えてはいないし、面倒なので「なぜ話さなければならないのか?」のほうに至る。で、実際に口をついて出る言葉は、少なめになるのでしょう。

 

私は、たくさんの情報をてんこ盛りに引き出してきてしまい、どれが目の前にいる人にとって効果的なのか、あれこれやってしまうので、効果が出ないとまたもや話してしまい、「なぜ話してしまうのか?」を考えることになる。多すぎる情報です(笑)。目の前にいる人の人数が多いと、余計にそうなってしまうようで・・・。

 

私は何かを「うまく言えない」と、相手に言い切ってしまうことは、なるべくないようにしたいと思っています。でないと、商売としてのプロフェッショナリズムが成り立たないので、「どう言えば最もうまく伝わるのだろう?」と考えるようにしています。

 

でもねぇ、仕事上ではなく、個人的な人間関係においても、こうしたことを考えないで、「どうして話さなければならないのか?」のほうを考える人はきっと多いのね・・・。だから、相手がいかに喜ぶかをわからぬまま、プロポーズや誕生日祝いやその他、うまく言えない感を抱くことになるのだろうと思うのです。私などは、目の前にいる西さんや母やネコやその他を実験台にすらしていますし、これまでけっこう長く生きてきた中での、成功例と失敗例もかなりたくさん持っているので、「言ってみてから反応を見よう」というゆとりもある。

 

でもなぁ、プロポーズはできることなら生涯に1回がいいだろうから、成功したいよねぇ・・・。うまく伝えられるかどうかは、相手のヨロコビのツボを知っているかどうかに尽きるでしょう。それには、あまり話すことに使うエネルギーを節約せず、会話はポンポンと弾むように、キャッチボールを続けてみませう。

 

私には、エレベーターでStranger(見知らぬ人)と乗り合わせても、一言キャッチボールをしあったほうが、きっといいと思っているのです。おしゃべりだからではなく、「お互いに危険な相手ではないのだよ」ということを伝えるシグナルを、さらに強化するという意味で。職場での朝の挨拶なども同じなのでしょう。「おはよう」のほかに、もう一言があれば、「うまくは言えない感」を、その相手に対して感じる場面は減ってくると思うんですよねぇ。

 

今日、私はこの時点までで、母と3言。宅配便の人と2言。ネコとはけっこうたくさん。しか話していないのですが、レッスンがあるので、そのときはかなり話すことになるのでしょう・・・。が、メールの返事も書いたし、これも書いたし、Mixiの新しい記事もアップしたし、かなり話したような気分になっています(笑)。私の「無口傾向」は拍車をかけているのですが、それも職業病の弊害なので、メールやブログやMixiでカバーできるので、あまり不安材料には感じていません。しかも、映画などを見ていると、自分も話して発したような気になりますしね(笑)。

 

が、リアルの人と実際に会話をすることは、本当に本当に大切ですっ!

 

 

すっかり忘れていた誕生日!

2008/10/16 にアップした文章です。

 

昨日、校長センセからメールが届いて、初めて気づいてしまいました。ここのところ、金曜日からずっと大わらわで、さらに、無料体験レッスンやら、Mixi設定やらで、その前も忙しかったのです。気づくと、水曜日、昨日になっており、朝の5時半に起きて、いつも通り早朝英語レッスンを企業でやらせていただいたあと、一箇所見学しておいたほうがいいところがあり、帰ってみると午後早い時間だったのですが、何も食べていないことに気づき、近所でごはんを食べたらやたらと眠くなり、家に戻って爆睡。起きたら世の中は真っ暗で、もう午後8時でした(笑)。毎日5時間くらいが続いていたので、本当にまずかった。が、心のほうは撚(よ)れていなかったんですけども。

 

