学力低下がまた話題に・・・ その2

12/06/2007 にアップした文章です。

理科的な学力というのは何なのか?と、この理科離れについて今日は考えてみたいと思っています。なぜならば、暗記の答えはできているのに、ではなぜ?という論理についてわからない模様。マニュアルを徹底することで平均化を図ることには成功しても、その先がないんだよっ!ってことに、文部科学省の学習要綱には目覚めてほしいところ。まぁ、日本国民のほぼすべてがそれらの犠牲者なのですが、幸福の追求が憲法にて保障されている限りは、大人になってからはみんながそれを整備しようとするのは、大人の義務でもあるのであった。

理科:(1)学校教育で、自然界の事物・現象を学ぶ教科。(2)自然科学の学問。また、それを専攻する大学の部門。理学部のほか、工学部・医学部・農学部などを含めていう語。
⇔文科

どんなものをどのように分類しているか?ということからして、やっぱり手落ちは数多くあるのだ。これを参考にしてみてくださいまし。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%86%E7%B3%BB この中でもこんな記述は見逃せない:生徒や学生の気質としては、「理系は理詰めで厳密さを求めるが社会性には乏しく、文系はその逆」というイメージが一部に存在する。同様の類型化に、理学や哲学等の基礎学系は理論や手続き重視で理屈っぽく、工学や医学や社会科学等の応用学系は結果重視で必ずしも厳密さを求めない、とか、経済学専攻の人間は社会性があってつきあいやすいが、理工系は堅苦しい人間の集まり、というようなものもある。しかし、個々人の気質により大きな幅があり、必ずしも画一的にそのような見方は当てはまらない。これらはあくまでステレオタイプであり、個々人の性格を左右するものではない。

私個人は、日本の教育にどっぷり浸からせられており、アメリカに渡るまでは、自分は、理科科学は苦手なのだと、強くつよく思い込んでおりました。ところがぎっちょん、航空学校に行った途端、「数学も科学も得意じゃん・・・」と、自分の脳みそが吸収したのち、搾り出す答えに呆然と驚いた次第です。私個人は、心理学部でしたが、pre-requisite(必修科目)には、生物学や動物学、人文科学と呼ばれる範囲の哲学や宗教学や人類学なども要求されており、本当に社会科学というのは真ん中らへんなのだろうな、と実感していたわけです。どうせ理系になるならば、医学や工学などをやったほうがオトクと考える人は多いのかなぁ・・・。いやぁ、all roundedな人間になるのであれば、真ん中はオトクなんだけどなぁ(苦笑)。

ちょっと考え込んでみて、最初に思い出したのは、「観察能力」。事実を事実として受け止める眼力ですかね。もちろん、その記録が次に来るんですが、視力がない方には障害となりますが、ここはちょっと我慢していただきたい。事実を事実として受け止められないのは、なぜなのか?マニュアルが徹底しているのであれば、A=Bであると決め付けるのは得意になって然りなのでは?と、不思議に思えるわけです。暗記な答えについては学力テストの中では、そこそこ上位に食い込んでいるらしい・・・。その理由を問われると、平均値まで下がるらしいのである。ニッポン・・・。観察すらしておらず、与えられたものを丸呑みして信じている段階なのかい?え!?と思えるんだけれども、英語講師をしていても、けっこうその功罪は見えているので(特に罪なほう)、やっぱり事実を事実として受け止めすぎており、その背景・理由などはあまり気にしてこなかったらしい。

たとえば、数日前の「崖っぷち究極問題」を出しても、質問をしてくる人はとことんいない。ゼロとは言い切らないのだけれども、ゼロに限りなく近い。たとえば、誰が地上に最も近いところに位置しているのか?だとか、木や岩の丈夫さ加減や、天候も聞かないし、時間も暗さも風向きも聞かない。どうもあまりに簡素だとしても、質問をしてはいけないことが前提になっているようである・・・。いけない、というほどの強い肯定ですらなく、与えられた物事の中で、というのがエチケットですらあるようだ・・・。最初に助ける人を選んだ理由についても、誰か他人を説得できるような熱意ある論理はほぼなく、母親の場合は「生んでくれたから」「長いあいだ慈しんで育ててくれたから」だったり、養女の場合は「考えた揚句養女にして、責任がある」「最も長く生き延びていけるのは彼女だから」というこじんまりした、誰でも思いつきそうな理由だったりする・・・。

