友だちがひとりもいないという究極の状態は、特例を除いてはないと思うんですよ。お仕事をしていたり、学校に通えていたり、学習をしようとしていたり、ネットでいろいろ調べている生活の中で、友だちZEROという状態はないと思うんです。特例の場合であれば、ヒトというのはひとりぽっちでは生きていけないので、家族や行政などの介入があることを祈るばかりです。
たぶん、この悩み事の正確な心の吐露は、「一体感をシェアできる友だちがいない」とか、「心から笑いあえる信頼できる友だちがいない」とか、「表面的な友だちしかいない気がする」ってことなのじゃないかと・・・。
だとしたら気持ちはうーんとわかる!
ただ、これについては、考え方=認知の問題があると思うんですね。
私個人も子ども時代から、習い事がいっしょにはできなかったり(貧乏だったから)、長じてバイトが忙しかったり、渡米してしまったり、友だちには決して恵まれた環境ではなかったです。言い訳ではなくて、本当に自分に向き合い続けて生きてきました。どこかに行き、誰かとその場でそれなりにうまく行き、すぐに忘れ去られてしまうことについて、私はそれで大満足!をしてきました。
時間軸を長く持ってみると、やはりヒトは人生のある時点時点で変わります。私が自由に自分の暮らし方を選んできたように、他のそれぞれの個人もみな同じ自由な権利があるわけですよね。他の誰かに出遭い、もっと楽しいこと、倖せに満ち足りたことがあるはず・・・。私がそのヒトに特化したあふれる愛など、自分に向けられる以上のものが差し上げられるはずもない・・・。
もし、あると思い込んでいたら、それはそれでとっても傲慢だし、自分に対しての過大評価がすごすぎるし、問題がないでしょうか?
逆に、誰かにそれを求め続けるのも違う・・・。自分は差し上げられないかもしれないのに、相手からもらいたいと望んだり、期待したりするのは、やっぱり違うと思いませんか?じゃなければ、「信頼」というヒトとしての道義が通らない。
しかも、その人と会える時間、シェアできる時間は、大人になればうんと限られてきてしまう。生活の糧を得なければならないし、知り合いの数は増えますしね・・・。放置されて気分がいい人など、あまりいないと思うんですよ。
つかず離れずがよいのであれば、自分がヒトとして、ひとりをどれだけ満喫できるのか?という能力をうんと伸ばしたほうがオトクなのではないか?と、私は10代のうちに開眼してしまいましたよ。(・・;) それゆえ、ボーイフレンドができてもねっとりとくっつかなかったし、むしろ「愛されているか不安」くらいなクレーム来ましたもん(笑)。
割り切って、旅行に行くなら、食べ歩きするなら、恋の話なら、趣味をいっしょにするなら、買い物するなら、などなど、「いいところ取り」が、結果的に相手にも同じだったら、それは「行ってー来い」の対等ないい関係だと思うんですね。
日々の少しだけのふれあいの中、とってもいいモーメントがいくつか拾えたりすると、それは「おまけだけどすごい!」ってことになるといいな、と、それこそ祈るばかりです。
そういう意味でいえば、生涯通じてずっと心が通わせあえて、信頼が揺るぎないなどという友だちは、すごく少なくていいんじゃないでしょうか?変わってしまった・・・と嘆く必要なんてないですし、親友だったのに、と恨む必要もない。生涯でひとりかふたりくらい見つかれば、本当に自分の人生も充実させて、他者が一生懸命営んでいる人生についても脱帽したり、賞賛できて、いいところだけもらえればいいな、という謙虚な気持ちでいたら、もっとラクになると思うんだけどなぁ・・・。
たまに会っても昨日の続きができる友だちができるといいですね(^^♪
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