蓄積の妙

10/06/2007 にアップした文章です。

 

私がいつも繰り返し書いていることに、「人間は積み重ねの存在」という大前提があります。コレを芯から理解していれば、老いる恐怖やその他付随してくる社会的評価などは、かなり軽減されるはずなのですが、どうも煩悩は果てしなく食い入ってくる。うーん、やはりヒトは弱いのですなぁ。強いけれども、弱い。何を積み重ねてきたのか?ということを、そもそも整理してきていないというのが、最初の躓きです。あなたは自分史を書けますか?

蓄積:たくわえること。たくわえ。
積み重ね:(1)上へ上へと重ねて高くする。(2)物事を何度も繰り返してふやす。

ところが、この積み重ねはいいことばかりでもなく、今後の積み重ねをやっていく中、邪魔くさいものがたくさんあるはず。「存在したこと」を掻き消すこと=キャンセル=削除はできないものの、してきたことを繰り返さないことはできる。が、なかなかヒトはその決心に至らない。私のタバコがいい例なのだ・・・。が、ネガティブばかりではなく、積み重ねてきた中に、宝物がたくさん詰まっていることにも、自分で気づけないでいることが多いのも事実。

どうしたらいいのか?まずは、自分史を書いてみるといいのかもしれない。私は、将来的には、ドリル方式にしたこうした自分史を簡易的に書ける、記入方式の著作を出したいと、長年思ってきたのです。どうしたらそれが実現するか?を模索してきて、「きっとできる」というところまで、やっとこぎつけました。あとは、「きっと」を「必ず」に変えることなのですが、その準備は着々と進んでいます。いつか誇らしげに発表できたらいいなぁと思っているところ。ところが、今はまだそれを発表できないので、やはりコマメに自分史を書いていただくしかなく・・・。

そこでちと気をつけていただきたいのが、自分にとって都合がいいように、記憶を改ざんすること。本当の意味での「明日のためのよりよき記憶改ざん」であれば、私は特に何も言わないのですが、間違った自信を持ったり、他人を蹴落としたり貶めたりする記憶改ざんというのは、ままあります。それほど多い例ではないと、素人に思えるのは、「イヤな記憶をなかったことにすること」で、たとえばいじめに遭ったことなどを、大人になってからすっかり忘れることがあります。あるいは、そのいじめに遭った理由についても、Self(自身)を守るために、それほど追求することなく、タッチしないままに過ごしてきたせいで、事実が変わることはあり。生き延びていくためには、こんなことはしょっちゅうあることです。理由についても、自分を責め続けていくとうまく生きていけないので、他人にもその責めを負ってもらうことがよくあります。

私も、自分に都合のいいように記憶を改ざんしているところがあるのでは?と、冷静に考えるのですが、こう考えられるうちは、おそらくそれほどひどい改ざんをしているわけでもなく、事実を事実として受け止めることはできているのではないか?許容範囲なのではないか?と、自分について考えています。特に、PTSDの原因になったことについては、自分を責めすぎてなかなか日常生活に戻ることができず、いつしか3年近い歳月を棒に振ることになりましたから、逆に、加害者や周囲にも少しずつ責めを負ってもらえたら、と、セラピストのアドバイスもあって、わざと努めたようなところがあります。

Freudを中心に精神分析をしていくと、親が必ず悪者になることに相場が決まっており(笑)、それじゃー、あまりに世の親はかわいそうである・・・。私は親になるという選択をしなかったせいで免れていますが、特に私のような子どもを持った母などは、目も当てられない被害である(笑)。整合性をどうしても求めてしまう私は、何もかも親のせいにはできず、Freudを活用できないでいます。ただし、ここのところの母の口数の多さを言及しているのは、やはり疲れがたまっているせいなのか、文句ではなく彼女のよさを受け容れているつもりでいますが、女々しいようであればご指摘ください(汗)←女だから女々しくていいとおっしゃる方もいるのでしょうが、私はこの女々しいという形容詞が符号する人間ではいたくないのだ。嫁ぐなどと同様、女をバカにするような単語ではありますが、ここは流しましょう(笑)。

犯人探しの構造は、おそらく本当の論理性までに到達するための、発展途上だと思われます。しかも、過去はどう考えても変えることができず、その存在そのものは否定できないので、なかったことにしたりする努力をした揚句、それが不可能だとわかると、理由に手をつけてみる。それもダメだと、積み重ねなので、親の育て方にまで手をつけてみる。

ただし、本当に重要な事件が起きていることはあるんですけどね・・・。殺してしまったほうがいい親や、死んでくれたほうがいい親というのは、たまにですが、実在しますから。さらに、レイプや強盗や殺人未遂などに遭遇することも、やっぱりありますから。

同じくらい大切なのは、自分がしてきたことを積み重ねの中で軽視していることが多い。よりよい改善点が見つかるかもしれないし、すでにやっているいいことについて、自分を褒める材料があるのに、放置。私が英語を教えている中でよく尋ねる初歩質問が、「電話は右で取る?左で取る?」なのですが、けっこうやってみないとわからないらしい(爆)。自分について、つくづく考えてみることがないといういい例です。手のことが済むと、足のことを聞くのですが、そのときに、パンツやジーンズを履いたり脱いだりするしぐさをするのにはけっこう笑えます(爆)。

見ている側からよくわかるのは、口癖です。他にもいろいろなジェスチャーがありますし、行動についても見えるものは見える。ただし、限られたセッティング(場所・状況)であることは考えています。意外な一面が見えるとうれしくもあり、褒める材料がさらに増えることもあり、他者をObserve(観察)する分にはキラクなのですが、自分が観察されたらどうなのか?(苦笑)

私はわりと自分の無意識行動をわりと知っているほうで、やはりコレも心理学を学んだおかげなのでしょう。メガネを上げるしぐさをメガネを掛けていなくてもしていますし、眉間にすぐしわを寄せますし、腰のアジャストメントはしょっちゅうしています。水は山ほど飲むし、タバコはつけたら必ず吸って放置はしない。ボードに字を書いても、句読点はつけない(この前、いちいちつける人を見てものすごい気になったのだった・・・)。他人ががんばっている姿を見ると、どうしても力んでしまう(赤ちゃんを見てるとその傾向が強くなる・・・)。などなどに代表されます。

他にも美徳と言える部分は、自分でかなり知っているつもりでいるのですが、まだまだタッチしていない部分があるだろう、と、まだまだこのエッセイは続いていくわけです。蓄積の妙を、書いて理解する行脚の旅は、果てしないのです。

私は生徒さんに、非公開の英語ブログを書いてもらうことをオススメしています。が、PC環境や使用率が高い方にのみ。わざわざ立ち上げるのが面倒という人たちにはオススメしていません。が、私にURLを教えてもらえれば、コメント欄に添削ができるので便利です。コレも記録を残しておくという蓄積。日記を書くというのは、絵日記でなければ私としてはいいことだと思えるのです←絵日記がいい方はぜひぜひ♪

火曜日は、1000円エステに行くことになっています。キャンペーンの一環らしいので、その先に商品売りつけがあるに違いないのですが、頑なに断ってきます(笑)。やはり老いに関しての恐怖なのか?いえいえ、人前に出る商売なので、必需と思い、ちょっと肌のコンディションを見てくる、という程度の軽い気持ちです。あとは、腰をやってしまったのでたまには他人に触ってもらう心地よさを再認識してしまったせいかもしれません。老いることはもう恐怖でもなくなってきましたねぇ。母の遺伝子を半分もらっていると思うと、私の場合は、たいへんにキラクです。よかった♪

 

英語に向かう望ましい姿勢とは?

