隣人に愛を

2008-11-02にアップした文章です。

やはり知らない人と話をしてはヘンですよねぇ・・・。東京に戻って来てからは、知らない人と話すと、こちらが危ない人に思われるので、極力避けてはいるのですが、どうしても物足りない・・・。それは、私も昨日書いたように、習慣に支配されているからなのでしょう。在米生活に慣れたあと、私はずっと知らない人とも話してきたわけで・・・。安全な環境を確保できている場所では、誰かと会話を交わすというのは、なかなかいい考えだと思うのだけれども、どうも日本ではなかなか浸透しないようで・・・。私ひとりで運動をしていいのは、不買運動(ボイコット)や、ネコを犬化する推進委員会くらいで、全面的にどうこうしても意義はあるのかどうか、ちとわからない・・・。英語は学校化することで少しは浸透すると思うのですが、コレについてはどうなのだろうか?(笑)

 

が、私は駅のホームでも、街中でも、けっこう話しかけられるやつではあります。子どもたちは自由なので、けっこう私に話しかけてくれるのです。あとは、道に迷っている方も私はけっこうターゲットになるようです。まぁ、服装などもあるんでしょうけれども・・・←ほら、かっちりしたスーツを着ているわけでもなく、化粧をカキッとしているわけでもなく、ハイヒールでもないので、ゆるめの人間で時間に焦っているようには見えないという利点(笑)。

 

アメリカに居るときには、はじめ、「私って隙だらけなのか?」とよく思っており、それが全体的な文化なのだと気づくまでに、少し掛かりました(笑)。スーパーに行っても、ガソリンスタンドでも、図書館でも、寮でも、どこでも話しかけられて、それに応える技量(英語の会話力と背景をしっかり掴んだ応答のための知識)がなかったので、けっこうドギマギな日々でした(笑)。が、一旦身についてしまうと、こちらから “Good Morning!” “How’re you doing?” を言わないわけにはいかず、レジの女性の爪がきれいであれば、それを褒め、髪型や色についても尋ね、安いお得なセール品についても答えたり訊いたり、まぁ、世の中はまったく捨てたもんじゃなかったのです。公園でウォーキングをしていても、チワワやロットワイラーやべグやその他、いろいろな子たちの名前を訊けて、そのユニークさに感服したり、次に出会ったときにその子たちの名前を憶えているかどうか?の自分の興味度にも繋がり、まぁ、日々はとても楽しくなったのです。学校でも同じことで、わかったかわからないかのチェックも、隣に偶然座った人に訊くこともできましたし、道を尋ねるなどはフツーに行われており、スーパーでも背の低い人には割りと高かった私は所望の品を取ってさしあげることができたし、卵のいろいろやら、昨今の風潮などを会話できたのです。まったく知らない人に対しても、安全な場所だとみなされている場所では、話しかけることができたんですが、東京はダメらしい・・・。

 

これ、けっこうなストレスなんですよね。隣人に愛を、というのは、隣人から愛をもらえる、という裏返しで、どうしてこんな世の中なのか、ちと不思議になりつつあり・・・。

 

私の住んでいるマンションも、隣は大家さんの息子さん夫婦で、その向こう側が1階で中華料理やを開いている自治会の副理事長さんなので、よく話すのではありますが、いかんせん、顔を合わせる回数は少ない。エレベーターで住人に出会う時間帯に、私はあまり利用していないらしく、それほど遭遇しない・・・。しかも水曜日の朝の企業研修に出る朝はちょうど7時頃にここを出るので、調布だと首都圏までそれほどかからないので、ちょっと出社時間には早いようなのです。ほぼ無人で、商店街の通りを歩いている人たちもかなりまばら。電車もそれほど混んでいない・・・。ちょっと洋服が触れる程度が保たれるって感じ。私が行っているのは内幸町なので、神保町まで1本でそのあと3駅なのですが、都営三田線でもやっぱり触れる程度。朝の8時10分までに出社している人たちは、激減なのでしょう。フレックス採用している会社も多いし・・・。

 