今朝はメールが数通、おめでとう!と届いており、西さんからはSkypeのチャットでのメッセージが残っていました。そうか・・・誕生日だよ。母は、娘がこんな歳になっても、「今日はお赤飯ね」と相変わらず明るい。西さんの誕生日は私と2週間違うのですが、私は四捨五入して50歳なのですが、彼は50歳ちょっきりになります。この感慨というのは、私と彼では大いに違うらしい。私は、20歳・30歳・40歳の区切りには、それなりの「ちょっきりドラマ」を体験してきたはずなのですが、年齢を重ねることに関しては、ネガティブな気持ちを全般的に持たないやつです。今日もさわやかな秋の朝で、暗い気持ちは微塵もないですね。負け惜しみだとか、能天気で明るすぎるということではなく、です。

 

20歳になったときには、「やっと憲法で成人になれた」という感慨は大きかったです。それ以前に酒もタバコも開始しており(バクチはやるゆとりがなかったんですけども・・・。貧乏暇なしでバイトに勤しんでおり)、その「世間的な建前」にすら嘘をつく必要がなくなったことには、たいへんな開放感を得ました。よく働いていましたから、遊ぶゆとりなどはそれほどなかったのですが、それもこれも年齢が人々に与える「常識・印象」と、真の意味である「成人の存在していく意義」を、その当時はかなりごっちゃにしていましたね。が、それでも若いからまだよかったのです。若いからこそゆえ、人々からは赦され、その先の可能性に期待をかけていただき、たくさんの人々から掛けていただける情けに、ほんのわずかしか気づけず、「目前にあるやること」をただただこなしていき、その中で、かなり効率悪く学びを進めていたのでした。

 

渡米したのが24歳半だったので、この情けを掛けていただいてきたことや、成人として存在していく意義や、目前ではなく、その先にあることに対して、かなり真剣に考えられるようにはなったのですが・・・。それもこれも、「年齢に左右されて暮らしていく割合が低いアメリカ」という大きな器へと場所替えしたことで、得られた功罪は本当に大きかったと今となっては思うのです。人々が与える「ラベル」である年齢は、男女差や貧富や人種や国籍やその他と同じように、アメリカに行ったことで「当たり前の常識・理想」が相当なばらつきがあることや、そのばらつきを持ち続けていいことを知るにつれ、私は年齢を重ねることに対して、まったく抵抗がなくなりました。

 

が、そもそも、以前のエッセイに書いた通り、私は子どもの頃から「早いところ30歳過ぎた女性になりたかった」という訳のわからない希望があったのです。演歌を何度も何度も聴き入る30代の主婦やら、傷ついて翳のある女性や、バリバリ仕事をしている女性やら、みな30代がイチバン美しい!と、なぜか決めてかかっていた小学生・中学生時代があり、それは30歳に自分が到達するまで続いたのでした(笑)。

 

そして、30歳ちょっきりになったときには、本当に本当にうれしく、この10年は相当楽しくなるだろうと、なぜか意味不明の根拠のない希望に充ちており、それが人生の中で最も困難も降りかかる時期だとは思っておらず・・・。貧乏から脱け出すために必至に働いてきただけの10代や20代前半とは違い、その貧乏からさらに安定したフツーの経済状態を維持するために学んできた20代後半とは違い、30代はまだまだたくさんのチョイスがあり、困難の数は増えたし、その深さというのにも、選択肢によってばらつきがあったことに、その後に気づくのですが・・・。嗚呼、人というのは愚かだよなぁ・・・。

 

そして、40歳ちょっきりになったときには、その困難を形ばかりではなく、いくばくかは本当の意味でも乗り越えてきていたがゆえに、「いやぁ、30代よりも40代のほうがきっとずっと楽しいに違いない」とすら思うようになったのですよね・・・。楽天的なやつというのは、そうして年齢に関しても、自分勝手に「よい年齢」をスライドしていくに違いなく(爆)。

 

そして、今日、45歳ちょっきりの誕生日の朝、普段は見もしない鏡を見てみたのですが、まぁ、45歳には見えないし(これもただの平均値にしか過ぎず、どうしてこんなことを考えるのか、と自嘲してしまうんですけども・・・笑)、自分の誕生日すら忘れるほど、かなりがんばっている自分のけなげさにも、かなり満足しています。この服装やら、この言葉遣いやら、この態度やら、きっと考え方が反映されているにせよ、”Age is just a number.”という感動した言葉を、体現しなくては、という義務感もあるのかもしれないですね。

