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いくらあれば幸せを感じられるか

ヒトの歴史を見てみると、貨幣制度ができてから(貝などを使っていたのが最初ですけども)3千年ほどではないかと言われています。信用できるかできないかを簡単に見極めることができなくなるほどの人々とおつきあいするようになり、もっと洗練されていくことになります。

お金の歴史

地域による貨幣制度の図

そして私たちは今、物理的にはさほど意識ができないオンライン上でのやり取りを、仕事・商売上ではなく開始しましたし、今後ももっと違った形になっていくはずです。まぁ、オンラインが中心になっていき、もっと進化していくイメージでしょうか?

石器時代などに石とお肉の交換などをしていたことを想像すると、「目の前にあるモノに価値をつける」というのは割とわかりやすい。けれども、見えないものになっていくと、どんどん複雑化していく気がするし、うっかりすると意識化できなくなってきます。

他の社会の変形(進化と呼べるものもあるが退化しているものもきっとある)により、男女雇用機会均等法などにも後押しされ、女性も経済的自立が少しずつ易しくなってきてはいますが、親としての役割を外注や親族に任せる傾向も増えてきており、昨今では「実家依存」なる言葉も多くの人にシェアされています。専業主婦が実家依存をしているのはちと問題ですし、無料で自分の親に育児をさせて負担を掛けるのも問題ですけども、それは各家庭の事情もあるので、私がどうこう言える話ではないです。

が、ここで問題なのは、「お金を持っていること=幸せなこと」という錯覚を、多くの人々にもたらしていることです。

結論を先に出してしまうと、いくら、とたとえ決めることができたとしても、それを守れる人はあまりいないのです。「家の支払いが終わり、すべての年金や保険を払い、その後貯金が1億あればOKです」と例えば言ったとします。けれども、1億になったとしても不安は拭えず、あるいは稼ぐことがおもしろくなったり、仕事を辞めるとボケるのではないか?などと言い訳をして、やはり稼ぐことに邁進したり、貯金にこだわり続けていく人のほうが圧倒的に多いのです。

多寡についてはキリがないもので、潔く、その自分が決めた多寡で満足できることは、ある意味美徳です。

日本はギリシャやEU加盟国のような国自体が経済破綻するような状況には、そもそもなりません。国債の発行数や国民の貯蓄を考えると、楽観できます。とはいえ、災害など不測の異常事態が長く続いたり、その数が多ければわかりませんが・・・。

ここから来る不安もあるでしょうし、横並びに競争している状態が長らく続いている意識・文化なので、「いくらあれば幸せ」というのはなかなか決めにくいのかもしれません。

しかも!義務教育を含め、その後大人になってからも、商売・仕事としてその専門を目指さぬ限り、一般的にはみな経済的知識が低い・並み程度の人が多いことも、危うい理由です。

私個人は、お金を追求することはもう止めてしまいたいと思っています。スクールが成り立ち、自分については、今楽しく、将来分の不労所得を増やす努力をすれば、あとはきっと健康であればずっと働くしかない性格なのだろうから、と(笑)。健康ではない状態になるためにいくらあれば廻るのか?だけを考えるようになってきました・・・。お金持ちに、子どもの頃はなりたかったんですが、それはとても漠然としていて、車が欲しい・家が持ちたいなどではなく、「とにかくおなかいっぱい食べたい」でした。物欲は未ださほどなく、消耗品のための買い物すら億劫です(笑)。それこそ、保険・年金に変わる何かだけあれば、もういいかなーと思っていて、あとは不労所得の種になる、学びの仕組みやシステムをバンバン作ることを考えています(笑)。

生徒さんの中で、アメリカの不動産ブローカーが誕生したら、一切を任せるくらいに稼げるようになるか?うーん、ダウト!(笑)

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