私は割とはっきりと物事を明確に表したい性質(たち)なのですが、この距離感を細かく言うことについては、「もっと細かくあったらうれしい!」と日本語の質について考えてしまっています。英語ではもう少しLow contextで話せるからなのでしょう。
たとえば、日本語でモノや事を「愛してる」というのはさほどない表現で、かなり最上級に属すくらいのレベル、滅多にない感じ、というニュアンスで、文化的に、個人的に使わない地方で生まれ育ったり、後天的にも採り入れない人は多いんじゃないかと思うんですね。
それと同様に、避けたい・距離を置きたい、ということに関して、かなりHigh context;幅が広い感じの表現のほうが多いんだろうなぁ、と。それなのについ最近、同居人に「好きじゃない」と私が言ったことを「嫌いな人多いね」と言われてしまったのでした(笑)。私は人に対して「嫌い」をほぼ使わないため、「好きじゃない」を使っていることに、彼はまったく気付いていなかった!(*_*)
この「好きじゃない」と「嫌い」の差すら、かなり大きいはずなのに捉えられない人は、その分野に関して苦手なのか、他者の感情や考えについて聞く耳を持っていないのか、かなり感情的に主観的に捉えているのか、よくわからなくなってしまうわけです。
実際に私は、人を嫌いになることは稀で、世界でも数人くらいしかいないと思います。たとえば、Saddam Husseinのことが嫌いでした。他者の生命を軽んじて、虐殺をし、しかも大勢の生命を奪うような人。自分の欲に正直すぎるのでむしろいいじゃん、とは思えるレベルではない被害です。なので、彼の長きに渡った政権が終わり、世界的に罰せられたときにはかなり安堵したものです。
広い意味で言えば、「好きじゃない」を人に対して使うときは、「知り合いになって自分のテリトリーの深間には入ってほしくない」という意味で、特に知り合うことそのものを拒否はしていないです、私個人は。「嫌い」な人は、断然遠くにいてほしいですが、「好きじゃない」な人は様子見をして、確認すべきなくらい細かな部分に興味が持てないくらいだな、と。表面的に私に見えている部分に、大いに共感できないだけで、ひょっとするとまだ余地がなければフェアじゃないんじゃないか、と思うわけです。
でも日本語だとこのように、「知り合ってもいいけど自分の領域にぐいぐい入ってほしくはない」とはっきりめに言うと、「何様?」などと言われてしまうので、High contextの「好きじゃない」を使うんでしょうねぇ・・・。
しかも「好きじゃない」が自分の苦手意識を包含することが、正しいのか?フェアなのか?を考えると、ここでは「得意じゃない」「積極的にdo したくない」とは言えないのかなぁ、言ってはいけないのかなぁ、などと考えてしまうのでした。そこはあなたのことを細かく知りたいわけじゃないので、細かく言わなくていいから、っていう場面の方が多いのかなぁ・・・。
そして私はやはり人に対して「嫌い」と言い切れる存命の人はほんの数人しかいないことに安堵しています。
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