 

たぶん、私のこれまでの健康に関するチョイスや習慣を考えると、もうとっくに人生のTurning Pointは過ぎたのです。日本人女性の平均寿命は86歳くらいなのでしょうが、私は自分では75歳くらいではないかと思っています。その近くに行けば、また査定は変わるのでしょうが、喫煙をやめていないですしね。コレ、大きな要因です。が、私はアメリカに長く住んでも、ただの一度もホームシックにかかったことはなく(これはみんなに相当驚かれるんですけども・・・)、Midlife Crisis(人生の折り返し地点でちょっと鬱になったり、逆にいつもよりも精力的に何かしようとする、迷いの時期)もなかったし・・・。

 

むしろ、今がMidlifeで、90歳まで生きてしまったらどうしよう・・・と思いますよ(笑)。この医学の発達から見ていくと、それは不可能な領域などではまったくなく、私の母はおそらく、これくらいまでは軽く生きて、ひょっとすると100歳超えもまったく可能だ・・・(汗)。

 

誕生日の朝につらつら考えることが、最後に「長生きしてしまったらどうしよう・・・」という悲観ではいけませんや(笑)。そのためにも、今、かなり忙しくコマコマと動いていることを実現しなくてはならぬと決意は新たになりますし、やっぱりアメリカに戻って大学院に可能なまで通い続けたいと思っています。それにはお金がかかるのですが、暴利をむさぼりつつ、ヒトとしての当たり前を無視することなく、なるべく偽善者でいる瞬間を減らし、天国への階段が見えている状態をいつも保つのが好ましい。陽さんは、Mixiの紹介文で、私のことを世に埋もれている、という意味の中国の故事を使ってくださいました。埋もれたままでいいんですが、お金だけは確保したい、というのはやはりどこか非国民で身勝手な思想のせいなのかしら・・・と思いつつ、それでも年老いていくことを毎日楽しみにできているこの状態を、何年経っても保っていきたいと思っています。

 

10年前までは、オンラインでも非公開だった年齢なのですが、半公人のようになってしまい(教えるサイトなどを公開しているので)、どうしようもないかな、と少し諦観。が、日本に2年前に戻って来てから年齢を聞かれた回数というのは、アメリカに18年半住んでいて聞かれた回数を3倍くらい上回っているということは、お伝えして〆ましょう(笑)。

 

 

メディアの反省日

2008/10/13にアップした文章です。

 

三浦和義元社長が自殺したことを知ったのは、日曜日の朝で、産業カウンセラー講座に行ったときにも、「あまり認めたくないけど、正直びっくりした」という人が多かったので、たいていの人にとっては予想外だったんだ・・・と、私も思ったのです。私もびっくりしましたから。この長い歳月が流れてきたあと、さらにまたマスコミの前に姿を表し、またあの狂騒が続くのだろうと慣れた眼で見ていたのですが、突然終わったことに本当にびっくりしてしまいました。これは、彼の一貫性を最後に締めくくったとも言えるので、疑惑は疑惑のままで終わってしまったにしろ、見ていた側もおしまいにしなくては・・・という感じです。が、もうひとつ考えなければならないのは、メディアに携わる人々でしょう。彼らは、全面的に反省して、これを報道してまたもや儲けるのではなく、劇場を作って、幕が下りたことで、「コレを大げさに作り出したのは自分たちの業界だ」という認識をしてほしいところです。

 

月曜日である今日は、体育の日で祝日なのですが、TV番組は、朝はワイドショーがあり、編成に平日とあまり変化はありません。その中で、どの番組もこの事件を取上げており、俳優の峰岸徹氏の訃報よりも先に、事件として取上げています。無反省なのだ・・・・。

 

資料になるサイト

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B9%E7%96%91%E6%83%91 >ロス疑惑

http://www.asahi.com/special/080224/ >新聞各社の中で、最もロス疑惑特集の記事の数が多かった朝日

 