そんなわけで、私は知らない人そのものに出遭うことも少ないのですが、歩いている人々に話しかけられるようなこともあまりなく、停まっているときに道を尋ねられる回数はけっこう多い。今、常勤の英語学校には週に3回しか行っていないのですが、プラス朝の企業研修で4往復しか電車には乗らないのですが、それでも週に1回くらいは知らない人に声をかけられます。けっこう多いんじゃないかと思っています。

 

隣人に愛をもらえる瞬間ではあるので、楽しんでいるのですが、もっと話しかけられないかなぁ(笑)。

 

子どもたちはなぜか私の顔が好きです。電車に乗る時間がかなり曖昧で、混雑する時間というのは、その朝だけなのですが、平日の昼や夕方などはけっこう子どもたちも利用しています。ベビーカーごと乗っている赤ちゃんや、その周辺にいるお兄ちゃんやお姉ちゃんたちには、必ずといっていいほど、じーっと見つめられたあと、ちらちら見られることになり、お母様たちがおおらかな感じだと、持っているおもちゃや本を見せてくれます(笑)。そうなると話ができるのですが、そうならない場合のほうがずっと多い・・・。アメリカでは、しょっちゅう話していたんだがなぁ・・・。街中でも同じことで、スーパーなどでお母さんから少し離れてしまって、好き勝手に商品を見ている子どもたちは、なぜか私に質問をしてくるところがかわいい(笑)。「これ、欲しい・・・」と言われると、「おかあさんに置いてかれちゃうよぉ!」とごまかすのですが(笑)。

 

なぜ子どもに話しかけられるのか?は、すぐに目線を下げるところにあるのだろうと思うのですが・・・。そして、目線があったら、上から見るのではなく、同じ目線まで体勢を下げるのですね。なぜそんなことをしちゃうのかって?わからん・・・(爆)。たぶん、私自身、触れ合いたいからなのでしょうねぇ・・・。

 

飲み屋やレストランでも同じことで、まず従業員さんには必ずといっていいほど話しかける(笑)。でないと、「ただの通りすがり」(まるで30年くらい前に流行った『異邦人』という歌の歌詞なのですが・・・)だけで済まされて、エクストラサービスがもらえない。この場合、お通しが欲しいとかそういうことではなく、情報ですね。お鮨やさんであれば、「ナニが活きがいいよ」だとか、レストランであれば「セットでこれが」などということ。気づいているようでも気づいていないことを教えていただけるのであれば、挨拶してちょっとした疑問を聞いてみるのは、とってもいいコミュニケーションだと思うのです。隣人から愛をもらうためだけにやっているのではなく、働いている人たちも働き甲斐があるというもの。私は、英語講師をする前には、ウェイトレスが天職だと思っていたのですが、ウェイトレスだった頃のドキドキ感は、どんなに忙しくても一人ひとりのお客様のニーズに応えられたとき。それには会話は不可欠でしたからねぇ・・・。超能力者ではないので、話していただいたほうがラクだったのです。

 

間違えてアンケート調査のために町に立っていたり、ティッシュを配っている人に話しかけるようなことはないので、ご安心を(笑)。それじゃ、あまりにあやしすぎる・・・(汗)。が、知らない人との会話があると、エクストラの愛で交歓できた気がして、どうもいいのですけれどもねぇ・・・。ゆとりを生むのは、こうした日々の行為から、だと思えてならぬのです。

 

昨日も学界論文の英語部位を添削する生徒さんのレッスンをしたのですが、その大学の年齢の行った先生たちは、自分のArgumentに付け加えて、「家族団欒をして過ごすと、二酸化炭素の排気量が減るばかりでなく、家族のコミュニケーションが増える」などと書いており、後半はまったく論文に関係ないことを書いてしまっていたのでした。が、気持ちは痛いほどわかる・・・。が、論文なので、それに関した資料をくっつけない限り、ダメだから・・・(苦笑)。

 

というわけで、やっぱり私はヘンなのかもしれないと意識しつつも、知らない人との会話を求めて止まない日々が続きます・・・。

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