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落書き文化

正直、私はパブリックな場所に落書きをした記憶がないです。相合傘なんて書くことは、むしろかっこ悪いことだと思っていたし、移ろいゆく物事を、瞬間や衝動に近いもので表現するのは、ちと苦手・・・。イタリアの大聖堂やドゥモゥに落書きをする観光客が増えており、それがクロースアップされていますが、モラルアップのための、抑止力としての報道はいいにしても(効果に関しては疑問が残りますが・・・)、あの代表者制裁態度というのはどうなのかなぁ・・・。高校野球の監督さんが解任されたということらしいのですが・・・。どうせなら世界各地に落書きしたヒトを募って、みんなで募金をするなり、落書きを消しに行くなりするツアー開催なんてどうなのよ?げ・・・、私はあまりにシニカルすぎなのか?

私がやってこなかったからと言って、この分野はなんとなく考えないままに来たなぁと思う。落書きにしても深いなぁ・・・>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%BD%E6%9B%B8%E3%81%8D 

確かに歴史学や民俗学や考古学でも、かなり重宝されている分野ではあり・・・。心理学的にも、描くことにより心の中を捉えてみようという手法はあり・・・(私はこの統計学的なばらつきに関して、正確性において疑問を持っています。しかも絵が描けないヒトはどうしたらいいのか?という不思議があり・・・)。芸術性が高いものが描けるヒトにとっては、世界中がキャンバスなのでしょうが、他人のモノと自分のモノの区別は、つけなくていいと言い切ってしまうのは、ちと無責任かとも思うし・・・(どうしよう、と正直迷う・笑。私は自分はやらないけれども、芸術性を求めたり、はけ口としていたずら書きをしたりするヒトたちを否定したくはないので)。

私は絵が描けないので、字をひたすら書いたのですが、それは家の中と決まっていました。蝋石というのがあったのですが、それはお小遣いが1日10円の日々、その10円がふっとんでしまう高さで、わりとすぐになくなってしまうので、天国地獄やら、バレーボールやら、必要な線を地面に描くのに使われたのです。私個人は、よその子どもたちとは違い、クレパスやクレヨンや色鉛筆など豊富に使えなかったので、しかも、絵が苦手だったので(爆)、近所の壁などに何かを描いた記憶もありません。むしろ、樹木にカーヴィングをしたという記憶のほうが強烈に残っています。私の木、というのがあったので(イヤ、実際は植木屋さんの木なんだけどね・・・)。

字の練習をするのに、広告の裏面を使ったりしており、それに飽き足らなくなると、ふすまというふすま、壁にも字を書くことになるのですが、それに辟易した母が、表面がつるつるの合板を買ってきて、トイレの壁に張り、そこにしか字を書いてはいけないことにするわけです。辞書を片手にいろいろな字を書きましたねぇ・・・。今思うと、どうして絵ではなかったのか?と、本当に不思議でなりません。

未だにいろいろな人に笑われるのが、私の絵で誰かにわかってもらえるのは、花だとチューリップとひまわりのみ(爆)。動物だとキリンとネコだけ。犬を描こうとすると、クマなんだかタヌキなんだかわからないようで・・・(汗)。でも、字を書くのは、ホワイトボードを商売道具として買ってからも好きだなぁと実感しています。特に字がきれいなわけではないのですが、意味があるこの字というシロモノに、たいへんな深みをイチイチ感じるわけですよ。絵心が育っていれば同じことを感じたのかなぁ・・・。

絵が下手なせいで絵をパブリックな場所で落書きすることはなかった・・・。では、字はどうなのか?壁に順位を書いたりすることはあったかもしれないし、正の字を書いたことはあったかもしれませんが、「私はここにいる」という手合いのことを書いた記憶はありません。黒板に書いたあとに消すということなら、よくやりましたけど・・・。

そもそも、観光地に行くということすらしたことが数えられるほどしかないですし、そのときに落書きができるようなペンやエアゾールスプレーやその他の便利な書き物を持っているなどということはありえず・・・。修学旅行や観光地で、どうしてペンがあるのだろうか?と、むしろそっちのほうが素朴な疑問です・・・。私が貧乏に育ったせいで、落書きも制限されたということなのだろうか?イマドキだったら、ペンなどは誰でも簡単に手に入るということなのか?観光地に落書きできるようなペンが売っているわけはないと思うのですが、売っているのだろうか?