事件を起こした本人がイチバン悪いと、正当性を問われれば、そりゃぁ、疑惑をもたらすような言動を続けて起こした本人は、悪いですよ。マスコミが『疑惑の銃弾』を発表しなければ、逃げおおせるはずだったのか?科学捜査等がまだ当時は進んでいなかったにせよ、殺人事件の検挙率は日本よりも低いアメリカが現場だったにせよ、私個人の見解としては、殺人に時効はないので、マスコミが騒がなければ、このような経路は辿らなかったように思えます。なぜならば、昨今、Cold Case(すっかり冷めてしまった事件)を取り扱う部署が積極的に設けられ(これには、ベテランの刑事だった人間が、ボランティアや60歳過ぎたあとに嘱託や委託として当ることが多く、寿命が延びた人間社会では、なかなかいい人材の使い方をしているわけです)、いつか真っ白に近いところから始まったかもしれない可能性は否定できないのです。しかも、科学捜査がこれだけ進み、過去の資料が解析可能になった今、この可能性は高くなるだけで、低くなることはありません。

 

『疑惑の銃弾』を書いた人は、きっとドキュメンタリーとして、ルポルタージュとして、事実をしっかり解析していく態度で開始したと、私も認められるのです。この開始が、1986年1月。が、その後、ラジオ・TV・新聞・雑誌、すべてのマスコミが、角砂糖に集るアリのように、この事件を取上げたのが、1984年。当時から、三浦和義氏は、「メディアの態度」というのを語り続けてきたのですが、彼も恩恵は受けたとは思いつつ、やはりそのマイナスも大きすぎただろうと。

 

私が彼の立場にそのまま立ったら、と思うと、ゾッとします。私が渡米したのは、1988年で、その資金をしっかり貯めていた頃、六本木で、二谷友里恵嬢と郷ひろみ氏が婚約した当時と重なる時期に、よく三浦和義氏とその妻を取り囲むマスコミのフラッシュを数回見た記憶があります。ということは・・・、彼らの婚約が1986年6月。ロス疑惑による報道過熱というのは、1986年も続いており、1年半やそこらの話じゃなかったんだな・・・。私はあの頃から、ペイズリー柄が嫌いになったのだった・・・←かなり強烈に嫌いである。

 

そして、1988年に渡米したときに「日本で騙された!」と思ったのは、ロス、という名称はどこにも存在せず、ロスというのは、Losという、スペイン語の男性複数名詞につける冠詞だったということがわかるのです(笑)。アメリカでは、LA(エルエーと発音)と表現しなければ、Los Angelesのことではないとわかったときに、「ひぇぇ!騙された!」と思ったことを、強烈に記憶しています。

 

そんなことも、メディアに反省してほしいし・・・←余計なことでもなく、実際に通じない英語を流布させていることについて、英語講師になってからさらに憤りになりつつあり・・・。

 

三浦和義氏は、その著書にあるように、弁護士を使わず、獄中からも含めて、550件もの裁判を起こして、8割に勝訴しているそうです。その民事の対象はほぼすべてがマスコミ相手で、賠償金の額を累計すると、相当な金額になるはずです。が、マスコミはそれでも儲かってきたわけですよね・・・。各社への負担は数十万ほどで、何千万にもならなかったからです。だから、調べ物を徹底するわけでもなく、事実ではないことを、かなり大げさに報道してきているし、大げさという限度についても、受信側は知らないで来ました。知ろうと思えば知れたのですが、そこまで三浦和義氏にこだわらなねばならぬ理由は、一般市民にはありませんし・・・。

 

↑こうしたアヤのある報道はとても多いと思えるのです。

 

最近でも、東国原知事の衆議院出馬問題の報道を見ていても、「いやいや、出ないって言ってるじゃん・・・。どうして『今の時点ではございません』を掘り下げて大事(おおごと)にするんだよ・・・」と思いながら見ていましたが、ワイドショーに出ているコメンテーターなども、「出るかもしれないですね・・・」などと煽る煽る・・・(汗)。「国政ではなく、県政をまず全うする」という意味がどうしてもわからないのか・・・(汗)。