Precious One English School では、フツーの英語スクールとは違い、15の心理レッスンを入れ込んでいます。なぜならば!認知をぜひとも変えていただきたく、その後、しっかり行動も変えていただきたいためです。認知としてはわかった。でも心が納得しない。だから行動に移せない、という方々のために、グループで刺激をし合ったり、追い打ちをかけるためのプログラム構成にしてあったり(笑)、行動に移す機会についていろいろ考えてはいるのですが、強制することだけはしたくない、と思っているわけなのです。(・・;)

 

望ましいという姿勢など、本当にあるのか?と、私個人はたいへんに懐疑的です。私自身がとてもふざけた子どもだった→そのまま大人になった→そしてさらに老いてきた、という状態で、さして変わりがないのです。大人になる前から、相当に自分が好きなことには集中して熱くなってこられたし、そうでない「やるべきこと」もとりあえずこなしたからこそ、ご飯が食べられたし、学校にも行けた感があります(笑)。まぁ、実際にご飯を抜かれたことなどしょっちゅうあったんですけどね(笑)。最低限のやるべきことから、自分に課したやるべきことが増えていき、ようやくまともになった感はありますが、学ぶ姿勢に関してはさほど変わりはないのです。

 

英語に向かおうが、家族に向かおうが、恋や愛、社会正義に向かおうが、基本的に姿勢はあまり変わりません。

 

とにかく、自分が健康である状態を常に心がけること。

 

でなければ、いざというときに100%を発揮できないじゃーないですか!とにかくこれが大前提ですね♫ なので、私は今でもスクワットやプランクをやる日々です。忙しくてスキップしちゃったりもしますが (・・;)

 

これがGivenの場合、英語の場合は、日本語が基本になっている概念を一旦横に置いておくのが、最初のステージでの心構えです!なぜならば、言語というものは、文化に根付くニーズや重要ポイント、人々の関わり方などによって使い方が違うからなのです。英語と日本語は、対局と言っていいほどに違いがあり、それゆえ、日本人は英語がなかなかうまくならないわけです。それゆえ、Precious One English School では、丁寧に心理レッスンを15展開していきます。考え方の基礎がこれほどまでに違うものなのか!とびっくりしていただき、なるべく幅を持てるようになっていただき、英語のときは英語の常識を中心に、日本語のときには日本語の常識を中心に、発言&書いてみたり、受け手の場合も聴いてみたり読んでみたり、と、意識しないとなかなか難しいのです。

 

それゆえ、多くの場合、「英語がマスターできる人はどういう人?」と尋ねられたときには、「素直な人」と答えています。もちろん、これでは大雑把すぎますよ(笑)。が、違いを受け容れられる器が必要になります。一度受け容れ、咀嚼・解析し、自分にマッチしたものを選び、試行錯誤していく態度が、英語学習にはたいへんに望ましいと思います。

 

ありがちなフレーズやセンテンスを丸暗記しているようでは、根本的に間違ってしまっているわけです。あれ、足りない・・・??という壁にぶつからないままで英語が話せると錯覚している方がおられますが、それは違う・・・。(・・;) 聴いている側である Nativesや第二言語として英語を話している方々に、大いに負担をかけているわけです。

 

その道程や時間が長くなるかどうか?は、この「日本語の常識を一旦横に置いてみる」ができるかどうか?に掛かっています。ぜひともこの「日本語と英語の違い」について考えてみてください。それを教えていないスクールはかなりあやしいと思います♫

 

出費を余儀なくされる

10/05/2007 にアップした文章です。

 

腰痛がヤバイです。昨日は、日本に戻ってきて初めての鍼に行ってきました。相当ひどいのではないか?と、私は心配しており、2時間コースを選んだのです。それほどお高くはなかったのですが、12000円。相場ですよね?鍼も使い捨てだし、マッサージもものすごく丁寧だったし、お金を取られた!という気はまったくしないで、かなり腰もラクになりました。さらに、今後、また地獄のスケジュールを再開するために、徹底的に予防のほうをしておこうと、出費を余儀なくされている気分です。交通費をPASMOにつぎ込んでいくのも、かなりな「余儀ない出費」だったのですが、今回、みんなが使うはずのものではない経費、というのがキーワードで、相当迫られている感じ(爆)。

余儀ない:(1)それ以外に方法がない。やむをえない。(2)議論の余地がない(3)へだて心がない。余儀無くされる 他に方法がなくそうせざるを得ない。

確かに、交通費は他に方法がないでもないのだけれども、現実的ではないという意味で、余儀ないと表現してもいいですよね・・・。都心に車で通うなどということや、駅前で特急が停まる駅のアドバンテージを使わないなどというのは愚か。

腰痛という、最悪の場合には「歩けなくなるかもしれない」という現実の可能性を目の前にして、やはり「腰痛防止」の策をしないということはあり得ないチョイスなので、豪勢に出費することになりました(苦笑)。救われたのは、椎間板の下から2・3番目がないわりには、私の症状は軽症で、日ごろのメンテがよかったのだろう、という励ましのお言葉。私が、椎間板をなくしてからもまだスキーをしたり、テニスもできるほどに復活したのだ、という話をしたら、かなり驚いていたのです。確率的には低いほうに属すのだそうで・・・。そうですよねぇ、私は、婦人科の医師に「妊娠したら5ヶ月から寝たきりよ」と言われたのですから・・・。MRIを見ても、やはり脊椎の幅が、椎間板を失ったところは、半分以下くらいになっており、すさまじいことなのだろうと思います。医学が発達した今、その気になれば、椎間板の代わりになる何かを入れるオプションもあるのですが、もっと進化すると思っているので、定着するのを待つか、予防を万全にして体力の限界になったら手術するか、生涯このままでいるか、の3つの選択肢なのですが、どうせやるなら、やはりでっかい手術はアメリカでやりたく、今のところは考えていません。

まずは、最もつらいのが朝なので、理由は寝ているときの寝具と体勢にあるのだろうと考え、まずは寝具。アメリカでは、True Sleeperを使っていたのですが、日本ではシングルに変えても2・5倍の値段。とても買う気になれず・・・。そこで、テンピュールを調べたのですが、値段の差は2倍もないということが判明しました。

が、歯ブラシ除菌器の在庫があるため、とても今のところは、ベッドを置くゆとりがない・・・。2人(たまに3人)+ネコ暮らしなので、荷物が多いんだなぁ。シングルにしても、ベッドを置いてしまうと、狭すぎる。しかも私は閉所恐怖症ぎみだ・・・。やはり20畳以上をひとりの空間として、ベッド・TV・机・本棚1つしか置かなかった暮らしと比べてしまう、悲しい傲慢さがあるし、心だけではなく、身体(目や耳や感覚的なもの)もそこから離れないところがあるので、とりあえずテンピュールはベッドが必要なので却下。そこで、体験したことのないものがいいだろうと、低反発ではなく、高反発のマットレスを買ってみることにしました。とりあえずお試しなので、12000円の出費。試してみてよければ、2段にできるところが、マットレスのよさですか・・・。今晩から眠るので、成果はまったくわからず。明日の朝の痛みがバローメタです。

鍼も、時間が見つかるようであれば、毎週くらいは行ったほうがよさげ。鍼そのものにどのくらいの効果があるかは謎なのですが、実感としては、マッサージが、私が掛かった中では、世界で2番目に上手だった・・・。1番は、アメリカ人です(笑)。が、そのアメリカ人は、大学院を出ている鍼院の先生に依頼されて、1ヶ月に2日だけわざわざ車で2時間かけて街中まで出てきて施術をするという、凄腕の空手家なのだ。腕力などではまったくなく、自分の体験や仲間へのマッサージから、興味を持ち、フィジカルセラピーの専門学校を出ていて、大学院にいまさら行くのもな、という人です。

他にも、腰にいいようなマッサージ器を買おうといろいろリサーチ中。これまでの私は、マッサージは外でプロにかかるもの、と思っていたのですが、どうも時間が取れない。しかも、今後はもっと取れないはず・・・。だったらやっぱり家で手軽にできなければならぬ・・・。何かいいオススメがありましたら、ぜひぜひ教えてください。いくつか調べたものの・・・。

●フィジカルセラピーで習った姿勢がちゃんと反映されているので、論理としてはかなり信憑性が高いのだけれども、お値段も高い(爆)。
●なんだか安っぽいつくりでイマイチ信頼できない。
●コレは、美容器具とどう違うのか?ちとわからないところ。
●私には効かなかった記憶あり。

http://www.kenko.com/product/item/itm_8808774072.html この手の低周波のやつは効くんですかね?