まず、事実をすべて収集するということはあまり癖になっていないらしい<見解その1>。

事実をすべて収集したとしても、ネット社会などで見られるように、その情報処理が適切でないことはあまりに多いのである・・・<見解その2>。私の質問は「誰を最初に助けるか?」であって、「他の3人は見捨てろ」ってことでもなければ、「次は誰?」かもしれず、処理がうまくされないようなのだよねぇ・・・。

私は理科の観察がものすごく嫌いだったのです。カシオペアの移動を日記につける、などという宿題が出ると、自分の立ち位置を「この電信柱」と決めたはずなのに、厳密ではないがゆえにどの程度動いているかわからず・・・。あの木とあの木とあの木と月を参照にしていたのになぁ、などとすごいオマヌケだったわけですなぁ。その当時、空にマス目を描く方法を教師が教えてくれたならば・・・と、航空学校での空の領域を学んだときに思い出したくらいだったのですよ。さらに、動く理由についてもそれほど教えてもらわなかったことについて、空域の重大さを学んだことと引き比べると疑問に思えた・・・>ちなみに大統領が来たりするとローカルの空域は一時的に変わったりするのだ。困る(爆)。

どうやって背景や事情や条件を掴み、どうやって情報処理をするのがいいか?という方法論について、あまり小中学校でやってこないがゆえに、受験という理不尽すぎる制度にも抵抗せず、その精度にも疑問をあまり持たず、大人になって、理不尽を受け止めながら生きていくことで流されていき続けるんだろうなぁ・・・。

大義名分として、どうもごちゃごちゃしているのは、個性を伸ばすという不思議な括り目標。そもそも個性とは何か?に同一見解ができないまま、その個性を伸ばすというのは無理難題なのではないか?と思えるのだけれども・・・。

個性:個人・個物を他の人・物から区別しうるような、固有の特性。パーソナリティー。

その人だけがオリジナルに持っているもの、という幻想はあまり持たないほうがよく、実際は、いろいろな要素をどのような度合いで持っているか?というところが個性の観点なのである。得意なことを伸ばし、不得意なことを平均値にまで持っていく、ということを徹底して、それが実現したとしたならば、優秀面での個性が光っていき、劣性が全体的になくなっていき、能力そのものは上がる、という結果が得られるわけなんですが、そうも行かない。理想の世界であります。でも、目標や夢を持つことは悪くないんで、それはいいとしてみます。でも、自分の個性すらこうして曖昧なんだから、その事実を事実として見つめられる方法や、情報処理をする方法など、とてもじゃないが、親とてわかっていないのではないのか?

だから、学力が低下しただの、理科能力が低いなどと、事実を羅列して歓んでいる場合でもないんだろうよ・・・。私ができることは、相も変らず、英語学校で、みんなにとっての「目からウロコ情報」を教えて、動機付けをしっかりしてやる気をキープ・向上してもらい、状況判断やら理由付けをしっかりしてもらい、効率のよさや人間関係が円滑になるような英語を身につけてもらうだけなのだけれども、まぁ、楽しくやっています。

ちなみに、アメリカでは、子どもであっても、「その子は男?女?」と赤ちゃんについて質問したり、ノーベル賞学者についても「何賞?」「後継者はもう居るの?」と聞いてみたり、と、質問の嵐となります。それが事実を事実として受け止める最短の道なのでしょうねい。私は理科が得意だと気づけたのは、小さい頃から「なぜなぜ坊や」だったことと、アメリカに渡ってからパイロットなのに気象学や航空力学などをやったことによるんでしょう。しかも英語というロジックが整然と通る言語でやったことなのでしょう。

今でもなぜなぜ坊やが健在なので、TVの画面を見ていていきなり、図式化したら地デジはどのようにするのが最も万民にわかりやすいんだろう?などとひとりで考えています。島根県に住んでいる中学もロクすっぽ出ていない82歳のおばあちゃんに説明できるくらいの根気があるように、などと、ひとりで仮説質問を無理やり作ったりしています(爆)。少なくとも私の学力の低下は、認知症以外には阻まれないぞ!と意気込みつつ、お題を終えることにします・・・。