 

メディアは反省することもなく、平然とまた古い映像を出してきて、たくさんの秒数を費やしたり、文字で埋めたり、まだまだ人心を煽っています。私は、大人になって、ロス疑惑報道がいかに愚かしいことだったのか、わかるようになったからいいんですけども、そして、今報道されていることにも左右されることはない情報処理ができるようになったからいいんですけれども、きっとこのメディアに振り回されている人々は、まだまだ多いのだろうと思えるのです。

 

が、反省はしないメディア。もちろん、本当にいいお仕事をしている人たちがいるのに、その方々の仕事を見習わず、そのそばで、ゴミのようなどうでもいいことをどうでもいいように取り上げて、こうした一般大衆につけこむのは、いい加減にやめにしてほしいと、今日は反省を促したいと思います。だったら私がその仕事に就けばいいのにって?いやいや、やりたくない(爆)。

 

 

ひとつの学びの区切り

2008/10/12にアップした文章です。

 

今日の産業カウンセラー講座は、日本橋教室での講義の最後です。そして、来週の10月19日が実技のほうも最終日で、16時まで普段通りに実技をしたあと、1時間で閉校式があります。なんだか早かった・・・、と思えるのは、楽しかったからなのでしょうねぇ・・・。つらかった人にとっては、きっと長く感じるのだろうけれども、私は毎週日曜日に朝早く起きることはそれほど苦痛でもなく、学校に行くということが、相当に好きなのだろうと、いつも自覚させられていました。毎週あったわけでもなく、櫛の歯のようにたまにお休みが入ったのですが、そんな日曜日はなぜか手持ち無沙汰で、スケジュールがいい塩梅だと、英検やTOEIC受験前のレッスンなどをちゃっかり入れたりして、スケジュールをつぶしていたような日々でした。

 

知り合えたお友だちにはとても感謝しており、大人にありがちな、「コネクションサーチ」「ネットワーキング」などではなく、心をさらけ出して飲める(←結局飲むのか・・・笑)友を得たことは、本当に感謝しています。最初のうちは、どうして飲みに行かなかったのか?

 

産業カウンセラー講座は、実技では慣れない「傾聴」を繰り返すのですが、そのためには「クライアント」の役も同じ数だけ必要で、生徒たちは交代交代でその役割を分担するのです。グループ全体で、カウンセラー1人とクライアント1人を囲み、観察するという、かなり疲れる実技もあるのですが、たいていの場合は、個々が1対1になったり、数人で組んで順番ということが多いので、けっこう話をする回数は多いのです。

 

ということで、毎週2回か3回くらいは、自分の話をしなければならないのですが、私はとかく悩みがないので、いつもいつも困っていた・・・。ピンチだったり、不愉快だったりすることはあるのですが、それを論理的に解析して、心の負担にならぬようにしてきたので、特に悩んでも仕方ないことは悩んでいなかったのです。こうなのだから、こう、だからこうしていく、と、かなり結論が出ており、誰かに整理して話すことで、さらに「ああ、やっぱりこれについても特に悩んでいないか・・・」ということになるか、昨日書いた「立ち位置の違い」なので、相手が個人の場合には「どのような話しかけかた、コミュニケーションの取り方が有効か」に気づいていくような、カウンセラーの妙技が問われるのですが、たいていの場合、私は自分を解説して終わりになっていたわけです。

 

いやぁ、カウンセラー役を、私がクライアントになる時に当ってしまった方には、本当に申し訳なく思うのです。やりにくかっただろう・・・と。自分がカウンセラー役をやるのも、ずっと聞いて、相手の話を繰り返すことに終始するので、普段の話し方と大いに違ってかなり疲れるのですが、私にとってはクライアント役も相当に疲れるのでした。誰かの負担になる、借りを作る、ような気持ちになることは、相当な心の負担なのよ・・・(汗)。

 