あとは、日ごろの姿勢がもしかすると、生活が変わったので悪くなっているかもしれないとのこと。自分をビデオで撮ることはできないので、母に注意してもらっていますが、彼女、見ているようで見てない(爆)。なので、いっそのことサポーターを身につけるという手もあるのですが、それほど痛くもないときに甘やかし効果にはならぬのか?

さらに、運動ができて、腰周りの筋肉がつけばいいのですが、ちょっと時間的に無理かもしれない。お風呂は、必ず週1回は浸かる努力をしようと思っています。が、どうも本を持ちこめないと飽きてしまう感じ(笑)。

塗り薬や飲み薬は、今までも一切使っていなかったので、いまさら始めることは考えてはおらず、他に何か「これいいよ」というのがあれば、ぜひぜひ教えてください。

今日はマットレスに眠るのが楽しみなのですが、他に何か行動修正などがあったら、ぜひぜひ教えていただきたいものです。腰痛に悩んでいる人たちって、生活様式が欧米化したことと比例して、多くなっているように思うんだよねぇ・・・。検索すると、やっぱりたくさんサイトが出て来すぎて、深刻に悩んでいても、どうもいい情報にたどり着きにくい感じです。

さて、明日の朝の報告は、ここのコメント欄で書かせていただくことにします。それにしても、鍼士さんにポジティブなことを言ってもらえたのは、やっぱりうれしかった。日本に戻ってきて、腰のアジャストメントがうまく行っていない気がしたのだけれども、確かに当たっていた・・・。が、手遅れや大事になる前に気づけてよかったです。

紀久美先生へのQ&A~心理学講座編~その53

Q53.

アメリカにいらっしゃった時に恋しかった日本食は何ですか?

 

A53.

シリコンバレーにいたので和食のスーパーはいくつかありました。1988年にはふたつしかなかったんですが、さらに高かったのでアジアのスーパーマーケットに行っていたんですが、一ヶ月に一回買い出しに行くことができるようになって、特に不自由ない程度の食材を買うことはできたんです。生のお魚もたまには食べられましたし。ただ値段が非常に高かったです ( ;∀;)

どこどこの何々が食べたい、と思っても手に入ることはなかったので、それぐらいでしょうかね。うなぎも真空パックになっているものは手に入ったんです。ただあまりおいしいわけじゃないですよ(笑)。それでもアメリカに暮らしていてうなぎが食べれるんですから、私はそれで大満足でした。日本に戻ってきても、一ヶ月に一回食べてるわけではないですし(笑)。本当に疲れた時以外、うなぎも好きとは言え食べないですね (・・;)

結局ないものねだりなんじゃないかなと思います。食卓に上がる食材は高いながらも買えたので、 恋しいと思うほどでもなく、どこどこの何、と指定しなければ、恋しくなるほどのものはなかったように思います。母が作った料理や、老舗のお店のあるメニュー、地方でしか食べられない特選品、などは、恋しいと思ったことはありますが、本当に恋だったのかどうかわかりませんね(笑)。

なぜならばこうして暮らしてる間は、〇〇が 食べたい!と 思えば、本当ならば手に入るはずです。通販での取り寄せが可能ですし、高級スーパーに行けば手に入るものもたくさんあるわけです。毎日の生活の中に埋もれて、普通のご飯で全く問題ないので、高くなければなおよしです(笑)。やはりないものねだりなんでしょうね。

今もそれに思い当たるのが、日本にいるがゆえに、「ワインが飲みたい!」「ステーキが食べたい!」「オリーブを飽きるほど食べたい!」「自分が作ったジャンバラヤやガンボが食べたい!」などなど、いろいろ贅沢を言っているわけです(笑)。キリがないことをもうかなり悟ってきているわけですね (・・;)

そんなものが贅沢だとわかった今、生きていくのはさらに楽しくなっています(笑)。

 

会話する関係

10/04/2007 にアップした文章です。

 

愛想がいい、という表現に代表されるように、人当たりについては人それぞれだという観念が多いのでしょうが、実際のところは、「人に帰属」しているものではなく、「環境に反応」しているということもままあり、私は人柄を決め付けるのは、ここでも苦手です。昨日の『沈黙はぬるいシャワー?冷たい滝?』の続きなのですが、書ききれなかった、相手との関係について追っかけ。口数が多い、というのも、ちょっと考えてみたいと思います。

そもそも、人はなぜ表現するのか?私の答えはかなり明快で、まずは原感情である、「心地いい-気持ち悪い」から発したものを考えます。余計な口を利く人の中には、この「自分の心地よさバロメータ」に左右される人は多いように思えます。絵画や詩、料理や工作などの表現方法に比べると、インスタントであるこの言葉を発するという行為は、かなりの人が「軽んじて使っている」と思えるわけです。こうして、エッセイを日々書き続ける私にしても同じことで、本当に熟慮しているかどうか?自己中心的に物事を済ませていないか?など、あら捜しをされたらたいへんです(汗)。

もうひとつ、言葉を発する理由が、母が年がら年中、たまに西さんがやるように、「頭の中での考えを言葉に発することにより強化する」という役割をフルに使っている場合があり、相手に見せるわけでもなく、確認の意味があるわけでもないのに、話している人というのは、かなり多い数、実在します。私はやらないので、気持ちはわからないのですが、脳の使い方の問題なのかもしれません。

「人に聞かせるためではない言葉」というのは、私の場合は、Cursing(雑言)くらいで、しかもたいていは英語ですかね・・・。日本語で言うと、他者にわかってしまうので、コレは便利に使っています(笑)。何か物事がうまく行かなかったときには、Shit!(とてもじゃないですが、日本語では同じことは言えません・・・)。痛いときにはOuch! ちょっとした失敗をしたときには、Oops!(おっととと、だとか、やばっ!のような感じかなぁ)。と、人様に聞かせないためには、けっこう便利なんだよなぁ(笑)。自分の失敗や痛みや苛立ちを表現したい人はいるのかもしれませんが、私は喜怒哀楽が元々激しいと、小さい頃からよく怒られていたし、確かに振幅の差がありすぎる自覚もあるので、他人様を巻き込まないように、常に心がけています。そのせいなのか、「会話する必要のない言葉」というのに関して、どうも見極めが甘いようです。あるいは、私はあまりに冷酷で淡白なので、アメリカ暮らしが長くて心地よかったせいもあり、「他人のSOSに鈍感」なのかもしれないですね・・・。相手としては、「拾ってくれることを祈るような気持ち」で発している独り言は多いのかもしれません。が、私は私に向けられている言葉しか、基本的には拾わないのです。例外は子どもと老人でしょうか。迷子や暇を持て余している方々などには、懇切丁寧に立ち止まって、まったくの他人でも躊躇しつつ、会話をつなげようとします。