12/06/2007 にアップした文章です。

理科的な学力というのは何なのか?と、この理科離れについて今日は考えてみたいと思っています。なぜならば、暗記の答えはできているのに、ではなぜ?という論理についてわからない模様。マニュアルを徹底することで平均化を図ることには成功しても、その先がないんだよっ!ってことに、文部科学省の学習要綱には目覚めてほしいところ。まぁ、日本国民のほぼすべてがそれらの犠牲者なのですが、幸福の追求が憲法にて保障されている限りは、大人になってからはみんながそれを整備しようとするのは、大人の義務でもあるのであった。

理科:(1)学校教育で、自然界の事物・現象を学ぶ教科。(2)自然科学の学問。また、それを専攻する大学の部門。理学部のほか、工学部・医学部・農学部などを含めていう語。
⇔文科

どんなものをどのように分類しているか?ということからして、やっぱり手落ちは数多くあるのだ。これを参考にしてみてくださいまし。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%86%E7%B3%BB この中でもこんな記述は見逃せない:生徒や学生の気質としては、「理系は理詰めで厳密さを求めるが社会性には乏しく、文系はその逆」というイメージが一部に存在する。同様の類型化に、理学や哲学等の基礎学系は理論や手続き重視で理屈っぽく、工学や医学や社会科学等の応用学系は結果重視で必ずしも厳密さを求めない、とか、経済学専攻の人間は社会性があってつきあいやすいが、理工系は堅苦しい人間の集まり、というようなものもある。しかし、個々人の気質により大きな幅があり、必ずしも画一的にそのような見方は当てはまらない。これらはあくまでステレオタイプであり、個々人の性格を左右するものではない。

私個人は、日本の教育にどっぷり浸からせられており、アメリカに渡るまでは、自分は、理科科学は苦手なのだと、強くつよく思い込んでおりました。ところがぎっちょん、航空学校に行った途端、「数学も科学も得意じゃん・・・」と、自分の脳みそが吸収したのち、搾り出す答えに呆然と驚いた次第です。私個人は、心理学部でしたが、pre-requisite(必修科目)には、生物学や動物学、人文科学と呼ばれる範囲の哲学や宗教学や人類学なども要求されており、本当に社会科学というのは真ん中らへんなのだろうな、と実感していたわけです。どうせ理系になるならば、医学や工学などをやったほうがオトクと考える人は多いのかなぁ・・・。いやぁ、all roundedな人間になるのであれば、真ん中はオトクなんだけどなぁ(苦笑)。

ちょっと考え込んでみて、最初に思い出したのは、「観察能力」。事実を事実として受け止める眼力ですかね。もちろん、その記録が次に来るんですが、視力がない方には障害となりますが、ここはちょっと我慢していただきたい。事実を事実として受け止められないのは、なぜなのか?マニュアルが徹底しているのであれば、A=Bであると決め付けるのは得意になって然りなのでは?と、不思議に思えるわけです。暗記な答えについては学力テストの中では、そこそこ上位に食い込んでいるらしい・・・。その理由を問われると、平均値まで下がるらしいのである。ニッポン・・・。観察すらしておらず、与えられたものを丸呑みして信じている段階なのかい?え!?と思えるんだけれども、英語講師をしていても、けっこうその功罪は見えているので(特に罪なほう)、やっぱり事実を事実として受け止めすぎており、その背景・理由などはあまり気にしてこなかったらしい。

たとえば、数日前の「崖っぷち究極問題」を出しても、質問をしてくる人はとことんいない。ゼロとは言い切らないのだけれども、ゼロに限りなく近い。たとえば、誰が地上に最も近いところに位置しているのか?だとか、木や岩の丈夫さ加減や、天候も聞かないし、時間も暗さも風向きも聞かない。どうもあまりに簡素だとしても、質問をしてはいけないことが前提になっているようである・・・。いけない、というほどの強い肯定ですらなく、与えられた物事の中で、というのがエチケットですらあるようだ・・・。最初に助ける人を選んだ理由についても、誰か他人を説得できるような熱意ある論理はほぼなく、母親の場合は「生んでくれたから」「長いあいだ慈しんで育ててくれたから」だったり、養女の場合は「考えた揚句養女にして、責任がある」「最も長く生き延びていけるのは彼女だから」というこじんまりした、誰でも思いつきそうな理由だったりする・・・。