そんなこともあり、最初の数回は、ものすごーくぐったり疲れており、飲みに行くなどというどころではなく、「もう家に帰ったら話さない。ネコを撫でていっしょに寝よう」という塩梅だったのです(笑)。日曜日は、母が土曜日の夜からボーイフレンドの家にお泊りで行っているので、私は話す必要もなく、またもや母の話を傾聴する必要もなく、かなりノビノビした気持ちで、夜9時半までを過ごして、疲れていたら寝てしまい(夜の9時半に眠りに就けたことも実際に数回あったんですよ・・・汗)、そうでなければ、ネコと寝そべってぼーっとTVを見たり、PCでゲームをしていたのです。

 

そんなわけで、最初の2ヶ月弱くらいは、誰かよさそげな人と誘ってみる、などという気持ちにもならず・・・。

 

ましてや、悩みという種類の話をしなければならないので、ある程度、「えええ、この人がこんな悩みを・・・」という『王様の耳はロバの耳』のような、守秘義務負担も掛かっており、クラスメイトと話しているときに、そんな話をしてしまったら・・・というような不安も、みんなどこかにあったのかもしれず・・・。

 

最初の数回は、ランチを外でするにも、みんなバラバラだったのですが、少しずつ誘い合うようになったようでした。私は、母がお弁当を作ってくれるので(正確には、前日土曜日におかずを3・4種作ってくれて、冷蔵庫にラベルをつけて残しておいてくれるので、それをせっせと朝起きて詰めるだけ)、初日からずっとお弁当で、そのお弁当も、初日だけがひとりで本を読みながら食べていたのですが、次からはみんなで寄り添いあいつつ食べるようになり・・・。今では、みんな「月末でピンチだからお弁当買ってくる!」派も増えたり、「二日酔いだからスープだけ!」派もいたりして、かなり大勢で、ランチを食べています(13人中半分くらい)。

 

が、それももうあと2回なのよねぇ・・・。

 

全部で20回のコースが、朝の9時から夕方5時までって、なんて長いのかしら・・・と思っていたのですが、実際はそれほど長いわけでもなく、講義のほうがずっとつらかった。

 

私にとって、産業カウンセラーテキストに書いてある内容は、「すでに英語で習ったことの簡易版」だったので、講義を聴いているときに、だいたい午前1章、午後1章をまとめていたので(でもPCがないから手書き)、もう半分くらいのまとめは終わっています。講義でも、参加型の場合もあるので、途中で手を止めなければならないこともあったり、私が二日酔いで死んでいて寝てしまったり、お昼あとはおなか一杯で寝てしまったりしていたので、半分なのですね(笑)。1時間に10分か、1時間半に10分の休憩が入るのですが、そのタバコ時間が待ち遠しかった・・・。以前書いたように、「~みたいな」という口癖を、短いあいだに100回以上放つ先生もいましたし、準備してきたPower Pointのプレゼンをなぞるだけの先生もいましたし、楽しかったのは、半分を切るなぁと・・・。

 

私がこのテキスト対峙の、筆記試験用の勉強で文句タラタラなのは、英語表記すべき(日本語のテキストなので、日本語でいいという説もあるかもしれませんが、原語を英語から持ってきた場合には、英語表記はMUSTです)なものを、どうしてかカタカナのみで書いてある場合が多く、どうも読めない(爆)。本当に、そこで脳がストップしてしまうのですね・・・。カタカナというのはどうしてこうも読みづらくなってしまったのだろうか?と思うと、やはり看板や広告や雑誌やネットでも同じなのですが、テキストになると、情報満載で、カタカナ度合いも増えるので、たいへんに憂鬱なのです。特に、人の名前はきつい・・・。心理学の用語は、ほぼ6割ほどはカタカナなので、それが和製英語になっていると、かなりきつい・・・。間違った英語を使う人間にならされてしまうのは、とてもとても不愉快なのです。

 

というわけで、それでももうすぐ学びの区切りが来ます。そのため、通学がなくなり、筆記試験まで3ヶ月弱も時間が空くので、メールグループを作って、勉強の励ましあいと勉強会実施ができるように、私がお願いして、グループの中でもしっかりしている方にシステムを作っていただきました(一部、命令したという説あり・・・汗)。さらに、10月19日には最後の打ち上げがあります。もう二次会の段取りまで決まっているので、楽しみです(笑)。

 

そこではっ!と気づいたのが、私はしばらく髪の毛を放置していた・・・。美容院に行かねば・・・ということ。最近、やっぱりゆとりがないのかなぁ・・・。日曜日がなくなると、気落ちもするけれども、やることはあるので、がんばりますっ!