校長センセがコメントで書かれていた、「長時間いっしょになる飛行機での隣の人」ですが、私は、「挨拶はするが会話に発展させない」が基本です。自分が後から座ったときと、相手が来たときに挨拶は交わしますが、たいていの場合は、相手が能動的に話しかけない限り、自分からの発話はありません。どうしても気になる行動に出た場合に、質問するということが、過去、何度か発生しました。私の大好きな作家の本を読んでいたりだとか、外国人で日本語の教材で勉強をしてつまっていたりとか、明らかに私の近所に行くところだとか、そういうことですか・・・。あまりに袖を摺り合わせることに慣れきっている方々に、余計な気を使わせてもいけないので、私は、相手に合わせるようにしています。逆に、旅に慣れていない方とは疲れるので私のほうが遠慮です。私は自分が腰痛持ちなので、体勢をよく変えるし、いつも通路側でないと気がすまないし、眠れなければ電気はつけておくし、そのことで会話が発生することはありますが、好きな時間に眠りたいだろうし、好きに時間を潰したいだろうし、と、相手に下駄を預けてしまう方式です。ただ、基本態度としては、ドラマのような出会いはない、に1票なので(笑)、基本的には眠ることに終始努力しています。電車やその他で、まったくの他人に出会ったときには、また別物なのですが(あまりいい解答ではなかったんだろうな・・・爆)。

大昔、フリーになったばかりの古館伊知郎氏が言っていたのですが、「沈黙が怖いから話してしまう」というもの。彼の場合は、沈黙している時間の質と、話しているときの時間の質のギャップはとても大きいのでしょう。未だに思うのですが、彼のF-1中継に勝るものはないですね。プロレスもそうでしたが、あの頭の回転の速さは、ニュースステーションに生かされているとは、私はあまり思っておらず・・・(あ、どうでもいいことだった・・・)。にらみ合いやテリトリー相互認知とごくごく似たことだと思えるのですが、動物でも、自分のテリトリーを確保するときに、マーキングをしてある領域に誰かが入ってくると、唸りあいをしますよねぇ・・・。私はそういった意味での、「私はあなたの敵ではないよ」というシグナルは送るのですが、そのあとに関しては、沈黙は大いに許容範囲です。英語が話せるようになるまでは、「沈黙が怖い」という感覚はありました。それは一重に、「相手が自分の敵なのかどうか」が見極められないから、ということに尽きていたと、今ならば言えることなのです。

一旦、自分の敵などではなく、自分のテリトリーやプライバシーを侵害しない人・モノと定義づけられた場合、私は、沈黙はまったく大丈夫です。友人と喫茶店にいても、居酒屋やレストランにいても、無理やり会話を続けようという気はなく、湧いてくる頭の回転に任せているところがあります。私のキャパだけではなく、相手の心持や状態、キャパにも左右されているので、守備範囲が広いほうの私が合わせる、というのが、礼儀だと考えているせいですか・・・。私を多少なりとも知っている人は、わかってくれているので、沈黙している私を怖いと思うわけもないので、そうさせてもらっています。「あー、この人は黙っていても頭の中がパチパチと、コンピューターのように動いているんだろうな」と、友人たちはみな、自然にみなしてくれているので、かなり助かります(笑)。

しかし、面接や単発の通訳の仕事や英語学校の生徒さんなどで、初対面の人とは、過去1年でおそらく200人以上には会いましたが、私は「愛想の悪いやつ」と評価されたことは一度もありません。むしろ、「口数が多い明るい人」と思われてしまうようです。そう思ってくれる誤解は、それで私のアドバンテージなんで、いいんですけどね♪

が、仕事柄、話し疲れるということは、今はまだ体験したことがなく、「コレも伝えたい。アレも伝えたい」と時間が足りない感が多いので助かっています。いつか、この発言をしたことを忘れて、傲慢にも「話し疲れちゃうよね」などと言うことがあるのでしょうか?(笑)

実際のところ、私だけでも、自分という人間からの事情ではなく、環境に左右されている例がこれだけ多いのですから、やはり自分だけではなく、社会的影響Social Influenceの力はでかいのではないか?と、他人を見るときにも考えてあげるといいんじゃない?と、提案させていただきたい。

「相手は自分を映す鏡である」というのも事実ではありますが、それだけではなく、「自分は相手を映す鏡」でもあり、その鏡の存在そのものが、日光や温度やロケーションや構成する人々やその目的や質などに左右されているということを、ぜひぜひ忘れないでいただきたいものです。そして、自分が大切に思っている人や、好もしく思っている人々が、どのくらいの数の顔を自分に見せてくれているのか?と、その数の多さに歓べるくらいのゆとりがあってほしいものなのです。「大勢の女とつきあうよりも1人の女を深く知ったほうがいい」と言った男の人は古今東西多いですが、こんなことを知っていたからかもしれません。

ただし、意味もなく不機嫌に沈黙している、依怙地だったり、いじわるだったり、自己中心的な動機も、混ざっていることは確かです(笑)。それがあまりに多い場合は、その人の性格や人格なので、会話がたくさん欲しい人は早いところ見切りをつけたほうがいい場合もあります(笑)。

会話する関係の数は、実際はあまり重要ではなく、しかも、会話する関係の中でも、会話の数ではなく会話の質が重要なのですが、そう思わない人たちはけっこうまだまだたくさんいるのかもしれません。冷静な私が思うに、人間の会話の7割から9割は無駄が多いんだと思うんですよ(笑)。ただ、教える立場としては、アレもコレもヒントにしていただけるかもしれないと、そこからザル目の細かいことを祈りながら発しているというところ・・・。仕事場でのメモやメールなどでも、要約版でもなく(そのためにE-mailが開発されたってぇのに)ダラダラと書いている人はいますよね・・・。考えてみるのもいいかもしれません。

 

沈黙はぬるいシャワー?冷たい滝?

10/03/2007 にアップした文章です。

 

よく話す母と、出入りの激しい西さんと、ネコにしてはかなり静かなネコたちと、というメンツで暮らしていると、このコントラストにはびっくりすることが多いのです。西さんも出入りが激しいので、連絡事項は多いのですが(彼はカエルコールは必ずする人である)、飲まないと必要なことすら話すのは億劫なほどの無口なので、私は大人になってから、沈黙の心地よさを解したのです。それまでは、自意識過剰だったこともありますが、「いじめ」でよくあるように、沈黙は冷たい滝だと感じていたのですが、今では沈黙は心地のよい温いシャワーのように思えています。ただし、無条件なわけではなく、揃ったコンディションは必須。

いやー、小さい頃の我が家はにぎやかだったです。母の母とその内縁の夫、両親と弟のほかに、叔母が2人と叔父が1人(父の弟妹)が、必ずひとりは同居しており、それが私が小学校4年生まで続きました。しかも、その人数ではじめのころは2部屋。それが足りないことが自明になり、もう1部屋を、大家さんに増築許可をもらい、父がほとんどひとりで建てたわけです。父は中学卒業以降、数年、名古屋に大工修行に出ていたので、けっこう上手だった・・・。3部屋に大人5人に子ども2人。今考えると、とてもとても狭く、今の私では到底耐えられない状態だったのです。母ももう耐えないだろうなぁ←耐えられるキャパは持っているにしろ、もう精神的に耐えることを選ばないと思うのだ。子どもの頃、そんなにぎやかさだったので、「音のない世界に逃げることは可能か?」と、暇さえあればやっていたのですが、(当時は知らなかった)自分の血流の音をとても静かに感じることもあれば、ゴォーーーォっという音にイライラし、「音のまったくない世界などない!」と怒ることもあったのです。が、そんなとき、父は「ヘレン・ケラー」を持ち出してさらに私を叱るのでした・・・。そりゃ、そうなんだけど、ありがたいと思わなくてはいけないんだけど・・・。

子どもの頃から私の舌は滑らかで、口数も多く、ボキャブラリーも必要に応じて、どんどん増えていきました。大皿料理しか出さない食卓でサバイバルを試されたのと同様に、たくさんの人々が好き勝手な音声を発する中で、口を開かないと、invisible, unheardな存在が長く続くと、必要なモノも手に入らず(たとえば洗濯物だとか。ただでさえ与えられている数が少ないのに、雨や紛失などでよく手に入らないことがあったのよ・・・)、やはりどうしても自己主張をしなければ、サバイバルはできなかった・・・。