まず、事実をすべて収集するということはあまり癖になっていないらしい<見解その1>。

事実をすべて収集したとしても、ネット社会などで見られるように、その情報処理が適切でないことはあまりに多いのである・・・<見解その2>。私の質問は「誰を最初に助けるか?」であって、「他の3人は見捨てろ」ってことでもなければ、「次は誰?」かもしれず、処理がうまくされないようなのだよねぇ・・・。

私は理科の観察がものすごく嫌いだったのです。カシオペアの移動を日記につける、などという宿題が出ると、自分の立ち位置を「この電信柱」と決めたはずなのに、厳密ではないがゆえにどの程度動いているかわからず・・・。あの木とあの木とあの木と月を参照にしていたのになぁ、などとすごいオマヌケだったわけですなぁ。その当時、空にマス目を描く方法を教師が教えてくれたならば・・・と、航空学校での空の領域を学んだときに思い出したくらいだったのですよ。さらに、動く理由についてもそれほど教えてもらわなかったことについて、空域の重大さを学んだことと引き比べると疑問に思えた・・・>ちなみに大統領が来たりするとローカルの空域は一時的に変わったりするのだ。困る(爆)。

どうやって背景や事情や条件を掴み、どうやって情報処理をするのがいいか?という方法論について、あまり小中学校でやってこないがゆえに、受験という理不尽すぎる制度にも抵抗せず、その精度にも疑問をあまり持たず、大人になって、理不尽を受け止めながら生きていくことで流されていき続けるんだろうなぁ・・・。

大義名分として、どうもごちゃごちゃしているのは、個性を伸ばすという不思議な括り目標。そもそも個性とは何か?に同一見解ができないまま、その個性を伸ばすというのは無理難題なのではないか?と思えるのだけれども・・・。

個性:個人・個物を他の人・物から区別しうるような、固有の特性。パーソナリティー。

その人だけがオリジナルに持っているもの、という幻想はあまり持たないほうがよく、実際は、いろいろな要素をどのような度合いで持っているか?というところが個性の観点なのである。得意なことを伸ばし、不得意なことを平均値にまで持っていく、ということを徹底して、それが実現したとしたならば、優秀面での個性が光っていき、劣性が全体的になくなっていき、能力そのものは上がる、という結果が得られるわけなんですが、そうも行かない。理想の世界であります。でも、目標や夢を持つことは悪くないんで、それはいいとしてみます。でも、自分の個性すらこうして曖昧なんだから、その事実を事実として見つめられる方法や、情報処理をする方法など、とてもじゃないが、親とてわかっていないのではないのか?

だから、学力が低下しただの、理科能力が低いなどと、事実を羅列して歓んでいる場合でもないんだろうよ・・・。私ができることは、相も変らず、英語学校で、みんなにとっての「目からウロコ情報」を教えて、動機付けをしっかりしてやる気をキープ・向上してもらい、状況判断やら理由付けをしっかりしてもらい、効率のよさや人間関係が円滑になるような英語を身につけてもらうだけなのだけれども、まぁ、楽しくやっています。

ちなみに、アメリカでは、子どもであっても、「その子は男?女?」と赤ちゃんについて質問したり、ノーベル賞学者についても「何賞?」「後継者はもう居るの?」と聞いてみたり、と、質問の嵐となります。それが事実を事実として受け止める最短の道なのでしょうねい。私は理科が得意だと気づけたのは、小さい頃から「なぜなぜ坊や」だったことと、アメリカに渡ってからパイロットなのに気象学や航空力学などをやったことによるんでしょう。しかも英語というロジックが整然と通る言語でやったことなのでしょう。

今でもなぜなぜ坊やが健在なので、TVの画面を見ていていきなり、図式化したら地デジはどのようにするのが最も万民にわかりやすいんだろう?などとひとりで考えています。島根県に住んでいる中学もロクすっぽ出ていない82歳のおばあちゃんに説明できるくらいの根気があるように、などと、ひとりで仮説質問を無理やり作ったりしています(爆)。少なくとも私の学力の低下は、認知症以外には阻まれないぞ!と意気込みつつ、お題を終えることにします・・・。

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