ちなみにアメリカも落書きが多い国です。表現したいという渇望に、ちょうどいい手段なのでしょう。立ち止まって見惚れてしまうほど、上手なものはけっこうあります。Vandalismという言葉が示すように、「文化・芸術の破壊。蛮行」という要素があるのです。Graffiti(落書き)もあるひとつの文化ではありますが、既存の文化を覆い隠すようにして主張してしまうと、確かに破壊行為なのかもしれず・・・。

アメリカでびっくりするのは、フリーウェイの高架に絶妙に描かれたもの。絵だったり、ポップアート風の字だったりしますが、たいていはスプレー缶を使って描かれています。あの高さにどういう姿勢で描いたものなのか?と想像すると、ものすごい情熱と時間と体力と才能が必要だったんだろう・・・ということに、まず驚きます。街中にある壁などに描いているヒトたちよりも、もっと情熱が必要なんだろうな、と。

日本でも暴走族が、「○×参上」などとよく足跡残しをしていましたが、私はアレをかっこいいと思ったことが一度もなく・・・。10代の頃から醒めていた私は、「ねぇ、2・3年経ってこの行為に恥を感じないわけ?」などと思っていたのであった(爆)。私にとっては、政治家のポスターなども似たようなもので、そりゃー宣伝活動としては大切なのだろうけれども、「2・3年とは言わないけど、数年経ってもここに書いてある文言は有効なわけ?」と、やたらと醒めて見ています・・・。

私のエッセイは、もう1000を超えたんですが、たいていのものは有効だと思うんですね。イチバン古いものは、10年くらい前のものだと思うんですが、当時考えていたことが、今は発展版になっているというのが目論みで、目標です。基礎的なことでドラマチックに変わったことはほぼないと見ています。なので、落書きと同じではないと思いたい・・・。けれども、作家のようなすごいプロットを練った、登場人物のしっかりした、フィクションを書けるわけもなく、今に至っています。私は自分のエッセイを落書きとは思っておらず、書付よりももう少し発展したものだと思いたい。望むのは勝手だよね(爆)。

ただ落書きができてしまう人々に対して不思議なのは、何百年も数千年(まぁ、2000年以上古いものはなかなかないと思うけど・・・)もの歴史が詰まったものに、微小な自分の名前やらその主張をどうして刻めるのかなぁ・・・という自負。私の場合は、こうしてインターネットの片隅にエッセイを溜め込んでいるわけですが、とりあえずパブリックの中で書いていい場所なんで許していただいています。しかも、自分が微小な存在だということや、自分の考えはあくまで自分のものだということは、痛いほど理解していますし・・・。自分が作れるわけもない建造物や遺物に、どうして自分の名前や主張を刻めてしまうのか、それは正直、インタビューしてみたいところです。私には、レミントンやウィンチェスターのライフルを収集するシュミもないですし、ステンドグラスを集めることもできないですし、本ですら図書館でいいと思っていますし、モノを作るなんてとんでもないことなので、作ったものに対しての敬意というのは、所有すらしないことでもわかるように、大いにあります。自分の存在をそれほどアピールしたいのはなぜなのか?世界のどこかでこの時代に確かに生きているよ、ということを主張したいのであれば、きっと他の形でできるだろうに・・・と思うのではあります。

でも、まぁ、文化にしても変化しないものなどないわけで、文化・芸術の破壊も大いにけっこうなのか?うーん、私は宮大工さんしか作れない建物や、今となっては材料も代替でしかないものなど、貴重だからそのまま残してほしいなぁと思うんですが、古い人間なのか?

とはいえ、スケジュール表をパラパラと見ていたら、わからない記述がいくつかありました。落書きと似たようなものになってしまっているのか?とりあえず意味をなさないので、消しゴムで消しておきました(爆)。

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