 

 

こだわりから逃げるために

2008/10/11 にアップした文章です。

こだわりというのは、この場合、ネガティブなもの。こんなことを考え始めてしまうと、Monkに怒られそうなのです。彼は生涯、コレとつきあってきているので、「君はまだまだビギナーだな・・・」と(笑)。私は、神経質なほうだと、小さい頃から言われてきたのですが、実際はそうではありません。たいへんにおおらかで、散らかっていても気にしないでいられます。まぁ、衛生的に危険が及ぶことはまずい、という程度です。できたらきれいなほうがいいですが、私自身がそれに大幅な情熱と時間は費やしたくもなく、「適度」でいいのです。ところが、私が神経質だと、小さい頃言われたのは、おそらく、「他人にとってどうでもいいこと」が「私にとってはかなり大事なこと」だった割合が高かっただけで、多くの人が考えるこだわるべきではないだろうところに、こだわったきたことにあるのではないか?と、最近思い当たっているのです。

 

しかも、私は多くの人とMingle(混ざり合う)ことをしませんので、「同士よ!」といううれしい遭遇も、それほどないのです。Robert B. Parkerは日本では爆発的に売れたものですが、私はその当時ですら、3人くらいしか「同士」に会えませんでした。「文房具はMade in Japanがイチバン:でも一部ドイツ」というこだわりも、日本製が当たり前な境遇の人にはなかなかシェアしにくいこだわりのようです。なので、こんな背景もあるせいで、産業カウンセラー講座で、ダウンタウンブギウギバンドの『身も心も』に引き続き、Robert B. Parkerを全巻読んでいる彼には、かなり心魅かれたんですねぇ。

 

そして、商売では、私は生徒さんにUnlearningを切々と説いているのですが、昨日の夜あたりから「自分ができないで、何でこんなことを言っているのだ!?」と、かなり情けない気持ちになっています(笑)。こだわりが正しく持って行き続けたほうがいいのか、それとも今Unlearningしてこだわらないように修正するのか?そして、長らく考えてきたところ、やはり正しく持って行き続けたほうがいいという結論になったのだから、その目標を設定して、それにタダタダ邁進すればいいものを、グルグルとしょーもないことを考えてしまうのは、何なのだ!?と(笑)。

 

あ、何度も重複していますが、私には悩みがほぼないのです。「悩んでもしょーもないこと」には悩まない。しょーもないことに悩むと、グルグルするだけで、時間と情熱が奪い取られてしまい、ゾンビになってしまいますので、そうした贅沢は、恋愛のみにしていたはずなのですがそれももう縁遠い話なので、ここのところずっとどんなピンチに遭遇しても、悩まないでやってこられていたのです。そうですねぇ・・・、PTSD以降、悩んでいませんね・・・。「困った」はたくさん無数なくらいにありましたが、解決してきました。

 

そうではない、「他人にコントロール権が多くあること」「もっと抜本的に命題に近いことでの相違から来る悩み」に関しては、私のほうが認知をしっかり変えることで、「悩み」ではなく、「立ち位置問題」として、他人の立ち位置が変えられないことを再度確認したうえ、自分がどのくらい変えることができるのか?を検討し、そのあと、どうしても譲れないのであれば、「このまま甘んじるのか、それとも繋がりそのものを放棄すべきなのか」を考えてきたのです。

 