好き好んで話していたのかどうか?と問われると、今となっては疑問です。なぜならば、私は、木の上でも川原でも図書館でも、ひとりになることをむしろエンジョイしており、閉塞的な家の中よりも戸外を好む傾向はあったし、物心をついた頃から今日まで、「もしもPhobia(恐怖症)があるとしたならば何?」と問われると、平均値ほどでしかないのですが、狭いところがイチバン苦手です。英語ではちなみに、Claustrophobia(=閉所恐怖症)と言います。

小学校3年くらいからは、早朝ドッヂボールという名目で、ひとりで朝早く通学するようになりました。子どもの足で軽く20分以上ありましたが、私はかなり満足していましたねぇ。うるさい=下品、という価値観を持った人に出会ってしまったのも、小学校3年の夏休みくらいだったので(あるいは、初めて、子ども嫌いか、子どもに話しかけられてうっとうしがる他人に出会ったというだけなのかもしれず・・・)、自分も「静か」を体感しようと決意したのかもしれないなぁ。そのせいで、没頭できる読書はどんどん好きになったのかもしれません。

他のいろいろな自分の特性から、他人と交じり合って集団行為をするのが苦手だということが、歳月につれて表面化してきます。そうなると、もうひとりで行動することがどんどんできたほうがいいわけで、天国のような孤独は増える。ただし、それを他者は孤立と感じる。私だって、追い込まれた孤立はイヤだよ(爆)。けれども、自らそれを選んだ場合には心地よく、10歳くらいにはいっぱしのLoner(一匹狼)の基礎素養が身についていたかもしれず・・・。ただし、その後からしばらくまだ奮闘しており、中学卒業くらいまでは、Peer Pressure(仲間抑圧:http://cst6480088.exblog.jp/3801506)の洗礼を私も受けていました。

コレを基本にして、バイトに明け暮れたり、渡米したり、西さんを選んだり(やはり何度も別れるという選択肢が生まれることもあったのですが、これまでずっと別れないことを選択し続けてきたわけです)と、沈黙は温いシャワーのように心地よいということが、軌跡にも如実に現れています。

だからこそ、帰国してイチバンたいへんなのが、音なのかもしれません。

聴覚過敏なのか?と、日本に戻ってきたばかりの頃はよく思いました。とにかく、すべてがうるさい。車の音や電車の音、人々の声、スピーカーから流れる意味不明な音、そこらじゅうで流れている電子音や電気音や排水や空気の流れる音、などなど、アメリカ生活では邪魔に思えなかったものが、邪魔に思えたのは、おそらく空間の狭さから来ていたのでしょう。私の耳はおそらくかなりいいほうなのだろうと思います。母の耳が少し遠くなってきているので、それと比較してるんじゃないかって?いえいえ(爆)。歌を歌ったり、英語や中国語やスペイン語の発音を聴き取ったりで、かなり感じる場面が多いです。が、聴覚過敏なのかどうか?精神的なことが影響はするんでしょうね・・・。

最後に、森の中で、鳥の声と葉音と風と自分の足音だけを聞いたのがいつだったのか、ちょっと思い出せないくらい、遠い昔のことのように思えてしまうほど、音が多い!深夜にひとりでエッセイを書いていたりしても、PCの音は確実です。冷蔵庫もうなっているし(爆)。そうなのよ、うなりに聴こえちゃうんですねぇ・・・。

ネコたちの寝息は平和な音なのですが、ゴロゴロもたいへんにうれしい音なのですが、学校から流れる下校放送などや、子どもたちの笑い声なども和やかな音なのですが、マイナス要素を持っている音は、この世にけっこう溢れているわけなのよ・・・。

ソプラノな声を持つ私ですらむかついてくる、女性の奇声や、ダラダラと切れ目のない発音など、電車の中だけでも耐えられないくらいにイライラすることがあります。そこに電子音・・・。消音していても作動しているとなぜか聴こえてくるんですよねぇ・・・、携帯や液晶画面やiPodからの音。電車があれだけうるさいのに、電車には寛大なのに、どうしてか音を区別できるせいで、アレもイライラになる。

そうなると、やはり沈黙を求めたくなり、家で母がひとりでさみしかったために、ガガガーッと機関銃のように話してくると、さらに疲れが増してしまう。私の耳に入れた数々の音の1日量などは、彼女には関係ないことなのでつらくも当たれないのですが、正直疲れが増すことは確か。最近、そんなことでは、私の体調を健康にキープできないと思い、ひそかに耳栓を買いました(爆)。買った時点で、「もしかすると私は聴覚過敏なのか?」という疑いが出たのですが、それよりも「さらに何か精神病があるんじゃないか?」と不安になったことは確かです←大丈夫だとは思うんだけどねぇ・・・。

そこで少し考えたのは、日本の都会に生きる人々は、私が今感じていることを、もう何年も何十年も耐えてきて、順応しているのだろうな、という仮説推測。だとしたら、すごいって・・・。生理的機能を少しずつ損ないながら、それでも生き延びているので、これが進化の鍵になるのかもしれないですな>ほら、キリンの首が長くなったとか、豚の鼻が伸びたとか、そういう類の小さい積み重ねの進化なのだけれども、数十万年も費やさなくても、確実にヒトの視力は悪くなったし、聴覚も来るんじゃないかと・・・。

私はやはり心地よいシャワーが欲しいです。冷たい滝には感じませんから・・・。ええ、私は相手が話しかけてこなければ、あるいは話すほどの事件が会う以前にあって報告したいか、相手に謎があって質問するか、以外、同席していても何分でも何十分でも口をききませんよ(笑)。

 

Social Influence廻りから受ける影響力

10/02/2007 にアップした文章です。

 

私はかなり社会から受ける影響力というのを、かなり大雑把に使ってきたような気がするので、しかも、2日前に『ストックホルムシンドローム』を書いたときにも、ブログであのお題について書いている人たちは少なかったので、ちょっと詳しく書こうかな、という気になっています。お題が思い浮かばないせいだって?うーん、それもあるかもしれないな(笑)。明日から1週間は昼間の仕事はお休みしようと思っているのですが、それでも行かねばならぬところはたくさんあり。通おうかと思っている学校見学と相談や、研修会や美容院。夜の仕事はあるので、結局、働いているときと似たように時間は取られてしまうのです。私も、社会からたくさんの影響力を受けてここまで生きてきたので、最初に心理学でコレを習ったときには、「おー!そういうことだったのか!」と辻褄が合ったので、けっこういい知識でした。説明できそうでできないことなので、一度ちゃんと書いておこう。

Conformity: n. 従うこと ((to, with)); (他との)調和, 大勢順応, 相似 ((to, with)); 〔英〕 国教信奉.
順応:(1)環境や境遇の変化になれること。(2)生物体の機能・性質・状態が、与えられた外部条件の持続的な変化に応じて変化すること。(3)〔心〕 感覚器官が同一刺激を連続して受容すると、それに対する感受性が低下する現象。匂いに対する嗅覚の順応や視覚の明順応・暗順応の類。

大勢順応って(爆)。確かに日本語で単語にしづらい概念ではあります。社会の中に混じるということは、多数の違った人間との相似と差異を目撃・体験していくことになります。その中で、サバイバルが大きな機動力になり、さらに心理学的にはSelfをどうしても守るために、ヒトは他者との差異を埋めるか、他者に理解してもらおうとします。その埋めようとする行為が、このConformityで、調和しようとするがために、時として、大勢に従順してしまうことです。

たとえば、駅の歩行がそうではないですか・・・。あんなすごいパワーのある流れ、誰が逆を歩けるんだ?と私などは思うんですが、たまにいますね、逆方向を歩いて行く人・・・。アッパレだ!これはあまりにわかりやすい例ですが、強制的な自白などもこのいい例です。取調室の中で、弁護士にも会えず、複数の刑事に入れ替わり立ち代わり、時間をかけて諮問されると、「意見の相違」がなぜか、事実までも曲げてしまうことになるという例です。

