好きなものだけに囲まれたあとはどうなるか?
ヒトの成長段階は大まかに分けるとこの3つだということは、折々触れてきました。右肩上がりにすくすくと成熟していくのが理想ではありますが、どの程度、自分の決断や行動を、好き嫌い・損得勘定で決めてしまっているのか?を振り返ってみるといいかと思います。
さて、このイチバン未成熟な段階での「好き嫌い」の好きなものだけに囲まれてしまうと、そのあとニンゲンはどうなってしまうのでしょうか?
「少なくとも嫌いなものに遭遇するまではとても倖せ」という結論に至るヒトは多いかもしれません。本当にそうでしょうか?
この段階に来るまでに、どのくらいの物事を捨て、どのくらいの人々を捨ててきたのか、というのが謎ではあるのですが、とりあえず刺されて復讐されない程度、と前提にして生きている状態だとします。本当に嫌いなものに出遭うことがない限り、倖せだと思えれば、それはそれでいいのかなぁと思います。
たとえば、日本を一度も出たことがないとか、自分の村や町を出たことがないとか、違うアルバイトや職業など嫌いだからやらないという、スポットのミクロのスケール感でも置き換えて考えることができますよね。
ここには狭すぎるMobility:いわゆる世界の広さを引き受けていかねばならぬ、という絶対条件が伴います。便利グッズもさまざまな技術や産業進化も、廻りのヒトが様子を見てくれて、好きだと思うものしか紹介しない、という・・・。
鎖国時代のような致し方ない状態ではなく、一切の嫌いなものを排除し続けるメンタリティは、健康とは言えない・・・。
ある程度の嫌いややらねばならぬことについて、どうしても動きたくないし、心が向かないからやらない、というワガママな子どもを、親や先生は叱りますよね・・・。なぜなのか?世界が狭いままではかわいそうすぎるからですし、本当にピンチになりやすい脆い状態、はかなげな状態に、自分を追い込んでしまうからです。
本当に自分の嫌いなものに出遭わないためには、普通や好きに対する尺度の細かい差や、嫌いではなくて、苦手など、詳細を見てみることが大切なのだけれども、やらないのかな・・・。やりたくないのか(笑)。嫌いなのか(笑)。
しかも!どんなに好きなものであっても、差異が感じられないほどに鈍い均一的な状態が続くと、飽きてしまうんですよね・・・。なので、さほど好きでもなくなってしまう悲劇が・・・。(・・;)
なので、多様性があるほうがいいのです。そんな環境で生きたほうが楽しいし、個々人の好きな塩梅をデザインできるわけです(^^♪ 好きなものだけに囲まれて暮らしていくなんてことはできませんのであしからず。
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