悪口の対象が、その悪口に伝わらないと思い込むのは少しばかりナイーブではないのか?と、悪口を聴くたびに感じてきました。私は割と早期に、だいたい13歳くらいのときに、「相手に直接言える悪口以外は言わない」というのを決めました。そして、タイミングや言い方を考えたのちに、感情に流されないようにして相手に伝える、というのを繰り返してきたはずなのですが、たまには失敗してきた(笑)。
でも概ねいい法則性だとみなしています。
悪口:他人のことを悪くいうこと、貶すこと、悪態をつくこと。古語の悪口は、言葉によって他人の名誉などを傷つける行為、もしくはそれによって成立する犯罪で、中世の日本では規制された。
- ライバルの評価を落とし、優位に立ちたい
- 手軽なストレス解消法
- 秘密の共有で仲間作り
- 常に満たされない、自己肯定感の低さ
- 憎悪に変わる嫉妬心
- 承認欲求からくる自己顕示
- 受け入れられない嫌な部分
- 自分を大きく見せてコンプレックス隠し
- 突き抜けた高いプライド
- 悪い生活習慣の一つ
について、説明があるので、ぜひとも読んでみてください。ご自分の傾向を把握できるかもしれません。
社会というのは、さまざまにユニークで特別な人々や考えで充ちていますが、なぜかヒトというのは不可思議に自分のことを好きすぎて、自分をとにかく贔屓(ひいき)しすぎるわけです。
よく悪口を言う人ほど「不幸になる」科学的根拠 楽しいのは一瞬だけ「人を呪わば穴二つ」
楽しく生きる悪口の作法を達人が伝授! なぜこの記事が介護に関係あるのかわからないままではあった・・・。(・・;)
自分の「正当性」について疑うことをクセにすることは、本当につらいと思います。なぜならば、ともすれば、単純に「私なんて・・・」という卑下に繋がり、追求することなく、完結してしまうくらいに自分のことを詳細に解析して、それを改めるために鋭意努力してみるのは、つらいことなのです。
つらくなくするには?
同じだけの量か数やマグニチュード、自分の本当によいところを噛みしめるといいのですよね。要するに、ひとつか二つくらいの深堀りです。考えを深くするといいことだらけで、浅はかに他者の悪口を言って、自分のことをますますピンチにする必要がなくなる、という仕組み。
自分の悪いところといいところを、同じくらい、並列できるかどうか?そうなると、いいところと相殺のZERO状態に我慢できない気持ちになり、少しくらいならば努力してみてもいいかな、と思うようになる・・・。すぐにできる、さほどの負荷がない努力を編み出してみるために、もう少し考えてみる。
こういういい循環を作り上げれば、他者の悪口を言うことで、自分の憂さを晴らす理由もなく、パワーゲームから完全脱退することが可能になっていきます。ものすごく面倒くさいパワーゲームの比較で脳のエネルギーを使うよりは、自分が本当に倖せでストレスフリーになるために、脳のエネルギーを使っていくほうがラクです(^^♪ そうなると、どんどんと「相対評価」から抜け出せる瞬間が増えていき、「絶対評価」に寄っていくようになります。もう悪口なんてどうでもよくなってきて、「そういうヒトもいるよね」などとなっていき、「自分のそばにはいないからラク!」と思えるようになっていきます。たとえ物理的にそばにいたとしても、精神的にそばにいなければ問題ないですしね。
自分にとっての悪口はナニなのか?もしもリスクを引き受けて悪口を言うのはどういうときなのか?など、ルールを決めてみてくだされ <(_ _)>
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