さて、これに注目した学者で、Aschという人が、今では古典になってしまった「同調実験」をしています←日本語を調べていてこの単語にぶち当たったのですが、確かにコレがイチバン近いかなぁ・・・。でもこの言葉には力関係がないよなぁ・・・。

http://en.wikipedia.org/wiki/Asch_conformity_experiments

リンクの表を参考にしてみてください。9人並んでいて、この長さの違うラインを比べてもらい、ひとりひとり公開で答えていくというもの。「同じ長さのものはどれ?」という簡単な質問で、その長さも変えて実験していますが、長さが歴然と違うものでも、得られた結果は微量でしかなく、驚異的なものでした。最初に答える8人はサクラで、悩みつつもわざと間違って答える。最初のうちは、9人の最後にいる被験者は笑ったりしますが、大勢が答えるうちにそれに屈してしまい、自分も間違ったものを答えてしまう、というもの。

3回ほどのラウンドを重ねて最後まで屈服せずに正解を言えた人は、わずか25%でした。いかに大きな影響力を及ぼすかがわかるかと思います。

コレは国には関係なく、そもそも、最初の実験が文化的にも個人主義であるアメリカが発祥で、そののち、文化比較をしていますが、多少の差があるにせよ、どれも同じように驚異的な数値であることは、現在も続いています。特に、設定が学者などの実験であったり、権威のある学校や裁判所や警察の取り調べなどであったりすると、大きくなるようです。

サクラの人数ですが、多くても少なくても大差は得られておらず、2人がサクラであっても充分似た数値が取れたので、1対1でなければ、起こりえるという現象です。「社会」という言葉の定義で示されるように、小社会は、2人以上集まればすでに小社会の単位として立派に存在を認められ、強さや社会的役割や意義などが問われるだけで、この世に小社会は無数に存在します。親子や夫婦や恋人関係なども立派な小社会の単位であり、個人からの見地では、たくさんの小社会に属しているので、Conformity現象は簡単に起こりえるということです。

私はかなり自分の意見を通す性質ですが、「ラインの長さごとき」であれば、やはり大勢の意見に従って順応することはあるかもしれません。ただ、死刑制度&執行問題や、教育問題など、世界観が左右されることになると、かなり依怙地に食い下がることでしょう。たとえば、設問が知的な問いであれば、もっと食い下がるでしょうし(どうもバカだと認めることには抵抗があり、学習すればバカなどいないと信じているので、これに関しては譲れない感じですな)、他人の人生に関与することや尊厳を削ることなどであれば、かなりしつこいことでしょう。ラインの長さでは、おそらく、人の生命や健康や尊厳には関係ないと、譲ってしまうことは多いかもしれません。どうだろうか・・・。被験者になったことがないのでわかりません。が、私は母の「小さいミスを流してあげない冷酷なやつ」と、弟やその妻、西さんによく指摘されるので、きっと平均値よりは食い下がる確率は高いのかもしれません。みなさんはいかがでしょう?

生物学的にも、同じとは言えなくとも、似たような仕組みがあり、浸透圧などがそうです。細胞膜を隔てた電解水などの電位が違う場合、分子や原子レベルで日常的に「同化・均一化」は行われており、9割くらいはよく作用するのですが、疾病を招く原因として、糖尿病になってしまうインシュリン分泌やグリコーゲンからエネルギーを供給するシステムなども、「あ、期待値と違う。せっせと同化しないと」と一生懸命働いてくれるものがあるので、仕組みの論理としては似ていると思うのです。

Modeling(模倣学習)で触れましたが、知らない町や文化に触れたときに人々がすることは、このConformityに他ならず、箸を使うのか、フォークを使うのか、スプーンを使うのか、素手なのか、など食べ物ひとつにしても、周りの「規範的影響」を真似るわけです。宗教色が濃いところでは、特に気をつける必要があります。規範(行動や判断の基準・手本)は、食べ物のツールの選択ならばまだシリアスでもないですが、その規範に従わないと村八分になったり、制裁を加えられたりするようなこともあります。法律や条令には定められていないものの、暗黙の了解としてしないこと、というのは、社会単位でたくさんあるものです。それに、右側通行なのに左を走っていたら生命にも関わりますしね・・・。

これくらいすごい影響を受けていることを知らず、日々を暮らしているのは、ちと不自然なので、改めて書いてみました。いくら私が依怙地だからって、やっぱり初めてパチンコに行ったときは模倣学習を駆使しましたし(これは規範的影響ではなく、もう少し軽い情報的影響。より適切な行動を取ろうとするためのヒントたち。パチンコ屋で制裁を加えられるようなことは、明らかに磁気やその他を使ったりした営利目的なので、刑事沙汰になる確率高し・・・)、電車の乗り方や仕事探しについても、いろいろな人たちの意見を参考にしました。ただし、携帯電話加入についてはまだ決着がついておらず(爆)。

というわけで、参考になったら幸いです。子どもたちはこの影響を大きく受けているので、彼らの未来のためにも、ステキな規範と情報で社会をいっぱいにしたいものです。

 

権威についてもう一度

10/01/2007 にアップした文章です。

 

ここのところ、総理大臣にしろ、たくさんの政治家にしろ、大手を振っていられないところがあるのはなぜなんだろうか?先生も尊敬されなくなってきているし(私は講師だし、尊敬などされたくないのでいいのですが)、宗教家もそれほどの敬意を持てなくなるほどに、たくさんのあやしい新興宗教があり、賢く生きて実業家になった人々ですら、その富をどのように社会のために使うか?で試されており、尊敬されにくい立場にあり・・・。子どもたちは、スポーツ選手をますます必要とするのだろうか?誰が彼らのヒーローになれるんだろう?

私のヒーローは誰だったか?やはり小さい頃、図書館で最も影響を受けたのは、探偵だったような気がします。一時期、警察官になりたいと本気で数ヶ月くらいは思ったのですが、縛りがキツいことが父と話していたことでわかり、すぐさまやめてしまったわけです。しかし、どうやったら私立探偵になれるのか?というのも、江戸川乱歩時代のようには行かず、殺人事件などは夢の夢で、たいていはイマドキであれば、浮気調査なもんなんでしょうね・・・。アメリカのことなど何もわかっていない頃から、John F. Kennedyは私のヒーローでした。若くして殺されてしまうほどの人は、なぜかすごい人なのだ、というのは、父が力道山について語ったために、なぜだか影響されたようです。

力と権威には大きな違いがあり、力を持つ人になりたいのであれば、リソース(資源;資本主義ではお金の場合が多いが、人脈や資産となる土地や物品であることも多い)があること、と、それを使う才能があること。そして、その持ちえるリソースに対して、屈してくれる人々が回りにいさえすれば、その人は「力を持った人間」と簡単になりえるわけです。力が少しもない人というのは、おそらくこの世になかなか見つからないことでしょう。誰しも才能と呼べる何かは持っています。世界で一番ではなくとも、生きている小社会の中で、その才能を評価され、生きる糧を得ているはずです。専業主婦にしても、外で働いていないだけで、家事を評価されているからこそ、代価を計算することはできます。生活の糧を現在は得ていないであろう壮年層にしても、その知恵や体験は、才能を駆使した結果であり、お宝です。