で、今がその時期のうちのひとつで、私が英語学校で雇われるのをやめて、独立しようとしているのは、まさに、この「立ち位置」の違い。あ、企業研修を仲介してくれる会社で今もお仕事をいただいているところは、まったく問題ないのです。「立ち位置」が相当に近いので、不安も不満も何もなく、むしろ、朝や昼などの、生徒さんが普段集まらない時間帯に仕事があることに、感謝すらしているのです。

 

英語学校にしたって、別に、彼らが正しく私が間違い、なわけでもないし、逆に私が正しく彼らが間違いなわけでもない・・・。ただ、単に、立ち位置が違うのです。

 

辞めるということは心の中でしっかり決めたものの、まだ通知も出しておらず、その日程の見通しが最もグレーなところに居る今が、やはり、ここ数年でのイチバンの正念場なのかな、と思っているところです。心が苦しい(自嘲)。1年半近く、日本で英語を教えてきて、半年めくらいから日本の英語業界そのものに対しての学習をし始めて(それまでは体感していただけで、系統立てて学んでいたという実感はなく・・・)、18年半のアメリカ生活でその文化ごと持ちかえってきてしまった私にとっては、やはり日本の英語業界の主流システムというものから、「落伍者」として降りないといけないところまで来てしまい、それが弱者であるが、共感者もたくさん増えつつある、「自由競争~Free-trade」の世界なので、またもや苦労しようとしているわけです。

 

私のこのどうしようもないバクチ打ち的態度は、何度生まれ変わってもどうも学習成果は出ないようだし(ほぼ諦観・・・爆)、私のまたもやどうしようもない、あるシステムの下で従順に振舞い、仕事をこなしていくということがどんなにがんばってもできない態度は、どうしても変わらない。皮肉なことに、それが私の渡米を成功させ、時として私を挫折させてきたものなのですが、「立ち位置」としての私の信念は、どうもこれに基づいているようなので、グルグル考えても仕方ないのですね。なのに、このこだわりから逃げたいと思うのは、苦しいからで(笑)。いや、捨てられないこだわりからは、実際問題逃げられないのですが、「しばし忘れたい」というのが本当のところなのでしょう・・・。

 

が、ここのところ、独立のための運動をけっこうしており、Mixiの英語コミュニティを立ち上げたり、NPO設立のための青写真を打ち合わせしたり、西さんともHPを作成するためにメール交換を頻繁にしたり、Skypeをしたりしたので、「逃げていられるどころではないっ!」というのが現実で・・・。しかも、しっかり英語学校では責任を以って仕事をしなければならず、口先だけのいい加減なことはできないので、彼らのシステムの中で、範囲で、しっかりした仕事をしなくてはならないのですが、それがどうも私の心と頭では「こなし」に思えてしまってならない・・・。

 

実は、この程度の悩みというか、ピンチは、これまで帰国してからも何度もあったはずなのですが、「喉下通れば熱さ忘れる」といういい加減なやつなので、なんだか久しぶりのような気がしてならぬのです(笑)。実際のところは、叔母がこの4月に腎臓移植の手術をしたときには、毎日クマのように意味もなく歩き回っていたし、お酒の量が増えてピンチになって校長センセにお叱りを受けたこともあったので、悩みがないと言いつつも、この「立ち位置」の違いや、「生まれ持ってしまった切なさ(叔母の場合は、軽い腎臓病の段階で服用した薬の副作用の蓄積で、さらに腎臓病が悪くなったということなのですが)」などに苛まれてきたのです。

 

今回は、アル中にもなりたくもないし、クビを斬られることも覚悟だというくらいのこの態度を貫く意地のようなものを、このエッセイで明言しておいたほうが、やはり自分としてもかなりすっきりだろう、と、今日は書いてしまいました(笑)。関係者の方々が見ていると困るのでは?とご心配くださったあなた、どうもありがとうございます。覚悟=危険な状態や好ましくない結果を予想し、それに対応できるよう心構えをすること、なので、潔いところを書き記しておこうと思いました。

 

これは限りなく私のための記録になってしまったようです。が、私をケーススタディとして、みなさんも、周囲との「立ち位置の違い」と「自分の信念」をお考えになってみるチャンスとしてくださると、瓢箪から駒です。