誕生日
父 12月29日 母 1月28日
命日
父 1月30日 母 2月9日
やはり冬に凝縮されていたのか・・・。涙の量が増えるはずだ、冬・・・。しかも寂しい気持ちにもなるはずだよねぇ・・・。遠く離れていたときには気にしていた、そばにいるときにはわざとらしくはならぬようにちょいとだけ祝った誕生日が2つなくなり、代わりに命日に花を飾ったり、お線香をモワモワ炊いたりしつつ、鈴を鳴らしているだけだし・・・。。(・・;)
父はいつも自分の誕生日が年末だったことを恨めしく思っていたようで、それでも家族中が年末年始に顔合わせをしたときに、誰かが何か誕生日について言ってくれることがあると、顔に朱が差すようなかわいらしい歓び方をしていたことを想い出します。
私が生まれてから部活動が忙しくなる中学生まではずっと、年末はクリスマスかその前から年明けのお休みが許すまで、1週間から10数日間、父の田舎である長野県飯田市龍江というところに出かけていたのです。車に荷物を積むのですが、我が家から田舎におみやげにするものはさほど多くなく、帰りはその空きがないほどに詰めてもらっていたことを想い出します。お餅や野沢菜の他、本当にたくさんの食べ物をもらっていたことを、なつかしく、父や母の笑顔やお礼を深々としている姿と共に想い出すのです。
私たちもお年玉を親戚中の叔父・伯父・叔母・伯母の他、近所に住んでいる顔見知りのおじさんとおばさん、おじいさん、おばあさんにももらえるし、一遍に数万円も貯まることが信じられないイベントでした。
私は昔からお金にさほど執着がなかったので、両親に半分以上をあげてしまっていました。生活がラクに廻っているわけではないことを知っていたのです。その後、高校生になってからは速攻でアルバイトを開始しましたし、バイクも車も学費も自分で賄ってきました。両親からは一度たりともお年玉はもらいませんでしたし、クリスマスプレゼントは生涯でただ一度。誕生日プレゼントは食べ物でした。でも、私はどうしても何かしたいなと思うようになって、実際にできるようになった頃には、渡米して別々に住んでいたのでした。
そして、父は逝去し、母と再びいっしょに住めるようになって、外食やちょっとしたプレゼントができるようになったのも束の間、いっしょに住んだ12年のうち、圧迫骨折が4回、難病のような痛みで原因がわからなかったのが1回、その後、認知症が始まり、外食を楽しめなかったり、物理的に時間がなくなってしまい、すべての12回をお祝いするほどの誕生日のゆとりがなかったです。ごめんね・・・。ただ、亡くなる直前の1月28日は、白ワインもケーキもあったのがうれしかったよね。お刺身も食べたし(^^♪
私は自分の誕生日を忘れる日々を過ごしてきました。今年はどうなることやら。また忘れるくらいのほうがいいな。




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