才能:物事をうまくなしとげるすぐれた能力。技術・学問・芸能などについての素質や能力。

私もいくばくかの才能を持っており、ぬきんでてはいないものの、食べていけるだけのものを持っていてよかったです。

力を持っている人でそれを過度に使いたい人は、その力を持っていない人に対して自分の意志を押せばいいわけです。お金持ちはそうして、贅沢で必要以上のものを所持しているし、それによってなぜだか充足感を得ている。私には理解しがたいことですが、モノで埋められるくらいの心の空洞しか持っていないのであれば、幸せでしょう。悲しいことに、医療技術も高い保険に入れるか入れないか、人脈を持っているか、などで左右されることもあるので、持っている力をフルに使うことが当たり前の状態で、人々は暮らしていることが多いのかもしれません。私は、もう10代でも20代でもないので、今後、内臓疾患があったとしても、移植は望まないし、延命も望まないので、特にそれについてお金を使おうとも思わないし、モノは片付けが下手なので要らないです←おかしな理由でもないと思うんだけれども、昨日の夜、母がボーイフレンドの家にお泊りに行って、また考えたのが、「彼女が先に死んだら困る」ということ。私は彼女の細かく整理整頓したものを片付けられないよ・・・(汗)。調味料さえ不自由してんのにさ・・・。

かたや、権威というのは、Weberの社会学的定義を述べると、
1. 社会の因襲に大きく影響され、多くは世襲制になっており、伝統的なものであるもの。たとえば、たいていの皇室や王家がそうです。歴史の中でも、散って行ったとはいえ、平安時代の藤原氏や、それぞれの武士幕府を作った家柄などがこれに当たります。
2. カリスマを持つ人は、生まれながらにしての権威の威力を持っていなくても、権威になることができます。私が好きだったJohn F. Kennedyもアメリカではあり得なかったアイルランド系アメリカ人で、父親が財を成し、今では皇族のような扱いになっています。必須なことがふたつ;1.人格の圧巻なまでの力強さ。2.社会のためになる大目的。多くの宗教家は、当時の社会に最初は弾かれながらも、どんどんと権威の道を進んできました。キリストですらそうですし、ダライ=ラマも14世ですが同じです。マザーテレサもこのカリスマのある人でした。日本人が好きな織田信長もコレに当たるのでしょう。名ばかりだったとはいえ、将軍すらコントロールした彼は天下統一を目前にして消えて行きました。
3. 理性的で法定である権威が、目下私たちがだんだん「待てよ!?」と思っている対象で、民意を反映した権威でいてもらわねばならぬのに、どうもそのようにはなっておらず・・・。平等はなかなか実現しないにしろ、公平であることが、この権威のキーポイントなわけですよ。ところが、不公平感はどうも拭えないので、問題になり、権威は地に落ちることになり、政治家が替わってもカリスマ性もないので、誰もついていけない状態にやがてなるわけです。

英国の封建議会は、絶対王政時代に力を弱めつつも消滅に至らず、近代議会に接続した稀な例である。英国議会は国王が掌握する行政府に課税承認権を盾にとって対抗し、行政の恣意を制限しようとした。国王との対立が決定的になると、1649年に清教徒革命が生じ国王を処刑し、1688年の名誉革命で国王を追放した。名誉革命以後の議会は引き続き国王の行政権力を認めたが、しだいに権限を拡大し、18世紀半ばに議院内閣制を実現して行政に対する優位を確立した。現在の歴史学会の通説では、フランスに脅威を感じたオラニエ公(後のウィリアム3世)が英国の動向に目を着け、その大義名分として権利章典の内容をなすビラをばらまいたとされる。

↑これ、TOEFLに過去に出た問題文の内容に合致しています(笑)。

ある社会学者によれば、この権威の進化的段階は、1から3までで、3が理想的だということなのですが、私は原始的なのか、2.でいいじゃん、と思うんですね(笑)。ただし、家庭内でコレをやられると、力がない人間は困る。ただし、カリスマ性を持っていなければ(たとえば、家にお金を入れずバクチに使う親とかだんなとかね・・・)即刻、権威は剥ぎ取られますから・・・。しかも、柔和な性格であっても、人格の圧巻なまでの力強さは共生しますし。徹底的に家族のために外部には力強いというのは、よく見る例ですし。

今日は、落ちてしまった権威に対して、どうやって受け止めたらいいんだろうか?と、ちと迷っている復活日本国民がぼやいているようなところがあるんですが、どうも権威を与えたい人がいない。私の民意の一票を差し出したい人がいないのですよね・・・。あ、宮崎県知事がんばってますよねぇ。いいなぁ、ああいうのって。マラソンをバラエティ番組で走っていたのですけれども、50歳なのにすごい体力だなぁ・・・。なんとなく宮崎の物産買いたくなりますもん。セールスマンとして優秀です。ファミリーマートで2回ほど買ってしまいました(笑)。

それに、2.が減ると、子どもたちがヒーロー探しに困ると思うんだよね・・・。大人になってから、「なんであんな人を信奉していたんだろう・・・」と思うようじゃかわいそうだ・・・。私は、ダライ=ラマやマザーテレサは、何があっても生涯、尊敬します。権威を彼らが持ちたくないと言っても、私の一票は投票しちゃいます(笑)。

今日はちと落ち込んでいたのだ。一昨日終わった通訳の仕事先で、かっこいい男の人がいたのだけれども、最後に握手をしたんですが、なぜにそのとき、名刺を渡さなかったのか・・・。もう一度会ったからってどうってことはないんですが、話していて本当に楽しかったんだよなぁ・・・。やっぱり次の仕事に行くので焦っていたので、時間が押していたので、ゆとりがなかったなぁ・・・←本当に残念だったのだ(爆)。なので、カリスマ性について、権威について、もう一度考えてみた次第です。いやー、彼はなんだかカリスマが私にとってはあったよ・・・。

 

ストックホルムシンドローム

09/29/2007 にアップした文章です。

 

Gyao動画の映画を週末に見ていたら、『 完全なる飼育 』という映画の1・2が無料で配信されていました。このタイトルそのものが攻撃的なのはもちろん、人が人を飼育するという考え方は、平常の私の概念からは最も遠いところにあるので、余計に気になったというところ(笑)。特にクリーンイメージをキープしたいという気持ちはないものの、性的な話は、医学的・心理的な切り口でない限り、個人的な領域だと信じているので、それほど取上げないのですが、コレは心理的な話。ストックホルムシンドロームの典型です。PTSD以来、この手の画像はさらに苦手になっていたのですが、内容を開けてみて、まったくのレイプではなく、心理操作を見て、それにどうしても避けられない性描写があった感じです。母は心配そうにしていましたが、まぁ、大丈夫でした。

心理学的なストックホルムシンドロームの説明リンク
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%9B%E3%83%AB%E3%83%A0%E7%97%87%E5%80%99%E7%BE%A4

確かにねぇ、この2人の誘拐犯の男性二人は、事情があって哀れだと思えるところはあるのだろうと思います。だからこそ、ライフラインすら他者から与えてもらう情況に置かれた場合には、心が傾いてしまう状態が作られる。そもそも、極限状態に置かれなければ、彼らとの交わりが生じるはずもないわけです。なので、誘拐が発生したことそのものが悲劇なのですが、起きてしまった事実を否定することもできず・・・。

竹中直人が演じる誘拐者のほうは、工場を持つ自営業の職についていたときに、婚約者がいる女性に横恋慕して、工場内でレイプし、婚約者と親に翌日怒鳴り込まれ、傷物になった彼女には子どもができたものの、やはりうまく行かなくなり、子どもを連れて出て行かれて、家業からも追い出され、という過去を、被害者に語るのです。その結果、「心も身体もひとつになる完全な愛」を求めたいと、クダクダと語るわけですね。しかも、自分が誘拐した、18歳の少女に。「だからレイプはしない」と。レイプをした相手から心がもらえなかったから、今度は誘拐、というのは、あまりに短絡的。どれくらい考えたのか、ちょっとわからない。想像がつかない精神構造で、間にどんな問答があったのか、インタビューしてみたいくらいの気持ちになります。誰の手もつけられていないまっさらな白いハンカチのような少女がよかったとしても、18歳以上であれば、恋愛する機会というのは持てたはず。風俗や水商売でなくとも、習い事や趣味などの繋がりでの出逢いの場の可能性はゼロではなく、世間にはいくらでもそんな例はあります。どうしても本人の意志を無視せねばならぬ状況で、コレしかチョイスがなかったとは言えません。最初のボタンの掛け違えが、やはり重要です。

続編の誘拐犯も似たようなもので、恋人もできず、結婚もせず、母親とふたりで暮らしてきて、41歳になって母に死なれて、17歳の女の子を誘拐するのです。彼のほうも性格的なものなのか、彼女からの許可が出るまでは性交はしません。

なので、誘拐罪は成立しても、レイプはなかったということで、世間では確率的に少ない状況になります。しかも、2件とも犯人逮捕後、被害者の少女たちが犯人を庇うんですね。

そこで、平凡な私が彼女たちの立場に立つと、やはりわかる。サバイバル機能が全開になれば、やはり彼女たちの反応は自然です。新潟で少女が9歳だったときから9年以上、監禁された事件がありましたが、そのときの一般人の反応は、「なぜ逃げなかったのか?」でした。何よりも優先されるべき反応は、「生き延びること」です。生き延びるチャンスが減る行動は、何度も恐怖を味わうと避けるようになります。

特に誘拐されずとも、恋愛や普段の生活で、ストックホルムシンドローム兆候を示している人々もいます。マイルドではあれども、DVも似たような心的依存症ではあるし、ダメな男ばかり繰り返し好きになるようなことも同様です。自分にとって不利になるあらゆる要素を持っている誰かになぜか魅了されてしまうのは、「学習してしまった体験から来る選択肢への価値観」にあります。ダメな男、原体験としては父親や兄などが多いのですが、「たくさんの欠点を持っている相手に嫌いな感情に嫌気が指しているにも拘らず、その人に依存していなければサバイバルが困難になる状態」を体験すると、男選びがどうもその傾向にシフトしてしまう。なので、そこで自分(の心持ち)を変えたほうがラクだということになる・・・。どんなに欠点があろうとも、どんなに邪険にされても、どんなにひどい目に遭おうとも、親や年長者に対して尊敬や感謝を刷り込まれているので、幼年時代に自分から親や年長者を嫌いになったら、ますます愛されなくなり、大切にされなくなるので、サバイバルに影響が出ます。なので、無理やり好きになり、好かれてもらうための行動に出る。それがうまく行ったら「ひどい目に遭っているのは自分が悪かったから」と、論理がシフトしていくわけです。恐怖と背中合わせの中、あまりにつらいので、相手が愛する価値のある存在だと全面的に肯定していき、いつしか、「愛情はこのプロセスで獲得できるもの」と決めてしまうわけですね。

親や兄や他の年長者に叱られずに育った人は稀なので、多少なりとも誰でもこの傾向はあるのでしょうが、基準値を超えたら要注意です。その基準値は、ダメ男を肯定し続ける傾向で、自分の生活にそんな男たちを登場させたままでいること、蒙った被害を甘んじて受け容れることが多くなること。その質がエスカレートすることです。

誘拐されることはかなりな非日常ですが、マイルドな脅迫はそこここに転がっています。不倫はその点でとても危ない。プライベートな部分を見せてしまったあとに、それを「バラすぞ」というだけのことならば、この世にはそんな話はたくさん転がっています。一度屈服してしまうと、その力関係に徹してしまうのはとても容易くなるので、100年前からこうなる運命だったのね、とすら思い込んでしまうのは理解できます。が、第三者にはわからない。

彼らがいなくなっても、また次に同じようなことを繰り返してしまう。体験してしまったことは、不可逆性が多く、自身(self)を大切にしたい心的機能が働いて、自分の行為を肯定する。だからまたその価値観がUnlearn(学習したことの正当性を否定する)ことは難しい。悲しいサイクルなのです。

DVがその典型ですが、実際にいいパートナーにめぐり合えないのは、こんな心的作用があるのだよ、ということをちょっとだけ意識してもらえるとうれしいです。お友だちの中にも、「私はダメな男が好きなのよね」と誇らしげなほどに言う人はいると思います。「他の人が理解できない彼のよさ」は、Self-esteem(自己尊敬心)を充足させますから。

男の人が、「オレの妻は、家を守り、子どもを育てるしか能のないやつ」と平然と言いのけるのも、このような心理作用が働いていることに気づいたあなたはすばらしい♪自分をいっしょになって貶めていることもわからず、女性の社会進出を阻止している人々は、マイルドな心的依存をしていることをぜひぜひ認めていただきたいものです。

というわけで、映画はヘヴィですが、学ぶことがあればいいな、と思います。

やる気が停滞・・・そんなときは?

やる気が停滞しているな?と感じたときに、まず明らかに最初にチェックしたほうがいいのは、健康状態です。英語スクールなのに(笑) Precious One English Schoolでは、心理レッスンで健康の項目を大きく取っていますし、脳の成長をますます促すためのレッスンを展開しています。

 

健康の不備がある場合、どんなに時流に求められていても、動くことは無理ですし、度合によっては可能に見えても、実際には作業や動作に入っても加速度がつかないので、空回りしている気分に落とされます。どのように体調をチェックしてきたのか?という方法論も問題ではありますが、健康な状態である、というのを甘く見ている方が多いですよね。病院に行くレベルではなければ健康とするケースが多いように見られます。

 

WHO:世界健康機構では健康を次のように定義しなおしました>平成10年。
「健康」の定義を「完全な肉体的(physical)、精神的(mental)、Spiritual及び社会的(social)福祉のDynamicな状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない。」

 

ブラック企業ではなくとも、残業が続きすぎたり、家族との会話が弾まないことによりすれ違いが起きていたり、安らげる風景を長期間見られていないなどなど、さまざまな要因が考えられます。

 

まずは健康チェックを!ここ、ひどく重要です。

それが整っていることを大前提にしてここから話していくと・・・。

 

ひとつには、そもそもやる気を上げる必要があるか?という観点がありますよね?私は自然なヤツなので、フツフツとやる気が湧いてくるまで、好きなことをしまくり、飽きるのを待てるタイプです。みなさんはいかがでしょうか?そうなるとたとえば英語であれば、1週間も2週間も空いてしまい、結局ストップ・脱落傾向にありますか?だとしたら、これはいい対策ではないです(笑)。せっかく始めたものをなんの覚悟も意識もなく諦めるというのは、もったいない!

 

もうひとつは、脳に働きかけるという方法がおそらく効果的です。行動修正Behaviorismという観点と、Cognitivism認知修正をかけるという観点の2つが効果的なのですが、これに「社会学的観点を入れて個人差が出るところ」と言えるのです。

 

行動修正の場合は、生命体としての宿命・業に働きかけてしまえるので、いやいやながらも「とにかくやってみる」というので、やり始めてしまえばそれなりに進む、という感じですね。さらに、休憩時間と行動時間のメリハリをつけるために「タイマーをつける」「今できる他のことをやる」「音楽を聴く」「身体を動かす」「歌う」「ヨガやストレッチをする」などがあります。

 

単純に、行動が先にありき、その後に感情というヒトのメカニズムに当てはまるものとそうでないものがあるので、行動をしてみてもやる気が出ない場合は、次に行きます(笑)。

 

認知を変えてみるトライとしては、「自分の将来の目標を書き出してみる」「やりたくない理由を詳細に書き出す」「集中して今すぐできそうなことを書き出してみる」というのをやってみて、それに沿ってやる気が充実してきたかどうか測りつつやる、というのがあります。できることから、ってことですね。

 

社会的要素を加えてみると、「誰かにやることを宣言してしまう」「それに関することを友人や家族と話す」「誰かのやらねばならぬことを手伝うことに集中する→なんでこんなことやってんだ?自分のことをやろう!となる」「同じ目標や目的を持つヒトを探して仲間になって実現していく」なんてこともできます。

 

いかがですか?私は、ゆったり休んで遊ぶ派です(笑)。